Tokyo Academic Review of Booksonline journal / powered by Yamanami Books / ISSN:2435-5712

2021年11月28日

飯田隆(編)『知の教科書 論理の哲学』

講談社,2005年

評者:高橋 優太

Tokyo Academic Review of Books, vol.35 (2021); https://doi.org/10.52509/tarb0035

本書の概要および構成

『知の教科書 論理の哲学』は、バランスのとれた内容をもちしかも読みやすい優れた論理哲学入門書である。本書の編者は飯田隆氏であり、各章のタイトルおよび著者は以下となっている。

  • 第一章「論理学と哲学」―飯田隆
  • 第二章「嘘つきのパラドクス」―津留竜馬
  • 第三章「ソリテス・パラドクス」―𠮷満昭宏
  • 第四章「完全性と不完全性」―遠山茂朗
  • 第五章「論理と数学における構成主義―ある議論」―岩本敦
  • 第六章「論理主義の現在」―三平正明
  • 第七章「計算と論理」―照井一成
  • 第八章「自然言語と論理」―峯島宏次

各章のトピックは、現代論理学(いまはむしろ「数理論理学」や「ロジック」と呼ばれる方が多い)のトピックの中でも、アカデミックな哲学研究に関係するものが選ばれている。例えば、現代の論理哲学に入門しようとする者にとって、形式主義(formalism)・直観主義(intuitionism)・論理主義(logicism)という三つの立場についてある程度の知識をもつことは必須といえるが、直観主義は第五章において、論理主義は第六章において中心トピックとなっている。形式主義の解説を中心とする章は本書に含まれていないが、やはり避けることのできないトピックであるゲーデルの不完全性定理との関係において、第四章は形式主義(特にヒルベルト・プログラム)の説明を与えている。第二章および第三章が扱うパラドクスの話題も、現代の論理哲学における主要トピックの一つといえるだろう。また、第七章および第八章は、それぞれ計算機科学と言語学の立場から論理哲学的問題について論じており、本書の特色の一つとなっている。そして第一章は、現代論理学についての標準的理解が形成され、さらに標準的理解の見直しが始まるに至る経緯を説明しており、第二章以降の内容に対して見取り図を与えてくれるだろう。

本書を読む際には、現代論理学の初級レベルの素養があることが望ましく、さらに初級レベルの素養がある場合でも一読して理解することは難しいと考えられる箇所が本書には含まれている。しかし、各章には読書案内が付属しているため、読者は理解の助けとなる参考書を見つけることができるし、発展的内容へさらに進むための参考書を見つけることもできる。巻末にある詳細な索引も読者の助けになる。また、章ごとに著者が異なっているにもかかわらず、本書の中では通読することに対する配慮が多くなされている。例えば、パラドクスを扱う最初の章である第二章はパラドクス一般に対する詳しい説明を含んでおり、ソリテス・パラドクスを扱う第三章へと進む読者の助けとなっている。さらに、第四章における自然演繹の説明は、自然演繹と本質的に関わるトピックを含む第五章・第七章・第八章を読むための準備を与えている。これから論理の哲学へ入門しようとしている読者、また、入門は終えたがさまざまなトピックに触れたいと考えている読者にとって、本書は有益な書となるだろう。

一方で、本書の弱点となるのは、大西 2010によってすでに指摘されているように、様相論理について詳細に解説する章を含んでいない点である1。とはいえ、本書が含むトピックの豊富さ、さらには本書の読み易さを鑑みると、本書が有益な書であることに変わりはない。

以上の点を踏まえると、出版から16年が経過しているとはいえ本書は依然として、薦められるべき論理哲学入門書の一つといえる。数学の一分野となって久しい現代論理学の素養が必要になる点で、論理の哲学への入門は決して容易ではなく、本書のような信頼できる書が存在していることは入門を志す者にとって大きな助けとなる。本書評では、改めて本書『知の教科書 論理の哲学』に注目することで、論理の哲学への入門の一助を試みたい。

本書評の構成を述べておこう。まず次節において各章の概要を説明する。次々節では、本書では詳細に論じられていない重要なトピックとして、本書のいくつかの章を横断するトピックを一つ紹介する。

各章の概要

第一章「論理学と哲学」では、編者の飯田隆氏が本書の目的を述べたのちその背景を説明する。まず、現代論理学の研究状況が成立するまでの大まかな段階として次が提示される(p. 6)。

  • (1)黎明期:フレーゲ『概念記法』(1879年)の出版から40年ほど
  • (2)正統的路線の形成:1930年代~1960年代
  • (3)正統的路線の見直しと新たな展開:1970年代~

そして、本書を構成する章の多くが(3)の新たな展開を論じるものであり、現代論理学とその哲学をめぐる現在の研究状況を伝えることが本書の主目的であると述べられる。

続いて、現在の研究状況が用意されるにいたった背景が上の三つの段階に沿って説明される。まず、アリストテレスによって整備された伝統的論理学では、「$x$は$y$より大きい」といった数学に現れる関係を本質的に含む文、例えば

