Tokyo Academic Review of Booksonline journal / powered by Yamanami Books / ISSN:2435-5712

2020年12月21日

古市憲寿『誰も戦争を教えられない』

講談社,2015年

評者:清水 亮

Tokyo Academic Review of Books, vol.10 (2020); https://doi.org/10.52509/tarb0010

本書1は、戦争博物館を題材として、世界各国のなかで日本の戦争の記憶のありようを論じたものである。著者は、社会学をバックグラウンドとした1985年生まれの若手論者である。著者は戦争研究の専門家ではないが、見識の不足をあげつらうより、専門家ではない視座からこそ見えるもの、書けたものの可能性を汲み取りたい。この書評は、純粋にアカデミックではないが敷居が低い本書を入り口として、アカデミックな研究動向を垣間見てもらう道先案内である。なお本書がとりあげている個別博物館の記述については踏み込まず、枠組みレベルで紹介しコメントする。

内容紹介

序章では、「戦争そのもの」=史実ではなく、「戦争の残し方」の多様性に問題関心があることが述べられる。学術的な文脈においては、1990年代以降に盛んになった「戦争の記憶」論に位置づけられるといえる。冒頭ではハワイ真珠湾のアリゾナ・メモリアルが紹介され、「『爽やか』で『勝利』を祝う『楽しい』場所」(p.9)と語られる。これは第一に、私達になじみのある敗戦国日本の戦争の悲惨さを伝える博物館とは根本から異なる、異文化の対象と比較することで、相対化し視野を広げようとする分析視角を持つことを意味する。第二の分析視角は「楽しい」に現れているような——“真面目な”学習や体験伝承、あるいは慰霊の文脈とは対照的な——戦争博物館におけるエンターテインメント性への着目である。

第1章では、比較の視点から同じく戦勝国である中国の博物館とアメリカとの違いに触れ、ようやく日本の戦争博物館が、「物語がない」、「無難に戦争を描こうとする姿勢」といったかたちでネガティブに語られる。この語りの背景には、博物館が“国民”のアイデンティティの創出装置であった近代から、テーマパークやショッピングモールと同様に“消費者”に娯楽を提供する場へと「ディズニー化」しつつあるポストモダンの文脈において、戦争博物館を捉えようとする問題提起がある。著者がいうには、富国強兵や戦争勝利といった国民共通の物語が無くなった現代において、他のエンターテインメントと競争しつつ博物館に足を運んでもらう集客のためには、テーマパーク的な「楽しさ」が求められるという(p.35~37)。とはいえ現状では、楽しさの活用は(日本はもちろん)世界の戦争博物館の主流ではない(p.42)とはっきり断っている。

第2章では“敗戦国”のカテゴリーとしてポーランド、ドイツ、イタリアの収容所などの戦争博物館をめぐる。興味深いことに、よくある平和博物館書籍であれば、有識者の「ガイド」としての目線から戦争展示の解説をするのに対して、著者の文体は、関心はあるが“無知な”ツーリスト(観光客)の目線から意図的に書かれている。博物館の外ではアイスを食べたり買い物したりといった記述をわざわざ入れ込むのも観光客の生態を記述するものであるといえるし、そのなかで“無知”だった自分が博物館を訪ねるなかで何を知り、驚き、考えたかという出会いの瞬間の感覚が描写される点が特徴だ。

第3章では中国の戦争博物館が取り上げられる。やはりツーリストの目線からの文体で、「愛国教育」に象徴される公定イデオロギーだけによって単純に規定されていない、いわば観光客などの消費者の姿をうかがわせる場面(例えば土産物屋の様子や、「愛国教育基地」でディズニー映画が上映されている様子)を、観察から拾って記述しているところが印象的だ。

