2024年2月24日
Bill Nichols, Engaging Cinema: An Introduction to Film Studies
W.W.Norton & Company,2010年
評者:大谷 晋平
本書は、映画学(Film Studies)に関する文献であり、人間の現実理解において映画の表象と社会の接点を考察する点において重要な視座を提示している。本書の全体像としては映画の表象分析における方法論を網羅的に描き出す映画学の教材としての機能も担うことが意識して書かれているため、通読するだけで現時点における映画学的な表象分析の基本的な知識や思考が身に付くと思われるが、本書評では、現在の人文学において重要と思われる視座の提出に注目したい。すなわち、映画の表象が社会のあり方の理解において機能を持つとはどういうことかを考察するための土台ともなるような視座を提出している点、言い換えれば、個々の映画作品を見た上でそれぞれの表象を通じて現実世界のあり方を理解するとはどういうことなのかを考察するための理論的な議論に焦点を当てて書き進めたい。なぜなら、映画学においては、1960年代以降の記号論的な映像言語を読み解く方法論的試みを応用し、1970年代以降の映画がいかにイデオロギー装置として機能してきたかを、(ポスト)コロニアリズム、フェミニズム的観点や、人種の描き方等を映像イメージの記号を読み解く流れを経て、1970年代後半頃より文学における物語論と合流しながら、デビッド・ボードウェルに代表されるような観客が映像を通じて物語を構築していく理論を組み立てる認知主義的な議論の展開があり、さらに1990年代以降はトム・ガニングの初期映画論やジョナサン・クレーリーらの視覚文化論のように、映像をめぐるテクノロジー体験を明らかにする流れがあり、現在はそれらを経て、映像による物語の構築も含めた映像体験が観客の現実の理解のあり方をどのように生み出すのかについての理論的考察が(明に、暗に)求められる段階になっていると思われるからである。それは、例えばマルクス・ガブリエルの「意味の場」に代表されるように、現実の諸々の現象の意味づけ方における個々人の差異に焦点を当てた近年の諸議論にその傾向が見られる。また、従来の映画学において盛んであった映像のテクストに根ざした考察方法だけでなく、上記のガニングやクレーリーのように、映像が観客にどのような体験を与えたのかについての分析を通じて、近代の合理性がもたらした人間の身体的体験と、それを通じた身体や思考の傾向のあり方を明らかにする、幅広く映像を享受することの考察を通じて人間のあり方を論じることに帰着する議論が興ってきているのである。
こうした近年の動向を鑑みて、本書評では、まずBill NicholsのEngaging Cinemaの全体の構成やそれぞれの要点を押さえつつ、その後で特に映像を通じた現実世界の理解のあり方を論じた章(第二章、第五章、第八章)を重点的に取り上げて本書の意義を考察していくことにしたい。
本書の著者であるBill Nicholsは、長年ドキュメンタリー映画に関する理論の構築や批評を行なってきた映画学の専門家である。1978年にカリフォルニア大学で映画学のPh.Dを取得後、カナダのクイーン大学の映画学部局の副部局長や部局長を務めたりいくつかの映画学関連の大学で教鞭をとり、1987-2013までサンフランシスコ州立大学の教授を務めた。彼はこれまで単著を八冊出しているが、いずれもドキュメンタリー映画や、映画におけるリアリティの構築などに焦点を当てたものであり、彼が長年映像と現実の連関を扱ってきたことが窺える。
本書評で取り上げるEngaging Cinema: An Introduction to Film Studiesは、彼の六冊目の著書であり、その名の通り映画学に関して、特にテクスト分析の方法論について網羅的に書きつつ、映画学の研究者や批評家になることを目指した学生が読むことも想定したものである。そのため、本書を通読すれば、現在の映画学において少なくとも映画の表象分析について基本的な知識や考え方が身につくと言えるだろう。
