Tokyo Academic Review of Booksonline journal / powered by Yamanami Books / ISSN:2435-5712

2021年10月13日

佐藤真理恵『仮象のオリュンポス:古代ギリシアにおけるプロソポンの概念とイメージ変奏』

月曜社,2018年

評者:宮下 寛司

Tokyo Academic Review of Books, vol.33 (2021); https://doi.org/10.52509/tarb0033

概要

本書は著者佐藤真理恵が2016年京都大学大学院に提出した博士論文をもとにしており、2018年に出版された。刊行後の本書は好評を得ており、2019年の表象文化論学会で奨励賞を受賞している。本書がなぜそのような評価を得ることができたのか。それは、これまで美術史や思想史の研究で目にすることがほとんどなかった「プロソポン」という語を紹介し、そこへ新たな文脈をもたらしたからである。その執筆過程で佐藤は、イタリアのシエナ大学古典世界・人類学研究所およびギリシアのクレタ大学大学院古典文献学科へも留学し研究を行っている。本書は日本では馴染みのないこのテーマについて、著者の留学中の丹念な調査を反映しながら、多面的な理解をもたらしてくれた。しかしながら本書は単に未知なる語を紹介しているだけではない。「プロソポン」という語はむしろ、私たちにとってよく知られた問題を新たな視点で考え直すきっかけを与えてくれるのだ。

本書の構成と概要を紹介する前に「プロソポン(英:Prosopon、希: πρόσωπον)」という語を簡単に説明したい。この語は古典ギリシア語で、第一義的には顔と仮面の両方を示す。転じて舞台上の役割などを示すこともある。よく知られているように、古典ギリシア語の文化圏すなわち古代ギリシアでは演劇は中心的な位置を占めており、ヨーロッパ近代演劇の源流となった。その頃の演劇において登場する俳優は仮面をつけていた。そのために古代ギリシア演劇は仮面劇としてもよく知られている。演劇学や演劇史研究ではこうした仮面劇としての特徴に言及した例はすでに枚挙にいとまがないが、文献学研究を除けば、プロソポンという語に注目した研究は極めて少なく、現代ドイツの人文学研究において重要な領域であるイメージ学(独:Bildwissenschaft)がこの語に注目する研究を残しつつある程度である。この特異な語を用いて、演劇史研究や文化史研究を更新する必要は今後もあるだろう。古代ギリシアの文化全般や思想は演劇と深く結びついていた。それゆえにプロソポンの解明は、単に文献学研究や演劇史研究に留まらない領域横断的な可能性を持つ。文献学的には蓄積のあるプロソポンに関する知見を、思想や芸術学の分野へと広げて紹介したことが本書の功績のひとつであるだろう。

プロソポンが顔と仮面の両方を意味していることは、相容れない意味をひとつのイメージに抱え込んでいるように見える。これこそがプロソポンの特異な点であるといえよう。近代に生きる我々にとっては、顔と仮面とが対立するのは自然であるかのように思われる。そしてまた、顔こそが真正なイメージであるとし、仮面はかりそめ、場合によっては虚偽としてのイメージであると捉えがちである。例えば本音を隠して建前を述べるときに、「仮面をつけたように」などと表現することができるだろう。また、仮面を剥いだ後ろにある本当の顔と言ったりもするだろう。こうした一般的なイメージからわかるのは顔と仮面の対立は、顔を真なるものとしてポジティブに捉え、仮面をネガティブなものとして捉えるような判断に基づくといえるだろう。しかしながらこうした顔と仮面に対する価値判断はプロソポンにはまずみられない。むしろこの語の特異性を考える上で重要なのは、顔にせよ仮面にせよそれは眼前に現れるイメージだということである。すなわち、プロソポンにおいては、顔と仮面というふたつのイメージがひとつの視覚的表層に同居しているにすぎないのだ。