  • (a)どの数にもそれより大きな数がある。
  • (b)どの数よりも大きなある一つの数がある。
といった文の間の論理的関係を捉えられないことが指摘される。そして、このことを動機として、フレーゲは数学における証明を表現するための人工言語である概念記法を発明し、現代的な論理学が誕生したと飯田氏は述べる。次に、概念記法が含む矛盾を明らかにしたラッセルのパラドクスの紹介をはさみ、現代論理学の正統的路線―例えば、古典一階述語論理が標準的な論理であるという主張―を形成した主要な成果が紹介される。ツェルメロによる集合論の公理化、ゲーデルの完全性定理・不完全性定理、テューリングにより考案されたテューリング機械、タルスキによる真理概念の分析、そして同じタルスキによる対象言語とメタ言語の区別といったトピックの説明を、読者はここに見ることができる。最後に、1970年代以降になされた正統的路線の見直しと新たな展開として、特に言語学および計算機科学からの影響を飯田氏は指摘する。言語学の進展は、論理学的理論を自然言語に直接適用することはできないという正統的路線に見直しを与え、さらには噓つきのパラドクスやソリテス・パラドクスといった自然言語における問題に対する論理学的アプローチを生んだと説明される。一方で、標準的論理とは異なる構成主義論理が、計算機科学の中でも特にプログラム検証(例えば、プログラムの停止性が保証されているかどうかの検証)の分野に応用をもつことが判明し、構成主義論理に対する研究が大いに発展したことが述べられる。

第二章「嘘つきのパラドクス」では、津留竜馬氏が嘘つきのパラドクスおよびそれを巡る議論状況を説明する。本章ではまず、そもそもパラドクスとはどのようなものなのか、そしてパラドクスを解決するとはどのようなことなのか、という点が論じられる。津留氏の特徴づけによると、パラドクスとは「明らかに正しいと思われる前提から出発して、明らかに正しいと思われる論証過程を経て、(それにもかかわらず)明らかに間違っていると思われる結論が導かれているように見える論証」(p. 36)のことである。次に、パラドクスを解決するとは、(a)論証の前提が実は間違っていること、(b)論証過程が実は間違っていること、(c)論証の結論が実は正しいこと、のいずれかを示すという作業であり、この作業にはパラドクスの中心概念を正確に把握することが含まれると津留氏は述べる。そして、嘘つきのパラドクスの場合は、「正しい」・「間違っている」といった中心概念を見出すことができるとされる。

続いて、嘘つき文と呼ばれる次の自己言及的な文(L)

  • (L): (L)は間違ったことを述べた文である。
が提示され、論証の前提・論証過程・論証の結論を明示しつつ嘘つきのパラドクスが説明される。大まかにいえば嘘つきのパラドクスとは、(L)が正しいと仮定すると(L)が正しくないことが導かれる一方で、(L)が正しくないとすると(L)が正しいことが導かれ、したがって(L)は正しくかつ正しくない、という明らかに矛盾した結論が導かれているように見える論証である。

そして津留氏は、嘘つきのパラドクスを解決するための数ある提案の中でも、嘘つき文は真偽が問える「まともな」文であるという前提(p. 43)が実は間違っているとする解決策について論じる。ここで紹介されるのは、底なしの文と底のある文という分類を用いたクリプキによる解決策である。底なしの文とは、その真偽を確定しようとすると限りなく探索が続いてしまい終着点となる文に到達することがない文のこととされ、底のある文とはこのような探索が必ず終了する文のこととされる(p. 52)。嘘つき文は底なしの文に分類され、このような底なしの文は「まともな」文ではなく、したがって真偽が問えない、というようにして上の前提が否定されることになる。しかし、この解決策にはすでにいくつかの欠陥が指摘されており、その中でも二つの問題点が本章の最後に説明される。

第三章「ソリテス・パラドクス」では、𠮷満昭宏氏が、砂山のパラドクスなどの曖昧な述語を巡るパラドクスの総称であるソリテス・パラドクスを説明し、さらに議論状況を整理する。まず、砂山のパラドクスが次の形で提示される(pp. 60-61)。

  • 前提1:一粒の砂は砂山をなさない。
  • 前提2:一粒の砂が砂山をなさないならば、二粒の砂は砂山をなさない。
  • 前提3:二粒の砂が砂山をなさないならば、三粒の砂は砂山をなさない。
  • 前提4:三粒の砂が砂山をなさないならば、四粒の砂は砂山をなさない。
  • 前提100万:999,999粒の砂が砂山をなさないならば、100万粒の砂は砂山をなさない。

前提1は明らかに正しく、そして条件文の形をとるその他の前提も、前件が真であるならば砂一粒の差で後件が偽になることはないと思われるため、やはりもっともらしいと𠮷満氏は述べる。これらの前提から、前件肯定式と呼ばれる自明な推論規則「前提『$P$』と前提『$P$ならば$Q$』からは『$Q$』が導かれる」を繰り返し適用することで明らかに偽である結論が導かれているため、この論証はパラドクスの典型例とされる。

次に𠮷満氏は、「砂山である」といった述語はどっちつかずの事例(境界事例)を許す曖昧な述語であると述べ、こうした曖昧な述語に由来するソリテス・パラドクスの仕組みとして寛容の原理と碇の原理を挙げる。寛容の原理とは、わずか砂一粒の差のような十分に小さな差しかない二つの対象は共に同じ事例に属すとみなすという原理である。碇の原理とは、一粒の砂と100万粒の砂の集まりのように、明確に当てはまる事例と明確に当てはまらない事例を曖昧な述語は備えているという原理である。そして、ソリテス・パラドクスの原因は、「局所的な寛容の原理と大域的な碇の原理とが、前件肯定式という自明な推論規則を介して対立するまでに至る」(p. 66)という点にあるとされる。

