Tokyo Academic Review of Booksonline journal / powered by Yamanami Books / ISSN:2435-5712

2020年8月13日

Dmitry Budker, Derek F. Kimball and David P. DeMille, Atomic Physics: An Exploration through Problems and Solutions, 2nd. Ed.

Oxford University Press, 2008年

邦訳:ドミトリ・ブドゥカー,デレック・キンボル,デイビッド・デミル 著,清水 康弘 訳『原子物理学: 量子テクノロジーへの基本概念』

共立出版,2019年

評者:上野 恭裕

Tokyo Academic Review of Books, vol.4 (2020); https://doi.org/10.52509/tarb0004

はじめに

筆者がはじめて理数系を志した大学生の時、皆でA. Weil, “Number Theory for Beginners” (アンドレ・ヴェイユ『初学者のための整数論』)という本を輪講することがあった。無論、当時の私の大学数学の知識は皆無であり、「初学者」にふさわしい状態であったが、本を開いて出てきた一行目は「本書では、集合という概念は既知のものとする」、という一文であった。「初学者」とは?という疑問が浮かび、一瞬で置いていかれてしまったという焦燥感に襲われ、Weil先生に時間を超えたアカデミックハラスメントを受けたような気分にもなったが、学問の世界において「初学者」「入門」「基礎」の定義はひとそれぞれであることをその後の数年間で学んでいった1

その点において、この書評で扱うD. Budkerらの『原子物理学』という本はかなり専門的な本であり、この本の内容を「初めて学ぶ者」に要求されるレベルは高い。電磁気学および量子力学の内容をそれなりの質で理解している必要があるし、大学院で専門の訓練を受けた人、あるいはそういった人に質問・相談できる環境でないと理解に時間がかかるのではないかと思う。ただ、本書は原子物理で第一線をリードしている研究者たちが執筆した本であり、他の和書洋書を見渡しても同じような内容・質の本は少なく、ここで紹介するに値する本であると筆者は考えている。Tokyo Academic Review of Booksの理念にある「初学者へのガイドとなるようなものを」という文言に合うように、物理を志して大学に入ったばかりの一、二年生に将来しっかりと基礎を築いた後にこの本に取り組もうと考えてもらえるよう、紹介したい。

要約

本書は原子物理学の中でも特に新しいトピックを扱った野心的な本であり、原著は2003年に初版出版ののち、2008年にBudker, Kimballによる第2版が出版された。本稿で扱うのはその第2版の日本語訳である。原子物理という分野は古くからあり、多くの本が出版されている。より王道的・古典的なスタイルの和書では高柳和夫『原子分子物理学』が知られている。

本書の記述は多岐に渡り、全てを紹介することはできないので、特に筆者が興味を持っているトピックスを抜粋した。もちろん、ここで紹介しないがベリー位相やショットノイズなどの重要な概念が多数本書では紹介されている。ぜひ書店等で手に取って確認して欲しい。また、著者らが実際に最先端の研究者としてリードしている、原子物理や量子光学の最先端技術と素粒子物理・基礎物理の架け橋となるようなトピックス(1章のパリティ対称性や4章の磁力計など)のがこの本では多く扱われている。これらのある種分野横断的なアプローチは(量子技術への欧米各国の多大な投資をきっかけとして)種々のコミュニティで注目されている分野である2。本書に目を通す機会があった場合には、これらのトピックスにも是非着目してほしい。

第1、2章では、一般的な量子力学の教科書でも後半で取り扱うような(後述のGriffiths (2018)で言えば第4〜5, 7章)、孤立した原子の状態に関する事項と、電場・磁場中の原子についての事項が述べられる。分光学的記法の紹介や、微細構造などの基本的かつ重要な事項がとてもコンパクトに記述されている一方、発展的な事項が多数掲載されている。特色すべき点として、量子電磁力学の検証に最も適した系の一つであるジオニウム(geonium atom; 電磁場によって補足された単一電子による擬似的な原子系)や、同位体シフト(isotope shift)とキングプロット(King plot; 同位体シフトを2つの遷移について複数の同位体で測定し、結果を散布図にしたもの)、パリティ対称性(parity symmetry)など最先端の実験的研究に近いトピックがいくつも扱われていることがあげられる。すでに他の原子物理学の教科書を読んだことがある方にとっても、得られるものが多くあると思う。

第3章では、原子と外場である光の相互作用が語られる。二準位系におけるラビ振動(Rabi oscillation)に始まり、三準位系と二つの光場を用いてとある条件を満たすことでプローブ光の吸収が消失する現象である電磁誘起透明化(electromagnetically induced transparency; EIT)まで様々なトピックスが扱われる。この本では一貫して、豊富な参考文献が示されている。興味をもった読者がさらにトピックに関する理解を深めたいと考えた際には、これらの文献を調べて調査の足がかりとするのが良いだろう。

