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2020年10月22日

ジュディス・バトラー『アセンブリ:行為遂行性・複数性・政治』

佐藤嘉幸・清水知子訳,青土社,2018年

評者:鈴木優花


本書の構成と主張

英和辞典によれば1、「アセンブリ(assembly)」とは、「1.<人・物・情報など>を(ある目的のために)集める、収集する;<集団>を結成する」という意味の「アセンブル(assemble)」の名詞形であり、「1.(立法)議会;下院、2.(目的をもった人の)集会、会合」である。本書2で論じられる「アセンブリ」に込められた意味をその動詞形に即して示せば、「生きている各々の身体を、公的な場への現れと安定した生活に対する暴力的制限に抗議するために集め、連携した集団がつくられる」となろう。本書で「集会」と訳されるこの語と共に浮上させられる一連の事柄を理解するには、まずもって「否定され、見捨てられ、価値が下げられ、危険に曝され、哀悼不可能な生(life)」(257ff.)3が次々と生産されているという現状認識が必須である。そのような生をバトラーは「不安定(precarious)な生」4と呼び、それが国家権力によってさまざまな仕方で差別的に生み出されているという。

それでは、一体どのようにして、そのような生に異議を唱えることができるのか。「肯定されて、見捨てられたり価値が下げられたりせず、保護され、哀悼可能な」仕方で生きることを要求できるのか。この問いに対するバトラーの答えこそ、「生きられている身体を公の場で集めることによって」である5。敷衍すれば、生身の身体が公の街頭(street)等においてたとえ黙っていても「「語っている」(“say”)」(27)様態で現れることによって、不安定プレカリアスな生に抵抗する活路を見出すのである。すなわち、「諸身体が街頭や広場あるいは他のタイプの(仮想空間も含めた)公共空間に集合するとき、それら諸身体は複数的で行為遂行的な現れの権利(right to appear)〔…〕を行使しており、その権利は、〔…〕不安定性プレカリティという誘導された諸形式によってもはや苦しめられることのない、より生存可能な(livable)一連の経済的、社会的、政治的条件のための身体的要求を伝えるものである。」(18)。

ここで言及されている「行為遂行的」「現れの権利」「身体的要求」といった概念ないし事柄に加え、その他の重要な語句をひろいながら、以下では章ごとに本書の論述をまとめ、概観する。次節にて後述するが、本稿ではアーレントの議論(バトラーが主に参照しているのは『人間の条件』および『革命について』の議論)に触れるため、要点の確認もアーレントを意識したものになることを断っておく。

第一章「ジェンダー・ポリティクスと現れの権利」では、ジェンダーが形成される仕組みを説明する際に用いられる概念が、不安定プレカリアスな生の形成の解明に際しても適用可能であることが示される6。原書のタイトルに入っている「行為遂行的(performative)」7、および本書の副題にも入っている「行為遂行性(performativity)」がそれである。この概念はバトラーの主著と目される『ジェンダー・トラブル』8でも中心的な役割を担っている。行為遂行的であること(行為遂行性)は、それ自体行為である発話が有する「何かを発生させる、あるいは何らかの現象をもたらす、その言語的な発話の特徴である」(40)。ある発話を行なう個人に先立ち「発話」し、端から規制する仕方で個人の行為を生み出すような主体がある、というのがバトラーの主張だ。このようないわば「私たちの運命を決定する者」(42)は、「並外れた言語的力をもった主権権力」(ibid.)、あるいはそれにとってかわった「より拡散した複雑な言説的で制度的な権力」(ibid.)と言われている。そしてこの権力主体が、個人の行為、それも身体的行為を規定しているのである。権力の「発話」によって発生させられる身体的な何かとは、必ず「初めは制御不能な仕方で私たちに影響を与える他者の期待や幻想とともにやってくる」(ibid.)規範である。

ここで注目すべきは、権力が作り上げる規範がいかに「極めて「固有で変化しにくいハードワイヤード」と思われる」場合であっても9、その規範から逸脱する「犯罪者」10によって異議申し立てがなされうる、という点である。「それら諸規範は、私たちが長い時間をかけて獲得する身体化の生きられた諸様態を告げる」(ibid.)が、「まさしくそうした身体化の諸様態そのものが、それら諸規範に異議を申し立て、それらと絶縁する仕方でさえありうる」(ibid.)。ある規範が強制的に与えられ、私はそれを反復せざるをえないからこそ、その規範からの逸脱や拒絶反応が起こりうる。たとえば、「自分は何かの機会に〔…〕女の子はもうたくさんだというように行動したのか、あるいは十分に男の子のように行動したのか」(43)といった自問は、そうした「諸規範に従うことへの直感的な拒絶」(ibid.)に端を発している。そして逸脱や拒絶を示す仕方もまた、行為遂行的と呼ばれる。「行為遂行性とは作用を受ける過程と行為する条件、可能性との両方」(85)を指しているのであって、不安定プレカリアスな生をつくりだす「犯罪的な」「一連の法や規則をめぐる権利」(76)への反対や異議申し立てもまた「行為遂行的」(ibid.)である。すなわち、不当な規則や警察権力に抗するその仕方、主張の仕方が行為遂行的であり、裏を返せば、不安定プレカリアスな状態に異を唱え抵抗する際の何らかの身体的行為は、その剥奪された権利の行使そのものであり、保護されるべき生ないし権利を実演・体現し、それを語らしめて存在させることなのである(cf. 77)。

