Tokyo Academic Review of Booksonline journal / powered by Yamanami Books / ISSN:2435-5712

2023年10月21日

ハンス゠ティース・レーマン『ポストドラマ演劇はいかに政治的か?』

林立騎(訳), 白水社, 2022年

評者:石見 舟

Tokyo Academic Review of Books, vol.60 (2023); https://doi.org/10.52509/tarb0060

要約

本著は訳者によって独自に編まれたドイツの演劇学者ハンス゠ティース・レーマン(1944–2022)の論文集である。計10本の論文が収録されており、巻頭論文を含む6本はレーマンの論文集『政治的なものを書く』(Das Politische Schreiben, Theater der Zeit刊、2002 / 2012)から採られている。諸論文を貫くのは、演劇における政治性とは何か、という問いだ。各論文のなかで著者レーマンはその政治論をさまざまな実例とともに検証していくのであるが、そのどれもが緻密なテクストの読解に基づくもので、広い視野でもって演劇を捉えようとする知的冒険に満ちたものとなっている。

本邦訳は全28章から成る『政治的なものを書く』から6本を選び、別の論文4編を追加している。この編集作業によって日本語話者である読者たちにどのようなレーマンの主張が伝えられることとなったか、あるいは伝えきれなかったかについて訳者によるまとまった量の解題がないのが惜しい。というのも、本来であればそれを通じて、レーマンの理論が演劇学ないし演劇実践においてどのような参照関係にあるのかが分かり、彼の理論の意義を広範囲な文脈で理解することが可能になるからだ。また彼の主張をより深く理解し、批判的な検証を加えつつ発展させていくためには、日本語ですでに訳されている文献は非常に有益であろう。しかしそれについての言及がまったくないのは、読者にとって損失であると言わざるをえない。本評の下に文献案内を掲載したので、ご参照いただきたい。

したがって、本評では本論文集に収録された論文の論旨を示しながら、レーマンの演劇(における政治性)についての理論を概観したい。本論文集に立ち入る前に、まずはレーマンの演劇論の代名詞とも言える「ポストドラマ演劇(postdramatisches Theater)」という語について簡単に見ておこう。「ポストドラマ演劇」とは、1960年代以降の主として西洋における演劇実践の新しい潮流を適切に「言語化する概念的な道具立て」(レーマン『ポストドラマ演劇』19頁) を用意することにある。そのために必要なのは西洋においてながらく規範であり続けた「ドラマ」という枠組みの批判的検討である。それによって見出されるのは、ながらくドラマと演劇(theatre / Theater)が同一視されてきたこと、そしてそれは歴史的な見方に過ぎず、時間的および空間的により広い視野から検証すれば、実は両者のあいだには差異が認められるということである。ここでドラマと呼ぶものの定義については『ポストドラマ演劇』や『悲劇とドラマ演劇』(Tragödie und Dramatisches Theater, Alexander Verlag刊、2013、序章のみ邦訳あり。文献案内を参照のこと)に詳しいが、演劇における政治論の範疇でいえば、決断し行動する主人公として人間存在を理解しようとする「日常的狂気」(本著167頁。以下、本著からの引用にはページ数のみ記す)のことである。そのかわりにポストドラマ演劇の視座が提示するのは、「自分に力があるという幻想」(同上)を焦点化することであった。こうして「ドラマの後」としての「ポストドラマ」の意味が明らかになってくる。それは「反ドラマ」や「反テクスト」を意味するのではない。これはポストドラマに長くつきまとってきた誤解であるが、この誤解こそドラマ的精神とテクストがこれまで強力に結びついていたことの証拠でもある。本著で遺憾なく発揮されているように、ポストドラマ演劇的分析手法にテクスト分析は欠かせないものである。俳優身体や空間、時間といった演劇的要素がドラマ的精神の再現のために用立てられるようなヒエラルキー構造から、それぞれの演劇的要素が平等に扱われるような構造への転換。それこそがポストドラマ演劇が定式化した演劇の見方であり、それは言ってしまえばごく自然な見方でもある。しかし、ひとたび劇評を試みたり、理論的な言葉で語ろうとすると、人々は自分が演劇上演で見たり感覚したことからどんどん遊離してしまうのが常である。ポストドラマ演劇は新しいジャンルを宣告するのではなく、演劇実践のなかでなされる多種多様な実験から刺激を受けて生まれる批評や演劇史に対して新しい論理的枠組みを提唱することを目指すのだ。このようにして書かれた『ポストドラマ演劇』のエピローグ(レーマン『ポストドラマ演劇』327–344)の主題は、ポストドラマ演劇における政治性であった。レーマンはこれをより拡充させて『政治的なものを書く』を上梓したと言えるだろう。