現代の我々にとって支配的であるような顔と仮面の対立の仕方は、近代的な西洋思想の典型ともいえる。近代以来の西洋における思考方法の多くは、例えば「精神/身体」や「主体/客体」のように二項対立を取る。顔と仮面の対立とはこのような思考方法の典型的な一例であり、顔も仮面も指しうるプロソポンとは無縁であるために、その語が我々にとって疎遠なものになってしまった。プロソポンに取って代わったのはラテン語由来の「ペルソナ」である。仮面や人格、舞台上の役を示すこの語は、顔の意味を持たず、それゆえ顔と仮面の分裂をはっきり示す。ペルソナはプロソポンとは語源的な関係はない。それゆえプロソポンからペルソナにいたるまでは断絶があり、プロソポンの特異なイメージは失われてしまっているようである。それは、ペルソナという語それ自体、そしてそれによって生み出される顔と仮面の対立が我々にとって馴染み深いことからも分かるだろう。佐藤は本書において、文献から美術品などに描かれるイメージにいたるまでプロソポンの事例を拾い上げ、本邦では知られることのなかった先行研究を精査することで、この語に光を当てている。そしてそれによって近代的な図式の中で捉えられてきた顔と仮面のイメージを問い直そうとするのである。以下では本書の内容を概観することでその方法論を紹介したい。

本書は序章やあとがきなどに加えて、主として4章構成となっている。第1章ではその語の成り立ちと語義を解明している。プロソポンは前置詞プロスが接頭辞としてオープスという語幹に結びついて成り立っている。プロスは「~の方へ、~に向かって、~に対して」という意味である。そしてオープスの第一義は「目」であり、「顔」や「顔つき」といった意味も含まれる。この二語が合わさることで「目に対するもの」を原義とするのである。それゆえその目に向かってくる「正面」、すなわち「顔」が第一義となるのである。しかしながら、この語は「顔」に留まらない広い意味を持つ。顔以外には「顔つき」、「仮面」、転じて「役柄やキャラクター」、さらには「人や存在、法的人格」などの意味を持つ。これらの多義性はアリストテレスの『詩学』においてみられるという。古代ギリシア演劇に関する同時代的な理論書である『詩学』においては、プロソポンという語が散見されるが、その指す内容は仮面でも顔でもありうる。そうした混同は、「プロソポン」が目に相対する対象であるならば、その限りではプロソポンは顔でも仮面でもありうることから生じている。プロソポンという語は単なる身体部位としての顔に留まらないイメージや表象までも意味することができる。しかしそれは、視覚が届く範囲、すなわち表層性のうちにまとめることができるだろう。こうした表層性は翻ってその背後や裏側というイメージを必然的に呼び起こすことになる。こうしたイメージは徐々に表層性と対立して、プロソポンの意味合いは重層的となる。すなわち、プロソポンはそれが導き出す背後や裏側への欲望に関する言説を形成するようになるのだ。それゆえ現代でも知られるような顔と仮面の対立の萌芽は、表面とその背後という語られ方でみられるようになった。仮面も顔も指しうるプロソポンであるが、その両者がプロソポンの上で融解してしまうというよりは、両者の間で一定の緊張関係が成り立つといえるだろう。

第2章ではプロソポンの表層性という特徴を取りあげている。プロソポンは目に映ずるものであり、それはあくまで事物やイメージの表層でしかない。しかしこの語は、単なる表層だけではなくそこへと浮かび上がってくるものを映し出すのだ。すなわちプロソポンはあるメディウムとして不可視のものを媒介しようとする。プロソポンが表層でありかつ仮面であるならば、その表層が媒介するのはその背後や裏面である。いってみればその顔や仮面の持ち主の人格を伝えるのである。行為は性格を示すものであり特定の行為はコード化され典型となる。こうした典型は、顔において端的に表象される。それゆえ顔は特定の行為をなす人物の内面性を、事前に知らせるのである。エトス(習慣)はエートス(性格)を形成し、これはひとつの人物において一貫性をもって形成されるのである。仮面はいってしまえば「内面性」の最表層に位置するメディウムとしてコード化されるのである。古代ギリシア劇の仮面は特徴的ないくつかの役割に分類することができ、ローマ時代にいたるまでに細分化されていることが本書では実際の仮面の写真とともに確認できる。こうした典型の刻印としての仮面はのちにコメディア・デ・ラルテにもみられる。コメディア・デ・ラルテとは、18世紀ごろまでヨーロッパを席巻したイタリアを発祥とする仮面劇である。類型化されたキャラクターが登場し、それらを模した仮面をつけた俳優による即興演技やアクロバットが特徴であった。こうした類型化は舞台芸術のほかに観相学という言説にもみられ、西洋の顔に関する文化で繰り返し用いられていることをはっきりと確認できる。この章ではさらに古代ギリシアの視覚理論へと触れており、哲学者デモクリトスの内送理論を紹介している。西洋近代ではデカルト以降、眼の持つ能動的な光学的機能によって説明されてきた視覚論であるが、デモクリトスはいわばその逆であり、イメージが眼へと飛びこむことで像として結実する理論を唱えている。そこでは単なる表層的イメージが投射されるだけではなく、不可視の内実も感得されるのである。こうした視覚理論の存在はプロソポンが単なる表層である以上のメディウムであったことを補強している。