つづく第二章「連携する諸身体と街頭の政治」の前半では、権力によって生み出される「犯罪的な」法や規則に対して異議を申し立てる人たちは、「不安定プレカリアスと広く特徴付けられる他の住民たちと連携しなければならない」(90)ことが説かれる。ひとが従うよう強いられる諸規範は、ジェンダーに関するものをはじめ、「階級的、人種的、宗教的背景」(92)等に関する諸規範でもあるため、闘いとられる諸権利は複数的であって、諸権利をめぐる闘争は「あるいくつかの同一性のみが帰属できる闘争」(90)ではない11。ここで問題となっているのは、「不安定性プレカリティに対するより全般化された闘争」(93)である。たとえば、ある国家が性の多様性に寛容であったとしても、そうした政策が国家規模の他の「犯罪行為」の隠れ蓑となり、「他者の基本的資格の剥奪のための手段」(94)とされてしまうのであれば、性的マイノリティーに対するその政策は、断固として拒絶されなければならないのである。それというのも、バトラーの考えでは、特定の権利が達成されれば事足れりとなるのではなく、社会全体の正義が達成されなければならないからだ。「諸権利は社会正義のためのより広範な闘争の中でのみ意味を持つ」(ibid.)12

さらに、諸権利の主張はそうした他者の諸権利との連携を意味すると同時に、「物質的諸条件」(95)である「公共空間としてのある空間への権利」(ibid.)の主張でもあることが指摘される。主張を行為遂行的に体現する、諸身体による集団行動すなわち民衆デモは、その他の全ての私たちの行動と同じく、「支援=支持体サポート」(97)によって本質的に構成されている。けれどもそうした支援=支持体サポートこそ、権力によって差別的に配分されるところのものであり、再構成され、闘いとられるべきものなのである。「行動にとっての物質的支援は、行動の一部であるだけでなく、とりわけ、政治が食物、雇用、可動性、諸制度へのアクセスをめぐって闘争する際の、闘いの目的でもある」(99)13。物質的支援を受けるところの身体は、「必然的に、労働する身体、性的身体であり、ある仕方でジェンダー化され、人種化された身体」(114)だが、その身体はかような物質的支援を受けなければ生きられない。そうであるにもかかわらず、そうした身体が差別的に支援されずに不安定プレカリアスにされてしまっているということを具現化するために、人々はその生身の身体を街頭で意図的に曝す。すなわち、「広場で眠るという単純な行為が、最も雄弁な政治的声明」(118)となり、行為遂行的に「公的なものへの権利を主張し、国家の正当性に異議を申し立てる」(129)のである。

第三章「不安定プレカリアスな生と共生(cohabitation)の倫理」では、先の章で言及された他者との連携とは、空間的に遠方にいる人々との連携でありうるし、自分が共に生きることを選択したことがなく、いわんや自分を殺傷してくるような他者との連携であったとしても、なされなければならない、との主張がレヴィナスとアーレントの批判的読解を通じてなされる。レヴィナスからは、今日の新聞やスクリーンというメディアによって与えられる他者のイメージが「倫理的懇願として機能する」(133)、という議論を引き出す。そうした遠方のものでもありうるイメージは、「私たちが事前に予期したり準備したりできない仕方で」(ibid.)、「倫理的要求として」(ibid.)および「私たちの意志を超えた何か」(ibid.)として、私たちのところに到来する。「私たち自身の意志に反して、私たちはこの課された倫理的要求へと開かれて」(145)いるということは、そうした主張に対して「可傷的であるからこそ可能になる」(ibid.)。はじめから私たちは、あらゆる倫理的懇願に応答可能な仕方で開かれており、それは取りも直さずそうした懇願に可傷的でもあることなのだ。それゆえバトラーは、パレスチナ人は倫理的保護に値しないという意味で「いかなる顔もない」(142)と述べたレヴィナスに疑義を呈する。つまり、そうしたパレスチナ人のような「倫理の地平に現れることができない人々、人ではない人々」(142)とされてしまう人たちと私たちとの間にも、倫理的関係は成り立つのではないか、と。「他者の生、私たち自身のものではない生もまた、私たちの生である」(ibid.)のであって、自分の生が他者の要求に曝され、それに可傷的であるという仕方で、もはや自己が「脱占有」(146)されてさえいるのではないか、と。

