Tokyo Academic Review of Booksonline journal / powered by Yamanami Books / ISSN:2435-5712

2021年6月24日

ギャリー・ジェノスコ『フェリックス・ガタリ:危機の世紀を予見した思想家』

杉村昌昭・松田正貴訳,法政大学出版局,2018年

評者:西川 耕平

Tokyo Academic Review of Books, vol.21 (2021); https://doi.org/10.52509/tarb0021

はじめに

本書はGary Genosko, Félix Guattari: A Critical Introduction, Pluto press, 2009の全訳である。訳者があとがきで断っているように、邦訳の副題は内容に鑑みて「批評的紹介」から「危機の世紀を予見した思想家」に改められている。この改題には訳者らによる原著の適切な読解の跡が現れているが、それに加えて、フェリックス・ガタリ(1930–1992)の思想の今日的価値を考えることを促すしかけでもあるように思える。

さて、まずは本書で論じられる人物、フェリックス・ガタリについて簡単に紹介しておこう。彼は、フランスの精神分析家にして政治活動家、そして思想家である。おそらく彼のキャリアのなかでもっとも有名なのは、同じくフランスの哲学者ジル・ドゥルーズ(1925–1995)と共に、『アンチ・オイディプス』(1972年)と『千のプラトー』(1980年)を著したことだろう。この二つの著作はいわゆるフランス現代思想の「古典」の地位をすでに確立しつつあるが、それにもかかわらず(それだからこそ?)、ガタリはある意味では「不遇」の思想家である。というのは、ドゥルーズやドゥルーズ=ガタリについての研究に比べて、ガタリのみを主要な対象とした研究はごくまれだからである。それだけならまだしも、共著におけるガタリの貢献やドゥルーズへの影響を必要以上に低く見積もる研究も少なくない。

このような受容状況のなか、本書は「ガタリの寄与をただ追い払おうとするような意見に与せず、ガタリ自身が書いたテクストを実際に読むため」(p. 22)に書かれている。もちろんガタリの復権も重要だが、評者は、本書がガタリのテクストを理解するための助けとなっている点を高く評価する。とりわけ第四章におけるガタリの記号論の整理は明快で、非常に難解な『分子革命』(1977年)や『機械状無意識』(1977年)の読解を容易にするだろう。評者はドゥルーズ研究者の端くれであるが、これまた難解で(悪)名高いドゥルーズのテクストを理解するだけでも骨が折れるのに、(私にとっては)さらに難解なガタリのそれを読み進めるのは正直困難である。それゆえ本書のように、ガタリの提示する諸概念や理論ならびに彼のなした実践について、その輪郭を明確にしながら解きほぐしてくれる入門書は非常にありがたいものである。

また、ジェノスコはガタリの単なる解説にとどまらずに、その思想と現代の社会状況との接続を随所で試みており、それが翻ってガタリの今日的意義を示すことにもなっている。それは、ガタリやドゥルーズの研究者、あるいはフランス現代思想の読者のみならず、現代の社会に生きる人間存在のあり方に思いを馳せる者であれば、誰もが何かしらのインスピレーションを受けるものと言えるだろう。

要約

それでは、著者ジェノスコは「危機の世紀を予見した」ガタリの思想をいかにして描いているのだろうか。本書は序章と結びを除いて全七章構成となっているが、仮に本書を二部構成にするのであれば、分割線を引くのは第三章と第四章の間である。第一章から第三章までは、横断的な運動をとおしての新たな「主観性の生産[production of subjectivity](注1)」という主題に貫かれている。それに続く第四章以降では、「記号」や「情報」およびそれらのもたらす主観性の生産への影響という主題が前面に現れてくる。なお、ガタリのたんなる紹介から離れて、ジェノスコ自身の見解が展開されることが多くなってくるのも第四章以降である。以下、各章を簡単に要約することでその内実の一端を示していこう。

第一章においては、ガタリが1950年代半ばからラボルド精神病院で行っていた「制度的な枠組みそのものを集団生活におけるひとつの媒体として前景化しながら行う分析」(p. 43)、すなわち「制度論的精神療法」の基本となる方向性が示されている。ガタリは、制度が主観性を生みだす過程に着目しており、それゆえ何らかの制度を生みだすこと自体にもこだわりをもっていたとされる。

