Tokyo Academic Review of Booksonline journal / powered by Yamanami Books / ISSN:2435-5712

2022年4月25日

上田篤『日本都市論』

三一書房,1968年

評者:宮下 貴裕

Tokyo Academic Review of Books, vol.46 (2022); https://doi.org/10.52509/tarb0046

はじめに

本書は建築学者の上田篤(1930-)が1968年に出版した単行本で、1960年代に雑誌や新聞に発表された論考をまとめたものである。残念ながら現在は絶版となっているが、古書として多く流通しているため、入手は可能である。上田は多様な視点から都市や建築に関する理論と実践を展開してきた研究者で、建築学・都市計画学を専門としながら、文化・宗教・神話など幅広い分野について論じてきた稀有な存在である。本書を刊行した当時は京都大学建築学科助教授の職にあった。

50年以上前に発表された言説を今回改めて取り上げたことには無論理由がある。評者は本書を戦後の都市論のコンテクストにおける重要なターニングポイントを示すものであると捉えている(改めてここで都市論のコンテクストの整理はしないが、「文献案内」欄でそれらを把握できる文献を紹介することとする)。それは上田篤という一人の研究者が構築してきた議論のコンテクストという個人的なスケールにおけるエポックであると同時に、戦後のわが国の都市に対する日本人の問題意識と空間像という極めて大きなスケールの議論におけるエポックでもあったと考えている。本書が発表された1960年代は安保闘争や学生運動のうねりが生まれた「政治の季節」であり、日本人は常に「われわれは何者であるか」「われわれが住む都市はどんな存在であるか」と、自分自身と自らが身を置く都市という環境のあり方を模索していた。そのような時代に、『日本都市論』という極めてシンプルなネーミングの本書は、まさに「日本の都市を真っ向から論ずる」ものとして世に問われたのであった。

要約

本書は「1章 日本都市論」、「2章 空間の論理」、「3章 文化財の保存」、「4章 万国博の会場計画」、「5章 日本の土地問題」の5章構成となっている。以下ではその中で論じられているテーマごとに内容の整理を行いたい。

①「日本の後進性」批判への反論

本書全体のタイトルにもなっている「日本都市論」と名付けられた第1章は、筆者が最も主張したかったテーマを扱っていると考えられる。「私は、前々から、『日本の都市』ということを考える。日本の都市は、西洋の都市に比べて、本源的にかなり異なったものではないか、と思われてならないのである」という章の書き出しには、その後の長きにわたる研究にもつながる上田の問題意識が詰まっている。戦後、特に1960年代まで、わが国では進歩的文化人と呼ばれた論壇・学会のオピニオンリーダー達によって、日本社会の特殊性が指摘されていた。それは「先進的な欧米諸国」に対する「後進的な日本」、「民主主義・市民社会が成熟した欧米諸国」に対する「封建社会が残存した日本」という構図で語られ、このような状況が社会の「近代化」を阻害しているという主張であった。しかし上田はこのような社会分析に対し異を唱えている。確かに章の書き出しにもある通り、上田は日本の都市の特殊性を強く認識していたが、それは進歩的文化人のように欧米諸国を理想と位置付けてわが国の状況を批判するのではなく、これらの国々が成し遂げてきた「近代化」の過程で捨て去られてきた大切なものをわが国の社会に見ていたのである。

まず上田は、西洋の都市に見られるような「コミュニティ」がわが国では形成されていないとする、当時よく見られた議論に注目している。行政当局が実施する都市計画事業において住民側との軋轢が数多く見られるのは、日本の都市にコミュニティが存在しないことによる共同社会意識の希薄さが要因であると多くの専門家が分析していた。例えば政治・経済・都市工学分野の専門家が集結して刊行された「都市問題講座」シリーズの『都市問題講座7 都市計画』(有斐閣, 1966)では、アジア的後進性を温存しながら経済の高度成長を果たしたわが国において、住民の都市環境への関心は依然として低く、公共意識を持った「近代的市民」の誕生とコミュニティの獲得が求められると指摘されている。しかしこれに対し上田は、欧米諸国に見られるような都市に対する強い帰属感と公共への義務を負うという意識に基づいたコミュニティがわが国に存在しないのは事実であるが、日本人が都市空間に対する関心を有していないわけではないと主張し、都市全体の問題については関心を示さないとしても、自身が生活を送る近隣空間に対する興味は有していると述べている。

