Tokyo Academic Review of Booksonline journal / powered by Yamanami Books / ISSN:2435-5712

2021年7月3日

Joan C. Tronto, Moral Boundaries: A Political Argument for an Ethic of Care

Routledge,1993年

評者:冨岡薫

Tokyo Academic Review of Books, vol.24 (2021); https://doi.org/10.52509/tarb0024

はじめに

本書Moral Boundariesは、副題にもあるように、「ケアの倫理」研究の著作の一つに位置づけられるものである。ケアの倫理は、1982年に出版されたキャロル・ギリガンの『もうひとつの声』に起源を持つものである。アメリカの発達心理学者であるギリガンはその著作において、従来の道徳性発達理論が被験者としての女性を排除してきたことを告発するとともに、排除されてきた女性たちから聞きとることのできる「もうひとつの声=ケアの倫理」の存在を明らかにした。この件についてはMoral Boundaries第三章にも詳しい記載があるが、一般に、従来の道徳である「正義の倫理」が権利や規則、普遍化可能性、抽象、理性、自律、自立に重きを置くのに対し、ケアの倫理は責任や関係性、文脈依存性、個別・具体性、感情、依存を中心に据えるとされている。ここから、ケアの倫理は女性からの共感の声と共に大きな反響を呼ぶと同時に、道徳におけるケア対正義論争が勃発することになる。

数あるケアの倫理の著作の中でジョアン・トロントのMoral Boundariesを選定した理由は、本書がケアの倫理の議論の潮流の一つの転換点として位置づけられており、かつ本書の議論が現在のケアの倫理の理論的土台を形作るものであるからである。2004年の著作において、オレナ・ハンキフスキーはケアの倫理を二つの世代に分けることができると述べている。第一世代のケアの理論家に代表されるのが、ネル・ノディングスやサラ・ルディック、ヴァージニア・ヘルドであり、彼女たちは母子関係を起点とする「女性の慣習的な活動や実践」(Hankivsky, 2004, p. 11)としてケアの議論を展開する傾向にあった1。そのこともあり、ハンキフスキーによれば、「第一世代のケアの理論家たちは、ケアの倫理が公的領域やその諸制度にとっていかに重要であり、適用可能でありうるのかということを、説得力を持って示すことができなかった」(Ibid., p. 13)。それに対して、「あらゆる人間の生や活動に対してケアが中心的である」(Ibid., p. 26)という理解のもとでケアの倫理を確立してきたのが、トロントをはじめとするケアの倫理の第二世代である。ハンキフスキーはMoral Boundariesを明示しながら、「ジョアン・トロントは、ケアを女性と関係づけるケアの本質主義化に対して説得力のある異議を唱えた最初のケア理論家であり、またケアと正義の二分化に対して説得力のある批判をした最初のケア理論家であるという理由で、彼女の著作はケアの倫理理論の分水嶺を示している」(Ibid., p. 136 n. 2)と述べている。Moral Boundariesは従来のケアの倫理の理念を引きつつ、その議論の方法を転換し、現在に至るまでのケアの倫理の方向性を決定づけたという点で、ケアの倫理の基本文献であると言っても過言ではない。

本書の構成と要約

全三部六章から成る本書は、第一部「イントロダクション」の第一章「道徳の境界と政治的変化」から幕を開ける。本章では導入として、トロントが本書を記すことになった問題意識と目的が記されている。それは本書のタイトルでもあるように、「道徳の境界」を引き直し、「女性の道徳」とされているものを「ケアの倫理」として語り直すことで、ケアを道徳理論としてだけでなく、政治的文脈においても理解することを可能にするというものである(p. 3)2

トロントによれば、ケアの倫理を「女性」や「道徳」の領域に封じ込めている三つの「道徳の境界」がある。本章は導入であり、これらの境界についての詳細な議論は省かれているため、以下では本書全体をやや先取りした形での説明を行う。

