Tokyo Academic Review of Booksonline journal / powered by Yamanami Books / ISSN:2435-5712

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2025年7月7日

Uwe Wirth, Die Geburt des Autors aus dem Geist der Herausgeberfiktion. Editoriale Rahmung im Roman um 1800: Wieland, Goethe, Brentano, Jean Paul und E.T.A. Hoffmann.

Wilhelm Fink, 2008年

評者:中村 大介

Tokyo Academic Review of Books, vol.71 (2025); https://doi.org/10.52509/tarb0071

はじめに

本書は、ジーゲン大学教授ウーヴェ・ヴィルトによる、1800年前後の〈編集者フィクション〉を詳細に分析した研究書である。本書のタイトルを日本語に訳すとするならば、『編集者フィクションの精神に由来する作者の誕生——1800年前後の長編小説における編集による枠付け』とでもなるだろう。

ここに登場する〈編集者フィクション〉とは、本編テクストにおいて語り手の役割を果たす〈作者〉とは別に、主にパラテクスト(「前書き」や「注釈」など)から本編に干渉する架空の〈編集者〉が登場する小説作品を指す。しかしこの〈編集者〉は、あるテクストを作品として成立させる審級であるという点では〈作者〉と同様の機能を持つ。ヴィルトは本書において、「現代的な作者概念が展開した時代」(13)を1800年前後に定め、同時代の〈編集者フィクション〉を分析の対象とすることで、「現代的な作者性が発生する際に、フィクショナルな編集者がどのような役割を果たしているか、いやそれどころか、天才美学において強調される作者概念は、編集者の機能の特殊な変異であるだけなのではないだろうか」(13)という問いを立てる。この問いによって、〈編集者〉は〈作者〉に影響を与えるどころか、テクストに対して〈作者〉概念が持つ機能を、〈編集者〉の機能によって記述しなおす可能性さえ浮かび上がる。

ここで言及されている〈編集者〉の「役割」や「機能」については、本書においては特に読者の視点から捉えられ、論じられる。〈編集者フィクション〉では、ある〈作者〉がすでに書き上げた(とされる)テクストを、整理・校訂・注釈づけなどを通じて作品として成立させた人物(=編集者)の痕跡が、主にパラテクストにおいて暗に明に示される。こうして、〈編集者〉によりある種の〈枠〉が本編テクストにはめられていることは、もとは別の〈作者〉が作り上げたテクストが編集を通じて作品として整えられてゆく過程を読者に想像させるのに一役買っている。このときに生じる「編集者性と作者性との交差」(17)が、読む者の前でどのように提示されるかが本書のテーマである。

本書の構成は「序」と末尾の「展望」とを除けば、おおきく2部にわけることができる。前半(1章から4章)は理論部、(5章から9章)は小説作品の解釈である。前半部においては、「編集装置の輪郭」(15;強調はヴィルト自身)が説明される。後半部においては、ドイツ文学からヴィーラント、ゲーテ、ブレンターノ、ジャン・パウル、ホフマンの長編作品が選び出され、多様な「編集者性と作者性の交差」の様相が分析される。

要約

以下の要約ではヴィルト以外の哲学者・文学理論家たちの固有名詞と彼らのテーゼや理論が頻出するが、基本的にはヴィルトの理解に則ってまとめることに努めた。したがって、原則としてヴィルトが引いた文献の原典を脚注などで明示することはしていない。

第1章では、「作者についての問題を編集者の問題として再構成すること」(19)が目指される。それにあたって主に参照されるのは、ロラン・バルトとミシェル・フーコーの〈作者〉についての議論である。バルトが提唱する「作者の死」以降、作者はもはやある作品を生み出す源泉としては扱われなくなった。バルトはその座に新たに就くものとして〈書き手(Scripteur)〉という、引用をつなぎ合わせて書くだけの主体をあてがう。このとき、テクストを成立させるものとして作者の存在よりも書く行為自体が前景化する。なお、ここで書くことがテクストを成立させるためのプロセスとして位置づけられたことは、本書第2章での議論への下準備となる。そしてバルトにおいて、テクストをひとつの作品として成立させる役割は、それを受容する読者に明け渡される。一方、フーコーは反対に、あるひとつのテクストにその作者が措定されることが持つ機能を重要視する。テクストの外部に作者の存在が措定されることによって、そのテクストの輪郭が定まる、すなわち〈枠付け〉がなされ、それを作品としてみなすための契機が与えられるのだ。