「どんなまちにも『町内会』が存在するのは、その一つのあらわれといえる。『町内会』を通じて、道路の舗装、街灯の設置、下水の改良などの陳情がなされる。さらに、雨が降ったらすぐ水がつき、自動車がひっきりなしに通って交通事故をおこすというときには、町ぐるみ、防災運動や自動車事故撲滅運動などの自衛運動を展開しているところもある。これは、規模は小さくとも、市民の都市計画運動にほかならない。(中略)市民はけっして都市計画に不熱心でも、都市を愛していないのでもない。ただその対象とする範囲が、都市全体か、自分たちの身のまわりのことかの相違にあるのではないか。そしてそれは多分、都市の成立の契機や都市の社会性の相違、国土の自然的条件の制約によるものではないか。」(42-43頁)

これらの主張は、市民社会やコミュニティの不在という状況からわが国の都市の後進性を指摘する各分野の議論に対する反論であり、「西洋の都市をお手本にし、その都市計画理論にしたがって、一日も早く、西洋的近代化を進めなければならないと単純に考えることは、どうかと私は思う」と述べている。

②近代都市計画の限界

上田は欧米で確立された近代都市計画理論の一つとして地域地区制(ゾーニング)に言及し、空間を機能によって分離するこの制度の積極的な導入がわが国でも議論されていることに対して警鐘を鳴らした。わが国は、狭い国土に多くの人が住み、小さな土地・敷地を多くの人で共有している「高密度社会」であり、それゆえに「一つの空間に多くの機能をもたせる複合機能空間」が都市の中に多く生み出されてきたと考察されている。

「元来日本の生活空間というものは、日本の国土がかぎられているところから、いかに集積の利を高め、そしてそのための不利をなくすかということを考えてきた。空間の量的拡大よりも空間の質を高めるという方向に進んできた。一つの空間に多くの機能をもたせる複合機能空間ということが、日本の空間一般にみられるのもそのためである。押入一つで、居間にもなれば寝室にもなる日本住宅の居室、子供の遊び場にもなれば、物売りも通り、夕涼みの場にもなる日本の道などはその代表的な例である。」(46頁)

ここで注目しているのが、都市における「機能の混在」の意義を主張するJ.ジェイコブズの『アメリカ大都市の死と生』(The death and life of great American cities, Vintage Books, 1961)である。上田は彼女を「用途地域制がもたらしたアメリカの都市の惨憺たる結果をこと細かに論及している」著書であるとして評価し、アメリカの都市の現状について「機能の混在による空間の混乱を救いはしたものの、単一機能しかもたない空間のいかに味気ないことか」という印象を述べている。地域地区制に見られる機能の分離や統一を推進する方向性は土地の用途のみならず道路に関する議論にも影響を与えることが考えられ、「道路に自動車が通りだすと、いままでみちの上でおこなわれていたさまざまな生活が追いやられて、自動車の通行というこれまた単一機能だけが空間にのこされる」事態にもつながると考察している。上田はこの用途地域制に代表される西洋の近代都市計画理論が「複合機能空間」を多く有する日本の都市に適合するものであるかは大きな疑問であると述べ、わが国の都市空間の特性に注目した議論がより多く展開されることが求められるとしている。

1961年にアメリカで発表された『アメリカ大都市の死と生』はわが国でも都市論のバイブルとなったが、この段階でまだ翻訳版は出版されておらず、上田は原文で読み大きな刺激を受けたものと考えられる。なお、本書が出版された1968年に新しい都市計画法が制定され、結果的に8つの区分による用途地域制が導入されることとなった。

③大阪万博「お祭り広場」の計画

本書の後半では、1970年に開催された(本書が発表された段階ではまだ準備期間)大阪万博会場計画が紹介され、一種の「都市デザイン」とも言える会場設計作業の立案プロセスに言及しながら、わが国の都市に求められる機能とデザインについて論じている。

