2023年6月24日
曹峰 『中国古代「名」的政治思想研究』
上海古籍出版社, 2017年
評者:河合 一樹
はじめに
本書はその題目の通り、中国古代の思想を主題とするものであり、具体的には先秦のいわゆる諸子百家の時代における「名」の問題を扱うものである。それに対して、評者の専門は日本近世思想史であり、主に江戸時代の儒学や国学などについてこれまで研究してきた。日本思想を扱うにあたっては中国思想を踏まえることが不可欠であるとはいえ、中国思想について高度に専門的な知識を有している訳ではない。それにもかかわらず、何故本書を取りあげようとするのかということを最初に述べておいた方がよいだろう。
評者が本書を読んだのは、自らの江戸時代についての研究の参考にするためであった。後に詳述するように、評者の関心の一つに江戸時代における「正名」の思想史がある。もともと『論語』子路篇に由来する「正名」という言葉が江戸時代にある種の流行語となり、思想史上重要な役割を果たした。この問題について考えるにあたって、大本である中国の「正名」について理解するために何冊かの本を手に取った。本書はその中でも新しく優れた成果であり、興味深く読むことができた。中国における「名」の問題を新たな視座から捉え直そうとする姿勢には共感するところがあったし、日本思想をより広く東アジア的な視点から捉えようとする際に踏まえなければならない研究であると思った。
とはいえ、中国古代と日本近世の隔たりは大きい。本書の内容が直接的に江戸時代に繋がっている訳でもなければ、日中2300年に渡る壮大な思想史を一朝一夕で描き出すことも当然ながら不可能である。評者にとって本書は気にはなりつつも、せいぜい参考文献に挙げるだけでその内容まで立ち入ることはできず、中途半端なまま放置してしまっている研究であった。そのため、今回書評を書く機会を頂いた際に、是非とも本書を取りあげて紹介するとともに、隣接領域の研究者としての漠とした感想をいくらかでも整理してみたいと思い至った次第である。
研究を書籍としてまとめ出版するということには、狭義の専門家だけではなくより広い人々に成果を届けるという目的もあるだろう。そのことを顧慮するならば、本書を受け取った門外漢の一人として感想を述べることも全くの無意味ではないだろう。細部について詳細に批判検討することはできないが、その代わりに本書が指し示す新たな議論の方向に多少なりとも彩を添えることができれば幸いである。
内容紹介
少し前置きが長くなったが本書の紹介へと話を進めよう。本書は現在中国人民大学教授を務める曹峰が2004年に東京大学に提出した博士論文をもとに新たな論考を加え中国語で出版したものである。日本で提出された博士論文であるため国会図書館に日本語版が所蔵されているが、評者は未見である。ただし、インターネット上に公開されている審査記録には目を通した。本書評における日本語の表現はそれを踏まえた上での拙訳である。
一、題目の意味する所
本書の題目の意味は漢字を見れば概ね明らかであると思われるが、一応日本語で言えば『中国古代における「名」の政治思想的研究』ということになるだろう。一見すると研究書の題目としてごく平凡なものに思われるかもしれないが、実はこの題目に既に先行研究に対する挑戦的な態度と新たな研究の在り方への眼差しが示されている。というのも、著者自身が序言において述べているように、「今日までの「名」に関する研究は、ほとんどすべて論理や言語、知識論の領域ばかりを重視して(8頁)」おり、中国古代における「名」を巡る議論が持っていた政治的・倫理的な側面が充分に注目されていなかったからである。
近代中国において「名」がもっぱら論理との関係で論じられることになった背景には、西洋列強によって圧迫されていたその時代状況がある。科学技術や社会制度のみならず、思想についても西洋を基準として問い直されることになった。その際に問題となったのは倫理や政治の問題よりも論理の問題であった。というのも、当時の中国の知識人たちにとって、中国の伝統の中に倫理や政治に関わる思想があることは明白であったが、西洋のような論理は一見すると欠如しているように感じられたからである。そのため、多くの人物が中国古典の中に西洋の論理に相当するものがないかと探し求め、その結果見出されたのが名家の思想であった。そのような問題の構成からして必然的に「名」を巡る研究は論理を中心としたものとなり、倫理的・政治的な側面は軽視されることになった。
