2020年12月2日
Noam Chomsky, New Horizons in the Study of Language and Mind
Cambridge University Press, 2000年
評者:仲宗根 勝仁
はじめに
New Horizons in the Study of Language and Mind, Cambridge University Press, 2000 (以下NH)は、生成文法の創始者として知られる言語学者Noam Chomskyの著作であり、1990年代に発表された諸論文がベースとなっている。NHには、Willard V. O. Quine、Donald Davidson、Thomas Nagel、Michael Dummett、John Searle、Hilary Putnam、Saul Kripke、Tyler Burgeなど、名だたる哲学者の議論に対し言語学者あるいは科学者の視点から批判を展開した論文が多数収められている。NHの注目すべき点は、Chomskyの言語研究が統語論に限られず、意味論をも射程に収めるものであることが明示的になっている点である。NHが言語哲学的に特に興味深いのは、生成文法理論においてなされてきた意味論的研究こそが「意味論」の典型的方法とされるべきであり、言語哲学において主流である、意味論的外在主義(semantic externalism)を代表とする指示や真理に基づく意味論的見解はその理論化の方針から誤っていると論じられているからである。
本稿の構成は以下の通りである。第1節では、NHを読み解くために理解しておくべき概念を言語哲学的議論と関連させつつ解説する。第2節では、NHにおける言語哲学に対する誤解や誤りを指摘する。第3節では、特に哲学的議論に焦点を当てながら各章を紹介する。まずはNHにおける哲学批判を俯瞰したいという読者は、第3節から読み始めることをお勧めする。最後に、簡単にではあるが本稿の締めくくりとしてNH以降の研究動向を紹介する。
1. NHを読むために―論点整理
NHでは当時の主要な哲学的研究に対し様々な観点から批判が展開されているが、読者には一見するとChomskyは場当たり的な議論を行っているように見えるかもしれない。そこで本節では、Chomskyが従来の言語哲学的研究の何に不満を抱き、そしてなぜ意味論的外在主義を執拗に批判するのかを明確にすることで、一見場当たり的に見えるChomskyの議論の背後に一貫した立場・思想的背景があることを明らかにしたい。なお、本稿ではNHからの参照については頁数のみを該当箇所に付している。また、心の哲学に関する特定のコミットメントを持たないよう、本稿では「心/脳」という表現を用いている。
NHを読むうえでまず理解しなければならないのは、「言語」についてのChomskyの考えである。言語哲学において前提とされてきた「言語」とは、言語話者が共有可能な、個々の言語話者の使用を外的に規定する抽象的な存在者、公的言語(public language)である。ところが、ChomskyがNHにおいてしきりに批判するのは、まさにこの公的言語を無反省に措定していることに対してである。NHにおいて措定されている、あるいはChomskyが一貫して措定してきた「言語」とは、生物学的資質(biological endowment)として個々のヒトの心/脳に備わる言語機能(faculty of language)あるいは言語能力(competence)及び、言語機能により生成され成長していく内在的言語、すなわちI言語(I-language)である。ChomskyがNHにおいて主張しているのは、公的言語という常識的・直観的な支持しか得られていないような言語的概念ではなく、生物学的素地を持った言語的概念から始めるのが正しい言語理論構築の方向性だということなのである。「自然言語」の概念についてもChomskyは同様の不満を持っていると考えらえる。生成文法理論はもちろん自然言語を研究対象としているが、それは日本語や英語、中国語といったいわゆる個別言語ではない。言語研究がまず研究対象とすべきは、類似の生物学的基盤を持つ個々のヒトの心/脳に備わっている、「唯一の初期状態(the initial state)」と呼ぶことができるほどに類似した個々の言語機能の初期状態(initial states)であり、しばしば「普遍文法(the universal grammar)」とされるものである(pp. 77–78)。NHではほとんど検討されていないが関連する議論として、I言語に対するE言語(E-language)の議論がある。E言語とはI言語が外在化された(externalized)ものであり、日本語や英語のような異なる文法や規則を持った言語のことである。E言語における規範的言語規則・文法規則についての考察はI言語の研究に資する場合科学的に興味深いものとなるが、E言語のみに着目した議論は、歴史や文化、権威など様々な要因が複雑に絡み合った結果生じる偶然的な言語的特徴に目を向けることを意味し、言語の本質を捉え損ねる可能性が大いにある。これが従来の言語哲学的方法をChomskyが批判する最たる理由であり、それゆえにChomskyの目にはQuineやDummettの議論がひどく非科学的に映るのだろう。