大まかな構成は以下の通りである。全体は三部、十二章構成になっており、第一部が「形式のコンテクスト」という括りで、「言語としての映画」(第一章)、「映画のエンゲージメントとアヴァンギャルド映画」(第二章)、「ドキュメンタリー映画」(第三章)、「物語叙述とナラティヴフィクション映画」(第四章)という構成である。第二部は映画の「社会的なコンテクスト」をテーマとして、「三つの基本的なスタイル:リアリズム、モダニズム、ポストモダニズム」(第五章)、「制度的、国家的なコンテクスト:ハリウッドとその先」(第六章)、「ジャンル映画」(第七章)、「イデオロギーと映画」(第八章)、「人種と民族性」(第九章)、「ジェンダーと男らしさ」(第十章)、「フェミニズムと映画」(第十一章)という構成になっている。そして第三部が「映画観客の応答」、「映画について書くことと語ること」(第十二章)である。目次を見てわかるように、第一部は映画を理解するための鍵概念を扱い、第二部はそれらの鍵概念を使いながらどういった観点から読解していくか。そして、第三部はそうした分析・考察の具体的な書き方に関するものというように、三部を通して現在の映画読解がそもそもどういった制度によって成り立っているのかの流れがわかるようになっている。
このように映画のテクスト分析に関する内容が充実しており、本文だけで470ページを超え、各章の参考文献、映画用語解説、索引を含めると540ページを超える。ただ、全ての章について詳しく見ていくとかえって要点がぼやけてしまうので、上記したように、ここからは各章の要点を押さえつつ、現在の人文学的な課題と関連すると思われる第二章、五章、八章に焦点を当てて、映画による現実理解の差異によって生じる人間(社会)のあり方を明らかにするという課題へと広がる議論の可能性を見出したい。
それでは第一章から確認していこう。この章はシニフィアンとシニフィエといった言語学、及びそこから展開した記号論を土台とした、映画における言語的機能の前提を踏まえた上で、具体的な映画演出がどのような意味を創出してきたかということを述べた、1960年代以降の映画学の基礎となる知識や考え方を押さえるものとなっている。すなわち、映画においてシニフィアンが「観客に物質的に提示するもの」で、シニフィエが「観客に提供される意味」が相当する(例えば、スクリーンに「赤くて丸いもの」=シニフィアンが映し出され、それが「りんご」=シニフィエという意味が提供される)という映画の言語学基礎の議論からはじめ、物語的な繋がりを観客に理解させるための、映画の編集の基礎的な考えを示した後に、ショット、音、ライティングなどの個別的な要素の基礎的知識を提示する。すなわち、映画読解のための基本的な知識を押さえる章となっている。
第二章は、映画の現実世界と繋がりを持つことに関する基礎的な議論と知識を述べるものである。著者は第一章を第二章以降の映画と現実の結びつきを分析する土台として想定しているため、著者の議論は実質的にこの章から始まると考えて良いだろう。そのため、第二章は本書の基底を構成する部分であり、また、後で見る第五章や第八章の土台ともなるような考え方が整理されている部分なのでここで詳しく確認しておきたい。
まず著者は、「映画は人々や光景という物理的現実を再現(represent)するだけでなく、ある種の世界に直面してそれがどのような感じかを具象化(embody)したり、あるいは、例示(exemplify)(鮮明なひな型を提供する)したりする」(p.71)と述べる。すなわち、映画で映し出されるものは、現実世界のあり方としてそれが提示されるだけでなく、それが一種の別世界を作りだすのである。
さらに、映画は現実世界を指し示すだけでなく、映画それ自体の体験という次元があることを説明していく。要約すると以下の三種である。
1. 感情の投入:映画のリズムやトーンは、感情的に惹きつけたり反発を起こす可能性を持ち、それが私たちの全体的な感情の投入に結びつく。
2. 知的な従事:映画言語や慣例、社会的隠喩などにより、検索パターンを作ったり見ているものの意味を作る試みをさせる。
3. イデオロギー的な巻き込み:映画製作者が支持する特定の政治的観点を心から受け入れることから、激しい拒否に至るまである(全ての映画が政治的な観点を採用しているわけではない)。
