Tokyo Academic Review of Booksonline journal / powered by Yamanami Books / ISSN:2435-5712

2021年6月30日

宮園健吾・大谷弘・乘立雄輝編『因果・動物・所有:一ノ瀬哲学をめぐる対話』

武蔵野大学出版会,2020年

評者:萬屋 博喜

Tokyo Academic Review of Books, vol.23 (2021); https://doi.org/10.52509/tarb0023

『因果・動物・所有:一ノ瀬哲学をめぐる対話』(以下、本書)は、英米圏の哲学・倫理学を中心に精力的な研究を続けている、一ノ瀬正樹(現・武蔵野大学教授)の思考をめぐって編まれた論文集である。本書は、三人の編者によるイントロダクション、一ノ瀬哲学を批判的に検討した14編の論文、そして一ノ瀬による各論文への応答から構成されている。本書評では、本書全体を要約した上で、内容に関する若干のコメントを述べることにしたい1

要約

戸田山和久の「人格知識論の批判的検討」は、一ノ瀬の『人格知識論の生成―ジョン・ロックの瞬間』(以下、『生成』)に対する内在的批判を展開している。戸田山によれば、一ノ瀬の人格知識論は、知識の持続的側面ではなく瞬間的側面を強調しつつ、知識が①努力探究、②同意決定、③環境や制度への暗黙の同意という行為によって成立するものだと主張する見解である(27-8)。

戸田山は、一ノ瀬の人格知識論を次のように評価している。まず、人格知識論が提示する人格観は「人格の成長の受動性と能動性をうまく捉えている」(47)。また、人格知識論の知識観は、従来の認識論では扱うことが難しかった知的所有権や知識の倫理的側面についても直接的に論じることができるという利点をもつ(47-8)。

しかし、一ノ瀬が人格知識論を導くために採用した「概念の融合」(51)という方法論には疑問符がつく。戸田山によれば、それは「概念Aと概念Bはその一部が共通の事態を指している、あるいはある点で似ているということから、AはすなわちBなのだという」(51)方法論である。戸田山は、こうした方法論をどう評価して良いかわからないという疑問を一ノ瀬に投げかけている。

一ノ瀬の応答は、『生成』で提示した議論の目的を確認することからはじまっている。一ノ瀬によれば、『生成』の目的は、人格知識の復権というよりも人格知識と没人格知識が音楽の相の下に把握されることを目指した著作である。このことは、「没人格知識・楽譜的知識は、人格知識・演奏的知識と不断に相互反転をしていくのであり、その意味で、そうしたメタ的なありようにおいても、演奏的形態として、高次のリズムを刻んでいっている」(363)という印象的な文言で表現されている。

野村智清の「絵画化された認識論に抗して」は、一ノ瀬の人格知識論と音楽主義の関係について論じている。野村は「人格知識論を採れば、哲学という営みと哲学史研究は不即不離である。……このことを人格知識論やその変奏である音楽化された認識論に適用すれば、両者はロック哲学と不即不離の関係にある」(72)という点を指摘した上で、一ノ瀬が提案する音楽主義からは距離をとる。野村によれば、音楽主義とは「言葉が音声であることを梃として、言葉によって形成される知識や認識を文字どおり音楽として捉えることを推奨する」(63)立場である。野村は、ロックのテキストから「知識の絵画化」(71)という構想を析出することで、人格知識論が必ずしも音楽主義とセットで捉えられる必要はない、と論じている。

一ノ瀬の応答は、音楽化された認識論が「視覚的・絵画的な情報をも包括」(376)しており、「「絵画化された認識論」と「音楽化された認識論」は排反するものではない」(377)という示唆にとどまっている。なお、一ノ瀬自身も自覚していることだが、音楽主義は知識や認識の捉え方として興味深い一方で、意味や論理をどう説明するかという困難な課題に直面することになる(376)。

宮園健吾の「二人称的観点の認識論?」は、スティーヴン・ダーウォルが実践的な二人称性と対置させた「認識的な二人称性」という構想が一ノ瀬の認識論に潜在していることを指摘しつつ、「もし実践的な二人称性に関するダーウォルのアイディアが擁護可能であるならば、認識的な二人称性というアイディアも同様に擁護可能であるかどうか」(79)という問いに対し、「然り」と答えようとする試みである。

