2025年10月28日
Leo Murray, Sound Design Theory and Practice: Working with Sound
Routledge, 2019年
評者:余田 有希子
はじめに
本書Sound Design Theory and Practice: Working with Sound(Leo Murray著、Routledge, 2019)は、サウンドデザインの理論と実践の間にあるギャップを埋めることを意図した研究書である。著者のレオ・マレーは、英国において放送技術者として10年の経験を積んだ後、オーストラリアのマードック大学で、映画やテレビを中心としたサウンド教育と研究に携わっている。研究テーマはサウンドデザイン、記号論、メディア倫理など多岐にわたり、また実際のサウンド制作に関わった経験を有する点で、本書は実践と研究の両側面を結びつけた稀有な著作といえる。
サウンドデザインの領域においては、現場での制作判断がしばしば直感や感覚的な経験に依拠して行われる。しかし、それをいかに理論化し、学術的議論に耐えうる形に言語化できるかは大きな課題である。本書は、その困難な課題に対して、著者自身の実践経験と学術的研究を接続する方法を提示する数少ない著作として注目に値する。
本稿では、まず各章で提示される議論の概要を整理し、ついで本書がサウンドデザイン研究にどのような理論的意義をもたらすかを検討する。とりわけ、実践経験に根ざした視点と記号論的分析を媒介とする理論化の試みが、どのようにサウンドデザイン研究の可能性を広げるのかを考察することを目的とする。
要約
第1章 Introduction
「サウンドデザイン」という用語は、領域ごとに異なる定義を持ち得るため、専門家の間でもしばしば議論の的となってきた。本書では、映画やテレビ、ゲームなど映像と結びつく実践を中核に据えながらも、音楽・効果音・セリフといった制作工程上の区分けを取り払い、「音を意図的に用いるあらゆる行為」として広く捉えている。第1章では、導入として、サウンドデザイン研究の課題と本書の目的が示される。
サウンドデザインの仕事は、仕上がりが自然であるほど観客に認識されにくくなり、その背後に隠された芸術的判断と創造性が正当に評価されにくくなるという矛盾を抱えている。そのため、映画研究においてもサウンドデザインという分野が見過ごされ、理論と実践を体系的に結びつける文献の乏しさに繋がってきた。著者は、サウンドデザインの実践教育の場が、これまでの徒弟制度的なモデルの中から、高等教育機関に移行している今、実技指導と並行して理論の教授が行われるべきであると主張する。
さらに、サウンドデザインの実践者・研究者・教育者が共通して直面する問題として、音の用法や設計を記述するための語彙が不足していること、そしてサウンドデザインの実質的な機能を説明するための包括的な枠組みが存在しないことが挙げられる。しかし、多くのサウンドデザイナーたちがその仕事に取り組む際に共有している根本的な思考や論理が存在するのではないか、少なくともそうした感覚がありながら、それが未だ十分に説明されていないのではないか、という信念が、本書の執筆の出発点となったという。
これらの課題に対して、本書では、「サウンドデザインの現場における音の用法に最も合う理論モデルはなにか」という問いを立て、その答えとしてチャールズ・サンダース・パースの記号論を採用する。音楽や効果音・セリフなどすべてのサウンドトラックは映像に依存し、同時に映像もまたサウンドトラックに依存しているという相互関係がある。こうした関係をパース記号論を援用しながら捉えることで、「意味がどのように生成されるか」というプロセスに光を当てることが可能となる。その結果、サウンドデザインの実践が「技術的な作業」ではなく「創造的な営み」であることが、より明確に示されるという。
