Tokyo Academic Review of Booksonline journal / powered by Yamanami Books / ISSN:2435-5712

2023年5月3日

中村浩爾『民主主義の深化と市民社会-現代日本社会の民主主義的考察-』

文理閣, 2005年

評者:杉田 和正

Tokyo Academic Review of Books, vol.55 (2023); https://doi.org/10.52509/tarb0055

はじめに

本稿は、中村浩爾(以下、筆者)『民主主義の深化と市民社会-現代日本社会の民主主義的考察-』(以下、本書)の書評である。筆者は、法哲学・法思想史の研究者である。本書は、『現代民主主義と多数決原理―思想としての民主主義のために―』、『都市的人間と民主主義』に次ぐ、筆者の三番目の単著であり、民主主義に関係すると筆者が考える諸論点について論じたものである。評者が確認した限りでも、本書にはすでに、高村学人(『法の科学』37号、2006年、208–211頁)と牧野広義(『経済科学通信』112号、2006年、81–83頁)の書評がある。あえて改めて書評を書く以上、なるべく重複しないように心掛けるが、同一書籍を論評する以上、指摘が重なる部分があることを断っておく。なお、本稿は、TARBに集っていると考えられる人々、すなわち法学以外の分野を専攻している大学院生や若手研究者を想定読者としている。無論、法学専攻の読者も歓迎する。

要約

本書は、「序」と「あとがき」を除くと、「第一章 民主主義と主体形成」「第二章 民主主義と基盤」「第三章 民主主義と法・思想」の三部で構成される。

「序―現代日本における民主主義―」では、現在の日本には、青少年の奉仕活動や道徳の強調・日の丸君が代の強制といった民主主義の退行がある一方で、市民運動や裁判闘争の活性化といった「民主主義の深化」があるとの認識が示され、「本書の試みは、そのような二面的状況を様々な場を通じて正確に認識し、理論的考察を深め、そしてその実践への適用、実践からの反作用という理論と実践との相互作用を踏まえて、民主主義の定着・深化の理論と道筋を探求するものである」と謳われる。

第一章は、第一節から第三節と補論の計四節で構成される。「第一節 個の確立と友愛・団結・連帯―民主化における主体形成―」では、友愛・それと個人との関係が検討される。そして、民主的主体形成の場としての企業・労働現場、学校、家庭・地域、余暇について、それらが友愛を阻害する競争原理により浸食されているとの視点から検討される。「第二節 青少年スポーツのあり方とマナーのルール化」では、青少年スポーツをめぐって、勝利至上主義・マナーの乱れ・勉強との両立不可能・個人やクラブの自立性欠如・非民主的運営・体罰などの不祥事といった問題があることが確認され、スポーツの強者性・暴力性といった否定的側面について検討される。その上で、青少年スポーツを民主的主体形成の場としていくための方策として、スポーツマン・ウーマンの自立、民主的人間関係の構築、指導者意識の改革、道徳やマナーを身に付けるための身体感覚の再建が提言される。「第三節 スポーツ法における個人・団体・国家―競技者の自己決定権をめぐって―」では、スポーツ法学上の専門的議論が取り上げられる。「補論Ⅰ 自閉的イデオロギー批判」では、筆者が以前依拠していた西尾幹二の議論の、その後の「変化」(西尾自身は考えに変化はないと言う)について批判的に検討される。

第二章もまた、第一節から第三節と補論の計四節で構成される。「第一節 民主主義と都市中間集団―現代市民社会の構成要素とその相互関係について―」では、「国家-中間集団-個人」という全体社会把握を念頭に置き、中間集団としての都市コミュニティに関する諸論点について論じられる。「第二節 友愛原理の再生について」では、友愛について第一章第一節よりも詳しく論じられる。友愛は、自由や平等と比べた時、労働組合などの中間集団の組織原理として働く側面があり、今日における中間集団の弱体化という問題を打破するには、友愛の観点を設定することが重要だと言う。そして、大阪府熊取町のアトム共同保育所の事例が紹介され、その実践から生まれてきた「できないことを認め合える協同」という理念は、現代における友愛原理の一つの実現形態であり、保育所だけではなく、家族や自治会、組合、政党など多くの集団の民主的組織原理・主体形成原理として普遍化し得るのではないかと提起される。なお、筆者が友愛原理に着目できたきっかけは「生活形態としての民主主義」論との出会いであったと言う。「第三節 市民社会の構成員に関するヘーゲル思想の示唆―中西洋のヘーゲル解釈を手がかりにして―」では、ヘーゲルの新解釈を手がかりに、市民社会の構成員について論じられる。「補論Ⅱ 恒藤恭の全体社会概念と市民社会論への示唆」では、恒藤の議論について検討される。

