Tokyo Academic Review of Booksonline journal / powered by Yamanami Books / ISSN:2435-5712

2021年6月28日

戸田山和久『科学的実在論を擁護する』

名古屋大学出版会,2015年

評者:藤田翔

Tokyo Academic Review of Books, vol.22 (2021); https://doi.org/10.52509/tarb0022

1. はじめに

科学哲学における邦語文献の中でも、戸田山和久著の『科学的実在論を擁護する』(以下本書と記述)は、とりわけ科学的実在論をテーマとして扱う専門書として特徴的である。科学的実在論とは、科学理論は世界を正しく記述しているのかという問いに、肯定的に答える哲学的な立場であり、特に科学に従事する専門家から見れば、概ね常識的な立場である。本書は現状の科学哲学においては、この科学サイドでは常識的なはずの立場を維持することが、いかに難しいのかを鮮明に記述している。本書が刊行されたのは2015年であるが、現代の科学的実在論論争の輪郭に加え、タイトルの通り、特に1980年代以降の科学的実在論のあるべき立場の模索に照準が置かれている。これは、反実在論という科学的実在論の強力な対抗馬の主張も十分に考慮した上で、いかにして科学的実在論の立場を維持できるのかという著者の挑戦である。

本稿では、本書から得られる科学的実在論のあり方を評価した上で、科学的実在論論争の今後の展望と最近の議論との接続を論じたい。

2. 本書の構成と各章における内容

本書は序章(pp. 1–17)を除き、大きく分けて3部構成となっている。第Ⅰ部(pp. 21–171)では現代の科学哲学の歴史に触れ、本書のメインである科学的実在論の論争のルーツを辿る。これは現代科学哲学の導入とも言える部分で、20世紀前半に科学理論のあり方を哲学的に分析した論理実証主義の台頭から、現在に至るまでの議論の土台がまとめられている。第Ⅱ部(pp. 175–233)では1980年代の反実在論の強力な反論に対して、実在論陣営が一部の妥協も踏まえながら、分割統治戦略として、いかにして自らの立場を擁護していくのかを詳細に記述している。第Ⅲ部(pp. 237–312)ではこれまでの数々の議論を統合し、今後の科学のあり方にも焦点を当てた上で、著者なりの科学的実在論を提示している。

本書は、既に科学哲学の入門書を一通り読んだ読者が、科学的実在論の取り組みをより深く理解するために、読み進めるべき専門書として適している。特に第Ⅰ部は、読者が新科学哲学とも言われる現代の科学哲学の歴史を知るための、科学哲学の教科書としても模範的であり、一般的な入門書と比べても、各々の論者による主張が丁寧に描かれている。

特に本書において特徴的なのは、実在論と敵対する経験主義的な反実在論的立場と、実在論的立場が交互に導入されている点である。第1章では、論理実証主義の科学理論は、専ら実験結果や観測結果のデータを元にした観察文に基づくべきとした、経験主義的な立場(還元的操作主義と消去的道具主義)とその深刻な問題点を詳細に記述している。第2章では実在論的立場が中心となるが、ここでは、「これまでの科学の成功をうまく説明するには、科学理論は(近似的に)真であるべきだ」というヒラリー・パトナムの奇跡論法を導入している。第3章では再び反実在論の展開として、科学が措定する「電子」などの直接観測不可能な理論的対象を巡って、「今は成功しているように見えても、将来は誤りがあると判明する」というラリー・ラウダンの悲観的帰納法を、第4章でのケーススタディと共に、そして第5章では「理論的対象の存在は認めるが、科学理論の目的は経験的十全性であり、観察可能な言明のみ真偽を問うことができる(観察可能でない言明の真偽は問うことができない)」という不可知論に基づいた、ファン=フラーセンに代表される構成的経験主義を持ち出す。さらに第6章ではデュエム・クワインのテーゼとして知られる、「どんな理論的仮説も単独では経験(実験)によって検証することはできない」という決定不全性にも触れている。

