Tokyo Academic Review of Booksonline journal / powered by Yamanami Books / ISSN:2435-5712

2023年5月27日

Rainer Forst, Die noumenale Republik: Kritischer Konstruktivismus nach Kant

Suhrkamp,2021年

評者:宮田 賢人

Tokyo Academic Review of Books, vol.56 (2023); https://doi.org/10.52509/tarb0056

本書の概要と構成

本書は、ゲーテ大学フランクフルトで政治理論と哲学の講座を担当するライナー・フォアスト(Rainer Forst, 1964 – )の6冊目の単著である。ユルゲン・ハーバーマスのもとで博士号を取得した彼は、いわゆるフランクフルト学派の批判的社会理論の流れを汲む論者であり、現代ドイツにおける批判理論を牽引する一人である。彼は、ハーバーマスから、対話的・コミュニケーション的に理解された実践理性を社会批判のための規範的基礎に据えるという発想を継承した。また、ジョン・ロールズにも学んだ彼は、英米を中心に展開されている正義論や平等論にも強い関心を寄せ、正義に適った社会の構想をめぐって研究を続けてきた。以上のような影響関係のなかで彼は、われわれ人間を正当化のための実践理性を備えた自律的存在者と理解した上で、不正な規範秩序を自律的に批判しうるような社会理論の構想を練り上げ、また哲学的に根拠づけようとしてきた。

本書は、フォアスト独自の批判理論をふまえつつ、社会哲学・政治哲学上の各論的問題を検討するという性格のもので、彼のこれまでの研究成果を通覧するにあたって特に有用な1冊となっている。本書は、論文集の形を取っており、序論と16本の論文の合計17のテクストによって3部構成で編成されている。まず序論でフォアストの批判理論の中核をなす「批判的構成主義」が総論的に解説される。その後、第Ⅰ部(第1〜5章)では、それを社会哲学へ応用する形で、疎外・進歩・連帯といった諸概念が論じられる。第Ⅱ部(第6〜11章)では、その政治理論や正義論への応用が論じられ、第Ⅲ部(第12〜16章)では、時事問題の論評を中心に、民主主義の危機をめぐる議論が展開される(目次は以下の通り)。

叡知的共和国:カントに即した批判的構成主義

  • 序論. 二つの世界の間で:カントに即した批判的構成主義

第Ⅰ部 他者とともに/に対しての自己決定:社会哲学の根本問題

  1. 叡知的疎外:ルソー・カント・マルクスにおける自己決定の弁証法
  2. 進歩の正当化と正当化の進歩
  3. 連帯の概念・諸構想・諸文脈
  4. 社会的結束:手に余る概念の分析のために
  5. 自律の自律:ユルゲン・ハーバーマスの『哲学史異説』に寄せて

第Ⅱ部 正義と支配からの自由:批判的な政治理論

  1. 規範性と現実性:批判的かつリアリスティックな政治理論に向けて
  2. 人権の意味と基礎:カント的構成主義のパースペクティブ
  3. トランスナショナルな(不)正義の批判理論:リアリズムと規範主義を実定主義的に二分することを避けるために
  4. 名前をもった構造的不正義、顔を欠いた構造的支配?
  5. 正義の要点:ロールズの「公正としての正義」と運平等主義の理論とがパラダイム的に両立しえないことについて
  6. 新共和主義マシーン:カント的な共和主義が必要不可欠であることについて

第Ⅲ部 民主主義の危機

  1. 二つの粗悪な半分では全体にはならない:民主主義の危機について
  2. 真理:民主的な権力と「オルタナティブ・ファクト」
  3. 民主主義の荒廃:トーマス・マンに敬意を表して
  4. 学習プロセスとしての民主主義:ドイツ統一から30年
  5. 危機にある民主主義:進歩と後退の境目

以上の論文は各々が独立しているだけでなく重厚なため、すべての論文を丁寧に検討することはできない。それゆえ本稿では、フォアストの批判理論のエッセンスが特に現れていると評者が感じたものをいくつかピックアップするという形で本書を批評する。より具体的には、まず序論に即して彼の批判的構成主義の概要を確認し(1)、それを疎外論へ応用した第1章の論文を取り上げる(2)。次に、彼の権力論が概説されている第6章を取り上げる(3)。その後、取り上げたテクストについて、それぞれ疑問を提起する(4)。最後に、本稿で詳しく取り上げられなかった他の章の概要を簡単に紹介し(5)、日本語でアクセス可能なものを中心に文献を案内したい。上述のように各論文は互いに独立しているので、読者は本稿も関心のある部分だけ読むというので問題はない。だが、次節で扱う序論の議論は、本書の総論的部分なので、初めて彼の議論に接する方はまずそちらに目を通した上で、関心のある部分に向かうのがよいだろう。

1. 二つの世界の間で:カントに即した批判的構成主義(序論)

イマヌエル・カントの実践哲学が形而上学的な二世界論に依拠していることはよく知られている。カントによれば、われわれ人間は、経験的な現象界の住人として、感性的欲望に流される傾向をもつと同時に、目的の王国という超経験的・叡知的な世界に住む理性的人格として、その欲望を自ら律する能力を備えており、その点で絶対的尊厳をもつ。この二世界論は、現代を生きるわれわれから見れば、空想的な形而上学であり到底支持できないように思われる。だがその一方で、例えば、世界人権宣言第1条が規定する人間の尊厳の平等という主張を規範的に根拠づけるものとして、一定の魅力があることも事実である。序論でフォアストが試みるのは、カントの二世界論およびそれに根差す人間の尊厳論を、「正当化を行う存在者(rechtfertigendes Wesen)」としての人間という考えをモチーフに、そのポイントを保持したまま現代的な仕方で再解釈することである。