第三章は、第一節から第四節と補論の計五節で構成される。「第一節 日本国憲法の前提とする人間像―「人間の尊厳」と「個人の尊厳」―」では、日本国憲法の言う「個人の尊厳」とドイツの憲法であるボン基本法の言う「人間の尊厳」は同一かそれとも区別されるべきか、といった点について論じられる。「第二節 市民の立場からの司法改革と現代弁護士論」では、弁護士の依頼人に対する説明義務・インフォームドコンセントの重要性について論じられる。「第三節 日本法の現状と改革戦略」では、1990年代に見られた、福祉国家の後退、平和主義の後退、国家主義の強化、行政主導による法治主義の後退の原因として、国民の政治からの疎外などがあるとされ、それに対応した課題として、民意を正しく反映させるための制度改革などが挙げられる。「第四節 民主主義の変容と民主主義理念の再創造」では、民主主義をめぐる諸学説について検討される。そして「私は、『国家形態としての民主主義』に対して『生活形態としての民主主義』を対置し、後者を強調してきた」「私は民主主義の本質を『制度としての民主主義と人民のたたかいとしての民主主義の結合』(湯川和夫『民主主義とは何か』)と考え、人間の共同存在性をその前提に置く立場に立つので〔中略〕『共同的(社会的)存在』としての人間を前提として民主主義論を再構築すべきだと考える」と述べられる。「補論Ⅲ 法的推論における権威の問題について―C・J・フリードリッヒの権威概念に関する一考察―」では、フリードリッヒの議論が取り上げられる。

「あとがき」では、改めて「本書は、一方における民主主義の危機と他方における民主主義の深化という二面的状況の中で、民主的人格を形成し、民主主義を再創造していく方途について、理論と実践の両面から、つまり、理論の実践化および実践の理論化の両面から考察したものである」と説明される。

コメント

1. 本書の特徴と論旨

以上の要約を読んでも、正直のところ、何が書かれているのかいまいち分からないという読者が多いのではないか。それは評者のまとめ方の問題でもあろうが、本書の特徴に起因するものでもある。すなわち、本書を読んでまず気が付く特徴は、その対象の広さである。本書は、スポーツや都市から憲法に至るまで、議論の射程が広く、扱うテーマが盛沢山である。それにも関わらず、章立ての説明がないため、全体像が見えにくい(後述「4. 問題点」参照)。そこでまず、誤読やつまみ食いであるとの批判を恐れずに、評者が読み取った本書の論旨を述べてみる。すなわち、筆者の一番の問題意識は、「国家形態としての民主主義」に対置される「生活形態としての民主主義」を充実させ、もって民主主義を深化させることである。それは、民主的主体を形成することであるが、そのためには主体形成の場としてスポーツや都市、中間集団や市民社会が必要となる。そして、そのような中間集団を組織するには、組織原理としての友愛・その現代版である「できないことを認め合える協同」が重要である、というものである。

