Tokyo Academic Review of Booksonline journal / powered by Yamanami Books / ISSN:2435-5712

2021年9月21日

デイヴィット・ライアン『ジーザス・イン・ディズニーランド:ポストモダンの宗教、消費主義、テクノロジー』

大畑凜・小泉空・芳賀達彦・渡辺翔平訳,新教出版社,2021年

評者:辻井 敦大

Tokyo Academic Review of Books, vol.30 (2021); https://doi.org/10.52509/tarb0030

本書は、2000年にPolity Press社から刊行されたデイヴィット・ライアンによる著書、Jesus in Disneyland: Religion in Postmodern Timesの全訳である。本書は、直訳すれば「ディズニーランドのなかのイエス」という一見すると度肝を抜かれる不可思議なタイトルとなっている。このタイトルは、消費主義と情報通信技術の拡大がもたらすポストモダンにおける宗教のメタファーであり、その象徴として取り上げたハーヴェスト・デイ・クルセイドがディズニーランドで開催した集会のエピソードから取ったものである。このタイトルのとおり、「ポストモダンの時代における宗教の変わりゆく運命」(p.12)を描き出すことが本書の目的となっている。

本書の要約に入るまえに、社会学者であるデイヴィット・ライアンの経歴と、本書で用いられる「ポストモダン」という語の持つ含意について簡単に紹介したい。

デイヴィット・ライアン(1948〜)は、スコットランドのエディンバラに生まれ、イギリスのブラッドフォード大学で博士号を取得し、現在はカナダのクイーンズ大学に籍を置く社会学者である。ライアンは、現在においてポストモダニティ論や監視社会論の代表的論者として名を馳せているが、本書の訳者解説やライアンの監視社会論研究(野尻 2017)でも指摘されているようにキリスト教徒である宗教社会学者としての側面を持っている1。本書は、宗教社会学者としてのライアンの著書であり、自身のポストモダニティ論から宗教への分析視座を展開した研究だといえよう。

このポストモダニティ論と関連して、本書の「ポストモダン」という語をみる上で注意すべき点がある。それは、本書では決して近代から断絶した意味で「ポストモダン」の語を用いていない点である。ライアンは、ポストモダンの社会的条件として消費主義と情報通信技術の拡大を取り上げているが、「私たちの時代が前代未聞の段階に到達してしまったなどと述べてはならない」(p.173)という。すなわち、リオタールに代表される「大きな物語の終わり」として近代との断絶を表した意味での「ポストモダン」ではなく、近代の延長線上の社会変動を表す語彙としてポストモダンの語を用いているのである。このように、ライアンはアンソニー・ギデンズやジグムント・バウマンらと同様にポストモダンと近代の連続性の認識を共有したポストモダニティの分析者なのである。本書は、こうした認識をもとにポストモダンの宗教を分析したものである。その意味においても、本書の刊行時から20年以上が過ぎ、よりポストモダニティの特徴が広がりつつある現代社会において、意義を持つ視点を本書は提示している。さて、その内容をみていきたい。

要約

序章では、まず「宗教」と「世俗化」の概念が持つ射程の範囲の狭さが論及される。ここで著者は、「宗教」の概念がキリスト教教会をモデルとした制度的な信仰心(religiosity)を表した狭義の意味に限定されていることを批判する。それゆえに、狭義の意味での「宗教」概念は、制度的宗教の世俗化が進んでいる「ポストモダンと直接関わる文脈においてはほとんど意味をなさない」(p.12)という。それに対して、著者は、現代においては制度的な信仰心を越えた先のあらゆる信仰(faith)や霊性(spirituality)を取り込んだ広義の意味での「宗教」を検討する余地があると指摘する。これは組織化された宗教団体や教会、寺院といった場での宗教活動に限定されない、個人のアイデンティティと関わる日々の生活のなかでの信心や呪術的なものへの関与も含むものである。この「宗教」の定義を踏まえ、著者はポストモダニティの特徴である消費主義と情報通信技術によって促進された生活の商品化が、広義の「宗教」への信仰とその実践へ与えたインパクトを探ることを本書の課題として設定する。

