Tokyo Academic Review of Booksonline journal / powered by Yamanami Books / ISSN:2435-5712

2021年7月22日

Michael Welker, Zum Bild Gottes. Eine Anthropologie des Geistes

Evangelische Verlagsanstalt, 2021年
(英語版:Douglas W. Scott (trans.) In God’s Image: An Anthropology of the Spirit, Eerdmans, 2021年)

評者:岡田 勇督

Tokyo Academic Review of Books, vol.26 (2021); https://doi.org/10.52509/tarb0026

はじめに――ギフォード講義・自然神学・ミヒャエル・ヴェルカー

本書は、ドイツの神学者ミヒャエル・ヴェルカーが2019から2020年までおこなったギフォード講義を書籍化したものである1。ここではまず、この著作やその著者を理解するためにいくつかの前提を説明しよう。「ギフォード講義Gifford Lecture」とは、スコットランドの貴族にして法律家であったギフォード卿(1820-1887)によって設置された神学の分野における一種の賞である2。毎年エディンバラ、グラスゴー、セント・アンドリューズ、アバディーンの四大学がキリスト教自然神学の分野において重要な貢献をなした人物を世界中から招き、そこで行われた一連の講義を出版しており、その講義者に任命されることはキリスト教神学だけではなく、宗教研究一般においてもっとも栄誉ある称号のひとつとして知られている。ただし、そこには狭義の神学者だけでなく、宗教という問題系に触れる範囲で哲学者や自然科学者なども選ばれて講義を行っている。近年の顔ぶれを見てみると、N.T.ライト(2018)、アリスター・マクグラス(2009)やスタンリー・ハワーワス(2000/2001)のような神学者だけでなく、ジュディス・バトラー(2018)、ジャン・リュック・マリオン(2014)、チャールズ・テイラー(2009, 1998)のようないわゆる大陸系の哲学者、あるいはマイケル・ダメット(1996)、ヒラリー・パトナム(1990)のようないわゆる分析系の哲学者に加え、ロジャー・ペンローズ(1992)のような自然科学者も名を連ねている。このように、ギフォード講義の内容は多岐にわたり、キリスト教神学の内部にとどまらず学問一般にまで広く及ぶものであるということができる。

近年におけるギフォード講義の幅の広さは、それが対象とする〈自然神学〉という分野の性格にも由来するところが大きい。キリスト教神学の分野において、〈自然神学〉は〈啓示神学〉との対をなす学問的アプローチの方法として通常は位置付けられている。後者が聖書や歴史に現れたキリストの人格など、神の直接的な啓示をある種の公理として前提し、そこから出発するのに対して、前者はそれに頼ることをせず、人間の自然理性によって得られる神についての認識を扱うことになっている。有名なものとしては、神の存在証明がその代表例といえるだろう。現在でも、自然神学といえば神の属性についての議論、神の存在証明の三類型、悪の問題といったように、英米系の宗教哲学の教科書的配列を連想させることが多い。しかし近年、自然神学は人間のもつ自然理性について、その見方を変化させてきている。すなわち、神的な真理を証明する〈論証的な合理性〉を担うものとしての自然理性から、キリスト教神学と他分野(科学、政治、経済など)が相互理解を行うことができる〈コミュニケーション合理性〉を担うものとして自然理性を捉えることに方向性がシフトしてきている3。近年のギフォード講義における分野の多様化は、このような自然神学における自己理解の変化と軌を一にしているといえるだろう。ギフォード講義という場をひとつのプラットフォームとしつつ、キリスト教神学は〈自然科学の最新の研究成果をどうとらえるか〉や、〈政治的な問題についてどのように論ずるか〉などの問いを立てながら、諸学との対話を模索しているのである。

本書評で扱うZum Bild Gottes(以下では暫定的に『神の似像』と訳す)の著者ミヒャエル・ヴェルカー(Michael Welker, 1947-)は、現代のドイツ・プロテスタント神学において、自然神学のこのような展開を代表するような人物であるといえる4。エアランゲンに生まれ、チュービンゲンやハイデルベルクにおいてユルゲン・モルトマンやディーター・ヘンリヒのもとで神学・哲学の学位を取得した彼は、チュービンゲン、ミュンスターでのポストを経て、1991年からハイデルベルクでの教授職を開始。2013年の退官後もシニア・プロフェッサーとして、引き続きハイデルベルクで旺盛な研究活動に従事している。この間、世界の各地で客員教授として講義を持っているが、特にアメリカと東アジア(韓国、中国)の大学・研究機関と緊密に交流を行っている。