2. 「生活形態としての民主主義」

このようなまとめが正しいとすれば、そこには、「生活形態としての民主主義」・主体・スポーツ・都市・中間集団・市民社会・友愛といった複数の論点がある。これらすべてを論じることはできないので、本稿は「本書全体を貫いている視点」(11頁)であり「本書のベースをなす」(320頁)「生活形態としての民主主義」に着目したい。もっとも、本書は「生活形態としての民主主義」についてまとまった説明をしていない。言及があるのは、要約でも簡単に取り上げた、「第二章第二節」の中の「五 友愛原理と『生活形態としての民主主義』」である。そこでは、デモクラシーを国家形態としての民主制のみならず、民主制をつくり出し、それを動かす社会意識・理念・原理としても捉える必要があるとし、これを憲法論的に、議会制民主主義と基本的人権尊重主義の二側面として表現した憲法学者長谷川正安の議論が紹介されている。これに関連し、筆者は、かつて京都府庁に掲げられた「憲法を暮らしの中に」というスローガンについて、「暮らしを憲法の中に」を追加すべきではないかとの問題意識を表明する。憲法の中に組み込むためには、憲法的価値に適合的な暮らしが実践されている必要があるが、筆者はそのような暮らしが日本に一定程度存在し、それは「民主主義の深化」と呼んでいいだろうと述べている。要するに、議会制民主主義のような政治制度・国家形態を支える社会意識やそれを育む暮らしのあり方が「生活形態としての民主主義」であり、それを推進していくことが本書のタイトルでもある「民主主義の深化」なのであろう。

さて、本書の面白いところは、この「生活形態としての民主主義」という視点のおかげで、通常であれば民主主義と関連付けて論じられることの少ない、企業・労働現場、学校、家庭・地域、余暇について論じられている点である。特にスポーツについては第一章第二節と第三節の二節分を割いている。そこでは、スポーツをやりさえすれば民主的な人間が育つのではなく、民主的な人間関係や民主的な運営によってスポーツをすることで民主的な人格が形成されるのだと述べられる。評者が特に面白いと思ったのは、それに続く指摘で、ラグビーの試合で、日本人レフリーはスクラムを組ませる時に「組め」「ブレイク」と命令形で指示するが、欧米人レフリーは“Bind, please.”“Break, please.”と「プリーズ」をつけるという。こうした些細な違いは、日本と欧米におけるプレイヤーとレフリーの人間関係の違いを示すものとして重要であるという。(ただし、ラグビーに詳しい知り合いによると、少なくとも近年の国際試合では、プリーズをつけることは一般的ではないらしい。ラグビーに明るくない評者には判断のしようがないが、例の是非はともかくとして、ここから、人間関係構築において言葉遣いが大切だという含意を汲むことは許されるだろう。)さらに、部やクラブにおいて、部長や顧問が部員を呼び捨てにするのか、それとも「君」や「さん」付けで呼ぶのか、監督やコーチが部員に何か頼むとき丁寧な言い方ができるか、頼んだことをやってくれたとき「ありがとう」と言えるか、といった点も重要であるという。

民主主義という大きなテーマを掲げながら、私達の日常のさりげない実践を重視している点は慧眼である。評者がここで膝を打つのは、評者がこれまで日本社会の中で過ごし、覚えた違和感を言語化してくれているからである。例えば学校を例にとると、社会科の授業で民主主義の理念(例えば平等原則)を学んだとしても、授業が終わり部活にいけば、そこには非民主的な先輩後輩関係が待っている。生徒が授業と部活のどちらの規範をより内面化・身体化するかといえば、おそらく後者であろう。そして学校を卒業し就職すれば、職場にもまた非民主的な上司部下関係がある。(無論、すべて学校・職場がそうであるわけではないが。)それでいて選挙の時だけ「日本は民主主義」「国民一人一人が主役」などと言われても、何の準備もなしに突然、民主的主体として振舞えるものだろうか。こうした問題は学問の世界とて例外ではない。評者は、民主主義を重んじるある学会に参加した時、参加者が互いを「さん」ではなく「会員」と呼ぶのが気になった。それについて、その学会に長年所属している会員に「『会員』と呼び合うのは、『先生』と呼び合うのを避けつつも、目上の先生を『さん』では呼びにくいから、代わりに『会員』と呼んでいるのか」と尋ねたところ、「おそらくそうだろう」との返答を得た。「先生」呼びを避けているのは、たしかに学会内に上下関係を持ち込まないための工夫として評価できるが、「さん」呼びにまで踏み込めないのは中途半端である。上下関係ではなく平等な人間関係を築くために、互いを「さん」と呼ぶこともできないで、民主主義を追求できるのだろうかと疑問に思う。(一方で、最近では、互いを自覚的に「さん」で呼び合う学会も増えてきているが。)