第二章においては、ラボルドでのガタリの実践が具体的に描き出されると同時に、新たな主観性を生みだす過程における横断的関係の意義が論じられる。横断的関係とは、会社の組織図に見られるような垂直的関係でもなければ、たんに何の交渉ももたない領域同士を並び立てるだけの水平性とも異なる関係である。こうした横断性の実践としてガタリがラボルドに導入したのが「グリッド(当番表)」というツールである。これはアルバイトのシフト表よろしく、縦軸に人の名前、横軸に時間をとって、各セルに仕事分担が書き込まれているものだが、通常は医師の為す仕事が看護師に割り当てられたり、患者にも何らかの仕事が割り当てられたりしていた。提示されるさまざまな当番を交代でこなすことによって、各人の立場は流動的なものとなり、「責任の新しい領土や関係性のなかに踏み込むことになる」(p. 80)。このツールを媒体として、ガタリは新しいタイプの主観性を生みだすことを目指していたとされる。

第三章においては、『三つのエコロジー』(1989年)で展開される独特のエコロジーの思想が俎上に載せられている。ガタリは50代以降エコロジー運動に参与していたが、彼にとってエコロジーは環境だけではなく、社会や精神(人間の主観性)の領域をも含む問題系であった。これら三つの領域を倫理的−政治的なものと接合して問題解決を図る思想をガタリは「エコゾフィー[ecosophy(英);écosophie(仏)]」と名付け、芸術のもたらす可能性に注目する。芸術作品は「それぞれが特異な自己を生みだす方法を手に入れたり、いまの自分とは異なるものになる方法を模索したりするよう働きかけてくる」(p. 117)ものとみなされるのである。ジェノスコは、主観性の問題をとおして芸術とエコロジーの関係について論じたところにガタリの独創性を見ている。

第四章においては、1977年に刊行された『分子革命』および『機械状無意識』で展開されたガタリの記号論の概略が示され、現代の情報社会との接続が試みられている。ガタリの理論構成に興味のある読者は本章を熟読するとよいだろう。章のタイトルにもなっている「非シニフィアンの記号論」は「シニフィアンの記号学」に対抗してガタリが提示した独自の記号論である。この理論の眼目は、精神分析をも覆う構造主義的な言語観から離れて、それ自体としては意味や内容を欠く非表象的な部分記号を重視するところにある。この部分記号の具体例として銀行カードの磁気ストライプに記録された数字や文字列を挙げつつ、ジェノスコは情報工学の発展する現代の資本主義社会においてこうした部分記号が政治性を帯びていくことを指摘している。ガタリ自身も、「部分記号を動員する政治的な次元を理解する必要があると訴えていた」(p. 153)とされる。

第五章においては、ドゥルーズ=ガタリが『千のプラトー』で提示した平滑/条里という空間の区分を情報ネットワークの領域に拡張したジェノスコの考察が展開される。国家は、ときに先住民を無視して土地の区画を確定し、人々を管理するために各人に番号を割り振ってきたが(条里化してきたが)、「何らかのコード化作用を断絶させることで、あるいは封じ込めに抵抗したり、隷属化を回避したりするような平滑的要素を再導入することで」(p. 158)、そうした空間を解体して平滑化することも可能とされる。ここでは、カナダのイヌイットとオーストラリアのアボリジニーを例に、条里化のプロセスを逆手に取っての平滑化や、逆に平滑化のプロセスが条里化へと落ち込みうることが描かれる。ドゥルーズ=ガタリの別の用語を使えば、脱コード化と再コード化の流れはほとんど同時に生じることを、ジェノスコは実例を挙げながら説得的に示している。

第六章においては、ガタリの映画についての論考からマイナーシネマの重要性が引き出される。順応的な主観性のモデルを広げるのに資する支配的なシニフィアンの記号学に満たされた映画ではなく、一般的なコードから外れた音響・色彩・リズムを非シニフィアン的部分記号として作動させる映画をガタリは「マイナーシネマ」と呼ぶ。ドゥルーズの映画論にも共通して見られるテーマであるが、映画はこうした部分記号を感得できる者のうちに「内在的な出会いにおいて思考がショック状態に陥ったり強制されたりするように、マイナー主義的生成を誘発する」(p. 210)。ジェノスコによれば、日々の闘争(労働運動であれ貧困問題であれ)とそこにある数知れない問題を浮き彫りにすることで、人々のあいだに変化をもたらし、主観性の新たな自己モデル化を促す力がマイナーシネマにはあるとガタリは考えていたのである。