第3章ではプロソポンという語を構成する「プロス」という前置詞への着目、すなわち正面性を検討している。この章では美術品における人物の描き方が対象となる。顔を正面から描くことは古代ギリシアの絵画コードにおいては珍しかった。いくつかの限られた例において顔を正面から描いており、その効果や意味は長らく議論が続いていたという。それらの例外は陶器において黒色で描かれた図像(黒像式)にて確認される。正面から描くことは、その対立する相手、すなわち鑑賞者を巻き込むという効果を持つ。これこそがプロソポンの持つ正面性の特徴である。鑑賞者へと直接眼差しを向ける正面図は、我々を捉え根源的な「他者」として、常に向こう側でたたずむのである。こうした正面性の持つ強度は、時として死や神的なものの顕現として一瞥さえされる。佐藤がここで注目するのはプロソポンの対面性が強調する融和不可能な他者が現れることの効果である。顔というイメージは通常、自分自身のイメージとして扱われ、常に自己意識へと還ってきてアイデンティティの安定化あるいは強化へ資するものである。しかしながらプロソポンが対面を強調するならば、こうした自己再帰的な傾向でのみ語ることはできないだろう。というのも顔が生起するのは、相対してくる視線上であるからだ。顔はここではもはや自己へと常に還ってくるのではなく外へと開かれることでのみ現れるといえる。こうした開かれたあり方で自己を認識することは、他者との関係性で自分を知ることである。古代ギリシアにおける自己の認識は現代における自己認識と異なることが分かるだろう。

第4章では、プロソポンの否定形たる語「アプロソポス」を取り上げている。これまでと異なるテーマであるが、否定形を通じてプロソポンの持つ広がりを異なる観点から説明している。アプロソポスという語は決して多くの文献にみられるわけではなく、佐藤は異なる時代やテーマのテクストからその用例を集めている。この語は、プロソポンの否定であるがゆえに「顔がない」が原義だが、互いに全く異なる価値判断に基づく複数の意味を持つ。容姿の美しさを修辞的にあらわす意味(顔の印象が失せてしまうほど美しい)を持つ一方で、状況に応じて必要な相貌を得ていないことから、無分別といった否定的意味も持つ。しかしながらとりわけ重要なのは、「非個人的な」という意味であろう。それは具体的に想起されうる個別具体的な顔を超越した顔という意味を持つ。佐藤はこうした「非個人的な」意味でのアプロソポスを、「非人称」というテーマへと接続する。ローマ法において人格を持たなかった奴隷とその身体は法の埒外にあり「非人称的」であった。こうした法の例外状態にある人間は、アプロソポスとして捉えられ、モノ同然の存在として所有の対象となる。非人称は人間の社会的・法的領域の閾値を示すのである。

コメント——現代演劇学の観点から

以上本書の議論を通じてわかるのは、プロソポンという語は演劇的だということである。演劇は俳優などの表現する者と観客などそれを見届ける者との間における「見る/見られる」行為によって成り立つ芸術であり、演劇性とはそうした芸術の基礎的な性質である1。 しかし、演劇性は必ずしも舞台装置や観客席を必要とするわけではなく、例えば日常の社会的な状況においても生じうる。演劇性は、「見る/見られる」という相互行為を必要とする場所であれば生じるが、演じる側あるいは見る側のいずれの意図もその場の目的や意味を最終的に決定できるわけではない。言い換えれば、演劇性という場があってこそ「見る/見られる」といういずれかの役割を個々人が暫定的に担うにすぎない。むしろ重要なのは演劇性の生じる場に何かしらの役割を担って参加させられてしまっているという状況や場所である。この意味で演劇性を捉えることで、プロソポンが生起するプロセスを理解することができるだろう。プロソポンとはそれを見る人と見られる人の視線が交錯して初めて生じるスクリーンのような場所である。演劇性においてこそ生じるために、あくまで相互作用を成すことができる状況があってはじめて生じるイメージといえる。顔という私たちのアイデンティティを中心化させる箇所でさえも、常に所与の状態で存在するのではなく、演劇的な状況で現れるという考え方をプロソポンにおいて認めることができる。プロソポンにおいて顔と仮面、表層性と深奥が奇妙に同一平面上に同居するのもこうした演劇性ゆえだといえるのではないか。

