2021年9月3日
アルフレッド・ミーリー『アメリカの大学生が自由意志と科学について語るようです。』
蟹池陽一訳,春秋社,2018年
評者:李 太喜
【自由意志の問題を考え始めたくなった皆さんへ向けて】
1.はじめに
自由意志の問題は、哲学の議論の中でも特に長い歴史を持ち、そして現在においてもなお精力的に論文の生産され続ける重要なテーマの一つである。しかし日本では、海外、特に現在活況にある英米での自由意志研究の受容がやや遅れるという状況にあったと言ってよい。しかし近年、自由意志の哲学の専門書や入門書が充実してきており、自由意志研究の道へ進みたい、もしくはもっと手軽に自由意志の哲学に触れてみたいという人達にとって望ましい状況が整備されつつある。そして本書評もまた、「自由意志の哲学についてまずは本を読むところから始めてみたいけれど、何から始めてみればいいか分からない」という方への一助となればという思いのもと書いている。よって本書評は、以下で紹介する書籍の内容を批判的に検討するという側面よりも、書籍を読み進めるためのガイドという側面が強いことをここで先に述べておきたい。
さて、本書評で取り上げたいのはアメリカの哲学者アルフレッド・ミーリーの著作『アメリカの大学生が自由意志と科学について語るようです。(原題:A Dialogue on Free Will and Science)』である(以下では蟹池氏による翻訳書の方を念頭に「本書」と呼ぶこととする)。ミーリーは、英米系の現代行為論と現代自由意志論のトップランナーと呼ぶにふさわしい哲学者である。そのミーリーによるこの著作は、大学の学部生向けに書かれた自由意志の哲学の入門書となる。フロリダ州立大学を舞台に、大学生達が自由意志について5日間熱い議論を交わし合うという対話篇の形式が採用されており、初学者にもとっつきやすいものとなっている。ここで本書の要約へと移るに先立ち、まずは数ある(というと言い過ぎかもしれないが)自由意志の入門書からなぜ本書を取り上げるのかについて少しお話ししておきたい。
本書を取り上げる最も大きな理由は、本書が自由意志に関する脳科学や社会心理学などの実証的な研究をふんだんに取り上げているという点にある。第1-3章で自由意志についての哲学上の諸理論を整理したのち、第4-8章では脳科学や社会心理学における、いわゆる「自由意志否定論」として解釈される様々な実証研究が紹介、検討される。そして第9-10章では、哲学における自由意志の理論にとって、それらの実証研究が含意するところが議論される。実は日本語で読める自由意志の入門書の中で、科学における実証研究を丁寧に取り上げた本は私の知る限り他に無く、その点で本書は出色だと言える。ゆえに本書は、哲学的な興味だけでなく科学的な関心から自由意志の問題を考えてみたい人にも開かれたものとなっている。
ただし、科学的な実証研究を多く取り上げているからと言って、哲学的な議論の紹介がおざなりになっているわけではない。自由意志の哲学では、自由意志の概念的内実の探求において多様で奇抜な思考実験や論証が駆使されるのだが、第1-3章ではそのような思考実験が、ミーリー流のアレンジのもとで紹介されている。自由意志の哲学的探究の面白みの一つと言えるこれらの思考実験について興味がある読者にとっても、本書は大いに参考となるだろう。
2.要約
ここでは本書の内容を簡単に要約する。とはいえ、自由意志の哲学、もしくは哲学そのものの初学者として本書評を読んでいる方々にとって、ここで本書の内容全体を簡潔に要約したところでよく分からないというのが実情ではないだろうか。そこで、ここでは本書の導入部分を中心に内容を追いかけつつ、本書で問われている自由意志の哲学の問題設定自体を理解してもらえるような記述を心掛ける。また本書は入門書であるとはいえ、どうしても難解さが残る箇所があり、さらに後で述べるように、本書には幾つか理解をしにくくする要因が含まれてしまっている。ここでの要約を、そうした難解な箇所や要因を解きほぐすために、本書と並行しながら読む読書ガイドとして活用してもらってもよいだろう。
