Tokyo Academic Review of Booksonline journal / powered by Yamanami Books / ISSN:2435-5712

2025年12月02日

Martha Albertson Fineman, Vulnerability Theory and the Trinity Lectures: Institutionalizing the Individual

Bristol University Press, 2025年

評者:松岡 千紘

Tokyo Academic Review of Books, vol.76 (2025); https://doi.org/10.52509/tarb0076

1. はじめに

1.1 著者について

本書の著者であるマーサ・アルバートソン・ファインマン (Martha Albertson Fineman) は、フェミニズム法学の黎明期から現在に至るまで、学界の第一線で活躍するフェミニズム法学者である。ファインマンは、1975年にシカゴ大学ロースクールを卒業後、ウィスコンシン大学、コロンビア大学、コーネル大学ロースクールで教鞭をとり、現在は、エモリー大学ロースクールに所属し、家族法・批判法学・フェミニズム法学の講座を担当している。法学者としてのファインマンのキャリアは約50年に及び、その業績も多岐にわたるが、2008年に提唱され、本書のタイトルにもなっている脆弱性理論は、これまでの彼女の研究のなかでもとりわけ学術的・社会的影響力の大きなアプローチである。次節では、ファインマンのこれまでの研究歴をたどりつつ、彼女の理論展開における本書の位置づけを探り、その意義を確認する。

1.2 ファインマンの研究歴

ファインマンの研究歴は、大別して、以下の五期に分けられる1

  • 第一期(1980年~1991年):形式的平等批判

この時期、ファインマンは、当時論争を呼んでいた離婚法改革 (divorce reform) をめぐり、リベラル・フェミニストが用いていた形式的平等のパラダイムが離婚後の女性の経済的依存を捉え損ねており、その結果、女性たちの経済的ニーズへの法的取組みが阻害されていると批判する。そして、フェミニズム法学は、女性の人生が男性とは異なって社会的にジェンダー化されていることを認める「差異の理論 (theory of difference) 」を採用すべきであると主張した。そのうえでファインマンは、特定の規範や価値を示す法の象徴的機能に着目し、家族の法的定義の中核に母子関係を据えることを提案した。すなわち、家族法領域において、法を通じて体現する価値を「ケア」に見出したのである。以上、第一期を通じて公表された一連の論文は、『The Illusion of Equality: The Rhetoric and Reality of Divorce Reform』(1994年)としてまとめられた。

  • 第二期(1990年~1995年):「性的家族」規範に対する批判

1990年以降、ファインマンは、これまでの形式的平等に対する批判を、ケア関係を基軸とした家族法改革の具体的提言へと展開していく。彼女は、「男女の対」からなる核家族が性愛関係を根幹として構成されていることを批判し、このような核家族を支える婚姻制度を廃止すべきだと主張する。さらに、家族から性愛関係を切り離し、ケア関係からなる「母子の対」を中心に家族を再定義する必要があることを論じた。また、家族法の目的を、ケア関係を中心に構成された家族への法的支援に置くことにより、人間である限り避けられない他者のケアへの依存に対する国家の責任を強調した。以上の研究成果は、『The Neutered Mother, The Sexual Family and the Other Twentieth Century Tragedies』(1995年)に集約されている。

  • 第三期(1996年~2000年):依存の理論化

1996年に入ると、ファインマンの研究テーマは、人間の身体性 (embodiment) に由来する不可避かつ普遍的な依存に焦点化されていく。他のフェミニストと同様、ファインマンも家事労働やケア労働の過小評価を批判するが、彼女の場合、ケア労働を女性に対する性差別との関係で論じる(あるいはそれを女性の市場参加に対する「足枷」として捉える)のではなく、社会的再生産という公共的な機能を備えたものとして、その積極的な価値を見出していく点に特徴がある。このような認識の下、ファインマンは、国家や市場がケア労働の恩恵を受けていることを強調し、ケア関係に対する公的支援のスティグマ化を批判する。そして、身体を持つ人間である限り物質的ニーズ (material needs) は当然に生じるとして、国家及び市場を、これらのニーズに対しより応答的なものへと再構築することを提案する。

  • 第四期(2001年~2007年):自律批判

この時期、ファインマンは、これまでの依存をテーマにした研究を、合衆国の法・政治文化に深く根づいている「自律」の批判へと展開していく。ファインマンによれば、合衆国における「自律」・「独立」・「自己充足 (self-sufficiency)」といった価値の信奉は、他方で私たちの依存の現実を覆い隠し、国家活動の抑制という誤った要求を形成している。これに対しファインマンは、自律の実現には経済的・社会的な関係網による支えが必要であるとして、自律を、個々人のニーズに対する社会的責任が果たされることで成立するものとして位置づけなおすことを主張する。以上の自律概念に対する批判及び関係的な再構成は、『The Autonomy Myth』(2004年)にまとめられている。