悲観的帰納法、構成的経験主義、そして決定不全性といった反実在論的主張の威力を紹介しながらも、各章において、その陰に潜む個々の問題点に照準を当てていることも本書の特徴である。たとえば悲観的帰納法に対する考察として、具体的なケーススタディを丸々扱っている第4章において、過去の「成功していたが、ラディカルに間違っていた理論」の代表例とされる熱素説の議論がある。そこでは、熱素という理論的対象の指定自体が、熱素説の理論そのものに対してさほどクリティカルではなかったという、実在論者スタディス・シロスの指摘を挙げている(pp. 108–109)。これは、たとえ理論そのものが後世で修正されたとしても、理論の真に成功していた部分は新たな理論へと受け継がれるという、実在論の前向きな姿勢を主張している重要な箇所である。この辺りの展開は、反実在論の強力な反論が強調されがちな一般的な科学哲学の文献と比較して、実在論を擁護するという本書の独特の流れを期待させる。

そして第Ⅱ部において、1980年代以降の種々の形態を持つ科学的実在論に触れている点が、本書の斬新な点である。種々の形態とは、対象実在論、構造実在論、そして半実在論の3つの立場である。特に構造実在論と半実在論に関しては、本書は極めて貴重な解説書の役割も果たしている。各々の立場が丸々章ごと(第7〜9章)にまとめられており、上記した悲観的帰納法や、構成的経験主義といった反実在論の主張を省みた上で、実在論陣営がどのように自らの立場を洗練させていったのかという過程を、本書を通してしっかりと追うことができる。そして、これらの立場がそれぞれどういった観点で実在の意味を捉えているのかという、著者の考察が各章に詰まっている。

ここで、3つの立場を簡単に紹介しておきたい。第7章の対象実在論とは、「電子」等の理論的対象は、それを記述する理論自体に誤りや改善の余地があったとしても様々な実験結果に共通する原因であること、さらにそれらは「電子銃」等のように、技術的に操作できるという点も踏まえると、実在しているという立場である。第8章の構造実在論はむしろその逆で、科学理論が措定している対象に関しては、時代ごとに相対的だとしつつも、それを記述する理論の数式的構造にこそ連続性や実在の本質があるという立場である。そしてこれらの考え方を半ば統合したのが、第9章で扱われるアンジャン・チャクラバティによる半実在論であり、この立場は理論の抽象性を重視しながらも、実験結果による検出性質や因果性といった、この世界との繋がりを含むものを実在の候補としているのである。すなわち本書は、対象実在論や構造実在論を洗練させることで、半実在論へと収束させたという流れを取っている。

第Ⅲ部では第Ⅰ、Ⅱ部での締め括りとして、これまでの論争を振り返った上で、科学理論の言語的な体系以上に、モデルによる意味論的な側面を強調することで、新たな実在論の可能性を示唆している。具体的には第Ⅱ部における半実在論の考え方を、構成的経験主義の実在論版である、構成的実在論という意味論的な解釈で表現している。この取り組みこそが本書の切り口であるが、著者が新たな実在論の形態を提唱するというよりは、既に挙がっている先行研究のアイデアを統合したものであるために、これが果たして著者のオリジナルの立場と言えるのかどうかは難しいところではある。しかし個々の事例に収まらず、あくまで一般論としての科学的実在論の論争の詳細な見取り図を提示した上で、最後に擁護に値する実在論の輪郭を根拠付けていることは、やはり著者ならではの帰結と言えよう。

本書が最終的に擁護する構成的実在論は、観点主義的な最小の実在論である。第10章では、科学をかたどっているのは理論文の集まりである公理系ではなく、モデルによる意味論的な表象であると帰結している。これにより第11章において、科学の究極の目的は世界の真理の完全な描写ではなく、世界の実在的部分と何らかの重要な点で似ているモデルを作ることであるという、ロナルド・ギャリーによる観点主義的な構成的実在論を促している。そして第12章において、実在するのは観点依存的な多数のモデルが表象する、世界の何らかの局面であるという結論へと誘う。検出性質の構造に基づく因果的な対象や、各モデルに共通する数学的構造は、どちらもそうした局面の一つである。これは世界の表象が、それを生み出す我々の認知リソースからの何らかの制限を余儀なくされるために、ものや性質、そして因果といった、本書で日常的形而上学と呼ばれるものと不可分であることも含意している。この弱められた最小の実在論こそが、世界の実在システムの確実な累積的な理解に繋がる、メタファーも備えた上での現代のあるべき科学的実在論であると説かれている。