しかし、中国古代における「名」の問題は論理的内容だけに留まるものではない。著者は当時の議論の隆盛を示すために、冒頭から孔子、墨家、『老子』、『公孫龍子』、『管子』、『荀子』、『韓非子』、『申子』、『尸子』、『黄帝四経』、『呂氏春秋』、『尹文子』、『春秋繁露』、『鄧析子』といった多くの人名・書名を列挙し、それらにおいて論じられた「名」の問題には二つの系統があると述べる。すなわち、「事実判断」に関する論理学・認識論の問題と「価値判断」に関する倫理的・政治的な問題である。そして、それに対応する形で「認識型名家」と「政論型名家」が区別される。
この両者を総合的に捉えるのでなければ中国古代における「名」の問題を正しく描き出すことはできないが、従来の研究は論理の面に偏っていた。そのような近代の研究の在り方に対する反省の上に新たな視座からこの問題を扱おうという態度が『中国古代「名」的政治思想研究』という題目に示されている訳である。池田知久が本書序文で「二十一世紀になってようやく可能となった研究」であると述べ、荀東鋒が「「新名学」と呼ぶに相応しい成果」と評するのも肯われるところである[荀東鋒2018]。
二、本書の構成
さて、では中国古代における「名」の思想史とはどのようなものなのだろうか。その点を巡って具体的な内容に立ち入る前に、題目の意味を説明し終えたこの段階で目次を示して本書の構成を見ておきたい。
序言 思想史への回帰―先秦名学研究の新たな道
上編 「名」に関する各種の政治問題
第一章 「名」に関する政治禁忌
第二章 政治思想としての「形名」論・「正名」論・「名実」論
第三章 二種の名家
第四章 「名」と「法」の接点
下編 個別の分析と研究
第一章 孔子「正名」新考
第二章 『荀子』「正名」新論
第三章 『管子』四篇と『韓非子』四篇に見える「名」思想研究
第四章 『黄帝四経』に見える「名」思想の研究
第五章 『呂氏春秋』に見える「名」の政治思想研究
第六章 『尹文子』に見える「名」思想研究
結語
附論一 『語叢』一・三両篇に見える「名」的研究
附論二 馬王堆帛書「物則有形」図
附論三 『老子』首章と「名」の関係の問題についての再検討―北大漢簡『老子』の出現を契機として
附論四 先秦道家における「無名」と「有名」
附論五 諸子への回帰―無法之法
本書は上編「「名」に関する各種の政治問題」と下編「個別の分析と研究」に大きく分かれており、さらに五つの附論が付け加えられている。上編は中国古代における「名」を巡る問題の総論的な内容であり、下編と五つの附論はそれぞれの文献についての各論的な研究である。目次を眺めただけで、本書が極めて多くの文献に言及するものであることが分かる。さらに、単に量が多いだけでなく新たに出土した資料にも積極的に言及している点も本書の特徴である。もちろん、中国古代を専門としない評者にはそれら一つ一つの扱いが妥当なものであるか判断することはできないが、少なくとも門外漢から見て豊富な資料に基づく緻密な分析という評価を与えたくなるものであることは確かである。
いずれにしても、本書評で各章の内容や個々の文献への考察について詳細に紹介することはできない。ここでは出来るだけ簡単に本書が描き出す中国古代における「名」の思想史の概略を示すことにしたい
三、「認識型名家」と「政論型名家」
行論の都合上、まず従来の研究において重視されていた論理を中心とする「認識型名家」について簡単に説明しておこう。その代表者は恵施や公孫龍などであり、一般に単に「名家」と言えばこれらの人物を指す。そして、「名家」という学派名と同じくらい有名なのが「白馬非馬論」などの議論である。「白馬は馬ではない」とする詭弁じみた主張の真意がどこにあるのかということは必ずしも容易に明らかにできることではないが、「馬」という概念とそれに「白」が加わった「白馬」という概念がどのような関係にあるかという思索には概念の在り方に対する自覚的反省があることは確かであり、論理学的な問題として扱われるのも妥当な事だと言えるだろう。