3. 法社会学的意義

「生活形態としての民主主義」の不全とその必要は、このように生活の中の実感として理解できるものであるが、それだけでなく、学問的にも裏付けられるものである。ここで学問というのは、筆者が専門とする法哲学・法思想史はさることながら、その隣接分野である法社会学のことである。それを説明するために、まず、法社会学とはいかなる学問か、必要な限りで簡単に説明する。

法社会学は、19世紀末から20世紀初頭にかけて誕生した学問であり、発祥国の一つはドイツである。19世紀ドイツでは、法律の文言と緻密な論理を重視する法学が支配的であった。それには裁判の判決を予測可能なものにするといった利点があったが、資本主義経済の発展により社会の変化が激しくなってくると、法律の文言に拘泥するばかりで社会の現実を見ていないとの批判がなされるようになった。そこで、社会の現実を捉え、それに基づき裁判を行い、法を創造すべきとの考えが生まれ、法社会学の誕生につながった。代表的な論者がオイゲン・エールリッヒである。通常、私達は「法とは何か」と問われれば、「国家が制定したルール」「裁判所で適用されるルール」と答えるであろう。しかしエールリッヒはそうは考えなかった。彼は、人々の行動を現実に規律している、(国家以外のものを含むあらゆる)社会団体の内部秩序こそが法であるとし、それを「生ける法」(「生きている法」)と呼んだ。この「生ける法」が裁判で参照されることにより「裁判所で適用されるルール」(裁判規範)が生まれ、さらにそこから「国家が制定したルール」(制定法)が生まれる。人々が普段意識しない制定法や、裁判の時のみ意識する裁判規範とは区別される、人々にとっての日常生活のルールである「生ける法」があることを明らかしたのが、エールリッヒの功績である。この「生ける法」概念は、大正期に日本に輸入され、独自の発展を遂げたが、特に第二次世界大戦後、特殊な意味を担わされることになる。戦後民主主義による意味付けである。戦後法社会学は、他の社会科学と同様、戦後改革・民主化の推進という使命を帯びることとなった。その問題意識は以下の通りである。戦後日本は日本国憲法を制定し、それに応じた法改革(例えば地主制度や家制度の廃止)により、近代的・民主的な制定法・国家体制を整えた。しかし村や家といった封建的共同体関係やそれに対応した人々の意識は残存し、「生ける法」は前近代的なままである。日本が真の民主主義国になるためには、制定法のみならず「生ける法」の近代化・民主化が必要である。(類似の問題意識は、実は明治時代からある。明治日本は近代法を自前でつくるのではなく、西欧から輸入した。しかもその主たる目的は、国民の人権保障ではなく、殖産興業・富国強兵の推進であり、西欧諸国に伍していくことであった。市民による「下からの」近代化ではなく、国家による「上からの」近代化であったため、ここでもまた「生ける法」は前近代的なものに留まった。)この時期の代表的法社会学者である川島武宜の次の言葉が、端的にこれを表現している。「今わが民族に課せられた課題は、日本の政治・経済・社会における『民主化』である。そうして、この課題は、すぐれて『法的』であるところの近代社会―資本主義社会―においては、法的生活の近代化としてあらわれる。しかし法的生活の近代化ということは、決して近代諸国家の法制を輸入して立法することを意味するのではない。それは、なさるべき仕事の最小限ないし末端であるにすぎない。われわれの生活の現実における法の―法社会学者のいわゆる「生ける法―近代化こそが、問題の核心でなければならない。民法や商法その他の『近代法典』は明治このかた輸入され立法された。しかし、それにもかかわらず今『民主化』がわれわれに課題として課されているではないか。われわれにとっての今日の問題は、この紙の上の『近代法典』をわれわれの生活における現実的事実に高めることなのである」(傍点は原文。川島1982:114頁)では「生ける法」の近代化をどのように推進するのか。単純化して言えば、マルクス主義的土台上部構造論(法は経済に規定される)に依拠していた川島は、「生ける法」を経済的生産関係に結び付くものと捉え、経済の近代化=資本主義化が進めば「生ける法」やそれに基づく人々の意識もまた近代化されると考えた。この予想が当たったか否かの判断は難しいが、高度経済成長という名の資本主義化を経た後も、村や家に代わって台頭した企業共同体に人々が埋没し、市民ならぬ「会社人間」、市民社会ならぬ「企業社会」が登場したことを見ると、見通しが当たったとは言い難い。そこで注目したいのが、川島と並ぶ代表的な法社会学者である戒能通孝である。戒能は近代市民社会の形成における主体の役割を重視した。彼は言う。「『市民』とは、そのような〔商品交換-引用者〕社会関係の上にヌーッと自生したのではなく、そのような社会関係を作りだすために、生死を賭して闘ったエリートのことである」(戒能1977:141頁)ここには、近代市民社会の担い手たる市民は、資本主義的経済関係から自動的に生まれるのではないとの見方が示されている。さらに言う。「私は市民的国家の国家構造法について『市民主権』ということ以上の細部にわたろうとは思わない。それは通例三権分立の制度をもっており人権保障の規定をおいている。〔中略〕だがそれにもかかわらず、人権の保障をいったとて『国民』が裁判に興味をもち、もし『世の中の滓』といわれるような人であれ、拷問を受け拷問による自由によって有罪の判決を受けたことに怒りを感ずるのでなかったら、一体どれほどの効果があるだろう。また三権分立といったとて、国民が違憲立法に憤激しこれを争ういきごみをもたずに傍観するだけならば、大部分の違憲立法は必ず違憲立法でないといわれるにちがいない」(同上:150頁)ここには、三権分立や人権保障を規定した制定法があっても、国民の心構えなしには、それは有効に機能しないとの見方が示されている。言葉遣いは違うものの、「生ける法」や人々の意識の近代化・民主化なしに、制定法・国家体制の近代化・民主化はあり得ず、前者のためには、それを担う主体が必要だという主張として理解してよいだろう。