神学者としてのヴェルカーは、やはり〈組織神学者〉という側面を抜きには語ることができない。一連の組織神学のプログラムとして出版されたもののなかには、聖霊論やキリスト論があり5、前者は邦訳もされている6。その思想的な基盤としてはヘーゲル哲学やホワイトヘッドのプロセス思想を挙げることができるが、それらが道具立てとしてどのように用いられているかは、本書『神の似像』でも一部垣間見ることができるだろう。また、自然神学との関連からいえば、ヴェルカーという学者のもつもう一つの特徴的な顔は、〈分野横断的な研究のコーディネーター〉という点にある。2005年より、ヴェルカーはハイデルベルクの「国際的・分野横断的な神学の研究拠点Forschungszentrum Internationale und Interdisziplinäre Theologie (FIIT)」の所長を務めており、さまざまな論点について神学が自然科学や人文学との対話を試みることを推進している。テーマのいくつかの例を挙げてみると、「肉―体―心―魂―霊:人間の人格の深層」のように人間学的なテーマを軸にして自然科学や人文学を巻き込んだ共同研究や、あるいはキリスト教にとって近年重要性を増している〈中国〉というフロンティアについて、中国の研究者との協議会を開催している。邦訳がなされた編著『死者の復活――神学的・科学的論考集』は、〈復活〉をテーマにした分野横断的な共同研究のひとつの見事な成果である7。このような点からも、ヴェルカーが現代のドイツにおいて自然神学というテーマの持つ領域横断的な側面を上手く引き出している思想家であることがわかるだろう。

内容の梗概――〈多様式・多極的な精神〉の概念

さて、ここでヴェルカーの著書『神の似像』の梗概を簡単に説明しておこう。彼の自然神学でも問題になっているのは、旧来の自然神学におけるような自然理性による神の存在証明ではなく、諸分野とのコミュニケーションのなかでキリスト教神学が人間にとっての重要な価値――正義、自由、真理、平和――を追求するといった政治的・社会的次元である。ヴェルカーはまず第一講義において、神学の前提としての状況診断を取り扱い、現代社会において人間の置かれた現状にスポットライトを当てる。人間の感情がメディアの影響などによってさまざまな形で影響されやすい現代の社会においては、それが容易に憎悪にすり替わりうる。そのようにして生じた極限の状況として、例えば〈全体主義〉の問題が考えられるであろう。ヴェルカーはアーレントの思考を手掛かりにそのような問題の起源を探っていくが、そのなかでひとつの論点に到達する。それは人間同士の関係が論じられるとき、社会的な多様性・複雑性が考慮されずに、ある種の〈二極的思考〉へと切り詰められてしまうという一般的な傾向である。例えばアリストテレスの〈友情〉や、ブーバーの〈我―汝〉といった概念はその典型だといえるだろう。この形での現実理解は、それが適用されるさいには日常の観察眼には見えないような根源的な人間関係の様相をたしかに浮かび上がらせることができる。しかしながら、切り詰められた人間関係の見方では、人間にとって重要な複雑性、つまり複数の人間が絡み合って織りなす政治的・社会的な結びつきを取りこぼしてしまうことになる。したがって、この二極的思考に対して、新たな人間関係のモデルが問題として提起されることになる。