道徳の境界の一つは「道徳と政治の境界」であり、現代の政治理論家たちは道徳と政治をそれぞれ別の関心事として議論している(pp. 6–9)。しかしトロントによれば、道徳と政治は複雑に絡み合ったものであり、道徳と政治が分けて語られることにより、ケアは道徳の領域に封じ込められるばかりでなく、道徳そのものが政治的であるという側面が見失われてしまうことになる。二つめは「道徳的観点の境界」である。これは、道徳判断が利害関係のない普遍的観点から行われるべきであるとされることにより、感情や特別な文脈に依拠した「女性の道徳」は二流のものとみなされることを意味する(pp. 9–10)。この境界が存在することにより、「女性の道徳」は政治理論から排除されて道徳の領域に封じ込められるだけでなく、道徳の領域内部でも劣ったものとしてみなされてしまうことになる。そして三つめが「公私の境界」である。女性の道徳は、それを主張したとしても、道徳として劣ったものであり、私的領域に相応しいものとして、公的領域の議論からは排除されてしまう(p. 10)。この三つの道徳の境界こそが、「女性の道徳」の議論の効果を弱めてしまうのであり、トロントはそれを「ケアの倫理」として語り直すことで、道徳の境界を引き直すことを提唱しているのである(pp. 10–11)。これらの境界に関しては、本章以降の議論でも繰り返し言及されることになる。

本書のトロントの議論が単にケアの倫理を「女性の道徳」として主張することを避け、「道徳の境界」そのものを揺るがすことを目的とするのには理由がある。それは、トロントが「差異のジレンマ」と呼ぶものの存在にある。実際、フェミニスト理論は、社会において女性が周縁に位置付けられることを終わらせるために生まれたものである(p. 15)。そこでは、力のない女性が力を手に入れるには、二つの方法がある。一つは、すでに権力を有する者たちと女性は「同じ」であるため、女性も中心に入れられることを認められるべきだという戦略である(p. 15)。そしてもう一つが、女性はすでに権力を持っている者たちとは「違う」が、役立つことのできる価値を有するものを持っているため、中心に入れられることを認められるべきだという戦略である(p. 15)。しかし、どちらの戦略を取る場合にも、ある問題が浮上することになる。すなわちそれは、女性の中にも差異があるということを認めなければならないということである(p. 15)。よって、それらの戦略は上流・中産階級で白人の、専門職を有する異性愛女性を権力の中枢に近づけるだけであり、それ以外の女性たちは周縁に取り残されたままとなる(pp. 15–16)。ここでトロントは、このジレンマを解消し、周縁化された人びとがその状況から脱するには、そのようなジレンマが生まれるような議論そのものを拒否すること、すなわちそのジレンマを生む境界自体に異議を唱える必要があると述べるのである(pp. 17–18)。道徳の境界を揺るがすことで生まれるケアの倫理は、差異ある他者の視点を中心に据えるという点で、フェミニスト理論にとって重要なものとなるのである(pp. 18–19)。

「「女性の道徳」に抗する」と題された第二部は、第二章・第三章から成り立っており、道徳感情主義の議論が「女性の道徳」とみなされ周縁化される歴史的変遷と、ギリガンより始まるケアの倫理の限界を明らかにしている。第二章「普遍主義道徳と道徳感情」では、十八世紀の社会変革により人びとの「生の形」が変容し(p. 25)、それに伴って「女性」と「道徳感情」が私的領域に封じ込められた過程が記されている(p. 26)。十八世紀は商業主義が発展し、市場が拡大していくなど、経済的に大きな変化が見られた(p. 32)。そしてそれに伴い、人びとの生は賃労働と市場に基づいて原子論的・個人主義的に組織化されていくことになる(p. 32)。そこでは、家庭は経済的領域と切り離され、家族はより私的な領域となった(p. 34)。また、個人は家族や隣人にのみ頼るということがなくなったという意味で近しい他者との距離が開き、一方でより遠くの他者との距離が縮まるなど、人びとの社会的距離にも変化が生じた(pp. 37–38)。これにより、道徳理論の需要も変化していくことになる。すなわち、現在のケアの倫理と類似した理論的側面を有する、スコットランド啓蒙思想家たちの道徳感情論は、フランシス・ハチスンからデイヴィッド・ヒュームへと続き、そしてアダム・スミスによって「公平な観察者」という普遍的な概念が取り入れられ(pp. 39–50)、最終的にはそれがカントの普遍主義道徳に取って代わられることとなる。カントは、抽象的で形式的な普遍的原理の形式を取る、人間の理性から導き出された道徳を提唱し、道徳の中心的な問題から政治的なものを切り離し、道徳を個人の利害関心から分離し、普遍化可能性・公平性などの「道徳的観点」と呼ばれるものを道徳に要求した(p. 27)。このように、十八世紀の経済的・社会的な変化と、それに伴う文脈的道徳から普遍主義道徳への変化が、トロントの問題視する三つの「道徳の境界」を形作っていくことになった。