他者の生は自分の生に組み込まれており、自分の生に劣らず他者の生をも守らねばならないというこの主張は、アイヒマン裁判においてアーレントが看取した主要命題、すなわち「誰と地球上で共生できるかを選択できる特権など誰にもない」(147)という命題によってさらに強固なものとなる。「地球上の共生という選択されざる特徴は、倫理的かつ政治的存在たる私たちの実存そのものの条件である」(148)とバトラーが述べるとき14、アーレントの「複数性」は「地球上の異種混淆性」(ibid.)として理解されている。それは、「選択に先立って」(148)、つまり不自由な仕方で既に与えられている、いわば人間の条件である。そのような条件下のもと、私たちは「私たちが愛していないかもしれない人々、決して愛することなく、知ることもなく、選択しなかった人々の生を保持するという義務を守らなければならない」(159)。そうした義務を理解できないのであれば、「大量虐殺ジェノサイド政策あるいは組織的怠慢によって全住民を絶滅させる可能性」(156)が頭をもたげてくる。実際、大量虐殺ジェノサイド政策や組織的怠慢は、「政治的、社会的相互依存のあらゆる様態における不安定性プレカリティの条件から生じる、他者による破壊への可傷性」(ibid.)をそれこそ行為化してしまっている。それゆえ、「誰もが不安定プレカリアスである」(ibid.)以上、「不安定性プレカリティを最小限に抑え」(160)、「服従と搾取に対するあらゆる闘い」(ibid.)がなされねばならない15

それでは、そうした闘いはどのように遂行されるのか。その問いに答えるのが、第四章「身体の可傷性、連帯の政治」である。「抵抗の諸形式として動員されるものとして、可傷性を考察する」(162)とあり、警察や軍隊ないし治安部隊による暴力に、父権主義や資本主義ないし新自由主義による差別に抵抗するために動員されるのが、レッテルや差別に開かれてしまっていること、すなわち可傷性(Vulnerability)である。人々は「食物と住居シェルター、侵害や破壊からの保護、労働の権利、入手可能な保健医療ヘルス・ケアを求める闘い」(168)の際、既に被っているそうした差別を「白日の下に曝す」(178)という行為を通じて抵抗する。「可傷性と行為能力エイジェンシーを一体として考える」(181)ことで、可傷的であることが翻って種々の差別に行為遂行的に抵抗しうる希望となるのだ。可傷的であるがゆえに身体は差別的なレッテルをはられ、その身体を生きる人々は他の集団の人々よりもいっそう不安定プレカリアスな状態に追い込まれているのだが、それをそのレッテル通りわざと(パフォーマティヴに、行為遂行的に)体現し再現させることでもって16、そうした差別を拒絶する意志を表し、自由な生に対する権利を行使することができるのである17。したがって、「ここで可傷性の概念は、ある住民を標的にする、あるいはそれを保護する、という二重の仕方で機能している」(187)。

また、既述の通り、私たちはあらゆる仕方で可傷的であり、「最初から他人に結び付けられたものとして」(195)存在しているため、自分とは異なるレッテルをはられている集団ないし他人を支援しなければならない。「私たちの誰もが可傷的存在であると述べることは、他者に対してのみならず、人を支援し、支援可能な世界に対する私たちの根源的な依存を徴し付けることなのである」(ibid.)。そのような依存に端を発する連帯=団結ソリダリティは、しかし、「私たちが意図して到達する意図的な合意から生まれるのではない」(197)という、予測不可能さ、選択し難さを常に帯びているとされる。バトラーにとって意図的な「選択」が倫理的な排除を意味するのであれば、連帯=団結ソリダリティが意図的な合意に拠らないという主張がなされるのも、当然のことだろう。

第五章「「私たち人民」――集会の自由に関する諸考察」では、集会を導く人民主権、集会の構成要素、連帯=団結ソリダリティと集会との関係、集会の成功と非暴力の原理への同意について論じられている。まず、国家主権とは区別される、「議会外的な権力」(212)であり「永続的な革命原理」(ibid.)である人民主権について、バトラーは以下のようにまとめている。①人民主権は、「それ〔人民主権〕が正当化する代表制の体制そのものから分離された、反省的な自己形式の一形式である」(222)。代表制には還元できない自己形成が、人民主権という形をとって現れる。②「人民主権はその〔代表制からの〕分離そのものの中で生じる」(ibid.)。言い換えれば、「政府から自分自身を保護するために政府に依拠すること」(206)はできない、ということだ。③「人民主権はいかなる特定の体制も、その体制から分離されなければ、〔…〕正当化することはできない。そしてそれは、正当な政府を公正で包括的な選挙を通じて形成する基盤である」(ibid.)。④「人民主権の自己形成行為は実際、空間的に配分された一連の行為であり、常に同じ仕方で同じ目的のために作動するものではない」(223)。たとえば、人民意志を行為化したことで不当にも国家権力によって投獄された人が、その投獄を命じる法に先立って存在する人民主権に則ってハンガーストライキをした場合、監獄内もまた公的領域になりうる。⑤「「私たち人民」の行為化は、言語的形式を取るかもしれないし、取らないかもしれない」(ibid.)。街頭という公的場に自由に現れ、話し、食べ物を与えられる身体ではないことを地で行為化しているハンガーストライキは、沈黙と不動という仕方で剥奪を行為化し、それを露わにして、それに抵抗している。

