Tokyo Academic Review of Booksonline journal / powered by Yamanami Books / ISSN:2435-5712

Categories: ,

2021年7月24日

William D. Blattner, Heidegger’s Temporal Idealism

Cambridge University Press,1999年

評者:峰尾 公也

Tokyo Academic Review of Books, vol.27 (2021); https://doi.org/10.52509/tarb0027

1. 概要と要約

本書は、ジョージタウン大学教授、ウィリアム・ブラットナー(William D. Blattner)によるハイデガー哲学の研究書である。著者は、1983年にカリフォルニア大学バークレー校で哲学の学士号を、さらにジョン・ホーグランド(John Haugeland)の指導により1989年にピッツバーグ大学で博士号を取得後、本書に組み込まれる諸論稿を発表した。ウィリアム・リチャードソン(William J. Richardson)に端を発し、ヒューバート・ドレイファス(Hubert L. Dreyfus)以降とくに活発化した、アメリカでのハイデガー受容を牽引する研究者の一人である。

本書のタイトルを日本語に訳すならば、おそらく『ハイデガーの時間観念論』となるだろう。このタイトルに含まれたTemporal Idealismという表現は、「時間は人間存在に依存している」――もっとわかりやすく言うと、「人間がいなければ時間もない」――というテーゼによって特徴づけられる、カント的な観念論と同様の立場を指している。本書において著者は、「存在」を「時間」という地平から解釈するという『存在と時間』の中心企図を真正面から受け止めつつ、その企図をこの「時間観念論」へと関連づけようと試みている。

本書の構成をおおまかに確認しておこう。

まず、導入部では、前期ハイデガーの「存在」や「意味」といった概念の基本的理解が確認され、そのうえで「存在」と、その「意味」とされる「時間」とを、それぞれ「現存在」(人間存在)に依存しているとみなす彼の立場が、「存在観念論」および「時間観念論」という名称によって規定される。そのうえで、当時のハイデガーが採用していた現象学的方法と、いわゆる「現象学的還元」にかんしての彼の不透明な立場が検討される。

第一章では、『存在と時間』前半部の分析全体が概観される。『存在と時間』は、前半部で、世界内での「現存在の存在」――ハイデガーはこれを「気遣い」と呼ぶ――の構造を分析し、後半部で、その構造全体が依拠している「時間性」という構造の分析へと進む流れとなっており、本書がその中心主題としている「時間性」に着手するには当然、この前半部の分析をあらかじめ概観しておく必要があるというわけである。そのあと、本章ではおもに、「根源的時間性」を「気遣いの意味」として提示している『存在と時間』第65節でのハイデガーの主張が考察される。

第二章では、前章で「気遣いの意味」として明らかにされた「根源的時間性」が、今度はそれ自体として解明の対象となる。著者によると、「根源的時間性」とは、「本来性」と「非本来性」とにかんして「様態上無差別的」な時間性のことを指しているとされる。このように理解された「根源的時間性」の解明は、それとは本質的に区別されると同時にそこから「派生」するとハイデガーが主張している「世界時間」や「通俗的時間」についての説明も含んでいる。著者はその説明を、「通俗的時間」は「世界時間」に依存しており、「世界時間」は「根源的時間性」に依存している、という簡潔なテーゼのかたちで提示している。

第三章では、当該テーゼの前半部分、つまり「世界時間」への「通俗的時間」の依存という論点が詳述され、第四章では、後半部分、すなわち「根源的時間性」への「世界時間」の依存という論点が詳述される。

