Tokyo Academic Review of Booksonline journal / powered by Yamanami Books / ISSN:2435-5712

2020年7月31日

Berit Brogaard, On Romantic Love: Simple Truths About a Complex Emotion

Oxford University Press, 2015年

評者:大畑 浩志

Tokyo Academic Review of Books, vol.3 (2020); https://doi.org/10.52509/tarb0003

本書の主題と構成

本書は一冊丸ごと「愛とは何か」という問いに捧げられている。著者であるブロガードは、英語圏でしばしば「ロマンティック・ラブ」と呼ばれるいわゆる恋愛の分析を基本線としながらも、親子愛や友情愛などにも敷衍される愛の一般理論を構築しようと試みる。彼女の主張はずばり「愛とは感情である」というシンプルなものだ。その主張はおおむね神経科学や心の哲学からの議論によって支えられている。しかしその一方で、フロイトやニーチェといった思想家も議論の内実に関わる形で扱い、また多くの恋愛映画や恋愛小説の印象的なシーンを効果的に引いている。結果として本書は、哲学を専門としない読者の関心も喚起しうる、非常に裾野が広い書物となっている。

以下しばらく、全十章からなる本書の構成を紹介することにしよう。第一章は本書全体の導入であるが、一般的な専門書のように、各章で展開される議論の見取り図がここで描かれるわけではない。代わりに、ブロガードの友人であるズーという女性がある「ダメ男」に猛烈な恋をしたエピソードが描かれている。ズーの恋愛譚を通じてブロガードは、愛の取り扱いの難しさを強調する。たとえば、愛は怒りや喜びのような他の典型的な感情に比べて比較的長く続くが、冷めるときは一瞬である。ブロガードは、自らの理論がこうした愛の複雑さをうまく捉えることができると述べ、次章以降の議論へと繋げる。

第二章はいわば「科学パート」であり、主として神経生理学の観点から、人が恋に落ちるメカニズムが解明される。愛に伴って生じる多様な身体変化の因果関係は、今日の科学によってかなり解明されてきた。たとえば私たちは恋に落ちると、心臓が高鳴り、興奮と恐怖がないまぜになったような状態に陥るだろう。結果として私たちは、好きな人に近づきたいのに、なぜか回避してしまうといった相反する欲求に引き裂かれる。愛のこうした特徴は、脳の扁桃体と呼ばれる部位のふるまいによって説明される。扁桃体は基本的にネガティブな感情を司っており、たとえばうつ病患者の扁桃体は健常者のそれよりも活発に活動している。私たちが恋に落ちることによって不安やストレスを感じるのは、愛が扁桃体を刺激するからである。だが他方で新しい恋は、私たちに興奮や多幸感ももたらすだろう。このことは、セロトニン・ノルアドレナリン・ドーパミンといった人に興奮をもたらす神経伝達物質の増加によって説明される。ある研究者によれば、愛がそうした物質に及ぼす効果はコカインのそれとそっくりだという。

第三章は、「愛は感情(emotion)である」という主張が全面的に展開される。まずブロガードは、愛とは何らかの意味で想い人と「ひとつになる」ことを目指す欲求だとする「結合説(union view)」(cf. Nozick 1989)や、特定の対象への強い関心だとする「頑強な関心説(robust concern view)」(cf. Frankfurt 2004)といった非感情理論をいくつかの根拠によって退ける。次いで、愛の感情説への導きとして、感情を身体変化の感じと同一視するジェームズ・ランゲ理論を持ち出す。たとえば私たちは蛇に睨まれると、身の毛がよだち、汗をかくだろう。ジェームズらによれば、こうした身体変化は「蛇は危険な生物だ」という理性的な判断から派生的に引き起こされたものではなく、むしろそうした身体変化の感じこそが恐怖である。ブロガードはおおむねジェームズ・ランゲ理論に依拠しながらも、大きく二つの修正をそこに加える。第一に、実際の身体変化が生じる必要はなく、そうした変化の感じを主体が経験するだけで十分である。たとえば戦争で右腕を失った兵士が、存在しない右腕に感覚を持つようなケースがあるという(幻肢と呼ばれる)。この兵士が蛇に睨まれて右腕に汗をかいたと感じるならば、彼はそれを恐れていると言えるだろう。第二に、感情は単なる身体変化の感じにとどまらず、外界の出来事を何らかの仕方で表象するという側面を含む。蛇への恐れはそれが自分にとって危険であることを表象し、ビン・ラディンへの怒りは彼が不正な人間であることを表象する。そうした表象が実際の世界のあり方と齟齬をきたす場合もあるが、だとしても感情は世界への評価という側面を含む。

