2021年5月19日
Ruth Chang, Making Comparisons Count
Routledge, 2002年
評者:安倍 里美
はじめに
近年、再び価値の理論(Value Theory)への関心が高まってきている。2015年に広瀬巌とJ.オルソンの編集によるThe Oxford Handbook of Value Theoryが出版されたこともこのような研究動向を示しているだろう。このあたらしい動向について特筆すべきポイントの一つが、価値の本性の解明という古典的なテーマへの注力である。すなわち、内在的価値(intrinsic value)と外在的価値(extrinsic value)、単なる善(good simpliciter)、限定的善(attributive good)といった概念の整理や、価値の担い手(bearer of value)は何であるのかといった問題の探求、そのような探求の成果に基づき義務や理由といったそのほかの規範的概念と価値概念の関係を説明したり、G.E.ムーアの有機的統一体の原理(Principle of Organic Unities)を再検討したりすることを通して、価値があるということがそもそもいかなることであるのかを明らかにしようとする試みが注目を集めている(Zimmerman 2001, Rønnow-Rasmussen 2002, Bradley 2006、Lemos 2021など)。このようなテーマは、非自然主義者あるいは直観主義者と呼ばれていたi19世紀から20世紀半ばにかけて活躍した英国の道徳哲学者らが盛んに論じていたもので、今日の議論も、価値概念やそのほかの道徳的概念についての彼らの洞察を、現代的な道具立てによって洗練させるものとしての性格が強い。
とはいえ、認知説が抱えうる存在論に関する難問が広く認識され、それに伴い台頭した情緒主義にメタ倫理学のメインストリームの立ち位置を取って代われられた結果、20世紀後半には価値の本性の解明という課題への熱も全体的に「なんとなく冷めていた」(あるいはテーマとしての重要性は認めつつも、そのような状況における価値の理論の位置付けに悩んでいた)印象がある。価値の理論のリバイバルと呼ぶべき現象は、いかなる文脈において理解されるべきだろうか。
こういった現象の多くがそうであるように、このリバイバルの背景にあるものもまた、一つの学問領域に従事する人々のあいだに漂う雰囲気のようなものとして説明するほかないように思う。もちろん、研究動向の方向づけに貢献したと考えられる出来事をいくつか上げることは可能であるから、以下に、簡単にそのうちの二つを述べておく。
一つには、洗練された表出主義が対立理論であるはずの認知説や実在論へ接近しすぎてしまうという問題に直面したことや、合理性についての探求がメタ倫理学の探求対象を道徳性から規範性へとシフトさせたことなどが、認知説や非自然主義的実在論の再評価を後押したことをあげることができる。結果として、価値についての客観的真理が存在するという前提を置くことのハードルは随分と下がったように思う。もう一つは、T.M.スキャンロンがWhat We Owe to Each Otherにおいて、価値についての事実と理由についての事実は双条件的関係にあるとするバックパッシング理論を提出したことである。この議論を受けて、一時、理由概念と価値概念の関係をめぐる問題が盛んに論じられたことも、哲学者たちが価値の規範的性格の解明に高い関心を向けることにつながったと考えられる。
実際、理由を中心概念とするメタ倫理学にとって、価値の理論は非常に大きな重要性を持っている。というのも、理由の規範性を理解するためには、そのほかの概念の規範性と照らし合わせ、共通する部分や相違をあぶり出すことが有益であるからだ。さらに踏み込んで言うなら、バックパッシング理論が正しいかどうかという問題を脇に置くとしても、なんであれ価値のあるものを促進する理由や尊重する理由を我々は持つと考えることは説得的であるから、価値の規範性と理由の規範性がいかなる関係を持つのかを明らかにすることは、正確な理由理解に至るための必要なステップであると考えられる。また、価値あるものを対象とする行為や態度の理由の重みや強度をどのように比較するべきなのかという問題は、異なる価値はいかに比較されるべきかという問題や、そもそも全ての価値が比較可能であるのかという問題と密接に関わる(特定の価値が比較不可能であることに連動して、特定の理由が比較不可能であると示されることもありうる)。こうして考えていくと、(評者自身理由の規範性についての探求に携わる立場にあるので、こうしたことを言うのは手前味噌の感が強いが)価値の理論のリバイバルは、メタ倫理学において理由概念が重視されるようになったことにつられた部分も大きいように思われる。