しかしながら、すでに述べて来たようにこれは中国古代における「名」を巡る議論のごく一部でしかない。著者は「名家」という言葉の現在に残る最古の用例である司馬談の『論六家要旨』に遡って自らの論の根拠を示している。すなわち、そこでの「名家」とは限られた特定の学派を指している訳ではなく、「名」を巡って様々な議論を展開した人々を指しているのであり、儒家・墨家・黄老家などを含む学派横断的なものであると捉えるべきであるとする[上編第三章]。
周知の通り、諸子百家が活躍した春秋戦国時代は戦乱の時代であった。そして、従来の周王朝による秩序が失われ数多の国々が興亡を繰り返す中で、新たな社会の在り方を作り上げることが喫緊の課題となった。そのような問題意識は特定の学派に限られたものではなく広く共有されていたのであり、様々な問題が政治的な観点から論じられていた。そのことからすれば、「名」の問題が政治思想と関わりを持っているのもある種当然のことと言えるかもしれない。
早くは『論語』の中に政治的な文脈における「名」の問題の例が現れている。すなわち、既に言及した子路篇の一節で、当時親子で王位を奪い合う骨肉の争いを繰り広げていた「衛」の国に行って政治を行うことになったら最初に何をするかと問われた孔子が「必ずや名を正さんか(必也正名乎)」と答えたという箇所である。全文を引用することは避けるが、そこで孔子は「名」が乱れると他の諸々にも影響が生じ最終的には民の生活も混乱に陥るという観点から「名を正す」ことを最優先課題と位置づけている。
『論語』のこの箇所については、言葉を正すことの重要性を言うものであるとか、君臣父子などの「名分」を正すことの重要性を言うものであるといった解釈が後の注釈において与えられるが、著者はそのような理解はあくまで後世からの目線に過ぎず、あまりに深い意味を読み取ることを拒否している。しかし、それが「名」の不確定性を意識したものであり、「名」が不安定になることが政治に大きな影響を与えることを述べるものであるという点で重要な意義を持っているとする[下編第一章]。
要するに、『論語』においてすでに「名」と政治との関係が明確に表れているが、そこではまだ具体的に新たな社会秩序の在り方が示されている訳ではない。その点についてはもう少し時代を下って思想が発展していく様子を見なければならない。
四、『荀子』における「名」
性悪説を唱えたことで有名で儒家の中でも独特の位置にある『荀子』には「正名篇」という箇所がある。そこには「認識型名家」に近い内容も含まれていることから、従来の研究では専ら論理学的な意味を明らかにしようとする考察が行われてきた。しかし、著者の指摘によればそれはこの文献に対する適切な態度ではない。というのも、そこに書かれている「認識型名家」のような議論には特に独自の部分はなく、新たな論理学を打ち建てようとする態度は見受けられないからである。それはむしろ「認識型名家」を批判する為に言及されたものと見るべきであるという。「名」の乱れは政治的な混乱をもたらす。そのような認識に立つと「認識型名家」の議論は「邪説」や「僻言」に他ならず、批判すべき対象となる。
では、「名」を正し政治的な秩序を打ち建てる為にはどのようなことが必要だろうか。著者は次の二点を挙げている。第一には王者による「名」の制定である。「名」が乱れた状態から脱する為には、王者が「名」を定め人々がそれに従うということが必要である。しかし、それは王者が好き勝手に「名」を定めてよいということを意味している訳ではない。「名」と「実」が一致しており、人々が受け入れることができるものでなければならない。そのため、第二に人々の長きにわたる社会活動や共同生活を通して共通認識としての「約名」「実名」「善名」が成立するという契機も必要である。なお、それは「認識型名家」の様に精緻な議論を通して「名」を定めようとすることにではなく、あくまで人々の間での共通認識となっているという点に重点が置かれている。
