Tokyo Academic Review of Booksonline journal / powered by Yamanami Books / ISSN:2435-5712

2023年10月14日

Mahmood Mamdani, Define and Rule: Native as Political Identity

Harvard University Press,2012年

評者:仲尾 友貴恵

Tokyo Academic Review of Books, vol.59 (2023); https://doi.org/10.52509/tarb0059

書籍の概要

著者について

本書の著者は世界的に著名な人類学者・政治学者のマフムド・マムダニ(1946-)である。タンザニア、ウガンダ、南アフリカの大学で教鞭をとり、その後アメリカのコロンビア大学に職を得た著者は、コロンビア大学教授とCODESRIA(アフリカ社会科学調査振興評議会)会長やマケレレ大学研究科長などを兼務して長年アフリカのアカデミアにも籍を置き、アフリカの社会人類学的発展に寄与してきた。多作だが、市販された邦訳書が1冊であるためか(Good Muslim, Bad Muslim: America, the Cold War and the Roots of Terror(2004, Pantheon/2005, Harmony)=『アメリカン・ジハード:連鎖するテロのルーツ』(越智道雄訳, 2005, 岩波書店))、日本での知名度はあまり高くない。しかし、「アフリカ」という、ともすれば周縁化されがちな地域についての分析を通して現代世界の特徴を鋭く見通す彼の著作は、私たちに大きな示唆を与えてくれるのでは、と期待して1冊を紹介したい。

著者はインド西部のボンベイ(現ムンバイ)で生まれ、東アフリカ内陸部のウガンダの首都カンパラで育った。英領インド(現在のインド・パキスタン・バングラデシュ)にルーツをもち東アフリカに何世代にもわたり定住した、いわゆる「インド系アフリカ人」である。

彼らは歴史的には大英帝国と密接な関係があり、東アフリカにおける英国支配領域が確定しインド亜大陸からの入植者が増加した、19世紀後半以降の情勢の落とし子である。1960年代にアフリカ諸国が独立した際には、各国の方針の差異等により、アフリカで国籍を得た者もあれば得なかった者もあった。あるいは、国籍ではなく「人種」といった形質や文化的差異を根拠に、(アフリカ人ではない)「外来人」とされることもあり、排斥の憂き目にも遭う者もあった。排斥の最も暴力的な例として知られるのは、1972年ウガンダのイディ・アミン政権下で、英国パスポートを持つ在ウガンダ「アジア人」(1947年のイン・パ分離後は、英領インドにルーツをもつ者は “Indian” ではなく “Asians”と呼ばれるようになった)が突如3ヶ月以内での出国を強制された出来事である。この結果、ウガンダからは5万人とも8万人とも言われる「アジア人」が、行く場なく英国に難民としてなだれ込んだ。筆者がマムダニに関心をもったのは、あるポッドキャスト番組で、彼がまさに追放された一人として当時の思い出を語っていたのを耳にしたことがきっかけである。ほぼ着の身着のままで英国に着いたが英国では「やっと十全な市民になれたね」と祝われた、当時在籍していたウガンダ国立マケレレ大学には戻れなくなったが〔翌年国立大の職を得た隣国〕タンザニアの〔首都〕ダルエスサラームには親戚がいるから子どもの頃から行き慣れていた……(Empire: Rishi Sunak's Ancestry: Indians in East Africa on Apple Podcasts, 2022.11.15放送分、19分20秒–21分00秒、43分20秒–49分20秒)。著者が語ったこれらのエピソードはインド系アフリカ人にはありふれたもののはずで、帝国臣民として付与された市民権、旧植民地である国民国家内にある市民権の差異、そして現在では国境で区切られた地域に広がる親族ネットワーク等、様々な示唆を含んでいる。国民性とは、市民性とは、あるいは「アフリカ人」や「インド人/アジア人」といった線引きとは何なのだろうという問いへと誘うかのようだ。

今回取り上げる書籍は、本評執筆時より約11年前に刊行された、本文130頁足らずのコンパクトな本である。しかし限られた紙幅には、それ以前に刊行された著者による(各数百ページに及ぶ)事例研究のエッセンスが凝縮・総合されている。著者の仕事の特徴は、現代アフリカの社会現象を分析の焦点とし、かつ、その分析から導かれた観点でもってグローバルに世界の事象を見渡し、現代世界分析を行う点である。その姿勢は本書にもよく顕われており、本書は著者の仕事の髄を嗜むには良い入門書であろう。

内容の要約

Define and Ruleという本書のタイトルを訳すなら「固定して統治する」となろうか。本書で論じられるのは、帝国が広大な範囲を統治するために特に19世紀後半以降に採った方針——各地に現地住民から成る行政機構を置きそれを宗主国が監督するという方針——に必然的に伴った、〈住民を分断し序列化し、その過程で文化および故地という概念を用いて住民を静的なものとして固着する〉プロセスであり、側面である。

