Tokyo Academic Review of Booksonline journal / powered by Yamanami Books / ISSN:2435-5712

2021年5月18日

Shelly Kagan, How to Count Animals, More or Less

Oxford University Press,2019年

評者:横路 佳幸

Tokyo Academic Review of Books, vol.19 (2021); https://doi.org/10.52509/tarb0019

唐突だが、次のような想定をしてほしい。ある日のこと、いつもと変わらない日常を過ごしていたあなたは、突然やってきたエイリアンたちに拉致されてしまった。どうやら彼らは、地球の言語を習得しているようで、あなたを遠く離れた惑星へと連れ去るつもりらしい。その後は、考えたくもないほどひどく恐ろしいことを計画しているようだ。かつてない恐怖にあなたの足はすくんでしまうが、それでも勇気を振り絞り、あなたは彼らと対話を試みて説得することを決意した。必死の思いであなたが語ったのは、次のような内容である。自由と選択を尊重してほしいこと。現在の拘束は望んだものではないどころか、不当なものであること。家族や友人らと一緒に地球で暮らし続けたいこと。やりたいことがまだたくさんあること。他の惑星では暮らしていけず、死んでしまうかもしれないこと。解放してくれるならできる限りのお返しはするつもりであること。あなたは、ありったけの気持ちを込めた言葉をエイリアンたちにぶつけたのである。

このSF的なストーリーの結末は、各人の好みにお任せしたい*1。それよりも肝要なのは、いまの思考実験における「立場」を逆転させてみること、そして、エイリアンの代わりに私たちが普段、食事や鑑賞、実験の対象としている動物たちに思いを巡らせることである。つまり、動物たちを突然、食肉工場や動物園、実験室といった別の場所へと連れ去り、「ひどく恐ろしいこと」を計画しているのが、ほかならぬ私たち自身であると想定してみよう。もし彼らが言語によって私たちとコミュニケーションをとることができたとしたら、このとき彼らはどんな言葉を私たちにぶつけてくるだろうか。それが私たちへの説得の言葉、それもあなたが先ほどエイリアンたちにぶつけた言葉と一言一句違わないのだとしたら、私たちは動物たちにどのような態度をとるべきだろうか。すでに明らかだと思うが、立場を反転させたこちらのストーリーは、ただのフィクションと切って捨てることのできない、現実の重みを持っている。

一般に、ヒト以外の動物への配慮や取り扱い方(関わり方)の道徳的な正当性を評価・考察する倫理学分野は、動物倫理(animal ethics)と呼ばれる。倫理学者ローリー・グルーエンによって考案された上記の事例は、動物倫理が突き付ける喫緊の問題の一つを象徴的に描いたものである(Gruen 2011)。私たちが食肉・鑑賞・ペット用に繁殖させている数多くの動物たちは、拉致を目論むエイリアンに目を付けられたあなた自身に重なる部分がある。だとすると、ちょうどエイリアンがあなたに対し重大かつ不当な害をもたらそうとしたのと少なくとも同程度には、私たちの普段の行動・選択は、現在進行形で動物に対し重大かつ不当な害をもたらしているのではないか——そうした考えが頭をよぎることにいかなる不思議もない。そしてこの問題は、理論的思考だけで完結する問題でもなければ、うわべの言葉でお茶を濁すことができる種類のものでもないのは明白である。それは、現代社会における多様な動物との関わり方、ひいては私たち一人ひとりの意識やライフスタイル自体を再考し見直すことに密接に結び付いている。

本書How to Count Animals, More or Lessは、当代一流の倫理学者シェリー・ケーガンによって著された、動物倫理の著作である。タイトル(及び表紙)から想像がつくように、本書が問いかけるのは、サルやイヌ、ウサギ、ネズミ、鳥などの各動物は、私たち人と比べて、道徳的にどれほど重要(count)なのかという疑問である。ただし、本書の目的は実践的な行動を促すことにあるのではない。冒頭で遠慮がちに言及される通り、本書の射程はあくまでも動物倫理の理論的な側面に限定される。たとえば、動物実験をすることが道徳的に許されるのはいかなる場合か、動物を家や動物園で飼うことは本当に問題がないのか、といった疑問に対する具体的な回答・方針は、本書では提示されない。その代わりに本書が提示を試みるのは、人と動物の「道徳的地位(moral status)」をめぐる次の(一見すると)ごく常識的な主張である。すなわち、各動物は何らかの道徳的地位を占めてはいるものの、その地位は私たち人と比べ総じて低く、心理的能力がどれほど高いかに応じて各動物の地位も階層化されている。言い換えると、ほとんどの動物はたしかに道徳的に重要で、その取り扱いにあたっては不当に傷付けたり殺すようなことがあってはならないが、その重要さは人ほどではなく、さらにサルやイヌ、ウサギ、鳥といった各動物がどれほど重要であるかは、能力順にいわばランキング化・序列化されるのである。ケーガン自身は、こうした主張を階層アプローチ(hierarchical approach)と名付け、本書全体で積極的に擁護する。

この書評(論文)では、階層アプローチがいかなる仕方で擁護されているか、そしてケーガンの各議論がどの程度まで成功しているかを検討することにしたい。

要約

手始めに、本書の要約を行おう。大きく見るとケーガンによる立論は、対立する理論を斥け、階層アプローチを十分な根拠のもとで確立したのち、想定される反論や疑問を受けて階層アプローチを様々な角度から修正・発展させるという流れになっている。全11章のうち、第1章が道徳的地位一般についての予備的考察に相当するのだとすると、第2章と第3章は対立する理論を斥けること、第4章から第6章は階層アプローチを基礎付けることを目的とする。ここまでが前半である。後半にあたる第7章から第9章では、階層アプローチを義務論という文脈で捉え直すことに焦点が当てられ、第10章と第11章では、動物が関わる場合の正当防衛のケースと同種の個体間で能力にばらつきがあるケースをそれぞれ階層アプローチの枠内で適切に理解することが試みられる。かなり長いけれども、各パートの詳しい中身は以下の通りである(括弧内の数字は本書のページ数を表し、引用内の太字は本書のイタリック体を表す)。

第1章では、各用語の説明と、人や動物が道徳的に重要であるための条件の考察がなされる。まずケーガンの用語説明では、「人(person)」とは自己意識などの理性的な心理的能力を備えた生物を指す。これに対し、「ヒト(human)」とはホモサピエンスという生物種に属する者のことである。多くの場合、ヒトは人でもあり両者は重なり合う。しかし、新生児や重度の認知機能障害を持つ者は、人とみなすのに必要な心理的能力を欠くためにその例外となる。つまり、人ではないヒトもいる。他方で「動物」は、人でもヒトでもないような動物を指す。サルやイヌ、ウサギ、ネズミ、鳥などがその具体例である。

次に、人や動物の道徳的な取り扱いを考えるため、ケーガンは道徳的身分(moral standing)と道徳的地位(moral status)という二つの用語を導入する。ある者が道徳的身分を持つとは、その者がそれ自身で道徳的に重要であるということを指す。たとえば、他人の腕を理由なく引きちぎるのは、道徳的に強く非難されるべきことであるが、野に咲く花から花びらを引きちぎるのは、道徳的に非難されるべきことではない。こうした対比は、道徳的身分を持ち重要である人一般と、道徳的身分を持たず重要ではない植物一般の間の違いに相当する。ケーガンの理解するところでは、サルやイヌ、ウサギ、ネズミ、鳥などの動物は道徳的に重要であり、人と同じく道徳的身分を持つ。だがこのことは、人と動物でまったく同じ取り扱いを要するということ、すなわち同じ道徳的地位に立つことを必ずしも意味しない。道徳的地位とは、道徳的身分を持つ者をどのように取り扱うべきかに影響を与える規範的特徴のことで、こちらは道徳的身分とは違って、スペクトラムのように程度差を許すものである。道徳的身分を持つ二つの存在者は、どちらもたしかに道徳的に重要だとしても、一方の方が比較的高い道徳的地位に立ち、他方よりも慎重で広範囲に及ぶ取り扱いを要する可能性がある。道徳的地位には、たとえば傷付けることや利益を奪うことを控え、必要なときには助けるといった振る舞いが織り込まれているが、「どの程度そうすべきか」は当の個体が占めている道徳的地位次第、というわけである。

