Tokyo Academic Review of Booksonline journal / powered by Yamanami Books / ISSN:2435-5712

2021年9月27日

Stephen Darwall, The Second-Person Standpoint: Morality, Respect, and Accountability

Harvard University Press, 2006年

評者:鴻 浩介

Tokyo Academic Review of Books, vol.31 (2021); https://doi.org/10.52509/tarb0031

導入

世界には私とあなたとその他の人々がいる。すなわち一人称、二人称、三人称である。一人称的なものの特異性や、一人称と三人称のコントラストは常に哲学者の心を捉えて離さない主題の一つだが、それに比べれば、二人称的なものが哲学者の注目を集める機会はそこまで多くなかったといえよう。しかし近年の分析系哲学では、複数の領域で二人称的なアプローチと呼ばれるものが注目を集めつつある。そうした運動の舞台には認識論や言語哲学、心の哲学等が含まれるが、とりわけ中心的といえるであろう領域は倫理学であり、分析系倫理学における二人称的アプローチの震源地となった記念碑的著作こそ、ここで紹介するThe Second-Person Standpoint(以下、本書)である。

本書の著者スティーヴン・ダーウォルは米国の倫理学者であり、本書以前にも以後にも多数の著書・著作を精力的に発表して、30年間以上にわたり存在感を発揮しつづけてきた。その研究内容には現代的手法による規範倫理学やメタ倫理学の研究と、幅広い倫理学の歴史研究の双方が含まれており、本書にもそうした彼の力量が発揮されている。すなわちダーウォルは、現代的なメタ倫理学の理論、中でも理由や責任といった概念にまつわる繊細な道具立てを活用しつつ、他方ではカントを筆頭にヒューム、リード、アダム・スミス、フィヒテ、さらにはプーフェンドルフといった哲学者たちの思想を手がかりにしながら、二人称的観点を中心とした独特の道徳哲学を提出したのである(ただし、二人称的観点に着目したことで知られるブーバーやレヴィナスといった哲学者らに対してはあまり、もしくはほとんど言及していない)。かくしてダーウォルは、「私(たち)とあなた(たち)」の関係こそがあらゆる道徳的概念を基礎づけるものであり、同時に道徳の規範的拘束力の源泉でもあると論じる。

彼の理論は2006年の出版直後から相当に大きな注目を集め、2007年と2010年の二度にわたり、影響力ある英米の倫理学者が多数集結して学術誌上でのシンポジウムが行われている。こうした本書のインパクトは日本でも見逃されることはなく、2008年にはごく短いものとはいえ中才敏郎による書評が公刊されているし、2017年には『二人称的観点の倫理学』の邦題で訳書も出版された。邦訳は原書の一部が割愛された抄訳版ではあるものの、監訳の寺田俊郎による解説も付属している。また最後に紹介するように、本書の内容を取り上げた日本語の著作もすでに複数存在している。

書評の目的と方針

では、そのような状況にあって新たに日本語の書評を書き下ろした理由は何であるか。それは単純に、本書がそれに値するほど難解だからである。この難解さは、ダーウォルの議論の表層を見ただけでは感じ取れないかもしれない。実際に、彼がヒュームから借り受けた例に基づいて、本書の基本的主張をまとめる箇所を見てみよう。長くなるが、以下は本書でひっきりなしに言及される最も中心的な例でもあるので、今のうちに引用しておく(以下、特記ない限り、括弧内の数字は「原書のページ数/邦訳のページ数」を表す。該当箇所が邦訳で割愛されている場合は原書のページ数のみを記す。引用文中の傍点は原文のイタリックに対応し、亀甲括弧〔 〕内は評者による補いや省略を表す。また、訳文は評者による)。

私がいおうとしていることの雰囲気をつかんでもらうために、次のように考えてほしい。あなたは他の誰かに痛い思いをさせられている——たとえば足を踏んづけられている。そこであなたは、相手にそれをやめるべき理由を与えようとする。そのとき、あなたが理由を与えるしかたには異なった二種類があるのだ。これを比較してみよう。

一つのやり方は、相手の同情的な関心に訴えることだろう。あなたが痛い思いをしていることに同情したならば、彼はあなたの痛みを取り除きたいと考えるかもしれない。相手がこうした欲求を持ったとすれば、彼の目から見てあなたの苦痛は良くないものに映るだろう。それは一つの世界の状態であり、自分には(というか実際のところ、それができるならば誰にでも)その状態を変えるべき理由があるのだ、と彼には思えるだろう。〔…〕

〔…〕この欲求からくる、こうしたものの見方を受け入れたとしたら、彼は自分の足をどけるべき世界の状態に関する理由、あるいは行為者中立的な理由を受け入れたことになるだろう。〔…〕このような形で相手に理由を「与える」ことは、相手に理由を差し向けることというより、もともとあった理由に目を向けさせることだというべきだろう。結果彼が目を向けようと向けまいと、いやそもそも、向けさせる能力があなたにあろうとあるまいと、その理由はそこにあったのである。〔…〕

だが、あなたには別のやり方もある。相手に向かって権利を主張するのだ。もしくは、妥当とおぼしき要求を突きつけるのだ。あなたが何かひとこと言えば、自分は足をどけろと要求する権威を持っているのだと主張もしくは示唆できようし、同時にそのような要求を現に行うことができよう。あなたはまさに足を踏まれている人物という立場からこうした要求をすることもできるし、道徳的共同体〔…〕の一員という立場から要求をすることもできる。しかしいずれにしても、あなたが相手に差し向けることになる理由は、行為者中立的ではなく行為者相対的なものである。(6–7/12–14)

そしてこの二番目の種類の理由こそ、ダーウォルが二人称的理由(second-personal reason)と呼ぶものであり、彼によれば道徳の究極の基盤となるものである。一番目の種類の理由はこれと対比して、三人称的理由と呼ぶことにしよう(ダーウォル本人はこの名称を使わないが、他の論者が彼の理論を論じる際にはしばしば使われる)。三人称的理由が世界の状態に基づく理由であるのに対して、二人称的理由は「要求に基づく」(claim-based)理由だといわれる(7/14)。初めて聞くと、この対比は直観的に分かりやすいものと感じるかもしれない。痛みという良くないものが世界に生じているから、それを取り除くために足をどけるべきだ、というのは一つの話であり、相手がどけてくれと要求しているから足をどけるべきだ、というのはまた別の話だ。確かにそう思えるかもしれない。そして、前者は足を踏んでいる人物のみに適用される理由というわけではないが、後者はそうである、これも自明にみえるかもしれない。なぜなら要求を向けられているのはまさしく足を踏んでいる当人なのだから。

しかし、もしこのような主張を取っ付き易く感じたとしても、こうした枠組みの背後にはダーウォルのより大きな理論が控えている。それは決して単純とか簡明といえるものではなく、むしろ複雑に入り組んだ難解な理論であり、これまで本書の議論に対して向けられてきた批判や提示されてきた解釈の中には、大きな誤解に基づいたものもしばしば見られるほどである。実際のところ、前段落で示した理解がすでに致命的な誤解を一つ含んでいる。このあと説明する通り、二人称的理由が要求に基づく理由だということは必ずしも、要求が行われたためにその理由が生じた、ということを意味しないのだ。

本書の議論がそれほど難解だとしたら、その理由は何か。おそらく、それは内容、形式、背景の三つの点からまとめられる。第一に、二人称的観点に基づく道徳というダーウォルのプロジェクトが相応に独創的な内容を持つため、必ずしも既存の枠組みと連続的に理解できる部分ばかりではないということ。第二に、単純に議論の進め方の形式が、あまり整理されているとはいえないこと(ちなみに、前述の書評で中才も本書が非常に読みづらいという不満を述べている)。そして第三に、かなりの背景的知識が要求されるということ。すでに述べた通り、本書の議論は現代的なメタ倫理学の道具立てと広範な倫理学史研究とを融合させることで成立している。それゆえ、本書の理想的読者であるためには、最先端のメタ倫理学と、少なくとも近世初期から現代までに至る倫理学史との双方について十分な知識を持ち合わせた者でなければならない。

こうした事情のため、本書の評判を聞いて興味を持ったが難しそうで手を出しづらいとか、読んではみたが挫折したとか、通読したものの理解できたのかよくわからないとかいった層は、それなりに存在してもおかしくない。この書評の第一の目標は、そうした読者ないし潜在的読者にとって多少なりとも助けになるガイドを提供することである。したがって倫理学の初学者に向けた内容でないことは断っておかねばならない。そもそも、本書自体が決して初学者の読むべき本とはいえない(読まないでいるべき本である、といっても過言ではないかもしれない)。

続けて断っておくならば、次節以降では難解なダーウォルの議論を評者の理解に基づいて再構成していく作業を行うが、評者は本書の理想的読者ではないから、本書の議論すべてを十分に取り扱うことはできない。具体的には、カント等のテキストの解釈に関わるダーウォルの倫理学史的主張に関して、以降ではほぼ検討を行わない。この書評では主に現代メタ倫理学の観点から、ダーウォル自身の論証の構造を明確化し、それを吟味することに集中する。その際は本書の章立てを順番通りまとめることにはこだわらず、評者の理解に即して整理したうえで、原書において内容的に対応する主な章を節題に併記する形をとる(第1章・第2章は全体の概要をまとめた章であるため、逐一併記はしない。また邦訳版では原書の第7章と第8章が割愛されているため、邦訳の第7~10章は原書の第9~12章にあたる。以下注意されたい)。また、本書出版後に公刊されたダーウォルの著作において、本書の主張が遡及的に明確化されていったところも多分にあるため、以下ではそうした著作についても必要に応じて言及する。