第1章では、世俗化が進んだ現代の消費社会(ディズニーランド)と宗教(イエス)が共存する矛盾=「ディズニーランドのなかのイエス」が問いとして取り上げられる。この矛盾を問うにあたって、著者は「世俗化のような枠組みにこだわるよりも、グローバル化された(ポスト)モダンの過程」(p.45)と理解するべきだと主張する。この視点をもとに著者は、宗教の変容を問う上で、霊性の領域の変容を問う重要性を改めて主張する。

第2章では、上述した「ディズニーランドのなかのイエス」を捉え直す上で、世俗化論とその前提となってきた「宗教」概念が検討される。まず、著者は、世俗化の議論の前提となっている「宗教」概念が、教会への出席のような宗教活動に限定されていることを批判する。それに対し、著者は、宗教活動だけではなく、信仰やアイデンティティ、感情のような生活の非認知的側面にも宗教が対処している点を強調する。この視点から、世俗化に関する社会学的説明を整理し、愛、悲劇、義務、死といった「実存的問題」へ応答する文化的資源として宗教を捉え直すことを提案する。すなわち、「宗教を文化的資源として考え、宗教が表現され、用いられ、作り上げられる仕方、さらに宗教が世界と相互作用する仕方を発見しようとすべきである」(p.82)というのである。こうして、著者はキリスト教会に代表される制度的な宗教に限定しない形での「宗教」概念の捉え直しを提起する。

第3章では、新しい多様な宗教の形態を生み出しているポストモダニティの条件が説明される。著者は、ポストモダニティを、情報通信技術の発展にともなう時間・空間の変化と消費至上主義の到来に関連する変化の総体に論及するための語であると整理する。その上で、ポストモダニティにおいては、近代よりも宗教領域がますます脱統制化され、旧来の組織とは無縁なネットワークの集合体と独自の意味を求める諸個人に移っていると指摘する。本章で特筆すべき点は、著者がポストモダニティを論じるにあたって、自身を「肯定的ポストモダニズム(affirmative postmodernism)」という立場に位置付けていることである(p.122)。この立場は、近代に対する懐疑的批判の一部を共有するが、懐疑主義やニヒリズムに完全に同調して倫理の肯定や規範の選択を放棄するのではなく、現在可能なポストモダニズムの多様さを喚起するものである。その立場ゆえに、著者はポストモダニティが伝統宗教に否定的な機会を与えただけでなく、コミュニティの創設や地球環境の保護への取り組みの契機になるといった新たな肯定的機会も与えているとみているのである。

第4章では、新しい種類のメディアがもたらした宗教的なコミュニケーションの変化が検討される。ここで著者は、近代において宗教的なコミュニケーションがコミュニティを前提にした典礼から印刷文化に変化してきたと整理する。その上で、現代においてマスメディアやサイバースペースでの宗教的コミュニケーションが台頭していることを事例から紹介する。この変化の特徴を「権威、継続性、コミュニティ、全体性、目的がある典礼の世界とは対照的に、サイバースペースが提供しているのは、アナーキーさ、瞬間、個人主義、断片化、筋書きをもたないもの」であると主張する(p.155)。そして、現代のサイバースペースにおける宗教的なコミュニケーションと消費主義は結びついており、両者の関係において理解しなければならないと論じる。

第5章では、消費と宗教的アイデンティテイの形成の関係について検討される。ここでは、まずポストモダンの特徴である消費社会が描き出され、宗教も消費選択に巻き込まれていることが論じられる。それゆえに、消費と結びつく宗教の登場を捉える方法論的な視点としては、市場の変化という歴史的背景を考慮する必要があると提起する。このように、著者は消費と深く結びつくものとして宗教を捉えている。しかし、同時に宗教経済学で提起される宗教の合理的選択理論を強く批判している。この理由として、宗教の選択は自己のアイデンティティと絡む問題であり、自律した個人を前提に宗教の改宗を商品選択のように捉える合理的選択理論が想定するほど簡単なものではないからだと指摘する。その視点から、著者は消費社会が宗教そのものを衰退させるのではなく、アイデンティティの構築における消費選択により意味が求められ、自己を構築するなかで、文化的資源として宗教が動員されていると主張する。