宮園によれば、ダーウォルは行為に関する実践的二人称性を強調する一方で、信念に関する認識的二人称性を認めることには懐疑的である(77)。こうした議論に対して、宮園は「証言の場面ではなく不一致の場面、とりわけ、一ノ瀬認識論における決定論者のケースのような、二人称的な不一致の場面においてこそ、認識的な二人称性というアイディアがとりわけ強い説得力を持つ」(93)と述べる。このように一ノ瀬の議論を肯定的に評価しつつも、宮園は「「第三者」と「三人称」は実際には分離可能であるにもかかわらず、一ノ瀬はその点を見誤ったがゆえに、人格知識論の「第三者性」から、誤って、その「三人称」性を結論してしまった」(88)という問題点があることも同時に指摘している。

一ノ瀬の応答は、人格知識と没人格知識が「相互的に反転し続けるもの」(378)だという点を確認することからはじまる。この論点は戸田山への応答でも強調されていたが、宮園への応答ではさらに一歩踏み込んだ主張が提示されている。「人格知識の様態の中に、人と人との相互反応性が内在しているとするなら、人格知識と没人格知識の関係には、つまりは二人称的視点と三人称的視点との間には、いわば「メタ相互反応性」が内包されているのである」(378)。なお、一ノ瀬の言う「メタ相互反応性」は彼の哲学を特徴づける重要なキーワードだが、その内実については後ほどコメントを加えることにしたい。

鈴木聡の「「規範性・確率およびメタ曖昧性」についての覚書」は、規範性と記述性に度合の概念を導入する一ノ瀬の議論に対して、いくつかの提案と疑問を提示している。まず、鈴木は規範性の度合を「$DN(A):= \frac{1}{n} \sum_{i=1}^{n} SS_{i}(A)\times PS_{i}(A)$」(104)と定義し、記述性の度合を「$DD(A):= \frac{1}{n} \sum_{i=1}^{n} P_{i}(PrA \mbox{は変化不可能である} \mid A \mbox{は}PrA \mbox{と異なる})$」(105)と定義する2。その上で、規範性の度合に関わる論点として、「処罰の主観的厳しさ」(104)が個人内もしくは個人間で比較できるのかどうかという疑問を提示する(104)。さらに、記述性の度合に関わる論点として、記述性の度合の定義に現れる$PrA$がそもそも定義できるのかという疑問を投げかけている(107)。

規範性の度合について鈴木が提示した疑問に対し、一ノ瀬は鈴木の言う「主観的厳しさ」が客観的に比較あるいは測定できないことを率直に認めている。ただし、「社会で一般的に通用する規範性として確立させたいときは、アンケートなどのデータに基づいて「過酷度」のスケールを政治的に確定させるしかない」(371-2)とも主張されている。

また、記述性の度合について鈴木が提示した疑問に対し、一ノ瀬は、記述性に関する自らの定義が「あくまで「ある文Aがそれに対応する現象PrAと異なる」ことを前提にした、つまり、そうした異なりを仮に想定した定義であって、「ある文Aがそれに対応する現象PrAと異ならない」場合は考慮していない」(372)3ため、「鈴木論文の記述性度についての疑念は、私の記述性度の概念から外れてしまっている」(372)と応答している。

吉満明弘の「条件文の分類と意味論」は、条件文に関する現代の議論と比較しながら、一ノ瀬哲学における条件文の議論を体系的に整理している。吉満は、ジョナサン・ベネットの研究を参照しつつ、条件文をコーナーとストレートに区別する(115)。例えば、前者は「セリウンティウスがメロスを殴らなかったなら、他の誰かが殴っただろう」(A$\rightarrow$B)という種類の条件文であり、後者は「もしもセリウンティウスがメロスを殴らなかったならば、他の誰かが殴っただろう」(A>B)という種類の条件文である4