『政治的なものを書く』の巻頭論文であり、本著でも巻頭に置かれている「ポストドラマ演劇はいかに政治的か?」(5–20)では、ポストドラマ演劇にも政治性があることが擁護される。そもそもこの問いは、政治演劇というものがすでに確立していること、そしてポストドラマ演劇がそれから逸脱しているのではないかという疑いに由来するものだ。ここでレーマンは「政治的なもの(the political / le politique / das Politische)」というフランス現代思想で導入された語を用いることで、政治演劇の文脈へポストドラマ演劇を接合することを回避する。つまり、「政治演劇(political theatre / politisches Theater)」というように「政治」を形容詞的に捉えるのではなく、形容詞の名詞化、あるいは副詞的に捉えるのが著者の基本姿勢である1。旧来の政治演劇とは、政治的メッセージを扱い、それを観客に伝達することを目的とする演劇形式である。それに対して、「演劇における政治的なものは、政治的なものの再現としてではなく、政治的なものの中断[Unterbrechung des Politischen]として思考しなければならない」(13–14)というのがレーマンの基本的な主張である。演劇はメッセージを伝達するための道具ではなく、「政治的なものが演劇において効果を持つのは、それが現実社会の政治的言説の論理、統語法、概念に翻訳することも訳し戻すこともできないときであり、またそのときのみである」(13)と言う。このように、レーマンの演劇論は、演劇経験の独自性を他ならぬ演劇美学的言説で救い出すことに賭けられている。さもなくば、演劇は政治的ないし道徳的言説を伝達し検討する場に終始し、「観客を裁判官にしてしま」(16)うのである。その代わりにポストドラマ演劇が提示する政治性とは、「自分自身の判断の不安定な前提を経験」(16)させることにある。それは観客としての「私」の主体性を問い直し、その地位の危うさを暴くような経験である。それを可能とするのは、演劇経験内部からの問い直しのみである。すなわち「政治的なものとの真の関係を迎え入れることができるのは、なにかしらの規則を揺さぶる演劇ではなく、演劇自体の規則を揺さぶり、見世物としての演劇を中断する演劇だけである。」(17–18)それによって同時に問われるのは、「観客の存在が構造的に含むもの、つまり演劇的瞬間に対する観客の潜在的な共同責任を明るみに出すことである。」(18)このようにしてレーマンは、演劇における政治性を、戯曲が扱う政治的メッセージの検討にではなく、今ここに人々が寄り集まり、身体的に経験し、逡巡する瞬間に見出そうとするのである。