こうした人民主権が「複数的で動的な身体」(232)を通して集合し、作用している場が実際の集会であり、「集会とデモの本質的次元を構成する」(231)のは、「時間的連続性と連携性、身体的近接性、聴覚的範囲、連携した発声」(ibid.)である。しかし、時間的には連続していても、空間的にはそうではない場合、たとえば投獄されている場合がある。そのようなときは、「連帯=団結ソリダリティが公的領域と監禁の領域を横切って起こらなければならない」(240)。したがって、連帯=団結ソリダリティとは空間を超えて広がる、人民主権を体現する人々の連携であり、それは実際に特定の場に集まることとしての集会においてのみ見いだされるわけではない。とはいえ、それはもちろん集会しなくてもよいということにはならない。重要なのはやはり、監獄やその他別々の空間に散らばっていることではなく、実際に身体的に集い、しかも投獄とは異なる非暴力的な仕方で、つまり「自己が闘う目的であるオルタナティヴを身体化」(242)するという仕方で、抵抗することである。「非暴力の抵抗は行為遂行的」(ibid.)であり、「非暴力とはエートスであると同時に戦術」(247)なのであって、「それら非暴力的運動は、自らが戦争の実質的で倫理的なオルタナティヴであることを示さなければならない」(248)。

なぜそうした倫理的実践ないし行為化が必要なのだろうか。第六章「悪い生の中で良い生を送ることは可能か」には、倫理的に良い生を送ることをめぐる考察が収められている。アドルノから導かれる章題の問いは、私たちが「不平等、搾取、様々な形の抹消によって構造化されたより広い世界の文脈において、良い生を追求する方法を見出すことの難しさ」(252)に直面しているからこそ、重要な問いとなる。なぜ良い生を追求する方法を見つけ出すことが困難であるのかといえば、「「私はどのように良い生を送ればよいのか」という問いは、送るべき生が存在する、すなわち、生きているとみなされる生が存在し、私の生はその中に入る、ということを前提としている」(259)にもかかわらず、不平等、搾取、様々な抹消によって差別的に生が哀悼不可能なものにさせられ、送るべき生が元より存在していないことにさせられてしまうからである18。したがって求められるのは、「私自身の生を肯定する」(260)ために、「生そのものを価値付けるこれらの〔消去と不平等の形式を生み出すカテゴリーの〕構造を批判的に評価すること」(ibid.)である19

そうした批判は、生存可能な新たな生き方ないし生の形式を要求することでもあり、そうした要求の行動において、「平等のデモクラシー的諸原理や、相互存在の経済的諸原理を行為化する」(283)。とはいえ、新たな生が「行為遂行的パフォーマティヴに」(ibid.)追い求められるとき、「相互存在あるいはさらに可傷性を乗り越えようとはしていない」(ibid.)。相互存在や可傷性とは、撤廃されるべき性質ではなく、先にも述べたようにいわば人間の条件ですらある。「もし私が良い生を送るべきだとすれば、それは他者たちと共に生きられた生」(ibid.)なのであって、「不安定性プレカリティへの私たちの共有された曝され」(284)や、「私たちが互いに保持している必要=欲求」(ibid.)こそが、私たちの平等ないし相互的義務を証しだてるものであるとされる。

本書に対するコメント

おそらくその名前が他のどの思想家よりも多く本書で登場するアーレントに対し、バトラーがどのような立場をとりどのような解釈をしているのかについて、ここで少し考察を加えられればと思う。まずはバトラーの本書での立場を、アーレント批判を踏まえて改めて明らかにすれば、以下のようになるだろう。

政治的行為とは、他でもないこの身体を生きる私が、権力によって不正に増強させられた不安定性プレカリティに苦しめられることなく、正当に自由に生きることができる権利を求めて闘うことを意味する(cf. 80)。しかしそれは、「人間らしく生きる」ということではありえない。「人間らしさ」というものを措定した瞬間に、そこから零れ落ちて「人間として」現れることができなくなってしまう人が、必ずや差別的に生み出されてしまうからである。たとえばアーレントが主張したように、「自由な言論活動」こそ、必然から区別され、動物的でなく、極めて人間的な行為である、としてしまうなら、そうした活動ができない者たちは人間的ではありえず、その非人間的な存在は自由に生きることが許されず、権力によって生み出された不安定性プレカリティにおいてその生は価値のないもの、生きるに値しないものであるとの烙印を押されてしまう(cf. 98, 268)。それでは、差別を生み出す「人間らしさ」に依拠せずに、あらゆるひとが平等に共に生きる方途とはどのようなものなのか。バトラーによれば、それはとりもなおさず、共に生きることそのことを至上命題とするような生き方以外ではありえない(cf. 60)。アーレントも掲げている「共生せざるをえない」という不自由な条件を行為化し、他の人々の固有な生(さらには自他の存在ないし身体を共に支えてくれる物質、環境)を不安定プレカリアスにさせるいかなる権力にも抵抗して、自由な生を闘い取っていかなければならない。もちろんその際の行動原理は、暴力的に他の生を犠牲にする不正なものではありえず、共生を尊重する正しいものである。バトラーの訴えとは、そのような原理を行為遂行的パフォーマティヴに行為し、体現し、実演していくこと、すなわち、不安定プレカリアスであり重要ではない生を生き、哀悼不可能であるとされるマイノリティーの人々が、差別の基準に用いられている「犯罪的で人間らしくない」身体(とその身体に基づいた振舞い)を行為化すること、そのことでもって自由に生きる権利を行使すること(cf. 66)、これである。