Chomskyの言語の概念に関連して、Chomskyの「内在主義(internalism)」がいかなる立場であるかを理解することもNHを読むうえで重要である。言語哲学においてもSearleの記述説やDavid Chalmersの二次元意味論などが意味論的内在主義と目されるが(cf. Searle 1983; Chalmers 2002)、Chomskyの内在主義は言語哲学において検討されてきた内在主義とは一線を画す。言語哲学において議論されてきた内在主義とは異なり、Chomskyの内在主義によれば、「指示」や「外延」といった概念は意味論にとって「不要なもの」であり、Chomskyの言うところの「心的表示(mental representations)」や「意味論的性質(semantic properties)」は決して、「心的表象が世界を正しく表す」という見解や、「言葉が世界の事物に正しく対応している」といった見解に与するための概念ではない。この点を踏まえれば、なぜ心/脳の内在的性質あるいは計算的機能のみを基盤に意味論を構築できるとChomskyが考えるのか、そしてなぜ「心/脳の内的状態が指示対象を決定する」という見解に対するPutnamの批判や双子地球の思考実験がChomskyには的外れな議論に見えるのかがより明確に理解できるようになるだろう。
哲学という営みそのものに対するChomskyの考えについても理解しておく必要がある。Chomskyは一貫して科学者の立場から哲学に対し批判を展開しているが、この方法は一見すると的外れなものに見えるはずである。というのも、科学と哲学はそもそもその方法が異なり、科学と哲学の間でその方法について批判し合うのはただの水掛け論になりかねないからである。しかしChomskyの哲学批判の根底にあるものが「哲学固有の領域」に対する疑義だと考えれば、ChomskyがNHにおいて常に科学的方法を話題にすることに納得がいくはずである。常識や直観に基づく哲学的見解を批判する際、Chomskyは常識や直観が理論構築に対し何の役にも立たないことを指摘しているのではなく、それらを「根拠として」理論構築を試みることを否定しているのである。常識や直観は私たちにある種のデータを提供するとしても、それらがある理論の決定的な根拠として働くことはない(pp. 171–173)。これがChomskyによる哲学批判の根底にある考えなのである。
2. NHの批判的考察
前節で確認した通り、NHは言語哲学において当然視されてきた諸前提に疑問を投げかけており、評者はNHの議論の多くが言語哲学者によって深刻に受け取られるべきものだと考える。しかしそれと同時に、哲学的研究に対するChomskyの無理解に起因する誤解や誤りも多数あるように思われる。以下では三つの論点を検討しよう。
ChomskyはNHの様々な箇所で「万物の研究(study of everything)」という言葉を用いて哲学的研究を批判している(e.g. p. 41, p. 69)。Chomskyにしてみれば万物の研究は科学的研究にはなりえず、NHでは万物の研究を志すことが示唆されるような哲学的問いはすべて疑似問題であるかのように論じられている。しかしながらこの批判は必ずしも正しくないように思われる。第一に、Chomskyが万物の研究に帰着すると指摘したPutnamの言語的分業論(cf. Putnam 1975)は、Chomskyの指摘とは反対に意味論的研究の限界を示したものである。言語的分業に基づく外在主義的意味論において、多くの言語表現の外延は「他の科学的理論の助けを借りなければ決定不可能なもの」とされており、従って外在主義的意味論は従来の意味論的見解よりもある意味慎ましいものとなっている。第二に、Chomskyが「万物の研究」と呼ぶ営み自体がいかなることを意味しているのか明確ではなく、その批判が適切なものであるかどうかを判定するにはさらなる検討を要する。