3. 本書のケーススタディの特徴

ところで本書は、科学という営みの解説の役割も果たしている。序章の冒頭に記述してある通り、本書の目的は科学的実在論論争の実態の解明であり、さらにそれが近代科学の起源や展開にも重要であることの顕示でもある。本書評の1でも述べた通り、科学的実在論を擁護することは現状では困難であるが、この擁護は単なる哲学的な考察に留まらず、科学という全体像を把握する上でも意義のある取り組みなのだ。そのことを示しているのが、本書で扱われているケーススタディであり、物理学から化学、生物学、そして認知科学と、様々な事例が列挙されている。とりわけ物理学の事例は多いが、科学哲学的な考察が科学の実践そのものにおいても伝わっているということである。要は、本書が掲げている「とどのつまり、科学的知識は信頼できるのか?」といった問いを具体的にイメージできるのが本書の強みである。

本書の特にケーススタディと関わる部分を読めば、理論的対象がいかに粘り強い存在であるのかがよくわかる。実際に、各々のケーススタディを読んだ際に、該当分野の専門家がどのような教示を得るのかということも興味深いが、物理学を元々の専門とする本稿の著者の見解は次の通りである。たとえば第6章で挙げられているような、不可視だが、空間中を満たすと信じられてきたエーテルという理論的対象の仮説が、単なる経験的な事実(例えばマイケルソン=モーリーの地球の自転効果に伴う光の速度を検出する実験)によってのみ完全に否定されたわけではないという、決定不全性の事例に関する考察(pp. 153–154)は示唆に富んでいる。これは、少なくとも実験などでは検出され得ない理論的対象の性質や役割は、様々に変化し理論変化を生き延びる可能性をも含意している。この辺りは科学史的にも興味深い事例であろう。

ただし、同一の事例に関して統一性に欠けた記述も見受けられる。上記のエーテルは、19世紀後半までは光の媒質と考えられていたのである。構造実在論を扱う第8章では、提唱者であるジョン・ウォラルの論文に基づいて、光の正体はエーテルではなく電磁場であり、電磁波の発見によって、端的にエーテルという理論的対象は放棄されたという主張が前提とされている(p.194)。これは理論変化を経る中で、仮定されていた対象自体というよりは、理論の数式的な構造の方が生き延びるのではないのかという構造実在論の指摘である。しかし、上記の決定不全性の事例で挙げたエーテルの件は、ローレンツ=フィッツジェラルド短縮といった、電磁波の発見よりも歴史的には後のエーテル仮説も含んでいる。このことは、従来のエーテルが電磁場理論に取って替わられてからも、エーテルという対象は未だに科学理論に鳴りを潜めていたことを示している。すなわち、エーテルは電磁場理論によって完全に消滅したわけではなく、その後も科学史の中に対象として粘り強く残っていたということである。

対象は仮に、理論変化が起こっても単純に科学から姿を消すわけではなく、さらには構造という言葉の指示対象も曖昧なままである。電磁場に代表される場という概念に関しても、それが占めるとされる空間との関わり合いにおいて、その存在論的な身分の考察は多岐に渡っている(Cao 1997)。電磁場はエーテルの振動だという解釈もあるために、光の伝搬という日常的な現象は、空間、電磁場、エーテルの関係を巡って複雑な解釈をいくつも生み出していたのだろう。もし本書がこの点に言及することができていれば、対象と構造の二分法の曖昧性や恣意性をより強調する一方で、理論変化において何が保存されていくのかという、より本質的な描像のイメージを読者に植え付けられたのではないかと感じるところである。

4. 各々の立場の行き着く先…

本節では、本書では触れられていない科学的実在論の議論も参考にして、科学的実在論論争全体における、本書の解釈の位置付けを行いたい。なぜなら分割統治戦略は、本書においては1つの解へと向かったが、必ずしも単線的な議論に収束するわけではないからだ。実在論陣営の様々な妥協は、自らの立場の生き残る方針を定めている。特に構造実在論の主張する構造の普遍性は、かつての普遍論争をも巻き込む形で、数学の哲学や形而上学とも密接に関わっている。