このように二つの契機が想定されていることが『荀子』における「名」の政治思想の要点である。そこにおいては、王者が「名」を制定することによって社会秩序を作り上げることの重要性が指摘されているものの、他方で王者一人の下にその力が集約されている訳ではない。著者によれば、中国古代においてより強く完全な権力の理論を構築したのは黄老家である。
五、「道」・「名」・「法」―黄老家における「名」
黄老思想は戦国後期から漢代初期に隆盛を誇った一派であり、道家や法家の影響を強く受けたものである。新たな文献が出土したなどの事情で二十世紀後半になってから研究が進展した分野でもある。本書ではそれに属する数多くの著作が取りあげられているが、ここで各著作について具体的に立ち入ることはできないので、簡単に概要だけを紹介したい。
黄老思想の背景となる道家の思想における「名」ということを考えると、『老子』冒頭のよく知られた一節がすぐさま思い出されるだろう。「道の道とすべきは、常の道に非ず。名の名とすべきは常の名に非ず。名無きは天地の始めにして、名有るは万物の母なり(道可道、非常道。名可名、非常名。無名天地之始、有名万物之母)[『老子』第一章]」。ここでは「無名」と「有名」との対立が描き出されており、「無名」の方がより根底的なものと位置付けられていると言ってよいだろう。一般にイメージされる通り、道家における「道」は「名」や「形」を超えたものとして捉えられている。
このような事情を顧慮すると、道家に大きな影響を受けた黄老思想において「名」は軽視されるのではないかと思われるかもしれない。しかし、著者によれば実際には「道」という概念が導入されることによって、中国古代における「名」の思想はより強く政治権力を支えるものになる。というのも、王者による「名」の制定が「道」に基づくものになるからである。
黄老思想において王者は「道」の体得者であり、他の人々とは一線を画す存在である。そして、王者はその体得した「道」に依拠して「名」や「法」を定める。著者は当時の文献において「名」と「法」が対になって出現することに注目している。端的にいえば、「名」は君臣上下などの身分の秩序であり、「法」はそのような社会秩序が出来上がった上での刑罰の体系である。王者が「名」と「法」を定めると「道」の働きによって自然と社会秩序が実現されることになる。「無為自然」の「道」の働きが王者の手に収められることになる訳である。このような黄老思想における「名」の制定の過程は、『荀子』に比べてより強固に専制君主制を基礎づけるものになっている。王者の定めた「名」はもはや人々の承認という過程を必要としない。
戦国晩期前漢初期にこのような「名」についての政治思想が流行し新たな権力の在り方を基礎づけた。しかし、その後「名」について言及する文献は徐々に少なくなっていく。「道」と「法」の関係は引き続き強調され続けるにもかかわらず、「名」はそこから抜け落ちていく。その原因について著者は、社会秩序が大いに乱れた戦国時代から一定の社会秩序が固定化された漢代へと時代が進むことによって「名」の重要性が下がったことにある、と指摘している[上篇第四章]。
以上、ごく簡単にではあるが本書の概要を見て来た。扱われている多くの文献について具体的に言及することが出来ていないし、要約の仕方が簡素に過ぎて本書の魅力を充分に伝えられていないのではないかという懸念がない訳ではない。しかしながら、評者の関心に基づいて伝えるべきと感じたことの大枠は示したつもりである。多少なりとも興味を持たれた方がいれば是非直接手に取って頂くことをお勧めしたい。
コメント
「はじめに」で明言した通り、本書評は中国古代思想についての専門的な見地から以上のような研究成果を評するものではなく、日本近世思想を専門とする評者が関連分野の研究者としての立場からいくらかの感想を述べるものである。そのため、以下では日本近世の事情にも言及しつつ評者なりのコメントをしてみたい。