第4章は韓国の戦争博物館である。全体の論旨から注目すべきは、巨大な独立紀念館について、「ハワイの真珠湾や南京などが目じゃないほどディズニーランド化した戦争博物館」(p.149)の事例として取り上げている点だ。巨大再現模型や人形を使う展示群は、「まるでフォーラム・ショップやヴィーナス・フォートといった巨大屋内型ショッピングモールのようだ」(p.180)と形容され、愛国心を高揚させる目的のもとに娯楽性をもった装置が動員されている様子を描く。他にもソウルの戦争記念館の「仁川上陸作戦4D体験」などの体験型のシミュレーションを紹介するが、それが韓国における「平和を維持する」軍隊の意義のPRにも最終的につなげられていくことが示される。もちろん北朝鮮との軍事境界線DMZの観光地化にも触れられ、観光客の記念撮影のために直立不動のポーズを保つ兵士について、ディズニーランドのミッキーの着ぐるみと同じくキャラクターを演じきっていると評する。

第5章では同様の文体で、他国の博物館との比較を随時盛り込みつつ、沖縄などの様々な日本の戦争博物館が取り上げられていく。地域による博物館の観光資源化の事例として舞鶴引揚記念館や予科練平和記念館が紹介されていたり(p.259~267)、イデオロギー的には真逆の沖縄県平和祈念資料館から靖国神社遊就館まで手掛ける乃村工藝社のような展示会社の存在へ着目していること(p.274~279)が特筆すべき点だろう。

第5章の最後では、「大きな記憶」「小さな記憶」という著者独自のキー概念が提示される(p.280~285)。著者は、博物館や教科書において提示される公的な「大きな記憶」よりも、「大きな記憶」を編成すると同時に、その物語と相矛盾するディティールを含む個々の戦争経験者の「小さな記憶」に注目する。ポイントは、「小さな記憶」には、戦争体験者個人の証言ばかりではなく、慰霊碑や銅像、戦跡といった、モノや空間も含めている点だろう。それも明らかな「戦争遺跡」に限らず、金属回収されたハチ公像や、軍用地だった東京ミッドタウンといった日常的な風景のなかで出会えるものを含めている。

第6章は、中世の戦争=関ケ原古戦場の訪問という印象的な書き出しから、古代から現代までの様々な戦争の形態を概観し、アジア太平洋戦争と呼ばれる「僕たちが知っている戦争」の相対化が図られる。「「戦争」といえば、あの戦争を想起してしまうことで、見落としてしまうものがあるのではないか」(p.298)という問題提起である。

戦争論ののちに第6章後半では日本の戦争博物館について、「新規顧客の開拓という点で必ずしも成功しているとは言い難い」「戦争に興味がなかった人をどれだけ動員できているのかは怪しい」という現状認識を示したうえで、「他のエンターテインメント施設との競合」を考慮するならば、「残された「本物」と最新技術の活用」によって博物館それ自体を「楽しい」空間にしよう」と提案する(p.331~333)。最後に「僕たちは、戦争を知らない。そこから始めていくしかない」(p.350)と語る著者にとって重要なのは、戦争を知るという“ゴール”ではなく、戦争に関する未知の部分と驚きをもって出会い、自らの無知に気づくことを含む、いわば戦争を知る“プロセス”なのだろう。

コメント

(1)〈教養〉から「小さな記憶」へ

本書は、1985年生まれの“戦争を知らない若者”による、若者論として打ち(売り)出され、読まれてきた。例えば、歴史学者成田龍一は、戦後社会の戦争像を3つの世代に分けて検討する際に、最も若い世代として著者を紹介し、世代論ないし歴史認識論の文脈で語っている(成田 2015: 21–24)。

しかし、評者には、1980年代生まれという特定の世代の歴史認識論としての特有性よりも、むしろ戦争を語ることに関して「より多く知る者」と「より少なく知る者」との間で、戦後において繰り返されてきた構図の反復あるいは変奏にもみえる。

著者は、参考文献リストを作れば相当な量になるだろう文献を注で言及しつつ論じており、(専門家ほどではないとしても)戦争に関する相応の知識をもっている。しかし、あえて「戦争なんて知らなくていい」という身振りを示し、ツーリストの文体で記述する。タイトル「誰も戦争を教えられない」に現れているように、博物館や文献から戦争を「教わる」、あるいはそれを受けて自分が読者に「教える」という関係性の構築を慎重に回避している。この身振りは歴史教育・平和教育といった文脈で戦争博物館に関わるアクターとは対照的なものである。