そして第五章でようやく、これまでの諸章で得られた成果をもとに、ハイデガーの「時間観念論」そのものが説明される。著者の考えでは、少なくとも1924年の「時間の概念」講演から1935年の「形而上学入門」講義にかけての約10年間、ハイデガーは、自認こそしないものの、「もし現存在が存在しないならば、時間も存続しないだろう」と考える時間観念論的な立場をとっている。言うまでもなく、この立場は、『純粋理性批判』のなかでカントがとった立場としてよく知られるものであり、そのため本章では、同書における時間の「経験的実在性」と「超越論的観念性」とにかんするカントの有名な主張と、それに対応するハイデガーの主張との比較がなされる。そのさいとくに、「もし現存在が存在しないならば、その場合には、存在者が《ある》とも《ない》とも言われえない」といったことが述べられている『存在と時間』第44節のある箇所(「その場合には」の部分をどういう意味で解すかによって複数の読解可能性が開かれるため、著者が「その場合には・パッセージ」と呼ぶ箇所)の読解がなされる。かくしてこの読解を通じて、ハイデガーの「存在観念論」と「時間観念論」が、「超越論的」ないし「現象学的」な立場においては、「存在」と「時間」をそれぞれ「現存在」に依存しているとみなす一方、「経験的」な立場においては、もし「現存在」が「存在」していないならば、「存在者」は――それについての一切の言明可能性が「存在」に依存しているため――「存在する」とも「存在しない」とも言われえない、とみなす立場として明らかにされる。以上の比較を通じて著者は、ハイデガーとカントはいずれも「時間観念論者」だが、ハイデガーが「存在観念論者」であるのに対して、カントは「存在者観念論者」である、という診断を下す。かくして本章の終盤では、ハイデガーの「時間観念論」の哲学史的な位置づけが、プロティノスに由来し、ライプニッツ、カント、ベルクソンへと受け継がれた、ある「由緒ある哲学的伝統」へと関連づけられる。

結論部では、ハイデガーの「時間観念論」および「存在観念論」の「失敗」という否定的な結論が下される。そしてこの「失敗」こそ、『存在と時間』を未完にとどめ、ハイデガーに思索上の「転回」を強いたものだと主張される。

2. 評者によるコメント

ハイデガー哲学にかんする研究書は古今東西無数にあるものの、時間論を中心に扱ったものは数が少なく、英語で書かれた研究書にかぎって言えば、おそらく本書がはじめてであろう。この点だけでもう本書の意義のひとつと言えるが、それ以上に目を引くのは、本書がその時間論の内実を比類のない明瞭さでもって説明している点である。これは、ハイデガー哲学を専門に研究している者たちでさえしばしば匙を投げるほどの不明瞭さによって知られる彼の時間論の受容状況を考えるに、じつに意義深い点である。本書の説明が示すその明瞭さはとりわけ、「時間」が「現存在」に依存している以上、この「時間」という地平に基づいてはじめて理解可能になる「存在」もまた「現存在」に依存しているとみなす立場、すなわち「時間観念論」と「存在観念論」のセットとして、『存在と時間』におけるハイデガーの立場を説明するというアプローチにある。

このアプローチから見た場合、ハイデガーの時間論は、従来の時間論の伝統を、ある面で「解体」しようとしている(と一般に思われている)にもかかわらず、別面ではまさに「継承」することでも成り立っていることがわかる。じっさい、この時間論の基本的発想そのものは、西洋哲学の伝統においてとりたてて目新しいものではない。「時間」は、たとえばニュートンが『プリンキピア』で提示した「絶対時間」のようにそれ自体で独立して存続するものではなく、「人間存在」に本質的に依存したものだという発想は、すでにプロティノス、ライプニッツ、カント、ベルクソンらの時間論のもとに見出せる。根源的に解されるならば、「時間」とは「魂」「主観」「意識」「現存在」に依存的なものであって、それらから切り離されては何ものでもない(カント的に言うと、超越論的には実在性をもたない)というのは、哲学的な時間解釈の仕方としてはむしろオーソドックスである。このように本書は、その外観が不明瞭さで覆われているハイデガーの時間論を、「時間観念論」と呼ばれる明瞭な立場へと落とし込むことで、プロティノスやカントを筆頭とする哲学的伝統のなかに位置付けることを試みており、その試みはある程度成功しているように見える。

しかしながら、評者の視点から、本書の立論において問題含みと見えなくもない三点を指摘しておくことにしたい。ただし即座に付言しておくと、これら三点は、ハイデガーの時間論に属する不明瞭で危険な部分に敢えて手を付けず、その時間論の核心部を浮き彫りにすることに貢献しているという意味で、それぞれ美点とも言える。