また著者は、実践に基づいた「サウンドデザインの理論」を構築することと同時に、その理論や概念を「事後的に」、すなわち完成された作品に適用してみせることの重要性を説く。第6章以降では、実際の映画作品やビデオゲームを対象に、記号論モデルを適用した分析を行い、その柔軟性を示すことが予告される。最後に、本書が扱わない領域も明確にされる。音そのものの形而上学的な議論や物理学的な議論、機材やソフトウェアの使い方である。これらの議論を踏まえると、「意図された音の使用」を読み解くための枠組みの提示こそが本書の目的であるといえよう。
第2章 Theories of sound
第2章では、音に関する研究を二つの潮流に分けて概観している。一つは、音速や周波数といった物理的特性に関する研究であり、もう一つは、音高や可聴性など人間の知覚や解釈に関する研究である。
まず物理的特性に関する研究では、音を媒質中の波として捉える古典から近現代までの研究が整理される。ピタゴラスによる整数比と協和・不協和の関係、アリストテレスによる反射・反響の記述、ウィトルウィウスによる劇場音響の知見、ベネデッティやガリレオ、メルセンヌによる振動・周波数に関する実験、そしてニュートンによる音速の提示や音の物理的記述が紹介される。近代以降の研究としては、フーリエ変換やオームの音響法則、ナイキスト=シャノンの標本化定理など、現代のデジタル音響の基盤を成す理論が取り上げられる。
一方、音の知覚や解釈に関する研究では、人が音をどのように聞き、どのように意味づけるかに焦点が当てられる。ここで中心となるのはブレグマンの聴覚情景分析(Auditory Scene Analysis: ASA)で、私たちが個々の音ではなく、音の流れ(ストリーム)として聞くことが示される。加えて、音色・音高の類似性、時間的近接性、聴覚的連続性といった聴覚のグルーピングに関する原理が、日常の聴取や編集、ミキシングの判断を支えていることが指摘される。また、持続音への慣れや変化への反応、学習に伴う聴覚皮質の可塑性、新生児の母声識別といった音響心理学の知見も重要な点として触れられる。さらに「無人島で木が倒れたら音はするか?」という問いをもとに、音はどこにあるのか、聴き手の側か、媒質の中か、音源の側かを哲学的に検討する。そして、音を物体として捉えるのか、出来事として捉えるのか、という立場の違いを比較し、視覚が対象物と結びつきやすいのに対し、聴覚は「何が起きているか」という出来事を捉える感覚であるという主張を展開する。
さらに著者は、サウンドデザインの研究と実践は、上記の双方の視点に基づいていることを指摘する。つまり、前者は録音・再生技術をもとに実装可能性やその限界を規定し、後者は、聞き手がどのように音を知覚し、意味を捉えるのかという音の設計の原理となる。そしてこれらが、後続の章で展開される記号論的なアプローチへの橋渡しとなる。
第3章 Audiovisual theories of sound
録音・編集・再生といった音響技術の革新により、音は自在に操作できる素材へと変わった。しかも、その加工の痕跡は画面には現れないため、映像が音のリアリティを保証し、音が映像のリアリティを補強する相互作用が生まれ、この視聴覚の「同盟」こそが、近代映画の物語を支える基盤となってきた。
第3章では、このような相互作用を説明するために、どのような用語や概念が形成されてきたのか、映像の音楽・音響研究において基盤となってきた主要な研究が概観される。原著では、サイレント映画期から現代に至るまでの多様な議論が丁寧に検討されているが、本稿ではその内容を理解しやすくするために、二つの視点に絞って紹介したい。
一点目は、映像の音を分析・設計するための語彙や概念の整理である。リック・アルトマンは、観客が音の出所を画面に結びつける心理に着目し、初期のトーキー映画が目指した二つの目標を「説得力のある錯覚」と「明瞭性」であると指摘した。これに対し、後年のメアリー・アン・ドーンは、音の操作が観客に意識されないメカニズムや、音が「雰囲気」を設計する上で、重要な役割を果たすことを強調した。こうした議論を踏まえ、ミシェル・シオンは、視聴覚契約 (audiovisual contract)1、付加価値 (added value)2、シンクレシス (synchresis)3、アクースメートル (acousmêtre)4、聴取モード(因果/意味/還元)、オフスクリーン空間や聴取視点 (point of audition) など、映像音響研究に共通する分析語彙を提供した。