第三章「道徳のジェンダー化?」では、ローレンス・コールバーグの道徳性発達理論と、それに対抗したギリガンの理論を概説する中で、「女性の道徳」の限界と道徳の境界の存在を明示している。道徳性発達理論に決定的な影響を及ぼしたとされるコールバーグは、「ハインツのジレンマ」(ハインツは病気の妻と住んでいる。その街の薬屋は彼の妻の具合が良くなる薬を持っており、その薬がないと妻は死んでしまう。ハインツは薬を買うお金を持っておらず、薬屋はハインツにその薬を渡すのを拒んでいる。ハインツは薬を盗むべきかどうか)などの仮想的道徳ジレンマを被験者に提示し、その道徳判断の内容ではなく、その判断に至るまでの道徳推論に着目することで、人間の道徳性の発達を三水準六段階に分けている(pp. 64–65)。

  • 前慣習的水準
  • 第一段階(他律的道徳):ただ罰を避けようとする無道徳の段階
  • 第二段階(個人主義的・道具的道徳):お返しを期待して行為する段階
  • 慣習的水準
  • 第三段階(良い男の子道徳):家族などの近しい人から承認されるように行為する段階
  • 第四段階(社会システムの道徳):規則や他者の判断を遵守する段階
  • 脱慣習的水準
  • 第五段階(人権と社会福祉の道徳):社会契約によって合意した規則に従う段階
  • 第六段階(普遍化可能であり、可逆的であり、指令的な一般倫理原則の道徳):あらゆる事柄を考慮した観点から道徳的ジレンマを理解することにより、公平性にコミットする段階

この理論に異議を申し立てたのが、コールバーグの同僚であり、のちにケアの倫理の提唱者として知られることとなるギリガンである。ギリガンはコールバーグの理論に対し、二つの仕方で批判を行っている。まずは方法論的な観点から、コールバーグの理論は男性のみを被験者として扱っているがゆえに、不完全な結果を導いてしまっているということ、また仮想的な道徳ジレンマを、人びとの道徳的見解を理解するための正しい方法として用いていることを批判している(pp. 77–78)。次に実質的批判として、コールバーグの提示する「正義の倫理」だけでは道徳は完全ではなく、女性たちの中から聞いたもう一つの声である「ケアの倫理」の存在を主張した(p. 78)。ケアの倫理は正義の倫理とは異なり、権利や規則ではなく、責任や関係性という道徳的概念から展開し、形式や抽象ではなく、具体的な環境と結びつき、原理ではなく、日々の活動として最もよく表現されるものであると対比させることができる(p. 79)。

ギリガンの議論はジェンダー差異を記述していると読まれがちである。しかし、ギリガン自身はもう一つの声がジェンダー化されているとは決して主張していない(p. 82)。加えて、コールバーグ自身による理論の見直しやその後の他の研究者による研究調査により、これはジェンダー差異ではなく、階級や人種、文化の違いが現れたものであることが明らかになってきている(pp. 82–84)。また第二章で道徳感情主義者を取り上げたように、ケアの倫理的な考え方は必ずしも歴史的に女性と結びついてきたわけではなかった(p. 84)。

ケアの倫理が「女性の道徳」として語られているうちは、現在の道徳の境界が強化され、一部の女性に部分的な特権が付与されるのみである。その境界においては、コールバーグの理論がエリート主義であるように、その道徳理論がすでに力を持っている者の立場を強化する政治的イデオロギーとして機能していること(p. 93)が無視され、普遍主義の立場に立つことで現実社会の非道徳には目が向けられず(p. 95)、「女性の道徳」は私的領域へと追いやられることになる(p. 96)。トロントによれば、道徳理論を理解する際、そこには避けがたい政治的文脈があるのであり、道徳と政治が交差しているその地点を、道徳を考える際の出発点にしなければならないのである(pp. 96–97)。

第三部「ケアの倫理に向けて」は第四章・第五章・第六章から構成されており、第二部での「女性の道徳」としてのケアの倫理への批判を踏まえて、ケアの倫理を政治的アイディアとして語り直し、道徳の境界を変更する、トロントのケア観が現れた独創的な章が続いている。道徳の境界を変更するには、道徳的・政治的生の中心、すなわち人間本性の概念を考え直す必要がある(p. 101)。第四章「ケア」は、その新たな概念として、「ケア」を定義づけることから始まっている。

私たちが示唆するのは、最も一般的なレベルにおいて、ケアリングはできる限りそこで善く生きていくことを可能にするような、「世界」を維持、継続、修復するために行うすべてのことを含む人類の活動であるとみなされるべきであるということである。その世界とは、私たちの身体、自己、そして環境をも含むものであり、私たちはそれらのすべてを、複雑で、生を維持するための網の目の中に紡いでいくのである。(p. 103)