この帝国統治の方針は、本書の用語では「間接統治indirect rule」と総称される。「間接統治」という用語は、特にアフリカ植民地行政を知るものにとっては目新しさを感じるものではない。それは、狭義には英国のアフリカ統治を貫いた方針であり、特に20世紀に赴任した行政官ルガードが結晶化させたという説明が典型となってきた。それが採用された理由は、低コストで広大な範囲を統治できる効率の高さによる、と語られてきた。近年の研究の進展により、かつては英国の統治方針とは区別されて捉えられていたフランス領アフリカにおいても、特に20世紀以降の実態としては、間接統治が採られていたことが知られてきている(中尾 2022)。つまり、19世紀以降のアフリカ統治に関する用語としては手垢が付いているように見える用語なのだ。

しかし本書で間接統治という語でもって対象化されるのはアフリカからの事例にとどまらない。歴史的にはアフリカ統治より前から展開された、インド亜大陸や東南アジアにおける西洋列強による支配——それらは当該地域においては「分割統治」や「委任統治」といった語で示されることが多いようだ——も、本書では間接統治の傘下にあるものとして論じられる。本書は、間接統治を「コロニアル状況における統治/規制(rule)の極めて近代的な形式」(p.1)として捉える。分析対象は主に19世紀後半以降の英国植民地統治だが、それは同時代のフランスやオランダにも共通する事例として論じられる。この「近代的な形式」はそれ以前の帝国支配の形態とも比較される。これらの手続きによって、近代的統治法としての間接統治の特徴が析出され、それが当時の植民地や、植民地期を経た現代に与えた影響が明らかにされる。

本論は3章から構成されている。目次は以下である。

Introduction pp.1–5
1. Nativism: The Theory (Sir Henry Maine and the Post-1857 Crisis of Empire) pp.6–42
2. Nativism: The Practice pp.43–84.
3. Beyond Settlers and Natives (The Theory and Practie of Decolonization) pp.85–125
Notes pp.127–148
Acknowledgements p.149
Index pp.151–154

第1章は間接統治の黎明期としてその理論的支柱と初期の行政実践、第2章はその施行の最高潮としてのアフリカ植民地における行政実践、第3章は間接統治の「解毒剤」(p.3)として独立後アフリカ諸国で見られた2つの実践について論じている。これらを通して、間接統治とは、人々に直接介入しないという意味で従来は「弱い」統治のように認識されてきたが、実際はそうではなく「その野望は巨大である、すなわち、単に〔直接統治期にそうであったように〕エリートの主観=主体(subjectivities)を形成するにとどまらない。それは、被植民者全体の主観=主体を、主観=主体の数々を形作るという野望をもっている」(p.8)と論じる*1。間接統治とは、末端まで人々の主観=主体形成に介入する「強い」統治法なのである。

第1章

以下、章ごとの内容を要約する。第1章のキーワードは副題に示されているように、ヘンリー・メーンという英国の歴史法学者と、1857年のインド大反乱に象徴される「帝国の危機」、すなわち植民地における「現地人native」による「入植者settler」への抵抗運動とそれへの対処である。

英国によるインド統治は18世紀から始まったが、当初の統治方針は「同化」、つまり、当地の社会上層部を教育することで文化的には英国人に同化したエリートを作り、彼らによる統治を目指した(この論理の背景には英国で18世紀から影響力が増していた功利主義や福音主義がある)。これが「直接統治direct rule」時代であり、マムダニは、この時期に肝要であったのは文化的な差異の排除であったと指摘する。

この統治方針を転換させたのはインド大反乱である。英領インド北西部でムスリム傭兵らが反旗を翻したことに端を発して、最終的にインド亜大陸の広範囲の住民が反乱するという未曾有の規模で起こったインド大反乱は、英国にとっては初めての植民地反乱ではなかったが、最初の危機として認識された。同じ「アーリア人」である(と当時認識された)インド人に対して、英国人と同じように教育を与えた結果、なぜこのような大反乱が起こってしまったのか。

この「危機」を、論理的に解説しただけでなく、それに対する法学理論で裏付けられた実際的な対処法として「新しい」統治法をインド行政に適用した人物こそ、ヘンリー・メーン(1822–1888)である。メーンは、当時の英国ではローマ帝国法の専門家であった。メーンは、英国とインドの人々の差異を法学的な進歩史観に落とし込んだ。すなわち、同じアーリア人といえども、ローマ帝国法によって統治されていたか否かで適切な統治法の進歩度には明らかな差があるとしたのである。旧ローマ帝国領の住民は、規制と制裁から成る、土地に縛られない(普遍的な)、先進的な「市民法civil law」に従うことができる。しかしその他の人々はそうではなく、土地に結び付き伝統慣習である「慣習法custom law」にしか従うことはできない、とメーンは論じたのである。メーンは前者を「人種race」、後者を「トライブtribe」として区別し、反乱後のインド行政府において、規律課の創設など重要な法・行政基盤を整えていった。