二人称的観点(第3章、第4章)

まずは本書の構想の根幹をなす、二人称的な観点というアイディアを理解せねばならない。二人称それ自体はもちろん文法的な概念であり、二人称代名詞を用いて表現される内容を持った主張はすべて広い意味で二人称的主張と呼ぶことができる。この意味での二人称的主張が一般に三人称的主張に還元可能であるかというのは興味深い、また近年しばしば議論される問題であるが、本書の議論にとってその論点はあまり関係してこない。というのも、ダーウォルが二人称的観点に与える規定は、二人称代名詞に結びつくもの、といった規定よりもはるかに狭いからである。ダーウォルの用語法において、二人称的観点とは「お互いの行いや意志に要求を課し、その要求を認めるときに、あなたと私がともに立っている観点」を指す(3/9)。したがって、たとえば「私はあなたに足をどけるよう命じる」は本書の用語法における二人称的主張でありうるが、「あなたは私の足を踏んでいる」は(少なくとも明示的には)二人称的主張ではないことになる。

さらに実のところ、誰かに何かを要求することが、常にダーウォルの考える二人称的主張であるわけでもない。二人称的観点に含まれるのは単なる要求ではなく、正当な要求という観念である。つまり、自分がそのような要求をなすことが相手に対して正当化可能であるという前提の上で要求を発したときに初めて、私たちは二人称的観点に立ったことになる。逆に、正当性を度外視してとにかく相手を従わせるためになされた要求、あるいは「魅了したり、おだてて丸め込んだり、機嫌をとったり、幻惑したり、脅したり」して「非理性的に説き伏せる」(50/80)ことは、二人称的観点への参加を意味しない。

二人称的観点とは一種のアンブレラタームであり、上で述べたような正当化を伴う要求が込められている限り、表現されていない暗黙的な思考から、明示的な発話、それによる様々な言語行為、さらには怒りのような情動まで、すべてが二人称的と呼ばれうる(3/9)。要求が正当化されるための条件をダーウォルは「規範的適切性の条件」(normative felicity condition)と呼び、オースティンの言語行為論に沿った形で導入している(52–55/83–87)。ある発話がある種類の言語行為たりうるために満たすべき条件も適切性の条件と呼ばれうるが、そうした基本的な意味での適切性条件が満たされていても、ここでいう規範的適切性の条件が満たされているとは限らない。たとえば守るつもりのない誓いも約束という言語行為ではあるが、それは悪しき約束であって規範的拘束力を持たない。同様に、正当性を欠くが表面上正当であるかのように装っている要求は、「非理性的説き伏せ」とは異なり二人称的要求には含まれるが、いわば「理性的な脅迫」にすぎず、従わねばならないものではない(51/82)。

では、二人称的要求の規範的適切性条件とはどのようなものであり、どのようなものでないのか。ここでまず援用されるのは、ストローソンの反応的態度(reactive attitude)にまつわる議論である。ストローソンは、何らかの主体の振る舞いに反応して私たちが持ちうる怒り、感謝、許しといった情動を反応的態度と呼んだが、ダーウォルはこうした態度が常に暗黙的に二人称的であると解釈する(67/108)。なぜならストローソンは、反応的態度が常に正当化を伴う要求に結びつくとみなしていたからだ、と(70/112)。怒りを例に取るならこれは理解しやすい。自分の足を踏んでいる人物に対して怒るとき——単に腹立たしいという感覚を持つのではなくまさにその人物に向けた怒りを持つとき——、その怒りに足をどけよという要求が込められていると考えるのは不自然でないだろう。対して感謝や許しは、このように直接的に要求と結びついてはいないかもしれない。しかし「互いに一定程度の尊重を示せ」という要求が一般に受け入れられている背景なくしては有意義たりえない情動であるという意味で、やはりこれらも本質的に二人称的要求から不可分であるといわれる(70/112; 72–73/114)。

とはいえ、ストローソン自身の議論でもそうであったように、ダーウォルの議論において中心的な役割を果たすのも怒りやその類似物である。特に重要になってくる観察は、怒りが非難と深く結びついているようにみえるということだ。足を踏んでいる人物に怒り、足をどけさせることは、単に依頼して応じてもらうという意味での要求ではない。それはその振る舞いを咎め、当人に責めを負わせることを伴った要求なのである。つまりそれは、足を踏んだことに対し(次節で説明する一定の狭い意味における)責任を問うことに等しい。こうした観点から、ストローソンは怒りをはじめとした反応的態度を基礎として責任実践を分析し、その枠組みは現代責任論において一個のスタンダードの地位を占めている。

そして、ストローソンの枠組みの中でとりわけダーウォルが注目するものこそ、何が非難を適切なものにするかという問いにまつわる洞察である。よく知られるように、ストローソンはこの文脈で帰結主義的な正当化を強く批判した。足を踏む人物を非難することが適切であるのは、その結果として足の苦痛の除去という望ましい事態が生じるからだろうか。あるいは、その人物が反省して同じことを繰り返さなくなることが期待できるからだろうか。そのような帰結主義的正当化は、少なくとも、私たちがふだん非難や責任帰属の正当化根拠とみなしているものではない。この主張をダーウォルは「ストローソンの論点」と呼び、今日いわゆる「間違った種類の理由」(wrong kind of reason)問題と呼ばれているものの一例と解釈する(66/106–107)。神を信じれば死後の安息が保証されるとしても、その理由によって「神が存在する」という命題が信じるに値するものになるわけではない。同じように、非難すれば対象が望ましい振る舞いをとるようになるとしても、その理由によって対象が非難に値する者になるわけではない。ダーウォルはそう論じる。

では何が対象を非難に値する者にするのか。自然に予想される通り、ダーウォルの立場は帰結主義の競合説、すなわち応報主義とみなせる。足を踏む者を正当に非難可能であるのは、その振る舞いがまさに道徳的に不正だからであり、いいかえれば(このいいかえが可能である所以は次節でより詳しく見る)、私たちにはその人物を非難し要求を突きつける権利ないし権威があるからである。こうした要求の権威に基づいた理由を彼は二人称的理由と呼ぶから、結論として、足を踏むことが不正であり非難に値する理由は、二人称的理由だということになる。ちなみにダーウォルは、非難が帰結主義的に正当化できないという否定的な主張と、非難が二人称的に正当化されるという肯定的な主張のどちらも「ストローソンの論点」と呼ぶことがあるので注意されたい。

しかし、さらに問わねばならない。なぜ断りなく人の足を踏むという振る舞いは不正なのか。なぜ私たちにはそれを非難する権利または権威があるのか。ダーウォルによれば、こうした性質帰属が帰結主義的に正当化されることはやはり許容されない。それでは「間違った種類の理由」問題が再来してしまうからである(cf. 103–104/160–161)。さらにいえば、それらは社会的な規範や合意形成の過程によって構築された人工物ですらない。彼の大胆な主張によると、こうした権威はむしろ、私たちがただ自由で理性的な行為者であることによって本性的に獲得するものである。そして不正の概念が、「自由で理性的な行為者が理にかなった形で相互に差し控えを要求しうるもの」という形でしか理解されえないのだとすると、道徳の究極的な基礎づけが二人称的でしかありえないという結論が導かれる。

この大胆な主張がどのように正当化されうるのかは、本書の議論の核心をなし、本書の評価を左右しうる部分である。しかしその論証に接近していくのは最後の作業となる。次節ではまず、ダーウォルが道徳と呼んでいるものが何であるか、責任と呼んでいるものが何であるかをより精密に確認しておこう。

道徳と責任(第4章、第5章、第8章)

周知のように、道徳(morality)という語には大別して広い用法と狭い用法がある。広義の道徳が扱う領域には、いかなる生き方がよき生(称賛に値する生や、選ぶに値する生)であり、いかなる性格特性が有徳であるかといった問いが含まれるが、狭義の道徳の主題はより限定されている。限定された意味での道徳は、少なくとも第一義的には、いかなる振る舞いが義務として要求されるか、いかなる振る舞いが不正なものとして禁止されるかという問いのみを取り扱う。区別する必要がある場合、広い意味の道徳は倫理(ethics)と呼び分けることが多いから、この書評でも以下ではそうすることにしよう。

一般に道徳は倫理よりも遥かに新しい概念だといわれているが、別の場所においてダーウォルもこの見解を支持している。彼によると、たとえばプラトンやアリストテレスの徳倫理はあくまで倫理の理論であり、彼らによって道徳が論じられたことはない。そもそも、おそらくは両者とも道徳という概念自体を有していなかった(Darwall 2013a, 4)。同様にヒュームの道徳哲学もまた徳倫理であり、あくまで倫理の理論であったと彼は見ているが(188–190)、プラトンらとは異なりヒュームは自覚的に道徳の批判者として振る舞っていたとされる(Darwall 2013a, 7–9)。そしてダーウォルによれば、こうした道徳批判の系譜はニーチェに、より後の時代ではアンスコムやウィリアムズに、引き継がれていった(ibid., 9; 93–4/148–149)。

ダーウォルが本書で道徳と呼ぶものは、常にこの狭い意味における道徳である。そして彼は狭義の道徳を、とりわけ責任概念との結びつきによって特徴づける。すなわち振る舞いの道徳的評価とは、常にそれが責任を問うに値するか否かの評価であり、この点が倫理と道徳を分かつものなのである。ただし、こう言っただけではまだ正確でない。ダーウォルが正しく認識している通り、責任(responsibility)の語もまた多義的と考えうるからだ。ここで重要になるのは、前述したストローソンの議論を独自に拡張する中でワトソンが提案した、問責責任(accountability)と帰属責任(attributability)の区別である。