  • 第五期(2008年~現在):脆弱性理論

2008年、ファインマンは、「The Vulnerable Subject: Anchoring Equality in the Human Condition」(2008年)を公表し、その後、同論文を端緒として脆弱性理論が展開されていく。本論文でファインマンは、考察の対象を、これまでの依存から依存をもたらす人間の普遍的・恒常的な脆弱性へと移し、従来のリベラリズムの基礎にある自律的な政治的・法的主体を、このような脆弱な主体へと置き換えることを提唱する。これは、これまでのケアや依存に関するジェンダーに基づく分析視覚を、より広範かつ普遍的な「人間の条件 (human condition)」へと広げる試みでもあった。なお、同論文は、ファインマンの数多くある業績のなかでも、現在に至るまでもっとも多く引用されている。

1.3 本書の位置づけ

2022年のダブリン大学トリニティカレッジでの講演録を中心に編成された本書は、2008年以降の一連の著作のなかでファインマンが展開してきた脆弱性理論に関する初の単著であり、同理論の内容を体系的かつ包括的に提示している。脆弱性理論とは、リベラルな主体に代わって、身体に由来する普遍的な脆弱性を有する個人を法的・政治的主体と位置づけ、かかる主体を基点として、社会理論の再構築を目指すアプローチである。この主体像の転換は、国家に求められる役割の再考も促す。すなわち、自律/自立した個人から構成される国家は、その活動の最小化や制限が求められるのに対し、脆弱な主体を前提とする国家は、社会制度を通じて諸資源を分配し、人々のニーズに応答する責任を負うことになる。脆弱性理論の大きな特徴は、このような主体の定義を通じて、国家観そのものを、脆弱性に根ざした応答的なものへと再構想する点にある。脆弱性理論は、2008年に初めて公表されて以降、法学・政治学・倫理学といった各分野で支持されてきたが、Covid-19のパンデミックを経た現在、とりわけ大きな注目を集めている。

1.4 本書の構成

本書の目次は以下の通りである。

  • はじめに
  • 第1章 脆弱性理論におけるフェミニストの起源
    • 1.1 平等
    • 1.2 分離された領域の創出——公的領域と私的領域
      • 1.2.1 ジェンダー化された憲法的・法的主体
        • 1.2.1.1 排他的な私的領域
        • 1.2.1.2 平等のパラドクス
    • 1.3 達成された平等
      • 1.3.1 不平等な世界の平等
      • 1.3.2 脆弱性理論と平等
      • 1.3.3 赤ん坊と浴槽の湯
    • 1.4 脆弱性理論——「存在論的プラグマティズム」又は「プラグマティックな決定主義」
  • 第2章 第1講——身体による理由づけ
    • 第1講への導入
    • 2.1 身体
    • 2.2 自由と独立——身体の看過
    • 2.3 依存、そして埋め込まれた脆弱な主体
    • 2.4 結論——制度と相互依存
  • 第3章 第2講——社会正義
    • 第2講への導入
    • 3.1 社会正義の定義
    • 3.2 正義概念における個人の中心化
    • 3.3 脆弱性理論と社会正義
      • 3.3.1 レジリエンス
      • 3.3.2 社会制度と関係性
    • 3.4 脆弱性という視点からみた社会正義の問題
  • 第4章 第3講——被害
    • 第3講への導入
    • 4.1 個人的被害と集団的被害
    • 4.2 依存と被害
    • 4.3 被害と国家の責任
  • 第5章 第4講——不可避の不平等害
    • 第4講への導入
    • 5.1 不安定な個人——脆弱性と変化
    • 5.2 制度の構築
      • 5.2.1 国家の責任と制度構築
        • 5.2.1.1 権威的又は専制的な権力
        • 5.2.1.2 制度的権力
  • 第6章 個人の制度化
    • 第6章への導入
    • 6.1 身体
    • 6.2 普遍的概念の社会的・政治的含意
      • 6.2.1 制度化された個人
        • 6.2.1.1 社会構造の枠内における個人の位置づけ
        • 6.2.1.2 法・政治理論への示唆
      • 6.2.2 生物学的要請
    • 6.3 集団的危機
      • 6.3.1 合衆国の経験——制度に優越する個人
      • 6.3.2 脆弱性——命令又は要請

2. 本書の概要

2.1 はじめに

本書の導入部である「はじめに」では、脆弱性理論の概要が示されるとともに、各部の要旨が概説される。ファインマンによれば、脆弱性理論の基盤には次のような前提がある。すなわち、正しい理論とは、人間の本質的条件である物質的状況に目を向けると同時に、社会における諸個人の相互依存関係、並びに現代生活の複雑さを認識するものである。こうした前提を踏まえ、脆弱性理論においては、物質的な身体を基礎的な経験的概念として捉え、そこから生じる脆弱性や依存による影響に焦点を当てることで、人間の本質的条件における物理的・社会的現実を前景化することが志向される。そしてこの観点から、脆弱性理論は、これまで法学・政治学をはじめとする社会科学を席巻してきた、「自律」や「独立」といった抽象的な理念から、具体的な人間の経験へと焦点を移していく。この着眼点の推移は、国家と個人の関係をめぐるレトリックにも転換を迫る。自律や独立といった抽象的理念の下では、多くの場合、国家の介入は本質的に(あるいは高確率で)濫用的で個人の幸福と矛盾するものとみなされるが、脆弱性理論の下では、国家の介入は当然必要なものとして想定されるという。