上田は1965年の京都大学着任直後から、1970 年に開催される大阪万博の関西における準備チームに大学を代表して参加した。同大学の西山卯三をトップとした京大グループは1965年11月から「70 年万国博会場計画に関する基礎調査研究」に着手し、丹下健三をトップとする東京大学グループと共同で万博の会場計画の立案を担当することとなった。これらの作業では若手メンバー筆頭格として京大の上田、東大の磯崎新らが議論をリードし、万博の象徴となった「お祭り広場」では、丹下が大屋根、上田が広場空間と観覧席、磯崎がロボットの設計を主導した。

当時、国内では万博の開催に批判する議論も多く見られた。上田はこのような動きについて、通信衛星やマスコミュニケーションの発達した現代に、多くの人々を一か所に集めて見世物を開催することに対する疑問という、万博自体の意義に関する批判が一つあり、他方で公共事業の不均衡などによって地域格差が拡大することを懸念する声や、若干の外貨獲得を除いて国全体の富を大きく増加させることにはつながらないという予測など、万博の開催がわが国に与える悪影響を主張する批判も存在すると整理している。その上で上田は、「万国博のような人間の直接コミュニケーションの場をつくるということは、科学技術がいかに進歩しようとも、人間社会にとって必要なものである」として、万博開催の意義を強調した。そしてその「直接コミュニケーション」が展開される場として構想されたのが「お祭り広場」であると述べた。

「人間どうしの接触の楽しみが、『ブラウン管人間』との接触の楽しみよりも、大きな喜びを人びとにもたらすものであることが知らしめる新しい時代の『まつり』、人間交歓の形式が考えだされ、そしてそのための新しい『ひろば』が計画されねばならない。それによってはじめて、単なる産業見本市とは異なる、人びとの主体的な参加による『まつり』としての、新しい時代の万国博の意義が存在することとなるのである。」(184頁)

科学技術、マスコミュニケーションの発達した今日においては「人間疎外」の状況が進行しつつあり、その中で人間同士の新しい交歓の場「ひろば」を日本の都市に生み出すとすれば、それは「まつり」を媒介した空間となるであろうというのが上田の認識であった。これはわが国の都市に西洋的な意味における広場が歴史的に存在しなかったことを踏まえたものであり、ひらがなで表現された「ひろば」は、これまでの欧米諸国に見られた広場よりも広義で、より多くの機能を内包した空間をイメージして用いられている。本書全体を貫いている、「西洋かぶれ」ではないわが国独自の都市像・生活像を模索する姿勢を、大阪万博の会場計画にも反映しようと試みていたのである。

コメント 日本の都市における「ひろば」の可能性

このように上田は、様々な分野で市民社会の形成や西洋的コミュニティ構築の必要性を主張する議論が多く見られる当時の社会状況と、「西洋の近代都市計画理論を機械的に信奉する人々」の多さに対して疑問を呈し、そのような意識の下で都市を論じている限り、わが国の文化や環境を踏まえた生活空間像を描くことは難しいという認識を示した。そして単にこのような世相を批判するだけでなく、わが国の都市が有している課題を冷静に指摘し、さらに既存の都市環境に存在するポテンシャルをも示してみせている。その補助線として持ち出しているのが「ひろば」という概念である。冒頭で述べたように、上田は建築学・都市計画学の見地からあらゆるテーマを論じた幅の広い研究者であるが、特に1960年代から1970年代にかけては、建築などの小さなスケールから国土といった大きなスケールに至る様々な議論の至るところに「ひろば」という言葉が登場する。上田はこの概念を通して、わが国特有の空間イメージの存在を展示しようと試みていたと考えられる。

1960年代当時、日本の都市に不足している空間としてよく指摘されていたのが広場であった。西洋のあらゆる都市に見られる広場は民主主義の象徴であり、市民社会の中心をなす空間であるとみなされていた。実際に戦後、多くの建築家は公共施設や文化施設の設計に際し「〇〇広場」と名付けたオープンスペースを設け、都市の中に「民主的空間」を創出しようと意気込んだ。このような認識は建築学以外の分野でも共有され、マルクス主義者の歴史家・羽仁五郎が本書と同年の1968年に発表し、学生運動に参加する若者たちの必読書になった『都市の論理』(勁草書房, 1968)でも、その意義が強調されている。わが国では、歴史的に広場という空間を都市に持たず、西洋の都市計画理論が輸入された近代以降も、交通機能が主である「駅前広場」を除いて、西洋的な意味における広場はほとんど存在しなかったことは事実である。