前者はストローソンが責任と呼んでいたものであり、問題のある振る舞いの問責責任を負うということは、その振る舞いについて当人が責められうる、咎められうる、非難されうる(blameworthy)ということである。対して、問題のある振る舞いの帰属責任を負うことは、その振る舞いの否定的価値を当人に帰する形で、当人の人格に低い倫理的評価を下しうる——つまり、悪徳を帰属しうることを意味する。この違いが際立つ状況の一つは、当該の振る舞いが何らかの意味で当人に選択可能でなかったとみなしうる場合である。たとえば幼少期において虐待的扱いや歪んだ人格教育を受け続けた人物は、良心の呵責なく陰惨な行為を実行するかもしれない。このとき、その行為について当人を咎め、処罰し、償いを要求すべきかは論争的でありうる。対して、その振る舞いに他でもない当人の冷酷さや凶暴さが現れているという判断は異論の余地なく正しいようにみえる。たとえその悪について本人が責めを負わないとしても、悪徳は悪徳なのだ、というわけである(cf. Watson 1996, 280–282)。

すでに見えてきている通り、帰属責任は徳性の評価に関わるものであるから、道徳というよりも倫理に関わる概念だといえそうだ。実際、それがダーウォルの提案する理解なのである。後に、ヒュームが倫理について書く際に念頭に置いていた責任概念は帰属責任であって問責責任ではなかったと彼は書いている(Darwall 2010a, 219)。ダーウォルが本書の中で帰属責任と問責責任の区別について触れている箇所は、評者が把握する限りわずか二つで、それもごく簡単な説明にとどまっているのだが(69/110; 190)、それにも関わらず、この区別は本書の議論全体の背景をなす道具立ての一つである。本書において“responsibility”よりも“accountability”の語が優先的に用いられている最大の目的は、あくまで問責責任について、そして非難について論じていると明示することに他ならない。ダーウォルの見解において、道徳的義務とはそれに反することが非難に値するものを指し、道徳的不正とはそれに手を染めることが非難に値するものを指す。もちろんこうした道徳理解を理論的に明示したのはダーウォルが初めてではなく、とりわけ目立つ先駆者は(ダーウォルからすれば、皮肉なことに)ミルであるとされている(92–93/146–148)。

前節で見たように、ダーウォルは「ストローソンの論点」に基づき、責任帰属を帰結主義的に正当化することは誤りであり、むしろ二人称的にしか正当化はできないと主張する。そしてここから、帰結主義が道徳理論として一般に不適格であるという強い結論を彼は導く。しかし、これもやはり問責責任と狭義の道徳に限定された主張であることが今や理解される。振る舞いの倫理的価値や、行為者の有徳性が、行為者の振る舞いのもたらす帰結の望ましさに基づいて決定される可能性について、本書では肯定も否定もされていないのである。したがって帰結主義はあくまで道徳理論として棄却されるにとどまり、倫理理論としては批判の対象になっていない。

帰結主義と義務論(第5章~第7章、第9章、第11章)

ところで、道徳理論として帰結主義が棄却されるとしたらダーウォル自身の支持する道徳理論は何か。積極的にそう述べてはいないものの、彼の立場は明確に義務論的なものである。義務論と帰結主義の対比は本書の中で実に様々な形をとって繰り返されており、ここまで見てきたものはそのバリエーションの一部にすぎない。もう一つ重要な対立軸とされているのは、「世界の状態志向的」(state-of-the-world-regarding)な観点と、「行為志向的」(action-regarding)もしくは「主体の態度志向的」(attitude-of-a-subject-regarding)な観点の対比だ。

帰結主義と義務論の差異を示すためによく用いられるタイプの例で考えてみよう。あなたはテロリストに捕らえられ、余興として無実の人質一名を殺害するよう強要された。もしあなたが拒めば、人質五名が殺害されてしまう。あなたは要求に従うべきだろうか。ここで無実の者の殺害という世界の出来事が持つ負の価値に注目し、「殺人が生じることをできるだけ避けよ」と命じる規範に従うならば、要求に従うという結論が出るだろう。素朴な行為功利主義は一般に、まさしくそのような考え方だとみなされている。規則功利主義の場合はより複雑な計算が関与するが、ある規則が遵守された場合に生じる世界の状態が持つ価値を測定し、それを比較考量するという点では同様のアルゴリズムに依拠する。対して、義務論はこのような思考法をとらない。「殺人するな」という義務論的規範はあなたに対して、殺人という行為の実行、もしくはそれをなそうという意図の形成を、端的に禁止する(評者が見る限りダーウォルはこの文脈で行為と意図を交換可能とみなしている。単純化のため、以下では行為のみを例にとる)。その際、それに伴ってどのような世界の状態が生じるかは考慮されない。

ダーウォルは、この区別を基本的には心的状態の対象に関する区別として導入している。何らかの世界の状態を対象にとる動機的状態を彼は「対象依存的欲求」(object-dependent desire)もしくは単に「欲求」と呼び、端的に行為を対象にとる動機的状態を「原理依存的欲求」(principle-dependent desire)ないし「規範の受け入れ」(normative acceptance)と呼ぶ(なお、対象依存的/原理依存的欲求という用語はロールズから、規範の受け入れという用語はギバードから、それぞれ継承したものである)。欲求は特定の世界状態の実現を目指す心的状態であり、その意味で目的論的に動機づける心的状態であるともいわれる(157)。対して、規範の受け入れは端的にある行為の遂行を目指すものであることから、義務論的に動機づける心的状態といえるかもしれない、とされる(158)。ここから見て、欲求と規範の受け入れという心理学的区分が、そのまま帰結主義と義務論という倫理学的区分にも対応するものと期待されていることは明らかであろう。

この対比は、もう一つの極めて重要な区別、すなわち行為者中立的(agent-neutral)なものと行為者相対的(agent-relative)なものの区別とも関係している。その厳密な定義は未だ論争のさなかであるものの、概ね共有される直観的理解によれば、ある規範や価値や理由などがすべての行為者に同じ何かを要求したり推奨したりする場合、それは行為者中立的であり、そうでないときは行為者相対的である。上で出てきた「殺人が生じることをできるだけ避けよ」という規範は、すべての行為者に同じ種類の世界状態の回避を命じるものだから、行為者中立的な規範の例となる。対して、「殺人するな」は行為者相対的である。なぜなら、この規範は私に対しては私が殺人することの回避を、あなたに対してはあなたが殺人することの回避を命じるものだからだ。ここから示唆される通り、一般に帰結主義は行為者中立的、義務論は行為者相対的な理論だとされる。実際のところ、行為者中立性/相対性に訴えて帰結主義と義務論を区別することは現代倫理学の定石となりつつある。

評者が見る限り、ダーウォルは世界状態志向的であることと行為者中立的であることを等価とみなしている。これは最初に引用した、足を踏まれているからどけてもらうという例でも示唆されていた。あなたの足に苦痛が生じるという世界の状態そのものが負の価値を有し、それゆえ除去されるべきであるとすれば、それはすべての行為者にとって除去するべきものに違いない。そのような推論から、苦痛に基づく行為の理由は行為者中立的だといわれていたのである。

そしてここまでの議論から予想されるように、ダーウォルはこの行為者中立的な理由が道徳的理由であることを否定する。もしこれが道徳的理由であるならば、この理由に基づいて、足を踏む人物を道徳的に非難することが可能なはずである。その非難には足をどけろという要求が含まれるはずである。しかし苦痛が望ましくないという事実を持ち出してその人を非難することは、結局、足をどければ苦痛が除去され、望ましい世界の状態が生じるという帰結主義的正当化に基づいて非難と要求を行うことになる。少なくとも、おそらくダーウォルはそうみなしている。そして「ストローソンの論点」により、これは間違った種類の理由である。このように、行為者中立的理由は一般に道徳的理由ではないと彼はいう(cf. 103–104/160–161)。

理由が行為者中立的であることは、客観的であること、および三人称的であることともいいかえられる(9–10/16–17)。これに対し、行為者相対的な理由が常にダーウォルの提唱する二人称的理由——私たちが相互に理にかなった形で要求を課すことに依存した行為の理由——であるとは限らない(9/16)。単純な話、誰にでも自分の欲求を満たすべき理由があるという利己主義のテーゼが正しいとすれば、ここからは一種の行為者相対的理由の存在が帰結するが、明らかにこれは二人称的理由ではない。しかしその逆、つまり二人称的理由が常に行為者相対的であるという主張は正しい。そしてダーウォルによれば、道徳的理由は必然的に二人称的理由であるから、当然の事実として行為者相対的なのである。

ここまでに確認した事柄をまとめるならば、ダーウォルは概ね以下のような二つの概念グループを鋭く対比させながら議論していることになる。

  • 義務論のグループ:二人称的、行為者相対的、行為志向的、規範の受け入れを介して動機づける、非目的論的、問責責任と道徳に関わる
  • 帰結主義のグループ:三人称的、行為者中立的、世界状態志向的、欲求を介して動機づける、目的論的、帰属責任と倫理に関わる(かもしれない)

残念ながらダーウォル自身はあまり明示的にこのような整理を与えはしなかったが、この二分法は本書のすべての箇所で背景にあるといってよいものであり、これを常に念頭に置くことは本書の読解を幾分かでも助けるだろう。