まず、「はじめに」でも少し触れたが、本書は大きく言って3つのパートに分けることができる。初めのパートである第1-3章では、自由意志に関する哲学的議論が整理、検討されることになる。そしてそれに際して、決定論のテーゼと自由意志に関する3つの哲学理論が導入されることになる。
自由意志の問題は、決定論と自由意志の対立という構図のもとで長らく問われてきた。この書評を見つけ、更にここまで読み進めている読者であれば、「決定論」という言葉を聞いたことくらいはあるという人が多いのではないだろうか。決定論とは、ざっくり言えば「ある時点での世界の状態と、自然科学の法則群の組み合せによって、あらゆる時点での世界の状態が一意に決定する」というテーゼのことである 1。ただ、これではなんだかよく分からんという人もいると思うので具体例を示そう。まず自然科学の法則は、何かしらの初期値の入力に対応して、ただ一通りの出力を返すものだと言える 2。ならば、自然法則に例えば「ビッグバンが起きた138億年前の特定の時点での世界の全状態」を初期値として与えることで、「2021年7月30日、締め切り間近で私(李)がこの書評を書いていた」ことや「2021年8月2日現在、私(李)が結局締め切りに間に合わず書評を書き続けている」こと、そして未来に何が起きるかなど、あらゆる時点での世界に生じる全ての出来事が一意に、つまり必然のものとして決定されることになる。つまり、私が締め切りを破ることはビッグバンが起きた時点からすでに必然であったというわけである(お許しください)。自然の法則性が人間の動きにも適用される時、果たして私たちは自由意志を持つと言えるのだろうか。これが自由意志の哲学の典型的な問題設定となる。
この決定論の一見した自由意志への脅威に対して、本書では自由意志の哲学において検討されている3つの哲学理論が提示される。なぜだかガソリンスタンドに例えて「レギュラー」、「ミドル」、「プレミアム」とそれぞれ名称が与えられるのだが、それはさておき、一番お手軽とされる「レギュラー」の自由意志については次のような説明が与えられる。自由意志とは「心理的操作や強要をされることなく、適切な情報に基づいて理由を比較衡量し、それを踏まえて意志決定を下すことができる」能力のことである。つまり、誰かに脅迫などをされることもなく、自分の正しいと信じた理由から行為できているのであれば、その人は自由に行為できていることになる。この「レギュラー」な自由意志がなぜ一番お手軽かといえば、この定義の中には「別の選択もできた」という、本書で「選択可能性」と呼ばれるところの能力が含まれていないからである。「レギュラー」の自由意志理解を採る人は、「心理的操作や強要をされることなく、適切な情報に基づいて理由を比較衡量し、それを踏まえて意志決定を下すことができて」いることが「必然的に決定」されていたとしても、このことはその人の自由意志を脅かすことにはならないと主張する。それゆえこの「レギュラー」的自由観を採る立場は、一般的に自由意志と決定論の「両立論」と呼ばれることになる。
いや、とはいえ何かをすることが必然的に決定されていたのなら、自由とは言えないんじゃないの?そう考える人は、「ミドル」とミーリーが呼ぶ能力が自由意志を持つために必要だと考えていると思われる。「ミドル」は「レギュラー」が要求する能力にプラスして、「深い選択可能性」を付け加えた能力のことである。深い選択可能性とは何か。それは「ある人がある時点でAを選択したとして、そのAを選択する直前の全く同一の過去の時点に舞い戻った時に、Aとは別のBをすることも選択しえたという能力」のことである(一方で「浅い選択可能性」は、「過去が違っていれば別のことも選べた」という能力を指す。こちらの能力は決定論と両立するが、細かい話は本書を読んでほしい)。思えば私も、本書評を書き始める前に、子供と散歩に行くか迷って、結局書評を書き始めたのであった。しかし私はあの時点で子供と散歩に出かけることを選ぶこともできた。そう考えることは、私は自分に深い選択可能性があったという想定を前提としている。しかし、この深い選択可能性を持つことは決定論のテーゼと対立する。決定論に従えば、私が今ここで書評を書くことは必然的に決まっており、他の選択はありえなかったためである。よって「ミドル」の自由観を採る立場は一般的に自由と決定論の「非両立論」と呼ばれている 3。
