Tokyo Academic Review of Booksonline journal / powered by Yamanami Books / ISSN:2435-5712

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2020年11月27日

越智雄磨『コンテンポラリー・ダンスの現在:ノン・ダンス以後の地平』

国書刊行会,2020年

評者:宮川 麻理子

Tokyo Academic Review of Books, vol.7 (2020); https://doi.org/10.52509/tarb0007

要約

本書は、フランスのコンテンポラリー・ダンス、とりわけ「ノン・ダンス(non-danse)」と呼ばれた舞踊に関して、その名称にまつわる議論、制度的・歴史的背景、そしてジェローム・ベルとグザヴィエ・ル・ロワという二人のアーティストを中心とした美学を、具体的かつ集中的に検討したものであり、「ノン・ダンス」の研究書としてはおそらく日本で初めてのものであろう。本書がフランスという地を中心に扱ったとしても、コンテンポラリー・ダンスはもはや一国にとどまるものではなく、舞台芸術の市場の中で、またアーティストたちによる国を超えた交流によって循環し、日本のダンスの状況とも多かれ少なかれ繋がりを持っている。その意味で本書は、研究者のみならず、実際にダンスに関わるアーティストにとっても興味深いものであろう。

第5章と結語を除き、各章のタイトルにも含まれるこの「ノン・ダンス」という語は、批評家とアーティストの間で、また歴史的文脈の中で、議論を巻き起こすものとなっている。フランス語で否定を表すnonが接頭辞的につけられた「ノン・ダンス」は、いわゆるダンサブルな身振りがなく、コンセプチュアルに展開していくパフォーマンスというイメージで捉えられるもの、とひとまずは言うことができるだろう。以下、各章の構成に触れながら、論点を確認していく。

序章では「ノン・ダンス」をめぐる1990年代以降の論争、つまりアーティスト(ベル、ボリス・シャルマッツ)、そして批評家(ドミニク・フレタール)の見解を踏まえた上で、この問題点を考察することを通じ、フランスで起こった新しい舞踊の傾向およびそれに伴うパラダイム・シフトを明らかにするという本書の目的が述べられる。ここで最も興味を引かれたのは、「ノン・ダンス」の振付の方法が、1960年代にアメリカで登場したポスト・モダン・ダンスから影響を受けているという点である。日常の身振りさえもダンスになり、いわゆるダンサブルな身振りを拒否する両者の関連は一見すると自明のように思えるが、実のところ、フランスでは空白の期間を挟んで1990年代にポスト・モダン・ダンス、特にジャドソン・ダンス・シアターの試みが新たに発見されたという本書の指摘は重要である。

第1章では、前述の「ノン・ダンス」の定義を検討する。コンテンポラリー・ダンスという言葉が流布する前、1980年代のフランスでは「ヌーヴェル・ダンス(nouvelle danse)」世代の振付家たちによって、文化的にも制度的にもダンスが飛躍を遂げた。ここで問われるのは、そのようなヌーヴェル・ダンスから「ノン・ダンス」へと至る、政治・美学の転換である。ヌーヴェル・ダンスの代表格とされるジャン=クロード・ガロッタの《ユリシーズ》とベルの《ジェローム・ベル》の美学的相違が検討され、ついでフランスの文化政策がもたらしたヌーヴェル・ダンスの停滞と「ノン・ダンス」の成立が関連づけられる。ヌーヴェル・ダンスのスペクタクル性や物語性への回帰に対して、ベルは身体の現前性を提示する。この両者の大きな隔たりに異論はないが、ヌーヴェル・ダンスの美学をガロッタ一人に代表させて導き出す点はいささか強引に感じられた。一方で、1980年代のヌーヴェル・ダンス世代と、それに続く世代が置かれた状況の差異、とりわけ国立振付センター(CCN)をはじめとする文化政策の負の側面が、作品制作に向かうアーティストの態度そのものに影響している点などは極めて重要な指摘である。ベルやル・ロワといったアーティストは、既成の助成制度の外側にいたからこそ、制度内部の評価軸を内面化することなく、革新的な作品を作ることができたのだ。それは「彼らがフランスにおいて八〇年代以降に暗黙のうちに形成され共有されてきた紋切り型の美学やスペクタクル性を批判している」(p. 38)のであり、「ノン・ダンス」は、このような美学への「ノン」、そして制度の中へと取り込まれたダンス、そのような政治的側面への「ノン」を意味する。著者はその意味で「ノン・ダンス」とは反スペクタクルの身振りであると規定する。