以上のトロントのケア定義は広範である。すなわち、それはケア対象に人間だけでなく事物や環境をも含めるものである(p. 103)。しかし、すべての人間の活動がケアであるわけではない。例えば保護は、暴力を排除するという点では部分的にケアであるように見えるかもしれないが、軍事が破壊という手段を通して保護を行う場合には、保護はケアとは異なっている(p. 104)。

さらにトロントは、ケアを以下の四つの局面に分類する(pp. 105–108)。

  • ① ケアを向けることcaring about
  • ニーズの存在に気づき、ケアの必要性を認識する段階
  • ② ケアを引き受けることtaking care of
  • 特定されたニーズに対する責任を負い、それにどう応答するかを決定する段階
  • ③ ケアを提供することcare-giving
  • ケアのニーズを直接的に満たす段階
  • ④ ケアを受け取ることcare-receiving
  • ケアされる対象が受け取ったケアに対して応答することで、ケアのニーズが実際に満たされたかが評価される段階

以上のようなケア実践は従来周縁化されてきた。すなわち、人びとの生を可能にしているのはまさにケアである一方で、個人主義、自律、自力出世の男self-made manというイデオロギーは、その事実を認識することを難しくし、権力や資源の不平等な配分を合法化してきた(p. 111)。ケアはジェンダー化されてきただけでなく、人種や階級とも深く結びつき、社会の最も裕福でないメンバーの仕事とされるように社会的に構築されてきた(pp. 112–113)。その一方で、相対的に特権を有している者たちはケアの責任を無視できる「特権的無責任」を決め込んできたのである(pp. 120–121)。

第五章「ケアの倫理」では、第四章での人間本性に関するパラダイムシフトとしてのケアの定義を引き継ぎ、「女性の道徳」の域を超えたケアの倫理の倫理性に焦点を当てている。第四章で定義したように、人びとがケアを与えたり受け取ったりすることに人生の大部分を費やしていると考えるならば、ケアの倫理を「女性の道徳」とするのではなく、道徳・政治理論の中心に置かない限り、それを真に理解することはできないのである(p. 125)。

トロントは第四章で取り上げたケアの四つの局面に対応させる形で、ケアの倫理の四つの道徳的要素を提示している(pp. 127–136)。

  • ① 注視
  • ケアを行うには、まず注視することによりニーズを認識する必要性がある。
  • 逆に他者を無視することは、道徳的悪の一形態として捉えることができる。
  • ② 責任
  • 政治理論家たちは、私たちの責務obligationは私たちがした約束からいかにして生じてくるかという問いに多くを捧げてきた。
  • しかし責任responsibilityに関する問いも政治的なものになりうる。
  • ③ 能力
  • ケアを提供する意図があり、その責任を受け入れたとしても、良いケアを提供することに失敗したら、結果的にケアのニーズは満たされたことにはならない。
  • ④ 応答
  • 私たちは脆弱性とともに生じる虐待の可能性に警戒し続けなければならない。
  • 応答は、自己を他者の立場に置くのではなく、他者の観点から他者のニーズを理解する方法である。

そして、ケアの倫理に従って適切に行為するとは、これらのケアの四つの道徳的要素が適切な全体のうちに統合されているということを必要とするのである(p. 136)。

ケアの実践には、いくつかの道徳的問題がある。まず、ニーズとは何を意味し、どのように評価され、満たされるべきであるのかという問いである(pp. 137–138)。ニーズとは普遍的な概念である一方で、文化的・技術的・歴史的な背景にも依存する概念である(p. 138)。また、ニーズをめぐる問いは単なる哲学的な問いではなく、その議論が生じる既存の権力構造に目が向けられ、ある人びとの特権的地位を維持するためにニーズ理解がいかにして歪められているのかが問われなければならない(pp. 140–141)。別の道徳的問題としては、ケアの偏狭さの問いがある。ケアは具体的で特殊なものに関わることを含んでいる一方で、それがいかにしてより幅広いニーズに対応することができるようになるのかが問われなければならない(pp. 142–143)。さらに別の問題としては、ケア提供者はしばしば自らのニーズをケア受容者のニーズに従属させなければならない(p. 143)。それによって生じる怒りがケア受容者に向けられることによって、ケアのプロセスが破壊されるだけでなく、ケア受容者への軽蔑につながることもある(p. 143)。一方で、ケアをストライキするということはケア提供者にとっては難しく、ジレンマを生む原因にもなっている(pp. 143–144)。