そのうえで、文学作品はそもそも出版によって流通するものであるという事実に目を向けた歴史学者ロジェ・シャルチエの議論によって、ヴィルトは上記の議論を補完する。あるテクストを出版するということは、原稿を印刷に回すという決断の結果である。この決断を下せるのは作者と、そして編集者である。「編集者は、自分で発見し、集め、読み、枠付けした書類に自分の名前を明記する。そして、彼はこうしたエディトリアルな行為によって作者のようなもの(Quasi-Autor)になる」(43)。こうして作者性の議論が、編集者の立場から捉えなおされる。

第2章においては、書くこと、すなわち〈書字(Schrift)〉の使用と、その〈書字〉が意味を獲得するための〈枠〉についての議論が深められる。ここでキーワードとなるのは〈パフォーマンス(Performanz)〉、〈書字〉、〈インデックス性(Indexikalität)〉の3つだ。たたき台となるのはジョン・L. オースティンの議論である。たとえば婚姻の約束のような日常における重要な発話行為が、役者によって舞台でなされたと仮定する。こうした文脈の変化をオースティンは「様変わり(Szenen-Wechsel/sea-change)」(50)と呼び、「真面目な発話行為から空虚な発話行為への移行」(50)をもたらすものとみなした。行為の遂行を表す〈パフォーマンス〉という概念には、現実世界における行為だけでなく、上記の例のように演劇の場において演出としてなされるフィクショナルな行為も含まれるが、オースティンの議論においては、フィクションの世界における〈パフォーマンス〉は、無意味なものとして議論から除外されてしまった。しかし、たとえば社会生活においてなされる行為でも、儀礼的な特徴を持つ行為には少なからず演出の要素が含まれる。約束事を履行する場合においては特に顕著に、発話の内容よりも、型通りの行為の再現が重要な意味を持つこともある。「儀式は、規定の場において、完全に決まったことばが発されるということに依存しているのである」(52)。儀式の例のほかに、ヴィルトは社会学者アーヴィン・ゴフマンやニクラス・ルーマンの議論を援用しつつ、主にフィクション世界における行為についての説明を続ける。なかでもゴフマンは、フィクション世界においてある発話行為が「様変わり」を被った際の意味の変化を、その行為に意味を与えている枠の変化として捉えた点で重要だ。文脈の変化を経験した行為は意味を失うのではなく、むしろ新たに得た枠のなかで新たな解釈の可能性を獲得するのである。

本書で特に問題となる〈パフォーマンス〉とはフィクショナルな言語使用、すなわち文学作品を生み出すことである。ここでジャック・デリダの議論が導入されることで、ここまでの〈パフォーマンス〉の話題は〈書字〉使用の議論に接続される。デリダはチャールズ・サンダース・パースの記号理論を基礎にして自らの〈書字〉の理論を作り上げた。ここでデリダは、〈書字〉を特定の対象をとる記号としてではなく、「無根拠化(Unmotiviert-Werden)」(57など)しうるものとして捉える。すなわち〈書字〉は、具体的な指示対象を持たないまま解釈の手続きのなかで意味を獲得するものとして理解されるわけだ。しかしヴィルトはパースに立ち戻ることで、デリダが除外した、〈書字〉が持つ対象を指示する記号としての機能である〈インデックス〉の概念を再導入する。〈インデックス〉の特徴は、記号と現実との関係(付け)にあるが、このインデックス=指標は、記号の対象となるものを指し示すだけではなく、それを解釈する者に対して記号と対象とのあいだの関係にも注意を向けさせる。つまり〈インデックス〉の概念を持ち込むことによって、〈書字〉の〈接ぎ木(Aufpropfung/greffe)〉、すなわち本来あった文脈を外れて、他の文脈に植え替えられたときに、新たに取り結ばれた関係に気づかされた解釈者の視点をも議論の射程に組み込むことが可能になる。

新たな枠と関係を取り結んだ〈書字〉は、読む者の解釈によって、〈作者〉自身も想定していなかった新たな意味を獲得する。これが顕著に見てとれるのが編集を経て出版されるテクストである。本章の最終部では編集文献学の知見から、編集の範疇に含まれる操作として、校訂を通じてあるテクストが出版物として成立するまでの過程が論じられる。i ある〈作者〉の手によるテクストの歴史校訂版をつくるとき、〈編集者〉は、完成稿の他にも、出版に至らなかった草稿など、そのテクストの複数の版を集め、それらから出版用の決定版を仕上げる。このとき〈編集者〉は、書かれたものに残された〈作者〉の改稿の痕跡から、その意図を汲んでテクストを再構成することで、〈作者〉の創作のプロセスを再現することになる。つまり出版された作品の構成は、最初の読者たる〈編集者〉の解釈の枠に密接に関係しているのである。