評者が本書を読んでまず心惹かれたのは、題目にもある「政治思想研究」という態度そのものである。というのは、日本近世思想史研究においては丸山眞男の『日本政治思想史研究』という名著を始めとして何らかの意味で政治思想史的なアプローチが多く蓄積されている一方、論理学に属するような研究は皆無と言ってもよく、上述の中国における論理学に偏った研究状況とは真逆であるからである。評者自身の研究が丸山を強く意識し引き継ぐものであるという訳では必ずしもないが、日本近世における「正名」ということに着目し大本である中国の事情を調べた際に、論理の問題を中心とする研究を読んでどのように参考にすればよいか分からず隔靴掻痒の感を抱いていた。そのような中で、中国古代の「名」を巡る思想について本書のような立場からのまとまった研究があることを心強く感じた。
とはいえ、当然ながら中国古代と日本近世の間には大きな隔たりがある。日本近世の思想家たちが本書のような水準で中国古代について知ることが出来た訳でもなければ、社会状況の違いなどによって生じた問題の在り方の違いもある。以下は本書の内容ではなく評者自身の研究に基づく記述となるが、日本近世の「正名」の思想史について簡単に見ていきたい。
一、徂徠学における聖人による「名」の制定
諸子百家の時代から二千数百年後、江戸時代の日本において「正名」という言葉がある種の流行語となった。それはもちろん『論語』子路篇に由来するものであるが、他方で当時の日本特有の問題の展開もあった。その中で、これまで見て来たような中国古代の事情からまず思い出されるのは荻生徂徠が聖人による「名」の制作を重視したことであろう。
周知の通り、荻生徂徠は朱子学に異を唱え独自の儒学思想を打ち建てた。『読荀子』という著作が残っていることからも明らかなように、その際に中国古代の「名」を巡る議論にも触れていた。徂徠は『弁名』の冒頭で目に見えるものには常人でも名前を付けることが出来るが、目に見えないものについては聖人でなければ名付けることが出来ないと述べている。「仁」や「義」といった徳目などは聖人によって初めて明らかにされた。そして、そのことから日本では聖人が出なかったのだから、中国の聖人の道を学ばなければならないという発想が出てくる。
徂徠の言う聖人はあくまで中国古代の聖人であり、現実の為政者の権力と直接的に関わるものではないという点で、中国古代における荀子や黄老思想とは一定の距離があると言わなければならないだろう。しかし、聖人による「名」の制定に重きを置く態度には相通ずるところもある。
このような徂徠の態度に対する本居宣長の批判にも少し触れておこう。徂徠より一世代後の宣長は『古事記伝』において聖人などの特定の人物によって「名」が作られたという発想を拒否している。宣長によれば、中国古代における聖人は天下の簒奪者に他ならず、その「道」も簒奪を覆い隠し正当化するために作られたものに過ぎない。それに対して、日本では革命がなく、誰かが天下を奪うということが起らなかった。そのため、『古事記』の神話に根拠を持つような天皇を中心とした秩序は確かに存していたが、それを表現する「名」を殊更に作る必要はなかった。ただし、そのことは日本古代において秩序を表現する「名」が全くなかったということを意味している訳ではない。宣長は『古事記』の語りを誰が言い出したともなく成立したものであるとする。特定の誰かが「名」を制定したのではなく、人々が秩序の中で生きる内に自然とそれを表現する「名」ができたのである。
このような宣長の思想は、聖人による「名」の制作ということを正面から否定するものになっている。しかし、他方でそれが結局のところ異なった仕方で権力を基礎づけるものになっていることにも留意しておく必要があるだろう。本書評ではこれ以上細部には立ち入らないが、日本近世においても「名」を巡る問題は政治的な含みを持っていたということは確かである。
二、日本近世における「正名」の広がり
行論の都合上、先に「名」の制定という観点から徂徠と宣長に言及したが、日本近世における「正名」を巡る議論においてそれらは必ずしも中心的な論点ではない。より広く見られるのは制度や事物などの名称について論じる際に「正名」に言及する例である。江戸時代において儒学の影響力が強まるとともに、多くの人物が中国と日本の制度・事物の在り方を比較して正しい「名」の在り方を模索するようになった。
