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2025年7月25日

小国喜弘 『戦後教育史:貧困・校内暴力・いじめから、不登校・発達障害問題まで』

中央公論新社, 2023年

評者:中森 千裕

Tokyo Academic Review of Books, vol.72 (2025); https://doi.org/10.52509/tarb0072

要約

はじめに

本書は、「子どもの人権はどのように扱われてきたのか」(31頁)という問いを鍵に、戦後の小学校・中学校教育が歩んできた道のりを辿る。通史的な叙述に加えて問題史的な叙述を組み合わせることにより、各時代が抱えてきた問題や閉ざされた可能性を描いた一冊である。

第1章・第2章:戦後教育改革の起点

第1章では、教育基本法および学校教育法の制定過程に着目する。男女共学、単線型学校制度、障害児の教育を受ける権利の保障など、一見すると全く新しい戦後の教育制度を取り上げ、それらが実は、中央集権的な要素を残し権利の主体を国民へと限定するという、戦前との連続性を孕んでいることを示す。

第2章では、戦後、教育を受ける権利が初めて憲法で明文化された一方、その制定過程において既に、教育を受ける権利の主体が国民へと限定されていたことを明らかにする。また、児童福祉に関する法整備が進んだにもかかわらず、虐待、人身売買、被爆した子どもたちへの差別など、子どもの人権が尊重されない現実が様々あったことを提示する。

第3章〜第5章:1955年〜1970年ごろの教育

第3章では学校教育と政治との関係に目を向け、55年体制のもとで出来上がった文部省対日教組という構図のもと、教師たちの政治活動が規制された反面、戦後の教育を受けた子どもたちが政治の主体として登場してきた様子を描く。

第4章では学校教育と産業界の関係に注目し、産業界の意向が学校教育に反映されるシステムが成立していく過程を、全国学力テストや教科書検定などを例に挙げながら描き出す。

第5章では学校教育を受ける子どもたちに焦点を当て、高度経済成長下で学歴獲得に向けた競争を余儀なくされた子どもたちが、学校恐怖症(のちの不登校)や非行という形で学校教育への抵抗を表現していたことを指摘する。

第6章:1970年前後の抵抗運動

第6章では、1970年前後に学校を舞台として展開された2つの抵抗運動(学園闘争と障害児の普通学校就学運動)に着目する。学校教育が産業界への人材供給装置として機能するなかでさまざまな排除や周縁化が生み出されていた当時の運動に、あらためて子どもの人権に即して学校を再構造化する契機を見出す。

第7章:1970年代〜1980年代の教育

第7章では、高度経済成長後の労働者管理の手法が学校教育に導入されていく過程を検討し、日常を徹底的に管理された子どもたちによる異議申し立てが、自殺・校内暴力・いじめという形で示されていたことを指摘する。

第8章〜第10章:新自由主義教育改革

第8章では、1980年代から90年代前半の教育を取り上げる。臨時教育審議会の設置を皮切りに、ゆとり教育や個性重視の生徒指導など、財界の要請を背景にした政治主導の教育改革が始まっていく様子を描く。

第9章では、1990年代後半から2000年代はじめにかけての時期を扱う。文部省と日教組の「和解」を一因として政治主導の教育改革が本格化し、教育行政の規制緩和が進むとともに教師への管理が強化されていったことを示す。

第10章では、2006年以降について記す。教育基本法の改正後、全国学力学習状況調査(全国学テ)の開始や道徳の教科化などを例に挙げ、教育改革による子どもたちへの規範・管理の強化を指摘する。

第11章:現代の教育問題

第11章では、特別支援教育に焦点を当てる。個別の教育的ニーズに応えることを目指す日本の特別支援教育が、国連が提唱するインクルーシブ教育の方向性に逆行し、社会的弱者の排除や周縁化を引き起こしていることを指摘したうえで、逸脱と見える行動をとる子どもの学習権を保障することによって子どもたちの困難を解決し得るのではないか、と提起する。

終章

終章では、Society5.01と子ども基本法の成立を取り上げ、人権に基づく教育を追求することの重要性をあらためて訴えて本書を締めくくる。

コメント

はじめに

教育史を学ぶことの意義は何か?その面白さはどこにあるのか?