続いて、ソリテス・パラドクスの解決法を提示し曖昧性をより深く理解しようとするいくつかの立場が概説される。𠮷満氏はまず、標準的論理を離れて曖昧性を扱う独自の論理を採用する立場(代替的方針)と、標準的論理を保持しつつ上記の前提2以降のどれかを否定する立場、つまり寛容の原理を放棄する立場(保守的方針)の二つを区別する。そして、前者の立場の一つとしてファジー論理を採用する立場が挙げられ、また後者の立場として文脈主義および重付値論が挙げられる。さらに𠮷満氏は、これらの立場はひとますソリテス・パラドクスに答えを与えるものの、その不十分さを示すものとして高階の曖昧性といったトピックに触れる。

第四章「完全性と不完全性」では、遠山茂朗氏がゲーデルの完全性定理と不完全性定理の説明を行なう。まず、論理学の仕事の一つとして、論理的に正しい推論(すなわち演繹的推論)とそうでない推論をはっきり区別できるようにする点が挙げられ、古典一階述語論理において論理的に正しい推論の構文論的な特徴づけと意味論的な特徴づけが説明される。具体的には、現代的な論理学における形式言語というアイデア、および、形式言語の上に整備される一階述語論理の説明のあと、遠山氏は、ゲンツェンにより定式化された自然演繹という証明体系の説明に移る。そして、古典一階述語論理の自然演繹体系を用いて、論理的に正しい推論に対する構文論的な特徴づけを与える。続いて、個体領域やモデル、さらにはモデルの上での真偽といった古典一階述語論理の意味論における基本事項が説明され、論理的に正しい推論に対する意味論的な特徴づけが与えられる。そして、古典一階述語論理の完全性定理はこうした二つの特徴づけが実は一致することを示すと説明される。つまり、(1)前提がすべて真となる任意のモデルで結論もまた真となる推論には、前提から結論を導く自然演繹の証明図が存在し、(2)その逆も成り立つ、ということを完全性定理は示している。遠山氏は(1)の事実を完全性と呼び、(2)の事実を健全性と呼ぶ。

次に、遠山氏は不完全性定理の解説に移る。まず、論理学の証明体系(例えば上述の自然演繹体系)に公理を加えることで数学的知識の体系化を与えるというアイデアが説明され、このようにして得られた数学の公理系を基礎づける試みとしてヒルベルト・プログラムが言及される。ヒルベルト・プログラムとは、数学の公理系が無矛盾であること(どんな論理式$A$についても、$A$および$\lnot A$の両方が公理系の定理となることがないこと)を、有限の立場という非常に制限された(それゆえに安全な)立場の上で示すことで、数学を基礎づける試みであると説明される。

そして、第一不完全性定理・第二不完全性定理から構成される不完全性定理は、ヒルベルト・プログラムのこの目標をくじくものであると遠山氏は述べる。ペアノ算術(PA)と呼ばれる自然数論の公理系を例にとれば、第一不完全性定理からは次のことが分かる。もしPAが無矛盾ならば、$A$も$\lnot A$もPAの定理とならないような命題$A$が存在し、しかもこの命題は自然数の世界で真となる。遠山氏は、「有限の立場で認められる仕方でPAをいくら拡張しても(中略)こうした命題は常に存在する」(p. 102)と述べ、数学で用いられるあらゆる論法を公理系の形で表すという、全数学の基礎づけに必要な作業がうまく進まないことが示されると論じる。さらに、第二不完全性定理からは、もしPAが無矛盾ならば、PAの論法だけを使ってPAの無矛盾性を証明することはできないことが分かるため、このこともまたヒルベルト・プログラムにとって打撃となると遠山氏は述べる。ヒルベルトのいう有限の立場が精確にはどのような立場なのかについては意見が割れているが、それでも有限の立場がPAの一部になることはいえるため、もし有限の立場でPAの無矛盾性が証明できたとするとPA自身もPAの無矛盾性を示せることになり、第二不完全性定理に反するからである。以上の議論のあと、不完全性定理の証明のアウトラインが与えられ、本章は閉じられる。

第五章「論理と数学における構成主義―ある議論」では、岩本敦氏が、論理と数学における構成主義の中でも特に直観主義を対話形式で説明する。主な登場人物は、直観主義者である直さん、直観主義を批判的に見ている典さん、そして素朴ながら重要な疑問を投げかける素さんである。まず、直観主義が(論理と数学における)構成主義という一派に属し、非構成的な証明を認めないという構成主義の主張が説明される。例えば、「これこれの性質をもつ自然数は存在しない」と仮定して矛盾を導き「これこれの性質をもつ自然数が存在する」と結論する推論(背理法の一例)は、問題の性質をもつ自然数の具体例を見つける方法を示しておらず、非構成的な証明とされる。構成主義者は、数学的対象の存在を証明するにはその対象を具体的に見つける方法を与える必要があると考え、そのため背理法を無制限には認めないと説明される。同様にして、排中律「$A$であるかあるいは$A$でないかのどちらかである」を主張するには、$A$が成り立つことを示す方法あるいは「$A$でない」が成り立つことを示す方法のどちらかを与える必要があると構成主義者は考えるゆえに、構成主義者は排中律を無制限には認めないと岩本氏は述べる(未解決問題に対しては、今のところどちらの方法も与えられていないことに注意されたい)。以上によると、直観主義の論理は、非構成的な証明を認める古典論理の一部となるが、その一方で古典論理の定理は直観主義論理の定理に実は翻訳可能であることを示すゲーデル・ゲンツェンの否定的翻訳が続いて説明される。