次に常識・直観批判について検討しよう。Timothy Williamsonが指摘するように、哲学的研究、特に分析哲学における研究は、常識の力を借りつつも論理的方法を用いて世界のあり方の解明を目指している(Williamson 2018)。指示という概念について考えてみよう。この概念は科学理論を構築するにはあまりに素朴な概念であるうえに、確かにGottlob Fregeの「意義と指示について」以降主に言語哲学において用いられてきた概念であり、この意味で「指示」が哲学の専門用語と呼ばれるのは致し方ない。しかし、指示という概念に関する哲学的議論はもともと算術の論理的記述を目指した研究から始まり、「言葉が対象を表す」という常識的な考え方とそれに反する事例とを整合的に説明するための指示の理論が言語哲学において検討され洗練されてきたのである。指示の概念は「単なる言語上の問題」と「言語が世界を表すとはどういうことか」という哲学的問題の違いを明確にした概念でもある。双子地球の思考実験のような非現実的な議論もまた、意味と指示の関係性を明示化するために構築された論証であり、このような思考実験が従来の意味論的研究の誤り(あるいは不整合)を明らかにしてきたのである。
Kripke (1980)以降の指示の理論に対するChomskyの理解も十分ではないように思われる。例えば、ChomskyはKripkeによる本質の議論を取り上げ、「ニクソン」と「人間である」に本質的関係があると感じられるのは、「ニクソン」という語が「人間である」というカテゴリーを持った言語アイテムであるから、あるいは「ニクソン」が人物の名前として使用されているという事実があるからに過ぎず、形而上学的含みは存在しないと述べている(pp. 41–42)。しかしながらこの議論はさらなる検討を要する。私たちは「ニクソン」を人間以外の存在者の名前として使うことができ、したがって「ニクソン」が「人間である」というカテゴリーを持った語だとする必然性はないからである。
KripkeやPutnamが言語哲学に与えた最大の功績は、Rudolf CarnapやQuineなどの従来の哲学者が想定してきた以上に、私たちは「言語を用いて世界について語る」能力に長けているという洞察にあり、いわゆる「形而上学の復権」にある。Quine流の行動主義的言語観や、「世界への認知的アクセスが意味によって保証されなければない」といった過度な認識論的負担を言語理論に強いる傾向から脱却させた、「私たちと世界の直接的関係性こそが言語使用に先立っている」という洞察を意味論的外在主義者は支持しているのである。それゆえKripkeの議論に触発された言語哲学者たちにとって、Chomskyの指示の概念批判や外在主義批判が的外れに思われるだろう。Chomskyは従来の哲学のあり方、すなわち素朴な常識やアプリオリな直観にのみ頼る哲学的方法が現代の言語哲学の方法にも当てはまるかのように捉え批判しているが、実際はむしろ逆で、アプリオリには捉えられない世界の存在を前提することこそが健全な言語研究を進めるための第一歩であるというのが、Quineの「二つのドグマ」以降、そしてKripke (1980)のもととなったKripkeの1970年の講義以降さらに強固になった、言語哲学の教訓なのである。
とはいえ、Chomskyの哲学批判に対する上述の議論が正しいとしても、そこから直ちにNHの哲学的意義が損なわれることはない。当然のことながら本稿でChomskyの議論のすべてを網羅できるわけもなく、また本節での批判に対してもさらなる応答が可能に思われる。指示の理論に対する応答としては例えば次のように展開可能である。Chomskyは言語能力あるいは言語の知識(knowledge of language)と言語運用(performance)を峻別しており、この方針はNHでも維持されている。そのため、「言語を用いて世界について語ることができる」という指示の理論が前提とする事実はChomskyの内在主義にとって何の障害にもならない。指示の理論が可能だとすれば、それは言語運用を説明する一理論であると考えることができるからである(cf. Pietroski 2005, 2008)。また、「形而上学の復権」というのは哲学内部のムーヴメントであって、「指示のメカニズムを科学的に利用可能にできてこそ指示の理論と呼ぶにふさわしいのであって、それが不可能であるならば話にならない」とChomskyは応答するだろう。常識と直観の議論についても応答が十分に可能であると思われる。NHには、科学者の視点から「常識や直観を用いた分析哲学の方法」に対する根本的な(あるいは素朴な)問題提起がなされると同時に、近年盛り上がりを見せている「哲学者の直観」批判を発端とした実験哲学(experimental philosophy)にも通ずる議論が随所に見られる(cf. Machery et al. 2004; Mallon et al. 2009)。Chomskyの哲学的方法に対する批判は、先にも述べた通り、常識や直観のみを「根拠とする」哲学的議論のいかがわしさに起因していると考えられ、そしてこの批判は「世界を前提とした言語哲学的議論」に対しても依然として有効な批判であろう。