これらの用語は、現在でも映像の音楽・音響研究においてしばしば参照され、基本的枠組みとして広く浸透している。また、マルチチャンネル技術によって音を空間のあらゆる位置に定位できるようになったことや、ダイナミックレンジの拡大によって静寂から轟音まで音の表現の幅が拡張したことは、映画音響を単なる再現技術から芸術的要素として捉える契機となった。こうした技術的条件の進化は、シオンらが提示した語彙を分析の道具にとどめず、映画音響を芸術的要素として理解するための理論的基盤へと補強した。
二点目は、実践家による理論的な言説の概観である。実践知と理論を架橋するという本書の目的に即し、サウンドデザイナーが自らの判断基準を言語化した理論が整理される。実践家による言説は大きく次の二つに分けられる。一つは、サウンドトラックに含まれる多様な音を整理して説明するもの、もう一つは、自身の制作経験をもとにサウンドデザインの指針を提示するものである。前者の例としては、トムリンソン・ホルマンとマーク・マンジーニの言説が挙げられる。ホルマンは、音の役割を叙述的機能(直接的叙述/潜在的叙述)と文法的機能に区別し、セリフや音楽、環境音などあらゆる音の要素が、映画の意味生成にどのように寄与するのか示した。マンジーニは、サウンドデザイナーが音を作り出す際にとる経路について、原音、代替音、象徴音の三つでモデル化した。一方、後者では、サウンドデザインにおける「抑制」や「引き算」のアプローチに焦点があてられる言説が多くみられる。ランディ・トムは、映像に視覚的な曖昧さを設けることで音の表現の可能性を広げられると指摘する。同時に音に対しても抑制的なアプローチが効果的であるとし、画面の中で音を立てるあらゆるものを「音響化」するのではなく、取捨選択することが重要であると主張する。同様に、ウォルター・マーチも、最良の音とは人の頭の中にある音だと主張し、「観客に描き残した円を補完させる」ような、音の比喩的な使用を提唱する。
これらの実践家の理論やモデルは、一見簡素であるが、その単純さと柔軟さこそが、実践知から理論を導く成功の鍵であると著者は指摘する。さらにFilmSound.orgやDesigning Soundといったフォーラムやブログが、実務者と研究者をつなぐ知識共有の場として機能してきた点も強調される。
第4章 Sound as a sign
第4章では、サウンドデザインの実践に根ざした理論を構築する上で、なぜ本書がパースの記号論を採用するのかが論じられる。その導入として著者は電話の声を例に挙げる。私たちは通話中の声から、言語的な意味だけでなく、話者の感情や置かれた状況、さらには社会的な手がかりまでを読み取っている。ここから、音を記号として捉える視点の有効性を示すと同時に、「意味は音そのものに固定されず、文脈と解釈の過程で生成される」という前提が導かれる。
つづいて、記号論の役割と、これまで映画研究で広く用いられてきたソシュールの二項モデル(シニフィアン/シニフィエ)の長所と限界が示される。映画において、制作側は、ある音や音楽の発生源やその意味を、聞き手に即座に認識させることができることもある。一方で、聞き手にそれらを推測させることを要する場合もある。さらに、その推測が、新たな情報の提示によって修正されることもある。つまり、サウンドデザインの制作側では音そのものをコントロールすることはできても、その音がどのように聞かれ、何を意味し、どのように解釈されるかを制御することはできない。
そこで著者が着目するのが、パースの三項モデル(記号表現/対象/解釈)である。パースの理論は、意味が生成され続ける過程(セミオシス)を中核に据えるため、解釈が新たな情報によって更新されるプロセスを動的に追うことができる。