本書におけるプロソポンという語の研究は、それがひとつの思考のモチーフであることが分かる。それゆえプロソポンを通じて、単なる美術史や文献学への貢献に留まらない、私たちのアイデンティティやコミュニケーションにかかわる問題を検討することにも役立つであろう。佐藤は、現代思想の文脈へ言及したり、多種多様な芸術作品に触れたりすることで、プロソポンのテーマのアクチュアリティを示している。例えば、あとがきで端的に触れているように、オンラインでのコミュニケーションが増えるに従って、顔のありかたはすでに以前とは異なってしまっている。以前と異なるとはすなわち、近代的なそれであるが、その新しさを捉えるために、近代と異なる視点を持つ古典ギリシア語から考えてみることは大いに有益であろう。そしてプロソポンという思考的モチーフの持つ射程とは、社会的・政治的領域にもわたるのである。

プロソポンは、現代における舞台芸術において、どのような議論を可能にするのか。最後にこの点を本書の議論に沿って確認したい。佐藤は、プロソポンと似た後代の文化的実践として、コメディア・デ・ラルテという舞台形式を挙げている。注目すべきはこれが喜劇であったことである。喜劇は「性格の劇」と呼ばれ、「運命の劇」と呼ばれた悲劇と対置させられることは西洋の演劇史においてはよく知られている。「性格劇」としての喜劇は登場人物の類型化を必要とするために、その形式的必然性から類型化のメディウムとして仮面が用いられてきた。一方で悲劇は登場人物が直面するパトスを描き、それへの感情移入を目指す。したがって類型化よりも名のある唯一の人間像という造形が図られるのである。佐藤は哲学者ジョルジョ・アガンベンの診断を引用しながら、この対照を西洋演劇史の近代におけるひとつの帰結とみなし、プロソポンと喜劇の積極的なかかわりを示している。確かに近代の悲劇作品を上演する際に仮面をつけることは数世紀にわたって珍しいことであった。俳優はまさしくその人物であるかのように演じることで悲劇的な効果を生むからである。それゆえこの診断に対して異論がないように見える。しかしながら、現代の悲劇はむしろ仮面を再びつけているように思われる。現代の実験的な劇作を語るうえで重要な作家といえるハイナー・ミュラーやエルフリーデ・イェリネクの作品の一部は悲劇的なモチーフを取り上げるか、あるいは悲劇的色合いを帯びることがしばしばあるが、彼/彼女の作品において語る人物は、もはや近代的な人物造形を離れて仮面のような印象を与えている。そこでもし、登場人物の内面のようなものがみられるとしても、それは人物造形によって与えられた豊かな私たちが通常想定するような内面ではもはやない。むしろ、顔や仮面といった表層を見ることによって自ずと内面性を想定したくなってしまう読者や観客のうちにあるメカニズムや欲望が暴かれようとするのである。これらの例に分かるように現代の悲劇においては仮面が復権しているといえるのだが、この仮面は我々がよく知るところの「顔/仮面」の二項対立によって捉えられるものではなく、そのつかめなさゆえにきわめて表層的でもあり、亡霊的とすらいえる。こうした劇作が持つ仮面は本書に即して言えば、アプロソポスの持つテーマへとも結びつくだろう。

現代演劇の諸特徴を捉える中で、プロソポンは、歴史的な段階的発展を飛び越えて、時に予期せぬ形で復活していることがわかるだろう。プロソポンは「顔/仮面」というテーマの歴史的な源流でありながらも、近代的な主たる理論からはもはや断絶している。仮面は近代的な悲劇においてたしかに退いてしまったかもしれないが、現代の悲劇においては(アプロソポスとしての)プロソポンがむしろ回帰している。断絶しているがゆえに、従来の枠組みでは説明できない現代の複雑な事象に対して、予期せぬ形で変奏を遂げて還ってくることができるのだ。本書はその回帰の可能性を多様な方向に示してくれている。

文献案内

  • Belting, Hans: Face and Mask: A Double History. Princeton: Princeton University Press, 2017.