フォアストによれば、平等な尊厳を有した人間という地位は、われわれがお互いを正当化する存在者として承認することに由来する。われわれは、理由を求め、活用し、評価し、そして理由でもって正当化を行う存在であり、そのような存在として、正当化の空間で出会う。このとき「われわれは自己そして他者を、正当化する存在者として尊重する。つまり、等しい地位にある規範的権威者(Autorität)として尊重し、われわれがお互いをどのように取り扱うか、そして、どのような規範的秩序に服するかに関して、良き理由を提供する責務を相互に負う」(S. 11)。平等な尊厳を有した人間という地位の基礎には、正当化の空間における規範的権威者という地位の相互承認がある。

このように理解された人間の生きる世界とは正当化の世界であり、われわれの思考や行為は事実的に(faktisch)妥当する諸々の正当化によってさしあたりは導かれている。つまりわれわれは、慣習的規範や道具的理由、宗教的言説、法的命令といったさまざまな性質をもつ正当化資源から構成された正当化秩序の内部で活動する。だが同時に、われわれは、そうした事実的に妥当する正当化秩序に対して、その秩序を構成する倫理的慣習、法律、行政命令は理性的であるか否かとか、それはどのような基準に従って評価されるべきかなどと問うこともできる。つまり、「より良い正当化を求めて事実に抗して(kontrafaktisch)問うこと」(S. 13. 強調は原著、以下同様)もできる。

フォアストは、この正当化の世界における抗事実性と事実性との関係のうちに、カントの二世界論の主張を読み込む。われわれは、正当化の事実的世界に属すると同時に、それに抗して、批判的問いを投げかける能力をももつ。つまり「与えられているリアリティを超越する叡知的な存在者(transzendierende, noumenale Wesen)」(S.13)でもある。カントが、われわれを目的の王国で立法する理性的人格であると論じたときも、正当化において超越する存在者としての地位を念頭に置いていたのである。経験的な現象界とそれを超越した叡知界というカントの二つの世界は、事実的かつ抗事実的に正当化する存在者であるわれわれの二つの異なる側面を表したものであって、実際に二つの世界が存在するわけではない。

以上のような人間理解にもとづき、序論で提唱されるのが「批判的構成主義(kritischer Konstruktivismus)」である。この立場によれば、妥当な規範は、同等な地位を占める規範的権威者たちの正当化共同体のなかで、「正当化原理」とフォアストが呼ぶ正当化手続きを通じて「構成される(konstruieren)」ものであり、そうした手続きに先立つ何らかの優越的価値や規範的理由の実在は否定される。それゆえ「諸々の規範が妥当であるのは、それら諸規範が、規範創出の決定的・規範的条件を適切な仕方で含んだ正当化の構成手続きに由来する」(S. 16)場合に限られる。ここで注意すべきは、このときの「正当化の構成手続き」それ自体は構成されるものではなく——そうであれば構成過程の無限後退が生ずるだろう——「再構成される(rekonstruieren)」ことである。以下ですぐ見るように彼は、現実の正当化共同体の正当化実践に遡行的な(rekursiv)反省をくわえることで、正当化原理が再構成されうると考える(S. 17–18)。では、彼のいう正当化原理とは、より具体的にはいかなるものか。

正当化原理の指示するところによれば、諸規範はその規範の妥当要求に合致した仕方で自らの妥当を獲得せねばならない。例えば、道徳規範の場合、それは相互的・一般的に妥当することを要求するので、「相互性(Reziprozität)と一般性(Allgemeinheit)の基準を手続き的・内容的に反映した正当化の討議において根拠づけられ」(S. 18)ねばならない。ここでいう相互性とは、何人も自らが他者に対して拒むような要求を他者に掲げてはならないこと(内容上の相互性)、および、自己と他者とが規範的に共有しうる正当化理由を自己の価値観や利害関心を他者に投影することなく探究すべきこと(理由の相互性)を意味し、それに対して一般性とは、何人も平等な正当化共同体から排除されてはならないことを意味する。

こうした基準は、正当化共同体に参加する成員の観点から見れば、どの成員も必要な場合には相手方から正当化を求める権利(正当化への権利)を有することを意味する。また、このことは、相手方から正当化を求められた場合には、それに応答する義務(正当化への義務)を相互に負うことも意味する。この権利義務関係が、正当化共同体における同等な規範的権威者という地位の核心をなす。そして、以上の正当化基準や人格の構想は、何らかの形而上学を前提とするものではなく、正当化する存在者として道徳規範を正当化するというわれわれの正当化実践を遡行的に反省することで獲得されるものであり、それゆえフォアストはそれを「再構成的」と形容するのである。

こうして再構成された正当化原理と人格の構想をもとに、適切な仕方で規範の構成がなされれば、そこには一つの理想的な規範秩序が生ずることになる。つまり、規範的権威者として相互にその尊厳を承認された正当化共同体のすべての成員が、対等な立法者として、共に構成した妥当な諸規範に自ら服するという共同自律的な規範秩序が生ずる。フォアストは、そのような理想的秩序を、カントの用語を借用する形で「叡知的共和国」(S. 22) ——本書のタイトルである——と呼び、現実の規範秩序はそれを理念に絶えず改良されねばならないとする。

もっとも、フォアストが注意を促すのは、こうした叡知的共和国の理想それ自体も、不動のものではなく、規範的権威者たちの正当化共同体のなかで自律的に展開されねばならず、それゆえ絶えず批判の対象になることである。「このときひとえに問題となっているのは形式的理想であり、その実際の形態は[…]自律的に発展されねばならない。ここに存在するのは、ただ「適用」されるだけの「理想理論」なのではなく、自律的に展開されねばならない自律の諸原理なのである」(S. 22-23)。さらに、こうした批判は、理論自身の限界にも向けられ、例えば、女性や無産階級を政治的文脈での正当化共同体から排除したカント自身の主張は当然批判される。以上のゆえにフォアストは、自らの構成主義を「批判的」と形容するのである。

2. 叡知的疎外:ルソー・カント・マルクスにおける自己決定の弁証法(第1章)