(丸括弧原著者。p.73)
さらに、そうした映画を見ることの複雑さは欲望の議論に結び付けられる。すなわち、映像のシニフィアンを通じて今目の前に無いものを指し示すことは、私たちの欲望の反映であるという。そして映画言語(ショット、編集、物語叙述など)によってその欲望は追求されるのである。
ここでは三つの議論が提示されていると言えるだろう。まず、映画が何を提示しているか。また、観客のその映画体験はどのように分類できるか。そして、映画が提示しているのは現実の物理的な現象だけではなく、私たち観客の欲望であり、それは映画言語の提示の仕方そのものの力によってなされる、というものである。
上記のように整理すると、「映画が提示するものは現実世界と映画的世界であり、その二つを観客が常に同時に体験することは、観客の欲望と、その欲望を指し示すことができる映画言語の持つ力を意味する」という明瞭な議論がなされ、ここで本書の基本的な態度を定めているように思われる。ここではまず、スクリーンに提示される映像が①まずもって現実世界の物理的な存在を指し示すシニフィアンとして機能することと、②その映像提示それ自体を体験する次元があるという、二つの次元に分けて映画受容を考える記号論的な映画学の基礎的な点を押さえている。そうすることで、現実を理解することと、映画そのものを理解することとを分けて考えることができるのである。その上で、この二つの次元は観客にとっては、感情を呼び起こしたり、映画言語を読み解く知的営為を行い、映画が提示するイデオロギーの受容と拒否を判断したりする三種の体験に結びつく。ここで著者は映画のスクリーン上での現象と観客の体験とを結び付けるが、この議論の展開は第五章における、映画におけるリアリズム・モダニズム・ポストモダニズムなどの、映画と世界の理解のあり方の関係の議論の基底を成すことになる。すなわち、映画は確かに現実世界において製作者たちが被写体をカメラに収めて情報を一定に管理してその提示の道筋を定めて上映するが、観客にとっては、はじめから現実の何かを指し示しているというよりも、スクリーンに映し出される光からなる現象(とスピーカーから出る音響)があるだけである。例えばその光の現象に「物語がある」「現実世界の現象を扱っている」とみなされるのは観客の知的営為の結果生じるものであり、スクリーン上の現象とそれを体験する観客という両者の連関が映画のシステムである、という立場である。
この立場は1980年代に北米で盛んになった、デビッド・ボードウェルらを中心とする認知主義的な映画物語論(Film Narratology)を基本的に踏襲するものであるが、彼らが基本的にフィクション映画を対象にしてスクリーン上の諸現象によって観客がいかに物語を構築するかを考察していたのに対し、著者はドキュメンタリー映画を対象にすることで、観客による映画の理解という行為の考察に加え、その行為を通じて現実世界の理解のあり方がいかに成されるかという議論を持ち込んだ。さらに著者は上記のように、本書の第二章でその基底となる論の整理をした上で、スクリーン上の諸現象を観客が理解する営為は観客の欲望の表れでもあるという議論を展開した。
ここで映画言語によって指し示されるものとしての欲望が引き合いに出されるのは、1960年代以降の記号論に基づく映画言語を観客が理解する映画受容のあり方によって今ここに無いものをも指し示す機能についての議論や、1970年代以降の、ローラ・マルヴィの「視覚的快楽と物語映画」に代表されるような映画が観客の視覚的な快楽を求める欲望を引き受けてきた点を批判する議論が背景にあると思われる。
このように俯瞰すると、第二章における、「映画が提示するものは現実世界と映画的世界であり、その二つを観客が常に同時に体験することは、観客の欲望と、その欲望を指し示すことができる映画言語の持つ力を意味する」という一連の議論は、言語学に由来する映画論に基づいて、記号論的に映画言語を機能させてそれを理解する観客の営為を考察する認知主義的な映画論、観客の欲望を一定引き受けつつ観客に現実世界の見方や感じ方を定めるイデオロギー装置としての映画論を下地にしながら論を展開していくものとして本書を定めていると言える。このことを踏まえた上で、映画と現実理解の連関をいかに語れるのかに踏み込んでいく後の章を見ていきたい。