次に、岩本氏は、直観主義を支持する論者の哲学的主張を対話テーマとする。まず、直観主義の創始者であるブラウワーの哲学が紹介される。ブラウワーにとって数学とは、「個々の数学者が心の中で言語の媒介なしに行なう心的構成の積み重ね」(p. 129)であり、論理が数学者の活動を規制するとは考えなかったこと、直観主義論理の体系を整備したのは弟子のハイティングであったことが述べられる。続いて、直観主義をヒントにして、言語哲学、論理の哲学そして数学の哲学の分野で活躍したダメットの哲学が紹介される。最初に、文の意味の理解は顕示されなければならないという根拠に基づきダメットが主張可能性条件意味論を提案したことが説明される。次に、ダメットは、数学に関して実在論を採用するかそれとも反実在論(すなわち構成主義)を採用するかという形而上学的問題を、真理条件意味論を採用するかそれとも主張可能性条件意味論を採用するかという意味の理論の問題として定式化したことが説明される。

本章の後半では、BHK解釈、カリー-ハワード対応、構成主義数学といった構成主義一般のトピックが対話テーマとなる。BHK解釈とは、複合命題(「$A$ならば$B$」や「$A$または$B$」)の証明とはどのようなものかを構成主義の立場から説明するものであり、ブラウワー・ハイティング・コルモゴロフに因んで名づけられたことが説明される。さらに、BHK解釈を型付ラムダ計算のことばで言い換えると、証明図とプログラムとの対応関係を示すカリー-ハワード対応が得られると岩本氏は述べる。そして最後に、何らかの構成主義的なテーゼのもとで実際に数学を展開した諸々の構成主義数学の立場が概観される。ブラウワーによる直観主義解析学、ワイルによる可述主義解析学、マルコフによる構成的再帰数学、ビショップによる構成的解析学などがここでは言及される。

第六章「論理主義の現在」では、三平正明氏が、数学を論理学に還元しようとする論理主義、なかでも特にフレーゲの論理主義について説明する。ただし、フレーゲの論理主義は算術(自然数論から始まる数の理論)に限定されるものであり、「幾何学の方は、論理には還元しえない空間直観に基づく」(p. 151)とフレーゲは考えた。本章の前半で三平氏は、フレーゲの論理主義の骨子を歴史的経緯に沿って説明する。三平氏によると、フレーゲは、彼の著作の一つ『算術の基礎』の中で、無限に多くの数がいったいどのようにしてわれわれに与えられるのかと問うた。この問いに対してフレーゲが与えようとしたのはまさに論理主義的な回答であり、「ただ論理的能力を行使するだけで、無限に多くの数がわれわれに与えられるのだ」(p. 152)、というものであった。

具体的には、三平氏はまず、概念$F$を受け取って$F$であるものの数を返す数オペレータ「~の数」が、抽象による定義と現在呼ばれる方法でもってフレーゲにより定義されたことを説明する。次に、抽象による数オペレータの定義を可能にしたヒュームの原理(以下において、「$F$と$G$が同数である」とは、$F$であるものと$G$であるものとの間に一対一対応が存在するということである)

  • $F$の数が$G$の数と同一であるのは、$F$と$G$が同数である場合、またその場合に限る。
に生じたいわゆるシーザー問題が説明される。続いて、この問題のためにフレーゲは抽象による数オペレータの定義を結局のところ斥けたと述べられる。そして、概念$F$の外延、すなわち$F$であるものの集まりを用いて数オペレータが定義し直され、概念の外延に対する詳細な説明は『算術の基礎』の中でなされなかったことが指摘される。後年の主著『算術の基本法則』においてフレーゲは、この著作の中で整備された論理体系に属する公理Vを用いて概念の外延を厳密に導入しようと試みるが、公理Vを採用すると当の論理体系の中で矛盾が導出されることがラッセルの手紙により伝えられた(ラッセルのパラドクス)。このことにより、フレーゲの論理主義は少なくともそのままの形では失敗に終わったと三平氏は述べる。

本章の後半では、フレーゲの論理主義を再建しようとする試みが説明される。まず、公理Vの代わりにヒュームの原理を採用して算術を展開する可能性を示したパーソンズの指摘が紹介される。続いて、この指摘を独立に再発見し、二階述語論理の上でヒュームの原理からペアノ算術の公理を実際に導いてみせたライトの成果が紹介される。すると問題は、二階述語論理にヒュームの原理を加えて得られる体系が矛盾を導かないかどうかであるが、この体系が(現在受け入れられている算術もしくは集合論が無矛盾であるという仮定のもとで)無矛盾であることを示したバージェス、ブーロスらのそれぞれの成果が説明される。

以上の数学的成果の説明のあと、三平氏は、これらの成果が論理主義の擁護をどの程度可能にするのかについて、ライトおよび賛同者による新論理主義に着目して論じる。新論理主義者によればヒュームの原理は論理的真理ではないため、新論理主義者はもともとの意味での論理主義を擁護するわけではない。それでも、ヒュームの原理は分析的真理の一種であり、この原理から算術を展開できることは、「算術的真理が感覚や直観といった認識手段を介さずに知られる」(p. 169)ことを示すと新論理主義者は主張する。本章の最後に三平氏は、こうした新論理主義者の主張に対して寄せられた反論の中でも「悪い仲間による反論」とまとめられる一連の批判を取り上げ、新論理主義者からの再反論も交えて新論理主義者の主張を巡る議論状況を説明する。