第七章においては、ガタリにおける実存的情動の理論に癲癇という現象学的精神医学の概念がどのような影響を及ぼしたのかが検討に付される。そこでジェノスコは、ウジェーヌ・ミンコフスキーの「粘着性」という概念を掘り起こし、ガタリの情動の理論への影響を指摘する。そして癲癇が描かれる映画作品に触れながら、情動には家族に対する暴力や自殺へと至るような自己破壊的でネガティブな側面があることを再確認する。その一方でジェノスコは、自身の癲癇の発作のコントロールを試みる芸術家の作品から、「自己の非連続性に対する感受性を高め、つまり境界線としての主体と境界線なき客体とのあいだの純粋な関係性を感知させる」(p. 246)という情動のより肯定的な側面を引き出す。癲癇と結びついた情動の特徴を描き出すことで、みなが癲癇患者とも言いうる現代において人間はいかに主体化していくのかを、ジェノスコはガタリを拡張しつつ示唆している。

結びにおいては、「機械」をめぐるガタリの独自の理論とその意義が論じられる。ジェノスコはそこでまず、ガタリの言う機械を「構造に不均衡をもたらすものであり、主観性と欲望とのあいだの関係性を浮き彫りにするもの」(p. 249)と簡潔に規定する。ガタリは機械を技術的なものに限定せずに、社会的なものや芸術的なもの、そして無意識をも機械のひとつと考えていた。こうした多様な機械状の構成要素をとおして主観性はつねに変化する。もちろん機械が集団や個人を隷属させるリスクもあるが、ガタリがつねに模索していたのは、「創造性の領域において、倫理−芸術的で、民主的で、エコ−プラクシス的な価値によって、分子とモルの拘束のなかを行ったり来たりさせながら、主観性を確実に導くこと」(p. 258)であった。ジェノスコおよびガタリに従えば、情報ネットワークの伸張やそれと結びつく今日の新自由主義的な資本主義社会は、隷属をもたらす危機であると同時に新たな主観性を作り上げるためのよい機会として捉えうるのである。

もちろん、ここでふれることのできなかった論点は数多くあるが、およそ以上のような仕方でジェノスコはガタリの思想を描いている。

コメント

本書の叙述のなかでまず評者の目を引いたのは、第二章において『ドゥルーズとガタリ 交差的評伝』でドスのなしたガタリ描写に異を唱えているところである。ガタリを他人から概念を借用する「概念どろぼう」とみなし、変化を求めて動き続けるガタリの姿勢を祖父の死を目撃したトラウマに帰そうとするドスの早合点を、ジェノスコは糺している。ドスの評伝は多くのインタビュー調査からなる一級品であり、評者を含めてドゥルーズの研究者は割とよく援用している。しかし、もちろん無批判に全肯定できるものではなく誤っている可能性もあるという、ある意味では当たり前の指摘をジェノスコはドゥルーズやガタリの研究者向けに発信しているようにも思える。この指摘はしっかり受け止めるべきだろう。

内容面について、評者の専門研究(ドゥルーズの法思想とその周辺)の観点から述べることを許してもらえるならば、本書のなかで最も興味を引いたのは第五章におけるイヌイットにかんする記述である。あらためてやや詳しく紹介しよう。

ジェノスコは、カナダの行政が各人を識別するために彼(女)らにかつて付与したディスクナンバーに着目している。イヌイットの人々はその文化慣習の価値観をベースにする独特の命名法を有していたが、植民地化(条里化)される過程で与えられたクリスチャン・ネームを含めると個人が複数の名前(多いときで六つ)をもっていることがある。そのため、行政はディスクナンバー制から何かしら決まった氏名を選択してもらう「氏名プロジェクト」へと移行するが、自身にとって十分に有用であったためにむしろ当初は押し付けられたディスクナンバーをそのまま利用する人もいた。さらには、イヌイットの側が主導して白人の登録簿を作成するといったパロディ的な活動が行われたり、ディスクナンバー制の愚かしさを伝える芸術作品がつくられたりもした。ディクナンバーに当初とは違った意味づけがなされるようになっているわけだが、ジェノスコによれば、現在ではディスクナンバーは笑いや冗談の対象となったり、個人的なアクセサリーとしてイヌイットの人々が堂々と身につけたりするようにまでなっている。