メーンが草分けとなった統治のアイデア、かつ、行政法上の実践とは、植民地において人々を「人種」と「トライブ」に分け、それぞれを統治する法体系を別個にするというものであった。インド大反乱は、進歩的でないトライブに急激な進歩を求めた故に生じた歪なのだ。だから変化はより緩やかでなければならない。特定の場所に根付き「ピュア」なトライブは、血縁で結ばれた親族集団以上の集団意識を持ち得ない。明文化され体系だった市民法という「契約」によって社会を形成できるのは人種に限られ、トライブは生来の「身分」に紐づく不文律かつ文化的な慣習法に従う人々なのだから、彼らは保護され、彼らに適した法を明文化する必要がある。そこで英国人の知恵が役立つ。このようなメーンの理論は、行政方針の転換でもあり、植民地住民に対する認識論の「刷新」でもあった。

大反乱後、それまで東インド会社が経営していたインドは英国直轄下に入った。その際英女王が宣言したのは、現地人(すなわち英国人入植前からのインド亜大陸住民)の文化への「不干渉」であった。英国は現地人の「保護」措置として、宗教的少数派や山岳地住民等、英国が保護すべきと考えた人々を集団として捉えて別個の法体制で統治するようになった。現地人は英国側の認識における「宗教」別に把握され、各人がいかなる集団に属するかを措定するセンサスも始まった。「市民法」の領域に関わる公職からは特定の宗教の教義や信徒が切り分けられ、公共領域での「世俗化」が進んだ。

マムダニがこれらの一連の経過に読み取るのは、「文化的差異の排除」から「差異の管理」へ、という行政当局の認識論及び実践における転換である。

このように英領インドで19世紀半ば過ぎに生まれた間接統治は、後により多くの植民地でも展開していく。第1章の後半ではその例として英領マラヤとオランダ領インドネシアにおける分類統治が概観される。

1874年に成立した英領マラヤでは、初期行政官フランク・スウェッテナム(1850-1946)が、現地人とみなした住民*2を、より文明的な「マレー人Malay」と未開的な「原住民aboriginal」とに分けられるものと認識した。前者は「マレー語話者かつイスラーム信徒かつマレー人の慣習に従う者」と恣意的に定義され、英国からは手厚く保護されるとともに、行政構造にも組み込まれた。「原住民」は、対照的に、当初は行政府にとっては積極的な介入対象ではなかったが、「原住民」が住む山地への日本軍による侵攻があったことで、それへの対抗策として1950年代以降に具体的な統治法が調えられていった。平地に住む「マレー人」と山地の「原住民」を分け、「マレー人」が優遇される植民地行政構造は、英領マレー連邦として英領から当該地が1957年に独立する際にも引き継がれた(独立時は「原住民」は「オラン・アスリOrang Asli」とされた)。1960年代の暴動等を経て、独立時の分類概念やマレー人優遇策は一部改められたものの、住民の分類と優遇策についての話題を公共の場で議論することが違法化されるなど、今日まで、植民地期の住民の分類と法的分離は尾を引いている。

オランダ領インドネシアの事例では、オランダのメーンとも言える、アラビア語学者・イスラーム学者のクリスティアン・S・ヒュルフローニエ(1857-1936)の思想と実践が紹介される。オランダに対してスマトラ島北部のアチェ王国が30年に亘る抵抗(アチェ戦争)を繰り広げていた1891年に当地に赴任したヒュルフローニエは、不文律(adat)と明文化されたイスラーム法(hukom)を区別し、前者を優遇・明文化する方針を考案した。並行して「伝統的首長uleebulang」とイスラーム学者(ulama)を区別し、前者に幅広い行政権限を付した。これによってオランダはアチェ戦争の重要なアクターであったイスラーム学者を孤立させ、ムスリムが多数派である住民の「信仰の自由」を認めつつも行政的権限は「伝統的首長」に与えることでイスラームを政治的イデオロギーとしては無力化し、信教の領域(私的領域)へと囲い込んだ。ヒュルフローニエの思想を行政的に完成させたのは後継行政官のコーネリス・ファン・フォレンホーフェン(1874-1933)だが、この二人は「ヨーロッパにとっての『良いムスリム』」(p.39)、すなわち政治的に敵対しないムスリムを生み出したと位置づけられている。ファン・フォレンホーフェンは後に北アフリカでベルベル人の慣習法の法典化にも携わった。オランダ領インドネシアで確立された社会構造は1945年に独立したインドネシア共和国にも引き継がれた。