続いて本著第2章「揺さぶられる秩序——モデル・アンティゴネ」(21–46)は、ソフォクレスのギリシア悲劇『アンティゴネ』における「政治的なものの中断」の具体的なありようをテクスト・レヴェルで詳細に探求する。この作品はまさに近代ヨーロッパでドラマ観の定式化を行ったヘーゲルが題材とした作品である。ヘーゲルのドラマ観については『ポストドラマ演劇』の53–58ページに詳しいが、反逆者となった兄の葬送をめぐって、アンティゴネが叔父であり摂政であるクレオンと対立することは広く知られているだろう。これはヘーゲル『精神現象学』の「精神」章によれば、家族の法を体現するアンティゴネと国家の法を体現するクレオンとの対立であり、両者とも不完全であるがゆえに破滅的な結末が待っている。しかしレーマンが戯曲の読解を通じて見出すのは、アンティゴネがクレオンに対して別な法を確証したのではなく、「拒否しつつ、制限をつけながら、ただ法には『限界』があることを主張」(34)したということであった。つまり、『アンティゴネ』での対立は、ある法と別な法の対立・闘争なのではなく、措定される法とそれの土台を突き崩し、揺さぶるような出来事との対比なのである。ここからレーマンが「モデル」として抽出する「演劇の可能性とは、政治共同体(ポリス)の秩序を支える確実な物事を一時停止させ、だからといってその秩序を反論によって否定しないこと」(40–41)である。

次の『政治的なものを書く』外から収録された第3論文「悲劇とポストドラマ演劇」(47–67)は、美学者クリストフ・メンケとの論争からの応答であり、2013年に発表された『悲劇とドラマ演劇』内での見取り図とも重なる部分が多い。下記の文献案内で紹介している田中均論文に、メンケとレーマンの論争は詳しい。だが田中論文は第3論文で詳述される悲劇にまつわる二つの方向性である「対立モデル」と「越境モデル」の説明を割愛してしまっている(田中均論文70頁の註10を参照)。評者の考えでは、この二つのモデルこそ、両者の見解の違いを端的に指し示すキー・ポイントである。対立モデルは、さきほどの『アンティゴネ』論で批判されたような二つの法(秩序、性格等)の対立として悲劇を捉えるというもので、これはレーマンによって否定的に評価される。一方、越境モデルこそが探求の対象になるべきもので、それは主体が形成されるときに必然的にはらむ逆説を美学的に捉えるためのモデルである。したがって、ここで揺さぶられるのは主体一般であり、言ってしまえば、俳優と観客それぞれの主体性である。ここでは演劇がメッセージや情動の伝達の場であるという構想自体も揺さぶられているのは先に見たとおりである。メンケの「演技の悲劇」説をレーマンが反論する動機は以下のようにまとめられる。

筋/行動にアイロニカルな構造があっても、また悲劇の英雄がみずから語るよりも語りかけられているに等しい語りの悲劇的アイロニーがあっても、これまでの装置、すなわち観客が虚構の筋/行動の再現表象の上演を観るという装置は手付かずのままだからである。それゆえ「演技の悲劇」は、演劇の演技そのものが無傷であり、上演が賭けに晒されない限り、実は生じえない。[…]そこから近年の演劇実践が引き出した帰結はこうだ――演劇はただ上演される演技にとどまることはできず、観客という存在がその内側になにを含みうるか[Implikation des Zuschauers]、その内実に関わる新しい形式が絶えず求められるようになる。(63–64)

やはりここで賭け金となっているのは、観客という存在の根本的な、つまりラディカルな経験である。レーマンとメンケ両者の論争は、観客の経験をどのように把捉するかという見解の相違から生まれているのではないだろうか。

4番目の論文「観客について」(69–77)は小論ながらも、参照されることの多いレーマンの有名な論文のうちのひとつである(こちらも『政治的なものを書く』外からの収録である)。演劇とは、「観客が自分自身を経験する」(70)きっかけを与えるものである。より具体的に言えば「わたしがわたしを経験するということは、抵抗感を抱き、心理的に攻撃されていると感じ、それだけは見たくなかったという物事を見るとき、非常に強く生じる。」(74)不意に出来事に巻き込まれるなかで自身を経験するという仕方で、観客の態度は「まだ概念も厳密な表象もないなにかに向けられ」(76)るのだ。