第6章では、ポストモダニティの文化的変化に結びつく宗教のグローカル化が論じられる。著者は、経済のグルーバル化とは異なり、文化的グローバル化は、ローカルな状況において共通の文化的価値の形成や文化的均質性を助長するわけではなく、グローカル化が生じると主張する。そして、ポストモダンのグローバルな状況において、グローカル化した宗教活動が重要性を増し、それが原理主義の拡大の関係していることが論じられる。そして、同時に原理主義の拡大などと関連するグローカル化により、宗教と政治の結びつきが強化されていると主張する。

第7章では、ポストモダンへの変化にともない時間と空間が圧縮され、過去、現在、未来という時間性が組み直されているなかで現れる宗教の変化が論じられる。ここで著者はポストモダンにおいては、即時性と同時性が支配的な時間の形態となり、未来への感覚が失われているという。それゆえに、ほとんどの宗教の考え方の中心にある記憶と希望という概念がポストモダンの時代には薄れてきているという。そして、未来の感覚が失われていることは責任を減退させ、「隣人を愛せというユダヤ教やキリスト教の伝統に基づいた古典的な倫理的要求も、ポストモダンの時代には困難になっているのかもしれない」(p.282)と危機感を表している。

しかし、著者は上述した「肯定的ポストモダニズム」の立場から、記憶と希望とそれにつながる責任を存続させることを諦めてはいない。第8章では、本書の議論を整理した上で、ポストモダンにおける宗教研究への新たなパースペクティブが提起される。ここで著者は、宗教社会学が信仰という社会活動そのものを形作る再帰性に責任がある点を強調し、理論構築にあたって規範的想定が必要であると主張する。そこで著者は、宗教を文化的資源として理解し直した上で、隣人愛=他者への配慮という倫理を宗教(著者にとってのキリスト教)に見出していくことを提起している。このように、著者はポストモダンの社会状況を冷静に分析した上で、それを乗り越える倫理を見出すことに宗教社会学の意義があると主張しているのである。

コメント

以上が本書の要約である。本書は、ジグムント・バウマンをはじめとした他のポストモダニティの分析者と同じく、多くの比喩が用いられ、多様な論点が散逸的に論じられている部分も多い。その点から、本書は評者による要約やコメントに留まらない、宗教研究、ポストモダニティ論に広がりを持つ多くの論点が散りばめられていることはあらかじめ断っておきたい。その上で、本書に対してコメントをしたい。

本書の特筆すべき点は、第1にポストモダニティという時代分析のもとで、ありとあらゆる宗教現象と消費を結びつける視座を提起したことである。宗教社会学は、その創始者の1人であるマックス・ヴェーバーの研究をはじめ、経済と宗教の結びつきを探求してきた。本書は、その延長線上にポストモダニティという生産から消費に重点が移った時代において経済(消費)と宗教の結びつきを問うことを課題として据えているのである。この視点の上に、伝統宗教や新宗教などの区分を設けず、市場の変化と結びつけてフラットに宗教を分析する方法論を提起しているのが評者として興味深い点であった。

ライアンは「宗教」と「世俗化」概念の再検討し、信仰や霊性を含み、実存的問題へ応答する文化的資源として宗教概念を捉え直している。このような近代主義に基づいた宗教概念や世俗化論の捉え返しは、本書でも参照されているカーレル・ドベラーレなどの世俗化論を再検討した研究と同様の視点であり、新たな論点を提起しているわけではない。本書の特徴は、伝統宗教や新宗教、ニューエイジやスピリチュアリティ、ないしは世界宗教などといった大きな区分を設けず、ポストモダニティという視点からフラットに宗教を分析している点である。