さて、本書評で紹介するR. チャンの著作、Making Comparisons Countの主題は、価値の理論の問題群の一つ、価値あるいは価値の担い手の比較可能性(comparability)の問題である。チャンの議論を特徴付けるのは次の三つの主張である。すなわち、(ⅰ)比較不可能(incomparable)な選択肢はないという主張と、(ⅱ)私たちの選択を正当化するのは、選択肢同士の比較についての事実であり、比較不可能な選択肢のあいだでの正当化された選択というものはありえないという主張と、(ⅲ)選択肢の比較についての関係は、より良い(better than)、より悪い(worse than)、同じだけ良い(equally good)の三つに尽きるのではなく、これら三つとは区別される第四の関係として、伯仲している(on a par)というものがあるという主張である。これらの主張を支える骨組みとなるのが、チャン独自の、「比較」の観点から捉えられた価値の構造の理解である。
チャンの議論の具体的内容を確認する前に、概念上の区別について一点述べておきたい。それは、チャンが通約不可能性(incommensurability)と比較不可能性とを明白に区別しているということである。通約不可能性とは、二つ以上の価値や価値あるものの値打ちを、なんらかの一つの単位によって基数的に表現し、その値打ちを比較することができないことを言う。例えば、ある人の道徳的卓越性とある芸術品の価値を、それらがどれほど快楽を生むのかという尺度で測ることはできないかもしれない。これらのものの価値を比較する単一の尺度がないのなら、これらの価値は通約不可能だということになる。チャンによれば、通約不可能であるということは、比較の方法のうちの一つを用いることができないということに過ぎず(Chang 2015, 207)、そのため、ある価値やある価値を持つものが通約不可能であるからといって必ずしもそれらのものが比較不可能であるということにはならない。チャンの議論の目的の一つは、比較可能性と通約可能性の混同を排除し、比較というものについての適切な理解を提示することである。また、上の主張(ⅰ)は確かに野心的だが、このことを踏まえれば、それが第一印象ほど乱暴なものではないこともわかるだろう。
各章の概要
第1章 比較不可能性と比較
第1章は、何かを比較するとはいかなることなのか、そして比較不可能であるとはいかなることなのかが示される、本著作全体の議論の核となる箇所である。
チャンの議論の特徴は、価値そのものを比較の観点において捉えることにある。価値とは、「それに関して(with respect to which)有意味な評価的比較をすることができる任意の考慮」(3)であり、全ての比較は何らかの価値に関してなされるのだとされる。海に行くか山に行くか決めるときや、朝食を食べるか食べないかを決めるときや、パールのネックレスにするかダイヤのペンダントにするのか決めるとき、私たちは選択肢を比較するが、この比較はいずれも、選択の場面で関係する(relevant)何らかの考慮を軸にしてなされる。この軸となるものがなければ、チャンの考えでは、比較自体が理解不能なものとなる。比較の軸となるものとしては、楽しさや、ヘルシーさや、冠婚葬祭のマナーに反さないことなどが考えられるだろう。チャンの見解では、有意味な評価的比較の軸となる考慮が価値であるから、これらの他にも、寛大さ、親切さ、不名誉さ、残虐さ、安っぽさ、自分の祖母が喜んでくれるかどうか、義務を果たしているかどうか、美しさといった様々なものが価値として扱われることになる(ibid.)。
とすると、何に関しての比較なのかがわからなければ、ものを比較できないことになる以上、この比較の軸となる価値そのものがいかなるものであるかの理解が必要となってくる。チャンは、軸となる価値の内実を決めるのは、さらなる別の(単一あるいは複数の)価値であると考える(6)。これは本著作でチャンが繰り返し用いる事例なのだが、哲学教員の採用にあたって、ある二人の候補者を比較しているとしてほしい。単純にするために候補者の優劣において問題となるのは哲学的才能のみであるとするなら、あなたは両者の独創性や、創造性、思考の明晰さ、洞察力、歴史的造詣の深さを比較するだろう。なぜなら、これらが哲学的才能の内実だと我々は理解しているからだ。チャンはこれらもまた価値であると主張し、軸となる価値を被覆的価値(covering value)、被覆的価値の内実となる価値を貢献的価値(contributory value)と呼んで区別するii。