日本近世において「正名」という言葉が頻繁に用いられた代表的な問題は、江戸の将軍と京都の天皇との関係を巡るいわゆる朝幕関係である。本来軍隊を掌る官職でしかない将軍が政治全般を動かしているという状況は儒学的な見地からは理解しづらいものであった。そのため、時として外交文書では「国王」が用いられたこともあったが、天皇を差し置いて「国王」を称するのは不当なのではないかという見方もあり、「大君」号が用いられることもあった。このような朝幕関係について論じた主要な人物の名前を少し挙げておけば、新井白石は実際の政治の現場で「国王」号を用いることを主張し実現した。また、水戸学の藤田幽谷が著した『正名論』も有名である。白石とは反対に天皇がいる以上徳川家が「国王」を称するべきではないとしたこの著作はその後の尊王攘夷運動にも影響を与えた。
そのような問題の他に、文辞に関わる様々な問題が「正名」という言葉とともに論じられた。周知の通り、当時の学者たちは盛んに漢文を書き漢詩を作っており、その際に日本の制度や事物を中国風に言い換えるということが行われた。二文字の姓を一字に改めたり、地名や官職を中国風に表現したりしていた。それらの可否が問題となり、特に徂徠派はあまりにも極端な称呼を用いているとして批判の的となった。こちらについてもいくらか名前を挙げておけば浅見絅斎・留守希斎・尾藤二洲・菱川大観・猪飼敬所などの人物が関係する文章を残している。ここでその多岐に渡る問題を詳細に紹介することはできないが、少なくともこれらについての議論を通して中国と日本の差異がより強く意識されるようになり、新たな日本像の形成にも影響したことは確かである。再び本居宣長を例にとると、宣長は「姓氏」を巡る先行する言説を受けて、中国の「姓氏」と日本の「ウヂカバネ」が異なるものであるとしつつ、「ウヂカバネ」は「官職」とも繋がるものであるとすることによって日本古代に明確な社会秩序があったことを主張した。
ところで、これらの日本近世の「正名」に関わる諸問題も論理の問題ではなく、むしろ倫理的・政治的な問題である。朝幕問題が政治的なものであることはもとより、事物・制度を巡る「文辞」の問題もそれらがどのようなものであり名称をどのようにすべきかということを論じる点で社会秩序に関わる含みを持つことが多い。そのことを顧慮するならば、直接的な問題の繫がりはないにしても、中国古代の「名」を巡る思想を政治的な観点から捉え直すことはこれらの諸問題とも全くの無関係である訳ではない。
以上、日本近世における「正名」の思想史についてごく簡単に見て来た。あまりに簡潔に過ぎるようにも思われるし、触れられていない論点もあるが、最低限の雰囲気は伝えられたかと思う。より詳しく知りたい場合は、文献案内にある拙著をご参照いただければ幸いである。
三、異文化の受容と「正名」
さて、本書評ではまず曹峰『中国古代「名」的政治思想研究』の内容を概観し、次いで評者自身の専門である日本近世の事情について概観した。日本近世の「正名」の思想史は中国古代の言説を下敷きとしているという点で両者の間に繋がりがあることは明白であり、評者が本書に興味を持った理由もおおむね察せられることと思う。しかし、時代も場所も違う二つの思想史の間には一定の距離があり、簡単に接続することはできない。コメントの「一」で述べたような聖人による命名という問題は比較的容易に繋がりを見出せるかもしれないが、「二」で述べた諸問題は日本近世に特有のものであると思われる。というのも、それが中国と日本との相違を踏まえて日本における「名」の在り方を論じるものであったからである。日本固有の事物が話題となっている時点で、少なくともそれは直接的に中国の思想史と繋がるものではない。
さて、本書評ではまず曹峰『中国古代「名」的政治思想研究』の内容を概観し、次いで評者自身の専門である日本近世の事情について概観した。日本近世の「正名」の思想史は中国古代の言説を下敷きとしているという点で両者の間に繋がりがあることは明白であり、評者が本書に興味を持った理由もおおむね察せられることと思う。しかし、時代も場所も違う二つの思想史の間には一定の距離があり、簡単に接続することはできない。コメントの「一」で述べたような聖人による命名という問題は比較的容易に繋がりを見出せるかもしれないが、「二」で述べた諸問題は日本近世に特有のものであると思われる。というのも、それが中国と日本との相違を踏まえて日本における「名」の在り方を論じるものであったからである。日本固有の事物が話題となっている時点で、少なくともそれは直接的に中国の思想史と繋がるものではない。