この近代主義と距離を取ったライアンの視点は日本の宗教研究においても意義を持つと考えられる。日本の宗教研究では、本書の刊行から20年以上が経つなかで消費と宗教の結びつきを探る研究が進められている(山中 2017, 山中編 2020)。しかしながら、ここで主に注目を集めてきたのは、新しいスピリチュアリティの隆盛と消費の結びつきである。この理由は、消費主義的かつ個人主義的特徴を持つ宗教である新しいスピリチュアリティが高度経済成長期以降に勢力を拡大してきたからである(島薗 2004, 2012)。すなわち、新しいスピリチュアリティがポストモダニティにおける宗教の代表例として取り上げられ、消費との結びつきが問われてきたのである。

しかしながら、本書が描き出しているように、ポストモダニティは伝統宗教に対しても容赦無く影響を与えている。その点からも、本書の視点は、伝統宗教や近代的な特徴を持つ新宗教ないしは日本社会の「固有信仰」とみなされてきた先祖祭祀といった多様な宗教現象に対しても消費との結びつきを問う必要性を示唆しているのである。すなわち、本書は、新しいスピリチュアリティの隆盛に限らず、ありとあらゆる宗教現象に対して消費社会との結びつきを問う視点を提起しているのである。それゆえに、本書の提起を引き継ぎ、日本社会の多様な宗教や信仰の歴史的変動をモダニティからポストモダニティへの変動、すなわち経済構造の変動、情報通信技術の発展から捉えることは、いまだに課題として残されているのである。このように、ポストモダニティの宗教というテーマを通して、普遍性と特殊性を横断する思考を与えてくれることに本書の魅力はある。

本書の第2の特筆すべき点は、宗教社会学としての規範的想定と関与の意義を提示している点である。上述したように著者は、あくまでポストモダニティの分析者であり、規範的には「肯定的ポストモダニズム」という立場に自身を位置付けている。それゆえに、本書では最後にポストモダニティにおける懐疑主義とその閉塞性を突破する上で、隣人愛という他者への配慮の倫理を重視し、その可能性を宗教(キリスト教)に見出している。この著者の視点を、そのまま日本社会、ないしは非キリスト教の研究に向けて応用していくことは確かに難しい側面がある。しかし、社会学という学問が共同性を問うと同時に規範的に関与する(盛山 2011)以上、著者の指摘は常に考えなくてはならない問題であろう。そして、ライアン自身もキリスト教徒に限らずとも「行為主体や希望を肯定する他の人々と戦略的な同盟関係を構築できる」と考え(Bauman・Lyon 2012=2013: 193)、さまざまな思想的背景をもつ者が提起する倫理の実践的有効性を評価する立場をとっている(野尻 2017: 156)。その意味においても、ポストモダニティの社会状況に対して、他者への配慮の倫理を探るという問題は、キリスト教徒に限らず宗教社会学の課題として重要視されるべき論点である。なぜなら、人々の意識やアイデンティティ、文化的資源と深く関わる宗教を捉えることは、そうした倫理的な規範を見出す可能性を持つからである。ポストモダンの社会状況のなか、いかなる場面、社会的行為のなかで、こうした倫理を見出せるかは著者すらも明言できてはいない。それゆえに、ポストモダニティを乗り越え、新しい倫理の可能性を見出していく作業は、未だ社会学に残されている課題なのである。このようにポストモダニティにおける社会学の規範的関与のあり方を考える上でも、本書は大きな魅力を持っている。

余談になるが、評者は、これまで墓を対象に戦後日本の先祖祭祀の変容を研究してきた。この研究のなかでは、石材店が墓地開発とともに広告・宣伝を通して墓の建立を推進してきたことを明らかにし、先祖祭祀を大きく変化させてきたものの1つが市場であったことを示してきた。こうした現象は、先祖祭祀という「宗教」が、ライアンが論じるように消費主義に巻き込まれてきたことを表しているだろう。だが、同時に評者の研究では、どれだけ先祖祭祀が消費主義に巻き込まれようとも、社会のなかで死者に対して祭祀が永続していくことを願う人々の実践が消滅していないことも明らかになっている(辻井 2021)。この評者が捉えてきた人々の実践は、死者に対して祭祀を続けていくことすらも市場が取り込み再編しようとするポストモダンにおける消費主義の貫徹なのだろうか。それとも、ポストモダンの趨勢に抗う、ある種の他者への配慮の倫理の可能性と読み解けるのだろうか。本書は、こうした具体的な宗教現象を分析し、それを後者のように1つの倫理の可能性として評価する上での重要な論点を提起している。本書が示しているのは、社会(宗教)現象を記述し終えた後に、それをいかに評価するかという規範的関与のあり方である。そして、ポストモダンに希望や倫理を見出していく規範的関与が、再帰的に社会を変えていく可能性を示している。それは評者の研究に限らず、あらゆる実証研究に携わるものにとって、社会現象をいかに解釈し、評価するかを考える指針ともなりえるのである。