言語哲学に対し広範にしかも豊富な具体的事例を用いつつ批判が展開され、また言語哲学においてはむしろマイナーである内在主義こそが言語理論を構築する上で支持すべき立場であると主張するChomskyの議論は一考するに値する。特に、これまでの言語哲学の方法論に疑問を抱いてきた研究者にとって価値ある一冊であることは間違いないだろう。
3. NHの概要
Chomskyの過去の言語学的研究とNH出版当時の最新の研究の比較、およびNHの各章の紹介についてはすでにNHの序文においてNeil Smithが行っている。また、NHの各章はそれぞれ独立に執筆されたものであり、どの章から読んでもChomsky自身の立場が丁寧に記述されているため、読者は関心のある章から読み始めることが可能である。そこで本節では、NHの各章について、そのもとになった論文が執筆された背景や展開されている哲学批判を拾うことで、読者の哲学的興味・関心に合う章が見て取れるようにした。また、Chomskyが考案した豊富な事例の中でも特に有名なものを本節の最後で紹介している。生成文法の観点から意味論的外在主義がどのように批判されているのかを理解するための一助となるだろう。
第1章“New horizons in the study of language”では、人間の心/脳に生得的に備わる言語機能(faculty of language)の理論から内在的言語すなわちI言語の理論へ、そしてより野心的な内在主義的意味論に向けた試論へと至る流れが明快に記されており、Chomskyの「生物学的・心理主義的アプローチ」が概観できる。「心理主義」という言葉は分析哲学において敬遠されているあるいは嫌悪の対象でさえあるが、Chomskyの心理主義は少なくとも主観主義や観念論と結び付けられる類のものではない。Chomskyの心理主義は、人間が生物として共通に心/脳に持つ言語的構造こそが言語研究の対象であるという立場であり、普遍文法あるいは言語機能の初期状態という「生得的に人間に備わる資質」から始める生物学的アプローチである。この章ではさらに、自身の過去の研究と現在の最新研究である「ミニマリスト・プログラム(minimalist program)」の比較や、現代の言語哲学における指示的意味論の方法を批判しつつ自身の科学的方法に基づく意味論的見解を提示するなど、言語科学者としてのChomskyの思想を知るのにうってつけの章である。
第2章“Explaining language use”は、Philosophical Topicsの特集として組まれた “philosophy of Hilary Putnam”にChomskyが寄稿した論文であり、Putnamの意味論的見解や実在論的見解に対する批判的検討がなされている。ChomskyはPutnamによる心理主義批判に応答しつつ、逆にPutnamが支持する意味論的研究の困難を様々な観点から論じている。ChomskyのPutnam批判を要約するなら、「常識に基づく哲学的方法に対する批判」である。Chomskyによれば、Putnamの意味論的議論で挙げられている諸概念はどれも自然主義的探究の対象となるものではなく、複雑で人々の興味・関心に大きく影響されるような「常識的概念」についてのものでしかない。それに対しChomskyが進めるC-R理論(computational-representational theory)は、神経生理学等の分野により補完されることが望まれているという意味で自然主義的探究に属する理論であり、この章ではC-R理論がI言語や言語運用システムの理論に結びついていく過程が描かれている。公的言語に対する自然主義的観点からの批判や、Putnamの見解を含めた指示に基づく意味論一般に対する批判が展開されているだけでなく、Chomsky独自の内在主義的意味論の方向性が垣間見える点でもこの章は言語哲学的に興味深いものとなっている。