用語説明を終えたのちケーガンは、ある者が道徳的身分を持つのはどのようなときかという問いに取り掛かる。この問いに対してこれまで提案されてきた最も有望な答えは、感覚能力(sentience)である。特に痛み(や快楽)を感じる能力の有無は、道徳的な重要さを見極めるための大きな試金石だとみなされてきた。人やサル、イヌが道徳的身分を持ち、紙や石がそうではないのは、前者は痛みを感じ意識することができるが、後者はそうした能力を欠いているからである。数多くの倫理学者は道徳的身分の必要十分条件は感覚能力にあると考えてきたが、ケーガンはこの標準的描像に「待った」をかけ、新たに行為者性(agency)を重視することを提案する。ここで言われる「行為者性」とは、欲求や選好、意図を持ち、目標に向かって行為することを指す。ケーガンの考えでは、道徳的身分を持つには行為者性を持つだけで十分である。たとえば、苦痛をまったく感じないが欲求や選好を持ちそれに沿って行為するようなロボット(映画『2001年宇宙の旅』に登場するHAL 9000など)が、道徳的に重要な存在者であることはありえないことではない。また、感覚や意識の有無に比べ、欲求や選好の有無を確認することは比較的容易である。魚が痛みを感じるかは実証的にはっきりとしない事柄だが、魚が餌を求め、危険を察知すると回避行動をとることは誰しもが確認できる。こうしたことからケーガンは、行為者性こそが道徳的身分を持つかどうかの判断にとって中心的な役割を果たし、感覚は必ずしも必要ではないと論じる。

第2章と第3章では、階層アプローチに対立する立場である対等主義(unitarianism)が批判的に検討される*2。対等主義とは、人と動物は対等でまったく同じ道徳的地位に立ち、もたらされる害や利益の道徳的な重要性は、それを被る者が誰であるか——人であるかサルであるか、それともネズミであるか——とはまったく無関係であると論じる立場のことである。ケーガンも序論で一部を引用している通り、対等主義の理念は、最も著名な動物倫理学者の一人であるピーター・シンガーがかつて力強く宣言した次の言葉によって的確に表現されている。

痛みはどこまでも痛みであり(pain is pain)、苦しむ者が私たちと同じ種に属していないという理由によって、不必要な痛みや苦しみを防ぐことの重要性が霞むことなどない。(Singer [1975] 2009, p. 220)

つまり、動物と人が被る利害のうちどちらか一方だけがより道徳的に重要であるということはなく、道徳的地位とは程度差を許さない「白か黒か」の事柄なのである。対等主義は、動物倫理において広く受け入れられた標準的な見解であるが、翻って日常的な事例で考えてみると、やや奇妙なことを述べる見解にも思える。たとえば、人とネズミの二者が川で溺れているが、どちらか一方しか救出することができないとしよう。このとき私たちは、ネズミではなく人を救出するべきだと考えるだろう。しかし対等主義は、人とネズミの道徳的地位を対等なものとみなすため、どちらか一方だけを救出する積極的理由はどこにもないと主張せねばならないことになる。これはあまりに常識や直観に反する帰結ではないか。

こうした帰結は、次のように考えることで容易に回避可能かもしれない。すなわち、人が溺れ死ぬ場合とネズミが溺れ死ぬ場合では、より多くの幸福(福利)を失うのは人であり、救出しないと人の方がもっと多くの害を被ってしまう。よって、道徳的地位の議論とはまったく無関係に、私たちにはネズミではなく人を救出すべきもっともな理由がある、と。しかしながら、多くの場面でネズミが被る利害よりも人が被る利害の方を重要視し、人の生の方が動物の生よりも系統的に価値があると考えることは、誰の利害であるかに応じて特定の利害の重要性は変動すると考える立場に事実上コミットしている。この立場は、人の方がネズミよりも高い道徳的地位に立つとみなす階層アプローチにほかならない。つまり、動物は人よりも少ない幸福しか系統的に持っていないと考えるとき、対等主義は両者の間に系統的な(秩序立てられた)不平等さを認めることになるがゆえに、本来否定せねばならない道徳的地位の階層性を密輸入してしまうのである。このため、対等主義は大きな理論的弱点を抱える。

ケーガンによると、対等主義はもう一つ、看過できない欠陥を抱えている。その欠陥は、倫理学・政治哲学における分配的正義の文脈で顕在化する。たとえば、男性の方が女性よりも高い能力を持つおかげでより豊かな生活を送っているような架空の社会においては、たしかに男性を犠牲にして女性を助けるよりも、女性を犠牲にして男性を助ける方がもたらされる害は少なく(または大きな利益をもたらし)、結果的に幸福の総量を増やすことになるかもしれない。しかしそうすると、男性ばかりが厚遇され、女性の暮らし向きは悪くなる一方だろう。この由々しき事態を解消するには、単に社会全体における幸福の総量を増やすのではなく、幸福を均等または公平に分配し、許されざる不平等・格差を是正する必要がある。では、幸福はどのような原理・原則のもとで分配すればよいのだろうか。

分配原理の代表例としてよく知られるのは、平等主義(egalitarianism)である。これによれば、格差や不平等はできる限り最小限に留め、各人は等しい幸福量や同じだけの生活の質を持つのが望ましい。他にも、優先主義、十分主義、功績主義などの立場から様々な種類の分配原理が提案されてきたが、ケーガンが専ら照準を合わせる論点は、どの分配原理を採用したとしても、対等主義は人と動物の不平等・格差に関して受け入れがたい帰結を導いてしまう、というものである。例として、対等主義と平等主義を組み合わせると、ネズミなどの動物の生活が不遇の状態にあり人よりも低い幸福のレベルしか持たないとき、対等主義によると人と動物はまったく同じ道徳的地位を占めるため、平等主義はそうした人とネズミの間の格差是正に努めねばならないことになる——だが、限られた資源をネズミの暮らし向きの改善につぎ込む必要があると考える者はほとんどいないだろう(現実的にも不可能に近い)。つまり、分配原理の基礎を平等主義に置く対等主義は、人がネズミよりも厚遇され恵まれているような世界が(先の男性優位な社会と同程度には)不公正で、そのような世界を放置することは道徳的に好ましくないと結論付けてしまうという点で、まったく受け入れがたい理論なのである。同様の議論は、その他の分配原理に頼る場合でも当てはまる。以上から対等主義は、私たちに過大で現実離れした要求を突き付ける理論であるため斥けられる。

続く第4章から第6章では、対等主義に代わって階層アプローチが提示・擁護される。ケーガンによると、階層アプローチはどの分配原理も適切な仕方で取り込むことができる。各動物が分配に関する権利・主張を持つことそれ自体は否定するべくもないが、その権利・主張は、対等主義に反して、各動物が占めている道徳的地位の高低に応じて強くなったり弱くなったりする。ネズミにとっては残念なことであるが、私たち人は、道徳的地位が相対的に低い彼らのためにチーズを配給する必要はないのである。また、ケーガンの考えでは、道徳的地位は分配原理だけでなく幸福(福利)の道徳的価値にも影響を及ぼす。たとえば、人の歯の痛みとネズミの歯の痛みにまったく同じ程度の悪さが認められるが、どちらか一方しか治療することができないとき、ネズミではなく人の歯の痛みを取り除くほうがより多くの善を達成できるのは、人の方がネズミよりも道徳的に重要、すなわち道徳的地位が高いからである。つまり、二つの個体aとbのうち、aがbよりも高い道徳的地位にあるとき、aの福利や幸福が高まることはbに比べて道徳的な重要さをより多く持つ。振る舞いや出来事の価値を評価する際には、そこでもたらされる幸福の総量がどの程度なのかを考えるだけではなく、その幸福が誰の幸福なのかも考慮に入れねばならないのである。