フランクフルト学派のキーワードである「疎外」を、序論の批判的構成主義の立場から分析したのが本章である。結論から述べれば、フォアストにとって、疎外とは「等しい権利を有する合理的——カント的な意味で「叡知的」——な規範的権威者としての地位を否認されたり拒絶されたりする、あるいは、極端な場合には、そのような権威者であるという自己理解を喪失する」(S. 41)ことである。この叡知的疎外は、さらに、第一階の疎外と第二階の疎外の二つの類型に細分化され、前者は「道徳的または政治的文脈において、諸人格が等しい権利を有した規範的権威者——あるいは「目的それ自体」——という地位を否認されている」(ebd.)状態である。それに対して後者は「ある主体が、自分自身を、等しい権利を有した規範的権威者として理解していない」(ebd.)状態である。前節でみたとおり、規範的権威者であるとは、自ら立てた規範に自ら服する、すなわち自律的だということであるから「疎外は自律の喪失あるいは否定として理解」(S. 40)される。

以上の理解から容易にわかるように、フォアストは、自身の疎外論を構想するにあたってカントの思想に依拠している。従来、疎外論の文脈でカントが参照されることはそう多くない。だが彼は、疎外を理解する上でカントの思想が重要だということで敢えて大きく取り上げ、本章ではそれをルソーやマルクスの疎外論の流れに思想史的に位置付ける。以下では、彼がカントおよびマルクスの疎外論の要点をどのように理解しているかを確認したい。

フォアストの考えによれば、他者を単なる手段として扱うことを禁ずるカントのよく知られた議論は、第一階の叡知的疎外に相当する。ある者が他者を単なる手段として取り扱い、コントロール可能な客体として扱うとき、その者は他者を自身と等しい道徳的人格として尊重していない。このとき、他者の「立法者——その立法行為は同時に自身を名宛人とする——であるという、つまり自律的で合理的な存在者であるという人格の規範的地位」(S. 52)は否認され、カントはそうした否認が不可侵かつ譲渡不可能な人間の尊厳の毀損だと考えた。さらに彼は、カントが自らの尊厳に敬意を払うことを自己に対する義務として論じていることを紹介しつつ、カントのテクストにも第二階の叡知的疎外に相当する議論を読み込む。

以上のカントの疎外論はヘーゲルを介してマルクスの疎外論にも影響を与えており、そのなかにも二種類の叡知的疎外への言及が発見されるというのが本章の中心的主張の一つである。まず、マルクスの初期の論考では、第二階の叡知的疎外がはっきりと論じられている。つまり、そこでは「宗教的イデオロギーとブルジョア的イデオロギーの両方によって生み出された単なる見せかけの自由という一箇の仮象が、規範的に等しい地位にある者たちの真の自由を覆い隠し、自分自身が自由であると考える人間たちは、支配の社会的形態を受け容れるに至る」(S. 65)という諸々のイデオロギーによる自己疎外の過程が批判される。この過程には、人間たちが自分自身を尊重しないという一種の第二階の叡知的疎外が関与しているとフォアストは考えるのである。

また、フォアストのいう第一階の叡知的疎外は、有産階級による無産階級の経済的搾取のなかで論じられている。無産階級は、自らの労働力を外化しそれを商品として生産・交換する過程で、有産階級による搾取・支配の一方的な客体となる。マルクスの疎外論の焦点は、この「奴隷化」の過程を分析し、そこにある支配関係を批判することであり、フォアストは、そこにカントの「単なる手段扱いの禁止」の議論との類比関係そして第一階の叡知的疎外の局面を見てとる。

この搾取・支配関係が先述のイデオロギーによる自己疎外と組み合わさることで一層強固になることが、『資本論』の商品の物神的性格の分析では論じられている。同所でマルクスは、社会的分業のもとでなされる生産・交換活動のなかで、人格同士の社会的関係が、交換される労働生産物つまり商品同士の物的関係へと変化(物象化)することや、本来的には単なる物理的対象に過ぎない生産物や貨幣がそれ自体で価値をもつかのように誤って認識されること(物神崇拝)、そして、こうした「物の人工的世界が、生産過程における人間同士の実際の関係性を、不知というイデオロギーのベールで覆い隠す」(S. 68)ことで、商品の搾取的な生産過程が労働者にとって不透明で制御不可能なものとなることを論じた。こうして労働者は「自らが服している基本構造を独立して共同決定し、そして自分自身を自らの社会を変えうる自由な行為者であると理解する能力や可能性を喪失」(ebd.)してしまうのである。

以上の議論をふまえたとき、疎外的関係の克服は、まずもって認知的次元における知覚の変化を通じてなされることとなる。つまり「自己自身の知覚と他者の知覚を変化させることなしには、社会は変動しえない」(S. 73)。とりわけ、マルクスが分析したような、イデオロギーが疎外の関係を覆い隠すような事例では、イデオロギーが人々の認知にいかなる影響を与え、いかにして本来ならば正当化されるべきではない関係が正当化されているかを分析し、批判することが肝要となる。こうした「正当化関係の批判」の試みを権力論との関係で展開するのが、次節の論文である。

3. 規範性と現実性:批判的かつリアリティックな政治理論に向けて(第6章)

前節でみたように、イデオロギーは支配的関係を隠蔽し、本来ならば正当化されるべきではない諸関係を正当化されるようにしてしまう。こうした仕方で正当化された支配的関係を解体するには、規範的観点からの批判のみならず、いかなる仕方でイデオロギーが現実の支配的関係の維持に寄与しているかについての記述的分析も必要である。第6章の目的は、そうした規範的批判と記述的な現実分析の二つの要素を兼ね備えた政治理論の基本方針を提示することにある。

この目的の達成のためにフォアストがまず着目するのが、規範的考察と記述的分析とを媒介する概念である。政治学では、あるべき正しい・善い政治的秩序を規範的に探究する部門(政治理論あるいは政治哲学)と政治的行動を経験的に分析する部門とが区別されることが慣しとなっている。そのなかで彼は「政治的秩序とその動態を記述的に分析すると同時に、そうした経験的作業の基盤となっている概念と同一の概念の軌道に沿って、それらに規範的考察をくわえることをも可能とするような媒介的概念」(S. 154)が必要だと考える。その媒介的概念こそが「正当化」である。