また本章では、脆弱性理論が、家族法や家族政策に関するフェミニズムのアプローチから発展したものであることが明確に述べられている。家族は、子どもや高齢者、その他のケアを必要とする人々に対する責任を第一義的に負っている。したがって、家族法や家族政策は人間の身体性を取り巻く現実に注意を払わざるを得ず、必然的にフェミニズム的な視座を内包していたという。ファインマンによれば、これまでフェミニズムは、家族法や家族政策について、主としてジェンダーの視点から検討を加えてきたが、脆弱性理論は、これらの制度を、社会全体に影響をもたらすより普遍的かつ根本的なものと捉えなおす。結果として、脆弱性理論の下では、従来「ジェンダーに基づく不正義」として理解されてきた課題は、包括的な制度改革の必要性を示す指標として位置づけられることになる。

2.2 第1章「脆弱性理論におけるフェミニストの起源」

本章では、フェミニズム法学における平等論争の歴史的な展開と脆弱性理論との関係が示される。ファインマンによれば、合衆国の憲政史の初期段階では、公的領域において国家と「完全な市民 (full citizens)」との関係が規律された一方、私的領域において従属的立場に置かれた市民に対する国家の責任は不問に付された。この公私の区分に対応した「統治の区別」は、「憲法上の主体 (constitutional subjectivities)」の区別にもつながった。完全な市民とみなされていた男性たちは憲法上の主体となった一方、従属する市民とみなされていた女性たちは公的領域から排除され、代わりに、家族という私的領域において国家から「特別な保護」を提供される存在となった。1960年代に入り、平等保護条項〔Equal Protection Clause:合衆国憲法修正第14条において法の平等保護を定める規定〕や1964年公民権法第7編〔人種や性別による雇用差別を禁止する連邦法〕の下、「性的中立」——両性の「差異」を考慮しない形式的平等——が法原則となるまで、大陸法 (civil law) においては、このような性別に基づく主体の区別や両性の別異取扱いが推進され、司法もまたこれを是認してきた。

こうした状況は、フェミニストたちを両性の同一の取扱いを要求するよう駆り立てた。リベラル・フェミニストたちは、形式的平等に基づく両性の同一の取扱いを支持し、連邦最高裁もまた、Reed v. Reed〔404 U.S. 71 (1971)〕判決において、遺産管理人を決定する際に「男性を優先する」と規定したアイダホ州法を平等保護条項に照らし違憲と判断することで、法的に有意な性差の存在を否定した。この時期、女性たちは、少なくとも「完全かつ平等な憲法上の主体」となったが、他方で、上の形式的平等のアプローチに対しては、両性の社会的・文化的経験の差異を考慮しない点で批判がなされた。

これに対しファインマンは、平等を実質的に実現するにあたり、形式的平等のアプローチでは不十分だとする一方、両性の差異を考慮する立場も、主体が性別に基づき区別される点で問題があるとする。この点、脆弱性理論は、人間の身体性を基に普遍的な法主体を打ち立てることで主体の分断を回避し、それにより平等論をめぐる上記の隘路を打開することができる。また、普遍的な脆弱性に影響を及ぼす諸制度の在り方を公私にかかわらず問うこの理論の下では、これまで家族という「分離された領域」に隔離されてきたケアをめぐる課題についても、これを憲法的(公的)議題として扱うことが可能となる。その結果、従来の公私二元論の枠組みが再編されうるとされる。

2.3 第2章「第1講——身体による理由づけ」

本章では、脆弱性理論の基礎的前提である「身体」の概念が展開される。ここでは身体が、人種・性別・年齢などの人口統計学上のカテゴリーにかかわらず、本質的に発達的な性質をもつがゆえに経時的に変化するという意味で、存在論的に普遍化されたものとして提示される。大部分において、こうした変化を統制することは困難であるものの、公共政策のレベルにおいては、肯定的変化は促進されうるし、否定的変化は抑制されうる。ファインマンによれば、理論を構築するうえで重要なのは、こうした可変性を備えた人間の身体を十分考慮することである。ところが、近代の政治・法理論においては、平等・自由・自律といった抽象的な理念ばかりに目が向けられ、身体とそれに付随する脆弱性は等閑視されてきた。このような身体性の看過は、国家の責任を後退させ、結果として、貧困や不平等といった社会的被害 (social harms) を生み出しているという。

また、本章において、身体を理論的出発点とする際の鍵概念として提示されるのが、「依存 (dependency)」である。私たちは、身体に由来する脆弱性ゆえに、生涯にわたって社会関係や制度のなかに埋め込まれた (embedded) /依存する存在である。注目すべきは、こうした恒常的な依存こそが、家族やコミュニティの形成、さらには地域的・国際的な政治組織の構築を促してきたのであり、その意味で依存は肯定的な側面を有しているということである。また、依存の在り方や程度は状況や発達段階に応じて変動するものの、市場・雇用・金融・教育・医療といった社会制度や関係性への依存は、すべての人にとって不可避かつ恒常的なものであるという事実を認識する必要がある。このように脆弱性理論は、身体に由来する制度的・関係的な依存を「例外」ではなく、人間の「標準的な状態」と捉え、それを出発点とすることで、より包摂的な社会正義と制度の構想を可能にするのだとされる。