とりわけサウンドデザインの実践にとって有益となるのが、記号表現と対象の関係の分類となるアイコン(音の性質や質感との類似)、インデックス(出来事や原因の痕跡)、シンボル(慣習や学習による結びつき)という三分類である。また、観客が不足する情報を補って仮説を立てる推論(アブダクション)を重視し、対象や解釈を即時的/動的/最終的へと段階づけて扱える点は、受け手の理解の変容プロセスを言語化する上でも有用である。つまり、パースの記号論は、連鎖的に意味が生成される過程を捉えながら、制作上の判断と受容側の解釈を同じ座標に取り込む枠組みを提供する。この点において、サウンドデザイン研究と親和性が高い理論モデルであると考えられる。
第5章 Analysing sound with semiotics
第5章では、サウンドデザインの実践や分析に、パースの記号論をどう適用するかが、具体的に示される。まず時計の秒針の音を例に、同じ音でも、アイコン(機械的な刻み音)、インデックス(その音を出す時計が存在するという証拠)、シンボル(時間という観念との結びつき)の性格が併存し得ることが指摘される。さらにその解釈は、単に「カチカチという音」であるという即時的な解釈から、「どこか近くにある実際の時計への指標的なつながり」として修正され、さらに文脈に応じて「実は時計ではなく爆弾の音である」と更新され得る。つまり、常に時間の流れのなかに存在する音にとって、その性格の併存や移行、解釈の変容がデザインの前提であることが確認される。
一方、音楽については、従来のパースの記号論における「外部対象との類似」という前提が、必ずしも外部の何かを参照する必要のない音楽には適用しにくいという問題があった。これに対し著者は、パースが後期に定義したアイコンの概念を採用する。これは、類似性だけでなく、音自体の質感・構造・動きといった属性に基づいて成立するものと捉えるものである。これにより、楽器編成や音楽スタイル、テンポといった音楽的特性に基づいて、アイコン/インデックス/シンボルの寄与を切り分け、音楽が単独で、あるいは映像の中で、どのような記号として機能しているのかを捉えることが可能となると主張する。
また本章において特筆すべきは、第3章で概観した映像音楽・音響理論とパースの記号論が統合される点である。ここでは、アルトマン、シオン、ホルマン、マーチらの理論が、パース記号論を通して改めて検討される。例えば、シオンの聴取モード(因果的/意味的/還元的)は、それぞれインデックス/シンボル/アイコンに対応づけられ、受容側の聞き方と音と対象の関係が、同一の座標上に重ねられる。加えて、シオンのシンクレシスは、「新しいアイコン(音質)の付与と見かけ上のインデックス(因果)の再構成」と捉え直される。また、ウォルター・マーチの「描き残した円を観客に補完させる」という設計思想は、まさにアブダクションを意図的に生じさせる設計として位置づけられる。
これらの議論を踏まえ、章末では、映画《カンバセーション…盗聴…》の冒頭シーンを例に、パースの記号論を用いた分析例が示される。まず正体不明の金属音がアイコンとして現れ、それが隠しマイクを通した音であったというインデックスを獲得し、やがて監視・盗聴というシンボルへと解釈が更新される過程が説明される。ここでの音素材の選択・加工・同期の各判断が、観客のアブダクションを段階的に誘発し、解釈が更新されるプロセスが具体的に示される。ここで重要なのは、音を分類すること自体ではなく、文脈に応じて解釈がどのように変容していくかを記述できる点にある。サウンドデザインにおいては、観客にアイコン的な手がかりを与えたり、インデックス的な証拠を提示したり、シンボル的な意味に導いたりと、解釈の更新を段階的に設計できる。パースの記号論は、その過程を捉えるための語彙や枠組みを提供し得ることが、本章において鮮やかに示されているといえよう。
第6章 King Kong (1933)
第6章から第9章までは、第1章で予告された通り、パースの記号論のモデルを「事後的に」、すなわち完成された作品に適用して検証する章である。第6章では、映画《キングコング》(1933)を対象に、〈怪物の声〉効果音と音楽の二つに焦点が絞られる。