長々と説明してしまったが、以上が法社会学の「生ける法」論に関する概説である。結論から言うと、評者は、本書は法哲学・法思想史の書でありながら、こうした法社会学史の延長線上に位置づけられるのではないかと考える。すなわち、定義上の差異はもちろんあるが、大きな問題意識の類似性に着目すれば、「国家形態としての民主主義」を制定法に、「生活形態としての民主主義」を「生ける法」に置き換えることができるのではないか。そうすると、「生ける法」の近代化・民主化(川島)という戦後法社会学の問題意識は、「生活形態としての民主主義」の充実による民主主義の深化という本書の問題意識に受け継がれ、そのための戦略もまた、エリート市民(戒能)から民主的主体形成へと受け継がれる。そして法学の使命は、「生ける法」=社会団体の内部秩序(エールリッヒ)の探求から、中間集団の組織原理(本書であれば友愛原理)の探求へと受け継がれる。戦後法社会学、特にその代表者である川島は、西欧中心主義ではないか、学問を政治的目的に結び付けすぎではないかといった多くの批判を受け、今日の法社会学で正面から語られることは、ほとんどない。しかし評者は、そうした批判には真摯に耳を傾けなくてはならないとしても、戦後民主主義への反動の危険を常に抱えた戦後日本において、彼らの問題意識が時代遅れになることは(残念ながら)ないと考える。今日の法社会学が忘れた戦後法社会学の問題意識を、法哲学・法思想史という異分野で継承し、スポーツや都市といった具体的対象に即して検討を深めてくれたこと。それが、評者が本書を評価する最大の点である。