二人称的理由(第3章~第5章、第10章)

ここからはいよいよ、本書の独創性を象徴する二人称的理由という概念に接近していくこととしよう。ダーウォルは、道徳的理由は二人称的理由だと考えているのだった。許しもなく人の足を踏むことが、ささやかながらも道徳的不正であるとすれば、それは足を踏むべきでない道徳的理由があるからに違いない。その理由は二人称的理由でなければならない。そして二人称的理由は「要求に基づいた理由」だといわれていたのであった。しかし今や明らかであるように、これが道徳的不正に関わる論点だとするならば、この二人称的理由が「足をどけろ」という要求がなされたとき初めて生じるものだというのは反直観的である。あなたは気後れのあまり、そのような要求を口に出せないかもしれない。あるいは表出されない心的状態も含めて「要求」と呼ぶことにしたとしても、あなたが並外れて控え目な人物であったなら、心中においてすらそうした要求を抱かないかもしれない。しかしダーウォルがその後明確に認めた通り、そのような場合でも不正は不正であるはずであり、あなたの前にいる人物はあなたの足を踏むべきでない理由を有するはずである(Darwall 2007, 64)。

だとすれば、ダーウォルの考えは結局何であるのか。答えはこうである。その理由はあなたが実際に要求をしたという事実には依存しないが、もしあなたが要求をしたならそれは正当な要求である、という事実には依存する。いいかえれば、あなたにはその要求をする権威があり、要求に反した振る舞いを非難する権威があるという事実に依存する。これが、道徳的な二人称的理由が要求に基づく理由だということの意味に他ならない。「二人称的な理由の妥当性は人と人の間において前提される権威や問責責任の関係に依存しそれゆえその理由が人から人へと差し向けられる可能性に依存する」(8/15)。

「二人称的観点」の節でも触れたように、こうした要求の権威は私たちがただ自由で理性的な行為者であることによって本性的に獲得するものだとされている。なぜそうであるのかは次節で見ることとし、ここではこれが真だと想定しよう。すると、ある重要な点が帰結する。あなたが足をどけるよう要求する権威を持っているのは、単にあなたが自由で理性的な行為者だからである。つまり、あなたが足を踏まれている当人であるかどうかは関係がないのだ。もしあなたがただそこにいただけの第三者であったとしても、あるいはいっそ地球の反対側にいたとしても、あなたには足を踏んでいる人物を非難し、足をどけるよう要求する権威がある。道徳的に不正な行いとは、被害者だけが非難できるようなものではなく、およそ誰もが非難しうるものなのである。実のところ、足を踏んでいる当人にさえ自分自身を非難する権威がある、とダーウォルは考える。その人物は自分の行いの不正さに気づいたならば罪の意識を感じるべきであり、罪悪感とはまさに、自分自身に向けた非難の情動に他ならないというわけだ(71–72/112–113; 112/171)。

ダーウォルは自由で理性的な行為者と道徳的行為者を同一視するから、彼はただ自由で理性的な行為者の立場から何かを要求することを、道徳的共同体の立場から要求すること、とも呼ぶ。もちろんこの道徳的共同体とは実際に存在する共同体ではなく、一種の統制的理念として要請されるものであり(Darwall 2007, 64)、ダーウォルはこれをカントの「目的の王国」とも同一視する(101–102/158–159)。というわけで結局、道徳的理由は道徳的共同体からの要求に基づいている、ということになる。その共同体には当事者以外の無数の第三者も所属するが、にもかかわらず、何者かからの権威に基づいた要求というものに概念的に依存している以上、道徳的理由は完全な意味で二人称的である。ダーウォルが好む言い回しによれば、「『二人称(セカンドパーソン)』は『セカンドパーティー』を帰結しない」(Darwall 2010a, 217)。

とはいえ、すべての二人称的理由がそのようなものであると考えなければならないのだろうか。より個別的で偶然的な、まさにセカンドパーティーからの要求に基づいた理由もあるのではないか。これに対するダーウォルの答えは明確に肯定的なものである。「あなたがエッグベネディクトを注文したなら、ウェイターに対して、エッグベネディクトを持ってくるべき理由を与えたことになる。その理由は注文が行われるまでは存在しなかった」(51/81)。このような理由は明らかに個々の要求行為に依存しており、またそこで前提されている権威は、注文した客と注文を受けた店という個別具体的な関係に依存している。たとえ注文が行われた後であろうと、無関係な第三者には「早くあのお客に料理を出しなさい」と要求する権威はない。

実をいえば、このような個別的権威とそれに依存した理由は、足を踏まれる例においても存在するものである。足を踏む人物を道徳的に非難し、問責する権威はすべての道徳的行為者が有するとしても、被害者であるあなただけが持っている権威がまだある。たとえば相手から謝罪が発せられた場合、それを受け入れるか否かを決定するのはあなたである。同様に、相手を許すかどうかについても、あなたに特別な決定権がある(Darwall 2013a, 30–31)。ここからの自然な延長として、あなたが謝罪を要求した場合にのみ相手はあなたに謝罪する理由があり、義務がある、とも考えられよう。こうした義務は相手が被害者としてのあなた個人に対して負う義務であり、道徳的共同体の成員すべてに対して負う義務ではない。

このような区別は本書の中でも不明瞭ながら論じられていたものであり、最初の長大な引用にあった「あなたはまさに足を踏まれている人物という立場からこうした要求をすることもできるし、道徳的共同体〔…〕の一員という立場から要求をすることもできる」という叙述もこれを示唆している。しかし、ダーウォルがこの区別をはっきりと強調するようになったのは本書の後に公刊された著作群においてである。彼が後に整理した用語法によると、誰かがただ道徳的行為者であることにより、いいかえれば道徳的共同体の代表として、有する権威は「代表的権威」(representative authority)と呼ばれる。これに対し、被害者のような個別の立場から有する権威は「個人的権威」(individual authority)と呼ぶ。そして道徳的共同体に対して負う義務が「道徳的義務そのもの」(moral obligation period)であるのに対し、個人に対して負う義務は、Thompson(2004)の表現を借り、「双極的義務」(bipolar obligation)と命名される(Darwall 2013a, 20–39)。これに付け加えて、以下では個人的権威に由来する二人称的理由を道徳的理由と区別して「単なる二人称的理由」と呼ぶことにしよう。

ダーウォルはこうした二分法を、一方では反応的態度の種別に、他方では法の種別に結びつけて補強する。すでに見たように、ダーウォルはストローソンに依拠して、道徳的非難と怒りの密接な関係を主張していた。しかし正確にいえば、ストローソンが道徳的非難と結びつけていたのは怒り(resentment)ではなく、その近縁種たる憤り(indignation)である。怒りは自分自身に対する悪意を持った振る舞いに反応して生じる情動であり、ゆえに個人的な反応的態度と呼ばれる。これに対し、憤りは怒りの「共感的、代理的、非個人的、無私的あるいは一般的な対応物」(Strawson 1963, 56)であり、つまりは自身の個別具体的な立場を捨象して抱かれる情動であるため、非個人的な反応的態度と呼ばれる。そしてダーウォルはこれを、まさに道徳的共同体の立場から抱かれる情動、と解釈する(66–67/107)。したがって、代表的権威と道徳的義務そのものに対応する反応的態度は非個人的であり、対照的に、個人的権威と双極的義務に対応する反応的態度は個人的であるということになる(Darwall 2013a, 34)。

そして、道徳的義務そのものと双極的義務の区別は、刑法と民法の区別にも重ね合わせられる(Darwall 2007, 62; Darwall 2010a, 223; Darwall 2013a, 31)。一般的に、刑事事件における加害者は被害者の意思に関わらず罰せられるべきであり、刑事責任は被害者個人に対してではなく、より大きく抽象的な主体、たとえば国家に対して加害者が負うものである。これに対し、民事事件はその当事者たる私人が訴えを起こすことで初めて事件として成立するものであり、もし被害者側が賠償などを追求しなかったらば、あるいは示談によってその追求を取りやめたならば、もはや何人も加害者にそれ以上の追求を行う権利を持たない。つまり民事責任は加害者が被害者だけに対して負う責任なのである。こうした対比が概ね成り立つとすれば、刑法は代表的権威と道徳的義務そのものに、民法は個人的権威と双極的義務に、それぞれ類比的なものとしても理解できる。

ここまでの議論がうまくいっているとして、なお一つの大きな疑問がある。代表的権威と個人的権威は、あるいは道徳的義務そのものと双極的義務は、どちらが先立つものなのだろうか。前者のグループが後者のグループの延長線上に成立する、というのが自然な考え方に思えるかもしれない。私たちが個別的な立場から要求を行ったり契約を行ったりすることで、具体的な双極的義務が生まれ、それが洗練され普遍化されていくことによってやがて道徳的義務と呼ぶに値するものが生まれるのだと。だが実のところ、ダーウォルはこれとまったく反対のことを主張する。彼によれば、いかなる双極的義務も道徳的義務そのものの支えなくしては成立しえない。なぜなら次節で見るように、およそいかなる二人称的要求を発する場合でも、お互いが自由で理性的な行為者として代表的権威を有していることは要求の「規範的適切性の条件」に含まれている、と彼は考えるからである。すなわち、被害者としての謝罪要求といった明確に道徳的色彩の濃い要求を発するときはもちろん、ただ店員にエッグベネディクトを注文するだけのときでさえ、自分と相手が代表的権威を持った道徳的共同体の成員であることと、その権威をもって当の要求が理にかなった形で相互承認されうることが前提されていなければならない。さもなくばそれは正当性を持たない「理性的な脅迫」へと堕し、道徳的理由はもちろん、単なる二人称的理由がそこから生じることも決してない。だが逆に、道徳的義務そのものが双極的義務を伴わずに成立することは可能である。よって、明確に前者が後者に先立つということになる(Darwall 2013a, 35)。