以上の区別をふまえて、吉満は二つの疑問を提示している。第一に、「唯一のコーナーである「p-自由に関する条件文」に、「程度」を読み込むことが困難になり、その際、「自由の程度説」とどう折り合いをつけるのか?」(131)という疑問である。吉満によれば、一ノ瀬における「p-自由」とは、「「あのとき彼は自由に選択した」といった過去時制における自由(過去視点的・回顧的自由)」(128)であり、「もしその特定の行為時にその気になったなら、あなたは別の仕方でも行為できたはずだろう」(128)というコーナー条件文として理解できる。しかし、こうした条件文に程度を認めると、「p-自由に関する条件文の意味論はコーナーであるために、程度を読み込むことが困難になるだろう」(132)。ただし、この疑問に対して吉満は、一ノ瀬哲学の内部に「p-自由に関する条件文に対して、その[主観的]確率を測ることで程度を読み込むことができ、「自由の程度説」と折り合いをつける目途が立つ」(132-3)というように、解決の糸口を見出している。

第二に、p-自由に関する条件文の意味論を主観確率の測定によって説明する場合、「TR〔筆者補足:Triviality Resultの略称〕を避けることができるのか?」(133)という疑問である。吉満によれば、TRとは、「条件文の確率は、前件が与えられた場合の後件の条件つき確率と常に等しいわけではない」(135)というデイヴィッド・ルイスが示した定理である。

一ノ瀬の応答は、条件文に対する意味論的アプローチではなく言語行為論的アプローチを採用することで、従来とは異なる知識の因果説を提唱しようとしている、というものである(371)。こうした応答は、吉満の疑問に対する直接的な回答というよりも、むしろ吉満とは異なる観点から条件文を分析する道を示唆するものだと言えるだろう。

乘立雄輝の「起源を問う思考をめぐって」は、「因果的超越」(144)という一ノ瀬独自の概念が、「「なぜ、何もないのではなくて、何かがあるのか?」という問いの「困難さ」を正しく示すためにこそ、導入されねばならない」(154)という提案を行っている。乘立によれば、一ノ瀬による因果的超越の特徴づけは時期によって揺れがあり、初期の著作ではどちらかと言えば哲学的探究の対象として肯定的にとらえられていたが、最近の著作では克服されるべきものとして否定的にとらえられている(144-9)。しかし、乘立の解釈では、因果的超越は「〔「なぜ、何もないのではなくて、何かがあるのか?」という〕問いに対して新しい局面を開くのは、「原因」の無限後退ではなく、垂直方向の「因果理解」という認識過程そのものの階梯が無限発散するという事態を明らかにしてくれる」(154)ことに意義がある。

一ノ瀬は、乘立の議論が自分では意識していなかった論点を明確化するものであったことを断った上で、因果的超越をめぐる自らの「願望」(374)の変遷を述べることで応答を試みている。「自分自身が必ずしも意識できていなかった内面の経緯」(374)を語るという一ノ瀬の応答は、乘立による診断に呼応したものだと言えるかもしれない。

中真生の「「死の所有」と生のリアリティ」は、「死の所有」(161)という一ノ瀬の見解を批判的に検討した上で、そうした見解とは異なる観点から「死の際に浮き彫りになるその人の生のリアリティに焦点を当てる見方」(161)を提示している。中によれば、「一ノ瀬の議論の特徴の一つは、論理のレベルと、本人を含む人々の実感のレベルとの両方を参照しつつ考え進めるところである」(163)が、両者のレベルの間に「時折齟齬がある」(163)と思われるという。

中は、死の所有をめぐる一ノ瀬の議論が、「死が差し出される」(178)という実感を出発点とすることには異論を挟まない。例えば、親族の誰かが亡くなったとき、その人の死が差し出されたと感じられることはありうる。しかし、そうした実感は、所有の概念に訴えずとも説明できるように思われる。「死の際に差し出されるのは、死の所有ではなく、死によって「最終版」となって浮かび上がる、その人の生のリアリティなのではないか」(182)。中によれば、誰かの死の際に差し出されるのは生のリアリティであって、所有された死ではないのである。