ここで指摘される政治・制度上の問題は、第2章で「八月二〇日の署名者たち」の活動を取り上げて、より詳細に論じられる。ダンサーや舞踊批評家たちが集ったこの団体の活動によって、従来の文化政策ではこぼれてしまった周縁へと支援の輪は広がり、それがコンテンポラリー・ダンスの発展へと繋がる。そこにはCCNというダンスの振興に寄与してきた制度に内在する問題(新たな芸術形式に対する評価軸の脆弱さやダンスの美学の硬直化、そして新作主義によるアーティストの疲弊)も立ち現れてくる。「八月〜」の活動がもたらしたものは、これらの打開であり、その結果として実験的な試みを支援する「振付エクリチュール支援」制度などが2000年代になって誕生した。それは「公的制度において認識されていたダンスの概念」(pp. 67-68)の拡張である。なお、文化の当事者によるこのような政治活動が大きな影響を与えた日本での事例を私自身は把握していないが、例えばこのコロナ禍で、舞台・映画関係者らが積極的に働きかけた結果「文化芸術活動の継続支援事業」へ予算が充当されるなど1、全く無関係ではないだろう。むしろこの「八月〜」の事例は、日本のアーティストにとっても一つの参考になるのではないか。

第3章では、ポスト・モダン・ダンスと「ノン・ダンス」の影響関係が、「クワテュオール・アルブレヒト・クヌスト」というグループの活動を通じて検証される。ここで評者には次のような疑問が生じた。1970年代にもたらされた、マース・カニンガム、あるいはカロリン・カールソンといったアメリカのダンサーたちの影響が、ヌーヴェル・ダンス世代が花開く種を蒔いたことに異論はない。しかしなぜジャドソン・ダンス・シアターの活動は、フランスへすぐには影響をもたらさなかったのだろうか。舞踊研究者シルヴィアーヌ・パジェスによれば、70年代末から80年代にかけて、多くのフランス人ダンサーがニューヨークに渡航し、またポスト・モダン・ダンスの振付家たちの来仏もなかったわけではない2。ヌーヴェル・ダンスの世代にとって、ポスト・モダン・ダンスの日常的な身振りや、演技やダンスではなく人間の身体そのものを提示する身体の現前性といった側面はなぜ注目されず、対照的にスペクタクルで振付家の主張や独自性を強調する「作者のダンス」という美学的特徴が現れたのだろうか。それはよりわかりやすく「作者」であることを重視したためなのだろうか。著者はこの点に関し、第3章の注(4)で言及しているものの、やはりなぜポスト・モダン・ダンスの影響が遅れて登場したのかという謎は残る。

評者の疑問は一旦脇におくとして、1990年代に「ノン・ダンス」の名の下で呼ばれたダンサーたちが、ポスト・モダン・ダンスを見出したきっかけ、中でも日本では知られているとは言い難いクワテュオールの活動(特にイヴォンヌ・レイナーの《CP-AD》の上演)の意義を本書は検討する。クワテュオールは1993年から2002年まで活動したグループで、発端はアルブレヒト・クヌスト(1896-1978)が残した舞踊譜を再現上演するプロジェクトである。《CP-AD》は、ジャドソン・ダンス・シアターのメンバーが結成した集団グランド・ユニオンの最初の作品であり、その再演は舞踊譜からの再現とは違う次元へとクワテュオールのメンバーたちを導いていった。それは「コレオグラフィ」の概念を、動きの創造から動きの発見・採集・編集へ、完成された作品の提示ではなくプロセスの開示へ、本書の言葉で言えば「メイキングとしてのコレオグラフィ」へと移行するものであった。さらに本書は、このプロジェクトが1996年に上演された意義は、「メイキングとしてのコレオグラフィ」が「フランスの舞踊界に蔓延していたテクニックとヒエラルキーからの解放の契機」(p. 87)となったことだと述べる。1970年以降の文化政策の弊害が、ヌーヴェル・ダンスの美学の規範化・硬直化・アカデミー化であり、振付家を頂点としたヒエラルキー化であるとすれば、振付家とダンサーの対等で民主主義的な関係をベースに展開したポスト・モダン・ダンス的な方法論が、そうした状況を打破したことになるだろう。