第3章においてはそのタイトルの通り、「パラテクストの枠付けの機能」が検討される。パラテクスト、すなわち本を構成する情報のうちで本編テクスト以外のテクストには、前書き、注釈、脚注、タイトルなどが含まれる。なかでもヴィルトは、パラテクスト論ではもっとも有名なジェラール・ジュネットや、文学研究者ハンス=ユルゲン・アンゾルゲの議論を手がかりにしながら、〈編集者フィクション〉につけられる前書きの機能を整理する。前書きにおいては編集者が自身の活動について語り、また本編テクストがフィクションであることを伝えもする。しかし同時に、前書きもフィクションである可能性が残る。このとき問題となるのは、前書きの書き手(=編集者)が読者をだますことを意図しているのかどうかが決定しづらいことであるが、ヴィルトはこれを、読み手を騙そうしているかどうかという前書きの書き手の意図の問題ではなく、むしろ受容者の観点からまとめなおす。前書きの内容を吟味するためのメタ的な視点が読者に与えられるのである。

ここではヴォルフガング・イーザーの受容理論における、「フィクションのシグナル(Fiktionssignal)」(127)の機能が注目される。テクストの内部においてそのフィクション性を自ら曝露するこのシグナルを、ヴィルトはテクストの「枠の指示」(127)をするものと捉えなおす。このシグナルが自己言及的に自身のフィクション性を提示することによって、テクストを虚構的なものとして意味づけなおす枠の変更が行われ、そしてそのシグナルの存在自体も注目されることになる。これは、フィクション作品において自身の枠を用意する機能までも指し示す前書きの機能と相似する。ただし、これが本編テクストの内部でなく前書きという本編テクストの外部において行われることは、本編テクストに枠を付けるのみならず、その枠をも観察するメタ的な視点を読者に与えることになる。なお、本章末尾においては「前書き」において虚構の編集者が機能している作品のプロトタイプとして、ルソーの『新エロイーズ』が取り上げられている。

第4章においては、今度はナラトロジーの観点から、「前書きと本編テクストの境界、そして書物における作者のポジション」(143)の問題が論じられる。前書きに登場するフィクショナルな編集者は、本編テクストとなっている原稿が発見されたいきさつを語る。この語りは「見つけた文字資料を提示し、編集者の持つ枠のなかに統合する引用の行為」(152)と結びついている。パラテクストにおける語り手たる編集者は、テクストを自分で作り出した枠のなかに差し込むだけでなく、差し込んだそのテクストに脱線のような注釈を加えたりすることで新たな展開をも生み出しうる。こうした点にヴィルトは「接ぎ木のダイナミクス」(152)を見て取っている。

また、小説の途中に挟まれる編集者の注釈は、しばしば信頼の置けない情報を与える。コメントが挿入されることによって、読者は本編テクストの外部の審級を想定するわけだが、その審級によって与えられた注釈自体が信頼の置けないものであるということになると、読者はこのパラテクストの語りの内容よりも、そのようなフィクショナルな語り手をあえて登場させることで、パラテクストを成立させ、ひいては全体を作品として成立させている審級、すなわち作者概念へと目を向けるようにもなる。このように読者に作者概念を想定させるために、あえて信頼の置けない語り手を配置することを、ヴィルトは作者の「自己引用」(186)になぞらえている。作者が自己引用という演出を作品に取り入れることによって、「純粋な創造という作者性の構想は、書かれたものを後から受け入れたというコンセプトによって代えられる。これによって作者性は自己編集者性となるのである」(186)。

第5章では、ヴィーラントの『アガトン物語』が取り上げられる。これは、古代ギリシアの書き手が書いたアガトンという人物の物語を、近代の(=ヴィーラントの時代の)ドイツの編集者が再構成したという設定の長編小説である。歴史的資料を新たな時代に伝える者として、作中の編集者は手に入れた資料を原典のまま提示することを目指す。これはブライティンガーらに代表される当時の詩学において唱えられていた、ある事実をそのままに伝えなければならない歴史家と、そこに脚色して伝えてよい詩人との役割の区別を念頭に置いたものである。この構図では、編集者は歴史家に、作者は詩人に対応する。しかしながら、テクストに手を加えることが大前提である編集の過程において、編集者はどうしても元のテクストをありのままに伝えることができなくなる。編集者はできる限り原典の通りに伝えるよう努めるものの、元の物語にある空所を埋め、もしくは注によって本筋からは脱線する話題を差し込み、原典にはない話を盛り込んでしまうことで、期待された役割を十全に果たしきれなくなる。こうして編集者は作者の役割も兼任することで、「作者と編集者との関係の変調」(229)は読者にとって、あらかじめ提示されていた編集者の機能が不履行となる様子を示す。こうしてテクストを解釈するための枠組みが、当初期待されていたものから変更されることで、読者にはテクストのもつ矛盾を踏まえた読解が要請されるのだ。