それでは、「人と動物の間の(または各動物間の)道徳的地位の違い」は、一体いかなる根拠のもとで成立するのだろうか。この大きな問いを前にケーガンが頼るのは、「人や各動物の心理的能力の違い」である。人や各動物が占める道徳的地位の程度は、それらの心理的能力の程度に基礎付けられている。人が各動物よりも高い道徳的地位を占め、オオカミが魚よりも高い地位を占めるのは、人やオオカミが比較対象に比べより高度で発達した能力を持つおかげである。ただし、こうして「道徳的地位」に言及する際ケーガンは、種が占める一般的な地位ではなく、一つひとつの個体が占めるより個別的な地位を念頭に置いている。たとえば、人並みの知能や思考、意識、感情を得たゴールデンレトリバーは、たしかに依然としてイヌではあるが、もはや他のイヌと同列に取り扱うことができない人並みの道徳的地位を獲得するだろう。これを一般化して述べると、異なる種FとGにそれぞれ属する二つの個体aとbが占める道徳的地位は、FやGの平均的な能力やFやGに典型的な諸特徴の程度に依存するものではなく、より正確にはaとbがそれぞれ保持している特定の心理的能力・特徴の程度に依存するものだと言える。

しかし、個々の心理的能力に基づく階層アプローチは、いくつか厄介な問題を招いてしまう。第一に、道徳的地位の向上に貢献するのは、具体的にはどういった心理的能力・特徴なのだろうか。第二に、なぜ人は動物よりも高い道徳的地位を占めると言えるのだろうか。第三に、自己意識などの理性的な心理的能力を欠くヒト、たとえば新生児や重度の認知機能障害を持つ者は、他の多くの人よりも道徳的地位が低く、動物並みの地位しか持たないのだろうか。最後に、同じ種に属する二つの個体cとdが微妙に異なる心理的能力を持つとき、cとdの占める道徳的地位も微妙に異なるのだろうか。たとえば、cの記憶力や計画を立てる能力がdに比べて低いがそれ以外の能力はまったく等しいとき、cはdよりも道徳的地位が低いのか。

一連の疑問に対し、ケーガンは一つひとつ応答する(ただし、最後の問いは第11章に後回しされる)。第一の問いについては、幸福を実現する能力(少なくとも特定の善を達成できずとも切望し欲する能力)のほか、先の行為者性を可能にするもの、たとえば選好や計画、欲求、反省、意識、熟慮といった心理的能力が挙げられる。そして、人が動物よりも高い道徳的地位を占めるのも、人が持つこうした能力の高さに理由がある。つまり、第二の問いに対しては以下のような応答ができる。一般的に人は、動物よりも、抽象的な思考や複雑な感情、創造性、想像力に関して発展した能力を持ち、長期的で綿密な計画を立てることができ、高い自己意識の能力を持つからこそ、動物よりも道徳的に重要なのである。

だが第三の問いに移ると、道徳的地位の向上に関与するものは必ずしも行為者性や幸福に関する能力だけに制限されるわけではないとして、ケーガンは一部譲歩するような形をとる。彼の考えでは、新生児や重度の認知機能障害を持つ者は、たしかに一般的な人が占めるのとまったく同じ道徳的地位を占めるということはない。行為者性や幸福を可能にする一連の能力を持っていないからである。しかしながら、道徳的地位を高め強化するものとして新たに潜在的な地位(potential status)と様相的な地位(modal status)を考慮に入れると、理性的な心理的能力を欠くヒトでも、人に準じる程度の道徳的重要性を持つことができる。一方の新生児の場合、彼女は人になる潜在性、つまり思考や計画、自己意識などの(一階の)心理的能力を発達させるための萌芽となるような(二階の)能力を持っている。他方で重度の認知機能障害を持つ者の場合、仮に彼女が人になる潜在性すら持たないのだとしても、人になる可能性は依然として残されている。適切な状況下に置かれていたとしたら、彼女は人であったかもしれない。ケーガンによると、潜在的な地位と様相的な地位は、行為者性の能力などと並んで道徳的地位を実際に高めるものの一種である。したがって、新生児や重度の認知機能障害を持つ者は、人ほどではないが、少なくとも動物よりも高い道徳的地位を占めることになる。

ケーガンも認めるように、たしかにこの応答は、依然として居心地の悪いものかもしれない。特に、人と重度の認知機能障害を持つ者を比較するとき、溺れている両者のうちでは後者よりも前者を救出することが道徳的に正当化されてしまうだろう。この帰結についてケーガンのコメントはやや歯切れの悪いものである。

たしかに、私が擁護してきた階層アプローチは改訂的(revisionary)であると認めねばならない。重度の障害を持つ者が、私たちの多くに比べて低い道徳的地位に立つとは普通考えられてはいないからである。しかし、対等主義の立場は、動物が私たちとまったく同じ道徳的地位に立つと主張する点で、さらにもっと改訂的であるという事実を見失ってはならない。いまの問題について言えるのは、解決は一朝一夕にはいかないということである。当の主題についての(その場しのぎではなく)一貫した見解は、少なくとも一部の直観に不可避に抵触してしまうように思われる。そうした観点から眺めると、私が提案した階層アプローチは、全体として見ると受け入れるに値するものであると考える。(163)

以上の本書前半部分から、階層アプローチの全貌は明らかになったと思われる。それによると、道徳的な取り扱いのほか、分配原理や幸福の価値評価は、当事者の道徳的地位の高さ、ひいてはその地位を基礎付ける行為者性に関わる能力の高さや潜在的・様相的な地位の有無に依拠している。したがって、ケーガンの見解では、十全な道徳理論は階層性の要素を組み込んだもの、すなわち道徳的地位に鋭敏な理論でなければならない。

本書後半では、しばらく義務論と階層アプローチの関係性を探るものとなる。自身は(根っからの)帰結主義者であるケーガンが、ここで義務論の方を考慮の対象としているのは、多くの者は帰結主義よりも義務論に共感を覚えるはずだと想定しているからである。第7章でケーガンは、義務論と階層アプローチの関連について次のような問いに焦点を当てている。すなわち、正当な理由なしにある者aに害を加えてはならない(ましてaの命を奪ってはならない)といった道徳的義務に関する事柄は、aがどのような道徳的地位を占めるかに応じて変化するのだろうか。

対等主義と義務論は、相性の悪い組み合わせである。あるタイプの義務論に従うと、各々の人は生存権や不当に害されてはならない権利を持ち、そうした権利の侵害はいかなる例外もなく許されない。そのため、人を殺すことはいついかなる場合でも——それによってどれだけ莫大な利益がもたらされるのだとしても——不正である。この考えと対等主義を組み合わせると、人とまったく同じ道徳的地位に立つ動物は、人と同じ生存権を持つことになるため、動物を殺すことはいついかなる場合でも不正であることになる。だが、これはあまりに反直観的である。たとえば、無人島に漂着した人が、他に食料となるものを見つけることができず、仕方なく魚や鹿を捕まえて食べる場合、この肉食は不正とは思われない。

他方で、一定の閾値を超えた場合には、人や動物を殺すことは道徳的に許されると考えるような義務論もありえるだろう。このタイプによれば、数人程度では閾値は満たされないが、たとえば千人規模の数多くの人の命を救うためであれば閾値は満たされる。言い換えれば、数千人の人のために一人の命を犠牲にすることは、十分なだけの善がもたらされるがゆえに道徳的に不正というわけではない。だとすると、仮に対等主義に立つとしても、先の無人島のケースにおいて人が生き抜くために魚や鹿を食することが閾値を超えているとすれば、それら動物の生存権を脅かすことは必ずしも不正ではないことになる。しかし、問題はこの閾値がどこにあるかである。仮に漂着者が魚や鹿を殺すことで自らの命を救い、その結果(人の命の方がより高い価値を有するがゆえに)より多くの善をもたらすことができたのだとしても、それは閾値を満たすほどの善というわけではないかもしれない。鹿殺しを道徳的に正当化するためには、いまの義務論的な枠組みでは、漂着者の命はたとえば鹿の数千倍以上もの価値を有さねばならない。人の命に偏重するあるいは過大に評価するのでなければ、この帰結は多くの人にとって信じがたく映るだろう。閾値を低く設定してしまうともはや義務論から逸脱し帰結主義に与してしまう一方で、閾値を満たすのに必要な数の規模を大きくすればするほど、閾値を満たすのがほとんど困難になり、人による動物殺しをますます正当化できなくなってしまうのである。したがって、閾値を導入する義務論もまた対等主義にそぐわないものとなる。