この本での第4章では、電磁場中での光や原子の相互作用が扱われる。著者の一人が研究でもよく用いている極小磁場の測定技術をあつかった節や、原子の永久電気双極子(permanent electric dipole moment; permanent EDM)など、実際に研究と教科書との架け橋となるようなトピックスが扱われている。これらの話題は筆者が大学院に通い始めた頃に知っておきたかったものであり、この章は個人的に一番興味をもった章でもある。

第5章では原子同士の衝突が扱われる。衝突の際の位相緩和(dephasing)によるスペクトル線の広がりのような基本的なトピックの後に、それに反するようなディッケの狭窄化(Dicke narrowing)の事例が扱われる。コンパクトな記述ではあるが、衝突による様々な事象に対して俯瞰的な視点を得ることができる章である。第6章では、現代原子物理に欠かせない技術であるレーザー冷却(Laser cooling)が紹介される。磁気光学トラップ(magneto-optical trap; MOT)までの一通りの理解や、この分野の欠かせないトピックであるボーズ=アインシュタイン凝縮(Bose-Einstein condensation; BEC)までカバーされている。第7章では、分子について書かれている。極性分子の電気双極子が取り扱われているが、分子を用いたEDM探索実験は大いに注目を浴びていることをここでは付け加えておきたい3

第8章・第9章は実験技術を含めた広範な話題を取り扱っている。各技術は様々な場面で遭遇するため、各個撃破していけばその後役に立つこと間違いないが、個人的に一読の価値ありとして9.4節マジック角(magic angle; 魔法角)を取り上げたい。ここでは核磁気共鳴(nuclear magnetic resonance; NMR)などの個別の事象を取り上げつつ、それぞれの事象に共通して現れるマジック角を紹介し、背後に通底するより本質的な数理について考察を促すような教育的な記述になっている。もちろん個々のトピックを学ぶことももちろん重要であるが、マジック角の節のように研究活動を行う上でおさえておきたい考え方に読者が触れられるように工夫が施されている箇所が豊富にあることが本書の特徴でもある。

コメント

本節では筆者が本書を読んで考えたこと、特にこの本と付き合う上で知っておいた方が良いと思われることを挙げておく。本書の特徴として、新しいトピックスを多く扱った本であることに対応して、話題が多岐にわたっていることが挙げられる。人によっては難しいと感じられる節や、あまり興味がない節は飛ばしても次の章・節の理解には差し支えない場合も多い。必要であるなら都度戻ることにして、適宜読み飛ばすことも必要であると思われる。また、どうしても多様なトピックスを限られた紙面で扱う都合上、もう少し説明が欲しい箇所も見受けられる。幸い、上にも述べたように参考文献等が示されている場合が多いのでそれらを頼りにするか、各自調べて補うことをお勧めする。この本を学びのきっかけにするのであって、この本で完結するという認識は避けた方が良いように思われる。

本書のもう一つの特徴として、問題を提示し、それを解きながら進むスタイルであることが挙げられる。新しい概念について、いきなり問題を解くのは難しい場合も多々ある。ヒントが提示されているので、それを参考にしながら読み進めることも必要であろう。また、輪講スタイルで他の学習者とこの本を読み進めるスタイルを取ることもできるだろう。問題を解くスタイルをとっているので、他の教科書よりもより輪講に適した形になっているように感じられる。輪講が難しい場合でも、身近に質問できる人がいる場合には是非活用すべきだと思われる。いない場合でも、思い切って関連しそうな研究者に(礼を失さない形で)メールで質問を送ってみたり、ネットで検索したりするなどして、焦らず少しずつ理解していって欲しい。難敵ではあるが学ぶ楽しさがある一冊である。工夫してこの本の内容を身につけていって欲しい。

本書で用いられる訳語について、読む際にはひとつ注意をしながら読んで欲しいと思う。この本の原著にはあまり和訳されていない言葉が散見される。その用語についてさらに調べる場合には、この本で使われている言葉に縛られないようにする必要がある。例えば7.7節では”Toy Model”のことを「玩具模型」として訳しているが、この用語は「トイモデル」とカタカナで表記する研究者も存在するし、たとえばインターネットで「玩具模型」と検索してもおそらく物理の用語を説明したページにはたどり着かない。この本では重要用語は和英両方で併記するスタイルを訳者が取っているため、困った際には英語で検索することができる。そういった工夫をしながら読むことをお勧めする。