確かに、正当化という概念は、価値や規範の正当化のように規範的考察に関わるものだと一般的には考えられている。だが、序論でも述べられていたように、われわれの生きる現実の世界は正当化の世界であり、われわれの思考や行為は諸々の正当化資源によって導かれている。それゆえ「われわれは、多数の(時には矛盾する)正当化——それらが思考や行為からなる現実つまり人間的現実としての政治的リアリティを構成する——に概念的にアクセスしていなければ、政治的現実を理解することができない」(S. 155)。そうであれば、正当化をもっぱら規範的考察に関わる概念とみなすことは不適切である。では、より具体的に、正当化はどのような仕方で人間がそのなかで生きる現実としての政治的リアリティを構成するのか。

ここでフォアストによって導入されるのが「権力(Macht)」という概念である。彼の定義によれば、権力とは「AがBに動機を与えることで、Bがそうでなければ考えていなかったあるいは行わなかったであろうことを考えさせるもしくは行わせる、Aの能力である」(S. 156, 原著の強調は省略)。この定義のポイントは、われわれがしばしばやるように権力を物理的なものとして捉えるのではなく、それを理由の空間あるいは正当化の空間のうちで作動する認知的なものとして捉える点にある(この特質をふまえ彼は自らの定義した権力を「叡知的(noumenal)」と形容する1)。この観点からは、良き論拠がもつ強制力も、イデオロギー的な世界観を通じた説法も、嘘も、武器を用いた脅しも、命令も、誘惑行為も、それが特定の人物に理由を与えることで動機づけ、そしてそうでなければ考えなかったこと・行わなかったことをさせるという点では、その背後に叡知的権力が働く正当化の一種である。こうした仕方で正当化がなされ、人々が特定の思考や行為へと動機づけられることで、政治的リアリティは構成される。それゆえ、正当化に着目することで、政治的現実において「どのように権力が変化するか、権力を喪失したり獲得したりするとはどのようなことか」(S.157)が理解可能になる。

以上の考察をふまえフォアストは権力のさまざまな形態を三つに大別する。第一に、ある社会的・政治的関係の内部での権力行使がその正統性について十分に共有された了解に依拠している場合、それは「統治(Herrschaft)」と呼ばれる。第二に、イデオロギー的な権力あるいは脅しによって正当化の空間が狭められた状態での正当化によって、非対称的な社会的・政治的な関係が維持されている場合は「支配(Beherrschung/domination)」と名付けられる。第三の形態は、ある者が正当化の主体という地位をそもそも拒絶され、石と同じように単なる客体として取り扱われる場合であり、それが「暴力(Gewalt)」である (cf. S. 158)。

こうした権力の布置関係によって支えられ、またそれを再生産するのが「正当化物語(Rechtfertigungsnarrativ)」である(cf. S. 159–160)。われわれが現実に生きている正当化秩序は、国家の歴史や宗教的理想、経済・倫理にかんするイメージ等々と結びついた、さまざまな正当化物語に満ちており、その秩序を統治する集団(あるいはその変革者たち)は、こうした物語を紡ぎ出し・利用する。例えば、ドナルド・トランプは、人種差別主義的な決まり文句や国土は誰のものかという問いかけを駆使して、排外主義的な民主主義を正当化する物語を紡ぎ上げた。このような諸々の正当化物語が権力の動態を規定し、そのなかで政治的リアリティが生み出されていく。むろん、こうした正当化物語も現実記述のための概念なので、そのすべてが「良い」物語とは限らない。それはフォアストのいう「支配」を正当化する物語かもしれないし、さらには、本来は正当化されるべきではない支配がイデオロギー的な正当化物語によって正当化されてしまっているという事態が生じているかもしれない。

ここで必要となるのが、正当化物語と権力の布置関係を規範的観点から批判することであり、このときの規範的評価の理論的基礎を提供するのが、序論で展開された批判的構成主義である。つまり、問題の正当化秩序で、すべての成員が正当化への権利を有した規範的権威者という尊厳ある地位を同等な仕方で獲得できているか否かが正当化の評価基準となり、その観点から支配的関係は批判されることとなる。むろん、こうした規範的批判はここまでみてきたような正当化の記述的分析(例えば、正当化物語の形成に関する系譜学的再構成やそのイデオロギー的機能の分析)と組み合わせられて一層効果的となる2。このような経験的・規範的なパースペクティブを結合させた批判のプロジェクトをフォアストは「正当化関係の批判」と呼ぶ(cf. S.166)。

4. 3つの疑問

評者から見た本書の魅力は、まずもって、そこで提示された批判理論が、議論の細分化・蛸壷化する傾向にある最近の哲学あるいは学問一般の知的状況を克服する一つのグランドセオリーとなりうる点にある。第一にそれは、すべての人間が平等にもつ正当化への権利・義務を基礎に、社会哲学・政治哲学上の重要概念を明晰に分析し、その概念との関連において、正義に適った疎外なき社会の構想をはっきりと体系的に描き出すことに成功している。また第二に、第6章で提案されたような正当化関係の批判のプロジェクトは、正義に適った疎外なき社会の実現という共通の目標に向けて、社会秩序の実証的・経験的分析(それは社会学や心理学、人類学、実証的政治研究、経済学などによって担われる)と規範的批判(それは倫理学や政治哲学・法哲学などによって担われる)との学際的協働を可能にする有効なプラットフォームとなるだろう3。もっとも、疑問もないわけではない。