続いて第5論文は「『ファッツァー』試論——ベルトルト・ブレヒト」(79–96)である。ブレヒトが『三文オペラ』の前後に意欲的に執筆していたものの、完成させることができなかった戯曲断片『ファッツァー』を採り上げる。『ファッツァー』に特徴的なのは、文章群が「記録」と「注釈」の二つに分類されていることである。いわゆる通常の戯曲形式で書かれた「記録」に対して、しかし「注釈」は権威的な解釈を与えはせずに、「出来事と解釈、表現と解釈という旧知の関係を完全に崩壊」(83)させる。ここで注目されるのは、身体的行為の「遂行(Aus-Üben)」(同上/原著298頁)、すなわち行為(Üben)の外化(Aus)である。レーマンは『ファッツァー』を「近代の『アンティゴネ』として」(87)読み、ここでも措定された法(Gesetz)とその脱‐措定(Ent-Setzung)2が非対称であることを見出す。そして「ドラマ的説明に代わるものとして、叙事化ではなく、反復の儀礼が現れる」(93)と見て、ブレヒトの演劇論のうち人口に膾炙した「叙事詩的演劇」よりも、行為の反復に注目すべきだと主張する。行為の反復が他者の前で示されることによって、出来事の一回性という虚構は失効し、劇場(シアター)の今ここ、すなわち観客の前で行為が「遂行」されることが認識されるのだ。「これにより演劇空間は表象(の優位)の彼方に開かれる」(94)と言う。これは『ポストドラマ演劇』で、ブレヒトが筋に最後までこだわり続けたこと、それゆえにブレヒト演劇とポストドラマ演劇は異なる考え方であり、つまるところポストドラマ演劇は「ポスト・ブレヒト演劇」(レーマン『ポストドラマ演劇』42頁)でもあることが唱えられたことに対する、レーマン自らの応答でもある。

また、『ファッツァー』執筆当時、ブレヒトはもうひとつ大きな演劇プロジェクトを構想していた。「教育劇(Lehrstücke)」と呼ばれるそれは、党としての共同体とそれに自身を動員する個人との軋轢をケース・スタディ的に提示する短編戯曲であるが、『ファッツァー』自体もその要素をさまざまに引き受けるものの、純然に教育劇にはカテゴライズしえない戯曲である。本著の最後の第10論文であり、また『政治的なものを書く』の最終章でもある「教育劇と可能性の空間」(207–229)は、「『ファッツァー』試論」で「表象(の優位)の彼方に開かれる」(94)と言ったときの「開かれ」についてのより詳細な思索である。このような「開かれ」は漠然とした未知の未来を指し示すのではない。ブレヒトは、アリストテレス由来の「模倣(Nachahmung)」の「後(nach)」を「前(vor)」へとひっくり返して「予倣(Vorahmung)」という言葉を生み出した。これは単に未来の出来事を予言的に示すことではなく、あくまでも「演劇の現在において生じる」(208)ものなのである。このとき、「現在は模倣にも伝達にもテーゼにも心理にもならず、示す行為と身振りになる。」(208)それに取り組むのは演出の仕事であり、したがって新しい演出概念が必要であるというのがレーマンの主張だ。(215)

第6論文「演劇、アウラ、ショックと映画——ヴァルター・ベンヤミン」(97–115)は、ベンヤミンが『複製技術時代の芸術作品』で一回性に由来するアウラとは切り離された芸術概念を思考するときに映画を例に採ったことの矛盾を突く。すなわち映画は「アウラの消滅などではなく、アウラの経験可能性は大衆に拡大すると証言することだったのではないか? 映画とは技術的複製時代のアウラなのではないのか?」(102)という疑いである。同じころにベンヤミンはいち早くブレヒトの叙事詩的演劇に注目していたが、その演劇分析の成果が、演劇と映画とのあいだには本質的な差異があるにもかかわらず、映画分析に転用されたことを本章は指摘する。 つまり彼が演劇の特徴に見出した「俳優と観客の境界が穴だらけになること[Durchlöcherung]という観点」(105)が映画分析においてはひそかに脱落しているのである。 これによりベンヤミンは、映画の観客である大衆がショックを観客に与える装置であるところの映画を使いこなして自らを組織化し制御できるとするユートピア的発想に陥ってしまった。20世紀の前半から映画がファシズム等のプロパガンダに利用されていくことを思えば、確かにベンヤミンの観客論はユートピア的であると言わざるをえない。