第七章「計算と論理」では、照井一成氏が、カリー-ハワード対応はなぜ成立するのかという問いに対する考察を通して、計算と論理の関係について論じる。カリー-ハワード対応とは、「ある種の形式的体系においては証明とプログラムとはおおまかにいって同じもの」(p. 184)であると述べる原理であり、論理と計算の対応を示している。はじめに照井氏は、関数型プログラミングにおけるプログラム検証のアイデアを説明しつつ、カリー-ハワード対応を解説する。まず、プログラムの型不整合のエラーを避けるための二つの型付け規則すなわち関数適用規則と関数抽象規則が、それぞれ自然演繹の→除去則と→導入則に対応することが述べられる。そしてこのことから、「型=論理式」・「プログラム=証明」というカリー-ハワード対応の二つの要素が導かれる。続いて、関数型プログラムの実行の基本となるβ簡約が型の整合性を保つことが説明され、さらにβ簡約は証明の簡略化に相当すると述べられる。こうして、照井氏はカリー-ハワード対応の残りの一つの要素として「プログラムの実行=証明の簡略化」を挙げる。

次に照井氏は、定理の真理性を保証するという静的な役割を果たす証明と動的なプログラムとの間の同型性は驚くべきであると述べ、カリー-ハワード対応についてさらに解説を行なう。狭義には、この原理は自然演繹と型付ラムダ計算の間の対応関係のことであると注意する一方で、この原理の発見者の一人であるカリーが最初に言及したのはフレーゲ・ラッセル・ヒルベルト流公理体系とコンビネータ計算との対応関係であったと述べる。また、ゲンツェンが自然演繹の他に考案した証明体系であるシークエント計算に対応する計算体系も近年盛んに研究されていることが指摘される。こうして、広義にはカリー-ハワード対応は自然演繹と型付ラムダ計算との間の対応に限定されるべきではないと述べられる。

そして照井氏は、数学者の行なう証明の中には緩やかな意味でプログラムとして見ることができるものがあるとした上で、カリー-ハワード対応が成立する根拠を、一般の数学的証明にもあてはまるような証明の性質に求める。そのような性質として証明の構成性が挙げられ、この原理の成立根拠を証明の構成性に求める立場が検討される。この立場に対して照井氏は、継続呼び出し演算子call/ccを型付ラムダ計算に加えることでカリー-ハワード対応が古典論理へ拡張されたことを指摘する。古典論理は、背理法を用いた非構成的な証明を認める論理であるため、カリー-ハワード対応の成立根拠を証明の構成性に求める立場は結局退けられる。

本章の最後には、カリー-ハワード対応がなぜ成立するのかはまだ分かっていないことが述べられ、この原理が含むもう一つの並行性が説明される。この原理は、証明とプログラムの間にある対象レベルの対応関係だけでなく、証明についての理論とプログラムについての理論の間にあるメタレベルの並行性も含むとされる。このような並行性の例として挙げられるものの一つは、型付ラムダ計算を拡張する方法に関するものである。まず照井氏は、データや演算子をラムダ計算の言語に直接加える方法と、強力な多相型ラムダ計算を母体としてその中でデータや演算子を定義する方法とを対比する。そして、前者は論理体系に非論理的公理を加えることに相当し、後者は高階論理の中で諸概念を定義することに相当すると説明する。

第八章「自然言語と論理」では、峯島宏次氏が、自然言語の知識や能力についての理論的探究に論理学がどのように役立ってきたのかを説明する。まず峯島氏は、日本語や英語といった自然言語の知識および能力についての研究課題を二つ挙げる。日本語を例にとれば、「母語としての日本語の知識にはなにが含まれるのかという言語能力の中身についての問い―ようするに、日本語とはどのような言語であるのかという問い―と、その知識をひとはどのように獲得するのかという言語獲得についての問いがある」(p. 215)。本章で主に論じられるのは一つ目の課題であり、この課題はさらに、自然言語の意味についての知識と自然言語の文法についての知識という二つの話題に分けられる。

自然言語がもつ意味に関して、本章では特に文の意味論が解説される。まず峯島氏は、自然言語における文の意味論を構築する際の中心的データとして、文の間の推論関係および文の真理条件(分析ターゲットとなる文が真であるならば世界はどうなっていなければならないか)を挙げる。そして、こうした推論関係と真理条件についての知識を体系的にとりだすために論理学が応用されると指摘する。具体的には、自然言語の文を、論理学の人工言語に属する論理式に翻訳するという手法がここで説明される。論理式は、明示的に規定される推論関係と真理条件をすでに備えているため、ここでの翻訳は、自然言語の文がもつ推論関係と真理条件を示す正確な手法となると述べられる。

次に峯島氏は、自然言語の現象を扱うためには一階述語論理の言語では不十分であるという考えが現在普及していると述べたのち、望ましい翻訳を得るための二つの選択肢を挙げる。一つ目は、様相論理や、一般化された量化子の理論などを用いて翻訳先の人工言語を拡張する方針であり、二つ目は存在論をより豊かにするというデイヴィドソン流の方針である。そして、問題となっている自然言語の現象を意味論の範囲で処理しようとする以上の選択肢の他に、現象の説明を意味論ではなく語用論(コミュニケーションの理論)にゆだねるという選択肢が提起され、その例としてグライスの理論が挙げられる。