第4章では、「ノン・ダンス」世代のもうひとつの特徴である「パフォーマンス的転回」をめぐる議論が展開される。ここでは特に「裸体」への回帰、そして「レクチャー・パフォーマンス」と呼ばれる形式に焦点が当てられる。パフォーマンスというタームにはパトリス・パヴィス、エリカ・フィッシャー=リヒテ、アンドレ・レペッキらによる論考があるが、著者はダンスが「ムーヴメント」から「身体の現前」の提示へと重心を移した美学的転換、そしてフランスの哲学者フレデリック・プイヨードが論じたフランスに固有の「パフォーマンスの反省的作業」を中心に概観し、上述の「ノン・ダンス」の特徴が「パフォーミング(遂行すること)」の本質を問うようにシフトしていったと論を進める。裸体を提示し「存在」そのものを見せる芸術へというパラダイム・シフトには、その背景に「ポストHIV」という文脈が見出されるという指摘は重要である。著者は、まさにこのようなパラダイム・シフトの中に位置付けられる作品として、ベルの《ジェローム・ベル》に言及する。本書からベルの言葉を引用すれば、「直接的にそこに存在するということの存在論的な明白さ」こそが問われるべきであり、その背景には「不在や消失、死」、とりわけ「実際に親しい人々を亡くした経験」が背景にある(p. 116)。つまり、エイズという身体に対する危機が、このパラダイム・シフトを引き起こした一因ということである。このような現象は、例えば日本でも《S/N》(ダムタイプが1992年に開始したプロジェクト)が登場する時期と重なっており、より広く詳細に考察されるべきトピックであろう。また、「レクチャー・パフォーマンス」(研究発表のように、文字通り「レクチャー」をパフォーマンスとして行うもの)の出現は「現実に個人として社会に存在するパフォーマーのアイデンティティを問題化するもの」(p. 121)であり、演技やムーヴメントとは明らかに異なる次元の表象がダンスへ導入されたといえる。それは「フィクションやイリュージョンに拠らない事実としての身体や何事かを遂行する者の生そのものがもたらす衝撃」(p. 128)を与えるものであり、「ノン・ダンス」がもたらした一つの振付概念の発展的な拡張である。

本論の最後となる第5章では、「ノン・ダンス」の代表的な振付家ジェローム・ベルとグザヴィエ・ル・ロワを取り上げ、彼らが先行世代の「作者のダンス」をいかに乗り越えたのか、それによって生じたパラダイム・シフトを検討していく。ベルらの世代は、前章までで確認したようにポスト・モダン・ダンスの美学を取り入れ、振付家=作者の権威性を疑う作品創作を行なった。本章で中心となるのは、ベルの《ザ・ショー・マスト・ゴー・オン》(2001)、ル・ロワの《ロウ・ピーシーズ》(2009〜2011)の分析である。ベルは振付家としてのキャリアの出発点となった《作者によって与えられた名前》(1994)からして、「既存のダンスの作家性や作品性、創作体制をメタ視点から見て、操作し、撹乱する批判的機能」(p. 142)を持っていた。そして《ザ・ショー・マスト・ゴー・オン》においては、観客の主体性を喚起する方法論を試みる。本作では、ポップソングの曲名や歌詞が出演者(プロだけでなくアマチュアも含む)への身振りの指示(タスク)になっているだけでなく、時にそれは観客席にも及ぶ。作品が観客の解釈、その関係性との間で成り立つ本作を、著者はニコラ・ブリオーが提唱した「関係性の美学」を参照しながら論じ、ベルを「観客が遊戯的に参加することのできるフレームワークを提供する者としての作者」(p. 172)と考える。またベルは、ダンスのアマチュアが出演する《ガラ》(2015)において、クレア・ビショップが名付けた「委任されたパフォーマンス」という創作方法へと適合していく。