ここで、次のような疑問が浮かぶかもしれない。道徳的義務を人だけでなく動物にまで拡張することがそもそもの誤りなのではないか、と。数人を救うためだけに一人の命を奪うことは、その帰結の利益にかかわらず明らかに不正だとしても、数人を救うためにウサギの命を奪うことは、その利益に鑑みると道徳的に許されないというわけではないように見える。つまり、義務論が想定するような権利(生存権など)が適用されるのは人のみであり、動物の場合は全体の利益・福利の最大化という帰結主義的な考えを適用すればよい、というのは比較的自然な発想である。この「動物には帰結主義を、人には義務論を」という見解を、ケーガンは制限された義務論(limited deontology)と名付けて、第8章で取り上げる(ケーガンも示唆している通り、制限された義務論は、『アナーキー・国家・ユートピア』の中でロバート・ノージックが言及した「動物には功利主義を、人々にはカント主義を」という見解と通じる部分がある)。制限された義務論が「人にあって動物にないもの」としてしばしば取り上げるのは、自律(autonomy)、すなわち自身の生き方を自らコントロールし決定することに関わる性質である。しかしケーガンによると、自律とは、先の行為者性と同様にやはり程度差を許すような性質にすぎず、人の専有物なのではない。人だけでなく各動物も、程度の違いこそあれ自身の選好に基づいて選択し、自身の未来について考えることができる。そうだとすると、動物はたしかに人ほど自律的ではないが、限られた程度では自律性を持っていると言ってよいはずである(蚊などの極端に下等な動物は除く)。もちろん、自律に程度を認めたとしても、生存権などの権利が付与されるのは人が持つような十分なだけの自律を持った者のみだと論じることは不可能ではない。だがこの応答は、自律というスペクトラムのうちに根拠のない恣意的な線を引いているという誹りから逃れられないだろう。制限された義務論は、生存権などの権利の付与範囲を人だけに留めておくことの合理的根拠を説明せねばならないが、その説明が成功することはありそうもない。よって、「動物には帰結主義を、人には義務論を」という見解は十全な理論たりえない。

対等主義的な義務論と制限された義務論を斥けたのち、ケーガンが第9章で提案するのは、やはり階層アプローチを取り込んだ義務論である。これによれば、義務の適用範囲は人と動物双方に及ぶがゆえに、動物もまた生存権などの権利を持っているが、それは道徳的地位の違いに応じて変動するため、人よりも弱い権利となる。別の言葉で言えば、動物が持つ不当に害されない権利や救助するべき義務は、人が持つ同権利・義務よりも相対的に小さく、一定の閾値が満たされる適切な状況下では動物の権利を侵害することは道徳的に許容される。閾値が満たされやすいのは、動物の権利を侵害することでもたらされる利益の受益者が人のように高い道徳的地位を占める場合である。たとえば、先の無人島のケースでは、魚や鹿は人である漂着者よりも低い生存権しか持たないばかりか、それらに対し害を与えることの閾値が満たされる。それゆえ、魚や鹿を食してその生存権を侵害することは道徳的に不正というわけではない。だが再三述べているように、このことは、動物をモノのように扱ってよいというわけでも、いかなる場合でも害を加え蹂躙することが許され救助する必要もまったくないというわけでもない。権利や義務の程度が小さいことは、権利や義務がまったくないことから厳密に区別されねばならない。ケーガンはそうして、道徳的地位の階層性を取り込む義務論を階層的義務論(hierarchical deontology)と命名し、それが他にも様々なケースで妥当な含意をもたらすと主張する。

先に述べたように、他人を殺すことが道徳的に不正であるのは、私たち各人が害されてはならない権利を持つからである。特筆すべきことに、義務論においてこうした権利は次の二つの場合において凌駕される。一つは、先に見たもので、数千人の人の命を救うことの善・利益のために閾値が満たされる場合である。もう一つは、自己防衛の権利を行使するようないわゆる正当防衛の場合である。正当防衛は必ずしも被害に遭いそうな者だけに認められるものではなく、その者を助けるためであれば第三者も正当防衛を行使しうる。では、動物が当事者となるとき、正当防衛の妥当性はどのように理解すればよいのだろうか。第10章では、この問いに答えを与えるため、三つのケースが検討される。動物が人に害されるケース、人が動物に害されるケース、動物が他の動物に害されるケースである。これらは順に、スポーツハンティング(娯楽目的で狩猟を行うこと)と、サバンナや動物園などで動物が人を襲い殺そうとすること、ライオンがシマウマを襲い食べようとすることに対応する。ただし、どのケースにおいてもケーガンは確定したことをはっきりと述べているわけではない。

一つ目のケースについてケーガンは、狙われているライオンを守るために娯楽目的のハンター(人)を正当防衛で殺してよいかどうかについては態度を保留している。それでも、狙われるものが鳥や魚などの比較的低い道徳的地位にある動物の場合には、それら動物を殺させないためにハンターを殺すことは過剰な防衛であり、道徳的に許されない。つまり、ハンターに与えてよい害の程度には制限があり、その制限は狙われる動物の道徳的地位が低ければ低いほど小さなものとなる。続く二つ目のケースでは、人を襲おうとしているライオンを殺すことは道徳的に問題なく許容される。だが、道徳的地位がより低い動物に対し正当防衛をなすときに、より大きな害を加害者にもたらしてよいかどうかについては、やはり回答が保留される。また、いまのケースでは、危害を加えようとしているライオンは、おもちゃと思って銃の引き金を引き他者に危害を加えてしまう子どもと同じく、「悪意なき脅威者(innocent threat)」とみなされる可能性もあるが、そこでケーガンが与するのは、無実の被害者の命を救うためであれば悪意なき脅威者に何らかの害をもたらすことは道徳的に(一応)許容されるという立場である。最後に、ライオンがシマウマを襲うケースでは、シマウマをライオンから助けることが十分な善を達成できると考える理由はなく、ライオンの害されてはならないという権利の閾値が満たされることはないように見える。そのため、シマウマの権利がライオンの権利を凌駕することはなく、正当防衛でライオンを殺すことは基本的には正当化できない。しかし、このケースでもライオンは悪意なき脅威者に該当する可能性がある。そのため、防衛による危害がありえた被害をどの程度まで上回ってよいかという疑問に対して、悪意なき脅威者であるという事実がいかなる影響を与えるかをはっきりとさせない限り、やはり具体的な回答は未決のままである。いずれにしても、正当防衛が「過剰」な防衛となりかねないのは、大掴みで述べれば、防衛する者の道徳的地位が低いときか、あるいは加害者の道徳的地位が高いときであるというのが、ケーガンの大筋の議論である。

第11章に入ると、本書(の長い要約)もいよいよ大詰めを迎える。取り上げられるのは、先に残したままだった、階層アプローチに投げかけられる最大の疑問である。それは、同じ種に属する二つの個体cとdが微妙に異なる心理的能力を持つとき、cとdの占める道徳的地位も微妙に異なることになるのかという問題だった。この問題に対しケーガンは、実践的な現実主義(practical realism)という新たな見解を階層アプローチに取り込むことにより解決を図る。その基本発想はこうである。私たちには認識や動機の面で一定の実践上の制限があり、各道徳的地位を評価する際には理想的な状況を想定するのではなく、こうした実践上の制限を現実的な観点から考慮に入れねばならない。道徳的地位を基礎付ける心理的能力を正確な物差しで区別し、個体どうしで逐一天秤にかけることは、認識上おそらく困難である。そこで、各個体の能力をきめ細やかに分類しランキング化することは諦め、その代わりにもっときめの粗い現実主義的な視点から階層性を捉える必要がある。そうすると、人どうしやイヌどうしなど、同種で心理的能力がわずかに異なっているにすぎない二つの個体は、道徳的地位においていかなる違いもないと考えるのが現実的だろう。つまり、道徳的地位がより細分化され複雑な仕方で階層化される可能性はゼロではないにせよ、実践的な現実主義の見地に立てば、心理的能力の些細な違いは道徳的地位の違いに何ら影響を及ぼさないということである。さらに、先に触れた重度の認知機能障害を持つ者の道徳的地位が——十分な心理的能力を実際には持たないにもかかわらず——動物より高くなる理由も、実践的な現実主義から得られるかもしれないとケーガンは示唆している。その理由は、彼らの道徳的地位を高めるべき動機・理由が私たちにはあるからである。多くの場合、個体の道徳的地位はそれが属する種(特に生物種)によって決定されるが、著しく高いまたは低い能力を持っているような個体の場合には、その道徳的地位は動機などの点から適切に修正される必要がある。実践的な現実主義を土台とする道徳的地位の階層性はこのようにして、制限された階層性(limited hierarchy)として洗練されることになる。