しかし、本当にそのような結論が導けるのだろうか。私たちはようやく、本書において最も核心的な論証へと迫ろうとしている。しかしその前に、ここまでで確認したことを図によって整理しておこう。ともに自由で理性的な行為者である加害者と被害者の間で何らかの道徳的不正行為が行われ、それに関して被害者が代表的権威と同時に個人的権威も有している場合を例とすれば、本節で登場した諸概念はそれぞれ次のような関係におかれることになる。

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道徳の規範性(第6章、第9章~第11章)

これまで見てきたように、倫理と違って道徳は必然的に問責責任に、それゆえ非難に結びつくとダーウォルは考えていた。そして非難は行為者中立的理由ではなく二人称的で行為者相対的な理由によって正当化されるから(「ストローソンの論点」)、道徳的理由は必然的に二人称的理由だと考えられていた。しかし、これらはあくまでも、私たちの道徳とか責任といった概念を分析して得られる結論にすぎない。いいかえれば、もし道徳的義務なるものがあるとすれば、それは二人称的理由によってのみ支えられる、という仮言的な主張が論証されたにすぎない。道徳的義務や二人称的理由が実在するという実質的な規範的主張そのものは、未だ論証を与えられてはいない。

本人がそう断っているわけではないが、ダーウォルがこうした主張を正当化するために与える論証は超越論的論証の一種とみなせる。すなわち彼は二人称的理由が実在することを直接示すというより、私たちは一定の条件を満たす行為者である限り、二人称的理由が存在するという主張にすでにコミットしているのだということを示そうとする。もしこのような論証が成功したとすれば、それはある形で道徳そのものへの懐疑論を退けたことにもなる。ヒューム゠ニーチェ゠アンスコム゠ウィリアムズ的な懐疑論(とダーウォルが理解するもの)によれば、道徳なるものの根源的ないかがわしさは、ありもしない定言的な規範性をあたかも有しているかのように見せかけ、私たちの意志を操ろうとする点に集約される。しかしダーウォルの論証が正しいとすれば、一定の条件を満たす行為者である限り、私たちは自分の欲求に一切関わりなく、道徳的に行為すべき二人称的理由があると信じざるをえず、道徳的に動機づけられざるをえない。その意味で、道徳の定言的規範性は決してまやかしでないリアルなものである(cf. 93–99/148–157)。

こうした超越論的論証によって道徳の規範性を立証しようと試みたのはむろんダーウォルが初めてではない。分析系倫理学における最もよく知られた例として、コースガードはカントの議論からそのような論証を抽出できると論じた。彼女によれば、己の欲求を反省的に批判し承認/棄却する理性的行為者として実践的推論を行う限り、私たちは常に道徳的理由の存在にコミットすることになる。これに対し、同じく主としてカントに依拠するものの、ダーウォルはコースガードのような「一人称的な」形でカントを理解する限り、そこから真に成功した論証を取り出すことはできないと主張する(213–239/233–266)。ここでは詳しく検討しないが、その議論の要点は、単なる反省的な実践的推論だけでは私たちを道徳にコミットさせるには不足だという観察にある。

ダーウォルにいわせれば、ここではやはり「二人称的な」理解が必要なのである。上で述べた「一定の条件」とは、すなわち、二人称的観点に立つことに他ならない。私たちを否応なく道徳にコミットさせるのは単に行為者であることではなく、二人称的観点に立った行為者であることだ。これを示そうとする論証のパーツは本書の様々な箇所で、多くの紙幅を費やして与えられているのだが、その全体像を把握することは本書の読解においても最も難しい作業だと思われる。以下では評者が理解している範囲で、できるだけ簡潔にその統合を試みる。

改めて確認するならば、二人称的観点とは、何らかの要求を正当なものとみなしながら誰かに向けて発する際の観点である。ここでいう要求の正当性は、もちろん帰結主義的・世界状態志向的に与えられるものではなく、もし要求が背かれた場合は相手に問責責任を負わせ、非難しうるという二人称的な意味での正当性である。したがって二人称的観点に立つとき、自分自身にそうした要求の権威、問責と非難の権威があることが「規範的適切性の条件」として前提される。だがダーウォルによれば、この規範的適切性の条件にはまた、要求を向けられる相手がその要求を正当なものとして受け入れ、従うよう動機づけられる心的能力を有しているという条項も含まれる。そしてこのときもまた、受け手は要求を二人称的に正当なものとして受け入れることができるのでなければならず、要求に背いたならば自分自身を非難し、問責することができるのでなければならない(典型的には、罪の意識を持つという形によって)。

なぜそうであるのか、順序立てて考えてみよう。まず、そもそも相手がφという行為を実行できないのであれば、φせよと要求することは正当でありえない。これはさしあたり認めてよいと思われる。しかしダーウォルによれば、何らかの理由に基づいてφすることができるだけでは十分でない。要求を向けられた相手は、まさにφせよという要求が正当であることを理由にφすることができるのでなければならない。なぜなら、そもそもそれが二人称的観点から発せられる要求の目的であり存在意義だからである。「なぜ私の足を踏むのですか、やめてください!」と言うとき、あなたは言葉通りのことだけを要求しているのではない。もしそうなら、相手が内心で「うるさい奴だ、周りに見られているじゃないか、静かにさせるために足をどけておこう」と思いながら足をどけたとしても、あなたの要求は完全に目的を達したことになろう。だが実際には、あなたは単に足をどけるよう求めているのではなく、自分にそう求める権利があることを主張してもいるのであり、相手にその権利を認識し、自分を尊重することを求めてもいるのだ。だからこそ、相手がそれを分かってくれる可能性がないならば、あなたの要求は本来の目的を果たしえず、それゆえ本来の正当性を持たないことになる。こうした観察は、神が被造物に命令を下すという極限的な状況でさえ成立するとダーウォルは論じており、神学的主意主義者プーフェンドルフの議論においてすでに同様の論点が示されていたとの認識から、このテーゼは「プーフェンドルフの論点」と呼ばれる(22–25/32–36; 107–115/165–175)。

続けてもう少し用語法を整理しておこう。ただ要求の正当性のみに基づいて動機づけられるという心的能力は、「二人称的能力」(second-personal competence)と呼ばれる(75–76/117–118)。ゆえに「プーフェンドルフの論点」は、「要求が正当であるためには要求の受け手に二人称的能力が必要である」とまとめ直せる。そしてまた、二人称的能力であるところの動機的状態は、ダーウォルによれば欲求ではない。というのも、それはどのような世界状態の実現を目指すものでもないからである。むしろそれは、「帰結主義と義務論」の節で導入した規範の受け入れ(もしくは対象依存的欲求と区別される、原理依存的欲求)の一種であり、つまりは「φすることを正当に要求されたならφする」という行為遂行に関する規範を受容している状態である。

ところで、欲求によって動機づけられることは常にその欲求の対象たる世界状態の価値的性質に依存した動機づけであるのに対し、規範の受け入れによって動機づけられることはいかなる対象からも独立に、端的に意志の形式のみによって動機づけられることだとダーウォルは考える。ここから、カントのいう「意志の自律」はまさにこのあり方を指すと解釈される(219–222/240–244)。もちろん、自律は自由と不可分である。実際のところ、ここまで繰り返し用いられてきた「自由で理性的な行為者」の「自由」は、二人称的能力を有していることと同一視される(246/284–285)。他方で悩ましいことに、「理性的」の部分が正確に何を意味しているのかは、評者が読み取れる限り、本書中で詳しく説明されていない。ゆえに以下では「理性的」の特定の解釈に依存しないように、「自由」ないし「二人称的能力」の概念だけを用いて論証の再構成を続けることにする。

さて、「プーフェンドルフの論点」により、正当な要求を発したければ受け手に二人称的能力があることを前提せざるをえないとわかったとしよう。これまでのところは二人称的能力のことを、要求を正当なものとして受け入れる、という受動的な能力として説明してきたが、ダーウォルはこれが自分から誰かに要求を発するための能動的な能力、つまりは自分自身で二人称的観点に立つ能力でもあると考えている。というのも、そもそも要求を正当なものとして受け入れることが、自分自身にその要求を課し、背いたなら自分自身を非難することを含むと考えられているからだ(23/32–33)。自分に要求を課せるならば他者に要求を課すこともできるはずである。これを認めるならば、要求の受け手は常に潜在的な要求の主体でもある、という原則が帰結する。一方的に要求に従うだけの存在を想定することは不可能であり、この関係は常に互恵的(reciprocal)なのだ。

しかし、ダーウォルは未だ求める結論にたどり着けてはおらず、彼が決定的な一歩を踏み出すのはここからである。「プーフェンドルフの論点」はあくまでも、要求の受け手に一定の心理的能力が前提されるというものでしかなかった。二人称的能力とはあくまで一定の動機的状態を所持することであり、それが自ら要求を発する能力を帰結するとしても、その要求が正当なものでありうるか否か、二人称的理由の源泉になりうるか否かという規範的問題はまったく独立である。いいかえれば、私の要求はあなたを規範的に拘束するが、あなたの要求は私を何ら規範的に拘束しない、という非対称的関係はここまでの議論によってまったく排除されない。だがダーウォルは、まさにそうした非対称的関係が究極的に排除されると論じる。つまり、私はあなたに心理的な二人称的能力があることだけでなく、私を規範的に拘束する能力、すなわち二人称的権威があることも前提せねばならないのだと。