このようなディスクナンバーの利用、とりわけ自らの利便のために氏名ではなくディスクナンバーを使用したり、個人的なアクセサリーとして身につけたりするような所作は、ドゥルーズが『ザッヘル=マゾッホ紹介』(1967年)で提示したユーモアの技法にいくらか似ているように思える(注2)。それは、契約や法を遵守することによって、その法が禁ずるものを獲得し、あるいはその法の愚かしさを暴露する技法であるが、ディスクナンバーを手放さなかったり、逆に白人の人々にパロディ的にそれを拡張したりするイヌイットの人々をそうしたユーモアの使い手と呼ぶことはできないだろうか。もしそう呼ぶことができるのであれば、ジェノスコによるガタリの拡張を媒介としてあらためてガタリとドゥルーズを結びつけることができるかもしれない。

評者は本書に触発されてこのような思考へと導かれたが、もちろん読者それぞれが各人に応じたインスピレーションを得ることができるだろう。このことは本書の優れている点として先でも触れたが、本書に足らざる点がないわけではない。三つ指摘しよう。

まず、本書は基本的には各概念を丁寧に解説してくれているのだが、一読して何を意味しているのか分からない語が全くないかというとそうでもない。私個人としては、よく使われるにもかかわらず「冗長性」という語が意味するところをなかなか把握できなかった(注3)。他にもガタリやドゥルーズの思想に明るくない人には通じにくいと思われる箇所もいくらか見られた。そのため、具体例に興味を引かれたものの、そのベースになる概念をいまいち理解できないということが読者に起こるおそれもゼロではない。ただ、これはほぼ全ての入門書が担う宿命かもしれない。わからないからこそ、その思想家の原文に戻り、また他の研究書へと進むのだとも言えるだろう。

次いで、ガタリ後期の著作『分裂分析的地図作成法』(1989年)や『カオスモーズ』(1992年)で論じられる四つの存在論的機能素(「流れ」「機械状系統流」「実存的領土」「非物質的宇宙」)についての分析が少ないことが指摘できる。たしかに、序章で簡単に紹介されており、それに際して、ガタリの存在論に細かく踏み込むことはしないとジェノスコは但し書きを付してもいる。しかし、それでもなお、この重要な理論的枠組にはより詳しくふれておいた方がガタリの思想の入門書としては親切だったであろう。

最後に、ガタリの「スキゾ分析」をジェノスコがどれくらい重要視しているかが測りがたいことを挙げる。たしかに、ジェノスコは序章において、スキゾ分析を動的な潜在力に満ちたメタ−モデル化や特異化あるいは主体化に重ね合わせている。したがってスキゾ分析が主観性の生産という本書を貫く主題と密接にかかわっていることは明らかである。しかし、本論ではスキゾ分析やメタ−モデル化についてほとんど明示的には論じられていないこともあいまって、この分析手法が本書のなかで、そしてガタリ自身の思想のなかで結局どのような位置を占めているのかが判然としないままであったのは残念である。

しかし、これらの不足は本書が全体として有する価値に比べればさして重いものではない。やや癖はあるものの、ガタリは「道具箱」として今世紀においてこそ役立つのであって、その可能性と使い方を本書は示している。

1. 付記したように、「主観性」の原語は“subjectivity(英);subjectivité(仏)”である。「主体性」とも訳せるが、ガタリの翻訳およびガタリ研究では「主観性」と訳されるのが通例となっているように思われる(この書評もそれに従う)。その理由については、本書の訳者の一人でもある杉村昌昭が『三つのエコロジー』の訳者あとがきで述べている(「訳者あとがき」『三つのエコロジー』所収、pp. 161–165)。「主体性」と訳すにしても、杉村がそこで指摘しているように、自主性や能動性といった意志的なはたらきに属する事柄を読み込むことを回避し、この“subjectivité(仏);subjectivity(英)”という語が、あくまでそれらの手前の次元、すなわち「主体としての性質・性格・性向」(同書、p. 162)といった中立的な次元を指していることを銘記する必要がある。

2. ジル・ドゥルーズ『ザッヘル=マゾッホ紹介』堀千晶訳、河出文庫、2018年、第7章「法、ユーモア、アイロニー」pp. 123–138を参照されたい。

3. ガタリにおける「冗長性」の内実については、山森裕毅『ジル・ドゥルーズの哲学——超越論的経験論の生成と構造』、人文書院、2013年、pp. 286–287を参照されたい。山森は同書をはじめさまざまな論考でガタリのスキゾ分析について論じている。

参考文献&文献案内

ガタリの著作のうち、とくに重要なものとして挙げられるのは以下の三つである。それぞれ邦訳書を示す。

  • フェリックス・ガタリ『分子革命——欲望社会のミクロ分析』杉村昌昭訳、法政大学出版局、1988年。
  • ——,『闘走機械』杉村昌昭監訳、松籟社、1996年。
  • ——,『三つのエコロジー』杉村昌昭訳、平凡社ライブラリー、2008年。