制限された階層性というアイディアから導かれるのは、道徳的地位の数は実際にはそれほど多くはないということである。というのも、階層アプローチの枠組みでは、心理的能力は複数のレンジに分けられ、各レンジはそれに特有の道徳的地位を持つことになるが、実践的な現実主義によるとその地位はレンジ内では一定であり、レンジの数自体も認識上の限界によって多くは認められないからである。実際、ケーガンはあくまでも一つの可能性として、心理的能力の高さに応じ次の六つ(人を除けば五つ)の階層を提示している。

  • 道徳的地位1:人
  • 道徳的地位2:イルカ、クジラ、イカ、サル
  • 道徳的地位3:イヌ、ブタ、オウム
  • 道徳的地位4:ウサギ、ウシ、リス
  • 道徳的地位5:鳥、魚、爬虫類
  • 道徳的地位6:昆虫、クモ

この具体的な階層が正しいものであるかはさておき、ケーガンが最後に述べるのは次のことである。すなわち、動物との日常的な関わりにおいて、私たちは階層性、特に制限された階層性を手引きとしており、動物倫理に限らずあらゆる倫理は、道徳的地位の重要性を適切に考慮に入れたものでなければならない、と。

コメント

全体として見ると、本書はいくつかの点で「異色」である。まず、学術の「ご作法」に反して、参考文献と脚注の数が驚くほど少ない。特に文献は、本書が300ページに及ぶ分厚さであるにもかかわらず50にも満たない。もちろん参照する文献が多ければ多いほどよい本だというわけではないので、これは好みが分かれるところだろう。次に、参考文献の少なさと連動して、本書では特定の論者の主張・論拠が検討されることも(ゼロではないが)ほとんどない。このことは、本書が「道徳的地位」というあまりに大きいテーマを取り扱っていることを考えると、一部の読者を少し拍子抜けさせる事実かもしれない。道徳的地位は本来、動物のみならず胎児や死者、遠い未来の人々、生態系や自然環境なども射程に収める、応用倫理全般にとって非常に重要な概念である。とはいえこちらも、議論の基本線があくまで階層アプローチという著者オリジナルな立場の擁護と洗練にあることに考えを巡らせれば、多少致し方ないと言えるかもしれない。ケーガンも注意深く論じている通り、階層アプローチは動物倫理では(やはりゼロではないが)ほとんど支持を得ておらず、その防衛は不可避に孤軍奮闘の様相を呈するだろう。もちろん、対等主義や、階層アプローチを認めない義務論の支持者は数多くいるのだから、その紹介と批判的検討にあたっては、せめて敵対者がどのような議論を行っているかを正確に拾い上げるべきだったのではないかと思わないでもない*3。しかしそうした細やかな作業は、最初から最後まで一貫した思考で突き抜ける本書の持ち味やダイナミズムを損なってしまう気がする。それに、動物倫理に関心を持つ幅広い読者により強く訴求するという目的に照らせば、「ご作法」から逸脱したやり方の方が賢明かつ効果的な場合もある(本書は、2016年末に開催されたオックスフォード上廣応用倫理センターでの講演に基づくものだという点も考慮に入れておく必要がある)。異色の作法は美徳にもなりうる。

これにくわえて、おそらく本書を通読した誰しもが納得してくれると思うが、本書でケーガンが展開する主張・論拠はすべて、一点の曇りもなく明晰である。難解な箇所や余計だと思われる段落は誇張なしに一つもなく、道理にかなった哲学思想が、最小限の言葉で最大限わかりやすく表明されている。全体の構造についても、章を一つずつ追うごとに著者の思考が発展的に進歩していくものになっており、最後の第11章に至るまで目を離すことができない。それゆえ本書は、「動物を道徳的にどのように取り扱うべきか」というテーマの理論的な側面を知りたいという人が初めて読み解くのには、うってつけの書籍だと思われる——「動物倫理の入門書」と銘打つには、ややトリッキーで物議を醸しうる主張が擁護されているのが惜しい部分ではあるが。

とはいえ、全体を通して気になった点はいくつかある。たとえば、ケーガンはたびたび「直観(intuition)」や「常識(common sense)」という道具を使って、議論の方向性を定めようとするが、その頻度が少し目立つように思われた。無人島で餓死から逃れるために鹿を殺すことは道徳的に許されるという議論や、人の歯の痛みとネズミの歯の痛みのうちどちらか一方しか治療することができないとき、ネズミではなく人の歯の痛みを取り除くほうがよりよいという議論は、「痛みは誰が感じようとも痛みである」という対等主義のよくわかる理念を思い起こせば、そこまで直観に訴えかけてくるものとは思えない。この点についてケーガンは自覚的ではあるものの、やはり階層アプローチの根幹に関わる事例なだけに、説得的な議論・論証を用意すべきだったのではないかと感じさせる。また、本書の最後で提示される六つの階層では、人に次ぐ能力と地位を持つ者としてイルカやクジラ、イカ、サルが挙げられているが、こうした「高等な」動物は驚くべきことに、本書ではこの箇所以外に登場しない。その代わりに、ケーガンが人との対比で積極的に取り上げる動物は、ネズミや鹿などのより「下等な」動物ばかりである。この事実は、思考実験や具体例に基づいて試される「道徳的な直観」をミスリードする要因になりかねないように思われる。試しに、上記の例において、ネズミや鹿の代わりにイルカやボノボなどで考えてみるとよい。もしくは、動物間の道徳的地位の比較では、ライオンと鹿という「わかりやすい」例ではなく、人に身近で親しみやすい動物(いわゆる伴侶動物であるイヌやネコなど)とそうでない動物(たとえば害獣)で置き換えてもいいかもしれない。どの場合でも、動物の取り扱いに関する私たちの直観はあまり信頼の置けるものではない。

もちろん、階層アプローチがある程度までは、私たちの日常的な実践に寄り添う身近な思想であることは否めない。これを「常識的」または「直観的」だと言い換えてよい場面もきっとあるだろう。しかし、先の要約部分で見たように、ケーガン自身は階層アプローチが「改訂的」な要素を含むという事実を甘んじて受け入れていた。このアプローチによると、重度の認知機能障害を持つ者は、「直観」に反して、多くの人よりも低い道徳的地位にしか立つことができず、相対的には道徳的に重要でないとみなされるからである。だが、反直観的に見える帰結はそれだけではないように私には思われる。たとえば、あらゆる面で私たち人を圧倒するような心理的能力を持つ者、すなわち私たちよりも高い道徳的地位を占める存在者について、ケーガンはそうした優れた存在者を除外して考えるべき理由はどこにもないとして、それが存在する可能性を認める(152)。そのうえで、この可能性は——私たちが動物をモノのように取り扱うことが許されないのと同様に——優れた存在者が人をモノのように足蹴にすることや隷属させることを道徳的に正当化するものではないとケーガンは言う(246)。たしかにその通りだろう。しかし問題は、優れた存在者と人を比べた場合、より地位の高い優れた存在者の方がより強い権利を持つがゆえに、私たち人は優れた存在者の方を救助する強い義務があり、人を救助することが道徳的に非難される場合すらあるということである。これはちょうど、ネズミと人のどちらかしか助けられない場合に、相対的に道徳的地位が低いネズミを選択することが道徳的に正しくないのとよく似ている。私には、人は優れた存在者よりも道徳的な重要さで劣ると考えることは受け入れがたく映る——それは少なくとも、重度の認知機能障害を持つ者が「通常の」認知機能を持つ人よりも重要さの点で劣るという主張と同程度には受け入れがたい。

反対に、妊娠初期の胎児についてケーガンは、彼らは行為者性を欠き、さらには道徳的身分を基礎付ける能力を支えるような(二階の)能力すら持たないがゆえに、一切の道徳的身分を持たないと示唆する(136)。もしこれが正しいのだとすると、妊娠初期の胎児はまったく道徳的に重要ではなく、たとえば動物の中でも特に低い道徳的地位にある昆虫の方が、比較にならないぐらい重要であるということになる。だがこの帰結を直観や常識にかなうものだと論じる人はおそらくいないだろう。人工妊娠中絶をしなければ母体の中に入り込んだ昆虫を救出することができない場合、昆虫が道徳的身分を持ち重要であることを理由として中絶を選択することはあまりにも馬鹿げている。