4. 問題点

もっとも、本書に問題がないわけではない。本書の問題は、形式面に集中している。すなわち、叙述の分かりにくさである。まず全体構成が不明瞭であり、節と節の関係が、一読しただけでは分かりにくい。次に節内部の構成も不明瞭である。分かりやすい論文というのは、問-論証-答の構成をとることが多いだろうが、本書の節の多くは「~について論じる」というだけで(それすら明言のない場合も多い)明確な問を立てることなく叙述がはじまり、様々な先行研究を引用し、ところどころ筆者の見解を交え、何か結論が出るわけでもなく投げっぱなしで終わるという形をとる。形式に着目する限り、論文というよりは、徒然なるままに書いた随筆という印象を受ける。さらに一文一文についても、主語と述語の関係が不明瞭な文章が散見される。叙述スタイルとしては「~と思われる」が多用されていることも気になる。単に筆者の癖なのかもしれないが、法哲学者・法思想史家として書くのだから、先行する思想について解釈するときは、もう少し「~である」と断定できるまで検討を進めてから書いてほしかった。また、読者として誰を想定しているのかもよく分からない。本書はスポーツから思想まであらゆる分野を対象としているが、それぞれの前提を説明しないまま論述がはじまるため、その分野に初めて触れる読者は、理解が追い付かない。『民主主義の深化と市民社会』という普遍的なタイトルを掲げている以上、スポーツなどの特定分野に詳しくない読者をも想定しているのだろうから、各節でもう少し詳しい前提説明がほしかった。

内容についてもいくつか問題(というより、より深めるべき課題)を挙げよう。

まず、「生活形態としての民主主義」を重視しているのは伝わってきたが、ではどうしたら生活形態が民主的になるのか、そのメカニズムの解明がまだ十分ではない。スポーツについては、前述の通り、クラブの運営方法についての言及があるが、ではどうしたらそのような運営方法を採用するようになるのか。本稿では触れなかったが、筆者は中間集団について論じる際、部分社会論を繰り返し批判している。部分社会論とは、学校などの部分社会のルールを法と認めていく立場で、これによれば、校則が人権抑圧的なものであっても、それが法として認められ、適切な是正ができなくなるおそれがある。筆者は、部分社会に、国家から個人を守る砦としての機能を認める一方で、部分社会が個人を抑圧する場合は、国家の介入によりこれを是正すべきというように、部分社会への警戒を怠らない。そうであればこそ、人々の生活の場である中間集団や部分社会が、どうしたら民主化され、あるいは反民主化されるのか、また、友愛原理が、どうしたら個人の尊重と両立し、あるいは個人抑圧的な連帯の強制に転化するのか、なお踏み込んだ検討をする余地があるように思う。

次に、「国家形態としての民主主義」と「生活形態としての民主主義」の関係についてである。本書では後者が前者の基礎となるという視点が前面に出ているが、反対に、前者が後者を支える、あるいは前者が後者の参考になる場合があるのではないか。すぐ上で述べたクラブの例に引き付ければ、憲法の勉強により「国家形態としての民主主義」を知った者が、それに触発されクラブの運営方法を民主的なものにするというような可能性である。おそらく筆者自身、「生活形態としての民主主義」に出会う前に、法学の勉強により「国家形態としての民主主義」に出会っていたはずであろう。前述の「憲法を暮らしの中に」と「暮らしを憲法の中に」は、まさに国家形態と生活形態の相互作用であり、本書に言及がないわけではないが、よりまとまった形での検討があってもよかった。

最後に、本書に通底する「生活形態としての民主主義」が「国家形態としての民主主義」の基礎となるという視点についても、そもそも「生活形態としての民主主義」を充実させることが、果たして本当に「国家形態としての民主主義」を推進することにつながるのかという疑問がある。筆者は、「生活形態としての民主主義」を論じるに際しては、それを単なる生活様式の議論に矮小化させないよう注意してきたというが、そうであればこそ「生活形態としての民主主義」を国家形態に昇華させるプロセスについて、もっと論じてもよかったのではないか。第三章第三節には選挙制度や地方分権などへの言及があるが、これについても、よりまとまった形での検討が期待される。