第7論文「この世界にともに住まうこと——ペーター・ハントケ」(117–140)と第8論文「亡命の決断——アイスキュロスとエルフリーデ・イェリネク」(141–172)も、『政治的なものを書く』外から本著に収録された章である。これらはそれぞれの題材を、今まで見てきた演劇における政治性の観点から個別に検証したものである。現在の読者にとっては、ハントケのノーベル賞受賞にさいして再燃したユーゴスラヴィア紛争におけるセルビアへの彼の連帯に対する異議についてのレーマンの時評的言及がとりわけ示唆的かもしれない。ハントケは「書く者のパースペクティブから見た演劇」(128)にこだわり、劇作家として現実社会の政治的トピックに応答するよう期待される観劇態度との微妙な摩擦とともに創作を続けてきた。またイェリネクがヨーロッパにおける難民問題を、アイスキュロスの悲劇『嘆願する女たち』に取材して執筆した『救われるべき者たち』を分析する第8論文では、近代ヨーロッパのドラマ以前の演劇である「プレドラマ」とポストドラマにおける悲劇が比較・分析されている。悲劇についての理論は先の「悲劇とポストドラマ演劇」と軌を一にするが、ギリシア悲劇の主人公の苦悩が、決断にあるのではなくて、神から一方的に与えられた行為の実行に「ためらう」(147)瞬間にあり、それこそが演劇的な瞬間であるということが強調される。

第9論文「対立の演劇——アイナー・シュレーフ」(173–205)ではイェリネク作品の演出家としても有名なアイナー・シュレーフの演劇論『ドラッグ、ファウスト、パルジファル』を読み込むなかで、彼の演出作品に特徴的な合唱隊(コロス)のありかたについて擁護する。コロスという集団は、個人を包摂する仕方においてドラマ演劇外の手法であると、レーマンは主張するのだ。「主体とコロスを対決させる二項対立的モデルの解消」(191)のあとでそれでもなお対立が生じるとき、舞台はドラマ的ではなく、演劇(シアター)的対決の場となりうる。そこでは諸個人が形成する共同体についての洞察がなされていると言える。

コメント

レーマンは、ジャック・デリダ以降のフランス現代思想を理論的足がかりとしながら、今ここで起こる演劇的経験について記述していくスタイルを一貫して採用する。今ここの経験を記述するとは、人間の脳の反応を科学的に計測するような経験論的なものではなく、人間が観客という身分の主体として出来事に参加することについての倫理的な探求を意味する。このために重要なのは、戯曲や演劇論のテクストの丹念な読解である。本評の要約をご覧いただければ分かるように、ポストドラマ演劇が反テクストではないことはわざわざ繰り返すまでもないだろう。

レーマンの広範な仕事を本訳書は日本の読者に——しかも手に取りやすい形で——提示したという点で重要な出版である。本評では本著の付記として、『政治的なものを書く』についての概要を紹介し、本著で紹介されなかった論点のいくつかを紹介したい。