一ノ瀬は、所有の概念に対して中が抱く違和感を共有しつつも、以下のように応答している。まず、一ノ瀬は「「所有」という事態をかなり緩く捉えている」(383)。例えば、誰かの無事を願うとき、そうした願いを抱くことも所有の一種として理解される。また、一ノ瀬によれば、生のリアリティは、誰かの死の際に差し出されるというよりも「消失」(383)すると言った方が正確である。なぜなら、「死者はすでに生きておらず、その「生」はどこにもないからである」(383)。

次田瞬「クアエリ原理と野放図因果――一ノ瀬因果論についての一考察」は、一ノ瀬が『英米哲学入門』で提示した「クアエリ原理」(196)、ならびに「野放図因果の問題をめぐる一ノ瀬の議論」(196)を検討している。

次田によれば、クアエリ原理は、われわれが何らかの逸脱的出来事eについて「なぜeなのか」と問い、それに対する「cだから」という答えが適切であるとき、かつそのときに限り、cとeが因果関係に立つという原理である(196-7)。しかし、クアエリ原理は、逸脱していない自明の出来事の間には因果関係が存在しない、という受け入れがたい帰結を招く(197)。そこで次田は、クアエリ原理の仮定法的解釈を提案する。「通常ならざることだとは思っていない自明の出来事であっても、「「なぜだ」という疑問をもしも仮に発したならば、しかじかの答えを与えるだろう」という仮定法の条件文は成り立つ」(198)。

また、次田は野放図因果の問題を以下のように整理する(200)。何らかの出来事cとeについて、「もしcが生じなかったとすれば、eは生じなかっただろう」という反事実的条件文が真であることは、cとeが因果関係に立つことにとって十分ではない。なぜなら、こうした反事実的条件文が成立する種類の出来事は限りなく存在するため、何らかの制約を設けなければ、eの原因となるcの候補に際限がなくなってしまうからである。

こうした問題は、通時的なものと共時的なものに区別できる。次田によれば、「通時的野放図性は出来事の原因候補が過去へと遡って野放図に広がってしまうという問題」(206)であるのに対し、「共時的野放図因果は、不在因果の可能性を認めれば過去へと大きく遡ることなく膨大な原因候補が出現してしまうという問題である」(206)。一ノ瀬は、前者について「予防可能性」(201)という尺度を示し、後者について「規範性度」(207)と「記述性度」(207)という尺度を示すことで解決を試みている。こうした提案に対して、次田は一ノ瀬が示した尺度の「心理学的・語用論的な解釈」(211)という可能性を切り拓いている。

一ノ瀬は、次田の解釈に「まったく異存がない」(375)と述べつつも、尺度に関する真理度解釈と心理学的・語用論的解釈が両立しないように見える選択肢として提示されていることには「ややもやもや感が残る」(375)と応答している。「というのも、真理度であれ、客観性概念であれ、ただいまこのとき会話したり考察したりしているときに生きている概念であって、その限り、語用論的という特徴づけと背反するものではないと思われるからである」(375)。

野上志学の「過去と死者――一ノ瀬哲学における過去と死者の虚構的実在性」は、「あらゆる過去の出来事は不確定であり、過去の実在性は結局のところ「人々の共同創作・共同了解」に基づく」(217)という過去に関する一ノ瀬の見解が、「我々の責任帰属や死刑といった実践的問題」(217)に対して持つ含意を明らかにしようと試みている。

野上によれば、過去に関する一ノ瀬の議論は「過去についての虚構主義、、、、、、、、、、、」(221)、つまり過去を虚構として扱うことで「我々の行為の責任帰属のような実践の一部を保存することを可能にする」(221)見解として理解できる。だが、「過去の確定性に関する……不安定性は、一見すると行為の責任帰属に基づく実践と衝突するように思われる」(228)。こうした問題に対して、野上は「過去の確定性が不安定であるからといって、証拠を持ち合わせている出来事の責任帰属まで妨げられるというわけではない」(230)ため、「仮に過去の出来事がすべて確定的でないとしても、責任帰属に基づいた実践は過去の虚構主義によって救うことができる」(234)、と論じている。