著者の狙いを考えるうえで、一つ補助線になるキーワードを入れたい。文化資本論で有名な社会学者ピエール・ブルデューの「象徴的暴力」という概念である。戦争体験の歴史社会学的研究を精力的に積み重ねている福間良明によれば、1960年代において、戦争は体験した者にしかわからない云々といった戦中派の戦争体験の語りは、戦後派の若者たちにとって、「劣位や跪拝をもたらす象徴的な暴力と感じられた」(福間 2009: 162)。教養は年の功で増えていくため、「教養とは、学識ある年長者を頂点としたヒエラルキーを不断に生産し続ける暴力装置」(福間 2009: 80)として作用してしまう。そして、戦争体験を持っていることは、世代限定のある種の〈教養〉を持っていることと同じように見えてしまったのである。今日でも、このようなメカニズムは、戦争体験者であるかどうかに限らず、戦争に関する知識を持つ人々が持たない人々に戦争を“教える”営みにおいても作動してしまう恐れがあるものだろう。

以上を踏まえると、著者は第6章で「『戦争』といえば、あの戦争を想起してしまうことで、見落としてしまうものがあるのではないか」(p.245)と問いかけ、アジア太平洋戦争という「総力戦」に関する知識・教養の価値を相対化していることになる。私達がこだわる「あの戦争」はもう現代社会では起きる可能性が限りなく少ない形態の戦争なのではないか。だとすれば、反戦平和のためには、テロリストや民間軍事会社やロボット兵器が登場しサイバー空間でも戦われる現代の戦争を知るべきという話にならないのはなぜかというような問題提起だ。第1~5章が各国の博物館の横の比較による相対化を図るのに対して、第6章は戦争の歴史的形態という縦の比較による相対化なのである。

しかし、だからといって著者は戦争に関する知識や体験を無価値とするのではなく、「教わる」という関係ではないかたちでの継承の回路も見つけている。それが「小さな記憶」である。それは歴史観のようにフォーマルに教わる「大きな記憶」(それは〈教養〉としての形態もとりやすいだろう)ではなく、継承者が「拾い集める」「出会う」断片的なエピソードである。著者は、楽しくするならディズニー化と唱えたりする一方で、そうした「小さな記憶」の探索にも、ささやかな「楽しさ」を見出しているようにみえる。

実際、本書刊行後、「小さな記憶」を通した戦争と向き合う回路は、むしろますます流行しているようだ。フィクションとはいえ戦時下の「小さな記憶」に満ちた日常を綿密な時代考証で描いて話題を呼んだアニメ映画『この世界の片隅に』(2016年公開。原作漫画は2007年から連載開始)がロングランを記録した。これを受けて、NHKの夏の戦争特番では実際に起きた「小さな記憶」のエピソードを体験者から募集していく「#あちこちのすずさん」が2019年~2020年に放送されている。そして博物館についても、舞台となった呉市などはもちろん、東京の「昭和館」でも2018年に特別企画展「昭和館で学ぶ『この世界の片隅に』」が行われている(「『この世界の片隅』で学ぶ戦争」ではない! ことがポイントで、戦争に関する教養を高めるということをあえて前面に出さないタイトルになっている)。つまり、マンガやアニメという(博物館と違い)エンタメであることが前提とされている領域でおきた「小さな記憶」ブームが博物館にも還流している。このような状況を踏まえると、本書のまとまりの弱い議論は、主要概念である「小さな記憶」と「楽しさ(エンタメ性)」との関係性を論じることで、より統合的に深められるように思われる。これは、国民国家における戦争博物館とは別の、消費社会における戦争博物館というテーマを論じるうえで重要だろう。