候補者二人はそれぞれ、一方は突出した独創性を持っており、もう一方は突出した歴史的造詣の深さを持っているが、そのほかの貢献的価値の面においては両者ともに平凡なレベルにとどまっているとしよう。どのようにすれば、彼らを哲学的才能に関して比較できるだろうか。チャンは、いかなるものの価値も質的次元と量的次元を持っているとし、これらの次元を合わせて価値の相(aspect)と呼ぶ(11)。候補者それぞれの哲学的才能は、全ての貢献的価値の相の束として理解される。哲学教員を選ぶための比較は、この束と束の比較であることになる。両者が独創性においてのみ実力に差があり、明白に優劣がつけられるなら、話は簡単だっただろう。だが、二人の実力の違いは、独創性と歴史的造詣の深さという別々の貢献的価値において見出される。チャンは、こういった比較の事例を念頭に置き、次のような考え方を提案する。すなわち、αとβという二つの束を比較したいのなら、αから一つの貢献的価値の相のみが異なる束とを比較して相違を出し、次にその束と一つの貢献的価値の相のみが異なる束とを比較して相違を出しという作業をβとβから一つの貢献的価値の相のみが異なる束とを比較して相違を出すところまで、一連の比較対象となる束の連なりが最短のものとなるような仕方で続けていき、出てきた相違の全てを足し合わせるのである(20–21)。こうすれば、両者の評価的な相違を示すことができる。
チャンの定義によれば、二つのものがある被覆的価値について比較不可能であるのは、その被覆的価値についてそれらのもののあいだに評価的相違が存在するということが偽である場合である(15)。それゆえ、チャンにとっては、比較可能性を示すためには、このような仕方で評価的な相違の存在を示すことができれば十分である。なお、同じだけ良いという関係は、評価的相違がゼロであるということであり、評価的相違が存在しないこととは異なるとされている(14)。
第2章 比較の規範性
第1章で提示された、チャンの比較の理解が正しければ、原理的に、相当広い範囲のケースの比較可能性を示すことができる。このポテンシャルがどれほどのものであるのかは、主に第3章で示される。第2章では、比較可能性と選択の正当性の関係についての議論が展開される。
ここでは、ある選択が正当化されるかどうかを決める力を持つのは、適切な被覆的価値に関する比較についての事実である、という見解の擁護が試みられる。第2章の議論の目的は、ある選択が正当化されると言えるための条件を明らかにすることや、選択が正当化されるということそのものがいかなることであるかを明らかにすることではなく、比較可能性の規範的な重要性を示すことにある。そのため、被覆的価値が個別の選択の状況において適切であると言えるのはいかなる場合なのかといった問題が追及されることはなく、代わりにチャンは、選択を正当化する規範的な事実は全て比較についての事実であると示すことと、他の選択肢と比較不可能な選択肢を選ぶことが正当化されうるということを否定することに議論を集中させている。
チャンの考えによれば、ある選択することが正当化されるのは、適切な比較的価値に関してその他の選択肢よりも良いものであるか、他の選択肢と同じだけ良いものか、伯仲しているものを選択するときである。
第3章 比較不可能性はあるのか
J.ラズがそうであるように、比較不可能性の存在を主張する論者は、しばしば、第2章でのチャンの議論に反して、比較不可能なものに関しては、行為者が自らの意志により、ただどちらか一方を選び取ることは正当化されると主張する。比較についての事実が正当化の力を持つと考えるチャンの立場とは対照的に、そういった論者の多くは、そもそも価値というものを、他のものとの比較についての事実に依存せずにそれ自体で正当化の力(あるいは正当化可能性と何らかの仕方で深くかかわっており、正当化に貢献するような力)を持つものとして捉える。だからこそ、たとえ他の選択肢と比較不可能であったとしても、それ自体で何らかの規範的な力による支持を受けているから正当化されることがありうると論じる道を取ることができる。対して、規範的な力の源泉を比較についての事実に求めるならば、比較不可能な選択肢を取ることを正当化する根拠はないことになってしまう。比較不可能性が示されると、チャンの正当化についての議論が退けられるというわけではないものの、その魅力は大いに損なわれる。
そこで、第3章から第5章においては、選択肢同士が比較不可能な状況が存在しうることを主張する九つのタイプの議論を退けることが目指される。以下では、そのうちでとりわけ重要度の高い議論を紹介する。
比較不可能性を主張する議論が訴えかけるオーソドックスなケースの一つが、モーツァルトとミケランジェロの創造性の比較のケースである。両者の創造性のあいだにはあまりに大きな相違がある、すなわちそれぞれの創造性の貢献的価値となるものはもはや別種のものと言えるほどに異なるかもしれない。すると、二人を創造性について比較することはできないと言いたくなる。これに対するチャンの戦略は次のものである。