第6章では、ゲーテの『若きヴェルターの悩み』(以下、『ヴェルター』)が取り上げられ、編集者が語り手に変貌してゆく様子が論じられる。恋に破れ自殺した青年ヴェルターの手紙をまとめた編集者は、それらを単に資料として読者に提示するのみならず、自分が読んだ際の感情の動揺を語り、また読者にもヴェルターに同情してくれるよう促す。そして編集者は手紙のあいだにヴェルターのメモ書きを挿入するなどしてヴェルターに感情移入しやすい環境を整える。またこの編集者は終盤において、『アガトン物語』の編集者よりも露骨な形で、作者のような機能ばかりか、語り手としての機能も果たしている。特にそれが顕著なのが、ヴェルターの最期の場面が伝えられる個所である。ヴェルターの最期の日々については書類資料が充分になかったため、編集者はそれをひとびとの証言をもとに再構成しようとする。「これによって編集者の使命の範囲は決定的に拡大されることになる」(272)。書き物の形で残っていない事実は、ヴェルターが逗留していたヴァールハイムの証言者たちのことばを下敷きに、編集者の語りによって再現されてゆく。「編集者の機能が包含するのはもはや、すでに書かれたものを共に読みながら収集することではなく、他者の体験の報告や自身の注釈付きの評価を一緒くたに書くことも含まれるのである」(272)。

第7章以降では、フリードリヒ・シュレーゲルやノヴァーリスといった初期ロマン派の詩学を手掛かりにして、同時代の小説が3つ取り上げられる。第7章においては、ブレンターノの小説『ゴドヴィ』が扱われる。この2部構成の小説は、前半がゴドヴィと友人との書簡集からなっており、後半においてはマリアの旅の様子が語られる。マリアは第1部においては書簡集を整理編纂する立場にあるが、第2部においては逆にマリアの旅行記をゴドヴィが編集する立場にある。このように書き手と編集者との審級が入れ替わり、「作者としての行為が編集者としての行為なしには考えられないことが明らかになる」(329)。書き手の存在がひとりでないことにより語りが錯綜してゆくのは、既存の文学の解体を目指す初期ロマン派のシュレーゲルらを彷彿とさせる。しかし最終的に「新たな有機的統一体」(321)を作ることを目指す彼らと異なり、『ゴドヴィ』においては作者と編集者とが入れ替わるばかりか、両者のあいだで、一方が他方の書いたものに追記することが絶えず繰り返されることで、編集者と作者とが常に「過渡の状態」(328)にあるようすが示されるのだ。

第8章で扱われるのはジャン・パウルの3つの作品、『ヘスペルス』『ジーベンケース』『「ビエンロートのフィーベル」の著者フィーベルの生涯』(以下、『フィーベルの生涯』)である。特に重要な扱いを受けているのは、『フィーベルの生涯』だ。この作品の前書きでは、「ジャン・パウル・Fr. リヒター」が架空の編集者として登場し、「ビエンロートのAbcフィーベル」(以下、「Abcフィーベル」)という書物の著者の伝記を書くことになるまでの経緯を語る。この前書きの書き手が伝えるのは、フィーベルの名で書かれた135巻からなる書籍の山と、中身の失われた40巻分のフィーベルの伝記の表紙部分を紙商人のもとで発見したということだ。そして「ジャン・パウル」は、これらを組み合わせてフィーベルの伝記を再構成しようとする。そして、フィーベルが書いて出版した「ビエンロートのフィーベル」の方は付録として作品の末尾につけられることになる。こうした再構成の手続きの中で、作品に追記したり、また作品を切り貼りしたりする「ジャン・パウル」は編集者の役割を務めるわけだが、できあがった書物の表題紙においては(編)の文字を欠落させて「ジャン・パウルによる」とのみクレジットされている。明言こそされていないものの、このクレジットにおいて「ジャン・パウル」が作者としての権利を主張しているように読めることは、編集者から作者への変容が起こっている可能性を読者に想定させるには充分である。