第三章は「ドキュメンタリー映画」というタイトルでその名の通りドキュメンタリー映画を扱う。ここではチャールズ・サンダース・パースの記号論において提示された記号クラスの議論の中でもインデックス性をまず取り上げる。そして、カメラが撮影したものがフィルムに焼き付けられた上で上映されることは、映画が「かつて・そこ」にあったものを指し示すインデックス性の機能を有していることを確認した上で、ドキュメンタリー映画が現実と関わりを持って成り立っていることを提示し、その現実の提示方法を基準に6つのモードに分類する。
第四章はナラティヴ映画についての章であり、映画における物語叙述がフェミニズムや人種・民族問題などのイデオロギー、共通の社会問題、国家に関する問題、映画の歴史、映画プロダクションとスタイルの関係、観客の映画受容、上映禁止に関する問題等と結びついていることがそれぞれ作品例を挙げながら指摘される。これらの中でも特に「人種と民族性」「ジェンダーと男らしさ」「フェミニズム」に関するものは第九章から第十一章でより詳しく、物語や描写の仕方、娯楽性やステレオタイプの構築などの観点でそれぞれに関わる映画の歴史なども踏まえながら説明される。ここの議論は必ずしも映画学だけでなく多様に展開していくため本書評ではこれらに深く踏み込むことはしないが、それらの議論を支える理論的な基底の部分であり、また、何らかのメディアを通じて現実を理解するとはそもそもどういうことかという議論に展開する可能性を探るためにここから第五章と第八章に焦点を当てて詳しく見ていきたい。
第五章は映画におけるリアリズム、モダニズム、ポストモダニズムについて考察されている。著者によると、大きな変化がある時は作品における形式の構成要素と、社会の構成要素の連動した変容が起こる(pp.175-176)。ここで形式的な構成要素に焦点が当てられるのは、「想像力を活性化させるために新しいものの見方が求められ」(p.176)、そして社会的な構成要素に着目するのは「社会は常に変化するものであり、その変化に対応するために最も適した表現手段は、それを取り巻く社会の変化に適した新しい代表的な表現手段である」(p.176)からであり、著者はその時々の社会に適する表現手段の変容として映画の表現形式を上記の三つのモードに分けた。すなわちこの章では、社会を理解してそれに合わせた表現を含む映画の一面を論じている。それは、現実世界の理解のあり方と映画の関係性を考察する切り口を提示していることにもなるだろう。この点を念頭に置きつつ、著者の提示するリアリズム・モダニズム・ポストモダニズムについて確認しよう。
まず、リアリズムについては以下のように述べられる。
形式的には、映画は物語世界を控えめに、透明なやり方で提示するので、作中人物、アクション、状況、そして出来事はまるでそれがそれ自体で存在するかのように見える。ナレーションの過程、あるいは物語ることは比較的目立たず、ナラティヴあるいはストーリーが視聴者の関心の大半を占める。これらがどのように構築されてるかということが意識されることはほとんど無い。
社会的には、映画は、多くの人が経験している日々のリアリティの常識的理解を形作る。その世界は、歴史的世界の側面と強い相関性を持って結びついているように見られる。(…)リアリズムは、台頭する中産階級と、その公私にわたる苦闘と連帯する。また、労働者階級の貧困問題、不正義、犯罪に焦点を当てる。(p.177)
続いてモダニズムについては以下のように説明する。
形式的には、物語世界がそれ自体で成立しているように見せることに取って代わる、物語ることそれ自体の非常に顕著なプロセスである。コラージュとモンタージュに依ることは、ナレーションあるいは物語ることの新たな主張の鍵となる要素である。
社会的には、作中人物の内面的で主観的な生活の探究があり、作中人物は周囲の環境とは関係なく、自分自身の想像の世界に入り込む。社会的なリアリティを共有することよりも、個人の意識、記憶、欲望のリアリティを受け取ることが同等に、あるいはより重視される。(p.188)