効果音については、実在しない存在に「信じうる声」を与えるため、音響監督のマレー・スピヴァックが行った試行錯誤が紹介される。彼は動物の声を録音し、再生速度を落としてのピッチ低下・逆再生・重ね合わせといった処理を駆使しながら、聴取上、出自を不可視化しつつ、音質の手がかり(アイコン)を残した。そのうえで、画面と同期させることで新たな因果性(インデックス)を結び直し、最終的に「コングの声」という象徴(シンボル)を確立させた。これは、シオンのいうシンクレシス(聴覚現象と視覚現象の同期統合)の力を活用し、観客のアブダクション(仮説的推論)を通じて「今聞いた声はコングである」という理解へ導く設計として説明される。さらに、胸を叩く音を人の胸で実演して収録するなど、身体性を持ち込んだ具体例も示され、アイコンの移植→インデックスの再編→シンボルの定着という流れが、素材選択・加工・同期という工程に対応づけられる。
一方、音楽においては、作曲家マックス・スタイナーによるスコアの役割が論じられる。ミッキーマウシングによる動きの同期は、画面と音楽の擬似的な因果(インデックス)を強め、ライトモティーフの反復は人物やその関係の象徴(シンボル)を付与していく。とりわけ、物語後半では、コングの場面でアンのライトモティーフをあてることで、観客のコング像を〈脅威〉ではなく〈保護者〉へと転じさせる象徴的な操作として機能することが指摘される。
つまり本章では、パースの記号論が、効果音と音楽という異なる実務領域にまたがって有効に働くことが示される。質感・高さ・速度の処理で「アイコン(質)」を設計し、同期と配置で「インデックス(因果)」を組み、反復使用で「シンボル(慣習)」を育てる――こうした音の設計プロセスの連鎖が、効果音制作と作曲に共通する記号操作として論じられる。
第7章 No Country For Old Men
第7章では、コーエン兄弟の映画《ノーカントリー》(2007)を題材に、「音を足す」のではなく「あえて引く」サウンドデザインの実践が検討される。第6章の《キング・コング》が、素材の収集・加工・レイヤリングによって〈存在〉を立ち上げる「加算的デザイン」の例であったのに対し、本章は、最小限の音だけで〈解釈〉を促す「減算的デザイン」の例であるといえる。これは、音響監督スキップ・リーヴセイと作曲家のカーター・バーウェルの協働によってなされたものである。リーヴセイは極度に整理された音響設計によってサスペンスを高めることを提案し、その方針に同意したバーウェルは、正弦波やシンギングボウルを効果音の下に忍ばせた「ほとんど聴き取れない」持続音を制作した。こうして観客にアブダクション(仮説的推論)を促すことで緊張を増幅させる。
この音響設計は、反復と情報の抑制を通じて、観客の解釈上の意味を形成していく。たとえば殺し屋シガーの携えるガスボンベの「シューッ」という音は、まずアイコン的な手掛かりとして現れ、繰り返し使用されることで「殺し屋シガーの存在」というインデックスを獲得し、やがてガスボンベの映像と音の最小限の提示だけで「差し迫った暴力」として機能するシンボルへと定着する。また、シガーに追われるモスが描かれるホテルの場面では、追跡装置のビープ音、階下の足音、廊下の電球が外される音など、断片的な音だけが提示される。つまり、観客はモスと同じ視点から得られる聴覚情報を手掛かりに状況を推測せざるをえず、抑制された音のデザインが、推論を誘発する装置として機能している。
このように本章では、音の「存在」だけでなく、「不在」の設計も、観客の解釈をコントロールしうることが示される。つまり第6章が「音で世界を作る」方法論であったとすれば、第7章は「音の抑制で世界を観客に作らせる」方法論であり、いずれもパースの記号論の枠組みによって捉えることが可能とされる。
第8章 Sound in non-fiction
第8章では、ニュース映画からドキュメンタリー、テレビのスポーツ中継、さらにはアニメーション・ドキュメンタリーに至るまで、ノンフィクションの多様な事例が取り上げられる。そこでは、真正性を志向しながらも、常に「記録」と「演出」のあいだで揺れ動いてきたノンフィクションにおけるサウンドデザインの実態が浮かび上がる。