文献案内

本書と一般的な量子力学の橋渡しとして、本書でも何回か述べられているGriffiths, “Introduction to Quantum Mechanics”を挙げたい。水素原子について比較的丁寧に扱われており、本書の最初の部分に挑むための良い準備運動となるのではないだろうか。ただ、最後の章の記述のいくつかなど、研究が進展した現在から読むと若干混乱をきたすような部分もある。この本を読む土台となるような部分にはそういった箇所は見受けられないが、注意されたい。また、光と原子の相互作用・量子光学の部分については、これも本書で引用されているR. Loudon, “The Quantum Theory of Light” (ロドニー・ラウドン『光の量子論』)が名著として知られている。Loudonは少し敷居が高い、という読者には、より導入的な内容で解説図も豊富であるM. Fox, “Quantum Optics: An Introduction” (マーク・フォックス『量子光学』)をお勧めしたい。これらの教科書を併用しつつ学ぶことで本書を理解する助けになると思われる。

また、より基本的な事項を扱う他の原子物理学の教科書として、上でも述べた高柳和夫『原子分子物理学』がある。英語が得意で懐(と本棚のスペース)に少々の余裕がある読者には、B.H. Bransden and C.J. Joachain, “Physics of Atoms and Molecules,” 2nd ed.が大部であるが広範な範囲をカバーする教科書として知られている。辞書的な扱いとして手元に置きながら本書に挑むのも良いかもしれない。

本書の内容のうち、原子分子を用いた新物理の探索に興味を持った人は、さらに進んだ内容として現著者らを含む複数の研究者たちによるレビュー論文M.S. Safronova, et al., “Search for New Physics with Atoms and Molecules”を紹介したい。また、適宜興味を持ったトピックに対しては本文中に引用されている論文・文献を読むこともお勧めしたい。

本原稿を書き上げたのとほぼ同時期に、本書への書評が日本物理学会誌に掲載されていることを知った。私の恩師によるもので、是非そちらも参考にされたい。参考文献に付記しておく。

1幸いにして、全く歯が立たないわけでなく、輪講に参加している他の諸先輩方、先生方のおかげである程度の理解ができたように思う。すでに専門訓練を受けた人にはささいなことと思われる専門用語に初学者は引っかかることが多々ある。教科書ではそういったものを全て説明することはできないので、すでに訓練を受けた人と勉強できる機会というのは、スムーズな理解に重要であることを実感した貴重な経験であった。

2高エネルギー物理学業界からの量子センシング技術への注目を示す文献案内として、参考文献にZ. AhmedらによるWorkshopのレポートを挙げておく。

3EDMに関する実験の良い技術的レポートして、J. Baronらによる参考文献を紹介したい。

参考文献

  1. Z. Ahmed, et al., “Quantum Sensing for High Energy Physics”, arXiv:1803.11306v1, 2018.
  2. J. Baron, et al., “Methods, analysis, and the treatment of systematic errors for the electron dipole moment search in thorium monoxide”, New. J. Phys. 19 073029, 2017.
  3. B. H. Bransden and C. J. Joachain, “Physics of Atoms and Molecules”, 2nd edition, Pearson Education Ltd., Essex, 2003.
  4. M. Fox,『量子光学』,木村 達也訳,2012,丸善出版.
  5. D. J. Griffiths and D. F. Schroeter, “Introduction to Quantum Mechanics”, 3rd edition, Cambridge University Press, Cambridge, 2018.
  6. R. Loudon,『光の量子論』,第2版,小島 忠宣・小島 和子共訳,1998,内田老鶴圃.
  7. M. S. Safronova, et al., “Search for New Physics with Atoms and Molecules”, Rev. Mod. Phys. 90, 025008, 2018. (arXiv: 1710.01833)
  8. 高柳和夫,『原子分子物理学』,朝倉物理学大系11,2009,朝倉書店.
  9. 下村浩一郎,「原子物理学;量子テクノロジーへの基本概念(原著第2版)」,日本物理学会誌 75,518,2020.

出版元公式ウェブサイト

オックスフォード大学出版局

https://global.oup.com/academic/product/atomic-physics-9780199532414

共立出版

https://www.kyoritsu-pub.co.jp/bookdetail/9784320036086

評者情報

上野 恭裕(うえの やすひろ)

原子物理学と素粒子物理学の横断的分野において、実験的研究を行ってきた。新しい技術を用いることにより、古くからある実験をより精度の高いものにすることで生まれる物理に興味を持っている。2020年より、企業にてデータ科学・機械学習の分野に従事。

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