最後にポストモダニズムについてである。
形式的には、高い水準の引用、オマージュ、借用、複製、そしてその他の過去の作品を再生利用して物語叙述の過程それ自体に注意を向ける。ポストモダニズムは反コマーシャリズム、モダニズムにあったエリート的質に欠ける。大衆芸術と高尚芸術の言及、伝統、想像上の世界の作為を強調する慣例をない混ぜにする。 社会的には、ポストモダニズムは、ある想像上の世界がいかに現実そのものよりも他の想像世界と似ているのかを強調する。このように芸術が生活から切り離されることで、あらゆる媒体で過去作からの借用が横行する。その結果、物語世界が、同じ形式的慣習に支配された他の想像世界との関係において自らを位置づけるにつれて、より外部の社会的参照という感覚は減少していく。(p.200)
以上は各モードについての記述の冒頭に提示された概要である。簡単にまとめておくと、リアリズムの時代は、物語が作りものであると人に意識させず、あたかもそれ自体で存在しているかのようにして社会的常識の理解を促進し、モダニズムでは、物語ることが人物の内面を表すような方法として結び付き、ポストモダニズムでは物語るあり様自体を多様にしてそれを強調することで、物語世界のあり方が複数生じて相互に位置付けあうようになっている。
ここで著者は、ポストモダニズムにおいては「より外部の社会的参照という感覚は減少」する、すなわち、作品が対応する社会のリアリティや慣習を指し示しているという感覚が減少すると説明しているが、それは見方を変えれば、物語世界のあり方の多様さによる相互規定によって生ずる社会を提示しているとも言えるのではないだろうか。すなわち、著者の言うところのリアリズムは社会規範的感覚が多くの人に共有されることが前提とされているように思われるが、それをポストモダン的視点の社会規範に引きつけると、人がそれぞれ別の物語世界を生きているということ自体を社会規範として共有するリアリズムを示唆しているように思われる。つまり、個々人が別々の物語世界を持っている事自体をリアリティをもって感じ取る感覚が共有された社会になっている、という規範である。そうした社会の映画では、他者の物語世界を追体験してその世界の論理や感覚を自己に取り込んだり、複数の物語世界の接点や摩擦点を提示するような機能を(結果的に)担うことがあるだろう。著者が過去作からの引用や借用が一般的になっていることを指摘しているとすれば、それはある世界の提示(引用される過去作)が別の世界の提示(過去作を引用する作品)に開かれていることであり、映画表現の観点からすると、引用前の過去作における世界の提示方法で意味されるものが、引用後は同様の提示方法であっても意味されるものは引用前の過去作品から変容していることになる。それはすなわち、引用される過去作と引用した作品との接点を提示していることであり、その様態をつぶさに考察することで引用元の世界観と引用後の世界観の差異、あるいはその差異が生じる要因を明らかにしつつ、別々の世界観が共にあることを模索することに開かれていくのではないだろうか(第五章でポストモダンにおける引用の例として、原著者がクエンティン・タランティーノの『レザボア・ドッグス』と『キルビル』が香港映画という異文化間の映画を挙げているのは非常に示唆的に思われる。(p.203))。
上記の第五章は、引用の議論を切り口にして別々の世界の理解のあり方同士の接点を映画論的に考察する新たな議論の可能性に開かれたものとして最も重要な章だと思われる。
第六章は映画を扱う組織について、映画研究機関、映画会社、映画に関する技術的な産業、国家の四つに大別して、それぞれの簡単な成り立ちと特徴が論じられている。本書評の観点からは少し逸れるが、特にpp.236–246におけるハリウッドの検閲、レイティングシステムの成り立ちや概要がまとめられており、特に初学者には有用だと思われる。
第七章は映画におけるジャンルがテーマになっている。同章ではS Fや西部劇、ミュージカルなど11種のジャンルが、我々が入り込む世界、感情的な動き、対立の方向づけの大まかな傾向に基づいて整理されたり、個人と社会とに大別して、作中人物がある社会の代表を担うよう性格づけられる手法とジャンルとの関係などが論じられる。