これらの中では、ガタリが大阪と沖縄で行った講演も加えられている『三つのエコロジー』が値段も手頃で内容もとっつきやすいので最初に手に取るものとして推奨できる。

ドゥルーズとの共著は以下の三つのみである。同じく邦訳書を示す。

  • ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス』上・下巻、宇野邦一訳、河出文庫、2006年。
  • ——,『カフカ——マイナー文学のために』宇野邦一訳、法政大学出版局、2017年。
  • ——,『千のプラトー』上・中・下巻、宇野邦一・小沢秋広ら訳、河出文庫、2010年。

カフカの小説に親しんでいるならば、彼らの提出する概念群をイメージしやすくなるため、ややトリッキーだが『カフカ』から読み始める手もある。上では挙げなかったが、ガタリが単独で書いた『カフカの夢分析』(杉村昌昭訳、水声社、2008年)と合わせて読むと、ガタリとドゥルーズそれぞれの強調点の違いを垣間見ることができる。一例を挙げれば、私の見るところ、主観性へのこだわりはガタリの方が強く、法にかかわる問題へのこだわりはドゥルーズの方が強い。

つづいて日本語で読める二次文献を以下に挙げておく。

  • フランソワ・ドス『ドゥルーズとガタリ 交差的評伝』杉村昌昭訳、河出書房新社、2009年。
  • 門林岳史「ポストメディア時代の身体と情動——フェリックス・ガタリから情動論的展開へ」『岩波講座 現代 第7巻 身体と親密圏の受容』大澤真幸編、岩波書店、2015年。
  • 柿並良祐「特異性の方へ、特異性を発って——ガタリとナンシー」『〈つながり〉の現代思想 社会的紐帯をめぐる哲学・政治・精神分析』松本卓也・山本圭編、明石書店、2018年。
  • マウリツィオ・ラッツァラート『記号と機械——反資本主義新論(新装版)』杉村昌昭・松田正貴訳、共和国、2016年。
  • 増田靖彦「主観性の生産/別の仕方で思考する試み」『二一世紀の哲学をひらく——現代思想の最前線への招待』齋藤元紀・増田靖彦編、ミネルヴァ書房、2016年。
  • 杉村昌昭『分裂共生論——グローバル社会を超えて』人文書院、2005年。
  • 上野俊哉『四つのエコロジー——フェリックス・ガタリの思考』河出書房新社、2016年。
  • 山森裕毅『ジル・ドゥルーズの哲学——超越論的経験論の生成と構造』人文書院、2013年(※ガタリについては補論で論じられている)。
  • 吉沢順「フェリックス・ガタリ『分裂分析的地図作成法』」『精神医学の名著』福本修・斎藤環編、平凡社、2003年。
  • 『現代思想2013年6月号:特集=フェリックス・ガタリ』青土社、2013年。

とりわけ最後に挙げた『現代思想』の特集は、その執筆陣の各々がさまざまな専門領域(哲学、現代思想、精神病理学、社会学、人類学、画家、写真家etc.)に身を置いていることもあり、分野を軽やかに横断する人物であったガタリの特集としてふさわしいものとなっている。まずは自身にとって馴染み深いか、あるいは強く関心をひく主題の論考から読み始めるとよいだろう。

謝辞

本書評の執筆にあたり、DG-Lab(ドゥルーズ・ガタリ・ラボラトリ)の有馬景一郎氏、尾谷奎輔氏、得能想平氏の三名から有益な助言を賜った。ここに感謝の気持ちを表したい。

出版元公式ウェブサイト

法政大学出版局

https://www.h-up.com/books/isbn978-4-588-01080-4.html

評者情報

西川 耕平(にしかわ こうへい)

現在、国際医療福祉大学非常勤講師。専門は20世紀フランス哲学、とりわけドゥルーズの法思想とその関連領域に明るい。主な論文に、「ドゥルーズと制度の理論」(『ドゥルーズの21世紀』所収、河出書房新社、2019年)、「法・権利の創造と主体化——フーコーとドゥルーズにおける」(『倫理学年報』第69集、日本倫理学会、2020年)、「ドゥルーズのカフカ解釈の変遷とその意義——法にまつわる分析を中心に」(『フランス哲学・思想研究』第25号、日仏哲学会、2020年)がある。趣味はスポーツ観戦と洋酒のミニチュアボトル集め。

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