この主張が正しいとすれば、二人称的関係は心理的レベルのみならず、規範的レベルにおいても互恵的である。さらにまた、問題は単なる互恵性だけにとどまらない。ダーウォルによると、ここで要求の主体と受け手が共有する二人称的権威は、両者が偶然的に有する何らかの立場によって正当化されるものではありえない。それは両者がただ二人称的能力を持つことによって、自由な行為者であることによって、正当化される権威である。二人称的権威は私とあなたの権威ではなく、すべての自由な行為者の権威なのだ。この観察をダーウォルはフィヒテの哲学のうちに見出し、「フィヒテの論点」と名付けている(21/30)。なお、ここでもダーウォルの用語法は多少曖昧であり、「二人称的要求が正当であるためには受け手に二人称的能力と二人称的権威の両方が必要である」というテーゼを指してこの語が使われることもある(246/284)が、以下では「フィヒテの論点」をあくまで二人称的権威に関するテーゼとみなす。

さて、「プーフェンドルフの論点」から「フィヒテの論点」への移行はどのように正当化されるのだろうか。評者はダーウォルの議論をおおよそ以下のようなものと読み取る。まず、私があなたに要求を課すならば、あなたがその要求を正当なものとして受け入れ動機づけられうることを、私は前提せざるをえないのだった(さもなくば私の要求は不当となる)。あなたがその要求を正当なものとして受け入れることは、あなたがあなた自身に向けて同じ要求を正当化されたものとして課すことに等しい。すると、あなたが自分にそのような要求を課せるということが私にとっても理解可能でなければならないのだから、この要求は「私とあなたが共有するパースペクティブから」発せられるものであり、そのパースペクティブから正当とみなしうるものでなければならない。そうダーウォルはいう。

これは私とあなたが、注文する客と注文を受ける店員のような、一見すると非対称的な立場におかれている場合にも成り立つ。このとき、注文する権威は確かに私だけのものであり、あなたにその権威はない。しかしながら、私の注文する権威をあなたが正当なものとして受け入れることができるのでない限り、そもそも私の注文は正当でありえない。それゆえ、注文者としての権威は私とあなたが共有するパースペクティブから相互に正当化されねばならないことになる。そして重要な点として、この正当化は、私やあなたがたまたま占めている役割を果たすことがどのように望ましいか(たとえば、店員が客の要望を聞くというルールがどれだけ社会的に有益か)という事実によって与えられてはならない。そのような事実から出発して要求を正当化し、受け入れることは、結局は欲求に基づいて動機づけられることであり、二人称的能力を発揮して自律的かつ自由に動機づけられることではない。だがここまでの議論によれば、要求の正当性は、まさにそのような自由な動機づけを前提していたはずなのである。

したがって、私とあなたが共有する適切なパースペクティブとは、いかなる世界状態の価値的性質にも依存しないパースペクティブであり、そのようなものとしては、ただ二人称的能力を持つだけでそこに立ちうるパースペクティブしか考えられない。つまり、いかなる非対称的な権威関係も、根源的には自由な行為者らがなす平等な権威関係に基づくのであり、前節で予告したように、あらゆる個人的権威と双極的義務は、代表的権威と道徳的義務そのものに基づくことになる。そしてこの平等性は、客も仮に店員であったなら注文を受ける責任があるし、店員も仮に客であったなら注文をする権威を持つといった、交換可能性という意味での平等性ではないことに注意してほしい。ここでいわれているのは、すべての自由な行為者が現実に平等な立場にあるという遥かに強い意味での平等性であり、だからこそそれは道徳的地位そのものとみなされうる。

もしここまでの論証が正しいとすれば、ダーウォルは道徳の規範性を無事示し終えたことになる。というのも、およそ何らかの要求を正当なものとして発しようとするや否や、私たちは「ただ二人称的能力を持つだけで人には要求を行う権威があり、そのような権威をもって発せられた要求は受け入れねばならない」という命題の真理にコミットすることになる。そして「二人称的能力に由来する権威に基づいて要求されたこと」つまり「自由な行為者が理にかなった形で要求したこと」に背くことは、すなわち道徳的不正の定義そのものだと考えられていたから、結局、私たちはすでに「道徳的不正を行ってはならない」という命題の真理にコミットしていることになるのだ。

ここで当然浮かぶだろう疑問がある。以上の論証が成功していたとしても、それは二人称的観点に立つものが常に道徳の規範性にコミットしていると示すにすぎない。しかし、二人称的観点に立たずに生きることが不可能であるようには思えない。とすれば、ダーウォルの論証は依然として限定的な説得力しか持たないのではないか。ダーウォルはこうした疑問が生じうることをはっきりと認識しており、実に三重の防衛線を張っている。

第一に、二人称的観点にまったく立たずに生きることが人間にとってどれだけ可能であるかは実際疑わしい、とダーウォルは強調する。これを示すために彼が訴える極端な事例はスターリンの生涯である(138–140/212–214)。スターリンには一般に、暴君として他者を一方的に支配したというイメージがあるかもしれない。しかし、ラジンスキーの伝記に基づいたダーウォルの推察によれば、「〔…〕スターリンは、自分が他者に対する正当化された権威を有していること、その権威が他者にとって当然承認すべきものであることは、明白だと感じていた。彼のなした最も残虐な殺人でさえ、自己正当化の情動や語りを伴っていた、いやむしろ、それに駆り立てられていた」(139/213)。つまりダーウォルにいわせれば、スターリンにとっても他者は決して道具や操り人形ではなく、正当化(見せかけの正当化だとしても)の宛先となる人格だった。彼は二人称的観点の外にいたどころか、むしろ積極的に二人称的観点に立ち、それをいわば悪用していたのである。

とはいえ、このような例から二人称的観点の外で生きることの困難さが示唆されるとしても、それはせいぜい心理的な、もしくは実践的な困難さにすぎない。まったく二人称的観点に立たない行為者が概念的に想定可能であることは否定できないだろう。実際ダーウォルはそう認めており、たとえば「整合的な利己主義者に向かって、二人称的理由が実在する〔…〕と説得する方法は存在しないかもしれない」と書いている(Darwall 2010a, 227)。付け加えるならば、二人称的観点に立たない者が利己主義者になる必然性もない。二人称的正当化と帰結主義的正当化は独立のものとされていたから、あなたがまったく二人称的観点に立たず、問責責任や正当な非難、誰かに対して負う義務といった観念を持たないとしても、依然として帰結主義的考慮に基づいて行為することはでき、それは利他的な行為を導くかもしれない。さらに、そのような生き方は完全な意味で有徳とみなしうるかもしれない。

しかしながら他方では、この譲歩から帰結することを大きく見積もりすぎてはならない。これがダーウォルの第二の防衛線だ。というのも、あなたが現在二人称的観点に立っておらず、それゆえ自分に道徳的義務があるなどとは考えていないとしても、あなたに道徳的義務があると私たちが述べることは依然として正しいかもしれないのである。あなたは二人称的能力を有しているが、まだそれを発揮していないのかもしれない。そうだとすれば、あなたは二人称的能力を有している時点ですでに道徳的共同体の成員であり、他のあらゆる成員と同様に権威と義務を担うと私たちは考えられる。いやむしろ、そう考えざるをえない。それゆえ、私たちは正当に、あなたに対して道徳的要求(ないしそれに基づいた様々な個別的要求)を課すことができる。あなたはそれに反応する形で二人称的能力を開花させ、その要求が正当であることを理解して道徳に参入するかもしれない。道徳的義務は二人称的能力に依存するのであって、実際に二人称的観点に立っていることには依存しない(Darwall 2007, 59; Darwall 2010a, 227–228)。

だがそうなると、最後に残る疑問は、二人称的能力そのものを有さない行為者はどうなるのかである。この書評では論じられなかったが、ダーウォルは二人称的能力が人の共感(empathy)の能力にルーツを持つとも示唆しており(43–48/72–78; 151–170)、ここから逆にいえば、著しく共感能力が損なわれた、あるいは未発達な人物は二人称的能力を持たない場合もありえることになる。その実例として、ストローソンに沿ってダーウォルが検討しているのは、幼い子供、統合失調症やアルツハイマー症といった精神疾患の患者、および俗にサイコパスといわれる人物の事例である(86–90/130–135)。前二つのグループが二人称的能力を欠くがゆえに道徳的義務の担い手にならないと結論することは、それほど反直観的ではないと考えられる。というのも、幼児や精神疾患の患者らが道徳的責任を免除されるべきだと現実に論じられることは(当然ながら具体的な状況に大きく依存するものの)決して珍しくないからだ。

これに対し、サイコパスが二人称的能力を欠くならば仮にどれだけ残虐な行為を遂行しても道徳的責任は問えない、というダーウォルの結論は強く反直観的だといわれうるだろう。この抵抗感を和らげるため、彼は次のように論じている。サイコパスに道徳的責任があるという前提が偽だとしても、あたかもそれが真であるかのように振る舞うことは、「人の尊厳を守るという、共同体にとって重要な表現的機能を持っている」。したがって、その者を処罰することは本来の応報的機能を果たせないとしても、「自己防衛」の機能を果たしうるのだ、と(90/134–135)。ここで、ダーウォルは二人称的・応報的・義務論的な観点に訴えることをやめ、サイコパスへの責任帰属を帰結主義的に正当化しようとしているようにみえる。しかし、これをあたかも「禁断の果実」に手を出したかのように受け取るべきではない。これまで強調してきたように、ダーウォルは帰結主義そのものが内在的に誤っているとか無意味だとかいった主張をしてはいない。彼の主張は、帰結主義が狭義の道徳理論として棄却されるべきだというものにとどまる。