2.4 第3章「第2講——社会正義」

本章では、脆弱性理論を基礎にした社会正義の構想が展開されるが、ここでファインマンが対置するのが、人種や性別といった特定の個人や集団にとっての不平等の是正としての正義である。ファインマンいわく、これらは、個人主義的な権利に基づく枠組みを基にしているが、社会正義は、より普遍的かつ包括的な課題として捉えられるべきものである。このような社会正義の視点に立つ場合、諸制度や関係性の形成において、あらゆる人の全範囲の複雑な利益が考慮されなければならない。すなわち、個人や集団それぞれの具体的な利害関心だけでなく、コミュニティや社会全体のより広範で包括的な利益についても、基本的な社会制度の設計段階から考慮される必要があるという。

また本章で、ファインマンが社会正義の構想において重要な概念として提示するのが、「レジリエンス (resilience)」である。レジリエンスは、たとえ失敗や予期せぬ困難に直面したとしても、自分には回復のための手段と能力があるという確信をもってリスクをとることを可能にする力である。それは、人間が脆弱性に対応することを可能にする物質的・文化的・社会的・実存的な資源によってもたらされる。このようなレジリエンスは、凡そ諸個人のコントロールが及ばない社会制度や社会的諸条件において形成されるという意味で本質的に社会的なものであり、それゆえに、国家の責任という十分に発達した概念のなかに位置づけられるべきものである。このことから、脆弱性理論における社会正義においては、個人に必要なレジリエンスを提供する応答的 (responsive) な国家が要求される。応答的な国家は、脆弱な主体の依存に応答し、注意を払うように組織され、また、社会制度や関係性を創出・統制するなかで、公共善を追求しなければならないとされる。

2.5 第4章「第3講——被害」

本章では、国家の不作為によってもたらされる否定的な影響を、社会的救済を要する「被害 (injury)」として捉えなおすべきだとする主張が展開される。合衆国の法理論は、伝統的に国家に不干渉を要請する「消極的権利 (negative rights)」を中心として体系化されており、国家に積極的な作為を要請する「積極的権利 (positive rights)」の保障は重視されてこなかった。その結果、国家責任に関する多くのアプローチにおいて、人間の基本的な依存/ニーズを国家が放置・見捨てることが容認され、貧困状態にある人々や社会的・経済的不利益を被る人々に対する法的・政治的ネグレクトが、解決すべき課題とみなされてこなかった。

これに対しファインマンは、「派生的依存 (derivative dependency)」という概念を切り口として、依存に対する国家の責任を論じていく。派生的依存とは、ケア提供者がケアを効果的に遂行するために諸資源に依存する状態を指す。ファインマンによれば、重要なのは、社会もまた、自らを存続させるために、私的な家族に委ねられたケアに派生的に依存しており、したがって、国家が依存に応答することは、利他主義や共感(個人的な応答であり慈善活動につながることが多い)の問題ではなく、根本的に義務の問題だということである。にもかかわらず、国家がケアへのニーズに無関心でいることは、心理学でいうところの「スティル・フェイス・パラダイム (still face paradigm)」〔乳児が無反応な母親に直面した際に不安や無力感の兆候を示すこと〕と同様、その社会の各構成員に深刻な被害をもたらす。

脆弱性理論は、人間がその脆弱性ゆえに生涯を通じて社会的制度や人間関係に不可避的に依存しているという事実を基盤とするが、このような認識に立つ場合、これらの依存に対する社会的・制度的な無関心は、国家が構築された本来の目的に反することになる。したがって、依存への無関心から生じる貧困や権利の剥奪、疎外、搾取といった問題は、個人の自己責任とされるべきではなく、「憲法上の害悪 (constitutional harm)」として捉えられるべきものだとされる。

2.6 第5章「第4講——不可避の不平等」

本章では、親と子、使用者と被用者といった社会的役割に基づく関係性と、そうした関係性を創出する制度の公平性を追及する方法について論じられる。リベラリズムの伝統において法的主体は、規範的に自律的かつ独立しており、互いに平等で同等の能力を持つものと前提される。しかし実際には、人々は身体の経時的な変化に伴う「不可避の不平等 (inevitable inequality)」を抱えている。この不平等な関係性は、親/子、使用者/被用者、株主/消費者、医者/患者、貸主/借主といった社会的役割に対応しつつ、国家の規制が及ばない私的領域に追いやられてきた。

ファインマンによれば、こうした本質的に不平等な関係性に対しては、これまで擬制の平等が押しつけられ、また、平等の対象からの除外がなされてきた。擬制の平等の押しつけの典型例は、雇用関係における「契約」である。「契約」の概念の下では、当事者が交渉力において不平等な地位にあり、経済的低迷やその他の危機の際に代替的な資源や選択肢にアクセスする能力に格差があることが看過されている。また、平等の対象からの除外の典型例は、子どもと大人の能力の違いに基づく区別である。この能力の違いは、子どもを私的な家族に囲い込み、かれらが親の気まぐれに左右されることを正当化している。問題は、いずれの場合においても、国家の責任が平等という包括的な枠組みのなかで軽視、あるいは隠蔽されていることである。しかし、脆弱性理論の下では、こうした関係性が法律や政策という統治の仕組みによって創出されていることが強調され、そこにおける正義が追求される。そしてこれにより、こうした関係性を私的領域に留めつつ国家の責任を否定する公私二元論を克服することが可能になるとされる。