4-1 抽象的と具体(因果)的のジレンマ

実在論者の課題は、どのレベルで実在を捉えるかである。科学理論が数学的に定式化されたものであるという前提を取れば、その数学的な定式化によって個々の現象は包括され、一般化あるいは抽象化されていくことは間違いない。というよりこの作業自体が科学の営みであろう。その際に理論は、比較的に現象に近い性質からより抽象的な(構造的な)性質まで、一種の階層を持つことになる。そして、もし現象レベルでの具体的な性質を捉えるセンスデータのみを実在と見ると、肝心の理論まで発展できない恐れがあり、逆に普遍的な高階の性質の関係(基本法則の方程式や関係式の形など)にコミットし過ぎると、今度は現象からは遠く離れてしまうので、果たして経験科学の領域を扱っているのかという、一種のジレンマに陥るのである。

このジレンマを克服するために、抽象的な構造を持ち出しながらも、それでいて具体的対象の内的性質にも十分に言及できるような、具体的(因果的)性質に関わる部分を実在として認める方法が展開されている。これこそがチャクラバティの半実在論の考え方であり、対象実在論の因果的な側面、そして構造実在論の検出性質の構造に着目することで、従来の議論が調停されたのだ(pp. 215–233)。これは、実在の意味をより限定するという部分的な実在論的戦略なのである。すなわち、世界との相互作用という点で、因果的な検出性質の構造が理論変化の後も生き残るという主張であり、先に挙げたエーテルと電磁場の違いは、あくまで光の強さや伝搬方向といった、光の内的性質を説明するために持ち出された補助的性質の内容に過ぎず、生き残ることが出来ないということである。要するに対象と構造ではなく、検出性質とそれ以外の補助的性質の二分こそが本質的な区分で、補助的性質は検出性質と異なり、理論と共に移り変わる可能性が高く、実在しているとは言い難いということだ。

この「世界の実在を表しているのは、理論の部分的構造である」というチャクラバティの半実在論の立場は、著者によって第Ⅲ部でそのままギャリーの観点主義的な構成的実在論へと昇華されていく(第12章)。科学者が行なっているのは、世界の完全なレプリカを作ることではなく、各々の側面や目的に応じて捉えられる、この最小の実在に関する理解を累積進歩させていくことであるとしている(pp. 295–296, p.306)。しかし、各々の実在論者が必ずしもこの具体的な構造へと向かっているわけではないことは留意したい点である。以下に主にシロスの後の文献を取り上げながら、本書を離れた考察も交えて展開したい。

4-2 科学的実在論は普遍者にコミットすべきか?

シロスは自身の著書において、科学はモデルによって、抽象的な存在者に言及していると述べている(Psillos 2011a)。シロスは、本書でも何度も取り上げられている科学的実在論者の代表格であり、分割統治戦略という表現の生みの親でもある(本書p. 94)。これは、科学理論の意味論的捉え方として、モデルこそが理論そのものであるという見方である。すなわち科学理論とはモデルの集まりであり、状況に応じて理想化、抽象化された世界の部分的表象なのである(本書pp. 282–283)。ということは、モデルの中に登場する物体や対象は、実在する世界の存在者ではなく、あくまでそれらと同型性といった類似関係を持つレプリカの一部なのである。言い換えるならば、理論的対象はモデルの中にこそ存在しており、科学的実在論は、これらの抽象的存在者についての実在を記述しているのである。

このモデル中心的科学観は、4-1で述べたように、本書が最小の実在を擁護する上でも重要な通過点なのだが、シロス自身はモデルが捉える世界の実在を強調しながらも、モデル自体の実在へと向かっている点に大きな特徴がある(Psillos 2010: 2011a)。シロスは理論的対象が、この物理的世界に存在する個々の具体的な対象ではなく、それらによって例化される(一般化される)普遍者として存在していると解釈している。この辺りが形而上学において、普遍者(性質)の実在をめぐってなされた普遍論争のテーマと密接に関わるところであり、科学哲学の実在論論争が形而上学の実在論論争と大いに通じ合う点である。