ダーウォル自身は、サイコパスへの責任帰属をどうやら、中心的な二人称的事例からの逸脱という否定的な形でしか捉えていない(87/132)。しかしここまでの整理が正しいならば、これに積極的な位置づけを与えることは明らかに可能なはずである。すなわち、ここでいう責任を道徳と問責責任の問題ではなく、倫理と帰属責任の問題として捉えることができるはずだ。サイコパスは二人称的能力を欠くがゆえに、不正な行為をまさに不正として認識し差し控えよといった要求に応じることができず、したがって問責責任を負うことがないかもしれない。しかしそれでも、サイコパスの行為には他者を尊重できないといった心的欠陥が現れており、それが悪徳として当人に帰属されると判断することはなお可能なはずだ。というのも統合失調症などの場合と異なり、サイコパスの心的欠陥はその人物の本来的あり方——いわゆる「真正の自己」(real self)——に帰属されうるからである。実際、だからこそサイコパスの問題行動は、重度の精神疾患の患者の問題行動よりも明確に「悪辣」「冷酷」などと呼ばれる傾向があるのだといえるかもしれない。このような意味でサイコパスが限定的な責任主体だという見解は、近年ワトソンによって実際に擁護されてもいる(Watson 2011)。

議論の検討

本書の議論で検討しきれなかった部分はなお多いものの、ようやく私たちは、ダーウォルの込み入った理論について一通りの見通しを得た。ここからは、評者がその論証に対して抱く疑問をまとめておきたい。

第一に、「ストローソンの論点」の扱いに関して疑問がある。もともと「ストローソンの論点」は、ある不正行為がなぜ非難と問責に値するのかと問われたときに、その非難によって望ましい帰結が生じるからという答えが「間違った種類の理由」しか与えないというものだった。だがダーウォルはここから、あらゆる帰結主義的正当化が行為の道徳的評価に対して間違った種類の理由である、という結論を導こうとするのであった。しかし、この移行はそれほど簡単に認めうるものではない。というのも、行為に対する非難の帰結の価値が間違った種類の理由であることから、行為の帰結の価値もまた間違った種類の理由であることは直ちに帰結しないからだ。つまり、「行為φを非難すれば望ましい世界状態が帰結する。ゆえにφは非難に値し、道徳的不正である」という帰結主義的説明と、「行為φ自体から望ましくない世界状態が帰結する。ゆえにφは非難に値し、道徳的不正である」という帰結主義的説明は、さしあたりまったく別物のはずなのである。

ダーウォルは、別の根拠によって独立にこの移行を正当化できると考えていたのかもしれない。ここまでは触れてこなかったが、彼は「間違った種類の理由」問題に積極的な回答を与えようとしてもいる。それによれば、ある理由Rが態度Aを正当化するための正しい種類の理由であるのは、実際にRに基づいてAを形成することが可能なときである1。おそらくダーウォルは道徳的義務や不正の判断が規範の受け入れという心的状態だと考えており、欲求と異なり規範の受け入れは世界状態の価値に基づいて形成されないと考えているから、この想定を上の原則と合わせれば確かに、世界状態の価値は道徳判断に正しい種類の理由を与えない、という結論が出るだろう。しかし、上記の提案は「間違った種類の理由」問題の解決策として端的に有望でないようにみえる。人はしばしば非合理に振る舞うものであるから、間違った種類の理由に基づいてある態度を形成してしまうことはいくらでも起こりうるはずではないか。ダーウォルは「ある命題pを信じることが〔実践的に〕望ましいという事実の反省によって、それを信じるに至るということはありえない」(66/107)と述べているが、どうしてそのように断言できるのか評者には分からない。彼は希望的観測といった現象が実在しないと考えているのだろうか。この議論もまた説得的でないとしたら、やはり、「ストローソンの論点」をもとに道徳に関する帰結主義一般を棄却するには、より綿密な議論が必要であるように思われる。

第二の疑問は「プーフェンドルフの論点」から「フィヒテの論点」への移行の妥当性に関するものだ。評者が理解する限り、この移行はダーウォルが道徳の規範性を擁護する論証において最も重要なステップであり、ひいては本書の戦略全体の核心をなす箇所だと思われる。しかし実のところ、なぜこの移行が正当化されるのか、評者はなおも得心が行っていない。私があなたに正当な要求を行うならば、あなたはそれを正当なものとして受け入れられねばならず、したがってあなた自身に正当なものとして同じ要求を課すことができねばならない、という点を認めるとしよう。その正当性は世界状態志向的に基礎づけられてはならないという点も認めたとしよう。だがそこから、なぜあなたにも二人称的に正当化された要求をなす権威があるという帰結が出てくるのだろうか。「共有されるパースペクティブ」という道具立てがここでどのようにミッシングリンクを埋めているのか、評者には判然としない。確かに、あなたがその要求を正当とみなし、自らに課せるということが私にも理解可能でなければならない、という意味においては、私はあなたのパースペクティブにも立てねばならない。しかし、それはあなたが正当な要求という概念を用いて思考できていることを理解するためのパースペクティブであればよいのであり、あなたの要求が実際に正当であることに私がコミットするためのパースペクティブである必要はないのではないか。

より露骨な形で疑問を表現するならば、こうである。

私は、あなたが「正当なものとしてその要求を自らに課す」ことができると認めねばならない

という前提から、ダーウォルはどのようにしてか

私は、あなたが正当なものとして「その要求を自らに課す」ことができると認めねばならない

という結論を導いている。しかし、もし評者に誤解や見落としがないとすれば、なぜこの推論が可能であるのかを説明する論点は本書の中に見いだされない。もしかするとダーウォルは「正当なものとして」という限定を、誤って要求の受け手の心的状態の内容から外へ出すという、スコープに関する誤謬を犯しているのではないだろうか。これはあたかも、「あなたは2+3=6が正しいと思っている」から「あなたは正しくも、2+3=6だと思っている」を導くような誤謬推理なのではないだろうか。

第三の疑問として、もし「フィヒテの論点」への移行が正しいものであり、それゆえ道徳の規範性の二人称的基礎づけが成功していたとしても、そうして基礎づけられた道徳はどれだけの実質的内容を有したものであるのか。ダーウォル自身も後に認めるように(Darwall 2010a, 225–226)、本書は原則としてメタ倫理学の書であって、具体的に何が道徳的義務であり、何が道徳的不正であるのかという実質的な議論はほとんどなされていない。最終章である第12章にて、適切な実質的道徳理論はある種の契約説になるだろうという見通しが論じられているのみである(300–320/367–394)。つまり、「それは自由な行為者が二人称的に正当な形で相互要求しうるか」というテストを通るものは不正ではなく、このテストに通らないものは何であれ不正なのだと。

確かに直観的には、「正当に相互要求できないもの」という表現と「道徳的に不正なもの」という表現の外延は概ね重なっているように感じられるかもしれない。だがダーウォルの議論が正しく理解されたなら、「正当に相互要求できないもの」の外延を決定するために使用可能な情報が、一見したよりも遥かに制限されていることは今や明らかなはずである。というのも、その正当性/不当性の根拠としては、いかなる世界状態の価値的性質も一切持ち出すことが許されないのだから。むしろダーウォルが正しいなら、私たちが何かを道徳的不正とみなしてよいのは、自分たちが二人称的能力を持った行為者であるという、ただそのことだけを根拠にしてそれの要求を拒否できる場合のみである。しかし、そこからいったいどれだけのことが導けるのか。

こうした問題の存在は、ダーウォルの議論の進め方によってしばしば不明瞭にされている。彼は一方で、二人称的理由とその源泉たる要求の妥当性が「いかなる帰結や状態の価値にも依存しない」(103/160)と断言するが、他方で「ある行為が強い痛みをもたらすことは〔…〕誰かがその行為をしないよう要求する権威を持っているか否かに関わらずそれをしない〔三人称的な〕理由を与えるが、また適切な要求を基礎づけもする」(99–100/156)とも書いている。つまり、たとえば「足を踏むな」という要求が理にかなったものであるのは、足を踏むことによって痛みがもたらされるからだ、と認めているのである。こうした記述は一見して不整合にみえるかもしれないが、ダーウォルの公式見解を矛盾なく理解する方法が一つだけある。おそらくダーウォルは、誰かに苦痛を与えることは苦痛の価値的性質に関わらず「正当に相互要求できないもの」に含まれると想定しているのである。だとすれば、苦痛は負の価値を持つことによって三人称的理由を生じさせるが、それとは別に、正当に禁止されうるという性質を持つことによって二人称的理由をも生じさせる、といえる。ここで苦痛は二重の役割を別々に果たしているのであり、やはり二人称的理由は三人称的理由から完全に独立している。