サイノウナシという名の画家がいるとする(チャン自身はTarentlessiと名付けている)。サイノウナシは才能に恵まれていない。だから、サイノウナシとミケランジェロの創造性は同じ項目の貢献的価値を持っているが、サイノウナシの貢献的価値の相の束は非常に貧しいものである(基数的に表現するのであれば、非常に低い数値が振られている)。創造性の貢献的価値の項目が違いすぎるということが、モーツァルトとミケランジェロを創造性に関して比較不可能にするのであれば、同じ理由から、モーツァルトとサイノウナシも創造性において比較不可能だということになる。だが、普通、モーツァルトとサイノウナシでは創造性において前者の方が優れていると我々は考える。すなわち、この組み合わせについては、我々は現に優劣をつけられている以上、比較可能であると考えるべきである。サイノウナシの創造性とミケランジェロの創造性の違いは貢献的価値の相に振られた数値の違いである。両者は同じ項目の貢献的価値の相の束のスペクトラムに位置付けられる。二つの相の束の一方をモーツァルトと比較可能にし、一方を比較不可能にするような違いを見出すことはできない。したがって、モーツァルトとミケランジェロもまた創造性に関して比較可能である(71–74)。
この議論が成功していれば、貢献的価値の項目の一致がほとんど見られないような選択肢を比較するそのほかの様々なケース関しても、比較が有意味となるような被覆的価値を見出すことができれば比較可能であると論じる余地があるということになる。ちなみに、そのような被覆的価値が存在しない場合は、選択肢のあいだに成立する関係は比較不可能性ではなく、非比較可能性non-comparabilityである。チャンの考えでは、実践理性が私たちにそのような選択肢のあいだでの選択を私たちに迫ることはないので、非比較可能性は重要性を持たない(84–86)。
第4章 構成的な比較不可能性に対して
第4章では、比較不可能性を主張する議論のなかでも、価値自体の本性を比較不可能性の根拠とするものが取り上げられる。例えば、あなたが友人に「100万円を手切れ金としてあげるから、友達をやめてほしい」と言われたとする。あなたとこの友人の間に成立する関係が本当に友人関係と言えるものであるなら、あなたはこのオファーを拒絶し、憤慨するはずである。こういった洞察に基づいて、ラズは、ある種の価値というものは、それそのものの本性のうちにほかの価値との比較を拒むような部分を含んでおり、その価値を真に理解する人は、友情と金銭を比較する(比較した上で交換する)ことを拒むはずだと論じている。
これに対して、友情と金銭の比較可能性をチャンは主張する。友人で居続けることを取るか、一ドルを得ることを取るかという選択状況において、友情は一ドルよりずっと価値のあるものだと判断する人は、友情を金銭と比較しているので、友情の価値を解さないと考えるのはもっともらしくない。この人のこのような判断は、むしろ友情への尊敬を反映していると考えるべきである。したがってラズの議論はもっともらしくない(102)。この議論に加えて、チャンは、友情と金銭の交換に関わる現象のいくつかを、自身の理論が説明できるかどうか検討している。
第5章 伯仲の可能性
チャンの定義によれば、選択肢のあいだに被覆的価値に関して評価的相違が存在することが示されれば、その選択肢は比較可能である。しかし、そのような評価的相違には、より良い、より悪い、同じだけ良いという分類には収まらないものが存在する。それをチャンは伯仲(parityあるいはon a par)と呼んでいる。第5章では、比較不可能性を主張する議論が訴えかけるケースには、伯仲として理解するべきものがあるという主張が展開される。
モーツァルトとミケランジェロの創造性の比較についてのチャンの議論を思い出してほしい。両者の評価的相違の存在が示されたということを認めるとしても、結局どちらか一方が他方より優れていると考えるのも、両者は同じだけ良いと考えるのももっともらしくなく、それゆえチャンの議論は本当はどこかで破綻をきたしているのではないかと疑問に思わなかっただろうか。伯仲はまさに、このような比較において見出される関係である(130)。両者の評価的相違はゼロではない。よって同じだけ良いということにはならない。また、この相違は正の方向にも負の方向にも方向付けられていないので、どちらか一方がより良いということも真ではない。
第6章 曖昧性、比較不可能性、伯仲
第6章では、伯仲という比較についての関係を主張するチャンの立場の擁護論がいくつか展開される。さらに、この章では、伯仲するものを私たちは結局どのように扱うべきなのかという問題についてのチャンの回答が示される。つまり、どちらかを選ぶことは正当化されるのかという問題である。チャンはまず、どちらを選んでも正当化されるという点では、伯仲と同じだけ良いという関係には相違がないとした上で、伯仲は合理的行為者の自由を担保するものとしても理解できると主張する。チャンは、伯仲するもののいずれか一方を選び取るということは、実践理性の要求を超え出たところで、行為者が自らのアイデンティティを表現することに他ならないと述べている(171–172)。