第3章“Language and interpretation: philosophical reflections and empirical inquiry”では、PutnamやQuineが提唱した意味の全体論への批判、Dummettの公的言語の議論への批判、そしてDavidsonの言語概念不要論の批判的検討がなされている。Chomskyによれば、全体論者は誤った仕方で言語理論を定式化してしまっており、結果としてPutnamの場合は誤った仕方で(あるいは理解不能な仕方で)「内在性仮説」が批判対象として措定され、Quineの場合は行動主義的ドグマから生じた「翻訳の不確定性(indeterminacy of translation)」の問題が真正の言語的問題であるかのように扱われてしまっている。Dummettの公的言語の議論については、公的言語を前提とした言語使用から言語的理論を構築する試みは自然主義的探究を不可能にすると論じ、BurgeやPutnamの外在主義をもやり玉にあげ批判している。Davidsonの議論については、その大枠を評価しつつも、コミュニケーションの観点から言語にアプローチする方法を批判し、自身の個人主義的言語理論がDavidsonの議論と整合的であると指摘している。最後には、「言葉の意味は言語的分業によって外在的に決定されている」という意味論的外在主義の具体的な議論にも言及しており、安易に「言語の誤用」や「規範」、「コミュニティ」といった概念を言語理論に適用する言語哲学的方法を批判している。
第4章“Naturalism and dualism in the study of language and mind”では、「方法論的自然主義(methodological naturalism)」が打ち出され、他の哲学的立場との比較がなされている。方法論的自然主義とは、心や言語を世界の一側面として措定し、それらを科学的研究の対象と見なす立場である。Chomskyは、哲学的営みと科学的営みを峻別する「方法論的二元論(methodological dualism)」やQuineの自然化された認識論の試みに対する批判だけでなく、「哲学と科学は連続的・調和的だ」とする一見すると穏健な自然主義的見解をも「形而上学的自然主義」と呼び批判的に検討している。また、この章では心の哲学における唯物論・物理主義の哲学的議論も検討されている。Chomskyによれば、Nagelが「ラディカル」と呼んだSearleの生物学的自然主義はむしろ「当然」の考え方であり、哲学において伝統的に議論されてきた心身問題は真正の問題として正しく定式化されたことさえない。Burgeの消去的自然主義やDavidsonの非法則的一元論に対しても、そもそも「物理的なものについての語り」と「心的なものについての語り」の区別に疑問を投げかけ、その区別自体が科学的探究にとって重要でないと批判している。Quineの物理主義に対しても興味深い批判を展開しており、心的なものを脳の物理的状態に還元しなければならないという考え方がそもそも心身問題の枠組みに囚われていると指摘している。この章の最後には、規則遵守に基づく言語理論やQuineの行動主義的アプローチなどもある種の方法論的二元論の一種だとし、どの見解も言語研究の実際を捉えられていないと批判している。
第5章“Language as a natural object”及び第6章“Language from an internalist perspective”は、意味論的内在主義の立場が積極的に打ち出されたChomsky (1995)がもとになっている。第5章の前半部分では言語を科学的に研究するとはどういうことかについて様々な観点から検討されている。Chomskyによれば、人間の心/脳に内在的(internal)、個人的(individual)な言語であるI言語こそが言語研究が対象とする「言語」であり、I言語として成長する言語機能の初期状態は人間という生物種に共通するという意味で、「自然的対象」と呼ぶに十分な資格を持っている。また、この章の後半では「意味論的性質」あるいは「意味素性(semantic features)」の内在主義的理解についても様々な事例をもとに検討されており、Chomskyが「意味論的研究」と呼ぶものがいかなる取り組みなのかを理解するうえでも重要な章となっている。
第6章では、指示あるいは「言葉と世界の関係(word-world relation)」を主な標的とした批判が展開されている。特にPutnamが提唱した双子地球の思考実験については、哲学においてのみ通用する(と少なくともChomskyは考えている)専門用語を用いた議論への批判や、双子地球の思考実験を想定してもChomskyの内在主義的言語理論に何の影響も無いことが指摘されている。また、第2章のもととなったChomsky (1992)に対するPutnamの応答(Putnam 1992)にも言及されており、常識からアプローチする哲学的方法を批判しつつ、ここでも一貫して科学者的立場から言語理論を構築するとはどういうことかについての持論を展開している。意味論的内在主義と意味論的外在主義の論争において前提とされてきた「言葉と世界の関係」というものが意味論的研究において自明な前提でないことがより明確になっている点でも、言語哲学の特に意味論分野において意義のある章となっている。