ドイツ語圏におけるイメージ学の泰斗であるハンス・ベルティングによる「顔/仮面」に関する美術史研究の英訳。古代から現代までに至るまでこのテーマを検討している。西洋のイメージにおいて中心的なモチーフであり続けた「顔/仮面」がもつ現代的な意味や課題に対して、豊富な実例をもとにして理論的に応答している。

  • 岡田温司『デスマスク』岩波書店、2011年。

生と死という究極の対立上にある敷居としてのデスマスクを美術史上の重要な作品から紹介している。

  • ジャン゠リュック・ナンシー「仮面の構想力」『イメージの奥底で』西山達也、大道寺玲央訳、以文社、2006年、175–214頁。

フランス現代思想において重要視される哲学者による美術批評。仮面のイメージが持つ揺らぎやあいまいさが語られている。

  • ヴェルナー・ハーマッハー(清水一浩訳)「(仮面をつけた芸術の終わり)」『現代思想』2007年7月臨時増刊号、252–284頁。

ドイツ語圏における現代思想の哲学者による、仮面と俳優存在の二項対立に関する思想的テクスト。両者の間にある差異と同時に分かちがたさをめぐる運動が独特の筆致で語られている。

  • ロベルト・エスポジト『三人称の哲学 生の政治と非人称の思想』岡田温司監修、佐藤真理恵ほか訳、講談社、2011年。

イタリアの現代思想家エスポジトは、現代政治にまつわる危機や限界を「ペルソナ」概念に由来する人権思想にみており、非人称こそがこの状況に批判的に対応としている。本書の著者である佐藤も訳を手掛けており、アプロソポスの現代的意義を確認できる。

1西洋の文化史・哲学・芸術史において「演劇性」は芸術としての演劇以外の状況に用いられることも多く、非常に多義的である。ギリシア語で演劇を示す“theatron”に含まれる“thea”という語は「そこから観る場所」を意味していることは古代ギリシア文化における視線が問題となっている本稿で非常に有益だと思われる。語源からすれば、演劇とは、演技や舞踊など見せるべき内容ではなく、まずもって視線(およびそこへ位置する人々)をどのように組織するかによって成り立つ芸術であり、そうした組織化の機能を「演劇性」とよぶことができる。それゆえに、様々な営みを「演劇性」から語ることもできるだろう。詳しい議論は以下を参照してほしい。

Weber, Samuel: Theatricality as medium. New York: Fordham University Press, 2004.

参考文献

  • Weihe, Richard: Die Paradoxie der Maske: Geschichte einer Form. Paderborn: Wilhelm Fink, 2003.
  • Hass, Ulrike: Das Drama des Sehens: Auge, Blick und Bühnenform. Paderborn: Wilhelm Fink, 2005.
  • Lehmann, Hans-Thies: Tragödie und Dramatisches Theater. Berlin: Alexander Verlag, 2013.

出版元公式ウェブサイト

月曜社

http://getsuyosha.jp/kikan/isbn9784865030570.html

評者情報

宮下 寛司(みやした かんじ)

現在、大学非常勤講師。専門はドイツ語圏を中心とした演劇学と舞踊学。とりわけ現代の舞台芸術やパフォーマンスにおける身体のありかたについて研究している。主な論文に「仮面としてのコレオグラフィー : マルティン・ナッハバーのパフォーマンス『Urheben Aufheben』を例に」(『慶應義塾大学日吉紀要 ドイツ語学・文学』第56号、2018年)や「舞踏文化を動かすには:川口隆夫と田辺知美の『ザ・シック・ダンサー』における踊る主体と観客の視線」(平田栄一朗、針貝真理子、北川千香子共編『文化を問い直す』、彩流社、2021年)など。

ウェブサイト:http://web.flet.keio.ac.jp/~hirata/index.html(リンク内にプロフィールページあり)