さらにヴィルトは、「Abcフィーベル」の成立史が『フィーベルの生涯』において語られることによって、後者が前者の前書きとして機能していることを指摘し、以下のようにまとめている。「このとき、編集者=伝記作者のジャン・パウルは伝記の断片を引用・抜粋しながらまとめて編集者として整理するものであるばかりか、フィーベルの伝記とフィーベルの書物とをまとめて出版する機会を与える、編集者としての審級でもあるのだ」(376)。

第9章で取り上げられるE.T.A. ホフマンの『牡猫ムルの人生観』(以下、『ムル』)は、猫のムルが書いた自伝という設定である。その原稿をムルが書く際に、インクの吸い取り紙として使った音楽家クライスラーの伝記が、原稿に紛れ込んだまま出版された。そのため、この作品はムルの自伝を、クライスラーの伝記がたびたび中断するという奇抜な体裁をとっている。この小説の分析においては、『フィーベルの生涯』においてはっきりと議論の射程に入った出版という問題が再度取り上げられる。この前書きで語られるのは、「原稿発見の経緯ではなく、出版の経緯」(380)だからだ。したがって、本作を成立させる審級として、編集者のみならず、印刷業者も存在感を発揮しているのが注目される。その一例は、編集者が取り下げようとした前書きまでも印刷業者が勝手に出版しているところに現れている。さらに、作品の出版を期した印刷業者は、編集者が本編テクストに付けた数々の「欄外注」を残しておくことで、錯綜するふたつのテクストが編集者の手を通って印刷に向けて整えられてゆく様子を再現して見せる。

ヴィルトはここで、ムルの執筆の道具のひとつである吸い取り紙に注目している。吸い取り紙は通常、余分なインクを吸い取るために、書かれたものにあてがうので、当然使用された吸い取り紙には書かれた文字が鏡写しに移る。ヴィルトは、クライスラーの伝記のページをムルが自分の原稿にあてて「吸い取る行為によって、印刷文字と手書きの文字とが[……]合わせ鏡の関係に持ち込まれる」(412)と主張する。本来であれば、手書きの原稿が編集され、印刷されることによって書籍となり流通する。しかしここでは逆に、印刷されたクライスラー伝が、ムルの手書きの原稿の典拠になるという、本の出版手続きの逆転までも演出されているのである。

こうしたふたつのテクストがそれぞれに対して異質性を強調しながら一冊の書籍をなすという構成の小説が生まれた結果として、作品の脈絡のなさ自体がテーマとして浮上する。これによって、描かれたできごとの数々を統一体としてまとめている形式について、つまり「小説という形式がそれらを結びつける技法」(420)自体にも問いが向くことになる。そしてこれは、20世紀初頭に見られた「近代のモンタージュ技法の前夜としての形式」(420)として位置づけられるのである。

コメント

本書では記号理論、ナラトロジー、社会における行為の意味論といったさまざまな学問分野で培われた理論的な研究の蓄積が、18世紀末から19世紀初頭のドイツ文学史上に登場した長編小説群における〈編集者〉と〈作者〉との問題を読み解くために援用されている。こうした一連の作業から、〈編集者フィクション〉の文学史ともいうべき小説群の系譜が浮かび上がる。

本書は、ヴィルトの教授資格申請論文の内容に基づいたものである。もともと言語哲学や文学理論についての論文が多いヴィルトの研究書だけあって、理論部の記述は非常に手厚い。読者の関心によって、本書の前半部と後半部とのどちらに興味を持つかわかれるところだろう。フランス現代思想やひろく文学理論、言語哲学的議論に興味がある向きは前半に、ドイツ文学(史)に興味がある向きは後半に惹かれるはずである。なお、本書の目次は非常に細かく、どこで何の話題が出ているのかは一応そこで確認ができるものの、前半の理論部は特に拾い読みはしづらくなっている。