上記のようなバトラーの主張は、ある程度説得力をもっているのではないだろうか。『人間の条件』における、公私の区別を立て、弱者を切って捨てる不当で差別的な「アーレント」ではなく、『エルサレムのアイヒマン』におけるアーレント、地球上には、誰と共生するかを選べる人間など存在しないという理由でアイヒマンに道徳的に迫ったアーレントに従い20、作り出された不安定プレカリアスな状態への抵抗を導く。こうした一連の論述のはこびは理解に難くない。けれども、不安定プレカリアスな生を差別的にうみだすのは、意識的であろうとなかろうと、「この集団は人間的ではなく生きるに値しないから、共に生きることを拒む」という道徳的(ではない)態度だけなのであろうか。ジェンダー・マイノリティの人々や、宗教的衣装を身に着ける人々、そうした人々を念頭に置くとき、選択されざる共生を生きよという命法は、確かに効果的であろう。なぜなら、不安定プレカリアスな状態に他者を追い込めると思っているのが(権力そのものというよりも)個人的主体であって、「自分自身を定義上、非可傷的(invulnerable)であると見なす人」(189)であれば、そうした人は私たちが皆可傷的であるという事実を否定しているに過ぎない。そのため、そうした人はまさしく予測しない仕方で共生の倫理に感化されることがありうるかもしれないし、むしろ積極的にバトラーの言説に共鳴するかもしれない。

けれども、バトラーが本書で言及しているのは、そうした道徳が通じるような主体だけではなかったのではないか。つまり、経済的な理由である資本主義、さらには新自由主義こそ、適切な雇用、食物や住居シェルター、入手できる保健医療ヘルス・ケアといったものの剥奪を企て、果ては暴力ないし「監獄産業」(225)さえも動機づけている原因ではなかっただろうか21。アーレントによれば、「社会」とは、「家族の集団が経済的に組織されて、一つの超人的家族の模写となっているもの」22であり、この「たえず成長する社会的領域」23は、それ自体が自己増殖的である「生めよ、ふえよ」24の繁殖力によって、個人の生をいともたやすく飲みこみ、おのれの成長を続ける。バトラーが生の重要さや哀悼可能性を強調すればするほど、その道徳的要求の声は、容赦ないこの自己増殖モンスターの前では余計にむなしく響くだけである。生命過程をそれこそ「行為遂行的に」体現する社会にとって重要な関心事はただ一つ、おのれの肥大だけである。つまり、社会にとって重要なのは社会そのものが発展することなのだから、不安定プレカリアスな生がいかにその固有なかけがえのない大切な生を生きたいと要求したところで、そんなものは社会全体からすれば「偏差」25でしかなく、切り捨てられて然るべき命である。

バトラー自身が主張しているのは、生命過程は何も人間を特徴づけるものでは全くないということ、人間とはいえ動物であるという次元、生命過程に従わざるをえない次元があり、それが看過されてはならないということ、これであった(cf. 60-61)。しかし、それは人間の尊厳のようなもの、共生の倫理といったものを死守しようとするバトラーその人を裏切ってはいないだろうか。生命過程に「人間性」を明け渡してしまっていることにはならないだろうか。なぜなら、そうした動物である次元とは画一的なヒトという種に根差した次元であり、生命過程こそ、個々のかけがえのない人物たちの生命をまさしく軽んじる新自由主義ないし資本主義「社会」を特徴づけるものだからである。社会に反旗を翻したいバトラーはその実、社会の増殖に加担してしまっている。アーレントに言わせれば、「社会のこの一枚岩的な性格は、最終的には、動物種としての人類の単一性に根差すものである」26。バトラーが説いてやまない「生物種には還元されずに動物として生きる、唯一無二のユニークな存在」なるものは、人間を生命維持の次元に根差して考える以上、社会というモンスターに食いつぶされること請け合いである。アーレントは言う。「大衆社会は、人間を社会的動物として完全に開放し、見た目には人類の生命維持を世界規模で保証し始めてはいるが、しかし同時に人間性を、つまり人間が真に人間であることを、絶滅しかねない勢いである」27、と。かけがえのない命が偏差として軽んじられ、人類の生命維持がもはや世界規模で目指されている社会において、倫理的であったり自由であったりすること、すなわち真なる人間性は、バトラーが自身説く「動物という人間」によって、絶滅の危機に瀕している。