特に、シロスは本書が意義を重視した因果性による科学的説明を捨て去ることで、モデルの実在を正当化している点に着目したい(Psillos 2010, pp. 956–957)。シロスによれば、法則による一般化を認めることは、理論的対象が普遍者であることを認めることであり、ゆえに理論的対象は「抽象的な物理的対象」と呼ばれる。これは理論的対象を、数や集合といった純粋な数学的対象と区別するための表現でもあり、たとえば質量や電荷といった物理的性質を帰属することができるかどうかで、両者が区別されている(Psillos 2010, pp. 950–951)。このカテゴリー分けは、理論に登場する数学的な構造に重きを置きながらも、単なる数学的対象としてではなく、物理的性質を備えた対象として、抽象的な存在者の実在を認めるための新たな解釈でもある。

この解釈は、より広義に言えば経験科学において、数学的対象の身分を題材とした不可欠性論法という議論とも関わっている(Quine 1960)。不可欠性論法とは、本書でも取り上げられているクワイン等によって議論されていた、「抽象的存在者の身分」に関する考察である。この考察は、理論が述べている内容が文字通りに真であれば、それを記述している数学的な体系がコミットする抽象的存在者は実在しているのではないのかという問い掛けに基づいている。数や集合などの数学的対象が実在するという実在論に対しては、それらの対象がたとえ科学理論にとって絶対的に不可欠な要素であったとしても、その不可欠性を主張することと、実在を認めることとは別の話であるとして、そういった対象を全く認めない立場もある(Field 1980)。これと同様に、モデル内の抽象的存在者に関しても、それらは実際に存在する物理的(具体的)存在者を指示するための道具に過ぎないという、消去主義的な唯名論的立場等が挙げられる(Balaguer 1998; Leng 2005)。

モデルが虚構に過ぎないのか、それとも実在しているのかという議論は、科学哲学の文脈に留まらず、数学の哲学、形而上学の分野でも取り上げられている(例えばFrigg 2010等)。この抽象的存在者が実在するのかという問題は最早、我々の生きている時空的な物理世界に何が存在するのかという科学的実在論の問いを、より多彩な実在論の問いに拡張しているとも受け取れる。

4-3 実在の基準とは?

これらの背景を考えると、因果的な要素はあくまで具体的な世界に実在の基盤を求める一つの基準に過ぎないことが見て取れる。対象実在論、構造実在論、そして半実在論、構成的実在論と、確かに本書はシロスの分割統治戦略に沿って、科学的実在論の課題や反省点を繋ぐ形で最小の実在論に行き着いている。この最小の実在論においては、ますます抽象的になる科学理論と具体的な世界との結び付きが、因果性という我々の認識基盤の一つに基づいている。この認識基盤とは、我々が世界を解釈する際に用いる認知リソースであり、それは対象や構造、そして因果性といった日常的なカテゴリーを生み出す「日常的形而上学」なる枠組みを作っている。この認知ソースは我々がモデルを理解する際の制約になり、時には量子力学のように、モデルの解釈に合わせて枠組み自体が変更を迫られることもあるが、モデルはこの自然な枠組みとセットで、初めて世界の観点的な解釈へと繋がっていくのである(本書pp. 302–303)。しかし、シロス自身は科学的説明という点で、この因果構造を他の構造と比べて優遇することには懐疑的であったのではないだろうか。

シロス自身がモデルによる普遍者の実在を説く際に、因果性の不必要性は強調されているが(Psillos 2010, p. 957)、本書においても、その点は正当化に関する疑問として一部挙げられている。それはチャクラバティの半実在論を形成する、形而上学としての科学的実在論と、実在論のための形而上学の二階建て構造に関するシロスの批判として登場している(本書p.304)。これは前者に関して、因果的に検出可能な一階の性質を実在に絡む重要な部分と見做して、その他の(説明のための高階の抽象的な)補助的性質と区別する一方で、後者に関しては因果やディスポジション(傾向性)などの検出不可能な概念を用いて、それらの区別を行っているという批判である。言わば一階と二階で異なる基準を使い分けているということである。これは、因果性による実在の基準を他の説明手段と比較して正当化することへの疑惑とも見て取れる。