十八世紀に人びとの生の形が変容したように、二十世紀にも大きな変化があった。経済的には、資本主義が浸透し、女性も市場の労働力となり、ケアの伝統的な配分やパターンが変更された(p. 150)。政治的には、ヨーロッパの世界的な植民地システムが崩壊し、西ヨーロッパの価値、習慣、慣習、生き方が優れているという想定が動揺した(p. 150)。このような変化において、男性が商業世界に出かけ、女性が家庭を切り盛りすることを基礎としていた十八世紀のケアの想定は崩れ去った(p. 151)。今現在必要であるのは、人間が単に自律的で平等であるのではなく、ケアを必要としている存在でもあるという認識なのである(pp. 151–152)。ゆえにトロントによれば、従来のケアの倫理の議論は、普遍主義道徳と対立するもう一つのメタ倫理理論として組み立てられてきたおかげで、ケアを道徳における補欠とし、道徳と政治を峻別する道徳の境界を維持するように機能してきたが(pp. 147–148)、今や道徳と政治が織り合わされることで、ケアの倫理は政治の理論、すなわち正義の概念をも要求するものとなるのである(p. 155)。

最終章である第六章「ケアと政治理論」では、トロントは今まで詳らかにしてきたケア概念を、政治的理想として適用している。まず、ケアという概念を政治理論に適用することにより、最も基本的なレベルにおいて、私たちの人間本性についての前提が変容させられなければならない(p. 162)。第一に、人間は完全には自律的ではない。人びとは自律的である時もあれば依存的である時もあり、また依存的な人に対してケアを提供するという意味で、相互依存がその条件として理解されなければならない(p. 162)。すなわち、依存と虚構の自律のどちらか一方を選択させるリベラルなモデルは退けられなければならないということである(p. 163)。第二に、ケアという概念を政治理論に適用することにより、個人主義的な「利害interest」という用語は、必然的に間主観的で、社会的関心の問題となる「ニーズ」という言葉に関連づけられなければならない(p. 164)。そして第三に、個々人は分離した状態ではなく、道徳的に関与しあうengagement存在であると前提されなければならない(p. 164)。

ケアと正義は両立不可能なものではない。むしろ、ケアの概念なくして正義は不完全である(p. 167)。人びとがケアを実践し、ケアに熟練することにより、人びとがよりケアする道徳的な人間になるだけでなく、より善い市民による民主主義が達成されることになる(p. 167)。そして、ケアを政治的な概念として用いることにより、ジェンダーや人種、階級とケア提供の交差点を認識することができ(pp. 168–169)、また男性家長の家族を前提とした国家の福祉政策や、支払いができる者のみにケアを提供する市場の存在など、ケア提供を要求される側とその恩恵に与る側との間で権力がいかに不平等に分配されているのかを明らかにすることができるのである(p. 173)。

現在の道徳の境界は、「女性の道徳」を真面目に扱ってこなかった(p. 179)。その境界は、政治がいかに道徳を制約しているのかを気づけなくし、他者と関わり、道徳的判断における個別性を認識する倫理をいかがわしいものとし、私的領域に押し込められたケアの道徳的な価値を貶めてきたのである(p. 178)。「女性の道徳」をケアの倫理へと捉え直し、ケアを人生における中心的な関心事とすることはまさに、外部者としての立場から権力の中心的な立場を請うのではなく、自らを外部者にしている社会秩序そのものの正当性に異議を唱え、政治・社会制度をケアに基づいて変革していくということなのである(pp. 179–180)。

本書に対するコメント

まず注目すべきは、トロントの定義におけるケアの幅広さである。本書でのトロントの「人類の活動」というケアの定義は、トロントが1990年の“Toward a Feminist Theory of Caring”という論文で、ベレニス・フィッシャーとともに考案したものがもとになっており、トロントのその後の著作でも引き継がれ続けるものとなっている。