誤解のないよう付言すれば、以上の議論は、『人間の条件』のアーレントからのありうべき想定反論を試みに雑駁な仕方で述べたに過ぎない。バトラーが問題視する差別や暴力は、当然倫理的な解決が俟たれねばならないだろう。しかしながら、アーレントもプロローグで述べていた通り、労働者の労働からの疎外という、新自由主義にも通底する現代のこうした問題は、共生の倫理ではそう簡単に太刀打ちできる類のものではないように思われる。

最後に、バトラーによるアーレントの扱いについて述べておきたい。本書全体を通して言えることだが、バトラーは『人間の条件』のプロローグをそれこそ重要ではないものとして軽んじていやしないかと疑ってしまいたくなるような仕方で、アーレントを断罪していく。たとえば、「アーレントの考えは、ここで明確にその限界に逢着する」(114)とバトラーは述べ、アーレント的な区別は現代においては機能せず、限界にきていると批判する。しかしプロローグには、「私たちが直面しているのは、労働者に残された唯一の活動力である労働のない労働者の社会という逆説的な見通しなのである。〔…〕本書〔『人間の条件』〕は、このような緊急の問題や難問にたいして解答を与えようとするものではない。〔…〕これから私がやろうとしているのは、私たちの最も新しい経験と最も現代的な不安を背景にして、人間の条件を再検討することである。私が企てているのは〔…〕私たちが行なっていることを考えること以上のものではない」28と述べるアーレントの姿がある。この文言からだけでも明らかなのは、現代の私たちは(人間の条件ごとの活動領域が明確に区別されていた)古代ギリシア人のようにふるまうべきであり、そうすることが現代人が直面している問題への解決策である、などとは一切言われていないということである。アーレントは、現代の問題を考えるための思考の枠組み、いってみれば叩き台を提供してくれているだけであって、その枠組みを理想化してそれでもって現代の諸問題を解決しようとしているのではない。そうではなく、むしろそうした枠組みでは説明がつかない事態を見据えるためにも、まずは基本的な人間の条件の考察をしているのだと言える。基本的な枠組みが限界にきているのは当然のことであり、それはアーレントも十分承知しているに違いない。古代の枠組みを手掛かりに、現代の具体的な問題に解決策を与えることまでをもアーレントに求めてしまうのは、お門違いであると言わざるをえない。

1大修館書店『ジーニアス英和辞典 第5版』2014年。

2原著は以下の通り。Judith Butler, Notes Toward a Theory of Assembly, Harvard University Press, 2015.

3( )内の引用頁数は全て本訳書のものである。

4本書では「プレカリアート」との関係性を示すために「不安定プレカリアス」とルビが付されているため(314)、以下その通り表記する(「不安定性プレカリティ」も同様)。

5後述される通り(第五章)、たとえ監獄内の一人の身体においてでさえも、その身に哀悼可能な生を体現することはできる。そのため、「公の場」や「集める」ことが特異な仕方で解されねばならない。

6バトラーの思想の変遷を回顧的に捉え、『アセンブリ』での議論が初期のジェンダー論より発展しているとするならば、不安定プレカリアスな生がジェンダーに起因する差別との関係においてのみ捉えられるのではなく、宗教や人種による差別、あるいは新自由主義の名の下での差別との関係においても捉えられるようになったと言えるだろう。「私はかつてクィア理論やセクシュアル・マイノリティ、ジェンダー・マイノリティの権利に関心を持っていたが、今ではより一般的に、戦争あるいはその他の社会的諸条件がある種の住民を哀悼不可能な者として指定する方法について執筆しているように思われる。」(39)。既述の通り、本書では哀悼不可能な生は、権力によって差別的に生み出されるものだとされる。バトラーが「生存可能な生は、ジェンダーの身体感覚を生きよ、そして世界で自由に生きる存在方法を認めないような制限から逃れよ、という要求から生じる」(55)と述べるとき、ジェンダー・ポリティクスと不安定プレカリアスな生をめぐる政治との間には、いかなる断絶も存在しない。前者がより広い文脈に置き直され、生存可能な生を送る自由の権利が行使されるべきなのである。そしてこのことは、「ジェンダー化された生に対する諸規範の強制的な支配を緩和すること」(47)であって、「あらゆる諸規範を超越ないし撤廃することと同じではない」(ibid.)。

7本書も則っている「行為遂行的」という訳に対し、performativeという原語に込められた「本質や起源(といういわば台本)とは異なった仕方で演じる」という意味を表すために、カタカナ表記で「パフォーマティヴ」と訳されることもある。それにより「パフォーマティヴ・アクト」を「行為遂行的行為」という奇妙な訳になることを避けられるとも指摘される。藤高和輝『ジュディス・バトラー』以文社、2018年、171~172頁。

8Judith Butler, Gender Trouble: Feminism and the Subversion of Identity, Routledge, 1990.