前半部にかんして、ヴィルトは実に多くの理論の文献を渉猟しており、記号論や言語哲学、そしてイーザーの受容理論や生成論などのような文学理論のみならず、ルーマンやゴフマンなどの社会学理論までも援用されている。社会学の文献は、社会における個人の行為に意味を与える〈枠〉について検討したものである。ヴィルトはデリダやイーザーなど、議論のたたき台にする論者のテーゼの問題点をまず指摘し、次にそれを他の論者の研究によって埋め合わせながら新たな理論を練磨してゆく。文学理論に分野を絞らずに、観察者に対して、あるものをメタ的に観察する枠を与えることに関連する研究から、さまざまな分野において活躍している論者のキーワードや文章を引用し、組み合わせるというその手法ゆえに、読んでいるうちに誰のどの概念が本筋の議論において何の役割を果たしているのか見失いかねない。また、論述の途中でたびたびヴィルトによってなされる直接引用によって読者はたしかに、彼が参照する論者がどのように議論しているかをある程度原典通りに知ることができる。その反面、特にパースの難解な議論など、そのまま直接引用するよりもパラフレーズして説明してくれた方が理解しやすかっただろうと思われる箇所もある。こうした論の構成の仕方や書き方ゆえに、読みやすい本とは必ずしも言えないだろう。読者には、ページを行きつ戻りつし、ときにヴィルトが引いている文献に実際にあたる、根気強い読解が求められるはずだ。しかし日本語を母語とする読者の強みとして、彼が引用・参照する文献は、バルト、フーコー、デリダ、ジュネット、ルーマン、イーザーのように邦訳で探しやすいものも多い。これらと彼の議論とを突き合わせたり、また引用元の論者がそもそもどのような文脈で自身の議論を鍛えていたかを確かめてみたりすることはそれ自体意義深い作業であるといえる。また、本書の「序」は比較的コンパクトにまとまっているため、まずは「序」と第1章を読み、適宜目次を見て個別の節の題と対照しつつ読めば、理解は深まるだろう。

後半の作品分析においては、前半部で扱われた〈接ぎ木(的引用)〉〈インデックス〉などといった用語が一部使われている。当然前半を読んでおいてこれらの概念を整理したうえで読む方がわかりやすいが、これらの用語の前提知識がなくとも、独立した文学研究の論文として読むこともできる。したがって、前半部に比べて拾い読みもしやすい。これら一次文献には、ゲーテの『若きヴェルターの悩み』やホフマンの『牡猫ムルの人生観』といった、すでに多くの邦訳がある作品のほかに、『ゴドヴィ』のような未邦訳の作品も含まれる。そのうえ、ヴィーラントやジャン・パウルはドイツ文学史における重要な作家であるため邦訳も過去には出版されているが、現在となっては手に入りづらいものも多い。特にこの二者は作品の数が膨大で、個々の作品が長大かつ難解であるケースもしばしばである。本書は、どこから手を付けてよいかわからないような作品の分析方法の実例を示すという意味では貴重であるといえる。

しかし、当然ながら1800年前後にもここで取り上げられたものとは別の小説が山ほど出版されている。ヴィルトが〈編集者(性)〉を軸にしてまとめた小説史のなかで、そういった他の小説群はどのように位置づけられうるだろうか。また、要約の部分では省略したが、ヴィルトはたとえば個々の作品分析において、『ヴェルター』をゲーテが改訂していることにも言及したり、またホフマンが作中の人物クライスラーと現実世界の自分自身とをオーバーラップさせたりしていたことにも言及し、作中にフィクショナルな人物として登場する編集者/作家と実在の作家との関係にも一応目配せしている。実在の作家や歴史的事実としての作品の成立史なども議論の射程に入れられるとするならば、本書でも簡単に言及だけされている、ヴィーラント編というクレジットで出版された、女性作家ゾフィー・フォン・ラ・ロッシュの書簡体小説『シュテルンハイム嬢の物語』(1771)を取り上げるとき、編集者が作家に対して発揮した権力についての議論をさらに深められるだろうか。また、過激な内容と、断片の数々をつなぎ合わせるという、小説としては奇抜な構成で当時世間を騒がせたロマン派のフリードリヒ・シュレーゲルの『ルツィンデ』(1799)は、〈編集者性〉を手がかりとすると、どのようなテクストとして論じることができるだろうか。ヴィルトが整理した見取り図をさしあたりの補助線に、こうした別の作品群も論じ直す可能性が開かれる。

そしてヴィルトは「展望」の部において、1900年前後の小説におけるモンタージュの手法も分析と対象となりうることを述べている。〈編集者フィクション〉というジャンル自体は、19世紀前半に下火になってゆくとしたヴィルトはその一方で、1900年前後の文学作品においても編集行為が重要な要素であることをほのめかす。ここでは、『ブッデンブローク』を書いた際の自らの創作法を「筆写」と呼称した、「隠された引用・モンタージュ技術の代表者」(428)であるトーマス・マン、文学テクスト以外のテクストからの引用をまとめることによって作品を作るアルフレート・デーブリーン、さらにはダダイストたちの創作の事例が紹介される。マン、デーブリーンの小説は邦訳もあるので、実際に作品を読みながら、ヴィルトの主張を確認してみるのもよいだろう。