ブロガードはこうした感情理論のもと、愛とは愛する人の諸性質に対する身体と心の経験であると主張する。愛は鼓動が速くなるような身体の経験であり、また思考が混乱するような心の経験でもある。こうした経験は、心身の実際の変化を正確に反映していなくても良い。また、愛の対象が現実に存在する必要もない。極端なケースでは、水槽の中の脳でさえ人を愛することができるだろう。そうした心身の変化を感じて愛は、愛する人を何らかの仕方で(おそらく優しいとか美しいといった仕方で)表象する。

第四章は愛の合理性を問題とする。ブロガードは愛の感情説に基づいて、合理的な愛と非合理的な愛を峻別している。たとえば暴力をふるう夫を愛し続けるのは非合理的だと言えるだろう。だからこそ私たちは、「そんな人からは早く離れるべきだ」と規範的な忠告を行うことができるのだ。ブロガードによれば、私たちが対象の持つ特徴を正しく表象できず、過度に理想化するなどの場合において、こうした非合理的な愛が生じる。注意しなければならないが、愛が終わるときには、合理的な理由は必要ないとされる。(たとえば、優しい恋人への愛が急に冷めてしまうことを責めることはできない。)また、合理的な愛のみが真実の愛であるわけでもない。ブロガードはあくまで、正真正銘の愛のうちに、合理的なものとそうでないものの区別をおいている。

第五章では、非合理的な愛を論じた前章の内容を引き継いで、そうした不幸な愛はどこからやってくるのかを問う。ここでは特に、幼い頃に決定された愛着スタイルによって、私たちの恋愛の志向が相当決定されてしまうことが論じられる。主に「回避型」と「不安型」が問題のある愛着スタイルであり、幼児期に暴力やネグレクトを受けると、そうした型を備えてしまうことが多い。回避型は親密な人間関係を避け孤立を招く一方、不安型は愛する人を理想化するなどして、過度な称賛や接触を求めてしまう。ブロガードは、愛着障害の過酷さを正確に論述しながらも、大人になってからそれを治してゆくためのいくつかの方策も紹介している。

第六章では、無意識的な愛の存在が擁護される。ブロガードは、愛はつねに意識された状態であるとは考えていない。彼女は恐怖や怒りが無意識的に所有される例を多数挙げた上で、愛も感情である以上その例外ではないと論じる。「無意識の愛」というアイデアは、次のようなケースを説明する。幼なじみであり、なんでもオープンに話していた二人が、ある日突然お互いがお互いを愛していたのだと気づくケース。あるいは、友人だとみなしてきた女性が道端で知らない男性と歩いているのを見て、雷に打たれたように嫉妬の感情が沸き起こるケース。こうしたケースでは、それぞれの瞬間において突発的に愛が発生したのではない。そうではなく、主体が意識しないままに愛が育くまれてきたのである。ブロガードはこうした無意識の領野に潜む愛を認めた上で、それがいかにして精神分析の対象となるか、またそうした状態が私たちの行動傾向にいかなる影響を与えるかについても論じている。

第七章では、愛とはオンオフで切り替わるようなものではなく、程度を有することが主張される。私たちは実際しばしば、「前の彼よりあなたの方が好き」とか、「私は二人の子どもをまったく平等に愛している」と言った形で、愛の程度を表現している。また、たとえば結婚のような長期的に続く愛に目を向けると、次のようなことが言える。結婚生活が長く続いたとき、すでにかつてのようなときめきは失われているのかもしれない。このとき人々は一般に、「初期の情熱的な愛が、慈愛的なものへと変化したのだ」と言いたがるだろう。ブロガードもこの見方に特に反対はしないものの、愛の種類が変化したのではなく、単に愛が徐々に薄れていったと考えても良いだろうと主張する。これは別段ネガティブな主張ではない。むしろそれは、長期的な愛は初期のものよりも深く、暖かく、思いやりのあるものに違いないと理想化する必要はないという楽観的な考えの表明である。

第八章では愛とセックスの問題を扱い、それと関連するようにモノガミー(従来、一夫一婦制と訳されてきた)の是非が論じられる。モノガミーとは、ある人を愛するとき別の人を愛してはいけないという思想であり、近代婚姻制度の根幹をなしてきた。モノガミーと対をなすポリアモリーとは、同時に複数の人を愛することを認める思想である。ブロガードは、モノガミーとポリアモリー以外の愛ないし婚姻の形についても追求している。たとえば、パートナーが自分の知らない誰かとデートやセックスをしても良いとお互いに認め合う愛の形もあるだろう。ただしこのとき、そのデートやセックスの相手とは恋愛関係にならないようにする。とすればこれは、多重恋愛を認めるポリアモリーとは根本的に異なる思想である。ブロガードはそのようないわば「カジュアルセックス」的な考えに共感を示しながら、とはいえそれが性暴力や異常性愛の容認へと滑ってしまうという批判についても触れている。