第2章

第2章以降の事例の舞台はアフリカに移る。この後発植民地の統治において、間接統治はより徹底的な形へと至った。「被植民者」、つまり植民地化以前からの住民である多数派を、行政当局は「膨大な政治的少数派」へと「断片化fragment」(p. 45)したのである。それは、被植民者から切り出された断片を「それぞれ型通りの『ネイティヴ』にあてはめるcasting each in a nativist mold」プロジェクトであり、歴史記述(過去を措定)、センサス(現在を措定)、法・行政(未来を措定)という三方向において、人々を特定の「部族tribe」*3に所属するものとして固定するプロジェクトであった。

アフリカ植民地の住民は、英国当局により「土着indigenous」とみなされたものは部族、その他は人種と二分され、人種は(実際には欧米人やインド人、アラブ人等から成り、その出自や文化における差異は大きかったが)市民法の下で統一的に管理された。対照的に、部族を統治した慣習法は、部族毎に異なる「伝統」や「文化」の尊重というロジックにより、部族別に異なるものが用いられた。しかし現実には、複数の部族が一つの共同体を成す例や、部族の「混血」はよく見られた。市民法は改訂(進歩)し得たが、「伝統」に紐づけられていた慣習法の変化は認められなかった。

さらに、各部族は固有の「故地homeland」をもつとされ、土地が新たに区分けされて特定の部族の故地として定められた。そして各「故地」の住民は「原住民native」と「非原住民non-native」に分けられ、当該地の行政局は「原住民」が上位となる階層構造をもつものとして組織された。このようにアフリカにおいて、創られた「伝統的」文化的アイデンティティと、それと癒着された政治的アイデンティティの創造によって、多数派住民は政治主体としては解体されたのである。

著者は、これらの法・行政が歴史記述の様式、すなわち歴史観と不可分であることに着目し、19世紀以降の典型的なアフリカ史観はダブル・スタンダードが通底していたことを指摘する。まず、人種の歴史と部族の歴史は対照的な枠組みで書かれていた。すなわち、人種の歴史は親族紐帯から地域的連帯を経て国家形成に至る発展史として書かれ、グランド・ナラティヴたり得るが、部族の歴史は諸親族史としてミクロ・ヒストリーの群に留め置かれた。さらに、このような歴史観のダブル・スタンダードは、アフリカは文明のない空白地帯であり、「北」から来た肌色の浅い外来者によって文明化されたのだとする歴史観——本書でいう「ハム仮説(Hamitic Hypothesis)」(著者はこの用語を1960年代に刊行されたA Short History of Africaに倣って用いている(p.103))——の20世紀半ばまでの流行としても現れた。

このような歴史観は「様々な形での相互受容の過程というより、事前にパッケージ化された文化の一方的なダウンロード」(p.81)を示唆する。これはハム仮説に限らず、「アラブ化Arabization」(「アラブ人」という文明人との接触によって特定地域(住民)が文明化したとする概念・認識枠組)や「ローマ化Romanization」(同様に「ローマ人」という文明人との接触により文明化が起こるという概念・認識枠組)といった、しばしば歴史記述において使用される用語も同様である。マムダニが批判するのはこの、特定の人々に「文化」的なものを固着させて認識するモードそのものである。

その批判はまず、「スーダン地域のアラブ化」として表現されることも多かったスーダンの近代的変容について、当該地に存在していた2つの王国に関する史的事実を照らし合わせることで展開される。

16世紀から存在したフンジュ王国とダルフール王国はともにイスラーム王朝であったが、ともに、主たる構成員がアラブ人というわけではなかった。特にダルフール王国は、構成員の出自も多様で階層移動も盛んだったが、公用語はアラビア語であった。両王国において、住民の出自あるいは系譜と、文化(信仰や言語)は癒着していなかった。また、アラブ人が移入した際にも、必ずしも彼らは特権的階級にあったわけでもなく、一方的に人々の文化を変容させたわけでもなかった。

フンジュ王国は19世紀前半にムハンマド・アリー朝エジプトの侵攻によって滅ぼされた。ここで伸びたエジプトのスーダン統治の手は、しかしながら、スーダンで救世主思想(マフディズム)を背景にした大規模な反乱「マフディーの乱」が起こったことで一度引き下がり、1885年にはマフディスト国家、すなわちスーダン人による国家が再び誕生した。これを英・エジプトが1898年に滅ぼしたところから、英・エジプト共同でのスーダン統治が始まる。