ル・ロワの観客との対話によって始まる《ロウ・ピーシーズ》も同様に、「作者のダンス」を乗り越え、「関係性の美学」と接近する。ベルとの大きな違いは、ル・ロワは「劇場」という枠組みを超えていくパフォーマンスを展開した点にある。ル・ロワの本作では、暗闇での会話を挟んで「見る/見られる」という役割の分割を見直しながら、観客との関係性を新たに構築する。それはジャック・ランシエールが『解放された観客』で示した、感性的なものの再分割であり、芸術が持つ政治的効果と見なせるものである。ル・ロワの実践は「劇場という見るための場所に纏わる客席と舞台の関係性や、そこでの様々な行為に付随する能力や感性の布置を問題にし」(p. 181)ており、それはあらかじめ定められているかのように見える芸術上の分割線(見る/見られる、能動/受動、舞台/客席)を仕切り直す作業にもなるからである。

著者は両者の活動を、ロラン・バルトのいう「作者の死」後の「作者」としての振付家の実践と位置付け、とりわけ演者と観客と新たな関係を描き、「作品において他者との共存をいかに実現するのか」(p. 194)をデザインする「共存のためのコレオグラフィ」(p. 202)と定義する。

以上を総括すると、「ノン・ダンス」がフランスのコンテンポラリー・ダンスにもたらしたパラダイム・シフトは、美学的転換と文化政策に関わる政治的転換という二つの側面を持つ。その背景に見出されたのは、1990年代に遅れてやってきたポスト・モダン・ダンスの影響であり、ヌーヴェル・ダンス世代と明確に区別されるパフォーマンス的転回を引き起こした。そしてベル、ル・ロワに代表される「ノン・ダンス」の振付家が向かったのは「振付家とダンサーと観客の生に焦点を当てながら民主的な共存の形態を探る『共存のためのコレオグラフィ』」(p. 204)であったと結論付ける。

コメント

本書は、「ノン・ダンス」を本格的に論じたものとして、少なくともフランスのコンテンポラリー・ダンスについて研究する際には必読書となると思われる。一方で、本書のタイトルにある「コンテンポラリー・ダンス」は、著者も記述している通り、その美学や様式は多様であり、ベル、ル・ロワにほぼ限定された本書の射程がカバーしきれない部分が多くあるという点は念頭に置いておく必要があるだろう。とりわけ「ノン・ダンス」の振付家と同時代に活動したダンサーが、エマニュエル・ユインやボリス・シャルマッツを除くとほとんどと言っていいほど登場せず、他の多くのコンテンポラリー・ダンサーたちへの言及がない点にはやや不満が残った。もちろん本書が指摘した「ノン・ダンス」のもたらしたパラダイム・シフトの重要性に関して異論はないものの、「フランスのコンテンポラリー・ダンス」という括りの中で漏れ出てしまうものへの気配りは必要ではないか。