第九章と第十章はかなり応用的な(あるいは一般書的な)章であり、失恋の苦しみや不幸な愛からいかに脱出するか、愛や結婚と幸福はどのような関係にあるかといった問題が扱われる。ブロガードは、無意識的な愛や不安がしばしば私たちを苦しめることを強調し、そうした苦しみを取り除くためのさまざまな方法を紹介する(精神分析、認知行動療法、瞑想等々…)。最後に、人生の意味は究極的には幸せになることだとし、そして幸福は何よりも合理的な愛によって得られるのだと締めくくる。

本書に対するコメント

私が思うに、本書は他の分析系の愛の入門書と比べても、非常にバランスの取れた書物である。ここでいうバランスとは、二つの意味がある。第一に、科学・哲学・社会学の三つの側面から愛の本性を浮き彫りにするという、その学際性である。ブロガードは、単に諸学問分野内での研究成果を並べ立てるのではなく、それらをきちんとストーリー化し、自身の主張を組み立てている。具体的に言えば、本書の前半部分では神経生理学的観点から愛と身体変化の結びつきが強調され、さらにそうした身体変化を本質とする「愛の感情説」が立てられる。後半部分では、愛は感情であるがゆえにその合理性や程度が有意味に問われるとし、さらにまた、程度を許す愛という思想に基づいてモノガミー以外の愛の形が模索される。このようにブロガードは、議論の一貫性と射程の広さを高いレベルで両立させている。

また第二に、本書はドライさ(理論的な部分)とウエットさ(実存的な部分)のバランスが絶妙である。分析哲学のあまりよくない入門書にありがちなように、「〜説」や「〜理論」といった諸立場をいたずらに乱立させ、読者の「愛って何だろう」というみずみずしい当初の問題関心を失わせてしまうような懸念は、本書には無縁である。ブロガード自身や他の哲学者たちの緻密な議論にはかならず、コミカルなイラストや身近な恋のエピソード、映画や小説の場面が引き合いに出されている。英語も読みやすいもので、こうした特徴は、本書が愛のみならず哲学そのものの入門書としても使えることを示す。

本書は今後さまざまな分野で、議論の火種となりうる。たとえば、「情熱的な愛と冷めた愛」や「意識的な愛と無意識的な愛」といった区別のうちにグラデーションを認めるならば、「愛は個人と性質のどちらに向けられたものか」とか「愛に理由はあるか」といったYES/NO型の問いをめぐるこれまでの論争状況に一石が投じられるだろう。また、よりアクチュアルな関心から言えば、モノガミー的規範に基づいた近代婚姻制度に対する再考は、一夫多妻を部分的に認めるイスラム圏からの移民問題や、あるいはクィア理論(LGBTをはじめとする性の複雑さを扱う理論)を考える上でも欠かすことができないだろう。

本書が一級の専門書であり、また優れた入門書であることは間違いない。しかし往々にして、バランスの取れたテキストというのはある種の「突き抜けなさ」もまた抱えてしまうものである。本書も、各論にはいささか不十分で駆け足な点が見受けられる。以下では本書のキャラクターに即して、ドライな側面とウエットな側面の両側から私なりの疑念を表明することにしたい。

まずはドライな側面からいこう。本書は愛の感情説を核として構成されている。そしてそれは、感情についての身体説に大いに依拠している。基本的に、ある身体変化を経験することが愛を得ることなのである。しかし身体説はけっして自明視された感情理論ではない。感情は身体変化の感じあるいは知覚というよりも、より高度に認知的な判断なのかもしれない。とりわけ愛を考えるにあたっては、愛に特有の身体変化を特定することは難しい。愛はそれ自体がひとつの感情というよりも、むしろ多種多様な感情の集まりとして捉えられるからだ。愛する人と一緒にいると嬉しくなり、離れると寂しくなり、恋人が他人と一緒にいると嫉妬する。だとすれば私たちは、喜びや悲しみのような基本的な感情を経験することを通じて、彼女/彼を愛しているのだという信念を事後的に抱くのかもしれない。翻って、もし信念のような認知的要素が愛の本質に含まれていないとすれば、愛をさまざまな感情の集まりと区別する何らかのマークが必要となるだろう。