続いて、話題は自然言語の文法へと移る。自然言語の文法についての知識を体系的にとりだすための枠組みとしてカテゴリー文法がまず紹介されたのち、峯島氏が「証明論的なカテゴリー文法」(p. 234)と呼ぶ考え方が説明される。ランベックが創始者とされるこの考え方によれば、文法カテゴリーは命題論理の論理式とみなされ(例えば名詞というカテゴリーは論理式$N$とみなされる)、文法規則は推論規則とみなされる。このことにより、ある記号列が正しい文を構成するかどうか判定すること(統語解析)は、その記号列が含む各々の語の文法カテゴリーに対応する論理式を前提として$S$という論理式を導出する推論が正しいかどうかに帰着する。さらに峯島氏は、証明論の基本的な定理であるカット除去定理を用いることで統語解析手続きの実効性を示すという手法も、ランベックにより提案されたことを述べる。そして、本章の結びとして、証明論的なカテゴリー文法は、自然言語の文法と意味論がどのように関わるのかについても洞察をもたらすことが説明される。証明論的なカテゴリー文法により、文の構成が証明の構成に対応することが明らかにされたが、ここでさらにカリー-ハワード対応を考えることで、証明の構成から意味の合成(ここで意味はラムダ項により表現される)を読み取ることができると述べられる。

評者によるコメント

以下では本書に対するコメントを述べるが、本書の内容を批判的に検討するというよりはむしろ、本書では詳細に扱われていないが読者の関心を引くと評者が考えるトピックを紹介することにしたい。入門書という性格上、本書では論述の厳密さよりも分かりやすさの方に重点が置かれている。また、各章で提示される議論は、その章の著者自身の考えを反映するものでは必ずしもない。そのため本書評では、批判的検討ではなくトピックの紹介、特に本書のいくつかの章を横断するトピックを一つ紹介することで貢献を目指したい。そのトピックとは、論理主義を支持したフレーゲの立場と、直観主義に基づくマーティン-レーフ型理論(Martin-Löf type theory)との間のつながりであり、第五章・第六章・第七章・第八章に関わる。フレーゲの立場とマーティン-レーフ型理論の間にはいくつかのつながりが見られるのだが、以下では、数学的対象はどのようにしてわれわれに与えられるのかという問いに答える際にフレーゲが強調した、対象間の同一性基準(identity criteria)に関するものを取り上げる。

上述のように本書の第六章では、無限に多くの数がどのようにしてわれわれに与えられるのかというフレーゲの問いと彼による回答が説明される。まず、この問いを次のように捉えて議論を進めたい。無限に多くある数は時空の中には存在しないと考えられるし、また、数そのものの表象をもつことは不可能であるとも考えられる。それにもかかわらずわれわれは、見たり触れたりイメージしたりできる対象と同様に、数をものとして扱いそれらについて主張を行なう。数そのものを見たり触れたりイメージしたりすることは原理的に不可能であると思われるのに、われわれが数をものとして扱うことはどのようにして可能になるのだろうか。「認識」や「知識」といった哲学用語を用いない素朴な仕方ではあるが、このような仕方でフレーゲの問いを捉えることも可能であると評者は考える(Frege 1884, Einleitung, §§ 55-62を参照)。論理の哲学は、哲学のみならず論理学や数学基礎論、計算機科学を横断する分野となるべきであるし、哲学用語を用いない形で問いを定式化することにも意義があると思われる。

この問いにアプローチするために、第六章でも説明されるフレーゲの次のアイデアに着目したい。説明を簡単にするために、以下では自然数の場合を考えよう。フレーゲによれば、自然数$n$がわれわれに与えられるためには、「$n$は$x$と同一である」という文全体の内容が任意の対象$x$について説明できればよい。この形をもつ文の内容が分かれば、見たり触れたりできるものに対してわれわれがふだん行なっているように、$n$を他のものから区別したり、一見のところ$n$と異なっているように見えるものを$n$と同定したりすることができるようになる。$n$についての知識が不足しているために、ある$a$について「$n=a$」が成り立つかどうか判定できないという場合もありうるだろう。それでも、この文が成り立つための条件をわれわれは説明を通して知ることができる。この形をもつ文の内容の説明からは、ある対象が$n$と同一であるための基準が得られるのである。まとめると、数学的対象は、同一性基準の説明を通してわれわれに与えられるということになる。

少なくとも評者にとってフレーゲのこのアイデアは、数学的対象が与えられる仕方を探究するためのアプローチとして魅力的に見える。というのも、現代の論理学はまさにこのアプローチを理論的に実現することを可能にしたと考えられるからである。本書のどの章からも見て取ることができるように、意味論によってであれ他のやり方によってであれ、論理学は言語表現の内容を規定する豊富な道具立てを提供する。フレーゲのアイデアは、数学的対象がわれわれに与えられる仕方を探究する際に論理学的手法を応用することを可能にする。

第六章で説明される、抽象による数オペレータの定義の背景にはこのようなアイデアがあった。やはり第六章で説明されるように、フレーゲ自身はシーザー問題のためにこの定義を放棄した。大まかにいえばシーザー問題とは、ヒュームの原理は「$n=Julius \ Caesar$」という文の内容を説明しておらず、ヒュームの原理のみによっては$n$とシーザーを区別することができないというものである(説明にシーザーが用いられていることは本質的な点ではないことに注意されたい)。しかし、シーザー問題が例外なく回答を要するような問題なのかどうかは必ずしも自明ではないだろう。数学的対象はどのようにしてわれわれに与えられるのかという問いに答える際にフレーゲのアイデアを用いるとしても、われわれはフレーゲの考えすべてを引き継ぐ必要はない。紙幅の制限のため詳しく論じることはできないが、シーザー問題がフレーゲに対して生じた原因として、フレーゲが同一性記号「$x=y$」の定義域をありとあらゆる対象の領域とみなしたことが挙げられる。もし、例えば自然数の場合は「$x=y$」の定義域を自然数領域に制限するといったように、同一性記号を常に領域相対的なものとして扱うことができれば、シーザー問題を回避できるのではないだろうか。