こうした一連の議論から示されるのは、心理的能力の多寡や優劣は、実のところ私たちが普段なしている道徳的な実践とはそれほど関係しないどころか、しばしば反目するということである。だとすると階層アプローチは、その一見した妥当性に反し、想像されるよりも多くの「改訂的な」要素を有し、結局のところ対等主義が抱え込む反直観性とそれほど変わらない程度には、直観と常識に反するのではないかという疑いが生じるはずである。こうした疑いを十分に晴らしておくためにケーガンは、胎児や優れた存在者、重度の認知機能障害を持つ者などのいわゆる限界事例(marginal case)をもう少し慎重に取り扱うべきだったのではないかと思う。「解決は一朝一夕にはいかない」という言葉でいまの問題をやり過ごすことは、理論的な面だけでなく——限界事例に該当するすべての者の道徳的な取り扱いに直結するために——実践的な面においても困難である。

他にも、本書の議論には懸念すべき点がある。大きく三つだけ挙げておきたい。第一に、ケーガンは道徳的地位を支える代表的な心理的能力として行為者性に関わるものを挙げ、その能力を持つかどうかは「白か黒か」ではなくグラデーションになっていること、すなわち程度の差にすぎないことを強調するが、行為者性をそのようにみなさねばならない根拠はやや不明瞭である。ケーガンに従って、道徳的地位が程度差を持つような道徳的な性質だと認めたとしても、行為者性もまた——形態や洗練具合などの——程度差を持つものだと適切に論証されない限り、道徳的地位を行為者性によって説明することはできない。つまり、道徳的地位を向上させることに寄与する能力・性質としての「行為者性」を深く掘り下げるまで、階層アプローチの理論的基盤は十分に確立されたとは言えないはずである。

少しだけ「行為者性」を掘り下げてみることは有益だろう。たとえば、その性質を単に「意図的な行為を遂行するための能力」と定義し、信念などの命題的態度から独立にあるものとして捉えた場合、行為者性の有無は「白か黒か」で判断してよいように思われる(理由や規範性によって行為者性を構成しようとする場合も同様である)。少なくとも、その能力の形態やレベル、洗練具合に関わる程度を導入する必要はどこにもない。そうすると行為者性は、程度差のある道徳的地位を十分に基礎付ける能力に適していないことになり、動物が行為者性を発揮する行為者であるかどうかも未決の問題となるかもしれない。反対に、信念や欲求、選好の「レベル」を導入し、そうした種々の心的態度から行為者性が構成されると考えることも可能だろう。鳥や魚などの動物は生理的で基礎的な欲求や選好、信念しか持たないかもしれないが、人はより複雑で洗練された高度な欲求や選好、信念を持つ。この場合、たしかに人は種々の動物よりも高い道徳的地位に立つことができる。だが、言語を持たない鳥や魚による生理的で基礎的な欲求・選好すらも行為者性の一部だと認められるのであれば、それと同様に言語を持たない植物、たとえばタンポポやバラがその生理的で基礎的な欲求・選好(光を求め、光合成を行おうとすることなど)のゆえに行為者性の萌芽を持つことを妨げる理由はどこにもないように私には思われる。言い換えれば、鳥や魚が持つような低いレベルの行為者性とそれに対応した道徳的地位は、植物もまた問題なく持っていると考えてよいのではないかという懸念が生まれる。本書第1章での説明によると、野に咲く花から花びらを引きちぎるのは、道徳的に非難されることではなく、植物は道徳的身分を持たないのだった。しかし、行為者性を欲求や選好、信念といった要素から成るスペクトラムのようなものだと捉えると、野に咲く花から花びらを引きちぎることが本当に道徳的な非難に値しないことなのかどうか怪しくなる。他にも、妊娠初期の胎児や発展途上の(HAL9000ほど優れてはいない)ロボットの欲求や選好、振る舞いなどを考えてみればよい。

いまの議論は、ケーガンの主張に対し二つの方向から疑問を呈するものとなる。一つは、行為者性に関わる能力を道徳的地位の基盤とするような階層アプローチは、実際には行為者性についてさらなる説明を要する、もしくは脆弱な根拠に基づいているのではないかという点である。行為者性をあいまいにしたまま導入することは、「序列化された地位」を疑問視する動機を対等主義に与えてしまいかねない。他方でもう一つ、道徳的身分の十分条件として行為者性を持ち出すことは、感覚能力を持ち出す提案に比べ本当に優位に立っているのかという疑問も頭をもたげる。行為者性を構成する欲求や選好に「レベル」を導入することは、本来排除すべき者を「(ミニマルな)行為者」と認定してしまいかねず、道徳的身分を持つかどうかの線引きを結果的に難しくしてしまう。こうした観点に立つと、動物倫理における主流の見解、すなわち行為者性から距離を保ち、道徳的身分の必要十分条件に感覚能力に置くような対等主義にもそれなりの利はあると言えるだろう。いずれにしても、「行為者」の適用範囲を人や動物だけに留め、さらにそれをグラデーションのもとで捉えることを許す十全な定義を発見しない限り、「行為者性」という概念は道徳的地位を決定するものとしてはやや扱いづらいのではないかと私は思う。

続いて、本書の主張で第二に懸念すべき点は、「道徳的地位」の決定方法に関わる。ケーガンによると道徳的地位とは、種の典型例や一般例が占める一般的な地位ではなく、厳密には、一つひとつの個体が占めるより個別的な地位である。しかし、読み進めていけばわかるように、この主張が、本書最後に提示される制限された階層性というアイディアとどれほど整合的なのかあまりはっきりとしない。というのも制限された階層性の枠組みでは、能力が例外的に高いもしくは低い限界事例を除いて、「通常の状況においては、個体は、種、もしくはより広くとって生物学的な分類に基づいて割り振られるような地位を持つだろう」(296–7)と述べられるからである。つまり、他の犬に比べ際立って能力の高いゴールデンレトリバーのようなケースを除くたいていのケースでは、問題の個体が占める道徳的地位は実質的に、それが属する生物学的な分類によって決定されるのである。だとすると、一般的ではなく個別的な地位を重視するケーガンの議論方針が、自身の主張全体において本当に機能しているのか疑わしく映る。

こうした疑念を私が提起する理由は、もしケーガンが種や生物学的な分類によって道徳的地位が決定されるのだと実質的に考えているのだとしたら、新生児や重度の認知機能障害を持つ者が占める道徳的地位について、彼はもっとうまく論じることができたのではないかと思ってしまうからである。ケーガンが論じる通り、重度の認知機能障害を持つ者や新生児は、人ではないがヒトである。彼らは、理性的な心理的能力こそ備えていないが、ホモサピエンスという生物種に属する生物には変わりない。すると、彼らが占める道徳的地位を考えるとき、ヒトという動物種を利用しない手はないだろう。言い換えれば、新生児や重度の認知機能障害を持つ者が占める道徳的地位は、人から区別されるヒトという分類によって決定されると考えればよいのではないか。この可能性を実現する一つのやり方としては、制限された階層性で提示される六つの階層性のうち、人が占める道徳的地位1とイルカやサルなどが占める道徳的地位2の間に、新たに地位1.5としてヒトを追加することである。ヒトがその他の動物よりも高い地位にあるのは、ヒトの一般例・典型例が動物よりも高いレベルの行為者性を示すからだと考えることができる。そうすれば、「新生児や重度の認知機能障害を持つ者は、人ほど道徳的に重要ではないが(その他の)動物よりも道徳的に重要である」というケーガンの主張は——それ自体問題含みではあるが——より説得性を増したのではないかと思われる。さらに、妊娠初期の胎児——特に、体軸ができ始め、初期胚がもはや分裂しない(つまり一卵性双生児になることはない)原腸形成期以降の胎児——もヒトに分類してよいのだとしたら、そのことは、おそらく私たちの道徳的実践に即して、ヒトの胎児が(人ほどではないが)他の動物よりも道徳的に重要であることの根拠にもなる。こうした提案を行うとき、潜在的な地位や様相的な地位というまったく新しい、ひいてはややアドホックに見える提案はもはや不要である。