9本文では、「固有で変化しにくいハードワイヤード」が修飾しているのは、「ジェンダーの次元」(80)である。続く第二章でも「もし私がジェンダーの問題から逸脱しているように思われるとすれば、ジェンダーはまだここにあると断言しておきたい。」(93)とバトラーは注意喚起している。しかし先の註で触れた通り、不安定プレカリアスな生の一事例としてジェンダーが捉えられている点を忘れてはならない。

10バトラーは、「ジェンダーの公開や現れに基づく犯罪化を正当化する刑法は、それ自体が犯罪的であり違法である」と述べ、特定の(たとえばジェンダーを公開する)人を「犯罪者」扱いする警察こそがむしろ犯罪者であると糾弾する。すなわち、「ジェンダーを警察力によって規制することは犯罪行為、警察が犯罪者になる行為」(ibid.)なのだ。なぜなら「犯罪者」扱いされた人々は、「保護を失ってしまう」(75)からであり、「街頭において不安定プレカリアスなまま放置されることになる」からである。

11そのため、「ジェンダー・マイノリティとセクシュアル・マイノリティの権利を行使するために形成された連携は、どれほど困難であれ、それ自体の多様な住民たちとの結び付き、そして、私たちの時代に引き起こされている不安定性プレカリティの諸条件に服従する他の住民たちとの結び付きを形成しなければならない」(91)と言われる。

12ここで、不安定プレカリアスな生の是正は、倫理的/道徳的な問題として、俎上にあげられている。「私が示そうとするのは、連携の政治は共生の倫理に依拠するし、またそれを必要とする、ということである」(94)。第六節で詳述されるが、「道徳的な生の追求」(280)こそが、不安定プレカリアスな生の是正の意味するところであってみれば、ある集団ないし人の生を重要ではないもの、哀悼に値しないものとみなし、それを切って捨てるような諸規範や法は、道徳的でも正当でもなく、「犯罪的」であって不当なものなのである。

13政治的なものとは、「公私の間の区別を崩壊させ」(119)るものであるため、「身体の生――その飢え、その住居シェルターの必要と暴力からの保護を必要――が政治の主要な問題になる」(126)、というのがバトラーの政治観である。アーレントの用語(の文字面だけ)を借りて言い表せば、「必然の私的領域こそ、政治の公的領域である」となるであろう。自由に「生存する」権利を主張することは、行為遂行的な行為(身体に根ざして生きる権利が権力によって剥奪されているということ、しかしその権利が自分にはあるということ、これら二つの事実を、公的な現れの場(街頭など)でパフォーマティヴに実演し体現しやってみせること)を通してなされるのである。

14ちなみにバトラーは、倫理的な主張と身体的な生(さらに言えば動物的な生)とを結びつけている。「すべての倫理的主張は、侵害可能なものとして理解された身体的な生、人間的生に限定されない身体的な生を前提としている」(155)。本書で身体と言われる際、それは人間に特有の身体(ないし「哲学的における嘆かわしく長い伝統」(172)において動物的次元とみなされてきた人間の身体)といったようなものではなく、「人間は既に動物である」(ibid.)という主張にみられるように、人間に限らず広く「生命」といった文脈で語られるような身体と、その生命的身体を生かし支えてくれる環境とがセットで考えられている。そのため、「地球のあらゆる他の住民への関与コミットメントであるだけでなく、〔…〕地球そのものの維持への取り組みコミットメント」(150)、「私はアーレントの人間中心主義をエコロジー的に補足しようとしている」(ibid.)、「人間的動物」(155)、「私たちは例外なく生の身体的条件に直面することになり、他者の身体的存続だけでなく、生を生存可能にするあらゆる環境条件に取り組む」(ibid.)といった発言が散見される。この点については、本稿「コメント」を参照。

15「私たちが共に暮らすのは選択の余地がないからであり、〔…〕私たちは、選択されざる社会的世界の究極的価値を肯定するために闘争することを義務付けられているのであり、肯定とは必ずしも選択ではなく、闘争とは、生の平等的価値へと必然的に取り組む仕方で自由を行使する際に、認知され、感知されるのである」(160)。バトラーの言う自由は、アレントが古代ギリシアのポリスにみてとるような「言論を戦わせる」自由ではありえず、生きる自由、差別的に不安定性プレカリティを増大させられることなく平等に生きることへの自由、あるいはその生きる権利の行使において現れる自由だと言えるだろう。それはとりもなおさず、「身体化された自由」(80)である。

16それゆえ当然ながら、「能動的に街頭に現れる瞬間は、曝されることについての意図的なリスクを含んでいる」(182)ことになる。

17例として挙げられているのは、スラット・ウォークである(180)。その他にも、宗教的服装で街頭を歩く権利、黒人が夜に犯罪者として思い込まれることなく歩く権利などが言及されている。他にも、監獄内でのハンガーストライキは、自分の生が不安定プレカリアスにされていることを身体的に行為化するべく行なわれる(178)。