マーティン-レーフ型理論(Martin-Löf type theory, 以下では「MLTT」と略記する)は、上述のフレーゲのアイデアを実現することを可能にしつつ、体系内における同一性を領域相対的に扱っている体系である(MLTTが対象の同一性基準の説明を与えるという論点は、すでにSundholm 1994の中で指摘されている)。MLTTについて直接言及しているのは第五章のみであるが、カリー-ハワード対応のアイデアに基づく体系である点で第七章の内容とも関わるし、自然言語の意味論に応用することができる点で第八章の内容とも関わる。以下ではMartin-Löf 1982, 1984に従って、本書評に関する限りでMLTTを説明する2。マーティン-レーフによって導入されたこの体系は、プログラミング言語の一種であると同時に、数学を形式化するため(すなわち、体系内で数学的対象を定義しそれらについての命題を証明するため)の体系でもある。数学の形式化を目的とする点で、『概念記法』の中で整備され『算術の基本法則』の中で発展させられたフレーゲの体系(「概念記法」と呼ばれる)と同じ目的をもつ。さらに、推論規則の前提および結論に現れるのが論理式ではなく判断(judgements)である点も、MLTTとフレーゲの体系がもつ共通点である。

ただし、これら二つの体系の間には重要な差異も複数あることに注意されたい。例えば、第六章で述べられているようにMLTTは直観主義の立場をとる体系であるため、MLTTは直観主義論理を採用しているし、集合や命題、関数といったものも構成主義的に捉える。一方で、フレーゲの体系は古典論理を採用しており、さらにフレーゲの考える関数・命題・集合はMLTTのものとは異なる(特に、フレーゲの体系において集合は概念の外延として捉えられる)。また、MLTTにおいては体系が扱う対象すべてが属する領域といったものはなく、各々の対象は型によって分類され、いわば型がそれぞれ対象領域を形成している。一方でフレーゲの体系は、扱われる対象すべてが属する領域を想定している(フレーゲの体系の中で生じた矛盾のため、少なくともフレーゲが想定した領域そのものは存在しないことに注意されたい)。

MLTTにおける対象の同一性基準の説明に戻ろう。MLTTが導出できる判断の中には次の形式

  • $a=b ∶ A$
をもつものがあり、この判断形式がもつ意味の説明を通して、型$A$に属する対象間の同一性基準が与えられると考えることができる3。このような判断は「judgemental equality」や「definitional equality」と呼ばれる。上の判断形式がもつ意味を理解するために、いくつかの概念を導入しよう。まずMLTTでは型に属する要素が正準要素(canonical elements)と非正準要素(noncanonical elements)の二つに分類されることに注意する。型の正準要素とは、その型に属することが規則によって直接定められるような要素のことである。以下では、「$a ∶ A$」という判断形式を「$a$は$A$の要素である」と読むことにしよう。(実際はもう少し込み入った意味をもつのだが、議論を簡単にするために意味を簡略化した。関心のある読者はMartin-Löf 1982, 1984を参照されたい。)例えば自然数の型$N$の正準要素とは、次の推論規則のみによって構成される要素のことである:

  • (i) $0 ∶ N$
  • (ii) $a ∶ N \Rightarrow s(a) ∶ N$($s(a)$は$a$の後続者を表している)
ここで、$s(a)$において必ずしも$a$が正準要素であるわけではないことに注意されたい。一方で非正準要素とは、それを計算すると正準要素が値として得られるような要素のことであり、自然数型$N$の場合を考えると例えば $3+2$ が挙げられる($3+2=3+s(1)=s(3+1)$)。ここでの計算を可能にする推論規則も、MLTTの中で明示的に導入される。

すると、上の判断形式「$a=b ∶ A$」の意味を次のように説明することができる。すなわち、$A$に属する二つの要素$a$と$b$が同一であるのは、$a$と$b$をそれぞれ計算すると$A$に属する二つの同一な正準要素が得られるときである。ここでは常に、同一性が型に相対的なものとして捉えられており、異なる型に属する要素の間の同一性は考えられていないことに注意しよう。また、上の説明は、同じ型に属する二つの正準要素が同一であることの基準を前提しているが、MLTTにおいては、型に属する正準要素を規定する推論規則の他に、二つの正準要素が同一である基準を説明する推論規則も提示される。まとめると、MLTTを用いて「$a=b ∶ A$」という判断形式の意味を上述のように説明することで、型$A$に属する対象の同一性基準を与えることができる。そして、この説明を可能にしているのは、$A$の正準要素と非正準要素の区別、および、$A$の正準要素の同一性基準を与えるMLTTの推論規則である。

本節では、数学的対象はどのようにしてわれわれに与えられるのかという問いに関するフレーゲのアイデアに着目し、このアイデアを実現するものとしてマーティン-レーフ型理論(MLTT)を紹介した。フレーゲの立場とMLTTの間に見られるつながりとしては、本書評が取り上げたもの以外にもさまざまなものが挙げられる。関心のある読者は例えば岡本 2003,佐藤 2005を参照されたい。

論理主義に分類されるフレーゲの立場と、直観主義に基づくマーティン-レーフ型理論とのつながりが現在議論されているように、現代の論理哲学は従来の枠組みに囚われない仕方で進展している。そして、上述のように、論理の哲学における従来の枠組みを見直すことは本書の目的の一つとなっている。一方で、論理の哲学への入門を望む者にとっては、現在の議論の前提となっている枠組みについての説明がまず欲しいところであるが、本書がそのような説明も含んでいることはすでに見た。本書は、平易な文章でもって以上の方針を実現している優れた入門書である。読者は、本書が提示する論理哲学の新たな展開をさらに推し進めること、および、その新たな展開をも再考の対象にすることに必要な基礎を本書から得ることができるだろう。