もちろん、人などの種や生物学的な分類によって道徳的地位を実質的に決定しようとする見解は、気軽に受け入れてよい類のものではない。それは、種に応じて道徳的な配慮・取り扱いを変えるような種差別(speciesism)に結び付きかねないからである。人種差別や性差別が正当な根拠を欠く単なる偏見であるのと同様に、種差別を含意しかねない主張はできる限り回避すべきである。現にケーガンも「種は直接的な道徳的重要性を持たない」(159)と断言し、種差別の誹りを周到に回避している。しかしその直後に彼は「そうでないと考えることが単なる偏見にすぎないという意見にはまったく納得できないが」と付け加え、結局のところ(他の論文では)種差別に一定の理解を示している。そして、制限された階層性という枠組みでは、実践的な現実主義によって個々に異なる個体の能力は度外視され、能力と道徳的地位の「数少ないレンジ」は実質的に種または生物学的な分類によって決定されることになる。だとすると、種や生物学的な分類が道徳的地位の実質的な決定要因になる可能性、そして新生児や重度の認知機能障害を持つ者がヒトという生物であるという事実は——仮に議論の結果棄却することになるのだとしても——より真剣かつ詳細に取り上げてもよかったのではないかと考えたくなる。

それでは、(ようやく)本書に関する最後の懸念に移ろう。その懸念は、直前の議論と関係するが、やはり実践的な現実主義をめぐるものである。ケーガン自身も懸念しているように、「わずかな能力差は道徳的地位に影響しない」という、実践的な現実主義に基づく思想は、道徳的地位についての「真理」を示すというよりもむしろ、「便利なフィクション」(299)を提示するにすぎない可能性がある。たしかに、きめ細やかな個々の能力差を把握することが認識上困難という事実や、重度の認知機能障害を持つ者の道徳的地位を高める動機があるという事実は、我々の普段の行動や振る舞いを規定するものではあるだろう。私たちは全知全能ではないし、あらゆる観点から中立の公平無私な存在者でもない。しかし、そうした認識上の限界や動機に関する事実が「問題の個体はどのように取り扱われていて、私たちはいかなる配慮を持って接しているか」という現状を問う問題だけでなく、「問題の個体はどのように取り扱われるべきで、私たちはいかなる配慮を持って接するべきか」という規範的・道徳的な問いにすら影響を及ぼすのだとしたら、それは驚くべきことである。ケーガン自身は、「実践的な考慮は、道徳的な真理を生み出す際の助けとなる」(301)と述べるが、その根拠はまったく不明瞭である。実践的な現実主義が、階層アプローチに投げかけられる最大の疑問——「わずかな能力差は道徳的地位に影響するか」という疑問——に答えるために要請される唯一妥当な理論なのだとすれば、その理論の疑わしさは煎じ詰めれば、階層アプローチが最大の問題を解決できていないということの証左になりかねない。

実践的な現実主義、ひいてはそれを取り込んだ制限された階層性という立場が抱える問題は、そうした疑念だけではない。第一に、認識・動機上の理由から「わずかな能力差は道徳的地位に影響しない」として、ケーガンが示す階層性(のありうる可能性の一つ)は人を含むと六つの道徳的地位から成るものだが、先に見たように、その階層性は実質的に種や生物学的な分類に依拠するものとなっている。個々人や個々の動物について認識上近づきやすいのは、たしかに(調査するのに膨大な手間と時間がかかる)個々に微妙に異なる能力ではなく、それが属する種や分類上のカテゴリーだろう。すると、もし実践的な現実主義が本当に道徳的な真理を生むのだとしたら、種や生物学的な分類に依拠して決まる道徳的地位の階層性もまた、道徳的な事実の一部に含まれることになる。この帰結は、先の種差別を、人種差別などと並ぶ差別や偏見なのではなく道徳的な真理とみなす可能性を新たに切り開くかもしれない。それゆえケーガンはやはり、実践的な現実主義を経由することでなおさら、種や生物学的な分類が道徳的地位の実質的な決定要因になるという提案を真剣に受け止めてもよかったのではないかと思われる。

第二に、仮にケーガンの示唆に従って、様相的な地位が重度の認知機能障害を持つ者の占める道徳的地位に影響を及ぼす背景に「動機」が存在するのだとしても、その地位はなぜ動物よりも上の地位にまで引き上げられると言えるのだろうか。もし重度の認知機能障害を持つ者の地位を引き上げる動機があるというだけで実際に地位が大幅に引き上がるのであれば、私たちに身近な動物である猫や犬の地位もまた大幅に引き上がったとしてもおかしくはない。私たちに身近であるかどうかは、多くの人の共感を得やすく、実践的な考慮に強い影響を与えているように思われるからである。つまり、制限された階層性はなぜ、重度の認知機能障害を持つ者やそれに類する例だけに「動機による引き上げ」を適用するのかを十分な根拠のもとで説明せねばならない。私にはこの説明の提供は非常に困難だと思われる。

最後に、これが最も重要だと思われるが、実践的な現実主義それ自体は、階層アプローチの専売特許というわけではなく、対立理論である対等主義や制限された義務論にとっても原則的には利用可能であるという点には注意を払っておく必要がある。たとえば、制限された義務論の考えでは、自身の生き方をコントロールする自律こそが権利を生む要素となり、仮にそれがスペクトラムのように程度差を持つものだとしても「十分な量の自律」こそが人だけに権利をもたらすと解釈されたのだった。これに対しケーガンは、権利を生むのに「十分な自律」は「恣意的で不当な」(210)線引きを生んでしまうとして斥けているが、ここでもし実践的な現実主義を援用できるのだとしたら、制限された義務論は、認識・動機上の理由から人と動物が持つ権利の違いを説明してよいことになるだろう。つまり、人が持つだけの十分な量の自律が権利を生む一方で、動物の自律では権利を生むことができないのは、私たちの認識上の限界、そして動機に関する実践的な考慮のおかげであると論じることができる。そして、人と動物の間にある道徳的権利の上での違いは、単なるフィクションではないと主張可能である。だとすると、「動物には帰結主義を、人には義務論を」という考えは、紛れもない道徳的真理の一種としてケーガンの階層的義務論の前に立ちはだかることになる。こうした事例からは、次のような教訓を導くことが許されるだろう。すなわち、実践的な現実主義は、ある理論の補強に絶大な効果をもたらす代わりに、他の対立理論の増強をも許す程度にはその副作用も同じだけ大きいのである。

「遅すぎる」と言われそうだが、そろそろコメントを締めくくる頃合いだろう。本書評では、直観や行為者性、道徳的地位、実践的な現実主義など本書のキーワードとなる概念・主張について色々小言を並べ立ててはみたが*4、率直に言って、私は本書が哲学・倫理学の専門書の中でも指折りの好著であると信じてやまない。適切な批判を数多く集めることができるのは、その主張が明晰かつ刺激的であるだけでなく、批判に値するだけの価値を有する場合に限られる。ケーガンが本書で展開した主張は、一つの例外もなくその「価値」を備えている。ある哲学者が述べた通り、意見を異にする価値があるのは最高の論者だけである。階層アプローチという観点から動物倫理に一石を投じる本書は、最高の論者の一人によって著された、ポレミカルではあるが——いやポレミカルであるからこそ——文句なしの名著である*5

文献案内

本書や動物倫理に興味を持った方に簡単な文献案内を。

何よりもまず、本書の著者シェリー・ケーガンは言わずと知れた有名人である。元々倫理学者のトップランナーの一人ではあったが、おそらくその名を我が国の一般読者層にも轟かせることになったのは、Kagan 2012が『「死」とは何か:イェール大学で23年連続の人気講義』という邦題で出版されて以降だろう。かなり長い本だが、本書と同様、展開される議論はすべてクリアでわかりやすい。短い縮約版もあるので、読んだことがない人はぜひ手に取ってみてほしい。ちなみに、ケーガンはSF映画『2001年宇宙の旅』や『スター・ウォーズ』が大変お気に入りなようで、それに関連した具体例は本書だけでなくKagan 2012でも用いられている。