最後に「プレミアム」の自由意志であるが、「プレミアム」な自由意志は「物質的とは言えない魂」の存在を必要とするものだとされる。ただしこの立場はほとんど検討されない。
ではこれらの理論のうちどれが一番もっともらしいのか。本書では「レギュラー」の自由意志理解を採る立場に対し、それを擁護するものとして「ハリー・フランクファートの思考実験」を、一方で批判的なものとして「接合子論証」を提示する。前者は、深い選択可能性を持たないにもかかわらず自由に行為していると思われる行為者の存在を示す思考実験であり、後者は「レギュラー」な能力を持っているにもかかわらず自由に行為できていないと思われる行為者の存在を示す論証となっている。他方、「ミドル」の自由意志理解を採る立場に対しては、一般的には「運論証」という呼称を持つ批判的な議論がミーリー流のアレンジのもと提示される。この論証は、「ミドル」が必要とする深い選択可能性が、行為者の選択をコイントスのごとく運任せのものにしてしまうために、行為者をむしろ不自由にしてしまうことを示そうとするものである。それぞれの議論の位置づけを踏まえて本書に臨むことで、理解がすっきりしてくれることを期待する。
さて、この第1-3章までは自由意志を決定論との関係性から問うという、自由意志の哲学における標準的なスタイルで論じられているが、「はじめに」でも述べたように、続く第4-8章では、決定論とは異なった形で自由意志の存在を脅かすように思われる様々な実証研究が取り上げられることになる。例えば第4章では、B・リベットによる有名な実験が取り上げられる。この実験の被験者は、時計を見せられながら、好きな時点で手首を曲げるようにと指示を受ける。そして手首を曲げた後に、どの時点で手首を曲げることに決めたのかを質問される。通常、そこで回答される時刻が、まさに手首が曲がるかどうかが決まった時刻と思われるだろう。しかし、実験の示すところによれば、その回答された時刻の以前において、既に筋肉を動かすことに先立つ脳波(準備電位)が検出されているという。つまり、脳は意識的な意志決定に先行して体の動きを決定しているというわけである。ちなみにこのリベットの実験の章が本書でもっとも複雑で分かりにくい箇所だと思われる。ここで諦めたくなっても、先に進むことをお勧めする。
他にも例えば第7章では、「スタンフォード監獄実験」が取り上げられている。これは、スタンフォード大学の学生を看守役と囚人役に分け、模擬的な監獄生活を送らせ、その様子を観察するという実験であった。しかしこの実験は、事前の面接ではごく普通の道徳を身に着けていると評価されていた看守役の学生達が、生活を送る中で想定もされなかった残虐な振る舞いを見せ始めたために、打ち切りという結末を迎えることになった。この実験の手法や解釈についての論争は今なおやむことがないが、この実験を、私たちがどう振る舞うかは自分がいかなる立場に立たされるかに非常に強い影響を受けてしまう、ということを示すものとして受けとめる余地はありそうである。