しかしながら、日本近世における「正名」を巡る思想史を全く孤立したものとして捉えるのが妥当であるとも限らない。むしろ、出来る限りにおいて東アジア的な思想史の広がりとの接点を探るべきだろう。もとより、最初に述べた通り、中国古代と日本近世との間の二千年以上の隔たりを架橋するような考察がここで出来る訳ではなく、明確にどのような見方をすべきかということを示せる訳ではない。ただし、日本近世における「正名」の思想史を異文化の受容の局面において「正名」が持ち出される例として考えるならば、いくつか目に留まる用例が中国にも見出されることを指摘しておきたい。
なお、このような問題は既に『中国古代「名」的政治思想研究』の内容の範囲に収まるものではなく、書評の記述としては蛇足に過ぎないかもしれない。しかし、あくまで本書を読んで啓発された評者が自らの立場から考えたことの記録として少し書き留めておきたい。
まずは『大唐西域記』の序に次のような箇所がある。
然れば則ち、仏西方に興り東国に流れ、通訳音訛・方言誤謬あり。音訛れば則ち義を失い、誤謬あれば則ち理乖く。故に曰く、必ずや名を正さんか、乖謬無きを貴ぶ。
然則佛與西方流東国、通譯音訛方言誤謬、音訛則義失、誤謬則理乖、故曰必也正名乎、貴無乖謬矣。[『大唐西域記』序]
仏教はインドで生まれて中国に伝わったものである。当然ながら両者の間には言語の相違もあり、漢訳仏典では理解が難しいところも出てきてしまう。玄奘が西域への旅に出たのもそのために他ならない。この箇所の末尾に「必ずや名を正さんか」という『論語』子路篇の言葉が引かれている。これは仏典を漢訳する際の心得として用いられたものであると言ってよいだろう。ここで『大唐西域記』について立ち入ることはできないが、仏教という異文化を受け入れる際に中国においても「正名」が意識されたことは確かである。
次の例はまたしても大きく時代を飛び越えて、中国近代のものである。梁啓超の「論訳書」という文章の中に次のような一文がある。
高鳳謙曰く、泰西の中国に於ける、亘古相往来せざれば、即ち一器一物の微、亦た各自風気と為す。泰西に有る所にして中國に無き所の者有り。中國に有る所にして泰西に無き所の者有り。中西倶に有りて、用各おの異と為す者有り。名號に至りては則ち絶えて相通ずること無し。訳者其の詳を知る能わざれば、意を以て之の名と為す。〔中略〕此れ譯家正名の宏軌なり。
高鳳謙曰。泰西之於中國。亘古不相往来。即一器一物之微。亦各自爲風気。有泰西所有中國所無者。有中國所有泰西所無者。有中西倶有。而爲用各異者。至名號則絶無相通。譯者不能知其詳。以意爲之名。〔中略〕此譯家正名之宏軌矣。梁啓超『飲氷室文集類編 上』下河辺半五郎、1904年、75頁]
梁啓超は高鳳謙(高夢旦)の文章を引用して、最後に「此れ譯家正名の宏軌なり」と結んでいる。「論訳書」はその名の通り翻訳について論じるものであり、西洋の脅威にさらされ近代化を急いでいた当時の中国において翻訳を通して西洋知識を吸収することは急務であった。これも異文化との出会いの場面において「正名」という言葉が使われた例であると言ってよいだろう
この二つの例について、本書評でこれ以上深くは論じない。また、もとより『大唐西域記』と日本近世と中国近代とを並べるのは乱暴であると言わざるを得ないだろう。しかし、ここで示したかったのは、日本近世における「正名」の思想史を異文化の受容に際して「正名」という言葉が使われたものと考えると、中国においてもいくつか類似する用例を 見出すことができるため、より大きな観点から問題を捉えることが出来る可能性もあるのではないかということである。
本書の議論は評者をして中国古代と日本近世との関係を巡る思索へと駆り立てた。そのような問題を考えるには、評者はあまりにも力不足であり、本書評に述べたところも単なる感想の次元を出るものではないだろう。本書の内容の範囲を超えたある意味では書評としては余計なことを書いて、本書に対する印象を歪めてしまったのではないかと恐れる気持ちもない訳ではない。しかしながら、あえてそのようなことを書いたのは、読者を壮大な思索へと導くのはその著作に魅力があるからこそであり、評者の読書体験を率直に述べることがその魅力を伝える有効な方途になるのではないかと考えてのことである。