謝辞

飯田隆氏、峯島宏次氏からは、本書評の草稿に大変有益なコメントをいただいた。ここに感謝申し上げる。本研究はJSPS科研費JP21K12822の助成を受けた。

1現代論理学において様相概念がどのように論じられてきたかに関しては、例えば飯田 1989, 1995を参照されたい。様相論理の解説を含む教科書としては例えば菊池 2016, 小野 1994が挙げられる。

2MLTTにはさまざまなバージョンが存在し、主な区別としてintensional / extensionalと monomorphic / polymorphicの二つが挙げられる。Martin-Löf 1982, 1984においてはextensionalかつpolymorphicなバージョンが定式化されている。intensional / extensionalの区別に関しては例えばNordström, Petersson and Smith 1990, Dybjer and Palmgren 2020を参照されたい。monomorphic / polymorphicの区別に関しては同じNordström, Petersson and Smith 1990が参考になる。これら二つの文献はMLTTの基礎事項を学ぶ際にも役立つ。

評者が考える限り、採用するMLTTがintensionalであろうとextensionalであろうと(もしくはmonomorphicであろうとpolymorphicであろうと)フレーゲのアイデアを実現できる点に変わりはない。ただし、標準的なextensional MLTTにおいては、「judgemental equality」と呼ばれる判断 $a=b : A$ が成り立つかどうかが決定不可能となることに注意されたい(例えばCastellan, Clairambault and Dybjer 2017の第二節を参照)。

3「$a=b : A$」という判断形式をもたないようなMLTTのバージョンも存在する。例えばMartin-Löf 1998を参照されたい。この判断形式において表現される同一性の他に、「propositional equality」や「propositional identity」と呼ばれるものもMLTTには通常含まれている。これら二つの区別についてもNordström, Petersson and Smith 1990, Dybjer and Palmgren 2020を参照のこと。後者の同一性とフレーゲのアイデアとの関係性は今後の研究課題としたい。

参考文献

  • Castellan S., Clairambault P., Dybjer P. (2017) Undecidability of Equality in the Free Locally Cartesian Closed Category (Extended version). Logical Methods in Computer Science, 13(4). doi: 10.23638/LMCS-13(4:22)2017.
  • Dybjer P., Palmgren E. (2020) Intuitionistic Type Theory. In: Zalta E. N. (ed) The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Summer 2020 Edition). URL =https://plato.stanford.edu/archives/sum2020/entries/type-theory-intuitionistic/.
  • Frege G. (1884) Die Grundlagen der Arithmetik: eine logisch-mathematische Untersuchung über den Begriff der Zahl. Verlag von Wilhelm Koebner, Breslau. 邦訳:三平正明・土屋俊・野本和幸(訳)『算術の基礎』,『フレーゲ著作集2 算術の基礎』所収,勁草書房,2001年.
  • 飯田 隆 (1989) 『言語哲学大全Ⅱ:意味と様相(上)』.勁草書房.
  • 飯田 隆 (1995) 『言語哲学大全Ⅲ:意味と様相(下)』.勁草書房.
  • 菊池 誠(編),佐野 勝彦・倉橋 太志・薄葉 季路・黒川 英徳・菊池 誠(著)(2016) 『数学における証明と真理―様相論理と数学基礎論―』.共立出版.
  • Martin-Löf P. (1982) Constructive Mathematics and Computer Programming. In: Cohen L. J., Łos J., Pfeiffer H., Podewski K.-P. (eds) Proceedings of the Sixth International Congress for Logic, Methodology and Philosophy of Science. North-Holland, Amsterdam.
  • Martin-Löf P. (1984) Intuitionistic Type Theory. Bibliopolis, Napoli.
  • Martin-Löf P. (1998) An intuitionistic theory of types. In: Sambin G., Smith J. M. (eds) Twenty-five years of constructive type theory. Clarendon Press, Oxford.
  • Nordström B., Petersson K., Smith J. M. (1990) Programming in Martin-Löf’s type theory. An introduction. Oxford University Press, New York.
  • 岡本 賢吾 (2003) 「「命題」「構成」「判断」の論理哲学―フレーゲ/ウィトゲンシュタインの「概念記法」をどう見るか」.『思想』第954号,岩波書店.日本科学哲学会(編),野本和幸(責任編集)『分析哲学の誕生 フレーゲ・ラッセル』再録,勁草書房,2008年.
  • 大西 琢朗 (2010) 「書評:飯田 隆編『論理の哲学』」.『科学哲学』43巻2号.
  • 小野 寛晰 (1994) 『情報科学における論理』.日本評論社.
  • 佐藤 雅彦 (2005) 「フレーゲの計算機科学への影響」.『科学哲学』38巻2号.日本科学哲学会(編),野本和幸(責任編集)『分析哲学の誕生 フレーゲ・ラッセル』再録,勁草書房,2008年.
  • Sundholm G. (1994) Vestiges of Realism. In: McGuinness B., Oliveri G. (eds) The Philosophy of Michael Dummett. Synthese Library (Studies in Epistemology, Logic, Methodology, and Philosophy of Science), vol 239. Springer, Dordrecht. doi:10.1007/978-94-015-8336-7_8.

出版元公式ウェブサイト

講談社

https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000195301

評者情報

高橋 優太(たかはし ゆうた)

現在、お茶の水女子大学文理融合AI・データサイエンスセンター特任助教。専門は論理の哲学。

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