(2)〈魅力〉からみる戦争博物館

著者の視点は一貫して、戦争博物館を、来訪者に対して働きかける「教育」ではなく、来訪者を惹きつける、いわば〈魅力〉2の観点から論じようとしていると読める。本書は、例えば娯楽性が前提とされる戦争映画ではなく、戦争博物館を研究対象に選んでいる。戦争博物館論が主に、実践的・教育学的あるいは歴史学的な立場から論じられてきたのに対して、本論は、来訪者の欲望や博物館側のマーケティングに着目するツーリズム論的な視点を提案している。幅広い博物館を手掛ける展示会社という演出者・コンサルタントの役割を果たすアクターへの着目も、この点において示唆的である。ディズニー化、娯楽、日常/非日常といった著者が使う概念は、観光社会学でよく使われるものであり、そうした概念によって把握される現代消費社会によって構造化された「観光客のまなざし」(Urry & Larsen 2011=2014)を紀行文的な文体から示そうとした試みともみれる。いわば、戦争博物館の観光社会学の可能性に気づかせてくれる。

来館者を増やすための戦争博物館のエンタメ化は、本書刊行後の近年において、もはや絵空事ではなくなっている。評者が別稿(清水 近刊)で論じたように、自治体の運営する戦争・平和博物館でも、すでに財政状況の悪化等を背景として、観光施設として「集客」に努力をしいられている。なかには、「山の中の海軍の町にしき ひみつ基地ミュージアム」という愛称をつけて戦争遺跡の体験型観光を押し出し注目を集めている館もある。先述したように国立の昭和館も、「この世界の片隅に」展を開催した。あるいは、戦争博物館ではなく軍事博物館だからということで本書では言及されていないが、潜水艦をまるごと展示し内部見学ができる「海上自衛隊呉史料館 てつのくじら館」や、実物の戦車やヘリが並び3Dシアターや服装体験コーナーも持つ「陸上自衛隊広報センター りっくんランド」などの自衛隊の広報施設もエンタメ性を強く志向している。いずれにせよ、観光社会学者アーリの言葉を借りれば、近代社会において別の領域として分化されていた教育と娯楽はポストモダンにおいて「脱分化」し、両者が融合したedu-tainment (educationとentertainmentを合わせた造語)を内包した展示施設が現れている(Urry & Larsen 2011=2014: 208–209)。

とはいえ、評者は、著者が好んで強調する「娯楽」「ディズニー化」ではなく、〈魅力〉という、より広い概念から戦争博物館を考えてみたい。というのも、戦争博物館に来訪者を惹き寄せる〈魅力〉は、「エンタメ性」に還元されないからだ。

例えば、著者は、アウシュヴィッツなどで遺跡や青空に当時の時代を感じる「場の力」(p.270)を見出し、沖縄は戦跡を残すより「整える」ことに熱心だと皮肉を言ったりしている。このように随所で触れている「本物の」遺跡・遺物は、記号的な「作り物」の集積であるところのディズニーランドやショッピングモールとは異なる方向性にみえる。複製と対置されるオリジナルなモノとの一回性の出会いに宿る真正さ「アウラ」(Benjamin 1936=1995)3 を、戦争遺跡や博物館に展示される戦争遺物から感じ取ることは、戦争という重いテーマを扱う博物館の訪問者にとって、オーソドックスな受容ともいえる。戦後日本社会の歴史的文脈をみても、戦争博物館や遺跡が、かつて主要な訪問者だった生き残りの体験者や遺族にとっての慰霊の場に、相互に緊張を孕みつつ観光の場が重なっていく過程があった(例えば高井 2011)。

これに対して、著者が評価している博物館の「エンタメ性」は、掲載写真も含めた記述をみると再現模型などの複製技術の活用中心の方向性のようであり、「アウラ」的な魅力に関しては掘り下げた記述がない。最終的には著者も、残された本物と最新技術の活用という提案の仕方をしている(p.333)以上は、唯一性をもった「モノ」の魅力の位相4(と複製によるディズニー化との緊張あるいは相互依存)はもっと踏み込んで考えてよいテーマではなかったか。人類史のなかでたった75年前の戦争が、総力戦という日常生活・社会全体を巻き込む戦争形態とあいまって、大量の遺物を残し、それが大小さまざまな戦争博物館の誕生を可能にする素材となっている。それは先述したモノや空間を含む「小さな記憶」との出会いにもかかわる。例えば戦争映画とは違って、その場に足を運ぶことで体験できるモノ・場所というアウラは、戦争博物館に特有の魅力だろう。