マムダニによれば、英国はスーダンにおけるマフディスト国家建設をインド大反乱に次ぐ危機として認識しており、だからこそ、その後の統治方針は領域内住民の徹底的な部族化を主軸とした。つまり、英・エジプトはダルフール王国を保護領化した上で、それ以前から存在したスルタンからの土地の授与制度を利用しつつ、住民を「原住民native」と「よそ者strangers」に分け、区分けされた土地を原住民の故地として配当した。こうして住民を土地に縛り付けるとともに、小農優遇・牧畜民劣位の階層構造をもつ原住民行政機構を設置した。このように、多様な出自の構成員が様々に階層移動しつつ形成していたスーダン社会は、19世紀末に始まった英国が関与する支配によって、土地と文化が固着された人々の集団の寄せ集めである部族社会へと変貌したという。

第2章最終節ではローマ帝国に話が転じる。それは、19世紀半ばにメーンが間接統治のアイデアを生み出した際、ローマ帝国における領域内住民の分割統治(divide and rule)を参照したが、果たして間接統治と似ていたのかを検証するためである。ローマ帝国では、ローマ市民と属州民といったように、確かに領域内の住民は区分けされ別個の法の下にあった。しかし、属州住民が望めばローマ帝国行政に政治主体として参入する門戸は開かれていた。マムダニは、この点でもって、ローマ帝国の統治はむしろ英国による統治では直接統治に近かったと結論する。領域内住民を単に分ける(divide)のではなく、文化および居住地において固着させ(define)、それにより帝国行政の主体としては参入させなかった、間接統治の新しさと強力さが浮き彫りになる。

第3章

最終章では、その後の社会に深い爪痕を残した間接統治の影響を、独立期アフリカ諸国において「解毒」しようとした二つの方法が論じられる。歴史記述(歴史観)と法・行政の側面における解毒法である。

一つ目は、ナイジェリア人歴史家ユスフ・バラ・ウスマン(1945–2005)が提唱および実践した歴史記述法である。ウスマンは、歴史記述において道具となるカテゴリー・概念・前提それ自体が歴史的に形成されていることや、過去を見る行為とは見る者の生きる時代における観点からしかできないことを強調した。これらに意識的になった歴史記述こそが独立後のアフリカに必要だったためである。

この態度をアフリカ史の記述に向けると、権威づけられ正当化されてきた諸々のカテゴリー・概念・前提等に対してまったく新しい記述を行う必要が生じる。19世紀以来のアフリカ社会は、系譜に基づく集団、すなわち部族/民族を基本単位として認識され記述されてきた。例えば、「ハウサ語」を話す「ハウサ人」の社会があり、その政治構造が記述対象とされたように。ところがウスマンは、共通言語を話す人々に概念レベルで共通性を見出すことがあったとしても、政治、経済、社会構造の記述はそのような概念ではなくより具体的で明確な地盤を要すると論じた。そして、系譜ではなく地域性(地理的範囲)を単位とする新しい観点から、「ハウサ諸王国」の一つとされた(現ナイジェリア北部に14世紀から19世紀まで存在した)カツィナ王国の政治史を書いた。これからのアフリカ史家には、従来典型であった歴史観——アフリカ人の歴史を系譜に基づくミクロ・ヒストリーとして捉えハム仮説を支持する歴史観——を、間接統治の遺物として批判し乗り越えることが求められる。そのために、「アフリカの歴史的・現代的現実の特性が理解され得るような概念枠組の創造」(p.100)をもする必要がある。ウスマンが提示した新たな歴史観とそれを実践するための道具立てが、ウスマンによる表現を豊富に引用しながら紹介されている。

二つ目は、タンザニア初代大統領ジュリウス・ニエレレ(1922–1999)の行政である。帝国支配から独立したアフリカ諸国において、シティズンシップを誰に与えるかは重大な問題であった。癒着したものとして認識された〈言語=文化=系譜〉による線引きに基づくシティズンシップ付与は、しばしば「民族間/部族間」紛争に発展した。その中でタンザニアは、120以上のエスニック・グループを抱えながらも、国民国家形成が成功した例外として知られる。その要因はニエレレの功績として語られ、今日でもタンザニアではニエレレを「先生」や「国の父」等と尊称で呼ぶことが定着している。

ニエレレは、間接統治の遺物である、人種と部族の差異、および、部族内の差異を、政治構造内において中和しようとした。しかしこの「リベラルな思想」(p.118)は、様々な抵抗と衝突せざるを得ず、「リベラルでない手段」(p.118)によって実現された。その経緯を、著者はニエレレと彼が率いた政党TANUの立場の変遷として、三つの出来事に着目して描いている。