第八章は「イデオロギーと映画」というテーマで論じられており、第五章において論じていた映画の形式的なモードと社会のモードが、さらに具体的に特定のイデオロギーの醸成へと方向づけられる様態について議論を展開させている章だと言えるだろう。著者は、イデオロギーを、ある個人の世界の見え方や振る舞いの方向づけをする力だとし、映画がその方向づける力をどのように個人にもたらしたり、あるいは映画がその力を表したりするのかを本章を通して考察している。
その中ではエイゼンシュテインのモンタージュ理論や、映画とブレヒトによる異化効果との連関を考察しながら映像が意味を作り出したり現実の物質の意味を変容させる効果について整理している議論がある。著者はそれをもたらす映画の効果を急進的な形式(radical form)と呼んでいるが、そこに政治的な性質が与えられたり、美的な性質が与えられたりするものなどに分類している。ただし、この章での映画表現についての分析はナレーションによって映像の意味が規範的でない方向づけで語られることや、作中人物の行動が急進的であるかどうかなどに留まり、あまり具体的な演出は詳細に読み解かれてはいない。あるいは体系的に演出とイデオロギーの連関を考察するのではなく個別の作品の演出に言及するにとどまっている。
第九章から第十一章までは、それぞれ人種と民族、ジェンダー、フェミニズムにテーマを絞り、第八章をより個別のテーマに絞って展開させる実践編のようになっているが、大まかには作中人物の振る舞いやストーリーなどの分類をもとに、表現された内容を細分化して近年の傾向や映画史的な成り立ち(例えば、ハリウッド映画における人種の問題の変遷など)の概要を記述するようなものとなっている。すなわち、映画が観客の現実理解をどのように作り出すかというメディアの特性と人間の現実理解のあいだを語るというよりも、映画で何が表現されているのかのシニフィエが確定されているものを、さらに細分化して傾向を見出したり歴史的に位置付けたりする章となっている。そのため、それぞれの章を読む際は、第五章、第八章──すなわち、映画が現実の理解に結びついていると言うための議論──を押さえてからにするとより理解が進むだろう。
最後に第十二章は観客の問題について簡単に触れられているが、大半は映画作品に関するレビューやレポートの意味や意義、それらを実践する際に押さえておいたほうが良いポイントなど、映画学を学ぶ人に向けた章となっている。
ここまで確認してきたように、本書は、特に言語学を土台とした記号論や物語論的な映画学を網羅的に記述する教科書的な性質を持つものであるが、第二章、第五章、第八章は現実と映画の連関を考察する土台となる理論的な議論がなされている部分であった。これからはそれぞれの章の議論を深化させることや、あるいは各章のあいだを考えることが新たな議論をもたらすことに結びつくと思われるが、最後にこの点について触れて必要な議論を炙り出したい。
ポイントは、映画が現実を提示しつつ映画的体験を提示する二つのレヴェルを同時に表し、それは観客の欲望を指し示す映画言語の機能によってなされていることを述べた第二章の要点と、それら映画が提示する二つのレヴェルがリアリズム・モダニズム・ポストモダニズムに分類される第五章、さらに、これらの映画のモードがいかに現実世界において人間の振る舞いや思考を方向づけるイデオロギーとして機能しているかという第八章の問題が有機的に結びついているかどうかであろう。管見では、特に第五章と第八章の間はより細かな議論が必要であったのではないかと考える。
第八章については、映画がどのようにイデオロギーを表現しうるかという議論よりも、映画作品のテーマがどのようなイデオロギーに分類されるのかという議論に傾斜した印象がある。この点を含めて、やはり映画表現とイデオロギーの連関についての議論は課題があるように思われる。
そのため課題解決に向けて第五章と第八章との連関を検討する必要がある。すなわち、表現の様態が異なると観客が映像を意味づけるための思考の方法が変わり、その変容がイデオロギーの理解のあり方を変える可能性がある点について検討しなければならないだろう。なぜなら、映画によってある映像表現の意味づけ方が変容するということは、現実でどういった現象がどのようなイデオロギーに結びついているのかを考える私たちの思考や理解の方法に影響を与えるということだからである。