原著『政治的なものを書く』第2版は前書きを除いて28章から成り、それらが都合6篇に分類されている。以下に目次を訳出する。邦訳に収録された章には星印を付けた。

    • 前書き
    • 第2版への前書き
  • 「中断」篇
    • ★ポストドラマ演劇はいかに政治的か?
    • ★揺さぶられる秩序——モデル・アンティゴネ
  • 「表象可能性」篇
    • 恥の世界演劇——表象の退却についての30のアプローチ
    • 崇高なものは不気味なものである——出来事の芸術の理論について
    • 消尽のエコノミー——ジョルジュ・バタイユ
    • リスクの美学——演劇とタブーについての覚書き
    • 革命とマゾヒズム——ゲオルク・ビューヒナー、ハイナー・ミュラー、ジョルジュ・バタイユ
  • 「ドラマ」篇
    • ドラマ的形式と革命——ゲオルク・ビューヒナー作『ダントンの死』とハイナー・ミュラー作『指令』
    • ヴォイツェク・タイム
    • クライスト/ヴァージョン
    • ヤーンのテクスト——どのような演劇か
    • ★対立の演劇——アイナー・シュレーフ、2001年9月11日以降〔原副題はEinarSchleef@post-110901.de
  • 「アウラ」篇
    • ★演劇、アウラ、ショックと映画〔——ヴァルター・ベンヤミン:邦訳版の付記〕
    • ある中断された表象——ヴァルター・ベンヤミンの子どもの演劇の理念について
  • 「他なるブレヒト」篇
    • 他なるブレヒトに強い光を当てて
    • おとぎ話的/おとぎ話‐拘束〔Fabel-Haft〕
    • セクシュアリティ:ブレヒトの作品におけるとある「恐怖の中心」
    • ★『ファッツァー』詩論〔——ベルトルト・ブレヒト:邦訳版の付記〕
    • 尺度の取り戻し——ベルトルト・ブレヒトにおける罪、尺度、越境
    • ブレヒトのブロック
  • 「ハイナー・ミュラーのための予備研究」篇
    • ミュラーの亡霊たち
    • 『オイディプス王』
    • 『ホラティア人』
    • 『マクベス』
    • テクストの美学‐演劇の美学——東ベルリンでのハイナー・ミュラー作『賃金を下げる者』
    • モノローグとコロスのあいだ——ハイナー・ミュラーのドラマトゥルギーについて
    • コメンタールと殺人
  • ★教育劇と可能性の空間

本訳書ではブレヒトについては2章分を掲載し、ハイナー・ミュラーに言及している箇所も多く訳しているが、それでもなおブレヒトとミュラーについては本評で触れておく必要があるだろう。というのも、レーマンの政治論はミュラーの創作を周回するように行われており、最終篇に——すべてが書き下ろしではないものの——実に7章もの論文が収録されているからである。しかも、「ポストドラマ演劇はいかに政治的か?」の最後の文「政治的な演劇実践は、まずはここに追いつかねばならない。すなわち、死にゆくドラマ構造において、意識を爆破すること。(Explosion des Bewusstseins in einer absterbenden dramatischen Struktur.)」(20/原著27頁)という表現は暗にハイナー・ミュラーの演劇テクスト『画の描写』をほのめかしているのだ。『画の描写』に作者自らが付け足した注釈はこのような謎めいた文で終わる——「筋は任意である、つながりは過去であり、死滅したドラマ構造のなかの記憶の爆発なのだから。(Explosion einer Erinnerung in einer abgestorbenen dramatischen Struktur)」(ハイナー・ミュラー『ハムレットマシーン』、岩淵達治・谷川道子訳、未來社、207頁。なお本稿の文脈に合うように一部を改めた。)このようにレーマンの政治論はミュラーの衝撃から紡ぎ出され、またそこへとつねに回帰していくような思索の道筋をたどっている。

ハイナー・ミュラー研究はレーマンにとってライフワークであり、1980年にゲーニア・シュルツが発表した『ハイナー・ミュラー』(Heiner Müller, Metzler刊、1980)に数章の作品論が掲載されている。そこから『政治的なものを書く』へは3編が再録されているのだ。レーマンによるミュラー論の白眉は、デリダの亡霊論を下敷きにミュラーの創作を整理した「ミュラーの亡霊たち」だろう(文献案内中の拙訳をご参照いただきたい)。ここではポストドラマ演劇の直接の源流となった後期作品だけでなく、『建設(Der Bau)』という1960年代の戯曲も取り上げられている。『ハムレットマシーン』などの有名作品だけでなく、『建設』をも俎上に載せようとするレーマンの興味は、ミュラーらに胚胎していたポストドラマ演劇の系譜を剔出するだけでなく、ミュラーという名の現代ドイツ史との取り組みを可能にすることにもあったのだ。