そして繰り返すが、だからこそ二人称的道徳の内容の欠如という疑念が生じるのだ。ダーウォルは自分の枠組みを維持するために、苦痛を与えることが価値的性質とは無関係に、ただ自分たちが自由な行為者であるという根拠のみから禁止されうるといわねばならない。しかし、そのようにいえるとしたら、それはなぜなのだろうか。評者に考えつく回答は、苦痛を与えることはその者の自由を阻害し、自由な道徳的行為者としての地位を奪うから、というものだ。しかし、これが真であるのかは疑わしい。足が痛いからといって私たちの自由は減じるのだろうか。むしろ、足が地面に固定されるほど強く踏みつけられたとしても、私たちは自由を奪われないというべきではないだろうか。ここで問題になっているのは身体的自由でも行為の自由でもなく、あくまで二人称的能力というテクニカルな意味での自由なのだから。

確かに、二人称的能力が一定の心的能力であることを考えると、たとえば拷問のように激しい苦痛を与えることで思考能力や共感能力が麻痺し、二人称的能力が阻害される可能性はある。より単純には、他者の意思を無視して特定の振る舞いを強制することも、二人称的能力の発揮を阻害することであるから、ダーウォルの定義において不正だといいうる(304–305/372–373; Darwall 2010a, 226–227)。他にも例は考えられるかもしれない。しかし、このようなレシピを用いて不正行為を同定してくことで、私たちがふだん不正とみなしている行為の十分多くを説明できるかは評者には大いに疑わしく思える。この疑念が正当だとすれば、ダーウォルの理論に内在的矛盾はないとしても、それは端的に偽である、あるいは少なくとも、おいそれとは受け入れられないほど改訂的で禁欲的である、といわざるをえない。結局のところ、定言命法が「空虚な形式主義」にすぎないというカントへの伝統的な疑念とまったく同種の疑念は、ダーウォルの二人称的道徳にもまた宿命的に当てはまるのではないか2

最後に、外在的な観点からの疑問も一つ提起しておく。これまで繰り返し見てきたように、世界状態志向的な規範性は帰結主義的で行為者中立的、行為志向的な規範性は義務論的で行為者相対的という対比は、ダーウォルの議論において重要な役割を果たしていた。しかし本当にそのような区別は維持できるのだろうか。「殺人が生じることをできるだけ避けよ」はすべての行為者に同じ世界状態の実現を命じるから行為者中立的で、「殺人するな」はそれぞれの行為者に異なった行為の遂行を命じるがゆえに行為者相対的だということになっていた。しかし、「殺人するな」は「自分の手による殺人が生じることをできるだけ避けよ」と書き直すことができるのではないだろうか。これは行為者相対的かつ世界状態志向的な規範にみえる。だとすれば、行為者中立的なものと行為者相対的なものの区別は、世界状態志向的なものと行為志向的なものの区別ではなく、むしろ世界状態志向的なもの内部での区別として整理したほうがよいのではないか。

この疑問は、近年盛んになりつつある、あらゆる非帰結主義的理論は「帰結化」(consequentialize)できるという議論に基づいている。こうした議論によれば、伝統的に非帰結主義的とみなされてきたどのような規範も、上のように指標詞を用いるといった工夫で世界状態志向的ないし目的論的に書き下すことができ、ゆえに帰結主義として再構成できるという。こうした立場をとる論者は、帰結主義と非帰結主義という区別そのものがあまり重要でなく、真に重要なのは行為者中立性と行為者相対性の区別のほうだと主張することさえある(e.g. Dreier 1993)。もしもこうした議論が正しいとすれば、二人称的理由に基づく道徳は行為の帰結をまったく考慮しないとか、道徳的規範の受け入れは欲求ではないから何らかの世界状態の実現を目指すものではないといった想定は利用できなくなる。したがってダーウォルには二つの選択肢がある。一つは「帰結化」の試みが究極的に頓挫すると考える根拠を示すこと、もう一つはそもそも、こうした論争にコミットしない形に論証を再構成することである。評者としては、実のところ行為者中立的・行為者相対的という対比だけでも本書の論証の十分多くは再構成可能ではないかという印象を持っているため、後者が無難であるように感じている。

文献案内

最初に、本書について日本語で書かれた文献を挙げる。まずは本書全体の内容に関わるものとして、導入でも触れた書評(中才 2008)と、邦訳版の監訳者である寺田による解説がある。後者はこの書評では素通りしたダーウォルによるカント解釈の是非にも踏み込んでいる。同様にカント研究の観点から本書を取り扱う論文として、小川(2016)もある。他方で村上(2011)は、ストローソンから始まる反応的態度論の文脈で本書を取り上げ、ウィリアムズの議論と比較している。信原(2017)は情動による道徳の基礎づけを論じる中で本書を援用しており、杉本(2021)は「なぜ道徳的であるべきか」(=道徳の規範性の源泉は何か)の問いに答えるために試みられてきた多様な議論の一例として本書を取り上げている。また、この書評では言及できなかったが、行為の理由(実践的理由)と信念の理由(認識的理由)の非対称性は本書で繰り返されるテーマの一つである。宮園(2020)はこの観点から本書に注目し、そのような非対称性を否定する道筋を考察している。

続いて、本書の背景となっているメタ倫理学の枠組みを確認したい場合の参考文献を極めて概略的ながら挙げていく。Strawson(1963)は分析系自由論や責任論の古典であり、関連分野を学ぶ者は誰しも読まねばならない。ストローソンの見解を継承し展開した研究にも重要なものが多く存在するが、その中でダーウォルが本書への影響を公言しているのはWallace(1996)である。問責責任と帰属責任の区別についてはもちろんWatson(1996)を見るべきだが、その区別が現在どのように受容されているかを知りたいならば、Talbert(2016)で最近の責任論の構図を一望するのがよいだろう。行為者相対的/行為者中立的の区別が現代倫理学に定着したのは一般にNagel(1970)の功績とされる(ただし彼はこの時点ではこの用語自体を用いてはおらず、単に主観的/客観的と表現していた)。本書ではさほど表立って言及されないものの、ネーゲルの議論は本書におけるダーウォルのスタンス自体にも影響を与えており、これは後に本人によっても解説されている(Darwall 2007, 52–54)。ダーウォルがこの区別と世界状態志向的/行為志向的の区別を重ねているのは確認した通りだが、評者が見る限り、後者のペアはScanlon(1998)が「価値の目的論/反目的論」と呼んでいるものと深い関係がある。同書ではその他にも、責任概念の区別や理にかなった相互要求による道徳の基礎づけなど、本書と共通したテーマが多く登場する3。最後に、すでに触れたように、超越論的論証によって道徳の規範性を基礎づける試みとして有名なのがKorsgaard(1986; 1996)であり、こちらも大変難解ではあるが本書と比べながら読んでみる価値はあろう。

本書の議論自体の理解をより深めたい場合にまず読まれるべきは、やはり二度のブックシンポジウムにおける寄稿者らのコメント(Korsgaard 2007; Wallace 2007; Watson 2007; Schapiro 2010; Smith and Strabbing 2010; Yaffe 2010)、およびダーウォルによる応答(Darwall 2007; 2010b)だろう。評者の独断でいうならば、とりわけ2007年のシンポジウムにおいて、本書の議論の核心に関わる論点がより多く論じられているようにみえる。たとえばワトソンは「プーフェンドルフの論点」から「フィヒテの論点」への移行を評者とは少し異なる観点から批判しており、ウォレスとのやり取りは、ダーウォルが代表的権威と個人的権威を明確に区別する契機になったと思われる。なお、その後のダーウォル自身の研究は、大部分が『二人称的倫理学に関する論考』の名を共有する二冊の論文集のいずれかに収録されている(Darwall 2013a; 2013b)。より近年におけるダーウォルへの批判としては、Lerm(2012)、Faulkner(2014)、Lavin(2014)、Haase(2014)を挙げておく。いずれの議論も本書に内在的な問題点を指摘する試みを含んだものである。後の三つは雑誌Philosophical Explorationsにおける特集号に掲載されたものだが、同特集では倫理学に限らず様々な領域との関わりで二人称の重要性が議論されており、後に単行本化もされている(Eilan 2017)。

1ダーウォルは、これと同じ考えを提示した論者としてRabinowicz and Rønnow-Rasmussen(2004)に言及している。しかし評者の理解が正しければ、彼らが提案した回答はダーウォルが考えているものと似てはいても別物である。

2なお、コースガードの議論にもまた同じ種類の疑念が当てはまると主張する論者にMaagt(2018)がいる。

3一つ付け加えておくと、ダーウォルの議論は、スキャンロンが同書で提唱する「バックパッシング」が少なくとも不正さに関しては成り立たないことを含意するが、本人はこの点に自覚的である(Darwall 2013a, 52–72)。

謝辞

この書評の草稿の検討会において提示された多くの議論や助言について、アプリオリ研究会参加者諸氏に、種々の不備の指摘についてTARB評議員小林知恵氏に、深く感謝する。また本研究はJSPS科研費(課題番号21J00250)の助成を受けたものである。

参考文献

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出版元公式ウェブサイト

Harvard University Press

https://www.hup.harvard.edu/catalog.php?isbn=9780674034624

評者情報

鴻 浩介(びしゃご こうすけ)

現在、日本学術振興会特別研究員PD、駿河台大学非常勤講師。専門は行為論、特に行為にまつわる規範性や合理性。主な論文として「理由の内在主義と外在主義」(『科学哲学』49巻2号、2016年)、「アンスコムの実践的知識論——「それが理解するものの原因となるもの」」(『哲学』68号、2017年)、「人工物としての行為——新しい実践的知識論」(『科学哲学』52巻1号、2019年)、また訳書として、リサ・ボルトロッティ著『現代哲学のキーコンセプト 非合理性』(岩波書店、2019年)がある。