アウラはあくまで一つの例示だが、他にも様々な種類の〈魅力〉を論じうるはずである(例えば、〈教養〉の習得に心惹かれる人々もいる)。「よくできてい」るけれども「つまらない」(p330)と著者に評される日本の戦争・平和博物館も、エンタメ性に還元されない多様な意味での〈魅力〉をなにがしか持っているからこそ来訪者が絶えない。

本書から垣間見えるのは、歴史認識や教育といった観点からは後景化しがちな〈魅力〉という視座からの戦争博物館の研究・認識枠組みである。本書の問題提起を引き受けるとすれば、それぞれの戦争・平和博物館が、どのような種類の〈魅力〉をもっているのか、その〈魅力〉はどのような社会的属性の人々に認識される/認識されないのか、といった問いを内在的・多角的に理解する実証的研究が求められているように思われる。

文献案内

手に取りやすい本書をきっかけとして、戦争博物館ないし戦争の社会学的研究に関心をもつ方がいれば、以下の記述が、そこから基本的・入門的学術文献に踏み込む際のガイドになればと思う。

本書が取り上げた以外も含め、日本と世界の戦争博物館をシンプルだが数多く紹介したものとして、『増補 平和博物館・戦争資料館ガイドブック』(歴史教育者協議会編 2004)がある。もう少し分析的視点を求めるならば、『ミュージアムと負の記憶』(竹沢編 2015)や、宗教研究者を中心とした『聖地巡礼ツーリズム』(星野ほか編 2012)でも、国内外の戦争博物館・遺跡が取り上げられていて、本書にはない視点(例えば慰霊)も見つかるだろう。

平和博物館研究の動向は、「〈平和博物館研究〉に向けて」(福島・岩間 2009)が網羅的にまとめており、岩間氏のHP(https://www.yuki-iwama.com)では2015年までの文献を追加した「平和博物館関連文献目録」が公開されている。近年も含めた包括的な研究動向は『なぜ戦争体験を継承するのか』(蘭・小倉・今野編 近刊)を参照してほしい。

こうした平和博物館研究の全体像の紹介は手に余るが、歴史・平和教育の実践から一歩引いたスタンスを特徴とする社会学的な研究について、まとまった著作は以下である。

①まず、本書のような比較の視座を学術的・実証的に実行した教育社会学者として、村上登司文がいる。『戦後日本の平和教育の社会学的研究』(2009)で平和博物館ならびにそれと対置される軍事博物館(例えば軍事組織の教育・広報施設としてもある)について国内外の比較やアンケート調査等の考察がまとめられている。個別論文も多く、「平和博物館と軍事博物館の比較」(2003)などダウンロード可能なものが多数ある。

②戦争記憶論の視座から、観光の作用や来訪者の欲望も視野に入れたものとして、『知覧の誕生——特攻の記憶はいかに創られてきたのか』(福間・山口編 2015)や、『戦跡の戦後史』(福間 2015)などの一連の著作が広島・沖縄などの博物館や戦跡の戦後をたどっている。また、近年の様相については、個別事例研究はさておき、「新自由主義時代の歴史観光まちづくり」(野上 2015)が、戦争博物館の観光資源化の文脈としての新自由主義という、本書では抜けているが博物館のエンターテインメント化とも関連しうる構造に光を当てている点で示唆的だ。

③世界遺産や文化遺産や日本遺産まで、あらゆるモノが「保存される時代」という文脈で「負の遺産」までが遺産化される、そうしたモノの保存という観点から戦争博物館も論じているものとして『文化遺産の社会学』(荻野編 2002)が金字塔だ。視座と事例をまとめた最新の教科書的文献として、『社会で読み解く文化遺産』(木村・森久編 2020)が出た。