しかし、「多くの点において、私たちは生涯にわたって他者に依存し続ける」(p. 162)ということを人間の条件とみなすことにより可能となる彼女のケア・依存理解は、その後のケアの倫理研究において絶対的な基盤となっているわけでは必ずしもない。実際に、依存状態やケアの必要性を特定の期間に焦点化して論じるケア論者もいる。例えば、トロントと同じく政治理論としてケアの倫理を論じるマーサ・ファインマンは、「私たちはみな、子どもの時には依存的であったし、また私たちの多くは歳を取ったり、病気になったり、障害を負ったりした時には依存的になる」(Fineman, 2004, p. 35/ p. 28)と述べている。さらにエヴァ・キテイも、「幼児や幼少期の未発達な状態や、(どんなに便宜が図られた環境においても)その人から機能を奪う病気や障害、そして老いることに伴う衰え」(Kittay, 2020, p. 34/ p. 81)を人間の条件としての不可避の依存と定義している。この戦略は、狭義の意味での依存者(生きるために他者からのケアを必要とする者)や依存労働者(依存者をケアする労働を担う者)を既存の政治理論に包摂することを目的とする議論に対しては有効である。それに対して、トロントが本書で挑んだのは、依存者や依存労働者を政治理論の中心に迎え入れるかどうかの問題ではなく、端から依存やケアを周縁化している政治理論の前提そのものを転覆させようとする試みであった。したがって、トロントがケアを拡大的に捉えたのは、人びとの人間観を変容させることで、自律や自立のイデオロギーを覆し、政治理論そのものの枠組みを一新させるという背景があったからである。

ただし、トロントは人びとを単なる依存的な存在であるとみなしているわけではない。トロントは、「人びとは自律的な時もあれば、依存的な時もあり、依存的な人びとに対してケアを提供する時もある。このことから、人間は相互依存interdependentとして最もよく表される」(p. 162)と述べている。依存と自律を対立するものとして捉えるのではなく、むしろ依存という人間の関係的な側面から自律を語り直そうとするアプローチは、まさにトロントが本書を記した1990年代から「関係的自律relational autonomy」として活発に議論され始めたものであり、トロントの依存的でありかつ自律的であるという意味での「相互依存」の考え方は、関係的自律理論とその人間観を共有しているものと言える。このような、従来の個人主義的な自律という虚構に、依存という隠された人間の条件を加えることで、自律と依存の共存する相互依存という人間像を新たに提示するという方策をトロントが採用するのは、本書のトロントのプロジェクトである道徳の境界の引き直しが、道徳の境界を拡張する、、、、ことを意味するからであると言える。すなわち、「それは古い信念や考え方を完全に否定することを必要とはしない」(pp. 157–158)のである。

しかし、このような相互依存の人間観が、「ケアのゴールの一つは、依存を永続的な状態にするのではなく、終わらせること、、、、、、、であると主張することができるかも」(p. 163, 強調評者)しれず、「人間の依存は必然であり、また克服すべき状態、、、、、、、でもある」(p. 163, 強調評者)というトロント自身の言説と結びつくことにより、それは再び、自律的な人間を中心に置き、依存状態を周縁化し、さらには無かったことにする、従来の政治理論の序列と親和性を保ったものになり変わる危険性も有している。ケアを拡大的に捉え、「多くの点において、私たちは生涯にわたって他者に依存し続ける」(p. 162)とみなすことによる人間本性の転換は、関係的側面から従来の自律理解を変容させたとはいえ、その自律を政治理論における人間のあり方の一部に据え続けている時点で、不完全なものであり、依然として自律というイデオロギーは健在なものとなっているとも言うことができる。

依存的であるが、かつ自律的でもあるというトロントの人間像は、彼女の提示するケアの四つの局面にも現れている。これらの局面も、フィッシャーとともに編み出されたものであるが3、「ケアを向けること」「ケアを引き受けること」「ケアを提供すること」という最初の三局面は、自らのニーズがすでに満たされている、ケアする能力がある人びとの視点から描き出されている。本書におけるケアがケアの与え手の視点から概念化されてきたということは批判の対象ともなっており、そのことはトロント自身も認めている(Kaufman-Osborn et al., 2018, p. 15, 24)。

それに対して、第四局面は「ケアを受け取ること」であり、与えられたケアに対してケアを受けた者が応答する局面が描かれている。しかしここでも、ニーズが適切に満たされたかどうかが評価されることはケアにとって不可欠である一方で、応答をケアの道徳的要素としてみなすトロントの議論は、一見するとケアされる側もなんらかの形で応答する能力を持っており、その能力を行使することを要求しているように思われる。一方で、トロントが挙げている応答の事例を見てみると、「ピアノを調律すると再びいい音が鳴る」や「飢えた子どもに食べ物を与えると、より健康的になったように見える」(p. 107)ということが挙げられており、そこではケアを受けた者の主体的な応答までは要求されていないことがうかがえる。しかし、応答のレベルを機械的あるいは生理的な反応にまで引き下げると、なぜ応答することがケアの倫理的な、、、、一要素として数えられるのかが不明になるだろう。