またもう一点、フランスの舞踊史を考えた際、ヌーヴェル・ダンスと前後してフランスに広まった舞踏に関する言及がほとんどない点は少々疑問を感じた。舞踏は1980年前後からフランスへ普及していき、各地のフェスティバルはもちろんのこと、例えば山海塾は1982年からパリ市立劇場を拠点に活動を開始している。舞踏がフランスにもたらした美学的ショック、とりわけ「裸体」の提示は、1990年代に起こった「身体の現前性」への転換と何らかのつながりを指摘できるのではないか。あるいは著者の述べているように、ポストHIVの流れの中で出てきたものであるのなら、舞踏と「ノン・ダンス」の間にはなぜ明確な断絶があるのだろうか。「ノン・ダンス」の世代にとって、舞踏とはどのようなものだったのだろうか。またル・ロワは、レクチャー形式をとった《別の諸状況の産物》(2009)では舞踏を取り上げており、全く無関係ではないと思われる(とはいえ、ル・ロワは舞踏に関して本作の中で「当時(88年頃か)、こんなものはやりたくないと思った」とも語っており、直線的な影響関係を認めるのは強引かもしれない)。この作品が誕生するきっかけとなったメールでの対話を行ったボリス・シャルマッツも舞踏への関心を示しており、舞踏の創始者土方巽の著書からタイトルをつけた《病める舞姫》(2008)という作品を制作している。もっとも本書の主眼とする「ノン・ダンス」を90年代に登場したパラダイム・シフトと捉えるならば、コンテンポラリー・ダンスにおける舞踏への関心は少し時代が異なるのかもしれない。いずれにしても、フランスのコンテンポラリー・ダンスと舞踏に関しては、もう少し検討されてしかるべきであろう。

もう一点やや賛同しかねるのは、「共存のコレオグラフィ」がそれほどユートピア的に実現できるものなのかという点である。やはりパフォーマーと比較し、振付家への権力の偏在は存続しているのではないか。著者自身もこの点に関してはボリス・グロイスを引用しながら言及しているものの、その議論は限定的である。とりわけベルの作品に対して、評者がこの呼称を冠することに抵抗を覚えるのは、2018年に彩の国さいたま芸術劇場で《Gala――ガラ》を見た時に覚えたなんとも言い難い感覚に起因している。実は《Gala》については2015年にブリュッセルでも鑑賞したのだが、その時に抱いた感動を、埼玉の公演ではほとんど実感できなかったのだ。《Gala》という演目は初演前、ある地域の人たちと積み重ねたワークショップが元になっている。しかし、その作品の構造をパッケージ化して各国をツアーすることでもたらされるものは、形骸化された「多様性の担保」であり、振付家が考案したコンセプトに従って上演するという構造に内在する権力性の露呈である。埼玉の劇場に集められた出演者たちの、演出された多様性に対して、客席に座って感動しているだけでいいのだろうか。また、より踏み込んでいえば、この感動を作り出そうとすることは、振付家によるパフォーマーの身体の搾取ではないのか。それを「共存」あるいは民主主義的なダンスという括りの中に収めてしまうことで、結局は西洋のアーティストによってもたらされた、西洋で発展してきた芸術の論理に絡め取られていることになるのではないか。とはいえそれは「振付家」という他者の身体へ作用する役割に内在する権力構造であり、ベルだけに当てはまるものではない。振付家、あるいは20世紀に主流となった演出家を中心とするパフォーマンスの制作においては、どうしても避けることができない問題であり、そうした視点を浮かび上がらせたことはベルやル・ロワの実践がもたらした成果なのであろう。

最後に、「ノン・ダンス」のもたらしたパラダイム・シフトは、その後のコンテンポラリー・ダンスの展開にどのような影響をもたらしたのか(あるいはもたらしうるのか)という点に関しても、より詳細な議論が欲しいところだ。それは今後、ある程度長いスパンで考察されるべきものなのかもしれないが。

文献案内

※本書の巻末には、引用文献の一覧表が掲載されている。関連文献はほぼ網羅されていると言っていいだろう。従ってここでは、項目ごとに、入手しやすい日本語文献および英語文献をあげておく。