2.7 第6章「個人の制度化」

本章では、ここまで議論を踏まえ、改めて、脆弱性理論における主体像が提示される。脆弱性理論において、個人は、自律や独立といった抽象的理念ではなく、「存在論的な身体」とそこから派生する脆弱性、そして、それゆえに生じる社会的諸制度・関係への不可避の依存/埋め込み (embeddedness) に基礎づけられた存在として規定される。「個人の制度化 (institutionalizing the individual)」とは、こうした主体の再定義を指す。個人は、現実を形作っている複雑で相互に作用しあう制度的文脈のなかに定位する存在であり、このような主体像の転換はまた、社会課題に対する解決策を、より広範かつ変革的なものへと変化させる。

これとは対照的なのが、反差別アプローチである。ファインマンによれば、特定の人口統計学的カテゴリーに基づく「差別」という問題の捉え方は、重要となる場合もあるものの、制度の社会的役割や機能から個人間の差異へと焦点をずらし、真に包括的で普遍的な政治的・法的主体の探求を妨げてしまう。差別という問題枠組みにおける害悪とは、同一の取扱いという法的要請からの逸脱を指すが、問題は、その前提となる「平等」の概念が狭すぎること、そして、これらの法規範において主体の表象が歪められていることにある。これに対し、政治的・法的主体像それ自体を普遍的な脆弱性を抱えた存在へと根本的に転換する脆弱性理論においては、構造的な配置 (structural arrangements) が、かかる主体の現実に十分に応答しているか否かが常に問われる。この観点からは、個人の脆弱性やニーズに対する責任もまた、個人や私的領域に留まらず、制度的・集団的に担われるべき課題として再構成されるのである。このように本章では、従来の自律的な主体に代わる新たな主体像を提示し、それに基づく社会構造の捉えなおしを通じて、制度と責任の再設計の必要性が明らかにされる。脆弱性に根ざした普遍的主体という出発点から、より包括的で応答的な社会制度の構築が志向されることになるのである。

3. コメント

3.1 脆弱性理論における主体概念の意義

ファインマンが本書において提示する脆弱性理論は、伝統的なリベラリズムにおける自律の称揚、そして、そのような自律を主として「経済的な自由」に還元し、社会保障への依存を否定する新自由主義イデオロギーに対し、根源的な批判を投げかけるものである。合衆国では1930年代以降、社会保障及び福祉にかかる各種法制度が段階的に整備され、資本主義経済の下で貧困や格差のあおりを受ける人々に対する公的扶助が図られてきた。しかしながら、18世紀末に起草された合衆国憲法には、日本のように生存権や労働権といった社会権規定が明文で存在せず、また、個人主義・自己責任論の文化的伝統も根強くあるところ、公的扶助の受給を権利とするのか、あるいは恩恵とみるのかが、大きな政治的・法的争点となってきた。

そうしたなか、1960年代から1970年代半ばにかけて、公的扶助の受給を「福祉権」として要求する運動が展開される。福祉権運動と呼ばれるこの運動を中心的に担ったのは、当時(そして現在も)社会的に周縁化されていた黒人のシングルマザーたちであった。歴史的・構造的な差別の結果、子どもを育てるために公的扶助を利用せざるを得なかった彼女たちは、子を産み育てながらも「尊厳」をもって生きる基盤を福祉権に求めたのである。この福祉権運動や、その背景にある黒人のシングルマザーをはじめとする社会的に周縁化された人々の窮状は、脆弱性理論による主体像の転換の意義を、歴史的事実の面から支えるものとなっている。

合衆国では、伝統的なリベラリズムの下、社会を構成する政治的・法的主体として、自律的かつ合理的な自己利益の追求者が想定されてきた。しかし、ファインマンも指摘するように、実際には、こうした個人の在り方はフィクションである。現実社会に生きる個人は、時に誰かをケアし、あるいはケアされ、また、その社会的立場からさまざまな「自由」の制約を受ける存在だ。ところが、自律的な個人像に依拠する場合、ケアし、ケアされるといった個々人の立場の具体性は看過されてしまう。その結果、公的扶助の利用は個々人のニーズに基づくものではなく、「選択」や「怠惰」の結果として理解され、それにより、さまざまな事情から公的扶助を利用する人々が「落伍者」としてスティグマ化されることにつながった。

これに対しファインマンの脆弱性理論は、「身体性」という人間がもつ普遍的な要素に着目し、また身体からもたらされる脆弱性を主体の普遍的な条件とすることで、このような公的扶助にまつわるスティグマを回避することを目指すものである。人間は誰しもが身体を持っており、それゆえに、どのような人であっても、生涯を通じてどこかの場面で必ず他者のケアや制度への依存を経験する。脆弱性理論は、ケアや依存をめぐるフェミニズム理論を出発点としながらも、性別を超えた身体の脆弱性を基礎に普遍的な主体像を打ち立てた。そして、かかる「脆弱な主体」を理論的な出発点とすることで、身体から生じるニーズに対する広範な制度的応答/社会的責任を導出することを可能にしたのである。