おわりに

これらの問題点は、本書の意義を損なうものではない。形式面については、全体を読めば筆者の言わんとすることは伝わってくるし、内容面に至っては、少々多くを期待しすぎたかもしれない。それらは本書のみに負わせるべきことではなく、本書の読者がそれぞれ引き継ぐべき課題であるかもしれない。今日の日本は、国家の命運に関わる重要事項を閣議決定で決めるなど議会制民主主義を軽視した政治運営がなされる一方、特に若い世代が校則改良運動や気候変動デモを展開するといった状況にあり、民主主義の危機と深化の二面的状況という本書の時代診断は、なお妥当性を有する。法哲学・法思想・政治思想の分野はもちろん、スポーツ・都市・学校・労働・家族・地域といったそれぞれの分野で、さらには呼称や礼儀作法など日常的な振る舞いによって「生活形態としての民主主義」を実践し、民主主義を深化させようとする読者の目には、本書は、体系性に欠けた書ではなく、考えるためのヒントが四方八方に散りばめられた書として映るであろう。

文献案内

  • 中村浩爾『現代民主主義と多数決原理―思想としての民主主義のために―』法律文化社、1992年

本稿が論評した本書は、民主主義を国家形態としてのみならず生活形態としても捉え、それをスポーツ等と結びつけるという筆者独自の視点が濃厚であるが、その前提について語られることは少ない。この点を補うためには、筆者の過去の単著を読むことが有益である。この本は、「民主主義=多数決」説について検討したものであるが、第三章で「生活形態としての民主主義」について詳しく論じられ、さらにそれがスポーツの議論に接続されており、筆者特有の問題意識の萌芽を見ることができる。

  • 中村浩爾『都市的人間と民主主義』文理閣、1994年

その萌芽を展開させたのが、この本である。第一章で、民主主義と礼節・マナー、スポーツ、住居・建築との関係が論じられている。上下関係に基づく礼節は、平等を原則とする民主主義に反すると考えられがちだが、礼節には、上下関係のみならず平等な関係を律するものもあり、そのような礼節は民主主義にとって必要であるという指摘には膝を打つ。「目上の人」への敬意に比べ、「平等な他者」への敬意が語られることは少ないだけに、これは傾聴に値する。そして、そのような礼節を身に付ける場こそ、スポーツや文化であると議論が展開する。

  • 大村敦志『フランスの社交と法―<つきあい>と<いきがい>―』有斐閣、2002年

筆者以外のもので、問題意識を共有していると思われる本を一冊だけ紹介する。これは、民法学者がフランスで見聞きした事例や経験から出発し、法制度を解説する、エッセイと学術書を折衷したような本であり、法学を専攻しない者にとっても読みやすい。フランスがスポーツと文化の大国であることに着目し、それを支える余暇・近隣・結社とそれらの法に焦点が当てられる。人々の日常的な社交sociétéが大きな社会Sociétéを形成するという視点は、本書に通じるものである。いわば、フランスの国家形態を支える生活形態について論じた本である。それを象徴する文章を引用しておこう。「様々な制約からの解放は直ちに個人を生み出すか。この問いに対する答えはどうやらノンのようだ。参政権が与えられれば民主主義は実現するのか。こちらも答えはノンらしい。思想の次元で『個人』に着目するだけではなく、事実の次元で『個人』を作り出すこと。獲得した『自由』を、心配や幻滅にではなく、連帯や確実性に結びつけること。市民宗教的なもの・普遍的なものを呼び戻し、『善』や『社会的きずな』を作り直すこと。それが『共和国』と『民主主義』に繋がる。今日、このような『新しい人』を求める声があちこちで聞かれる」(239頁)

参考文献

  • 戒能通孝『戒能通孝著作集 第Ⅶ巻』日本評論社、1977年
  • 川島武宜『川島武宜著作集 第四巻』岩波書店、1982年
  • 矢野達雄・楜澤能生編『法社会学への誘い』法律文化社、2002年
  • 六本佳平『法社会学』有斐閣、1986年

出版元公式ウェブサイト

文理閣 (http://www.bunrikaku.com/book2/book2-140.html)

評者情報

杉田 和正(すぎた かずまさ)

早稲田大学法学部助手。専門は、法社会学。本稿でも述べた「生ける法の近代化」に関心がある。私達の生活の場に妥当している「生ける法」はどのようなものか、特に多くの時間をそこで過ごす経済や労働の分野で、自由・平等・友愛・人権・民主主義といった価値を実現するにはどうしたらよいかという問題意識から、協同組合法をはじめとしたアソシエーション法や市民社会論・社会的連帯経済論について研究している。

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