コメント
チャンの議論に対して評者は大きく二つのコメントを述べておこうと思うiii。一つは、チャンの比較可能性についての議論は、チャン自身が想定しているほどには幅広いケースに適用できないのではないかという懸念である。モーツァルトとミケランジェロの創造性の比較が困難であるという問題は、サイノウナシとの比較をあいだに挟むことによって解消されると、チャンは考えている。この議論を支えているのは、「実際、誰だって天才音楽家と全然才能のない画家だったら、音楽家を選ぶだろう」という洞察であるように思われる。しかしながら、この洞察自体は、私たちがモーツァルトの創造性とサイノウナシの創造性を比較する軸となる被覆的価値が、モーツァルトの創造性とミケランジェロの創造性を比較する軸となる被覆的価値と同一であるということ示すものではない。チャンが提示した、貢献的価値の相の束の比較という比較の捉え方が正しいなら、モーツァルトの創造性とサイノウナシの創造性を音楽家の創造性という被覆的価値で比較することは可能である。サイノウナシは音楽家としての才能も持たないであろうから、サイノウナシの音楽家としての創造性の貢献的価値の相の束も貧しいものであるだろう。モーツァルトの音楽家としての創造性の貢献的価値の相の束とサイノウナシのそれとを比較して、モーツァルトを選んでいる可能性は全く排除されない。
チャンの議論の目論見は、モーツァルトとミケランジェロの創造性の比較における被覆的価値そのものがいかなるものであるかを詳らかにできないとしても、二人の天才の創造性を比較することは原理的に可能であると示すことにある。確かに、チャンが想定するように、我々がモーツァルトとサイノウナシとミケランジェロを何らかの同一の被覆的価値を軸にして比較していると言えるならばこの議論は成功する。ところが、上記のような被覆的価値のすり替えの懸念を払拭するものはチャンの議論においては示されていない。さらに言えば、同一の軸で三者を比較していると言われてしまうと、むしろ、そう言われる以前には我々がよく理解していたはずの、モーツァルトとサイノウナシを比較してモーツァルトを選ぶということがいかなることであるのかが途端に不明瞭になるように思える。
結局のところ、モーツァルトの創造性とミケランジェロの創造性を比較する被覆的価値がいかなるものでありうるのかについては全く論じられていないため、チャンの議論がモーツァルトの創造性とミケランジェロの創造性を比較するということがいかなることであるのかを理解することに寄与することもない。
二つ目のコメントは、規範的な力の源泉を比較についての事実に求めるチャンの見解についてのものである。チャンは正当化の力を持つのは比較についての事実だという見解をとるが、いかなる比較についての事実であっても構わないというわけではない。二つのものの長さを比較することは理解可能だが、通常長さの比較についての事実がそれ自体で選択を正当化する力を持つとは考えられない。だから、単なる比較についての事実ではなく、評価的な比較についての事実でなければ規範的力は持たない。しかしながら、チャンの議論において、価値はそれに関して有意味な評価的比較をすることができる任意の考慮と定義されてはいるものの、何が評価的比較と評価的でない比較を分けるものなのかが示されていないように思われる。このような議論では、価値の規範性がいかなるものであるのかというメタ倫理学における非常に重要な問題の答えに近づくことはできない。
そもそも、チャンは、正当化の力を持つのは比較についての事実であると主張するが、正当化の力を持つのは被覆的価値が選択状況において適切であるという事実(より厳密には被覆的価値そのものが追求したり促進したりするに値するものであり、かつ選択状況において被覆的価値の追求や促進をすることは適切であるという事実)であると考えることも可能である。しかし、チャンはこの可能性について全く検討していない。「このやり方で嬲る方がより残虐だから」という比較についての事実は、正当化の力など持たないように思われるが、チャンの議論自体のどこにも、残虐さを求めることが不適切であるのはなぜなのかを示すものはない。したがって、チャンの規範的力の源泉についての見解は不十分なものと言わざるを得ない。以上のことから、比較によって価値を捉えるという試み自体は価値を論じる近年のプロジェクトの中で探求されるべき途の一つと考えられるとしても、全体としてはチャンの議論は十分な説得力を有しているとは言いがたいだろう。
文献案内