このような問題状況を念頭に置いて、ヴェルカーは第二講義で自らの理論的な枠組みを構築することを試みる。まず、本書のタイトルにもなっている『神の似像』であるが、これは数多い被造物のなかでも神は人間をみずからの〈かたち〉に似せて創造したという聖書箇所が背景にある(創世記1:27)。この〈神のかたち〉が何なのかについてはキリスト教の歴史の中でさまざまな解釈があるが、ヴェルカーはこれが〈精神Geist〉であることを前提として議論を進める。ドイツ語のGeistという概念は、人間の精神だけではなく、三位一体の第三位格である〈聖霊der Heilige Geist〉も表すことがその背景にある。このような多様な精神概念を前提としたうえでヴェルカーは、人間と神を含めた精神の本来の姿を「多様式multimodal」と「多極的multipolar」という概念によって捉えるアプローチを提唱する。まず第一に、「多様式」という言葉は特に社会のデジタル化によって普及した言葉であるが、例えばビジネスの分野において、企業と顧客のコミュニケーションの方法を一つに絞るのではなく、多様なチャンネル――テクストメッセージ、チャット、ソーシャルメディアなど――で用意しておくことを意味している。そして第二に「多極的」というものの在り方は、例えばかつての冷戦における〈東西〉のような二極的・単一的な対立軸に立つだけではなく、多数のステークホルダーが多様な軸によって相互にネットワークを結んでいるさまを表している。ヴェルカーによれば、人間の精神は本来切り詰められた二極的な関係性のなかで完結するものではなく、多様式・多極的なモデルによってはじめてその複雑な社会性を適切に捉えることができる。そして、人間の精神が本質的にこのような構造を持っているからこそ、キリスト教も他の諸分野との多様な関係を結び、政治的・社会的な次元における価値へと働きかけることが可能なのである。

この〈多様式・多極的な精神〉概念の理論的根拠を、ヴェルカーは精神という概念をめぐって展開されたヘーゲル哲学に見出そうとする。ここで特に注目がなされるのは、『初期神学論集』を執筆していたベルンやフランクフルト時代(1793-1801)の若きヘーゲルである。この頃のテクストは、『精神現象学』や『論理学』などの主著と比べると注目されることは比較的少ないといえるが、ヴェルカーはこの時代のテクストがそう簡単に片づけられるものではないとして、その重要性を強調する。カントの宗教論への応答としての『イエスの生涯』、あるいは宗教の歴史的・社会的側面を提示するさまざまな断片のなかにヴェルカーは精神の多様式な構造を見出す。つまり、精神が個人的な道徳を内に含みつつ、政治・社会的な次元へも接続することが可能なのである。このような可能性の萌芽は、ヘーゲルの哲学がのちに形而上学化、全体化するにつれて希薄になっていってしまうが、その遺産はヘーゲル左派へと受け継がれることになる。フォイエルバッハやマルクスへの展開は、ヘーゲルの精神概念がもつ政治的・社会的次元をよく示しているといえるだろう。

このような方法論をもって、ヴェルカーは人間社会において目指される四つの価値――正義、自由、真理、平和――をテーマとして選び、それを扱う第三講義から第六講義までにおいて〈多様式・多極的な精神〉がどのような寄与をなすことができるかを論じてゆく。ここではその内容をすべて詳述することはできないが、一つだけ例を挙げて、内容紹介に代えよう。第五講義においては、〈真理〉の問題領域において、新しい自然神学の在り方が探求されることになる。ここで特に問題になるのが、〈科学と宗教〉という形で従来くくられてきた構図である。自然科学と宗教は時代によって〈対立〉や〈対話〉などさまざまな形でその関係性を変化させてきたが、それは一貫して二極的な〈対〉のなかで語られてきた。ヴェルカーはこのような〈科学と宗教〉の問題も多様式・多極的に捉える必要があると主張する。すなわち、自然科学と神学という二つの学問の関係性で終わらせるのではなく、他の学問領域も巻き込んだ諸学のネットワーク内における協議として、学問と宗教の問題を捉えようとするのである。その実践の形こそが、彼が主導している「国際的・分野横断的な神学研究」に他ならない。一例として、ヴェルカーはハイデルベルクで行われた共同研究「身体、魂、霊――人間の複雑性」を紹介している。〈人格〉とその身体性をめぐって、神学者の側からはパウロの霊肉観、哲学者の側からは〈人格〉という概念のそもそもの多義性・不確定性の問題提起、自然科学者の側からは心身問題にまつわる議論、そして道徳や医療における人間の尊厳についての提言など、さまざまな角度から議論が行われた8。真理をめぐる学問の領域において、ヴェルカーのいう〈多様式・多極的な精神〉の具体的な形は、このような共同研究として実現されうるといえるだろう。