第一点は、テクスト選択にかんしてである。本書において著者は、前期ハイデガーの哲学的立場を明確に見定めるために、研究対象とする主要テクストを、いずれも1927年の『存在と時間』と『現象学の根本諸問題』に制限する。そうすることでまた著者は、同時期の他の諸テクストを、そこでの記述ないし発言がハイデガー自身の積極的主張なのか他の哲学者の主張をたんに代弁しているだけなのかが判別しにくいという理由から、せいぜい傍証として引き合いに出すまでにとどめる。既刊著作内の記述と、未刊草稿内の(とくに他の哲学者のテクスト解釈中での)記述とを、研究上まったく同列に扱うことはできないため、このような防護策はなるほど納得のいくものではある。しかしこの防護策は、本書が『カントと形而上学の問題』のような著作にほとんど触れていないことを、必ずしも正当化しないだろう。たしかにこの著作は、少なくとも見かけ上、カントにかんするハイデガーの解釈書であるため、『存在と時間』のような著作とは性質が異なっているという見方もできる。だが実際上、この著作は明らかに、たんなるカント解釈を越えたハイデガー自身の積極的主張を多く含んでおり、したがって、まさにカントとハイデガーの立場の比較を主眼のひとつとしている本書が、この著作に――とりわけ、そこで提示される「超越論的構想力」と「根源的時間性」との関係のような重要な論点に――手を付けないでいることは、評者としては理解しがたい点のひとつである。

第二点は、「根源的時間性」の解釈にかんしてである。本書において著者は、「根源的時間性」を、「本来性」と「非本来性」とにかんして「様相上無差別的」な時間性として解釈している。一般的なハイデガー解釈では、「本来性」と「非本来性」はそれぞれ、「現存在」が自らの「死」という極端な可能性を直視しているか否かによって区別される二者択一的な実存様態と解される。その一方、これら様態の双方に共通して見出される実存の諸特徴は「様相上無差別的」なものと解される。そして、ハイデガーは基本的に「根源的時間性」を、「様相上無差別的」とされる「気遣い」の「意味」として提示しているため、このような解釈には評者としてもとくに反論するところはない。しかし、著者も重々承知しているように、『存在と時間』には、こうした「様相上無差別的」な「根源的時間性」をそれ自体「本来的時間性」として規定・分析しようとする、上記の規定とは外見上両立しがたい分析を含んでいる。これについて著者は、この両立不可能性を解消すべく、前者の規定を徹底して保持することで、後者の規定・分析を――それに伴い、この「本来的時間性」と密接に結びついている「歴史性」の分析をも――回避するという態度をとっているのだが、こちらのほうは看過しがたい点である。というのも、『存在と時間』でのハイデガーの主張すべてを整合的なものとして受け取ろうとするならば、「根源的時間性」は「様相上無差別的」であると同時に「本来的時間性」でもあると考えられうるからであり、その場合にまた、この「根源的時間性」と「歴史性」との関係が、ハイデガーの時間論そのものの重要な一局面として浮かび上がってくるからである。それに対して、「本来的時間性」や「歴史性」にかんする分析を回避するというこの態度は、著者が「時間観念論」として特徴づけられうるかぎりでのハイデガーの議論のみを抽出し、そこから外れる議論を故意に除外しているという印象を読者に与える。この印象はしかも、著者が「テンポラリテート」の問い(『存在と時間』第一部第三編で着手される予定だった問い)に対して示す冷淡な態度によって強められる。「現存在」の時間性格ではなく、「存在一般」の時間性格について言われるこの「テンポラリテート」が「時間観念論」のうちに場所をもたないのは明らかであるため、著者はこれについても当然、無視せざるをえない。著者は、ハイデガーにおけるこの「テンポラリテート」の問いへの着手を、「時間観念論」の「失敗」という消極的な表現で説明しているが、これはむしろハイデガーの時間論の射程全体が「時間観念論」に尽きないということを積極的に示すものとは考えられないだろうか。