これに対し上田は、西洋に見られる都市の中心に整備された実体的な広場は確かに存在しないが、わが国でも「地域社会生活の中心ともなるようなさまざまな『ひろば』的生活空間」を道路・社寺境内・河原などに見出すことができると主張している。これらは「都市」という大きな単位ではなく「まち」という近隣単位を基盤として成立しているもので、現代の都市計画においては注目されていないわが国の地域社会の特性を反映した空間領域であると上田は認識していた。また上記のような西洋の広場のイメージをそのままわが国の都市空間に導入することに対しても疑問が呈され、「『ひろば』というもののイメージを、西洋式の公共広場というように限定せず、もっとひろく、市民がさまざまな生活をする上での物資や情報の交換の場というように定義づけると、現在の日本の都市にある多くの飲食店や商店街、アーケード、デパート、ターミナルなども、市民の『ひろば』的空間といえないこともない」と考察している。商行為や消費行動を介して多くの人々が集うという行動様式は西洋の都市のそれと比較しても劣るものではなく、背景は異なっていても人間の集合という特徴はこれらの広場と共通するものであることから、今後の都市計画は「消費マーケットを中心とする日本の『ひろば』的空間の発達」の歴史に注目し、そこに価値を見出していくべきであると主張している。そしてこれは、狭い国土に多くの人間が済み、一つの空間が複数の機能を有する形で発展してきた「高密度社会」とも言えるわが国の都市の特徴でもあり、一つの空間に一つの機能のみを与えることを前提とした西洋の近代都市計画理論を無条件に受け入れるだけでは見落としてしまう価値であると認識していた。

後にこのような議論は、建築史家の伊藤ていじが磯崎新をはじめとする若手建築家・研究者とともに結成した都市デザイン研究体が発表した「日本の広場」(建築文化26(298), 彰国社, 1971)でも行われ、「日本の広場は、『広場化することによって存在してきた』のである」という現在の公共空間論でも引用される有名な定義づけがなされている。上田や伊藤らが示したこれらの視点は、現在では自明なこととして認識されている。しかし戦後しばらく、彼らが注目したこれらの近隣空間や歴史的な行動様式はわが国の都市の前近代性・後進性を示すものであると捉えられ、また急速な都市化の流れの中で喪失の危機に瀕していたのであった。1960年代後半という高度経済成長期真っ只中に展開された上田の議論は、これまでの建築家や都市計画家、西洋の価値観や理論を信奉する進歩的文化人が見落としていた身近な環境の価値に改めて目を向けさせる大きな意義を有していたと言えるのではないだろうか。

大阪万博の会場計画において設計した「お祭り広場」は、そのような問題意識を実際の空間として表現する絶好の機会となった。上田は後に「お祭り広場」の設計プロセスを振り返る中で、小豆島にある亀山八幡宮の境内に設けられた「お旅所」という桟敷からインスピレーションを受けたと語っている。ここは歴史的に地域の祭りや神楽、農村歌舞伎など様々な催し・儀式の舞台となり、境内のオープンスペースで演じる人々とそれを桟敷から眺める観客の「見る-見られる」という関係性が構築され、時にはその垣根を越えて入り乱れることもあるという、実に多様なアクティビティが生まれる場所であった。上田は「人間が人間を観る。それが『お祭り広場』における最大の『催し物』なのではないか」(人間の土地, 鹿島出版会, 1972)として、世界中から様々な人が集まる万博の会場にこれを生み出したいと考えたのであった。