さらに、この理論は、当時のフェミニズム理論における主体像をめぐる議論が陥っていた「差異と平等のジレンマ」に対しても、新たな視座を提供するものであった。1980年代に入ると、フェミニズムの側から、先のリベラリズムに基づく主体像が実質的には「男性」をモデルとしていることへの批判が提起され、これに対抗するため、女性の生きる現実を反映する形で主体像を再ジェンダー化することが提唱された。他方で、同じフェミニズム内部でも、性別にかかわらず同一の取扱いを求める立場も存在した。前者は、「女性の経験」を積極的に評価できる反面、女性に対するステレオタイプの再生産や本質主義のリスクを孕み、後者はこうしたリスクを回避できる反面、「平等」の名の下に差異に基づく不利益を看過する傾向にある。このジレンマに対し脆弱性理論は、特定の性別や属性に依拠することなく、人間の普遍的な脆弱性を共通項として法主体像を打ち立てることで、理論的にこれを超克する展望をひらいたのである。

上述のように、脆弱性理論は、主体の存在論的な脆弱性に着目することで、個人と制度との関係を再構成し、そのニーズに対する国家の応答責任を理論化する点に特徴がある。ファインマンは、主体論と国家論を有機的に接合することで、これまで理論化が不十分であったフェミニズム法学における国家論の空隙を埋める枠組みを提示した。しかしながら、次節でみるように、主体を普遍化するというこの理論の「強み」が、翻ってその弱点ともなる場面があるように思われる。「すべての人が脆弱である」とする前提の下、特定の人々が抱える差異化された脆弱性や制度的不平等が不可視化される可能性があるためだ。

3.2 脆弱性理論と反差別アプローチ

本書においてファインマンがいう特定の人口統計学的カテゴリーに基づく「差別」とは、すなわち性別や人種といった社会的属性/アイデンティティ・カテゴリーに基づく差別を指す。ファインマンの整理に倣うならば、このような反差別アプローチに依拠する場合、「不当な差別の禁止」が法的要請となり、差別を生み出す諸制度の構造的背景が問われない。これに対し、脆弱性理論の立場からは、そこで前提とされている主体像の歪みを問い、この問いをさらに、より望ましい諸制度の在り方にまで敷衍していくことになる。

この二つのアプローチの違いについて、企業内の性分業を例に考えてみる。合衆国では(日本よりはるかにましであるとはいえ)、企業内で女性が管理職を占める割合が男性に比べ低く、このことは、2016年アメリカ大統領選挙でも「ガラスの天井」問題として政治的争点になった。だが、当該企業が明示的に企業内の昇進等において性別に基づく区別を設けるなどしていない限り、従来の反差別アプローチの立場からはこれを「差別」の問題とすることができない2

これに対し、脆弱性理論においては、こうした性別による不均衡を生み出す諸制度において前提とされている主体像が問われることになる。企業内の昇進において相対的に有利となるのは、ケア責任を負わない「男性」である。脆弱性理論においては、こうした主体を暗に想定した雇用制度が問題とされたうえで、たとえば、家族のケアを担いながらでも成果を上げられるような雇用環境の整備といった制度的応答が求められることになるだろう。このように考えると、従来の反差別アプローチは、脆弱性理論に比べて妥当性を欠いていると思われるかもしれない。しかし、そうともいえない状況がある。それが、構造的に形成された脆弱性の問題である。

脆弱性理論においては、すべての人間に共通する普遍的な脆弱性を基に主体が構築される。しかしながら、多くの場合、人々はこのような普遍的な脆弱性に加え、たとえばジェンダーに基づく低賃金や性被害に遭う確率の高さ等、人種・性別・障害の有無・移民のステータスといった社会的属性/アイデンティティ・カテゴリーに沿って構造化された脆弱性も有している。ところが、ファインマンの脆弱性理論は、主体を普遍化する過程でこの構造的脆弱性という観点を後景化しており、基本的にアイデンティティ・カテゴリーを顧慮しない理論構成となっている。これに対し反差別アプローチは、人々の社会的属性/アイデンティティ・カテゴリーに基づく不利益の付与に着目する理論であり、その本質において、カテゴリーを重視するものである。したがって、現行のアプローチでは不十分ではあるものの、反差別アプローチは、アイデンティティ・カテゴリーに基づき形成された構造的脆弱性の是正とも親和的であるといえる。このように、アイデンティティ・カテゴリー及び構造的脆弱性に関し、この二つのアプローチに大きな違いがあるなか、問題は、ファインマンが脆弱性理論を、反差別アプローチに代わる社会正義のアプローチとして提示していることである。