第7章“Internalist explorations”はBurge (2003)にChomskyが寄稿した論文であり、Burge (2003)にはBurgeによる応答も収録されている。ただし、この章の主な標的はBurgeの外在主義ではなくPutnamの外在主義であり、第6章に引き続き双子地球の思考実験や、Putnamの内在性仮説及びMIT心理主義に対するPutnamの批判が詳細に検討され、そのすべてが内在主義の立場から斥けられている(Burgeの外在主義的議論についてはこの章の最後に少し触れられ、Burgeの思考実験とChomskyの内在主義が問題なく両立可能であることが簡潔に示されているのみである)。この章はChomskyの内在主義的意味論の方法がさらに明確化されており、意味論が心/脳の計算的機能の観点から説明されるべきであること、それゆえ言葉と世界の関係の解明が意味論の中心的課題ではないこと、「常識」に基づく見解は言語理論たりえないことなどといった思想的背景を含め、Chomskyの意味論的内在主義の全体像が把握できるようになっている。
最後にNHで挙げられている事例の中でも特に有名なものをいくつか紹介しよう(ただし、いくつかの事例はNHのもととなった論文が初出ではないことを断っておく)。「「平均的な男性(average man)」という語はいかなる対象を指示するのか」という、指示的意味論に対する批判でしばしば用いられる事例は、NH第2章及び第6章で言及されている。また、意味論的外在主義を批判するためにしばしば用いられる事例として、「川の水のようにH2Oの純度が比較的低い液体を「水」と呼ぶにもかかわらず、H2Oより純度が高い水から作られた紅茶が「水」とは呼ばれない」という「不純さ(impurity)」の事例があり、これはNHの第5章、第6章、第7章で述べられている。分析性と総合性の区別をChomskyが擁護する議論は第3章で確認することができ、特に分析性と総合性の区別を統語的構造の観点から擁護する議論は興味深い。照応的関係から指示の概念を批判するために考案された「「本」の指示」の事例は第2章や第7章にあり、指示的意味論に対する主要な批判の一つと目されている。「「本」の指示」の事例と同様に指示の概念に対する批判としてしばしば取り上げられるものには「「ロンドン」の指示」の事例もあり、これは第2章と第5章で確認することができる。
「おわりに」にかえて―NH以降の動向
NHに収録されている一連の論文には、「生成文法の観点から意味を研究するとはどういうことか」に関する言語哲学的・科学的背景が詳細に記されており、生成文法の研究者たちに影響を与えている。Paul Pietroskiは、Chomskyの意味論的議論を洗練させ、真理条件的意味論の問題点を指摘しつつ内在主義的意味論の構築を試みている(e.g. Pietroski 2005, 2008, 2018)。特にPietroski (2018)では現在最も洗練され体系されたChomsky流の内在主義的意味論の構築が試みられており、Pietroski (2018)を手本とした内在主義的意味論のさらなる進展が期待される。John Collinsは、公的言語や意味論的外在主義といった言語哲学において支配的な概念や立場に対し、Chomskyの議論を手がかりにその前提を掘り崩し、内在主義的意味論のほうが理論的に優れていることを示そうと試みている(e.g. Collins 2009, 2010)。PietroskiやCollinsよりも科学的傾向の強い生成文法研究者による議論としてはLohndal & Narita (2009)があり、内在主義こそが科学的言語理論構築の方法として適切であると論じられている。
日本においてもChomskyの議論に触発された意味論的内在主義の研究が進み始めている。阿部 (2017)では、NHの重要性が強調されつつ、生成文法研究者の立場から意味論的内在主義について検討されており、またChomskyの言語哲学に関する議論だけでなく心の哲学に関する議論も検討されている。2019年には、Chomsky: Ideas and Ideals (3rd edition)の中でも特に言語が扱われている第1章から第4章までの邦訳が出版され、Chomskyの内在主義的言語観及びその主要概念に関するSmithとNicholas Allottの解説を日本語で読むことができるようになった。植原 (2017)では、Chomskyの生物学的・心理主義的アプローチを支えている「言語の生得説」の議論について自然主義の観点から検討されおり、生得説と経験説の論争についても詳しく解説されている。