まず、最初の出来事は1958年の人種別選挙への参入である。独立を目指すアフリカ人政党TANUの影響力増加を受け、独立を阻止したいタンガニーカ政府は、人種優位構造を維持する立場の右派政党(UTP)に有利な人種別選挙(選挙資格が社会上層部に限られ、かつ欧米系、アジア系、アフリカ系の議席数が同一)を1958年に実施した。アフリカ人政党であったTANUは妥協して欧米人とアジア人の候補者も擁立して選挙に参入した。この判断に失望したアフリカ系の人々は「アフリカ人の国家」を目指す左派政党(ANC)へと分離した。結果としてTANUが勝利したが、TANUはANCにも配慮し、TANU加入要件はアフリカ系に限定していた。

次に、独立時(1961年)の国籍付与対象をめぐる議論における対応である。ANCは国籍取得者を「アフリカ人」に限定すべきとしたが、この案をニエレレは拒否し、タンガニーカ国籍は居住地を根拠に付与されることとなった。ニエレレの下に組閣された初期内閣にも、アフリカ系に加えインド系と欧米系の大臣が含まれた。

第三に、独立から1964年に至る「アフリカ化Africanization」期、つまりアフリカ系国民へのアファーマティブ・アクションへの期待高揚期における対応である。当時は複数政党期であったが、ニエレレと対立派との争点は、国民内での不平等と「アフリカ化」の概念をめぐるものとなった。ANCとその支持者は国民内での格差を問題視して、植民地期に抑圧されてきた「アフリカ人」を優遇するという意味での「アフリカ化」を求めた。それに対してニエレレ側は「タンガニーカ人に均等に機会を与えること」こそ「アフリカ化」であるとした。

この立場を守るためにニエレレ陣営は独裁色を強め、公務員の労組への加入禁止、予防的逮捕の合法化、政府による特定組織の清算等が進められた。1963年には、それまで維持されてきたTANU加入要件をアフリカ系に限定する要件が撤廃され、同時に一党体制移行計画が宣言された。これに反対して数百人が武装蜂起すると、ニエレレは英国に軍事的支援を要請し、英軍による攻撃が行われた。別の角度からの動きとして、「非アフリカ系の職」としてANC側から問題視された職業が、実質的に教育を受けた女性にとっての希少な就職先であったことから「男が無職なのに既婚女性が働くな」というANCの立場に反対する女性たちがニエレレ支持を表明したことも相まって、TANUは反体制勢力を抑え込んだ。

これら一連の経緯を、マムダニは、「権利」と「正義」(p.117)との緊張関係として読み解いている。権利を誰しもに平等に付与することと、それ以前の植民地行政構造によって蓄積されてきた不平等を均すという正義は、相容れない側面を持っているのである。

1964年にタンガニーカ政府は島嶼部のザンジバル政府と連合してタンザニアを形成した。1965年に一党体制となったTANUがその後社会主義路線を突き進み、暴力的な人口村政策の実施等を経て1970年代には国家は経済的に破綻し、最終的に社会主義路線は放棄された。このことはタンザニアあるいはアフリカにおける「社会主義の敗退」の事例として知られる。しかし興味深いのは、著者は、この時期のニエレレの政策判断を社会主義という理想のためではなく、間接統治により分断されていたタンザニアを平等な国民国家として再形成するべく、強い中央集権化を進めようとしたためと読み解いていることだ。「ニエレレの独裁」や「社会主義の失敗」を、個別の事例としてではなく、このような一続きのストーリーの中に置くことによって、間接統治が生んだ住民分断の傷の深さと、それを乗り越えることそのものが伴う痛みの大きさが示されている。

コメント

以下、評者のコメントを添えつつ関連文献を紹介したい。

本書の議論は、植民地支配についての言説の刷新を期待するならば、その意義はやや分かりづらくなるように思う。というのは例えば、インド大反乱後の英国の統治方針の転換の端緒をメーンにみる観点は『帝国のアリバイ』(Mantena 2010)が先鞭をつけている(ただしこのことは本書内でも触れられているし、本書の基となった講演は『帝国のアリバイ』刊行以前に行われている)。また、「植民地行政が住民を分断した」という話も、旧英領植民地を対象とする研究者にとっては新しくない。各地でセンサスが19世紀後半以降に実施されたというのもよく知られている。

しかし注意すべきは、本書が問うのは言説ではなく、行政という実践でありその社会的影響である点だ。間接統治は言説のレベルではなく、実際に特定地域の住民を分断し、分断された当人たちにも文化的アイデンティティと結びついた政治的アイデンティティという新たな主観=主体を植え付けた。

著者が批判する先は明快である。すなわち、「系譜および文化と結びついた政治単位がある」という認識は、それ自体が多分にファンタジーであり、19世紀後半以降の産物だということだ(著者のこの姿勢は、本書以前の著作においても、本評末尾で案内する最新作Neither Settler Nor Nativeにおいても貫かれている)。これは、具体的な名称をもつ「○○人」や「○○民族」が近年生まれたカテゴリーであるといった次元の話ではなく、もっと根本的な認識のモードの次元の話なのである。