若干のコメント――特に日本の視点から

ヴェルカーの自然神学は、神の存在証明を扱うような旧来の自然神学から離れ、キリスト教神学が自然理性を共通の議論の場として、他の学問領域と多様式・多極的な形で協議を行うことを志している。そこで問題になるのは自然科学との関係性だけではなく、キリスト教が必然的にかかわらざるをえない政治的・社会的な次元をも包括するものであり、その意味で私たちが新しい自然神学を考えるさいの道しるべとなっている。このような自然神学、ないしはキリスト教神学全体の動向は、今後日本においても当然重要な位置を占めてくることになるだろう。ここでは特に、ヴェルカーの自然神学を日本で受容するという観点から、若干のコメントを付すことにする。

第一に、ヴェルカーの自然神学が前提している西欧社会と、それを理解しようとする私たちがいる日本・東アジアの社会には当然差異があるということに留意する必要がある。ヴェルカーは二極的思考に対して多様式・多極的な精神を論じるが、そのなかでは個人と並んで集団的な社会性が結果として強調されることがある。一例としては〈正義〉というテーマを論ずる第三講義における〈家族的エートス〉への肯定的な言及が挙げられるだろう。社会的正義は一方で法治国家と福祉国家によって当然保障されなければならないものであるが、そこに回収されないケアの形を汲み取るものとして、〈家族的エートス〉の可能性が肯定的に示唆されている部分がある。しかし、これを安易に〈家族の復権〉のような形で日本の文脈に落とし込んではいけないことは明白であろう。ヴェルカーが論じているのは法治国家と福祉国家によって社会的正義を手厚く保証し、徹底的に個人の自由を守ってきた西欧の文脈においての発言であって、その前提なしにはこの問題を語ることは当然できない(ヴェルカー自身もこの問題に言及するときにはかなり注意を払っていることが叙述からうかがえる)。このようなことからも、政治・社会という次元を考慮に入れた自然神学を語る際には、それを受容する先の文化的コンテクストに適切に落とし込むこと、ないしは翻訳することが必然的に大きな課題となる。これは端的に次のような問いに表現することもできるだろう。東アジア、日本において、自然神学はどのような姿・形をとるべきなのだろうか。

第二の点は、この問題提起とすこし重なるところがあるが、〈多様式・多極的な精神〉の担い手の問題である。社会において目指される価値を実現するために、ヴェルカーは〈多様式・多極的な精神〉という概念を導入したが、このような精神は〈個人〉だけではなく、ある種の〈共同体〉によっても担われる必要があるであろう。すなわち、それぞれの人間が多様なチャンネルによって結び合わされて相互交流を持つという〈個人〉の次元だけではなく、それら個人が何らかの形で集うことによって結成される〈共同体〉もまた、他の共同体とさまざまな形で結び合わされていることが重要となる。本書『神の似像』では、このような〈共同体〉論、特にキリスト教の立場においてそれをどのように論じるべきなのかという問題について、その重要性に比すると論じられることが比較的少なかった。もちろん、キリスト教神学における共同体論となれば、その回答はほぼ一義的に定まってくる。すなわち〈教会論〉である9。事実ドイツでは、大きな世俗化の流れの中でその伝統的な地位は揺らぎつつも、キリスト教教会は社会におけるさまざまな領域――医療、福祉、教育、社会正義、政治など――の分野においてまさに〈多様式・多極的な精神〉として機能し続けている。ヴェルカーの自然神学を理解するためには、ドイツの教会のこのような社会的役割を考慮に入れる必要があるだろう。