ただしこの局面に関しては、ケアを受け取る側の応答と、その応答を踏まえた、ケアする側のケアの評価のプロセスが混在していると見てとることもできる。後者の評価の場面では、パターナリズムに陥ることなく、ケアを受け取る側からの応答をケアする側が常に注視し、ニーズが満たされたかどうかを確認していくという意味で、応答をケアの道徳の局面と見なすという解釈は可能であるかもしれない。しかしそうすると、「ケアを受け取ること」という第四局面は、単にケアを受け取る側の視点だけでなく、ケアをする側の視点も相互的に組み込まれていると見てとった方が整合的である。ケアの倫理が何を要請しており、何を規範的な要素として数え入れるのかに関しては、さらなる議論を重ねることができるだろう。

以上のような、「何をケアの前提とし、何をケアの倫理、、に据えるのか」という問いとその限界は、トロントの普遍性と文脈をめぐる問題にも現れている。トロントは、ケアが「人間の生の普遍的側面」(p. 110)であり、それを「自分の周りの人びとに対して、あるいは自らの社会においてケアすべきである」(p. 178)という普遍主義的道徳原理の形態として表すことができるとする。その一方で、トロントは同時にケアの中にある文脈的で実践的な側面にも大きな注意を払ってきた。すなわち、今まで普遍主義を標榜してきた道徳が実際には政治的文脈を色濃く反映していたように、ケアが道徳的に普遍的なものとして政治の文脈から乖離してしまうことには、トロント自身も慎重である。

しかし、本書でトロントが「善いケア」という用語を使い、「善いケアはケアプロセスの四つの局面が一つの全体のうちに収まることを要求する。同様に、ケアの倫理に従って適切に行為するということは、ケアの四つの道徳的要素、すなわち注視、責任、能力、応答が、一つの適切な全体のうちに統合されていることを要求する」(p. 136)と述べるように、トロントはケアの倫理の道徳としての普遍的で規範的な側面を積極的に認めていると見てとれる側面もある。また、トロントののちの著作であるCaring Democracyでは、ケアの第五局面として「ケアを共にすることcaring with」が付け加えられ、それは第一から第四までのケアの局面が「民主主義」に沿った形で機能することを意味するとされている。同様に本書でも、「私が示唆するのは、ケアを与え受け取る実践を通して私たちがケアに熟練するようになるならば、私たちはよりケアする道徳的な人間になるだけでなく、民主主義におけるより善い市民となるだろうということである」(p. 167)と述べられているように、トロントは民主主義に適うケアのあり方を理想に据えている。このように、ケアを文脈から乖離させることの危険性には、トロントも自覚的に慎重である一方で、ケアの倫理に「善いケア」という道徳としての普遍的な規範性を持たせなければいけない側面をどう織り込んでいくかについては、トロントは明示的な解決策を出すことは避け、むしろケアの四つの局面(道徳的要素)や民主主義におけるケアという価値を、文脈から乖離させた形で導入しているように思われる。

普遍性と文脈をめぐるケアの倫理の据わりの悪さは、トロントの議論だけに顕著であるというわけではなく、むしろ周縁化されてきた人びとの声を聞くことから始まり、それを一つの「倫理」としてまとめ上げていく中で生じる、ケアの倫理そのものに内在する問題でもあり、あるいは倫理の新たな可能性を開く突破口でもありうる。トロントの議論は、上記を含むようなさまざまな困難と限界も抱えている。しかしその一方で、道徳の境界の存在を指摘し、ケアの倫理を女性の道徳ではなくすべての人間にとっての政治的な関心であるとする本書は、将来ケアの倫理研究の古典となるものであり、またケアの倫理だけでなく、道徳や政治全体の議論に対する革命的な一筋の光を示すものであるという点で、その重要さが失われることはない。むしろ積極的に、本書の議論の重要性は、今こそ再び主張されるべきであるとも言うことができる。2018年、Moral Boundariesが出版されてから25周年の節目に開かれたシンポジウムでも指摘された通り、現在に至るまでケアに関わる事柄の政治的改善が一部見られる一方で、いまだにケアは新自由主義と資本主義に絡め取られる中で、女性や有色の人びとに搾取的に割り当てられ、低い価値と報酬が与えられ続けている(Kaufman-Osborn et al., 2018, p. 5, 9, 18)。ケアの倫理の普及に伴い、人間の生にとってケアが不可欠であるということは、今や誰もが認めることであるだろう。しかしケアが大事であるとは認めつつも、自らがケアについて考え、それを担うことは拒否するように重ねて引かれ続ける、権力構造を反映した強固な境界それ自体を、ケアの倫理は道徳的・政治的な問題として、依然として俎上に載せ続ける必要があるのである。