また、野上によれば、死刑制度に関する一ノ瀬の議論は、過去の虚構主義の観点から異なる理解を示すことができる(231)。野上によれば、死刑が前提する「死の所有」が誤った観念だとしても、そのことから死刑を廃止すべきだという帰結は必ずしも導かれない。というのも、過去の虚構主義者は「「死の所有」という観念が死者の存在という誤った前提に基づいているとしても、死刑の実践を続けることが我々に恩恵をもたらすのであれば、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、そうするべきなのだ」(235)と主張するからである。

一ノ瀬は、過去の虚構主義をとる基準として「恩恵」(370)を挙げることが、「虚構主義採用の根拠として、「功利(大福)主義を持ち出す」(370)ことに等しいのではないかと述べている。また、「虚構主義を過去のような時間様相ではなく、遠く離れた場所というような空間的な様相についても当てはめることはできるのだろうか」(370)という疑問を提示している。

浅野幸治「犬と人の関わりをどう捉えるか」は、動物倫理、特に犬と人の関わりをめぐる一ノ瀬の議論を批判的に検討している。浅野によれば、一ノ瀬は犬と人との関わりを以下の三つのモデルにまとめている(241)。すなわち、①退廃モデル(「動物の飼育は倫理的に悪い」)、②補償モデル(「動物の飼育を正当化するためには、監禁によって動物の自由を奪っていることに対する補償が必要である」)、③返礼モデル(「犬が人に恩恵を与えている以上、人は犬に返礼しなければならない」)の三つである。

浅野は、一ノ瀬が退廃モデルと補償モデルを退けた上で返礼モデルを提示しているように見えるが、「返礼モデルは退廃モデルや補償モデルを排除しない」(253)。なぜなら、返礼モデルは「種に関わる」(249)のに対し、退廃モデルや補償モデルは「個体に関わる」(249)からである。浅野によれば、一ノ瀬の返礼モデルは、少なくとも個体の動物との関わり方について考えるならば、動物権利論や非搾取的動物利用論を補うものとして理解すべきである(254)5

一ノ瀬は、「私の「返礼モデル」は動物倫理の問題全般に関する何らかの解決策を提示しようと意図したものではまったくない。豚や牛などを含む動物一般ではなく、ひとえに「」だけに向けた提案なのである」(381)と応答する。また、動物権利論や非搾取的動物利用論が野生生物の問題、特に「「鳥獣害」の問題」(381)に対してどこまで説得的な議論を展開できるのか不明である、という疑念をあわせて表明している。

今村健一郎の「一ノ瀬哲学における「所有」と「刑罰」」は、一ノ瀬の所有論と刑罰論を批判的に吟味した上で、「刑罰の本質は労働でもなければ賠償でもない」(274)と主張することにより反論を試みている。

今村によれば、「一ノ瀬刑罰論における刑罰の核心的意義は賠償であり、その主要な関心は死刑に向けられている。すると一ノ瀬刑罰論は「死刑は賠償か?」という究極の問題に必然的に直面せざるをえない」(270)。また、一ノ瀬の考える賠償は「労働をつうじての賠償――社会の全成員に対する賠償」(271)だが、そこで想定されている労働観と実際の労働のあり方にはズレが生じているのではないか、と今村は指摘している(273)。さらに、今村は「刑罰の本質をその苦痛・害悪に見いだす「刑罰害悪論」」(275)を引き合いに出し、刑罰の本質を賠償と捉える一ノ瀬の刑罰論が刑罰に関するわれわれの直観に反するのではないかという疑問を提示するのである。

一ノ瀬は、「私の刑罰に対する基本的スタンスは、根本的発想という点では、修復的司法に近い。すなわち、刑罰は、犯罪・加害行為によって発生した害を可能な限り修復するようにすることだという、いわば大福主義的・功利主義的見方である」(363)と述べ、「そうした修復行為が加害者が被る苦痛・害悪となることはあるはずである」(363)と応答することで、刑罰に関するわれわれの直観には反していないと主張している。

大谷弘の「動物たちの叫びに応答すること――一ノ瀬倫理学の方法論について」は、一ノ瀬倫理学の核心が「一般的な考慮のみに依拠するのではなく、いわば我々の想像力に訴え、我々の物の見方の転換を促すこと」(285)にある点を示そうとしている。