本書が発表された翌年の1969年、わが国における広場のあり方が問われる大きな出来事があった。国鉄新宿駅の西口地下広場で反戦フォークゲリラ集会の参加者と機動隊が激突し、結果的に彼らは排除され、集会は事実上禁止状態となったのである。坂倉準三が設計したこの広場は東京都の土地であったが、排除の際に突如として「西口地下広場」から「西口地下通路」に名称変更され、「道路交通法が適用される都道であるから立ち止まってはいけない」という論理が適用された。これが市民社会の実現を謳った美濃部亮吉の革新都政下で行われたことも衝撃を与え、「やはり日本に広場はなかったのだ」という議論が呼び起こされた。確かにこの一件は、上田が論じたところの狭義の意味における「(西洋的な)広場」がわが国に根付いてないという事実を露呈させた。実際その後も様々な都市に「広場」と呼ばれる空間が生み出されたが、市民による意思表示の場、政治参加の場として用いられたことはほとんどなかったと言えるだろう。

だがその一方で、上田が主張した「ひろば」の存在とその価値は、現在多くの人々の認識するところとなった。既存の道路空間やオープンスペースの多様な活用が実践されるようになり、ここ数年はコロナ禍において屋外空間の可能性が再認識されたことも相まって、国や自治体の法制度や事業にも変化が見られている。長きにわたる議論を経ても私たちはついに「広場」を獲得することはできなかった。しかし1960年代から上田をはじめとする様々な専門家が注目してきた「ひろば」は、これまで日本の都市の様々な場面で発見され、また新たに生み出されてきたのである。そのようなコンテクストの出発点を示すものとして、『日本都市論』は大きな歴史的価値を有していると考える。

文献案内

私たち人間が身を置き生活を展開する「都市」という環境は様々な学問分野で注目されるテーマであることから、それらに関する議論を一体的に捉えて整理している文献は少ない。その中でも横浜国立大学都市科学部が刊行した『都市科学事典』(春風社, 2021)は、社会科学・人文科学・自然科学といった分野の垣根を越えて「都市」の空間・生活・思想を網羅した貴重な文献である。

上田は、長年にわたり日本の都市環境の解読・解釈、評価、あり方などに関する様々な研究を展開してきているが、今回取り上げた日本の都市の特殊性や「ひろば」に関する議論は、以下の文献に多く示されている。共著となっているものは京都大学の研究室で取り組んだ研究成果である。わが国の都市を一方的に持ち上げるのではなく、欧米都市のフィールドワークで得たデータなどとも比較しながら、その特徴・意義・課題を客観的に論じている。

  • 上田篤・榎並公雄・高口恭行(1970)『フィールドノート 都市の生活空間』NHKブックス
  • 上田篤責任編集(1972)「特集 義理の共同体」都市住宅7210, pp7-68
  • 上田篤(1974)『人間の土地 生活空間のモノグラフ』鹿島出版会
  • 上田篤編(1976)『町家 コミュニティ研究』鹿島出版会
  • 上田篤(1983)『ラビリンスの都市』中央公論新社
  • 上田篤(1984)『都市の実験』文藝春秋

参考文献

  • J. Jacobs(1961)『The death and life of great American cities』Vintage Books
  • - J.ジェイコブズ(2010)『アメリカ大都市の死と生』鹿島出版会
  • 都市デザイン研究体(1971)「特集 日本の広場」建築文化26(298), pp73-172
  • - 都市デザイン研究体(2009)『復刻版 日本の広場』彰国社

出版元公式ウェブサイト

三一書房

出版社公式ウェブサイト上に該当ページなし

評者情報

宮下 貴裕(みやした たかひろ)

武蔵野大学工学部建築デザイン学科 助教/慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科 特任助教
1990年静岡市生まれ。慶應義塾大学総合政策学部卒、同大学大学院政策・メディア研究科修士課程修了、東京大学大学院工学系研究科都市工学専攻博士課程修了。博士(工学)。東京大学大学院工学系研究科特任研究員を経て現職。専門は都市計画、都市デザイン。著書に『時間の中のまちづくり 歴史的な環境の意味を問いなおす』(共著、鹿島出版会)など。

ウェブサイト:https://www.urbanismlab.net/

researchmap:https://researchmap.jp/t.miyashita

Facebook:https://www.facebook.com/takahiro.miyashita.10