本書は、「子どもの人権はどのように扱われてきたのか」(31頁)、言い換えれば、どのようにして子どもたちが学校教育に包摂され、学校教育から排除されてきたのか、という問いを中心に据えて教育史を描くことにより、上述の問いに応答する手がかりを与えてくれる。各所で各時代の問題と現代とのつながりが示されるため、歴史を単に過去の出来事として捉えるのではなく、現代の人々が抱える違和感や苦悩を解決し、よりよい未来を構想するための糧として読み解くことが可能になるのである。

その際の重要な観点として、一つは「未発の可能性」、つまり歴史の中で(選択肢としてはあり得たが)実現しなかった挑戦や主流にならなかった実践などが持つ可能性を知ること、もう一つは、自らの体験を歴史の中に位置づけ直し、相対化したうえで教育という営みと向き合うことが挙げられよう。本稿では、この2つの観点からコメントを試みたい。

「未発の可能性」を知ること

本書では、数多くの「未発の可能性」が取り上げられている。そのなかで評者が最も興味深いと感じたのは、日本国憲法および教育基本法における「people」の訳をめぐる議論である。「人民」と「国民」とが巧妙に使い分けられたことにより教育権の保持者が「国民」に限定され、その結果、国籍の非保有者に対しては教育を受ける権利が保障されていないことを本書は指摘する(37頁)。

しかし評者の関心に則して言えば、「国民」が教育権の保持者となったことによって閉ざされた可能性は、単に外国籍の子どもたちの日本国内の学校に通う権利が保障されなくなっただけに止まらない。本書では言及されていないが、海外に在留する子どもたちの教育に着目することで、さらなる「未発の可能性」が見えてくる。

戦後、海外進出する企業の増加に伴い、海外勤務者の子どもたちが日本への帰国を前提に通う学校として、世界各地に日本人学校や補習授業校がつくられるようになった(佐藤ほか 2020: 22-23)。海外には日本の主権が及ばないため国内の規定を直接適用することはできないものの、海外に在留する子どもたちが国内の学校と同様の教育を受けられるようにするこうした措置は、「国民」の教育権を保障した施策の一つと言えよう。

ただ、国内の学校教育との接続を意識するあまり、これらの教育施設が日本の学校の引き写しとも言える状態に陥っていたことは否定できない。その結果、海外に在留する子どもたちが現地の子どもたちとともに学ぶ可能性、彼らが帰国後にその経験を十分に発揮できるよう国内の学校空間が変化を迫られた可能性、ひいては著者が指摘するような「性差、民族差、障害、経済格差など多様な差異が包摂の対象として意識される」(267頁)インクルーシブ教育の可能性が閉ざされてしまったと考えられる。

評者が取り上げたものの他にも、紙幅の都合で扱えなかった例や著者の関心が向かなかった例があるだろう。各々の関心に応じた「未発の可能性」を探してみると、そしてそれを著者の記述と結びつけて考えてみると、教育史を知ることの面白さが一つ感じられるのではないだろうか。

自らの体験を相対化すること

現代の日本においては、ほぼすべての人が学校教育をはじめとする何らかの教育を受け、家庭内教育や職場での部下育成・後輩育成などの場面において教育の担い手にもなる。そのため教育は、誰もが自らの体験に基づいて語りやすいテーマである。一方で、だからこそ自分の思考が自らの体験に囚われてしまっていること自体やその危うさを自覚しないままに持論を展開してしまう危険性と隣り合わせでもある。

恥ずかしながら評者も、教育学を学ぶ以前はそうした状態に陥っていた。自らが通った学校や教えを受けた教師の気に入らない点を列挙し、それらに基づいて日本の学校制度や教師の在り方を批判的に捉えていたのである。しかし、大学進学後に過去の制度や実践について学び、現代の学校現場の見学を重ねるに従って、自身が体験してきたものとはまったく異なる学校像・教師像が多々あることを知り、自分が無自覚のうちに偏った議論をしていたということに気がついた。