第一に、フォアストの批判的構成主義の要諦である「どの人間も正当化への権利・義務を平等にもつ」という第一命題は、果たして本当にわれわれの正当化実践を遡行的に反省することによって再構成されうるのだろうか。確かにこの命題は、すべての人間の利害関心の平等な配慮を志向するヒューマニストの正当化実践からは再構成されうるだろう。しかし、本書第6章の主張に即せば、例えば、特定の人種を自身と対等な正当化の相手方とはみなさない露骨な人種主義者の排他的な正当化も事実としては一つの正当化であり、そして、そこから再構成されうるのは「特定の人種は正当化への権利・義務を平等にもつ」という命題までだろう。それゆえに批判的構成主義の第一命題の獲得のために彼は、排他的な正当化実践をも含む諸々の正当化実践のなかからヒューマニズム的な正当化実践を選択的に特権化し、反省的再構成をくわえる必要がある。だが、なぜそのような特定の類型の正当化実践の特権化が許されるのか。この特権化の合理性に関して、より立ち入った考察が必要だろう。

第二の疑問は、叡知的疎外論が、疎外を認知的問題として捉える傾向にある点と関係する。本稿第2節で整理したように、フォアストによれば、疎外は、他者を同等な権威者として承認し、また自らをそのようなものとして承認することが出来なくなっているという一種の病理的な認知状態であり、それゆえに、その克服はまずもって知覚・認知のレベルにおいてなされねばならない。このような疎外理解は、資本主義体制下において搾取される労働者のみならず、有色人種、民族的マイノリティ、女性、性的マイノリティ、障害者などが置かれた疎外状態をも包摂しうるものであり、現代社会における多様なタイプの支配・抑圧的関係を広く射程に収めうる点で評価できる。だが、その一方で、彼のように疎外を主に認知的なレベルで観念的に理解することは、疎外が社会的・経済的な物質的諸連関のなかで発生すること、またそれゆえに、その克服にはそうした諸連関それ自体の分析と変革が必要であることを見えにくくするという欠点もあるのではないか。

疎外を克服するには、まずもってその発生原因の分析が必要不可欠である。それゆえにこそマルクスは、いかにして社会的分業のもとでなされる生産・交換活動のなかで物象化や物神崇拝が生じ、また絶えず資本蓄積を目指す物象の連関が労働者にとって「疎遠なもの」として現れることで疎外を引き起こすのかを仔細に分析した(詳しくは、佐々木隆治『マルクスの物象化論[新版]』堀之内出版、2021年を参照)。また、マルクス主義フェミニズムは、女性を疎外する家父長制が単なる心理的な支配や抑圧ではなく、私的領域とされた家庭内での労働者の再生産という物質的基礎をもつと主張した(例えば、上野千鶴子『家父長制と資本制』岩波書店、2009年、33頁)。そして、以上の洞察をふまえ、労働者および女性の疎外の克服は、社会的・経済的な物質連関の変革によって果たされると主張されたのだった。

同様に、現代の様々なタイプの疎外も、多くの場合、社会的・経済的な物質的諸連関と全く無関係とは言えないように思われる。例えば、特定の民族的集団を疎外する言説が支配的になることは、分配可能な資源が限られているという状況下で「安い労働力」のグローバルな移動が自由化されることと無関係ではなく、また、性的マイノリティを疎外する異性愛主義や男/女の性別二元論そして恋愛至上主義は、一対の親密な男女間で次世代が再生産・養育されるという生命(そして労働力)のリプロダクションのプロセスに深く根差しているだろう。そうであれば叡知的疎外論は、叡知的疎外をもたらす認知的・知覚的諸条件の発生源たる社会的・経済的な物質諸連関の分析によって補完されて初めて十全なものとなり、またその克服にはそれら諸連関の変革をもあわせて視野に入れる必要があると言えるかもしれない。

第三に、本稿第3節で取り上げた叡知的権力論において、既存の支配的な規範秩序の変革や転覆を目的とした実力行使や暴力の正当化の問題はどのように考えられるのか。政治・法思想において、支配的体制の転覆を目的とした実力行使をともなう抵抗や革命の是非は——例えばロックやカントの抵抗権をめぐる議論のように——力をめぐる古くからの典型的問題であった。不思議なことにフォアストの権力論において、この問題はほとんど前景化していない。なるほど、叡知的権力論でも、実力行使による「脅し」は、それでもって他者を特定の思考や行為へと動機づける一つの叡知的権力の行使のあり方として理解されうる。だが、そのような実力行使が、さらには、他者を単なる客体とみなした上での実力行使(彼のいう「暴力」)が、批判的構成主義の観点から、いつ・どのような場面でならば妥当なものとして正当化されうる(あるいはその余地は全くない)のかという問いは、管見の限り立てられていない。

しかし、この問いこそ、批判的構成主義にとって肝要かつ厄介な問題ではないか。というのも、様々な抵抗や革命の歴史が示すように、われわれは、他者を支配するためにではなく、むしろ、同等な規範的権威者たちによる共同自律を可能とするような正当化の社会構造を創出するためにこそ、実力行使や暴力に至ることが多々あるからである。批判的構成主義の趣旨に照らせば、これら二つの実力行使・暴力の事例は一緒くたにされてはならず、その評価において区別されねばならないだろう。そして、ここにおいて、批判的構成主義は、共同自律的な正当化実践を創設するための実力行使や暴力をどのように規範的に評価するのか(そもそもその理論枠組の範疇で適切に扱いうるのか)という難問が生ずる。この厄介な問いに取り組むことは、例えばミャンマーにおける民主化を目的とする軍事独裁への抵抗活動や、ヨーロッパの環境活動家が将来世代の声を代表するという体裁で行う過激な抗議活動など、世界各地で共同自律の制度の創出に向けて大小様々な実力行使や暴力がなされている現在において、避けて通れないのではあるまいか。

5. その他の章の概要

最後に、今回詳しく取り上げられなかった他の論文について、その概要を簡単に紹介しておこう。まず第Ⅰ部について言えば、第2章「進歩の正当化と正当化の進歩」では、「進歩」の概念が批判的構成主義の観点から分析される。ここでフォアストは、ある社会秩序で進歩が生じたか否かをめぐっては、その秩序に服する成員たちが自ら決定する必要があるという前提に立つ。その上で、ある社会秩序は、その成員の正当化への権利を保障するような制度が確立されたときに進歩したと評価しうると論じられる。さらに、そうした立論が西洋中心主義的だという反論に対して応答が試みられる。