おわりに
以上、本書評では曹峰『中国古代「名」的政治思想研究』を巡ってその内容を紹介するとともに、取り留めもなく門外漢の感想を書き連ねて来た。途中から本書の内容を離れた話題にも言及したため、どこか焦点の定まらない印象を与えているかもしれない。このような形になった理由として第一義的には評者の力不足ということがあるが、他方でそれだけ東アジアの思想史における「名」の問題が広大であるということもある。中国古代において成立した「名」を巡る思想は、様々な形で展開され日本近世でも、あるいはその他様々な地域・時代でも重要な意味を持ったはずである。それらの全体を見通した思想史を描くことは今のところ途方もない作業であると言わざるを得ないが、本書はそのような思索へと読者を向かわせるだけの魅力に満ちたものである。そして、中国古代における「名」の問題に対して根本的な視点の転換を迫り、かつ具体的かつ丁寧に多くの文献を読解している点で、東アジアにおける「名」の思想史を考える際にその基礎になる成果であると考える。繰り返しにはなるが、ご興味のある方は是非直接手に取っていただきたい。
文献案内・参考文献
河合一樹『大和心と正名―本居宣長の学問観と古代観』法政大学出版局、2022年。
本書評の前提となる評者の研究については拙著をご覧いただきたい。第一部において日 本近世における「正名」を巡る状況について詳しく論じているほか、宣長が儒教を批判し ながら孔子のみを高く評価している理由や『古事記伝』における「名」の問題などについて「正名」という観点を重視しながら論じた。
荀東鋒『孔子正名思想研究』上海人民出版社、2016年。
荀東鋒「「新名学」研究的奠基之作―読曹峰教授『中国古代「名」的政治思想研究』」『哲学与文化』第530期、2018年。
曹峰の研究についての先行する評価として言及した荀東鋒氏による書評と「正名」についての単著である。著書の方では「新名学」という概念を提唱しつつ「正名」について様々な角度から論じている。一部では西洋哲学との比較も視野に入れるなど曹峰の研究とは また違った視点から議論を展開している。あるいは近年の中国における研究の雰囲気をよりよく伝えるものと言い得るかもしれない
浅野裕一『古代中国の言語哲学』岩波書店、2003年。
加地伸之『中国論理学史―経学の基礎的探究』研文出版、1983年。
日本語で読める中国古代における「名」を巡る議論についてのまとまったものとしては これらが挙げられる。ただし、両書ともに曹峰のいう「認識型名家」を主題とするものである。
大川真『近世王権論と「正名」の転回史』御茶の水書房、2012年。
梅澤秀夫「称謂と正名」(尾藤正英先生還暦記念会編『日本近世史論叢 下』吉川弘文館、1984年所収)。
日本近世における「正名」の思想史についてはこの二つに詳しい。大川氏の著作では「正名」についての考察以外にも特に新井白石について詳細な議論が展開されている。
出版元公式ウェブサイト
上海古籍出版社(http://www.guji.com.cn/)
評者情報
河合 一樹(かわい かずき)
現在、広西大学外国語学院日語系助理教授。専門は近世を中心とした日本思想史。著書に『大和心と正名―本居宣長の学問観と古代観』法政大学出版局、2022年、編著に廖欽彬・伊東貴之・河合一樹・山村奨編『東アジアにおける哲学の生成と発展―間文化の視点から』法政大学出版局、2022年、廖欽彬・河合一樹編『危機の時代と田辺哲学―田辺元没後60 周年記念論文集』法政大学出版局、2022年、近年の論文に河合一樹「総力戦と「ウヂカバネ」―紀平正美『我が邦における家と國』と文部省教学局『臣民の道』を中心に」『哲学・思想論叢』第40号、2022年、河合一樹「氏姓と太古の治道―細井貞雄『姓序考』を巡って」『國學院大學研究開発推進機構紀要』第13号、2021年などがある。
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