  • ・ヌーヴェル・ダンス関連
  • イズリーヌ、アニエス『ダンスは国家と踊る――フランス コンテンポラリー・ダンスの系譜』岩下綾、松澤慶信訳、慶應義塾大学出版会、2010年。
  • 前田允『ヌーヴェルダンス横断』新書館、1995年。
  • ・舞踏
  • 天児牛大『重力との対話――記憶の海辺から山海塾の舞踏へ』岩波書店、2015年。
  • パジェス、シルヴィアーヌ『欲望と誤解の舞踏――フランスが熱狂した日本のアヴァンギャルド』パトリック・ドゥヴォス監訳、北原まり子・宮川麻理子共訳、慶應義塾大学出版会、2017年〔Sylviane Pagès, Le butô en France : Malentendus et fascination, Centre national de la danse, 2015〕。
  • Baird, Bruce and Rosemary Candelario (ed.), The Routledge Companion to Butoh Performance, Abingdon & New York : Routledge, 2019.
  • ・ポスト・モダン・ダンス
  • 外山紀久子『帰宅しない放蕩娘――舞踊のモダニズムとポストモダニズム』勁草書房、1999年。
  • 鈴木晶編『バレエとダンスの歴史――欧米劇場舞踊史』平凡社、2012年。
  • ・パフォーマンスおよび本書で用いられている理論的背景
  • 竹田恵子『生きられる「アート」―パフォーマンス・アート《S/N》とアイデンティティ』ナカニシヤ出版、2020年。
  • ダムタイプ他著『DUMB TYPE 1984 2019』東京都現代美術館監修、河出書房新社、2019年。
  • バルト、ロラン『物語の構造分析』花輪充訳、みすず書房、1979年。
  • ビショップ、クレア『人工地獄――現代アートと観客の政治学』大森俊克訳、フィルムアート社、2016年。
  • フィッシャー=リヒテ、エリカ『パフォーマンスの美学』中島裕昭他訳、論創社、2009年。
  • ランシエール、ジャック『解放された観客』梶田裕訳、法政大学出版局、2013年。
  • Bourriaud, Nicolas, Relational Aesthetics, Presses du réel, 2002.
  • Pouillaude, Frédéric, Unworking Choreography: The Notion of the Work in Dance, Oxford University Press, 2017〔Le désœuvrement chorégraphique: Étude sur la notion d’œuvre en danse, Paris: Librairie Philosophique J. VRIN, 2009〕.

1新型コロナウィルスにより大きな打撃を追った舞台芸術、ミニシアターを中心とする映画業界、音楽業界などが集まり、文化芸術振興基金設立を文化省に求める動き#WeNeedCultureなど。

2シルヴィアーヌ・パジェス『欲望と誤解の舞踏――フランスが熱狂した日本のアヴァンギャルド』パトリック・ドゥヴォス監訳、北原まり子・宮川麻理子共訳、慶應義塾大学出版会、2017年〔Sylviane Pagès, Le butô en France : Malentendus et fascination, Centre national de la danse, 2015〕、p. 37。また同箇所で言及されている以下の文献を参照:Amélie Clisson-De Macedo, « Petite chronique des Fêtes musicales de la Sainte-Baume (1976-1980) », in Isabelle Launay et Sylviane Pagès (dir.), Mémoires et histoire en danse : Mobiles, n°2, Paris: L’Harmattan, 2011, pp. 443–454.

出版元公式ウェブサイト

国書刊行会ウェブサイト

https://www.kokusho.co.jp/np/isbn/9784336066558/

評者情報

宮川 麻理子(みやがわ まりこ)

博士(学術)。現在、早稲田大学演劇博物館招聘研究員、千葉大学ほか非常勤講師。専門は、大野一雄を中心とした「舞踏」、およびコンテンポラリー・ダンス。主な論文・著作に、博士論文「大野一雄論――身体とエクリチュール」(東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻表象文化論分野、主査パトリック・ドゥヴォス、2020年)、« Ohno Kazuo’s lessons for a French choreographer: Ô Sensei by Catherine Diverrès» (The Routledge Companion to Butoh Performance, ed. Bruce Baird, Rosemary Candelario, Abingdon & NY: Routledge, 2019, pp.519–524)などがある。また研究のかたわら、ダンスの批評活動を行ったり、劇団やダンスの公演に出演したり、ドラマトゥルクとして参加したりしている。

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