「展望」の部において展開される議論は、今後のこの研究の理論的な展開についてよりも、文学テクストの分析における展望についての方が優勢である。理論的な方面での展開を考えるとき、この関連で興味深いのが、ダダイストたちのモンタージュの手法にかんしてヴィルト自身がした「1900年前後においては[……]、編集された他なるものは、本当に異質な素材として存在する」(428)という指摘だ。つまり引用されたものが、新たな文脈に置かれてもそこに統合されず、過去置かれていた文脈と手を切らないのである。本書では、引用した文章を取り込んだテクストが獲得する新しさについて主に着目されていた。そのため、引用されたテクストをつなぎ合わせた際に生じるテクスト同士の異質性が強調される作品については、本書で取り上げられた作品のなかだと『牡猫ムルの人生観』以外では議論になりづらかったといえるだろう。1900年前後の作品はまさにこの点において特徴的といえることはヴィルト自身も述べているものの、それら作品の立ち入った詳しい分析がないのが残念だ。実際にモンタージュを使っている作品でも、または明示的な〈編集者フィクション〉でない小説作品においても果たして前半部で展開したような理論が適用可能なのか、また、そうした具体的な作品を分析すると、今度はデリダやイーザーたちの理論に対してどのようなフィードバックがありえるかは気になるところである。また、本書において、1800年前後の〈編集者フィクション〉に見られる編集者性が、1900年前後の作品にどの程度具体的な影響を与えているといえるのかについても、十分に論究されていない。1900年前後における過去の文学の受容の動向を調べてみると、新たな発見があるかもしれない。

文献案内(/参考文献)

本評において、キータームを紹介する際には、できる限り邦訳を確認し、必要に応じて既訳の語を踏襲することに努めた。そのため、以下に挙げるものは本評の参考文献でもあるわけだが、ヴィルトが引用する膨大な文献のうちで、バルト、フーコー、デリダ、ジュネットといったフランス思想の代表者やルーマンやイーザーといったさまざまな究分野の代表格の研究は邦訳が数多く出版されているため、当然ながらすべてを挙げることはできない。ここでは特に前半部の説明で触れた研究者の著書のうち本書と密接に関係があるもの、または雑誌などに収録されていて読者が気づきづらいと思えるものをかいつまんで紹介する。

  • ヴォルフガング・イーザー「作品の呼びかけ構造——文学的散文の作用条件としての不確定性」(轡田收訳)、『思想』第572号、1972年、109–136頁所収。
  • J・L・オースティン『言語と行為—いかにして言葉でものごとを行うか』(飯野勝己訳)講談社学術文庫、2019年。
  • ジャック・デリダ『根源の彼方に——グラマトロジーについて』(足立和浩訳)上下巻、現代思潮社、1972年。
  • ジャック・デリダ「署名 出来事 コンテクスト」(高橋允昭訳)、『現代思想』第16巻第6号、1988年、12–42頁所収。
  • 『パース著作集2 記号学』(内田種臣編訳)、勁草書房、1986年。
  • ロラン・バルト「作者の死」、『物語の構造分析』(花輪光訳)みすず書房、1979年、79–89頁所収。
  • ミシェル・フーコー「作者とは何か」、『フーコー・セレクション2 文学・侵犯』(小林康夫訳)ちくま書房、2006年、371–437頁所収。

また、本書評の執筆にあたって、次の文献も参照した。それぞれ文学理論の入門書としても有用であるうえ、ヴィルトの著作を読んで興味を持った議論をさらに調べる際には便利と思われるので、こちらもあわせて紹介しておく。

  • 小倉孝誠(編)『批評理論を学ぶ人のために』世界思想社、2023年。
  • 橋本陽介『ナラトロジー入門 プロップからジュネットまでの物語論』水声社、2014年。
  • 明星聖子+納富信留(編)『テクストとは何か 編集文献学入門』慶應義塾大学出版会、2015年。
  • 松尾大『〈序文〉の戦略――文学作品をめぐる攻防』講談社(講談社選書メチエ)、2024年。

まず①では、物語論、受容理論、生成論のような本書でも取り上げられる文学理論についてそれぞれ1章ずつが割かれ、個々の理論の歴史と特徴についてコンパクトに説明されている。②の第3章ではバルトからジュネットまで、その章のタイトルにあるとおり「「作者」と「語り手」について」が説明されており、こちらも本書を読み解く際に参考になるだろう。③は、本書第2章において扱われる編集文献学について日本語で読める、入門的な位置づけの論集である。④は特に本書と直接関係はないが、似たようなテーマを扱った文献といえる。これは主に英文学の作品を、〈序文〉に注目して詳細に分析したもので、実在する著者までも議論の射程に入っている。