歴史との取り組みを、メッセージや言説のレヴェルではなく、他者の行為が見られ、共有されるという演劇的状況のもとで可能にするためのヒントは『政治的なものを書く』では二つの革命論においても示唆されている。「革命とマゾヒズム」と「ドラマ的形式と革命」は革命劇という直接的に政治的な主題を、未来の理想を実現するために現在の身体を捧げるという時間性と性愛や憎悪といった身体的情動の観点から再読する意欲作である。

付け加えるならば、ハイナー・ミュラーの先達であるベルトルト・ブレヒトに対して新しい視座を提供した点でもレーマンの功績は大きい。論文「他なるブレヒトに強い光を当てて」は1992年に発表されたもので、とりわけ亡命以前のブレヒト作品についての新しい読み方を提出した画期的な論文である。ミュラーは「ブレヒトを批判することなく使うことは裏切りである」(Heiner Müller: Werke. Bd. 8. Suhrkamp 2005, p. 231.理論テクスト「ファッツァー±コイナー」の最後の一文)と言ったが、そのブレヒト批判を演劇美学の見地から試みた成果であると言えよう。

ではこのようなレーマンの仕事は、ドイツ語圏の演劇学においてはどのような位置付けにあるのだろうか。以下にかいつまんで、同時代の研究やその継承を紹介したい。まず、レーマンはハイナー・ミュラーについて、ライプツィヒ大学教授のパトリック・プリマヴェージ(Patrick Primavesi)と共編で『ハイナー・ミュラー・ハンドブック』(Heiner Müller Handbuch, Metzler刊、2003)を出版した。これはミュラーの生涯、キーワード、作品論、各国の受容、出版・上演・研究等の事項を網羅したミュラー研究の土台となる書である。そこには先に挙げたゲーニア・シュルツとの仕事からのレーマンの問題意識が引き継がれている。またブレヒト研究についてはライプツィヒ大学名誉教授のギュンター・ヘーグ(Günther Heeg)の論文集『霊廟からのノック』(Klopfzeichen aus dem Mausoleum, Verlag Vorwerk刊、2000)がそれに応答している。こちらにはハイナー・ミュラー演出のブレヒト後期作品『アルトゥロ・ウイの興亡』やシュレーフによるブレヒト演出の分析をはじめとして多彩な論や証言が収録されている。またボーフム大学名誉教授のウルリケ・ハース(Ulrike Haß)は論文集『ハイナー・ミュラー『画の描写』——表象の終わり』(Heiner Müller „Bildbeschreibung“ – Ende der Vorstellung, Theater der Zeit刊、2005年)の編者やシュレーフのコロス論の著者として、レーマンと同時代的に研究対象を共有し活発な意見交換をしてきた。また彼女の主著『見ることのドラマ』(Das Drama des Sehens, Wilhelm Fink刊、2005)は近代の観客主体が出来する状況を、ジャック・ラカンの理論を用いながら、建築ないし視覚文化のもとで歴史研究的に描き出している。悲劇論に留まらないレーマンとメンケの論争や「ポストドラマ演劇」という術語の意義については、2020年にギーセン大学教授ゲラルト・ジークムント(Gerald Siegmund)が『演劇、ダンス・パフォーマンス入門』(Theater- und Tanzperformance zur Einführung, Junius刊、2020)で豊富な上演例とともに手際よく整理し、問題点をあぶり出した(特に第5章)。また本著にも一度言及があるフランクフルト大学教授ニコラウス・ミュラー゠シェル(Nikolaus Müller-Schöll)は『「構成的敗北主義」の演劇』(Das Theater des „konstruktiven Defaitismus“, Stroemfeld刊、2002)で、ベンヤミン、ブレヒト、ミュラーにおける脱措定の瞬間をテクスト内在的に読み込んでいる。