続いて、本書のテーマである動物倫理全般については、古典になるが、Singer 2009(第一版は1975年)とRegan 2004(第一版は1983年)は外せない。動物倫理をやっていてどちらか一方を知らないというのは確実にモグリである(どちらも知らないのなら潜ってすらいない)。ただ、後者はいまだに邦訳されていないので注意。「動物倫理は気になるけど、専門的な研究書はちょっと」という方には、Francione 2000とDeGrazia 2002、そして本書評冒頭で引用したGruen 2011が主要トピックを網羅している入門書なので、どれかを一度のぞいてみることをおすすめする(三つとも邦訳が出ている)。反対に、動物倫理の「最前線」を知りたいという人は、本書とは毛色がまったく異なるけれども、どちらも邦訳のあるDonaldson and Kymlicka 2013とRollin 2016を読んでみるといいだろう。個人的には、Korsgaard 2018とFischer 2019が本書に負けず劣らず知的な冒険心に溢れた論陣を張っているので、どちらも未邦訳ではあるがつい推薦したくなる(前者はカント主義に立っても動物の道徳的重要性は問題なく擁護可能であると説き、後者は動物の権利を主張する者でもヴィーガンになる道徳的義務まではないと説いている)。

本書で言及される各論点は、どれも掘り下げる甲斐のあるテーマである。ここではすべてを紹介することはしないが、せめて三つだけ。第一に、本書前半でキーワードになっていた分配原理や平等主義については、Hirose 2015と広瀬 2018を手に取ることをおすすめする(前者は邦訳が出ている)。本書でケーガンは、分配原理をどの主義にも与さないスタンスで説明しているが、彼自身は、別の著作で功績(desert)という観点から理想的な分配を説明する功績主義にシンパシーを抱いている。これに対し、紹介した広瀬は平等主義の代表的論者として名高い。

第二に、ケーガンが重度の障害を持つ者の地位を論じるために展開する「様相的な地位」については、すでに多くの議論があり、たとえば学術誌Journal of Applied Philosophy第33号(2016年)掲載のDeGrazia 2016とMcMahan 2016で(簡潔ながら)手厳しく批判されている。同号は、種差別の擁護可能性を説くケーガンの論文とそれに対するピーター・シンガーの批判論文も収録しており、ケーガンの論文以外はオープンアクセスなので無料で読むことができる。その後も、Journal of Applied Philosophy誌にはケーガンへの批判論文が断続的に掲載されているので、英語が得意な人はのぞいてみるとよいかもしれない(Roberts 2018やSmolkin 2019とか)。

第三に、たぶん気になった方もいると思うので一応書いておくが、ケーガンがイルカやクジラ、サルに並び立つ高い道徳的地位を持つ者として挙げるのは、なんとイカである。誠に不親切なことに、ケーガンはこの理由をまったく説明していない。しかも、本書の表紙で、ネズミや犬よりも地位が高そうな場所に配置されている同じ頭足類のタコに至っては、なんと本書に一度も登場しない。まるで「表紙詐欺」のようだが、幸い頭足類の知能や能力に関しては興味深い本がすでに出ている。Godfrey-Smith 2017がそれである。邦訳もあるこの本では、タコなどの頭足類が持つ非常に高い知性と彼らの感覚・意識の起源などがありありと描かれている。ちなみに、頭足類と同じ地位に入るであろうチンパンジーへの道徳的配慮を考えるにあたっては、Andrews et al. 2018が議論の呼び水となるだろう。総勢13名の著名な哲学者・倫理学者が執筆者に名を連ねているこの本では、高い知性を持つチンパンジーが実際には法的な権利を持つ人にほかならないという(やや驚くべき)主張が支持されている。

最後に、動物倫理に関する日本語の著作を紹介しておく。必読書と呼べるのは、少し古いが、動物実験や肉食の問題に真正面から切り込んでいる伊勢田 2008である。動物倫理ばかりでなく、英米系の倫理学全般に及ぶ豊饒なテーマを取り扱っているこの本は、網羅性と明晰性においていまだに色あせない名著である。ただ、やや分厚いのでより手軽に動物倫理を学びたい人には、マンガ形式の伊勢田・なつたか 2015が最適だろう。末尾にあるブックガイドもとても参考になる。ごく最近では、浅野 2021と田上 2021が相次いで刊行されるなど、邦訳書ではない和書が動物倫理でも徐々に充実しつつある。これはうれしい流れだ。本ではなく、記事・論文単位で動物倫理を知りたいという人には、真っ先に久保田 2019a, bと久保田・吉永2021を読んでみることを推奨したい。

*1元の例では、あなたを待つのはハッピーエンドである。「あなたはエイリアンたちを説得することに成功し、数分後、気が付くとあなたは自宅に戻っていた。あなたの利益と幸福は、彼らの道徳的な関心に値するものだと説得できたのだ」(Gruen 2011, p. 26)。なお、この思考実験はケーガンも感覚と行為者性を対置する文脈で引用している。

*2直訳だと「ユニテリアン主義」になるが、ここでは少し意訳して「対等主義」とする。ケーガンによるとこの立場は、人と動物の道徳的地位に差を設けず平等に取り扱うことから「平等主義(egalitarianism)」と呼ぶのが自然であるが、この名称は分配的正義の文脈で用いられるため、苦肉の策として「ユニテリアン主義」と命名したのだという。

*3具体的には、種差別に反対する文脈で従来用いられてきた利害の平等な配慮原則(principle of equal consideration of interests)や、義務論で(あるいは帰結主義でも)道徳的な行為者の必要条件として重視される自律概念については、ここでは紹介できないほど十分な知的遺産が蓄積されているのだから、もっと踏み込んだ論述がなされるべきだったと思う。

*4他にも、本書全体に対する小さな不満はある。一つだけ挙げておくと、検討の対象となる具体例がどれもやや現実離れしたものだという点は気にかかった。「人とネズミのうち一方しか助けることができない」や「無人島で生き抜くには鹿を食べるほかない」という極限的なケースが色々な点で「わかりやすい」ものであることは理解できるし、その他のより実践的で多くの反応と感情を呼び起こす事例からあえて距離をとっているのも理解できるのだが、そのことを差し引いて考えても、身近で現実に即した事例の取り扱いがあまりに少なすぎるのではないかという気がする。たとえば、「人が食べる楽しさのために(比較的高い道徳的地位を占める)イカや豚、牛を殺すこと」や「かゆくなるのが嫌だから人が(比較的道徳的地位の低い)蚊を踏み潰すこと」、「人が人口拡大のために森林破壊をした結果、動物の住処を追いやること」といったケースは、本書では検討の対象に入っていない。階層アプローチは応用性に優れた理論であるだけに、なおさらこのことは残念である。

*5本書評の草稿に対し的確なコメント・助言をくださった、田中悠気、望月美希、安田学の各氏に対し、この場を借りて厚くお礼申し上げる。なお、本研究はJSPS科研費(JP20J00631)の助成を受けたものである。

参考文献

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  • 伊勢田哲治 2008『動物からの倫理学入門』,名古屋大学出版会.
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  • 久保田さゆり 2019b,「動物の倫理的扱いと動物理解」,『現代思想』,2019年9月号(特集 倫理学の論点23),44–51,青土社.
  • 久保田さゆり・吉永明弘 2021「動物のもつ倫理的な重み」,『シノドス』,2021.03.23,https://synodos.jp/society/24209(2021年4月7日最終アクセス)
  • 田上孝一 2021『はじめての動物倫理学』,集英社.
  • 広瀬巌(編・監訳)2018『平等主義基本論文集』,勁草書房,2018年.

出版元公式ウェブサイト

オックスフォード大学出版局

https://global.oup.com/academic/product/how-to-count-animals-more-or-less-9780198829676

評者情報

横路 佳幸(よころ よしゆき)

現在、日本学術振興会特別研究員PD(南山大学社会倫理研究所プロジェクト研究員)。専門は、哲学・倫理学。主な論文・著作に、「三位一体論についての同一性の相対主義者になる方法」(『宗教哲学研究』第38号,2021年),「進化論的暴露論証とヒューム的構築主義——ストリートによる議論の批判的検討」(『社会と倫理』第36号,近刊)、『同一性と個体——種別概念に基づく統一理論に向けて(仮題)』(慶應義塾大学出版会,近刊)などがある。趣味は、寂れた商店街を練り歩くこと。本ジャーナルの責任編集者。

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