次に、第3章「連帯の概念・諸構想・諸文脈」では、「連帯」の概念が分析される。ここでは、さまざまありうる連帯の構想は、共通の関心事やアイデンティによって裏付けられた結びつきにもとづいて何らかの行為をする準備があるという実践的態度に関わる点において中核的意味を共有していること、だがこの概念はその際にどのような価値や目的のために連帯すべきかを示していないため、他の規範的概念によって補完される必要があり、その意味で規範的に従属的な概念であること、そして、倫理的文脈・法的文脈・政治的文脈・道徳的文脈といった諸々の実践的文脈の種類に応じて連帯は異なる仕方で構想されることが論じられる。とりわけ政治的文脈では、ある規範秩序において同等な規範的権威者であるという地位が否認されており、それゆえその規範秩序に抵抗を企てている者への政治的連帯は義務であることが、批判的構成主義に即して主張される。

同じような仕方で、第4章「社会的結束:手に余る概念の分析のために」では、「結束(Zusammenhalt)」という概念が分析される。結束もまた連帯と同様、規範的に従属的な概念であり、民主主義や正義といった他の規範的概念によって補完されて初めて、具体的に構想化される。とはいえ、そうした諸々の構想には、自らを他者と結びついているものとして捉え、そうした結びつきにもとづいて行為する用意があるという態度が共通の概念的核として存在すること、そして、それがどのように構想されるとしても、現代のような複雑化した社会において社会的結束が存在するためには、社会的統合や協働についての一つの重なり合う正当化物語が共有されていなければならないことが論じられる。

第Ⅰ部の最後の第5章「自律の自律:ユルゲン・ハーバーマスの『哲学史異説』に寄せて」では、最近公刊されたハーバーマスの大著『哲学史異説』の批判的検討がなされている。フォアストは、『哲学史異説』の問題関心が、近代化にともなう世俗化のプロセスを通じて宗教的言語が世俗的言語へと翻訳されるなかで、いかにしてポスト形而上学的な哲学が生成されてきたかを辿ることにあると理解し、そのプロジェクトを大筋として評価する。その一方で彼は、同書でハーバーマスが、宗教的権威に裏付けられた道徳から実践理性による自律の道徳への転換というカントの企てを評して、無条件的な義務を命ずる道徳を遵守する動機づけを弱体化させるという負の側面をも伴っていたと論ずることには反対する。そして、実践理性は宗教的権威(あるいは道徳を遵守したいという倫理的欲求)が無くとも、十分強力な動機づけの力を備えており、その点で、自律的道徳は徹底して自律的であることが論じられる。

第Ⅱ部の第7章「人権の意味と基礎:カント的構成主義のパースペクティブ」では、批判的構成主義の観点から人権の意味と根拠が論じられる。フォアストにとって、人権とは——自由権にせよ参政権にせよ社会権にせよ——正当化共同体における規範的権威者という地位を、つまり正当化への権利を各人に保障するための権利であり、それゆえ人権の規範的根拠もこの根本的な正当化への権利の規範性に根差している。そうであれば人権とは、自らが服する規範秩序を自らで能動的に決定し、そのような自己決定が支配的体制によって阻害される場合には積極的に抵抗するという能動的に自律する人間の権利であって、弱々しい人間がその利益を国家の介入から保護してもらうために受動的な仕方で与えられるものではない。本章では、この人権の社会的・解放的な意味を適切に捉えることの重要性が他の人権理論との比較を通じて主張される。

第8章「トランスナショナルな(不)正義の批判理論:リアリズムと規範主義を実定主義的に二分することを避けるために」では、トランスナショナルな正義論がいかにして可能となるかが論じられる。ここでフォアストは、支配的体制による不正義に対する抵抗という実践は、すべての人間が普遍的に有する正当化への権利に根差すものであるがゆえに、そうした実践に定位してトランスナショナルな正義論が構築されうるし、また、そうべきことを主張する。そして、このアプローチの理論的強みが、西洋と非西洋の倫理・政治文化を本質的に対置させた上で両者の重なり合う合意の上にトランスナショナルな正義を位置付けようとする立場(文化的実定主義と呼ばれる)や、正義の要求を法的・政治的に確立された社会的協働の諸制度に由来するとみなす立場(実践的実定主義と呼ばれる)との比較のなかで敷衍される。

第9章「名前をもった構造的不正義、顔を欠いた構造的支配?」では、「構造的不正義」という概念に含まれた次のような矛盾の解消が試みられている。一方で、不正義が引き起こされた場合、天災が窮乏状態を引き起こした場合とは異なり、それを惹起した名前のある特定個人が非難され責任を取ることが求められるが、他方で、匿名的な「構造」はそうした責任追求の対象となる「顔」のある個人を欠いてしまっている。この矛盾をフォアストは、第6章で提示された正当化物語の理論を用いて、「構造」の分析を行うことで解消しようとする。こうして本章では、社会的構造が諸々の正当化物語に依拠していること、それらが物象化され「第二の自然」として振る舞うことで、人々の正当化の空間を制約する叡知的権力の構造になることが論じられ、この構造的権力の分析を通じて、その構造から利益を得ているのは誰か、また誰がそれを変更しうるかなどを特定し、その者の責任を問うことの必要性が説かれる。

第10章「正義の要点:ロールズの「公正としての正義」と運平等主義の理論とがパラダイム的に両立しえないことについて」では、ロールズの正義論のなかから登場してきた運平等主義の議論に批判的検討がくわえられ、それがロールズの正義論とそもそもパラダイムのレベルで両立不可能であることが論じられる。フォアストによれば、運平等主義は、正義の問題を「誰が何を受け取るか」という財の分配の問題としてもっぱら理解し、人々を財の受給者として捉えるという誤りを犯すことで、「その財の生産や分配の基本構造を誰がどのように決めるか」という問題や、人々はその根本構造を自律的に決定する地位を持っていることを見失っている。彼にとっての正義の要点とは、特定の成員を同等な規範的権威者として扱わないという意味での恣意的な支配の禁止であり、ロールズの議論もこうした正義のパラダイムに依拠している(それゆえそれは運平等主義とはパラダイム的に両立しない)と彼は考える。