自らの被教育体験および教育体験を歴史のなかに位置づけ直す作業は、自らの体験から得た違和感や疑問、価値観を大切にしながらも、その体験を相対化して見ることにより、多元的・複層的により良い教育を志向するための手段となり得る。問題史的な叙述が取り入れられ、さらに歴史を扱った書籍でありながら2000年代以降の時代まで描かれている本書は、上記のような視座を獲得するのに適した一冊だと言えよう。

ただし、本書の記述の対象が小学校・中学校に限定されていることに、その限界がある点は指摘しておきたい。この点については既に、渡邊(2024)が教育における家庭の役割とその変質を描く必要性を提起している(渡邊 2024: 193)。もちろん、あらゆる教育活動を分析の対象とすることは不可能だが、ここではさらに、企業内教育がどのように教育史の対象となり得るかの検討を試みる。

企業内教育については主に経済学や経営学の分野で研究が進められており、本書に限らず教育学の分野で取り上げられることはほとんどない。しかし、小学校・中学校に関わる期間よりも会社に勤める期間の方が長い人が多数を占めることを踏まえれば、企業内教育を教育史の対象に含めることは、自らの体験を相対化する機会をより多くの人に提供することにつながるだろう。

また、財界が学校教育に与える影響を、本書では子どもたちの排除や周縁化を生み出す要因として描いている。しかし、今後も学校教育政策は財界から大きな影響を受け続けることが想定されよう。そうであるならば、財界を学校教育から遠ざけようとするのではなく「いかなる社会を理想として構想するか」(68頁)という問いを財界と共有したうえで、より良い社会の実現に向けて学校教育から企業内教育までを一連のものとして企図することが、子どもたちの人権をその将来にまでわたって保障していくうえで重要な意味を持つのではないだろうか。

文献案内

  • 木村元『学校の戦後史 新版』岩波書店、2025年。
  • 小国喜弘『戦後教育のなかの〈国民〉:乱反射するナショナリズム』吉川弘文館、2007年。
  • 小国喜弘編『障害児の共生教育運動:養護学校義務化反対をめぐる教育思想』東京大学出版会、2019年。
  • 中原淳ほか『企業内人材育成入門』ダイヤモンド社、2006年。
  • 広田照幸『ヒューマニティーズ 教育学』岩波書店、2009年。

謝辞

本書評の執筆にあたり、著者である小国喜弘氏およびそのゼミ生の皆さまより、草稿へのコメントをいただきました。深く感謝申し上げます。

参考文献

  • 佐藤郡衛ほか『海外で学ぶ子どもの教育:日本人学校、補習授業校の新たな挑戦』明石書店、2020年。
  • 渡邊真之「戦後教育史の描き直しに求められるもの:小国喜弘『戦後教育史』(中公新書、2023年)から考える」『研究室紀要』第50号、東京大学大学院教育学研究科基礎教育学研究室、2024年3月、191–193頁。

1Society5.0とは「狩猟社会(Society 1.0)、農耕社会(Society 2.0)、工業社会(Society 3.0)、情報社会(Society 4.0)に続く新たな社会」である。2016年に閣議決定された「第5期科学技術基本計画」において「サイバー空間とフィジカル空間を高度に融合させたシステムにより、経済発展と社会的課題の解決を両立する人間中心の社会」として提唱された(内閣府ホームページ「Society5.0」、https://www8.cao.go.jp/cstp/society5_0/、2025年6月20日最終閲覧)。

出版元公式ウェブサイト

中央公論新社(https://www.chuko.co.jp/shinsho/2023/04/102747.html)

評者情報

中森 千裕(なかもり ちひろ)

東京大学大学院教育学研究科 博士課程 院生。修士課程修了後、民間企業での勤務を経て働きながら博士課程へ進学。専門は日本教育史。主な業績に「バンコクにおける戦後の日本人学校再興:タイ国日本人会に焦点を当てて」(『東京大学大学院教育学研究科紀要』第59巻、2020年)、二羽泰子監訳「インクルージョンの指針:インクルーシブな価値に基づく学校づくりガイド(第4版)」(東京大学バリアフリー教育開発研究センター、2022年)がある。

Researchmap:https://researchmap.jp/nakamori.chihiro

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