この手の正当化における批判は哲学ではありがちな手法であり、用いる方法論の矛盾として捉えることもできるが、本書ではこの批判を割とあっさりとかわしている。その方法として、本書は二階建て構造のうち、一階部分である形而上学としての科学的実在論と、二階部分である実在論のための形而上学とが同じ仕方で正当化されなければならないという前提に異議を唱えている(pp. 304–305)。そもそも後者は、実在論の議論の中で白黒付けられるような類のものではなく、「日常的にこれまでずっと使ってきて、これからもおそらく使い続けるという事実によって正当化される」(p. 304)べき日常的形而上学という枠組みなのである。この枠組みは、そもそも正当化されるべきものなのかどうかも曖昧なのだ。

この日常的形而上学の特権は、本書の結びとしては意義ある帰結であるが、いささか強すぎるようにも感じる。実際にシロスは、実在論は本書で言うところの枠組みによって決まるものだとも述べているが(Psillos 2011b)、これは何も日常的形而上学的枠組みを絶対視しているわけではない。逆に枠組みさえ変えれば、実在の在り方も変わるというフレキシブルなものであり、本書でも紹介されているカルナップの中立主義的な立場(本書pp. 37-38)にも言及している。量子力学の例でも述べたことだが、言語的枠組みだけに留まらず、モデルの枠組みを決めることが、存在論的カテゴリー自体を決めることであると、改めて念頭に入れておきたい。

つまり、現在の因果性に実在の基準を求める最小の実在論は、あくまで現時点での枠組みにおける最善の立場であり、もしこれ以上に説明力を持つ枠組みがあるならば、実在には新たな基準が生まれるかもしれない。著者がその可能性を考慮していないわけではないだろうが、科学的実在論の向かうべき矛先を考えるならば、シロスの抽象的存在者に訴えた議論にも触れるべきだったのではないだろうか?

4-4 モデルによる説明力と抽象的存在者の威力

本書の擁護する観点主義的な実在論の考え方、すなわち「科学の目的は真である究極の理論を作ることではない」という形而上学的な発想は、モデルにおける抽象的な存在者の解釈とも幾分似通っている。実際に実験結果などの実践的事実を見ても、そこから導かれる理論的事実は無数にあり、同様に一つの理論的事実に対応する実践的事実も一つとは限らないという、言わば理論と世界との無数の対応関係が挙げられている(Psillos 2011a, pp. 12–13)。現代の議論から見れば少し時代が古くなるが、例えばデュエムにとっては、適当な理想化や抽象化のもとで、実践的事実と理論的事実が重要な点で近似的に合致していれば、理論は成立する。ゆえに数学的対象などの抽象的対象は、単なる現象の説明のための道具に過ぎないということになる(Duhem 1906)。しかし、この理論的事実群を単なる模式のプロセスではなく、産物(product)として改めて解釈することで、抽象的対象の有用性を実在の基準と認めるクワイン的な観点を取れば、モデルの実在は十分に擁護できる(Psillos 2011a p.14)。

そしてこの理論的事実の飽和は、意味は違えども、基礎的な数学的体系が異なる別々の構造によって表象されるという、現代の量子力学の構造実在論的解釈とも整合的であり(French 2011, p. 219)、抽象的な存在者の部分的な側面が全体で一つの実在を示しているという点では、ギャリーの観点主義とも整合的である。すなわち本書の流れのように、チャクラバティの因果性を拠り所とした、半実在論を土台とした観点主義を取り込まなくても、科学的実在論は十分に擁護できる。

シロスの主張するモデルの実在を認めた科学的実在論は、抽象的な存在者に存在論的身分を割り当てることで、今後の科学理論の方向性を示唆しているとも読み取れる。現代物理学の理論的対象は、ヒルベルト空間や群といった、それ自体で数学的な構造を備えた領域の中でこそ意味を持つ。量子論における位相空間を運動する光子や、ループ量子重力理論における量子的な時空を構成するスピンネットワークといった、旧来での具体的な(経験的な)時空的領域を逸脱した理論も現代物理学には登場している。ゆえに特に物理学においては、現象に近いという意味での、対象やそれらの内的性質に実在の威力を求める常識的なアプローチよりも、高階の普遍的構造や性質にこそ理論の重要性や実在を求めるアプローチの方が、理にかなっているのかもしれない。