またブロガードの主張をそのまま受け入れたとしても、やはり不十分さが残る。それは愛する対象の個別性(代替不可能性)に関わる。少なくとも身体説を前提とするならば、愛の感情説は、私たちは特定の個人を愛しているという事実を捉えることが難しい。というのも、愛が対象の持つ諸性質への反応にすぎないならば、私たちは恋人と完全にそっくりな双子にも恋に落ちるはずだが、それは受け入れがたいからである。ブロガードはこうした困難を認めた上で、「私たちはオリジナルに価値を置くのであって、代替物にではない。」(96)と述べている。しかし単にそれだけのことなら、結合説や頑強な関心説のような非感情理論の考えとあまり変わらない。愛が身体変化の経験でありながら、なぜ私たちは愛する人をかけがえのないものとみなすのかについて、さらなる説明が求められるはずだ。

ただしここで一点付け加えるなら、私は愛の個別性をめぐるブロガードのある態度に共感を覚えている。それは、私たちは疑いなく特定の人を愛し続けるべきであり、だとすればどのような理論が適切かという規範的な問いで議論を進めていないことである。(それはまた、本書後半の非モノガミー的恋愛への寛容な視点にもつながっている。)彼女はむしろ、私たちは実際に特定の人を代替不可能とみなしているのであり、それはなぜかという事実的な問いからスタートしているように見える。こうした態度は、愛と倫理の結びつきをいったんは弱めてはしまうものの、愛の本性を明らかにするという哲学の出発点としてはむしろ正しいように私は思う。

それでは最後に、ウエットな側面から思うところを述べよう。ブロガードは明らかに、人生の意味・幸福・合理的な愛という三つの概念を直結している。人生の意味は幸福になることであり、そして幸福は合理的な愛によって達成される。しかし本当にそうか。私が不満なのは、人生の意味と愛の間に幸福と合理性がつねに挟み込まれていることである。

たとえば、村上春樹の『騎士団長殺し』という作品がある。本作には、スコット・フィッツジェラルドの有名な『グレート・ギャツビー』に登場するギャツビーをモデルとした、免色というキャラクターが登場する。免色はギャツビーと同じく、愛する人を遠くから眺めるためだけに、怪しげな手段で築いた莫大な資金を湯水のように使い込む。しかしギャツビーの愛はかつて心を通じ合わせた女性に注がれているのに対して、免色の愛は自らの娘、より正確に言えば自らの娘かもしれない子どもに向けられている。そして免色は、それが可能な立場にありながら、この子どものDNA鑑定をあえて行わない。彼は、愛する子が自分の娘かもしれないという可能性にとどまることに、生きる意味を見出すのである。それはギャツビー以上に非合理な愛で、幸福とはいえない途であろう。しかし私は、免色が示したような、誰かを愛することがそのまま人生の意味であるような生があっても良いだろうと思う。

さて、本書には以上のようにさまざまな論点が詰まっている。正直に言えば、愛についての私の考えがブロガードのそれと根本的に異なる点は、特に実存的な部分ではそれほど多くなかった。私が本書に感じたバランス感覚は、読む人によってはまったく感じられず、本書はむしろ闘争的な書物かもしれない。本書のそうした反保守的な側面にも、今後光が当てられることを望む。

文献案内

英米圏において愛の哲学は旬なトピックであり、10年代以降入門書やアンソロジーが立て続けに出版された。その中でも、de Sousa 2015はよくまとまった入門書である。ソウザはブロガードと同じく、科学・哲学・社会学の三方向から愛について論じている。だがソウザによれば、愛は感情ではなく「症候群(syndrome)」である。すなわち、愛はある一定のパターンを持った思考や行動や感情を引き出すような、傾向的な状態である。(愛が症候群であるという見方は、Pismenny and Prinz 2017によっても積極的に擁護されている。)また、さまざまな立場の論争状況をざっと把握するには、Helm 2017やKroeker 2018が助けとなる。前者は愛についてのさまざまな見解を、プラトンのエロス・アガペー・フィリアの区別までさかのぼり網羅的に論述するのに対して、後者は「愛に理由はあるか、あるとすればそれは何か」というより特定されたテーマを切り口としている。

Grau and Smuts ed. 2017およびMartin ed. 2018は、近年刊行された愛の哲学についてのアンソロジーである。両書ともさまざまな論文を集めているが、強いて特徴の違いについて述べるなら、前者はトピックの幅が広く、後者は歴史的な射程が深いということが言えるだろう。たとえば前者には、親が子を恒久的に愛する義務について疑問を投げかけるような、論争的な論文も収録されている。また後者では、ショーペンハウアーやシモーヌ・ヴェイユ、メルロ゠ポンティといった哲学者の愛情理論について窺い知ることができる。