最後に、本書が取り上げた一次文献に関連する情報も共有しておこう。

ゲーテの『若きヴェルターの悩み』とホフマンの『牡猫ムルの人生観』は多くの邦訳があるので、最新の訳を紹介するにとどめる。2015年に集英社の翻訳小説のシリーズ「ポケットマスターピース」の2冊目としてゲーテが取り上げられ、そのなかに編者の大宮勘一郎氏の訳で『ヴェルター』が収録されている(7-200頁所収、第2版を底本としている)。その後も光文社古典新訳文庫から、酒寄進一氏の訳で新訳が出版されている(『若きウェルテルの悩み』の題、2024年。初版を底本としたもの)。『ムル』は、2024年に光文社古典新訳文庫(鈴木芳子訳、『ネコのムル君の人生観』の題、上下巻)と東京創元社(酒寄進一訳)とで新訳がそれぞれ出版された。

ヴィーラントの『アガトン物語』はかつて義則孝雄氏による全訳が訳者本人のサイトで公開されていたようだが、現在はリンク切れになっているので入手困難である。ii 新たな全訳が待たれるところだ。ただし、Ciniiなどの論文検索サイトでタイトルを入力して検索すれば『アガトン物語』を扱った紀要論文がヒットする。ここでは、ネットからアクセスが可能な比較的新しいものを挙げておく。『アガトン物語』のドイツの小説史上の位置づけを論じたものである。

  • 北原寛子「『アガトン物語』試論―交錯する前近代と近代の小説像」『言語センター広報』小樽商科大学言語センター、第22号、2014年、9–18頁所収。

また、『アガトン物語』のうち、第3巻「ヒッピアスの哲学」のみ第1章、第2章、第4章、第5章が『山梨大学教育人間科学部紀要』第16巻(2014年、93–107頁所収)で、第3章が『明治大学教養論集』第507巻(2016年、235–242頁所収)に収録されており現在も読むことができる(どちらも野口健訳。Ciniiからアクセスできる)。

ジャン・パウルの『「ビエンロートのフィーベル」の著者フィーベルの生涯』については、九州大学出版会の『ジャン・パウル中短編集1』に収録されている(恒吉法海訳、2005年、1-208頁所収)。同出版会からは、本書において取り上げられた『ジーベンケース』(恒吉・嶋崎順子訳、2000年)と『ヘスペルス』(恒吉訳、2019年)もまた出版されている。

管見の限り邦訳のないブレンターノの『ゴドヴィ』だが、以下の論文において作品構成も含めて説明がされている。

  • 高橋優「『狂気の中で感覚の妄想は癒されなければならない』クレメンス・ブレンターノ『ゴドヴィ』における „Sinn“ と „Wahnsinn“ について」『東北ドイツ文学研究』東北ドイツ文学会編、第56巻、2015年、1–14頁。」

i本来であれば、校訂の作業を行う者(=Editor)は、〈校訂者〉として説明するべきだが、Editionsphilologie が「編集文献学」という邦訳を与えられていることなどから、便宜的に〈編集者〉で統一した。明星聖子+納富信留(編)『テクストとは何か 編集文献学入門』慶應義塾大学出版会、2015年参照。

ii以下のサイトに記載された情報による。訳者の没後は前書きのみダウンロードが可能だったそうだが、提示されたURLからは2025年2月26日現在では、そのサイトにたどり着けなくなっている。https://www.l.u-tokyo.ac.jp/digitalarchive/collection/miyata_shinji.html (最終確認日2025年2月26日)なお、Ciniiで検索してみると、義則氏の全訳は大阪大学の図書館に所蔵があるようだ。https://ci.nii.ac.jp/ncid/BB12234542?l=ja (最終確認日2025年2月28日)

出版元公式ウェブサイト

Wilhelm Fink (現Brill) (https://brill.com/display/title/53753)

評者情報

中村 大介(なかむら だいすけ)

現在、慶應義塾大学文学部等非常勤講師。専門はドイツ・ロマン派の文学、特にE.T.A. ホフマン。1800年前後の経済言説や社会史的背景を読解の補助線としてホフマン作品を研究している。主な論文に、「盗賊の贈り物——E.T.A. ホフマン『イグナーツ・デナー』における〈交換〉と〈贈与〉——」(『ドイツ文学』第168号、2024年)、「市場と秩序——E・T・A・ホフマン『いとこの隅の窓』について」『モルフォロギア』第46号、2024年)など。

Researchmap:https://researchmap.jp/daisuke_nakamura

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