18「生政治」(256)という、「生を組織する諸権力であり、まさしく、統治的、非統治的手段を通じた住民のより広範なマネージメントの一部としての不安定性プレカリティへと諸々の生を配置し、生そのものの差別的な価値付けのための一連の手段を確立するような諸権力」(ibid.)に、道徳性はその始まりから結び付けられている。生政治的な問いとは、「誰の生が重要か、誰の生が生として重要でないか」(ibid.)、あるいは「誰の生が哀悼可能で、誰の生がそうでないか」(ibid.)といった問いであり、こうした問いと、自分の生をどのように送ればよいのかという問いとが結びつくと言われる。もし自分の生が哀悼可能ではないとみなされるのであれば、その生を生きられるべき生ではないということになってしまうため、そのようにみなすことを強いてくる生政治と闘わねばならないのである。「人は言わば、失われる前に、無視あるいは遺棄されることが問題になる前に、哀悼可能でなければならないのであり、また、私というこの生の喪失が悼まれ、従って、この喪失を未然に防ぐべくあらゆる手段が取られる、ということを知った上で、生を生きることができなければならない」(258)。

19そうした批判は、直前の註でふれた生政治に対する異議申し立て、「生政治的秩序の批判」(261)が、各人にとって「生きた問題であり、従って、生きるための闘争であり、正しい世界の中で生きるための闘争でもある」(ibid.)ことと軌を一にする。

20ただし、アーレントが「虚構様式」を用いて、道徳に則り正しくアイヒマンに判決理由を述べて極刑に処したのではなく、その実、抑えきれない復讐心によってそうしていたのではないかという疑いは捨てきれない、との見解もバトラーは示している(ジュディス・バトラー著、大橋洋一、岸まどか訳『分かれ道』青土社、2019年、第六章)。原著は以下の通り。Judith Butler, Parting Ways: Jewishness and the Critique of Zionism, Columbia University Press, 2012.

21もちろん、ジェンダーや人種、宗教的な差別においても新自由主義の魔の手が伸びているケースがあるかもしれないが、ここでは便宜的に、それらを引き起こすのが「選択されざる共生の選択」というアイヒマン的な態度であり、一方でアーレントで言えば私的領域に分類されるような事柄を差別的に配分することの背後にこそ、新自由主義的態度が控えている、と分けて考えてみよう。後者、すなわちグローバル規模の巨大な消費過程、公私の別がなくなった「社会」を体現する、そうしたものとして新自由主義というモンスターを考えるなら、そうした人間的ではなくまさしく動物的であるような主張ないし態度に対して共生の道徳を説くことにどれほどの効果が見込めるだろうか。

22ハンナ・アレント著、志水速雄訳『人間の条件』筑摩書房、2011年、50頁。

23アレント『人間の条件』、72頁。

24アレント『人間の条件』、163頁。

25アレント『人間の条件』、67頁。

26ハンナ・アーレント著、森一郎訳『活動的生』みすず書房、2015年、57頁。

27アーレント『活動的生』、57頁。

28アレント『人間の条件』、15~16頁。

参考文献

  • ジュディス・バトラー著、竹村和子訳『ジェンダー・トラブル』青土社、2018年
  • ジュディス・バトラー著、大橋洋一、岸まどか訳『分かれ道』青土社、2019年
  • ハンナ・アレント著、志水速雄訳『人間の条件』筑摩書房、1994年
  • ハンナ・アーレント著、森一郎訳『活動的生』みすず書房、2015年
  • 藤高和輝『ジュディス・バトラー』以文社、2018年

文献案内(上記以外)

  • ・バトラーの邦訳
  • ジュディス・バトラー著、竹村和子訳『アンティゴネーの主張』青土社、2002年
  • ジュディス・バトラー著、本橋哲也訳『生のあやうさ』以文社、2007年
  • ジュディス・バトラー著、大河内泰樹・岡崎佑香・岡崎龍・野尻英一訳『欲望の主体』堀之内出版、2019年
  • など
  • ・アーレントの邦訳
  • ハンナ・アレント著、ジェローム・コーン編、高橋勇夫訳『政治の約束』筑摩書房、2008年
  • ハンナ・アレント著、志水速雄訳『革命について』筑摩書房、1995年
  • ハンナ・アーレント著、大久保和郎訳『エルサレムのアイヒマン』みすず書房、2017年
  • など
  • ・本書の書評
  • 白石嘉治「国家主権との断絶」、図書新聞、2018年
  • 下河辺美知子「排除/包括を演じる集会アセンブリ」、『成蹊英語英文学研究 第22号』所収、2018年
  • ・フェミニズム理論
  • 上野千鶴子『女ぎらい』朝日文庫、2018年
  • 伊藤邦武、山内志朗、中島隆博、納富信留責任編集『世界哲学史8』筑摩書房、2020年

出版元公式ウェブサイト

青土社ウェブサイト

http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3126

評者情報

鈴木 優花(すずき ゆうか)

現在、慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程在籍。主な論文は「共現存在の対話可能性」(三田哲学会編『哲學』第145号、2020年)、主な翻訳は『四方対象』(グレアム・ハーマン著、岡嶋隆佑監訳、山下智弘、鈴木優花、石井雅巳訳、人文書院、2017年)。専門は現象学(マルティン・ハイデガー)。