④オーディエンス研究という点では、戦後日本の戦争・軍事観を研究する社会学者たちによる近年のアンケート調査が、戦争や平和に関心をもつ層に、「批判的関心層」と「趣味的関心層」と対照的な受容が存在することをあぶりだしている(ミリタリー・カルチャー研究会 2020)。戦跡や戦争・平和博物館への訪問に関する質問項目をもとにした論考も含まれているが、本書の文脈で見れば、「趣味的関心層」はエンタメとして戦争博物館を受容する人々を捉えた実証的成果ともいえる。

また、『未来の戦死に向き合うためのノート』(井上 2019)の後半部分が、知覧などで特攻の歴史を「活入れ」として利用し「自己啓発」として受容する人々の登場について、インターネット上の資料も使う手法で実証的に考察している。すでに述べてきたように本書は、「教育」という正統的かつ“真面目”な受容に対して、非正統的かつ“不真面目な(驚きや面白さを求める)”「エンタメ性」を対置しているが、「自己啓発」は非正統的かつ“真面目な”受容のありかたと位置付けられる点で興味深い。

⑤最後に、本書でも数多くの戦争に関する学術文献が参照されているが、まとまった文献ガイドとして『戦争社会学ブックガイド』(野上・福間編 2012)が有用である。「戦争社会学」は、社会学と名付けられてはいるものの、実質的には学際的な「戦争と社会」に関する研究分野であり、社会学の文献だけが紹介されるわけではない。現代の戦争に関する文献も含まれている。各研究者の論文や最新の議論は『戦争社会学の構想』(福間ほか編 2013)や、戦争社会学研究会のジャーナル『戦争社会学研究』(1~4巻・みずき書林)などを参照されたい。

12013年に『誰も戦争を教えてくれなかった』との題で出版され、改題と若干の加筆のうえ2015年に文庫化された。以下のページ数表記は文庫に合わせている。

2ここでは踏み込まないが、本書は戦争論でもある。著者は、戦争博物館のもつ「『楽しさ』」を、博物館というメディアやダークツーリズムに還元するのではなく、「戦争自体の『楽しさ』」(P.37~40)——端的にいえば、先の大戦も一定の大衆的支持なしには始まらなかった――という対象・コンテンツからも論じることで、戦争博物館を通して戦争を論じることを可能にしている。これは、たとえ戦争の本質が悲惨であるとしても、主観的には戦争が魅力的にみえてしまう現象に光を当てることで、なぜ戦争が起きてしまうのかを問おうとした「戦争の魅力」論の系譜にも接続可能だろう(高橋 1982; 1989)。

3アウラとツーリズム、特に博物館との関係については詳細はアーリとラースン(Urry & Larsen 2011=2014: 230–8)や高井(2011: 42–3)を参照。評者も、高井と同じく、複製がなければアウラは存在しえず、両者は二項対立というよりも相互依存的であるという理解に依拠するが、戦争博物館の〈魅力〉の構成要素間関係に関して重要な論点であろう。