本書では、様々な実証研究をもとに私達の振る舞いの多くが無意識的に行われていることを示そうとするD・ウェグナーの議論など、他にも数多くの話題が取り上げられている。重要な点はこれらの実験や議論がいずれも、人間の自由意志を否定するものとして解釈されるという共通点を有していることである。私たちの行為が、意識的に意志決定することに先立って脳によって決定されているのであれば、もしくは私たちが自分の置かれている状況や役割に決定的な影響を受けてしまうのであれば、最もお手軽な「レギュラー」の自由意志、すなわち「心理的操作や強要をされることなく、適切な情報に基づいて理由を比較衡量し、それを踏まえて意志決定を下す」能力さえ持ち合わせていないことになるのではないか。さて、本書に登場する大学生達がこの実験結果にどう向き合うかと言えば、彼らは各章でそれぞれの実証研究の解釈についての討論を重ねながら、最終パートである第9-10章において、私たちの「レギュラー」、「ミドル」、「プレミアム」のそれぞれの自由意志が否定されるという議論に対し批判的な結論に達している。この結論の確認およびその是非の判断については読者自身に委ねたい。
3.コメント
本書について、その長所は既に述べたので、ここでは本書を読むに際しての留意点をいくつか指摘することとしたい。
まず内容に関して、本書は比較的薄めの本でありながら自由意志についての実証研究にも触れているため、自由意志の哲学的議論の掘り下げはやや浅くなってしまっている。実際に、論じられている議論は比較的キャッチーなものを中心に、ミーリーの関心を色濃く反映する形で選び出されているように思われる。従って、本書一冊で自由意志の哲学の全体像をつかむということは残念ながら叶わない(例えば「行為者因果説」などは自由意志論における重要な立場の一つであるが、本書では第10章でわずかに言及されるのみである)。本書で自由意志という話題の面白さに触れ、哲学的な議論を体系的に学びたいという意欲を持った人は、最後に文献案内で紹介する書籍へと進んでほしい。
一方で、本書で紹介されるミーリー流のアレンジを効かせた哲学的論証は、ミーリー自身の自由意志研究において実際に使用されてきたものである。実はミーリーは多種多様な思考実験を生み出す優れた思考実験メーカーという顔を持っており、そんな彼の議論は英米系の自由意志研究においても非常に大きな影響力を持っている。自由意志研究の最前線に立つ人物としてのミーリー哲学に興味がある人にとって、本書は実はちょうどいい入口と言えるかもしれない。
また、本書が対話篇という形式を採っており、すらすらと読みやすいということが逆に読者にとって不利に働く可能性もある。確かに対話篇というのは、勝手に登場人物が質問してくれて、受動的に読んでいるだけで理解を深めることができるという利点もあるのだが、一方で登場人物が勝手に話に納得してしまい、勝手に話を先へ進めてしまって読者を置いてきぼりにしてしまうこともある。本書にもこのような側面があることは否めない。特に、平明な表現であるとはいえ、そこで紹介されている哲学理論や実証的研究の結果・解釈自体は大変に複雑なものであることに変わりはない。本書の内容をきちんと理解するためには、存外に一文一文ゆっくり丁寧に読み進めていく姿勢が必要とされる。
もう一つ、本書では随所にアメリカの大学生たちによる小粋なジョークが散りばめられている。ミーリーはこれを本書の利点として考えているのだろうが、残念ながらこのジョークは私のツボにはまることがなく、むしろどこまでが本筋でどこから脇道に入っているのか分かりにくくするという副作用まで持っていた。これは単純に私のアメリカのジョーク文化への無理解さを示しているだけなのかもしれない。もしそうなら、このジョークがたまらんのだよ、と腹を抱えながら読む人もいるのかもしれない。ただし、訳者の蟹池氏の努力の跡も随所に伺われることから、単にミーリーのジョークがあまり面白くない可能性も一応あるということは言っておきたい。いずれにせよ、私にとっては読む楽しみを増すための修辞がややしつこく感じられたのである(と言いつつ私もここで軽口をたたいているわけだが)。ここは好みが分かれるところだと思うが、時によく分からないところは飛ばしつつ、要点を確認するという作業が必要となるかもしれない。