第11章「新共和主義マシーン:カント的な共和主義が必要不可欠であることについて」では、フィリップ・ペティットやクェンティン・スキナーといった新共和主義者があまり重視しないカントの共和主義のポイントを敷衍し、その観点から新共和主義が批判される。カントの自由概念は、ある個人が他者の恣意的な意志から独立しているという意味で「支配されていない」というだけでなく、規範的権威者として他者と共に規範を立法し、それに自ら従うという自律の契機をも含む。それに対して新共和主義の議論は、消極的自由観に立脚し、主観的選択の自由が保障されている状態を「支配されていない」状態と捉え、共和主義的な政治機構の価値をそうした状態を保障する点に見出す。だがそうなると、その政治機構に参加し政治的自律をすることは単なる手段的価値となってしまい、例えば、巨大コンピューターが自動のアルゴリズムを通じて(つまり人々の政治参加なしに)人々に対して選択の自由を保障できるような場合に、そのような「新共和主義マシーン」であっても望ましいという帰結が導かれてしまう。こうした反直観的帰結を避けるために、カントの共和主義への参照が必要不可欠だというのが、本章でのフォアストの結論である。

第Ⅲ部は、時事評論的な性格の比較的短い5つのテクストから構成されており、いずれも「民主主義の危機」がテーマとなっている。第12章「二つの粗悪な半分では全体にはならない:民主主義の危機について」は、グローバル化がもたらした民主主義の危機を分析する。一方で、グローバル化は、ナショナリズムを露骨に主張する権威主義的なポピュリストの台頭を促し、民主主義は、少数派の利害を考慮しない多数派の政治となってしまっている(第一の半分)。他方で、社会民主党のようなそれに対抗すべき勢力も、グローバル化が国内にもたらした悪影響を(例えば最低賃金の引き上げなどによって)補償するという戦略にとどまり、トランスナショナルな経済的・政治的構造の変革を志向していない(第二の半分)。フォアストにとって民主主義は、正当化への権利を有した同等な規範的権威者による共同自律の営みであり、それは多数派の利害を貫徹するものでも、ナショナルな領域に留まるものでもない。したがって上述の二つの民主主義の現状は、いずれも「粗悪な半分」であり、両者を足しても「全き」民主主義はもたらされない。

第13章「真理:民主的な権力と「オルタナティブ・ファクト」」では、オルタナティブ・ファクトやフェイクニュースの問題を念頭に置きつつ、真理と民主主義の関係が検討される。ここでは、民主主義の根幹をなす他者に対する正当化への義務には、より良い正当化を提供するために真理を正しく認識する義務も含まれるがゆえに、民主主義は真理発見のための媒体となること、そしてオルタナティブ・ファクトやフェイクニュースは正当化の空間をイデオロギー的に歪曲することで、そうした真理発見の媒体としての民主主義の発展を阻害することが論じられる。

第14章「民主主義の荒廃:トーマス・マンに敬意を表して」では、民主主義が多数派による少数派の抑圧へと転化することや、民族主義と結びつき排外主義的になることが、マンの民主主義に関するエッセイと関連づけられつつ、民主主義の荒廃として論じられる。第15章「学習プロセスとしての民主主義:ドイツ統一から30年」は、ドイツ統一30周年の記念日に行われた講演であり、そのなかでフォアストは、民主主義を一種の学習プロセスと捉えた上で、ドイツ統一を未だ完成していないプロセスとして理解し、それに応じて統一の成否も、つねに反省的に議論され続けられねばならないことを論ずる。そして、第16章「危機にある民主主義:進歩と後退の境目」は、新型コロナウィルスがもたらした社会的危機に対して民主主義がどう対応できるか、そしてウィルスによる社会的危機が民主主義の危機へと転じないようにいかなる配慮が求められるかを論じている。

第Ⅲ部所収のどのテクストにも共通するのは、批判的構成主義の観点から、民主主義を同等な地位を有する規範的権威者の共同自律として捉える視座である。この視座から見れば、確かに多数派原理やポピュリズムは、少数者による支配への抵抗やエリートの腐敗の指摘において重要な意義を持つとはいえ、それが少数者の正当化への権利を無視する状態に陥るのであれば、真正な民主主義とは言えない。また、グローバル化した現代社会においては、規範秩序は国境に限定されないトランスナショナルな性格を不可避的に帯びる。それゆえ、特定の民族や国民と関連づけて民主主義の境界を恣意的に限定するような立場も真正な民主主義とは言えない。以上が第Ⅲ部でのフォアストの主張のモチーフをなす。

文献案内

  • ① 成田大起「現代フランクフルト学派の社会批判 : ポスト・ハーバーマス時代の批判理論」『思想』No.1139, 2019年。

ハーバーマス以後のドイツのフランクフルト学派がいかなる問題関心のもと、どのような批判理論を構想しているかが明快に整理されている。

  • ② R. フォルスト(田原彰太郎訳)「正当化への基本的権利」『人権への権利:人権、民主主義そして国際政治』H. ブルンクホルスト、W. R. ケーラー、M. ルッツ=バッハマン編(舟場保之・御子柴善之監訳)、大阪大学出版会、2015年。
  • ③ R. フォアスト(田原彰太郎訳)「人権の意味と基礎」『カントと人権』R. モサイェビ編(石田京子・舟場保之監訳)、法政大学出版局、2022年。
  • ④ 宮田賢人「ライナー・フォルストの正義論の批判的検討 : ハーバーマス以後の討議理論の進展とその成否」『阪大法学』第67巻5号、2018年。
  • ⑤ 田畑真一「R. フォアストの政治理論:正当化への権利の基底性」『批判的社会理論の今日的可能性』永井彰・日暮雅夫・舟場保之編著、晃洋書房、2022年。