第三点は、伝統との関係にかんしてである。本書の終盤で著者は、ハイデガーの時間観念論を、とくにプロティノスに由来するとされる哲学史上の伝統へと関連付けている。しかし、ハイデガーがプロティノスに言及することは滅多になく、その時間論にかんするまとまった言及と呼べるものにいたっては(少なくとも既刊テクストの範囲内では)皆無である。また、ハイデガーが自身の時間論の着想源として明白に引き合いに出するのはむしろアリストテレスやアウグスティヌスであるため、彼らを差し置いてとくにプロティノスの名前が挙がっているのには若干の違和感がある。さらにカントやベルクソンとの関係も、本書で説明されているほど単純ではないだろう。カントの時間論については言わずもがな、ベルクソンの時間論についても、前期のハイデガーは、積極的なものと消極的なものとが織り交ざった複雑な主張を展開している(おまけに、ベルクソン自身によるカントの解釈を考慮すると話はもっと複雑になる)。たしかに、著者が「時間観念論」として明らかにするハイデガーの立場が、古代から脈々と受け継がれてきたある伝統の線上で理解できるということは否定しがたく、こうした説明の明瞭さがハイデガーの時間論の要所をまさに照らし出していることは間違いない。そのことはしかし、いっさいの単純化を免れているというわけではないだろう。

3. 文献案内

まず、アメリカでの近年のハイデガー研究の動向全体を押さえるうえで、ドレイファスの『世界内存在』(Dreyfus 1991)は必読であろう。また、本書の内容をより明確に理解するために、とくにBlattner 1992; 1994が参考になる。それから、『存在と時間』における「その場合には・パッセージ」や「パズル・パッセージ」(cf. Cerbone 1995)をめぐっての「存在者/存在」それぞれにかんする「実在論/観念論」論争については、最低限、その全容が整理されているPhilipse 2007を見ておくべきと思われる。なお、この論争にかんする著者の立場と対照的なもの(つまり、ハイデガー哲学の「実在論的」な側面を強調するもの)として、Dreyfus and Spinoza 1999とCarman 2003を挙げておこう。最後に、著者も関与している「存在観念論」としてのハイデガー読解にかんしては、池田 2011による批判を参照されたい。

参考文献

  • Blattner, William D., 1992, “Existential Temporality in Being and Time (Why Heidegger Is Not a Pragmatist),” in Heidegger: A Critical Reader. H. L. Dreyfus and H. Hall (eds.), Oxford: Blackwell, pp. 99–129.
  • Blattner, William D., 1994, “Is Heidegger a Kantian Idealist?” in Inquiry 37, pp. 185–201.
  • Carman, Taylor, 2003, Heidegger’s Analytic: Interpretation, Discourse, and Authenticity in Being and Time, Cambridge: Cambridge University Press.
  • Cerbone, David, 1995, “World, World-Entry, and Realism in Early Heidegger,” in Inquiry 38, pp. 401–421.
  • Dreyfus, Hubert L., 1991, Being-in-the-World. Cambridge, Mass.: MIT Press. (邦訳:ヒューバート・L・ドレイファス『世界内存在――『存在と時間』における日常性の解釈学』門脇俊介監訳, 産業図書, 2000年)
  • Dreyfus, Hubert L. and Spinosa, Charles, 1999, “Coping with Things-in-Themselves: A Practice Based Phenomenological Argument for Realism.” in Inquiry 42, pp. 49–78.
  • Philipse Herman, 2007, “Heidegger and the Scandal of Philosophy,” in Transcendental Heidegger, S. G. Crowell & J. Malpas (eds.), California: Stanford University Press. pp. 168–198.
  • Richardson William J., Heidegger: Through Phenomenology to Thought. Preface by Martin Heidegger. The Hague: Martinus Nijhoff Publishers, 1963.
  • 池田喬, 2011,『ハイデガー存在と行為――『存在と時間』の解釈と展開』創文社.

出版元公式ウェブサイト

Cambridge University Press

https://www.cambridge.org/core/books/heideggers-temporal-idealism/8E3CE8AF9BBA9C7213FD6C98CFC36F86

評者情報

峰尾 公也(みねお きみなり)

現在、早稲田大学・立教大学・千葉大学・国際医療福祉大学 非常勤講師。専門はハイデガーと現代フランス哲学。主な著作に『ハイデガーと時間性の哲学――根源・派生・媒介』(溪水社、2019年)。訳書にアルフォンス・ド・ヴァーレンス『マルティン・ハイデガーの哲学』(月曜社、2020年)。主な論文に「ハイデガー『存在と時間』における「時間性への世界時間の帰属について」」(『現象学年報』第36号、日本現象学会編、2020年、129–137頁)ほか。

Categories: ,