4「モノ」に関しては、いくつかの理論の整理を行った別稿(清水 2020)がある。

参考文献

  • 蘭信三・小倉康嗣・今野日出晴編,近刊,『なぜ戦争体験を継承するのか——ポスト体験時代の歴史実践』みずき書林.
  • Benjamin, W., 1936, Das Kunstwerk im Zeitalter seiner technischen Reproduzierbarkeit.(浅井健二郎編訳, 1995,「複製技術時代の芸術作品」『近代の意味 ベンヤミン・コレクション1』筑摩書房、583–640.)
  • 福間良明,2009,『「戦争体験」の戦後史——世代・教養・イデオロギー』中央公論新社.
  • ――――,2015,『「戦跡」の戦後史——せめぎあう遺構とモニュメント』岩波書店.
  • 福間良明・野上元・蘭信三・石原俊編,2013,『戦争社会学の構想——制度・体験・メディア』勉誠出版.
  • 福間良明・山口誠編,2015,『「知覧」の誕生——特攻の記憶はいかに創られてきたのか』柏書房.
  • 福島在行・岩間優希,2009,「〈平和博物館研究〉に向けて——日本における平和博物館研究史とこれから」『立命館平和研究』別冊.
  • 星野英紀・山中弘・岡本亮輔編,2012,『聖地巡礼ツーリズム』弘文堂.
  • 井上義和,2019,『未来の戦死に向き合うためのノート』創元社.
  • 木村至聖・森久聡,2020,『社会学で読み解く文化遺産——新しい研究の視点とフィールド』新曜社.
  • ミリタリー・カルチャー研究会,2020,『ミリタリー・カルチャー研究——データで読む現代日本の戦争観』青弓社.
  • 村上登司文,2003,「平和博物館と軍事博物館の比較——比較社会学的考察」『広島平和科学』25: 123–43.
  • ――――,2009,『戦後日本の平和教育の社会学的研究』学術出版会.
  • 成田龍一,2015,「現代社会の中の戦争像と戦後像」成田龍一・吉田裕編『記憶と認識の中のアジア太平洋戦争』岩波書店,3–36.
  • 野上元,2015,「新自由主義時代の歴史観光まちづくり——愛媛県松山市「坂の上の雲まちづくり」における「歴史」の利用」野上元・小林多寿子編『歴史と向きあう社会学』ミネルヴァ書房,195–219.
  • 野上元・福間良明編,2012,『戦争社会学ブックガイド』創元社.
  • 荻野昌弘編,2002,『文化遺産の社会学——ルーヴル美術館から原爆ドームまで』新曜社.
  • 歴史教育者協議会編,2004,『増補 平和博物館・戦争資料館ガイドブック』青木書店.
  • 清水亮,2020,「モノと意味——人はモノを制御できるのか」木村至聖・森久聡編『社会学で読み解く文化遺産——新しい研究の視点とフィールド』新曜社,66–71.
  • ――――,近刊,「地域からみる、観光が拡げる――知覧特攻平和会館、大刀洗平和記念館、人吉海軍航空基地資料館」蘭信三・小倉康嗣・今野日出晴編『なぜ戦争体験を継承するのか――ポスト体験時代の歴史実践』みずき書林.
  • 高橋三郎,1982,「紛争の軍事的形態」『平和研究』6 : 6–11.
  • ――――,1989,「平和研究と社会学」『廣島法學』12(4): 577–90.
  • 高井昌吏,2011,「「祈念」メディアと「真正さ」の変容——ひめゆりの塔・ツーリズム・資料館」高井昌吏編『「反戦」と「好戦」のポピュラー・カルチャー——メディア・ジェンダー・ツーリズム』人文書院,13–46.
  • 竹沢尚一郎編,2015,『ミュージアムと負の記憶——戦争・公害・疾病・災害:人類の負の記憶をどう展示するか』東信堂.
  • Urry, J. and J. Larsen, 2011, Tourist Gaze 3.0, Sage Publications. (加太宏邦訳, 2014,『観光のまなざし〔増補改訂版〕』法政大学出版局.)

出版元公式ウェブサイト

講談社

https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000208010

評者情報

清水 亮(しみず りょう)

1991年東京都生まれ。現在、日本学術振興会特別研究員PD(筑波大学)。博士(社会学)。1927年生まれの祖父は伊那商業学校在学中に風船爆弾の工場へ動員されていた(戦争に関する本・新聞記事をよく読み、夏休みに帰省するたび戦争はしちゃいかんよとよく言われた)。その長兄は、中国大陸で長く従軍し、戦後に私家版『私の戦史』を書き残した(ある日酔っぱらいながら戦場で銃弾が飛ぶ様子を語り、靖国神社にはお参りしなきゃならんと言われた)。私は大学の卒論で、古市氏が「展示の中心は空なのだ」と珍しく感心している(p.264~267)予科練平和記念館で調査をさせていただき、予科練出身の語り部の方の活動をまとめた。その後、戦争の記憶に関する、特に元軍人組織と地域住民の関係等に焦点を当てた歴史社会学的な論文を書いてきた(詳細はresearchmap)。各地の戦争・平和博物館のフィールドワークを続けており、今後研究としてまとめていきたい。

researchmap:https://researchmap.jp/smzr/