近年の価値論の動向については、Hirose and Olson eds.(2015)とRønnow-Rasmussen and Zimmerman eds.(2005)を確認してほしい。チャンが反論を試みているラズの議論はRaz(1986)に収録されている。比較不可能性についての重要な議論には、Nagel(1979)と柏端(2007)をあげることができる。とりわけ、柏端はラズと同様に比較不可能性を前提とした正当化可能性の捉え方を提示しており、この立場からチャンの提示しているような正当化可能性の理解を厳しく批判している。
注
iこのようなくくりをすることについてT.ハーカは、彼らの議論の共通するテーマをすくいあげるものではないと不満を述べており、代わりに「シジウィックからユイングまでの道徳哲学者たちの学派」と呼ぶことを提案している(Hurka 2011)。
ii当然、貢献的価値もまた、それに関して有意味な評価的比較をすることができる任意の考慮であるのだから、特定の被覆的価値の貢献的価値(例えば洞察力)が、別の比較の場面では被覆的価値となることもありうる。
iiiチャンの正当化の捉え方と、比較不可能性を主張するラズの正当化の捉え方のあいだには、実は規範性そのものについての根本的な相違が存在する。このポイントについては稿を改めて論じたい。
参考文献
- Bradley, B., 2006, “Two concepts of intrinsic value”, Ethical Theory and Moral Practice, Vol.9, 111–130.
- Chang, R. 2002, Making Comparisons Count, Routledge.
- Chang, R. 2015, “Value Incomparability and Incommensurability”, in Hirose and Olson eds., The Oxford Handbook of Value Theory, 205–224.
- Hirose, I. and Olson, J. eds., 2015, The Oxford Handbook of Value Theory, Oxford University Press.
- Hurka, T., 2011, “Introduction”, Underivative Duty: British Moral Philosophers from Sidgwick to Ewing, Hurka, T. ed., Oxford University Press, 1–5.
- Lemos, N., 2021, “What Is Basic Intrinsic Value?”, Ethical Theory and Moral Practice, Vol.24, 33–43.
- Nagel, T., 1979, “The Fragmentation of Value”, Mortal Questions, 128–141.(永井均訳「価値の分裂」,『コウモリであるとはどのようなことか』, 勁草書房, 1989, 202-222)
- Raz, J., 1986, The Morality of Freedom, Oxford University Press.
- Rønnow-Rasmussen, T., 2002, “Hedonism, Preferentialism, and Value Bearers”, The Journal of Value Inquiry, Vol. 36, 463–472.
- Rønnow-Rasmussen, T. and Zimmerman M. eds., 2005, Recent Work on Intrinsic Value, Springer.
- Zimmerman, M., 2001, The Nature of Intrinsic Value, Rowman and Littlefield.
- 柏端達也, 2007,『自己欺瞞と自己犠牲 非合理性の哲学入門』、勁草書房
出版元公式ウェブサイト
ラウトレッジ
https://www.routledge.com/Making-Comparisons-Count/Chang/p/book/9781138980211
評者情報
安倍 里美(あべ さとみ)
現在、三重大学人文学部特任講師。専門はメタ倫理学、生命倫理学。主な論文に、「義務の規範性と理由の規範性―J.ラズの排除的理由と義務についての議論の検討―」(『イギリス哲学研究』42号、2019年)、「価値と理由の関係は双条件的なのか―価値のバックパッシング説明論の擁護―」(『倫理学年報 』68号、2019年)、「侵襲性の高い予防的介入と無危害原則」(『先端倫理研究』14号、2020年)がある。