そうした映画のあり方は、例えば、映画監督の松本俊夫(1932–2017)の前衛記録映画論を用いて説明できよう。彼は、1950年代から1960年代の日本共産党のイデオロギー啓蒙的な左翼映画を批判して前衛記録映画論を提唱し、映画の表現様態の探究を通じて自己のうちに暗に潜んでいる固定観念を炙り出して変革することを目指した。つまり、映画の表現様態がある現実理解のあり方を提示しているが、それが暗に共産党のイデオロギーに方向づけられているという一連の解体に焦点を当てたものである。この映画論は具体的には共産党による全体主義的イデオロギーの批判に向いていたが、本書における第五章と第八章のあいだについて映画実践において考察を加えるものだろう。具体的には自転車を各部品に解体して空間に設置して撮影して我々がよく目にする自転車のイメージを変容させたり(『銀輪』)、何が映し出されているかわからないが映像が揺れ動いて抽象的な模様が激しくうねるような演出を政治闘争の表現に結びつけたり(『安保闘争』)、説明的な表現を減らして、今までの現実理解が、自分たちにとって理解しやすいように人為的に構築されていたことを露わにするような映像表現を多用しているのである。そうすることで、私たちが何かを「理解した」という状態が既に何らかのイデオロギーに方向づけられていることを示すのである。
このような映画の表現様態とイデオロギーの連関を明らかにするものは、近年ではトム・ガニングやジョナサン・クレーリーなどの視覚体験の文化論的研究を通じて近代の合理性がもたらした人間のあり方を炙り出すものなどの展開を見せているが、まだまだ体系的な理論化はされていない。これらは本書における言語学を下地にした記号論的な映画研究とアプローチを異にするものであるが、両者のアプローチの接点を考えることが、表現様態が現実理解をもたらし、それがイデオロギー的に方向づけられる連関の研究により高い精度をもたらす可能性があるようにも思われる。
著者の主な文献案内
- Bill Nichols, Introduction to Documentary, Third Edition. Indiana University Press, 2017.(初版は2001年)
- Bill Nichols, Representing Reality: Issues and Concepts in Documentary . Indiana University Press, 1992.
- Bill Nichols, Ideology and the Image: Social Representation in the Cinema and Other Media. Indiana University Press, 1981.
著者HP
出版元公式ウェブサイト
W.W.Norton & Company(https://wwnorton.com/books/Engaging-Cinema/)
評者情報
大谷 晋平(おおたに しんぺい)
所属:神戸大学国際文化学研究推進インスティテュート・学術研究員。大阪大学、立命館大学、神戸市立看護大学、国際ファッション専門職大学非常勤講師専門は映画学、特に映画物語論、日本映画史。
主な業績:
- 「戦中・戦後日本映画における連続性批判の考察:日本の「新しい波」による批評を切り口に」日韓次世代学術フォーラム『次世代人文社会研究』第16号、2020年5月刊行、313–334頁.
- 「松本俊夫と羽仁進の映画論、そしてアヴァンギャルド芸術運動:1950年代から1960年代初頭までの活動考察」、日本映像学会『映像学』第102号、2019年7月刊行、94–114頁.
- 「「主体」を巡る映画的探求の「萌芽」としての勅使河原宏『北斎』:瀧口修造版との比較分析」、日本映像学会『映像学』第101号、2019年1月刊行、114–133頁. など
researchmap:https://researchmap.jp/otani_shimpei