以上のように、本書は新しいスピリチュアリティや伝統宗教といった区分を設けずフラットに経済(消費)と宗教の結びつきを問う視点を提示している。その上で、著者の提示するキリスト教倫理に基づいた宗教への分析視点は、社会学の規範的関与のあり方を考える上で参考となる論点を大いに含んでいる。その意味において、本書はポストモダニティにおける宗教現象の分析とともに、希望を見出していく上で読んでいきたい本である。

1ライアンの代表的な宗教社会学的研究としてはChistian and Sociology, Inter-Versity Press.(1975年)、Karl Marx: A Christian Assessment of His Life and Thought, Inter-Varsity Press.(1979年)、The Steeple's Shadow: On the Myths and Realities of Secularization, William B. Eerdmans Press.(1985年)などがある。これらの宗教社会学的研究では、キリスト教社会学という理論的立場が明示されるほか、本書でも論じられる世俗化論が検討されている。また、監視社会論に関しては、ポストモダニティ論とともに1990年代から研究を進め、Surveillance Society: Monitoring Everyday Life, Open University Press.(2001年)などをはじめ現在までに複数の著作を出版している。こうした宗教社会学的関心とポストモダニティ論、監視社会論の一連の研究では、本書でも提起されるライアンのキリスト教徒としての規範的立場と問題意識が一貫していることが指摘されている(野尻 2017)。

参考文献

  • Bauman, Zygmunt and David Lyon, 2012, Liquid Surveillance: A Conversation, Polity Press.(伊藤茂訳,2013,『私たちが、すすんで監視し、監視される、この世界について──リキッド・サーベイランスをめぐる7章』青弓社.)
  • 野尻洋平,2017,『監視社会とライアンの社会学──プライバシーと自由の擁護を越え』晃洋書房.
  • 盛山和夫,2011,『社会学とは何か──意味世界への探求』ミネルヴァ書房.
  • 島薗進,2004,「社会の個人化と個人の宗教化──ポストモダン(第2の近代)における再聖化」『社会学評論』54(4): 431-448.
  • ────,2012,『現代宗教とスピリチュアリティ』弘文堂.
  • 辻井敦大,2021,『戦後日本における先祖祭祀の変容に関する社会学的研究──祭祀の永続性の希求と社会的アクターの参与』東京都立大学大学院人文科学研究科博士論文.
  • 山中弘,2017,「消費社会における現代宗教の変容」『宗教研究』91(2): 255-280.
  • 山中弘編,2020,『現代宗教とスピリチュアル・マーケット』‎弘文堂.

謝辞

本稿の執筆にあたっては、東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学専攻博士後期課程の佐藤竜人氏とTARB評議員の清水亮氏から有意義なコメントを頂いた。ここに感謝の意を表したい。

出版元公式ウェブサイト

新教出版社

http://www.shinkyo-pb.com/2020/11/30/post-1355.php

評者情報

辻井 敦大(つじい あつひろ)

東京都立大学大学院人文科学研究科博士後期課程修了、博士(社会学)。現在、立命館大学衣笠総合研究機構に専門研究員として所属。専門は社会学であり、墓を対象として戦後日本における先祖祭祀の変容を研究している。主な論文には「現代社会における骨仏造立の実践と安心感──永続性と無縁化の防止への希求」(『共生社会システム研究』14号、2021年)、「戦後日本における墓をめぐる社会史──石材店によるマーケティング戦略に注目して」(『年報社会学論集』32号、2019年)など。

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