しかしながら、この点は再びヴェルカーの自然神学を日本という文脈で考えるさいに、一つの難点となる。というのも、日本のキリスト教会はその規模・影響力の面からいって、ドイツのキリスト教会ほどの位置を社会の中に占めることは難しいからである(これはもちろん、日本の教会が現在進行形で自らの宗教的理念や社会的価値の実現に貢献していることを否定するものではない)。評者の私見では、日本のキリスト教において〈多様式・多極的な精神〉という理念に一番近い機能が期待できるのは、医療・福祉・教育など、日本の近代化が始まる段階から大きな公的役割を担ってきた分野である。宣教師たちによって建てられた病院や学校、高齢化社会において今後さらに重要性を増す福祉施設などは、キリスト教と社会をつなぐチャンネルとして重要な役割を有している。また、それらとはすこし異なった角度から社会との多様な接点を持ちうるのは〈大学〉だろう。キリスト教が自然理性に基づいてさまざまな諸学問との対話を行う場として、あるいは研究・教育をつうじた啓蒙によって社会の言論に訴えかけることのできる知的なインターフェイスとして、いわゆるミッション系の大学は日本のキリスト教にとっての〈多様式・多極的な精神〉を担う共同体であり、大きな課題を与えられているといえる。

第三点として、ここまでは自然〈神学〉という問題設定の都合上、議論をキリスト教という一つの立場に限定してきたが、〈多様式・多極的な精神〉という考え方は社会に参加するあらゆるステークホルダーにとってもあてはまるものである。例えば、仏教や神道などの日本の伝統宗教は、正義、自由、真理、平和のような価値についてどのような態度をとり、どのような形で〈多様式・多極的な精神〉を実現するのか。あるいは学問の府である大学や個別の研究機関は、複雑に織り成された社会の参加者として、どのような形でこれらの宗教や他の参加者とかかわることになるのだろうか。いずれにせよ、ヴェルカーの自然神学はこのような問題を考えるさいの手引きとして重要な示唆を与えてくれるものだといえる。

1本講義は新型コロナウイルスの影響により、オンラインで配信された。動画は以下で視聴することができる。https://www.youtube.com/watch?v=1QeGfVeQmZM&t=121s (2021年5月19日最終アクセス)。

2ここでの説明は以下の公式ウェブサイトを参照した。 https://www.giffordlectures.org/ (2021年5月19日最終アクセス)。

3このあたりの事情については、以下の文献、とくに終章を参照。芦名貞道『自然神学再考――近代世界とキリスト教』晃洋書房、2007年.

4ハイデルベルク大学のホームページを参照。https://www.uni-heidelberg.de/fakultaeten/theologie/personen/welker.html (2021年5月19日最終アクセス)

5Michael Welker, Gottes Geist: Theologie des Heiligen Geistes, Neukirchen-Vluyn: Neukirchener Verlag, 1992, 6. Aufl. 2015; Gottes Offenbarung: Christologie, Neukirchen-Vluyn: Neukirchener Verlag, 2012, 3. Aufl. 2016.

6M・ヴェルカー、片柳榮一、大石祐一(訳)『聖霊の神学』教文館、2007年.

7T.ピータース、R.J.ラッセル、M.ヴェルカー(編)、小河陽(訳)『死者の復活――神学的・科学的論考集』日本キリスト教団出版局、2016年.

8この共同研究は次の論文集で参照することができる。Michael Welker (ed.) The Depth of the Human Person: A Multidisciplinary Approach, Grand Rapids/Cambridge: Eerdmans, 2014.

9ヴェルカー自身の教会論としては、以下の著書を参照。Michael Welker, Kirche im Pluralismus, Kaiser: Gütersloh 1995, Gütersloher Verlagshaus: Gütersloh 2. Aufl. 2000.

出版元公式ウェブサイト

Evangelische Verlagsanstalt

https://www.eva-leipzig.de/product_info.php?info=p5047_Zum-Bild-Gottes.html

評者情報

岡田 勇督(おかだ ゆうすけ)

専門は哲学・宗教哲学・キリスト教神学。京都大学(キリスト教学)でガダマーの解釈学についての研究を行ったのち、現在ドイツのハレ・ヴィッテンベルク大学博士課程でシュライアマハーについての博士論文を進めている。主要な業績はYusuke Okada, ”Is Gadamer a Realist?” in Trópos: Rivista di ermeneutica e critica filosofica 2(12) 2019, 157–171; Yusuke Okada, „Ontologische Differenz in der philosophischen Hermeneutik Gadamers“ in Internationales Jahrbuch für Hermeneutik (18) 2019, 198–212.

researchmap:https://researchmap.jp/yusukeokada/

Twitter:@okadyusk