このような議論はポストコロニアリズム的で、本書も他のポストコロニアル議論にもついて回る疑問から自由ではない。例えば、果たして間接統治の前の世界では、今日みられるような民族・部族対立がなかったという見解はどの程度一般化できるのか。仮に本書で言及される事例でこの見解が支持されたとして、果たしてその見解はどの程度一般化できるのか。これらは、もちろん議論の余地がある。

このような留保をつけた上で、しかしながら、本書は現代世界を分析する道具として興味深い仮説を提示しておりチャレンジングであると思う。

その独創性はまず、著者の視野の広さにある。本書の視野は地域研究としては異様に広い。文体は簡易だが、グローバルな現象を一続きの物語として展開する壮大な試みがなされている。そのため、言及される地域についての基礎的な情報はしばしば省かれている。論理はごく簡潔に展開されているために素直に読み進められるのだが、論理を支える具体的な史実や社会情勢を理解するためには、大英帝国という広大な地理的範囲内の様々な植民地行政とそれを取り巻く社会情勢という、広範な地理的・歴史的教養が求められる。地域研究の書籍としては「不親切」なこのような記述が読者に突きつけるのは、まず、特定地域の教養だけでは到達できない地点があるということである。

しかし本書はいわゆる「グローバル・ヒストリー」とも、重なりつつも異なる毛色を有している。本書でグローバルな俎上に載せて論じられるのは「間接統治」であり、それは著者が独特に切り出した共通性をもつ統治概念、かつ、統治方法であり、その誕生と発達とその後の社会的影響が論じられる。既に述べたように、「間接統治」という用語は、もっと狭く消極的な意味付けをされつつ、アフリカ地域研究で広く使われてきた。本書の特徴は単にその広い視野に求められるのではなく、著者はあくまでもアフリカ地域の社会現象に軸足を置いて、そこから世界を見ている点である。アフリカ地域研究を通して得られた概念を、近代を読み解く鍵概念として分析視座に据えることで、世界史を書き直しているのである。

著者は、評者の目からはアフリカ地域研究者に見える。「地域研究」というジャンルは、ふつうは地球規模よりも狭い範囲を見ることが期待されるし、その範囲内で社会分析を突き詰めることこそが重要であるとされる。それさえすれば地域研究者としては十全だという認識は広く受け入れられている。このような学界の現状に鑑みて、本書は二つの貢献をしている。まず、常識的な地域研究者には、今日の常識的に単位化されている地域だけを見ているのでは見落とす近代の物語があることを突き付ける。二つ目は、グローバルなフローを見る研究者には、スーダンのイスラーム王朝やナイジェリアの歴史家やタンガニーカの政治史といった、明らかに世界史の中で主役には抜擢されそうもない「末端」における社会現象から導かれた概念でもって、グローバルな近代史に新たな光が当てられ得ることを突き付ける。本書は、間接統治とは、非西洋世界の住民を文化的差異の強調とともに政治的に分断し単位化したシステムであり、統治法としては積極的かつ強力な効用をもっていたという側面をあぶり出す。私たちが生きている現代世界は、このような単位化の認識が広く根深い影響を遺した世界である。

この知見は、インド亜大陸から東南アジア、アフリカ、そしてそれらに影響した英国人による法と行政の分析を繋ぎ合わせることによって導き出されている。評者はこの、インド亜大陸、アフリカ、イギリス帝国を連続的に捉える視座は、「インド系アフリカ人」である著者にとっては自然的に獲得された視野であったのではないかと想像する。現代世界で国籍でも文化でも出自でも明確に「○○人」として「固定define」されないような存在である著者にとって、本書が提示する視座とは、突飛で奇抜な発想を試みた結果ではなく、自然に繋がっていたものを繋がったまま提示しようとした結果なのではないだろうか。

マムダニは、間接統治についての「帝国によって単位化された植民地のそれぞれで、赴任した行政官がめいめいに効率の良い統治法を採用した」という従来のマスター・ナラティヴに、異議申し立てにも近い補論を提供している。間接統治は単に直接統治の代替であったのではなく、それ以降の非西洋世界の人々の認識それ自体を変えてしまった。私たちは、英国はじめ諸帝国が19世紀後半以降に発明した「境界」を、しばしば所与のものと認識する世界に生きている。この観点を得た時、従来地域研究の単位として前提視されていた諸概念を、疑い、相対化する地域記述は可能なのか、何らかの地域に関わっている人なら考え始めたくなるのではないだろうか。

文献紹介

本評執筆にあたり、評者が参照した簡潔な概説は、本書で紹介された事例について知りたい人にも有用であろうと思う。

著者の最新の単著は、本書のエッセンスを踏襲しつつ、400頁に及ぶ緻密な事例研究を提供している*4

  • Mamdani. 2020, Neither Settler Nor Native: The Making and Unmaking of Permanent Minorities, Cambridge: The Belknap Press of Harvard University Press.