意味論的外在主義を支持する哲学的立場は暗黙的なものも含め無数にあるが、古典的な研究としては、双子地球の思考実験が考案された意味論的外在主義の記念碑的論文であるPutnam (1975)や、Putnamと同時期に外在主義を推進し「反個人主義(anti-individualism)」を提唱したBurge (1979)がある。また、八木沢 (2011, 2013)では意味論的外在主義の議論が明快な語り口で展開されており、言語哲学になじみのない読者も意味論的外在主義の魅力が容易に理解できるものとなっている。
言語研究を含めChomskyが展開してきた諸見解に対する批判が多数存在することは知られているが、意味論的内在主義を批判する議論はそれほど多くない。この原因はいくつかあると思われるが、二点あげておこう。(1)言語哲学において意味論的内在主義と外在主義の論争はすでに「決着がついた」ものであり、大半が意味論的外在主義を前提とした言語哲学的研究になっているから(cf. Pietroski 2018)。(2)Chomskyの議論は言語「科学」の視点からのものであり、言語哲学研究にとって深刻な批判には見えないから(cf. Stone & Davies 2002)。それでもなお、Chomskyの意味論的内在主義に対する言語哲学者からの応答はいくつか存在する。Kennedy & Stanley (2009)では、NHのChomsky 1995に当たる第5章及び第6章部分の検討が不十分であることは否めないものの(cf. Stoljar 2015)、「平均的な男性」といった表現に関わる指示的意味論の困難を回避する方法が提案されている。Daniel LassiterはChomskyの言語についての個人主義的見解を支持しつつも個人主義は意味論的外在主義と両立するという議論を展開し(Lassiter 2008)、またLohndal & Narita (2009)におけるLassiter (2008)への批判にも応答している(Lassiter 2009)。意味を心/脳の一機能として位置づけようと試みる立場として「意味論的ミニマリズム(semantic minimalism)」を標榜するEmma Borgは、意味論的ミニマリズムは必ずしも意味論的内在主義である必要はないと論じ、理論的負荷のないよう定式化された真理によって意味論を構築する提案をしている(e.g. Borg 2004, 2009)。Jeffrey Kingは、Chomskyの指示的意味論批判の中でも有力視されている諸事例に対し応答を試みている(King 2018)。
NHは出版されてから20年が経過しており、現在の分析哲学のスピード感に鑑みるとやや古い印象を受けるかもしれない。しかし先にも述べたように、NHには現在でも通用する哲学的議論が多数存在しており、擁護者か批判者かを問わず、多くの哲学研究者に対し哲学の方法を顧みる機会を与えるはずである。
謝辞
本稿の構成と内容に関して、葛谷潤氏及び濵本鴻志氏から有益なコメントをいただき、本稿の拙い議論の多くが改善された。お二人に感謝を申し上げる。また、初稿の段階でTARB編集委員の飯澤正登実氏及び横路佳幸氏からもコメントをいただき、議論の危うい箇所や非哲学系の読者への配慮不足を改善することができた。感謝を申し上げる。
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- ニール・スミス & ニコラス・アロット (2019). 『チョムスキーの言語理論:その出発点から最新理論まで』. 今井邦彦, 外池滋生, 中島平三, 西山佑司訳, 新曜社.
- 八木沢敬 (2011). 『分析哲学入門』. 講談社.
- 八木沢敬 (2013). 『意味・真理・存在―分析哲学入門(中級編)』. 講談社.
出版元公式ウェブサイト
ケンブリッジ大学出版局
評者情報
仲宗根 勝仁(なかそね かつひと)
大阪大学非常勤講師、理化学研究所革新知能統合研究センター特別研究員。専門は言語哲学・意味論で、現在は特にヘイトスピーチやプライバシーの研究に従事。主な研究業績は、「意味論的内在主義の擁護に向けて」、『メタフュシカ』、2016年(単著)、「ヘイトスピーチ―信頼の壊しかた」、『信頼を考える―リヴァイアサンから人工知能まで』第12章、2018年(共著)、「日本語のプライバシーポリシーにおける文脈完全性に基づいた情報抽出の一検討」、CSS2020、2020年(共著)など。
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