大谷によれば、一ノ瀬倫理学は「動物に対する我々の態度を正当化する一般的根拠の検討」(304)ではなく、「自身を動物倫理へと向かわせた動物たちの叫びに応答し続けている」(305)ことに意義がある。つまり、「動物たちを同胞として見る物の見方を提示し、我々がそれでも動物たちを利用し続けているという現実に率直に狼狽をし続けること」(305)によって、動物たちと対峙する人々の想像力を喚起することこそが、一ノ瀬倫理学の重要なポイントである。

一ノ瀬は、大谷による診断を肯定的に評価しつつも、「言語行為論あるいは音声行為論の視点から、演奏的知識として「理性的な正当化」というものを理解」(379)する方向性を示している。大谷は、倫理学の方法論として「理性的な正当化」と「物の見方の転換」を対比させているが、一ノ瀬はそこで想定されている「理性的な正当化」を人間と動物の連続性という観点から捉え直すべきだと提案しているのである。

伊勢俊彦の「ヒュームの因果言説における現前と不在」は、不在因果をめぐる問題に定位しつつ、ヒュームの因果論に関する一ノ瀬の理解を批判的に検討している。

伊勢によれば、一ノ瀬はヒュームが不在因果の問題に気づいていなかったと解釈しているが、ヒュームの所有論は「妨害条件の不在」(316)という問題を意識的に論じているのである。そのため、一見すると対立するように見える一ノ瀬とヒュームが因果性という主題において不在の問題を共有している。とはいえ、伊勢は「一ノ瀬とヒュームの因果理解は、知覚可能な関係としての因果性の理解の不在という点で一致するが、それ以外はむしろ対立する側面が大きい。最も大きな対立は、因果性をとらえる基本的な図式にある」(329)と述べ、両者の因果理解が根本的に異なるものであることを強調する。

一ノ瀬は、伊勢の解釈が「ヒュームの恒常的連接に基づく因果関係理解は必ずしもすべての因果関係に当てはまるのではない」(367)という帰結を導くこと、また、「因果を論じる以上、それが真摯なものである限り、自覚はなくても、不在性が原因や結果となる事態がおのずと射程に入り込んできてしまう」ことは確かだが、「ヒュームが明示的かつ自覚的に不在因果の問題を論じていたとは読めない」(367)ことを指摘している。

相松慎也の「因果性と規範性――一ノ瀬化されたヒューム因果論」は、一ノ瀬とヒュームの因果論を比較的に検討した上で、「実はヒューム因果論には、一ノ瀬因果論の核心ともいえる規範的側面がふんだんに用意されており、両者の立場は驚くほど親和的だった」(336)という点を示そうとする。

相松によれば、一ノ瀬はヒュームの議論を次のように評価している。「ヒュームの落ち度は、規範と事実の両方にまたがる因果性の本性を見抜けず、実際には規範的側面である必然性を因果性の本質としたまま、事実レベルで因果性を説明し尽くしそうとしたことにある。これが一ノ瀬の診断である」(344)。しかし、相松は「ヒューム因果論においても因果性と規範性は絡み合っている」(344)ため、これは一ノ瀬自身の因果論に近しい見解であると主張する。相松は、特に一ノ瀬とヒュームの共通点が「規範性とはある種の心理的な影響力である」(352-3)という規範性の捉え方にあると考える。

一ノ瀬は、「ヒューム本人はあくまで恒常的連接から習慣や信念というメカニズムによる解明を貫いていて、そしてそれはどう考えても事実や記述性のレベルにとどまっている議論であって、自覚的には規範性についてコミットしていないのではないか」(368)と応答している。しかし、一ノ瀬は規範性の度合を過酷性や強制力によって規定しており、そうした過酷性や強制力が規範ではなく事実だとすれば、「事実のレベルにとどまって規範性を主題化できていない」(368)というヒュームへの批判が自分自身にも当てはまるかもしれないという危惧を表明している。