ブロガードが実際にそうしたように、愛を考えるにあたっては、感情の哲学を下敷きとするのが良いだろう。(近年の愛への関心の高まりも、背景には間違いなく感情の哲学のブームがある。)この分野ではPrinz 2004がマスターピースであり、本書でも愛は論じられている。(なお、本書では愛は愛着と性欲の混合的感情だと示唆されるが、プリンツはのちに症候群説へと考えを変える。)感情の哲学については日本語で読める解説書も少なくなく、プリンツの前掲書の邦訳のほか、信原2017を挙げておきたい。

残念ながら、分析系の愛の哲学をずばり解説した日本語の著作はほとんどない。唯一、伊集院2018がそれに当たる。文体や筆者の主張については少々読みにくい本書だが、少なくとも今日の愛情論の礎を築いたVelleman 1999, Kolodny 2003, Frankfurt 2004の三つのテキストが解説されているのは嬉しい。また、山田2019では伊集院やヴェルマンの議論を下敷きとし、人と人でないものとの愛の可能性が探求されている。(山田はそれに対して否定的な見方を示す。)最後に、分析系以外で愛や結婚を論じた哲学書はもちろんたくさんあるが、一点だけロラン・バルトが1977年に著した『恋愛のディスクール・断章』を「愛の百科全書」として紹介しておこう。

謝辞

本稿に対して有意義なコメント・助言をくださった、佐金武氏と高野保男氏、雪本泰司氏にこの場をお借りして厚くお礼申し上げたい。

参考文献

  1. de Sousa, R. (2015). Love: A Very Short Introduction. Oxford University Press.
  2. Frankfurt, H. (2004). The Reasons of Love. Princeton University Press.
  3. Grau, C., & Smuts, A. (2017). Oxford Handbook of the Philosophy of Love. Oxford University Press (published online).
  4. Helm, B. (2017). Love. In E. N. Zalta (Ed.), Stanford Encyclopedia of Philosophy (Fall 2017 Edition).
  5. Kolodny, N. (2003). Love as Valuing a Relationship. The Philosophical Review, 112(2), 135–189.
  6. Kroeker, E. (2018). Reasons for Love. In A. Martin (Ed.), Routledge Handbook of Love in Philosophy.
  7. Martin, A. (Ed.). (2018). The Routledge Handbook of Love in Philosophy. Routledge.
  8. Nozick, R. (1989). Love’s Bond. In The Examined Life Philosophical Meditations. New York: Simon & Schuster. (ロバート・ノージック. (1993). 『生のなかの螺旋-自己と人生のダイアローグ』(井上章子訳). 青土社.)
  9. Pismenny, A., & Prinz, J. (2017). Is Love an Emotion? In C. Grau & A. Smuts (Eds.), The Oxford Handbook of Philosophy of Love. Oxford University Press.
  10. Prinz, J. J. (2004). Gut Reactions: A Perceptual Theory of the Emotions. Oxford University Press. (ジェシー・プリンツ. (2016). 『はらわたが煮えくりかえる: 情動の身体知覚説』(源河亨訳). 勁草書房.)
  11. Velleman, J. D. (1999). Love as a Moral Emotion. Ethics, 109(2), 338–374.
  12. 伊集院利明. (2018). 『愛の哲学的構成』. 晃洋書房.
  13. 信原幸弘. (2017). 『情動の哲学入門: 価値・道徳・生きる意味』. 勁草書房.
  14. 山田圭一. (2019). 「人は人ならざるものと恋愛することができるのか : 『シェイプ・オブ・ウォーター』と『エクス・マキナ』を題材に」. 『フィルカル : philosophy & culture : 分析哲学と文化をつなぐ 4-1』. ミュー.

出版元公式ウェブサイト

オックスフォード大学出版局

https://global.oup.com/academic/product/on-romantic-love-9780199370733

評者情報

大畑 浩志(おおはた ひろし)

大阪市立大学文学研究科後期博士課程。現在甲南女子大学非常勤講師。専門は分析形而上学、とりわけ「このもの性(haecceity)」と呼ばれる性質の研究。主な論文に「様相の形而上学における傾向性主義を退ける」(『新進研究者Research Notes』, 2018)、「ユーモアはなぜ愉快なのか」(佐金武、高野保男との共著, 『ユーモア解体新書 笑いをめぐる人間学の試み』(大阪市立大学文学研究科叢書), 近刊)がある。好きな恋愛小説は、村上春樹『ノルウェイの森』、夏目漱石『それから』、ドストエフスキー『白痴』。

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