文献案内

  • トロントの著作の邦訳
  • トロント・ジョアン・C、岡野八代、2020年、『ケアするのは誰か?――新しい民主主義のかたちへ』(訳:岡野八代)、白澤社。(原著:Tronto Joan C., 2015, Who Cares?: How to Reshape a Democratic Politics, Cornell University Press.)
  • 日本におけるケアの道徳・政治理論
  • 岡野八代、2012年、『フェミニズムの政治学――ケアの倫理をグローバル社会へ』、みすず書房。
  • トロントの試みを引き継ぐ、ケアの倫理の社会的・政治的な宣言
  • ケア・コレクティヴ、2021年(出版予定)、『ケア宣言――相互依存の政治へ』(訳・解説:岡野八代、冨岡薫、武田宏子)、大月書店。(原著:The Care Collective (Chatzidakis Andreas, Hakim Jamie, Littler Jo, Rottenberg Catherine and Segal Lynne), 2020, The Care Manifesto: The Politics of Interdependence, Verso.)

1Moral Boundariesでトロントも指摘するように(p. 82)、ギリガン自身は正義の倫理とケアの倫理の違いはジェンダー差異に還元されるものではないとあらかじめ断っている(Gilligan, 1993, p. 2)。

2以下断りのない限り、()内のページ数はすべてMoral Boundariesのものである。

3Caring Democracyでは、第二局面のtaking care ofはcaring forへと変更されている。

参考文献

  • Fineman Martha Albertson, 2004, The Autonomy Myth: A Theory of Dependency, The New Press.〔=ファインマン・マーサ・アルバートソン、2009年、『ケアの絆――自律神話を超えて』、岩波書店。〕
  • Fisher Berenice and Tronto Joan, 1990, “Toward a Feminist Theory of Caring”, Circles of Care: Work and Identity in Women’s Lives, pp. 35–62, State University of New York Press.
  • Gilligan Carol, 1993, In a Different Voice: Psychological Theory and Women’s Development, Harvard University Press (First edition published by Harvard University Press 1982).〔=ギリガン・キャロル、1986年、『もうひとつの声――男女の道徳観のちがいと女性のアイデンティティ』(監訳:岩男寿美子)、川島書店。〕
  • Hankivsky Olena, 2004, Social Policy and the Ethic of Care, UBC Press.
  • Kaufman-Osborn Timothy, Hirschmann Nancy J., Engster Daniel, Robinson Fiona, Yeates Nicola and Tronto Joan C., 2018, “Symposium Review: 25th Anniversary of Moral Boundaries by Joan Tronto”, Politics and Gender, 14 (4), pp. 1–28, Cambridge University Press.
  • Kittay Eva Feder, 2020, Love's Labor: Essays on Women, Equality and Dependency, Routledge (First edition printed by Routledge 1999).〔=キテイ・エヴァ・フェダー、2010年、『愛の労働あるいは依存とケアの正義論』、白澤社。〕
  • Tronto Joan C., 1993, Moral Boundaries: A Political Argument for an Ethic of Care, Routledge.
  • ――, 2013, Caring Democracy: Markets, Equality, and Justice, New York University Press.

謝辞

本書評の執筆にあたり、毎週ともにケアの倫理を研究している研究会のメンバーの方々(石井雅巳さん、猪口智広さん、大澤真生さん、高井ゆと里さん(五十音順))から有益なコメントをいただきました。この場をお借りして感謝申し上げます。

出版元公式ウェブサイト

Routledge

https://www.routledge.com/Moral-Boundaries-A-Political-Argument-for-an-Ethic-of-Care/Tronto/p/book/9780415906425

評者情報

冨岡 薫(とみおか かおる)

現在、慶應義塾大学大学院 文学研究科 哲学・倫理学専攻 倫理学分野 後期博士課程に在籍。専門はケアの倫理。また、国立研究開発法人 国立がん研究センター 社会と健康研究センター 生命倫理・医事法研究部にて、特任研究員として生命倫理・研究倫理の研究にも従事している。主な論文に、「ケアの倫理における「依存」概念の射程――「自立」との対立を超えて」(『エティカ』第13号 pp. 121– 149, 2020年, https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AA12362999-20200000-0121)がある。上記文献案内で取り上げた『ケア宣言』の翻訳書を出版予定。