コメント

以下では、本書全体に対して若干のコメントを述べたい。本書の優れた特徴を一つ挙げれば、いずれの論文も一ノ瀬哲学に対して真摯に向き合い、その独自性や独創性を評価しながらも、歯に衣着せぬ批判を展開しているところである。しかし、そうした批判に対する一ノ瀬の応答の中には、必ずしも十分ではないものも含まれているかもしれない。とはいえ、一ノ瀬が「特定の思考の意義や理解は、もとの著者にのみ特権があるのではなく、むしろ、その意義を論じたり理解や評価をしたりする人々自身の議論の中で昇華され変容していくのであり、そしてさらに、それに接する他の読者の思考の中へと浸潤してゆき、予想外の進化を果たしていく、そういうものであろう。なので、私は、各執筆者の思考に敬意を払い、たとえ批判的な理解を振り向けられたとしても、それに詳細に反論などせず、簡単なコメントだけを記し、他の読者へとつないでいくことだけを目指すこととする」(361)と述べているように、読者自身が本書の副題でもある「一ノ瀬哲学をめぐる対話」へと参与するための余白が残されている、とみなすこともできるだろう。

さて、本書で集中的に論じられている一ノ瀬哲学は、英語圏の哲学・倫理学を主に参照しつつも、いわゆる分析哲学の主流には属さない独特な特徴をもつ。このことは、本書のイントロダクションでも強調されており、本書には「一ノ瀬哲学が持つ独自性とは、具体的にはどのようなものだろうか」(11)という「問いに答えるためのヒントが多数含まれている」(11)という。例えば、哲学方法論としての融合(戸田山論文)、認識的二人称性(宮園論文)、物の見方を重視した倫理学(大谷論文)などである(11)。

本書から読み取れる一ノ瀬哲学の特徴のうち、私が注目したいのは「メタ相互反応性」(378)である。メタ相互反応性は、一ノ瀬が(人間や動物を含めた)われわれの経験する世界を描写する表現であると共に、一ノ瀬哲学の方法論を特徴づける表現でもある。

一つの読みは、メタ相互反応性が、知識や推論や理解を含むような広い意味での認識のダイナミズムを描写する表現として用いられている、ということだろう。つまり、われわれが何かを認識するという営みから一歩引いた視点に立ち、ある認識がその他の認識とのネットワークの中でどのように変転し一体のものとなっていくのかという事態を明らかにしようとしている、という読みである。

こうした読みが許されるとして、私は一つの疑問を一ノ瀬に投げかけたい。それは、メタ相互反応性という表現では掬い取れない認識の側面があるのではないか、そうした側面には何か別の表現を用いる必要があるのではないか、という疑問である。一ノ瀬は、ジャズの即興演奏を引き合いに出しつつ、メタ相互反応性について次のように述べる。「ドラムス、ホーン、ピアノ、各々の奏者は見事に反応し、相手の即興的メロディを引用し合ったりしながら、演奏する。けれども、同時に、リズムを保ち、いま何小節目の何拍目を演奏しているのか、楽譜的な自覚も持ちながら演奏する」(378)。たしかに、〈没人格知識/人格知識〉や〈即興/形式〉のように、すでに対として存在する概念については、一ノ瀬の言う「いつもつねに相互に反転しながら、いわば共在している」(378)という事態がありうるのかもしれない。しかし、既存の対概念が対をなさない概念に変化したり、ある概念がそもそも対を持たなかったりする可能性もあるだろう。例えば、〈男性/女性〉という対概念は、将来的には対をなさない概念へと変化するかもしれない6。 そうした場面では、メタ相互反応性の機能不全が生じることになるだろう。また、戸田山が指摘した「概念の融合」(51)や、あるいは概念の分裂といった事態も、メタ相互反応性という表現では十分に描写できない恐れがある。こうした状況は、もしかすると一ノ瀬の言う「制度的実在」(20)を経た「浮動的安定」(20)によって一時的に解消されるのかもしれない。メタ相互反応性の内実と射程については、一ノ瀬による今後の研究に期待したい。

以上の読みや疑問が的を射たものであるかどうかはさておき、本書は独自のスタイルで哲学をすることの驚きと喜びに満ちた刺激的な一冊である。一ノ瀬の思考に関心を持つ方はもちろん、本書の執筆者と共に一ノ瀬と対話を試みたいと思った方には、ぜひとも一読を薦めたい。