レーマンの仕事の一端が日本語の読者にとってもアクセス可能になったことは大変喜ばしいことであり、上に挙げたような研究の翻訳・紹介とともに、レーマンの理論の批判的な検証から今後の研究が発展していくことを願ってやまない。

文献案内

  • ハンス゠ティース・レーマン『ポストドラマ演劇』谷川道子・新野守弘・本田雅也・三輪玲子・四ツ谷亮子・平田栄一朗訳、同学社、2002年。
  • ハンス゠ティース・レーマン「翻訳『序論』——『悲劇とドラマ演劇』より」津﨑正行訳、『舞台芸術』22号、2019年、144–162頁。
  • ハンス゠ティース・レーマン「『ポストドラマ演劇』の十二年後」津崎正行・平田栄一朗訳、『第三次 シアターアーツ』49号、2011年、4–21頁。
  • ハンス゠ティース・レーマン「ハイナー・ミュラーの亡霊たち」、石見舟訳、慶應義塾大学独文学研究室『研究年報』特別号、2021年、1–31頁。https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN1006705X-20210531-0001
  • 『演劇学論集 日本演劇学会紀要』67号、2019年、特集「ポストドラマ演劇『研究』の現在」。https://www.jstage.jst.go.jp/browse/jjstr/67/0/_contents/-char/ja
  • 田中均「『ポストドラマ演劇』と『悲劇の現在』──ハンス=ティース・レーマンとクリストフ・メンケの演劇理論をめぐって──」同上所収、55–70頁。https://doi.org/10.18935/jjstr.67.0_55

1これを、映画監督ジャン゠リュック・ゴダールの定式をアレンジして、「政治演劇を作る(to make political theatre / politisches Theater machen)」から「政治的に演劇を作る(to make theatre politically / politisch Theater machen)」あるいは「演劇を政治的にする」への転回と呼ぶこともある。これを書名にした論文集はレーマンのこの第1論文を再録している。cf. Jan Deck, Angelika Sieburg „Politisch Theater machen“ transcript刊、2011年、29–40頁。

2この術語はベンヤミンの「暴力批判論」由来のものだが、『ポストドラマ演劇』のエピローグ(334頁)でも言及がある哲学者ヴェルナー・ハーマッハーによって深められたものである。彼の論文「アフォーマティヴ、ストライキ」自体は未邦訳だが、増田靖彦による訳者解説に詳しい。cf. ヴェルナー・ハーマッハー『他自律』月曜社、2007年、175頁以降。

出版元公式ウェブサイト

白水社 (https://www.hakusuisha.co.jp/book/b606362.html)

評者情報

石見 舟(いしみ しゅう)

慶應義塾大学・東京都立大学・桜美林大学・立教大学等非常勤講師。専門は演劇学およびドイツ文学、特に20世紀ドイツ演劇(ベルトルト・ブレヒト、ハイナー・ミュラー)。関心領域は、演劇における風景、亡霊、政治論。

主な論文に「『空っぽの真ん中』という風景——ハイナー・ミュラー『落魄の岸辺 メデイアマテリアル アルゴー船隊員たちのいる風景』における破局的風景の時空間」(『研究年報』第38号、2021年)、「〈今ここ〉からずれる風景——ハイナー・ミュラー『ハムレットマシーン』を例に」(平田栄一朗・針貝真理子・北川千香子共編『文化を問い直す』彩流社、2021年、165–188頁)など。

プロフィール:http://web.flet.keio.ac.jp/~hirata/Profis/Ishimi_Profi.html