トーキー以降のニュース映画では、戦闘機の飛行音や群衆のざわめきなど、現場での同期録音が難しい音を後付けし、「現実らしさ」を再構築する手法が広く用いられた。ドキュメンタリーでは、運搬可能な同録機材によって現場の音が強調される一方で、編集段階での補正や置換は不可避であったことが確認される。スポーツ中継では、競走馬の駆ける効果音がループ再生され、スキーの滑走音を事前収録してサンプラーから生放送に当てる例が示され、2010年のサッカーW杯の中継では、ブブゼラの恒常的な音を放送上、どこまでフィルタでカットすべきかというジレンマが生じたという。つまり、「どこまで忠実に録り、どこから演出するか」の判断が常に問われてきたのである。さらに、実際のインタビュー音声を素材とするアニメーション・ドキュメンタリーの事例では、台本なしで録音された長尺インタビューに対して、作画世界が主題を支えており、実写とは逆に音声が映像を現実化する役割を担うことが指摘される。
ここで著者は、ノンフィクションの真正性をパース記号論で捉え直すことを提案する。パースにおいて真実や現実は重要な主題であり、アブダクションとは「何を真であるとみなすか」を決定する推論のプロセスである。観客は与えられた音を最ももっともらしい解釈として受け入れ、そこに真正性を見出す。たとえ加工された音であっても、映像と同期することで「本物」として受容されるのはこのためである。真正性とは、純粋な記録ではなく、観客の解釈行為のなかで生成されるものだという視点である。
こうした検討を踏まえて、後半では、ノンフィクションにおける真正性と倫理の問題へと論が展開される。映像編集と比較すると、音の編集は、通常、聴き取れないように設計されており、観客にとってそれを検証・分析するのはきわめて困難である。そのため、ノンフィクションにおいて、音の演出を行う場合には、その影響を検討し、その結果が出演者や観客を欺かず、資料の正確性やアーカイブ資料としての正当性を損なわないようにする必要があると著者は指摘する。
第9章 Sound in video games
映画やテレビのような線形メディアでは、作品は一本の時間軸に沿って展開し、音もその時間軸に合わせて編集・ミキシングされる。これに対し、ビデオゲームはプレイヤーの行動によって展開が分岐し、毎回異なる体験が生成される非線形メディアである。そこでは音も「完成版」として事前に決め込まれるのではなく、ルールに基づきプレイごとにリアルタイムで構築される。この非線形性こそが、映画音響とは異なるゲーム音響の特性である。
第9章では、代表的なゲームの事例と既存の理論モデルを検討しつつ、パースの記号論、とりわけアブダクションの概念と接続することで、非線形性を有するゲームサウンドの設計が論じられる。
初期アーケードゲームの《Pong》(1972)や《Space Invaders》(1978)では、きわめて単純な電子音であっても、ゲーム内の出来事と結びつくことで即座にシンボリックな意味を帯び、プレイヤーへの有効なフィードバックとして機能した。
続いて、これまでのゲームサウンド研究で検討されてきた理論的枠組みが整理される。ここでは、映画音響理論で用いられてきた「ダイエジェティック/ノンダイエジェティック」の区分では扱いきれない領域として、メニュー操作音やプレイヤー同士のボイスチャットなど、ゲーム世界には含まれないがプレイ体験に不可欠な音を説明する「gamespace」の概念が提示される。そこから、プレイヤー体験を構造的に把握するMDAモデル(Mechanics–Dynamics–Aesthetics)や、ゲーム内のサウンドがどこで機能しているかを四象限で区分けするIEZA(Interface/Effect/Zone/Affect)など、ゲームサウンド独自の理論モデルが示される。その上で著者は、ゲームサウンドがプレイヤーのアブダクションを駆動する仕組みとして捉えられることを主張する。
現代ゲームの分析としては、《Call of Duty: WWII》(2017)における退役兵の証言に基づいた戦場音の構築や、ゾンビ用言語「Zom-Deutsche」による象徴性の再構築、《Limbo》(2010)におけるインデックスの意図的かつ段階的な曖昧化のサウンドデザインなどが取り上げられる。これらは記号論的観点から、ゲーム音響がどのようにプレイヤーの解釈や想像を誘発するかを示す事例となっている。