実際、ファインマンの脆弱性理論においてもっとも多くの批判を集めているのも、この理論が脆弱性を普遍的なものとしてのみ概念化している点である3。脆弱性理論における構造的脆弱性の看過は、アイデンティティ・カテゴリーが脆弱性の形成において果たす役割を過小評価している。このことは、社会政策において有限な諸資源をどのように配分するのかといった場面でとくに問題となる。なぜなら、脆弱性をすべての人に共通する「普遍的」な条件とみなす枠組みにおいては、「誰がより深刻な困難を抱えているのか」といった構造的脆弱性に基づく優先順位の設定が困難となるからだ。結果として、もっとも支援を必要とする人々に対し適切な資源配分がなされないリスクが生じるが、これは、社会正義の実現において大きな障壁となりうる。

3.3 法的戦略をめぐる課題

訴訟戦略的な観点からは、前節で挙げた課題はより現実味を帯びたものとなる。先述のように、合衆国憲法には社会権に関する明文の規定が存在しない。1960年代以降、連邦最高裁は、平等保護条項やデュー・プロセス条項〔Due Process Clause:合衆国憲法修正第14条において法の適正手続きについて定める規定〕に依拠し、社会権を実質的に保障する諸判決を下したものの、1970年代に入るとこのような動きも収束する。こうしたなか、合衆国の憲法構造の下、ファインマンがいう「積極的権利」を実効的に保障する方法が課題となるが、とくにこのことは、国家が諸個人のニーズに対する応答責任を果たさない場合に、何を法的根拠としてかかる不作為について争うのかという論点として立ち現れる。

これについて、裁判所による権利創造的な憲法解釈を追求する方向性もありうるが、その場合でも、司法権の機能的な限界など、克服しなければならない課題は多い。さらに、仮に「積極的権利」を基本的人権ないしそれに準じる法的利益として構成することができたとしても、それらは積極的な予算配分を前提とするものであるところ、司法審査の場面では、立法府の裁量が大きくなることが予想される。つまるところ、ファインマンの脆弱性理論における「積極的権利」のアプローチは、その革新性の裏返しとして、現在の合衆国における憲法構造との間に齟齬/ジレンマを孕んでおり、このことから、実効性の面で大きな課題を抱えているといえる。

これに対し、現行の反差別アプローチは、平等保護条項に基づく訴訟戦略としては極めて現実的な選択肢であり、また、司法審査においても、上述の場合と比してより厳格な基準が用いられる可能性が高い。もっとも、ファインマンもいうように、現行の反差別アプローチで前提とされる「平等」の射程が非常に狭いことも事実である。たとえば連邦最高裁は、Washington v. Davis〔426 U.S. 229 (1976)〕判決以降、平等保護条項が「意図的な差別」を禁止すると解しており、表面上は中立であっても特定のアイデンティティ・カテゴリーに沿って差別的効果(構造的脆弱性)をもたらす行為については、差別的意図の立証がない限り違憲とはならないとしている。また、公私二元論の枠組みにおいては、憲法の適用を受けるのは、原則として国家による行為(公的行為)のみである。

しかしながら、1964年公民権法第7編〔人種や性別による雇用差別を禁止する連邦法〕の下ではあるものの、これまで、連邦最高裁により差別的効果をもたらす行為の違法性が認定されてきた。また、連邦最高裁の判例において、私人による行為であっても、国家の関与がある、あるいはそれが公的な機能を果たしている場合には、憲法上の人権保障が及ぶとするステイト・アクション法理が形成されてきた。さらに学説上も、キャサリン・マッキノン (Catharine A. MacKinnon) やオーウェン・フィス (Owen M. Fiss) をはじめとする論者たちによって、集団的に形成されている不平等に着目することで、「平等」の射程を構造的・制度的なレベルへと拡張する議論が展開されている4。このように考えると、「積極的権利」のアプローチを従来の反差別アプローチに完全に置換するよりも、修正第14条の下で禁止される「差別」の概念を拡張したうえで、脆弱性理論に基づき、その差別の背景にある諸制度の構造的課題を問うような形で、平等論を再構成する方が得策のようにも思われる。

4. 終わりに——今後の課題

以上にみてきたように、ファインマンの脆弱性理論においては、身体とそこからもたらされる脆弱性を根拠にして、普遍的な主体が打ち立てられた。しかしながら、諸個人は、普遍的な脆弱性とは別に、アイデンティティ・カテゴリーごとに形成される構造的な脆弱性を有する存在でもある。にもかかわらず、脆弱性理論からは、このような構造的脆弱性の視点を看取できず、このことは、合衆国の憲法構造とも相俟って、普遍的脆弱性と構造的脆弱性のそれぞれのレベルにおいて応答責任が十分に果たされないリスクを生じさせている。もっとも、これにより直ちに脆弱性理論の有用性が否定されるわけではない。この理論における普遍的脆弱性という概念は、なおもって社会正義を構想するうえで欠かせない視点であり、また普遍的な依存/ニーズへの制度的応答は喫緊の課題であるためだ。