文献案内

一ノ瀬の著書(単著)は以下の通りである(2021年現在)。

  • 『人格知識論の生成――ジョン・ロックの瞬間』、東京大学出版会、1997年。
  • 『原因と結果の迷宮』、勁草書房、2001年。
  • 『原因と理由の迷宮――「なぜならば」の哲学』、勁草書房、2006年。
  • 『功利主義と分析哲学――経験論哲学入門』、日本放送出版協会、2010年。
  • 『死の所有――死刑・殺人・動物利用に向きあう哲学』、東京大学出版会、2011年。(『死の所有 増補新装版』、東京大学出版会、2019年。)
  • 『確率と曖昧性の哲学』、岩波書店、2011年。
  • 『放射能問題に立ち向かう哲学』、筑摩選書、2013年。
  • 『英米哲学史講義』、ちくま学芸文庫、2016年。(『功利主義と分析哲学』の増補改訂版。)
  • 『英米哲学入門――「である」と「べき」の交差する世界』、ちくま新書、2018年。
  • 『いのちとリスクの哲学――病災害の世界をしなやかに生き抜くために』、株式会社ミュー、2021年。

また、一ノ瀬は自身のホームページでブログや研究論文を公開している。一ノ瀬哲学に関心を持った方は、ぜひ目を通していただきたい。

https://www.musashino-u.ac.jp/m_ichinose/

なお、本書に対する以下の書評は、特に一ノ瀬のヒューム解釈と一ノ瀬哲学との関係に着目して書かれた論考であり、一ノ瀬哲学への理解を深める上で有益である。

  • 久米暁、「書評:宮園健吾・大谷弘・乘立雄輝編『因果・動物・所有――一ノ瀬哲学をめぐる対話』」、『イギリス哲学研究』44号、日本イギリス哲学会、44-7、2021年。

謝辞

本論文の草稿を作成する段階で、川瀬和也氏、ならびにTARB編集委員の横路佳幸氏と山下琢磨氏から有益なコメントをいただいた。ここに記して感謝する。

1以下、引用はすべて本書から行う。本書から引用する際は、ページ数のみを記載する。なお、引用文の強調には傍点を用い、筆者による強調にはゴシック体を用いる。

2鈴木が与えた定義について補足をしておきたい。まず、「$A$」は関連する文や表現を指す(102, 105)。また、規範性の定義において、「$SS$」は主観的厳しさを指し、「$PS$」は規範が破られたときに与えられるべき処罰の主観的な条件付き確率を指している(102)。そして、記述性の定義において、「$PrA$」は「$A$」に関連する現象を指す(105)。

3原文では「$PrA$」が「$rA$」となっていたが、誤植であると判断して「$PrA$」に修正した。

4一ノ瀬が補足するように、「「ストレート」は直接法条件文(indicative conditionals)に、「コーナー」はおおよそ「反事実的条件文」(counterfactual conditionals)に対応している」(370-1)。

5浅野によれば、非搾取的動物利用論とは、ツァヒ・ザミールに代表される立場であり、人間が動物の幸福を実質的に害さない仕方で、つまり、動物を搾取しない仕方で飼育することが道徳的に正当化されるという見解である(246-7)。

6この事例は、TARB編集委員の横路佳幸氏によって示唆されたものである。

出版元公式ウェブサイト

武蔵野大学出版会

https://mubs.jp/2020/01/07/%e5%9b%a0%e6%9e%9c%e3%83%bb%e5%8b%95%e7%89%a9%e3%83%bb%e6%89%80%e6%9c%89-%e4%b8%80%e3%83%8e%e7%80%ac%e5%93%b2%e5%ad%a6%e3%82%92%e3%82%81%e3%81%90%e3%82%8b%e5%af%be%e8%a9%b1/

評者情報

萬屋 博喜(よろずや ひろゆき)

広島工業大学環境学部准教授。専門は、哲学・倫理学で、特に、英語圏の近現代哲学(認識論、行為論、メタ倫理学、イギリス経験論)について研究している。主な論文・著作に、「ヒューム道徳哲学の二つの顔」(蝶名林亮(編)『メタ倫理学の最前線』所収,勁草書房,2019年),『ヒューム 因果と自然』(勁草書房,2018年)がある。