最終的に著者は、ジャンルを問わずゲームのサウンドデザインは「プレイヤーに何を知り、どう感じ、どう行動してほしいか」を設計する目的志向的な営みであると結論づける。
第10章 Sound in practice
第10章では、これまでの議論の総まとめとして、サウンドデザインの実践に記号論のモデルを適用することの利点が強調される。ここでは、サウンドデザインとその役割の深い理解に、実践者の語りが根本的に重要であるという著者の理念のもと、多様な実践者の言説が検証される。これまで確認されてきたように、サウンドデザインは単に音をつくるのではなく、観客に何を知り、感じ、理解してほしいかを逆算する実践であり、そこにこそ「デザイン」という語の核心がある。
パースの記号論は、このような実践を記述する上での柔軟性を備えている。映画・テレビ・ドキュメンタリー・ゲーム・VR/ARといった多様なジャンルのサウンドデザインを横断的に分析することを可能にし、しかも完成したサウンドだけでなく、録音・編集・差し替え・ミックスといった選択を「解釈を導くための記号操作」として説明できるからである。さらに、アイコン、インデックス、シンボルの三項関係は、単音から作品全体の音の構造まで、スケールを問わず同じ枠組みで扱える。聴き手が断片的な音からアブダクション(仮説的推論)を立て、状況に応じて修正するという解釈の変容も、このモデルによって理論化できる。
本章に登場する数々の実務者の証言は、これら利点を具体的に裏づけている。たとえば、BMWの電気自動車に「フレンドリーだが力強い」という一種のキャラクター性を音で与える試み、アニメーションで比喩的な効果音を使う慣行などは、いずれも「どんな解釈や感情を生みたいか」を起点に音を設計している例として位置づけられる。
このように第10章では、サウンドデザインを創造的な営みとして捉えるための理論的道具として、パース記号論の有効性が改めて示され、本書全体を締めくくっている。
コメント
本書の最大の功績は、これまで学術的研究の蓄積が相対的に乏しかったサウンドデザイン領域に、理論と実践を架橋する確かな基盤を築いた点にあると考える。
映画・ドキュメンタリー・ゲーム・VR/ARといった多様な領域を対象に、サウンドデザインの実践を理論化し、さらには既存の映像音楽理論あるいはゲームサウンド理論を、パースの記号論という統一的な枠組みで捉え直したことで、散発的であった先行研究に通底する視座を与える試みとして意義深いものである。とりわけ、効果音と音楽を分断せず、〈質感(アイコン)を設計し、因果(インデックス)を組み、慣習(シンボル)を育てる〉という共通の記号操作として再定義した点は画期的である。これにより、マレー・スピヴァックが《キングコング》で行った咆哮音のデザインのようなミクロな操作から、スキップ・リーヴセイが《ノーカントリー》で行った反復や抑制のマクロな設計に至るまで、幅広いスケールでサウンドデザインの実践を捉える理論モデルを提示したことは、本書の大きな貢献といえよう。
もっとも、映像音楽に関しては、課題も残されているように思われる。著者はパース後期のアイコン概念を援用することで、音自体の質感や構造に基づいて分析可能にする道を開いているが、アイコン/インデックス/シンボルという三分類だけでは制作実践を十分に説明しきれない面がある。例えば旋律や和声、リズムが複合的にもたらす感情的効果や、映像と音楽の対位法的な配置(戦闘シーンに牧歌的な旋律を重ねるなど)の多義的な意味作用は、単一の記号関係に還元することが難しい。加えて、音楽は文化・歴史・社会的文脈に強く結びついており、同じ旋律でも時代や地域によって全く異なる象徴性を帯びる。このような多義性をどのように扱うかは、今後、検討を要する課題といえる。