5. おわりに

本書評の結論は、本書は科学的実在論を擁護する上で、一つの重要な一貫した帰結を与えてくれるが、あくまで一つの基準に過ぎないのではないかということである。実際に、本書が帰結したモデルによる観点主義的な実在は、構造実在論や構成的実在論とも単独で通じる部分があり、結局は科学哲学の文脈で実在論を論じるためには、網の目が絡まったような、非常に複雑な存在論を構成することになる。モデルにおける抽象的存在者の実在に関しては、本書評の4でシロスの科学的実在論を導入したが、これもあくまで因果性のみに捉われない一種のあり方ということに過ぎず、実際にこの抽象的存在者が世界のどこに実在しているのかということに関しては、まだまだ曖昧な部分もある(Slowik 2015, p. 403)。ゆえに科学的実在論の唯名論的な解釈も未だ生き残っており、科学的実在論は実在論と唯名論の狭間にあるとも言えよう。

哲学の問いは絶えず繰り返されている。「この世界に何があるのか」という新科学哲学での議論が、「普遍者が存在するのか」といった、かつての普遍論争での議論へと拡張するように、実在論はたとえ分野がどれだけ細分化されたとしても、すなわち科学的という接頭語の有無に関わらず、普遍的な哲学のテーマなのである。

参考文献

  • Balaguer, M. (1998) Platonism and Anti-Platonism in Mathematics. New York: Oxford University Press.
  • Cao T. Y. (1997) Conceptual Developments of 20th Century Field Theories. Cambridge: Cambridge University Press.
  • Duhem, P. (1906) The Aim and Structure of Physical Theory. (translated from the French by Wiener, P. 1954) Princeton: Princeton University Press.
  • Field, H. (1980) Science without Numbers. Princeton: Princeton University Press.
  • French, S. (2011) Metaphysical Underdetermination: Why Worry? Synthese, Volume 180, No. 2, pp. 205–221.
  • Frigg, R. (2010) Models and Fiction. Synthese. Volume 172, No. 2, pp.251–268.
  • Leng, M. (2005) Platonism and Anti-Platonism: Why Worry? International Studies in the Philosophy of Science, Volume 19, No. 1 pp. 65–84.
  • Psillos, S. (2010) Scientific Realism: Between Platonism and Nominalism. Philosophy of Science, Volume 77, No. 5, pp. 947–958.
  • Psillos, S. (2011a) Living with the Abstract: Realism and Models. Synthese, Volume 180, No. 1, pp. 3–17.
  • Psillos, S. (2011b) Choosing the Realist Framework. Synthese, Volume 180, No. 2, pp. 301–316.
  • Quine W. V. O. (1960) Word and Object. Cambridge, MA: MIT Press.
  • Slowik, E. (2015) The ‘Space’ at the Intersection of Platonism and Nominalism Journal for General Philosophy of Science, Volume 46, Issue 2, pp. 393–408.
  • 戸田山和久(2015)『科学的実在論を擁護する』名古屋大学出版会

謝辞

本書評を執筆するにいたって、内容も含めて文章の表現や形式などを非常に細かく見て頂き、なおかつ有意義なコメントを下さった小山虎氏をはじめ、草稿の校正を引き受けて頂いた評議員の方に改めて感謝の意を表したい。

出版元公式ウェブサイト

名古屋大学出版会

https://www.unp.or.jp/ISBN/ISBN978-4-8158-0801-3.html

評者情報

藤田 翔(ふじた しょう)

現在、名古屋大学所属。専門は科学哲学・物理学の哲学で、特に現代物理学の時空理論をテーマにした哲学について研究している。主な論文・著作に、(a)「ビッグバン宇宙論における時空の構造実在論的解釈 : 空間は膨張しているのか?」(『科学基礎論研究』第44巻(1・2号) pp.1-14, 2017年),(b)「構造的解釈から見た時空の創発:どうして時空原子は時空ではないのか?」(『科学基礎論研究』第48巻(1号) pp.1-19, 2020年), (c)『時空論における哲学の逆襲(仮)』(日本の研究者出版, 近刊)がある。中でも(b)は本書(戸田山著)の8章の締め(p.213)でも引用されている、物理学理論の「構造レベルでの非連続性」の解釈に関して異議を唱えたものであり、本書の内容とも関わり深い。趣味は人気バンド・いきものがかりのライブの追っかけや歴史巡り全般、誕生日占いやお菓子作りなど。

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