メーンと当時の英国における影響については以下。

  • Mantena, K. 2010, Alibis of Empire: Henry Maine and the Ends of Liberal Imperialism, Oxford: Princeton University Press.
  • 岡嵜修 1988,「ヘンリー・メインの歴史法学」『明治大学大学院紀要 法学篇』25: 43–55.

英領インドについての教科書的解説としては以下。

  • 粟屋利江 1998, 『イギリス支配とインド社会』山川出版社.

英国支配から今日に至る「マレー人」定義の歴史的構築過程とマレー人優遇策については以下。

  • 中島咲寧 印刷中, 「マレー人とは誰か:境界に立つインド系ムスリム住民の視点から」『アジア・アフリカ地域研究』23 (2) .

アフリカの間接統治、特に英仏の差異あるいは類似性についての概説は以下。

  • 中尾世治 2022, 「独立前の歴史:複数世界のなかのアフリカ史」遠藤貢・阪本拓人編『ようこそアフリカ世界へ』昭和堂, pp.69–84.

アフリカ史の概説書としては以下。

  • 宮本正興・松田素二 2018, 『改訂新版 新書アフリカ史』講談社.
  • Shillington, K. 2019, History of Africa, Fourth Edition, London: Bloomsbury Academic.

アフリカ史観をめぐる概説および事例研究としては以下。

  • 楠和樹 2019, 『アフリカ・サバンナの〈現在史〉:人類学がみたケニア牧畜民の統治と抵抗の系譜』昭和堂.

謝辞

草稿に目を通して忌憚なきコメントをくださった京都大学の中島咲寧さんに記して御礼申し上げます。率直なコメントにより、いくつかの重大な誤りを正すことができました。最終稿における至らぬ点はすべて評者の責任によるものです。

1同内容を示す文としてp.42も参照のこと。原文を読む限り、subjectivitiesには、自分が何者かという自己認識、すなわちどのように自己が属する集団とそれ以外とを切り分けるかといった認識方法(主観)が含まれている。同時に、そのような主観に基づき政治主体として集団化していく様も描かれており、この段に至るとsubjectivitiesは単に「主観」というよりも「主体」と訳したほうがよいように思える。しかし、「主体(性)」という訳語だけでは、その前提となる自他の境界への認識そのものという観点が表現されないので、本稿ではsubjectivitiesを「主観=主体」と訳した。

2当時から英領マラヤには華僑とインド系住民がいたが、英国は両者を移民として認識し、それに対応するマレー半島の「現地人」として「マレー人」という概念を生み出した(中島 印刷中)。マムダニは華僑とインド系住民には言及していないが、ここでの「住民」とは、英国行政官にとっての「現地住民」と限定的に読みかえるべきである。

3tribeの訳語として、インドに関する文脈では「トライブ」、アフリカに関する文脈では「部族」をあてた。その理由は、今日それぞれの地域研究でtribeの訳語として一般的に用いられる語が、それぞれ「トライブ」と「部族」と異なっていることと、インドでのtribeとアフリカでのtribeは本文内で示すように異なる意味合いを帯びているからである。インドではtribeは、raceではない人々を、個別民族名を超えて比較的集合的に捉える概念および行政単位であった。対照的にアフリカでは、tribeは特定の言語文化および親族体系をもつ部族/民族を指す概念であり、raceではない人口は常にtribesと複数形で認識されていた。

4こちらは英国アカデミーで年間4冊のみノミネートされる「グローバル文化理解書籍賞」にノミネートされ、国際的に話題となった。ノミネート理由はこちらのリンクから読める(https://www.thebritishacademy.ac.uk/blog/book-prize-2021-neither-settler-nor-native-mahmood-mamdani/)。

出版元公式ウェブサイト

Harvard University Press (https://www.hup.harvard.edu/catalog.php?isbn=9780674050525)

評者情報

仲尾 友貴恵(なかお ゆきえ)

2023年現在、日本学術振興会特別研究員(PD)として国立民族学博物館に所属。専門は、社会学、アフリカ地域研究、社会人類学。博士論文研究の調査地はタンザニア連合共和国ダルエスサラーム。主著は『不揃いな身体でアフリカを生きる:障害と物乞いの都市エスノグラフィ』(世界思想社 2022年、第35回日本アフリカ学会研究奨励賞受賞)。現在は関心を東アフリカ諸都市における障害者に関わる福祉実践の歴史的構築過程とインド亜大陸からの移民との関係に広げ、基礎から勉強中。最新の著作は「すれ違う世界観、間を流れる福祉:東アフリカの都市の事例」(『現代思想』51(1) 青土社2023年)。

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