それでもなお、サウンドデザインを「完成後に付加される技術」ではなく、「意味と体験を設計する中核的プロセス」と再定義した本書の意義はきわめて大きいと考える。著者が繰り返し強調するように、実践の深い理解には実践者の語りが不可欠である。芸術表現の領域では、しばしば言語化されにくい感覚的な判断が支配的であるが、だからこそ教育や研究の場において、その経験を言葉にし、理論と接続していく営みが重要となるのではないだろうか。著者自身が教育研究の現場でこの作業を担っていることも含め、本書はその意義を示す金字塔的な成果であり、今後のサウンド研究、さらには芸術実践論における長期的な参照枠となるといえよう。
文献案内
以下に、本書の基盤となっている映画の音楽/音響研究における代表的な文献を紹介する。「音を意図的に用いるあらゆる行為」をサウンドデザインと定義づけて論じる本書の立場に合わせ、映像における音楽・音響のデザインを統合的に扱う文献に焦点を当てる。
- Altman, Rick, ed. Sound Theory, Sound Practice. New York: Routledge, 1992.
映画の音楽/音響研究における基礎的文献の一つ。概念と歴史を横断する編著。本書第4–5章で参照される理論的枠組の出発点となる。
- Collins, Karen. Game Sound: An Introduction to the History, Theory, and Practice of Video Game Music and Sound Design. Cambridge, MA: MIT Press, 2008.
ゲームの音楽/音響研究の先駆的研究者であるカレン・コリンズの代表的な著書。歴史・技術・制作論を統合し、現在のゲームサウンド研究における礎となっている。本書第9章の前提知識を提供する。
- Greene, Liz, and Danijela Kulezic-Wilson, eds. The Palgrave Handbook of Sound Design and Music in Screen Media: Integrated Soundtracks. Basingstoke: Palgrave Macmillan, 2016.
映画音楽研究と映画音響研究の溝を埋め、サウンドトラックへの統合的なアプローチを検討している。
- シオン,ミシェル.『映画にとって音とはなにか』川竹英克・ジャン・ピノン訳.東京:勁草書房,1993年.
作曲家であり映画の音楽/音響研究における重要な語彙や視点を整えたミシェル・シオンの代表的な著書。
注
1観客が映画を体験するとき、音と映像を別々に知覚するのではなく、一体のものとして知覚する「契約」が成立しているという考え方。
2音が画面の情報・感情・意味づけを増幅しつつ、その起源が音にあることが隠蔽され、あたかも像から自然に生じたかのように感じられる現象。
3「同期(synchronism)」と「統合(synthesis)」の合成語。聴覚的現象と視覚的現象が同時に生じることで、両者が一体化し一つの「映画的対象」として知覚される現象。
4出所が画面に現れない声=アクースマティックな声の特殊な在り方。姿が明かされるまで遍在性や全能感などの「特権的な力」を帯び、可視化されるとその力が減衰する。
出版元公式ウェブサイト
Routledge (https://www.taylorfrancis.com/books/mono/10.4324/9781315647517/sound-design-theory-practice-leo-murray)
評者情報
余田 有希子(よでん ゆきこ)
東京藝術大学音楽学部音楽環境創造科卒業後、同大学院修士課程および博士後期課程修了。2012年に博士号(学術)を取得。現在、桐朋学園大学音楽学部作曲専攻准教授。映像・身体表現・美術など様々な表現領域のための音楽・音響制作に携わるほか、2017年より一年間、スタンフォード大学CCRMAにて立体音響制作の研究に従事する。現代の様々な環境やテクノロジーに応じた「音楽・音響」の表現の可能性について、実践と理論の両面から探求している。
researchmap:https://researchmap.jp/yukikoyoden
soundcloud:https://soundcloud.com/yukiko-yoden