最後は小言のようなことも書いてしまったが、学部生に向けて、対話篇という形で、科学的な実証研究の話題も広く取り入れながら自由意志の入門書を書くというミーリーの意欲的な試みに私は敬意を表したい。自由意志の哲学は大変に面白いし、なんだか考えてみたくなる魅力を持っている、と私は思っている。本書は、そんな自由意志に心惹かれた方々にとって心強い手引きとなるだろう。読み方に少しばかり注意しつつ、その面白さにぜひ触れてみてほしい。
4.文献案内
邦語で読める自由意志の入門書として、例えば
- ⑴ 鈴木生郎、秋葉剛史、谷川卓、倉田剛『ワードマップ現代形而上学 分析哲学問う、人・因果・存在の謎』(新曜社、2014年)
- ⑵ トーマス・ピンク『哲学がわかる 自由意志』(戸田剛文、豊川祥隆、西内亮平訳、岩波書店、2017年)
- ⑶ ジョセフ・K・キャンベル『現代哲学のキーコンセプト 自由意志』(高崎将平訳、岩波書店、2019年)
などがある。⑴の第2章では鈴木生郎氏が現代自由意志論の全体像をすっきりと提示してくれている。⑵や⑶は、詳しい入門書ではあるが、著者たちの思い入れゆえの偏りも窺え、自由意志について何も知識を持たない人にとってはやや難易度が高くなっている。
自由意志に関する実証的研究の入門書として、ここで紹介した著作以外に邦語で読めるものは見当たらない。英語でもよければ、例えば同じくミーリーが
- ⑷ Mele, Alfred (2014) Free: Why Science Hasn’t Disproved Free Will. Oxford University Press: New York.
というコンパクトな入門書を出している。
実際の研究論文に触れてみたくなったら、
- ⑸ 門脇俊介・野矢茂樹(編・監修)『自由と行為の哲学』(春秋社、2010年)
- ⑹ 青山拓央・柏端達也(編・監修)『自由意志 スキナー/デネット/リベット』(岩波書店、2020年)
- ⑺ ベンジャミン・リベット『マインド・タイム 脳と意識の時間』(下條信輔、安納令奈訳、岩波書店、2021年)
などをあたるとよい。⑸は英米系の現代自由意志論の必読文献を集めたものであり、本書にも登場するフランクファートの思考実験についての論文も収められている。また、野矢氏による序論は自由意志の哲学の入門としても優れた内容となっている。⑹は特に科学的知見から自由意志を論じた哲学者や科学者の論文が多数収録されている。⑺は最近文庫化されたリベットによる著作の邦訳である。
5.謝辞
本論文の草稿を作成する段階では、畑中直之氏とTARB評議員の大畑浩志氏から有益なコメントをいただいた。ここに記して感謝する。
注
1現代自由意志論において、決定論は例えば「任意の時点における世界全体の状態を表す命題と自然法則の連言は、あらゆる時点における世界全体の状態を表す命題を含意する」のように、命題間の論理的な関係性として表現されるのが標準的である。『アメリカの大学生が自由意志と科学について語るようです。』においてもそのように説明されるが、ここでは分かりやすさのために異なる表現を採用した。
2量子力学ではそうはいかないぞ、と思った方は上級者である。この点に疑問を持つ方は文献案内で紹介する入門書を手に取っていただきたい。
3自由と決定論が両立しないという非両立論の立場は更に、決定論が誤りであり自由が存在すると主張する「リバタリアニズム」の立場と、決定論が正しく自由が存在しないと主張する「固い決定論」の立場に細分化される。
出版元公式ウェブサイト
春秋社
https://www.shunjusha.co.jp/book/9784393323717.html
評者情報
李 太喜(い てひ)
2021年10月より、東京大学総合文化研究科超域文化科学専攻比較文学比較文化コース助教。専門は、哲学・倫理学。特に分析系の自由意志論。主な論文に、「選択可能性と「自由論のドグマ」」(『科学哲学』第51巻1号、19~40頁、2018年)、「現代行為者因果説は行為者のコントロール能力を向上させることができるか」(『哲学・科学史論叢』、第20号、33~57頁、2018年)などがある。