したがって、脆弱性には「普遍性」と「個別性」という二つの次元が存在すると捉えることが肝要である。すなわち、脆弱性はすべての人間に共通する普遍的条件である一方で、属性/アイデンティティ・カテゴリーに基づき構造化された個別的なものでもある。このような理解に立つならば、差別を「不当な区別」の問題に還元してきた従来の反差別アプローチは、差別的意図の有無や公私の別にかかわらず、構造的に再生産される差別をも射程に含むものへと拡張しうる。さらに、国家の応答責任という観点からは、平等保護条項を根拠として、作為請求権としての「差別されない権利 (right to non-discrimination)」を構成する余地も見出される。なお、このように修正された反差別アプローチをもってしても解消が叶わない普遍的脆弱性については、国家による応答責任の憲法的な基礎づけも含め、思索を重ねていく必要があろう。このように、本書において示された脆弱性理論の到達点及び課題を踏まえると、今後は、普遍的脆弱性と構造的脆弱性の双方に対応する、より包括的な理論的枠組みの構築が望まれる。

文献案内

  • ① Martha Albertson Fineman, et.al., (eds.) Law, Vulnerability, and the Responsive State: Beyond Equality and Liberty (2023).
  • ② Martha Albertson Fineman, et.al., (eds.) Vulnerability: Reflections on a New Ethical Foundation for Law and Politics (2013).
  • ③ Martha Albertson Fineman, The Autonomy Myth: A Theory of Dependency (2004)[穐田信子・速水葉子訳『ケアの絆——自律神話を超えて』(岩波書店、2009年)].
  • ④ Martha Albertson Fineman, The Neutered Mother, The Sexual Family and Other Twentieth Century Tragedies (1995) [上野千鶴子ほか訳『家族、積みすぎた方舟——ポスト平等主義のフェミニズム法理論』(学陽書房、2003年)].
  • ⑤ Martha Albertson Fineman, The Illusion of Equality: The Rhetoric and Reality of Divorce Reform (1994).
  • ⑥ Nancy Fraser, Cannibal Capitalism: How our System is Devouring Democracy, Care, and the Planet and What We Can Do About It (2022). [江口泰子訳『資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか』(ちくま新書、2023年)].
  • ⑦ 池田弘乃『ケアへの法哲学——フェミニズム法理論との対話』(ナカニシヤ出版、2022年)。
  • ⑧ 小久見祥恵「フェミニズム法理論におけるM・A.・ファインマンの議論の位置づけ」同志社法学64巻3号553–587頁(2012年)。
  • ⑨ 冨岡薫「ケアの倫理は『脆弱性』概念をどのように用いるべきなのか——ケアを巡るポリティクスの視点から」哲學(日本哲学会)75号250–263頁(2024年)。
  • ⑩ 松岡千紘「セクシュアル・ハラスメント法理における『歓迎されないこと』概念の考察(1)(2・完)——アメリカの判例・学説を中心に」阪大法学68巻6号179-204頁(2019年)、69巻1号41–59頁(2019年)。
  • ⑪ 松岡千紘「アメリカ公民権法におけるセクシュアル・ハラスメントの男性被害者と性差別概念(1)(2・完)——具体的個人と『性別』の関係に関する一考察」阪大法学70巻6号145-170頁、71巻1号67–98頁(2021年)。

謝辞

横浜国立大学大学院国際社会科学研究院の山本展彰氏及びTARB編集委員会には、本書評の執筆という貴重な機会をいただいた。また、大阪大学大学院法学研究科の竹下諄氏及び同志社大学アメリカ研究所の川鍋健氏には本書評をレビューいただき、表現や訳語について有益なご助言を賜った。ここに、以上の方々への感謝を表する。

1以下のファインマンの研究歴の概要は、Jennifer Hickey, Introduction, in The Foundations of Vulnerability Theory: Feminism, Family, and Fineman 1, 1–7 (Jennifer Hickey ed., 2024)の整理に倣っている。

2もとより後述のように、私人による行為は原則憲法上の救済対象とはならない。

3たとえば、以下の文献を参照。Nina A. Kohn, Vulnerability Theory and the Role of Government, 26 Yale J.L. & Feminism 1, 13 (2014).; Frank Rudy Cooper, Always Already Suspect: Revising Vulnerability Theory, 93 N.C. L. Rev. 1339, 1373 (2015).冨岡薫「ケアの倫理は『脆弱性』概念をどのように用いるべきなのか——ケアを巡るポリティクスの視点から」哲學(日本哲学会)75号250頁、254–256頁(2024年)。

4See, Owen M. Fiss, Groups and the Equal Protection Clause, 5 (2) Philosophy and Public Affairs 107, 155–160 (1977); Catharine A. MacKinnon, Women's Lives, Men's Laws 44–57 (2005).

出版元公式ウェブサイト

Bristol University Press (https://bristoluniversitypress.co.uk/vulnerability-theory-and-the-trinity-lectures)

評者情報

松岡 千紘(まつおか ちひろ)

専門:憲法学、ジェンダー法

所属:同志社大学法学部助教、大阪大学大学院法学研究科招へい研究員〔兼任〕

主な論文:

松岡千紘「環境型セクシュアル・ハラスメント規制と表現の自由の関係に関する一考察——合衆国における判例・学説を素材として」阪大法学73巻1号67–119頁(2023年)。

松岡千紘「性売買と自己決定——セクシュアリティをめぐる構造と個人」唯物論研究 162号42–53頁(2023年)。

など

researchmap:https://researchmap.jp/732968