②は、人権を正当化への権利でもって哲学的に根拠づけようと試みた論文で、フォアストの正当化の権利論の概要が日本語で読むことができる。③は、本書の第7章に相当する。④⑤は、正当化への権利を基礎とするフォアストの道徳哲学・政治哲学を、とりわけハーバーマスの討議理論と比較しつつ取り上げている。なお拙稿では、本稿第4節の第一の疑問点を、より詳しく批判的に検討した。

  • ⑥ 内田智「もうひとつのグローバルな「批判的=政治的」正義論の可能性:分配的正義論と政治的リアリズムを超えて」『思想』No.1155, 2020年。

グローバルな正義論において支配的潮流となっている分配的正義論と政治的リアリズムの難点を克服する新たな構想を描くという目的のために、フォアストの正義論が参照されている。本書の第8章および第10章と特に関連する。

  • ⑦ R. フォアスト(後藤正英訳)「寛容と進歩」『思想』No.1126, 2018年。
  • ⑧ 山岡龍一「政治的リアリズムの挑戦:寛容論をめぐって」『Νύξニュクス』Vol.4, 2017年。
  • ⑨ 川出良枝「政治的寛容:ポリティーク派からピエール・ベールへ」『思想』No.1143, 2019年。

本書では、あまり主題となっていないが、フォアストは「寛容(Toleranz)」をテーマとする浩瀚な研究書を著しており、現代の寛容論にも重要な貢献を果たしている。以上の論文を通じて、そのポイントを知ることができる。

  • ⑩ Amy Allen, The end of progress: decolonizing the normative foundations of critical theory, Columbia University Press, 2016.

同じくフランクフルト学派に強い影響を受けているエイミー・アレンは、カントに依拠するフォアストと異なって、テオドール・アドルノやミシェル・フーコーを参照して批判理論を構想しており、第4章ではフォアスト批判が展開されている。

1本稿では“noumenal”の訳語として「叡知的」をさしあたりは当てた。というのも、フォアストがこの形容詞を「ヌーメノン」(知性でもってのみ把握可能な超感覚的対象)というカントの用語を念頭に用いていることは、本書の序論や第1章の論述から明らかだからである。ただし、序論でみたように、彼は、カントの二世界論を再解釈した上で、われわれの生きる正当化の世界は、経験的・事実的であると同時に超越的・叡知的であると理解する。それに対応する形で、フォアストのいう「叡知的」権力も、現象界から隔絶された仕方で働き、経験的事実と一切の関係をもたないような超感覚的な権力ではない。むしろ、本文ですぐ見るように、正当化の空間で作動する叡知的権力は、人々を特定の行為や思考へと動機づけることで、われわれが経験的にアクセスしうる政治的リアリティを生み出すのであり、その限りで経験的事実と接している。したがって、われわれは、彼のいう“noumenal”をもっぱらカント的な意味で理解しないよう注意しなければならない(R. Forst, Normativität und Macht, Suhrkamp, 2015, S. 59も見よ)。この点について有意義な質問をしてくださった斉藤渉氏に感謝する。

2こうしたフォアストの議論とミシェル・フーコーの言説分析・権力論との間に親近性を感じた読者もいるだろう。実際、フォアストは、フーコーの立場と自らの見解がある部分では共通することを認めている。というのも、双方ともに、権力が言説的な性質を有し、認知的な空間で(あるいは真理の体制を介して)作動するものであると考え、また、どちらも、権力というものを、主体に対して抑圧的・支配的に関わるものとしてのみ理解するのではなく、むしろそれを介して主体が形成されるという規律的・生産的性格において捉えようとするからである。だが、その一方でフォアストは、カテゴリーにはめ込むことで個々人を主体化するという権力の規律的性格をフーコーがもっぱらネガティブに評価する傾向にある点を批判しつつ、既存の主体化の形式に対抗する自由を諸個人に与えるような主体化の権力のあり方も想定しうるのではないかと疑問を呈している(両者の共通点と差異については、R. Forst, Normativität und Macht, S. 74–76を参照)。この点について有意義な質問をしてくださった稲葉年計氏および有益な情報提供をしてくださった成田大起氏に感謝する。

3実際、フォアストの理論は、彼がゲーテ大学の同僚であるクラウス・ギュンターと共同ディレクターを務める学際研究プロジェクト(Normative Orders)の方法論として用いられており、その成果はDie Herausbildung normativer Ordnungen, Campus, 2011やNormative Ordnungen, Suhrkamp, 2021として公刊されている。

謝辞

本稿はポスト・マルクス研究会(2022年3月17日、愛知大学・Zoom)および批判的社会理論研究会(2022年9月11日、Zoom)で報告した原稿を加筆修正したものである。研究会で有意義な質問・コメントをしてくださった、竹内春夫氏、仲正昌樹氏、見崎史拓氏(以上、ポスト・マルクス研究会)、稲葉年計氏、大河内泰樹氏、久高将晃氏、斉藤渉氏、田畑真一氏、成田大起氏(以上、批判的社会理論研究会)に感謝いたします。また、専門外の見地から、意味の不明瞭な部分を指摘してくれた宇多鼓次朗氏と柴田尭史氏にも感謝いたします。

出版元公式ウェブサイト

Suhrkamp (https://www.suhrkamp.de/buch/rainer-forst-die-noumenale-republik-t-9783518299623)

評者情報

宮田 賢人(みやた けんと)

専門:法哲学を中心とする実践哲学全般
所属:小樽商科大学商学部准教授
主な論文:
「善き生の構想の内在的批判 : 危機指向型の内在的批判論はコミュニタリアンのジレンマを解きうるか」『法哲学年報 2019』
「法的確信(opinio juris)の現象学的解明 :フッサール現象学を慣習法論へ応用する試み」『現象学と社会科学』Vol.5, 2022年など。

researchmap:https://researchmap.jp/PhOXYtpFfxIDczRZ