2021年11月30日
Jens Lemanski, Christentum im Atheismus: Spuren der mystischen Imitatio Christi-Lehre in der Ethik Schopenhauers
2 Bände, Turnshare, 2009/2011年
評者:堤田 泰成
はじめに
本書のテーマは、無神論者として知られる19世紀ドイツの哲学者アルトゥール・ショーペンハウアーの倫理学のうちに、「キリストの模倣」というキリスト教思想の重要なモティーフを探るという刺激的なものである。エルンスト・ブロッホの『キリスト教の中の無神論(Atheismus im Christentum)』(1968年)1を想起させる本書のタイトルをあえて日本語に訳すならば、『無神論の中のキリスト教――ショーペンハウアー倫理学における神秘主義的な「キリストの模倣」の教えの軌跡』とでもなろうか。本書は全2巻、索引を含めると600頁以上もある大著であり、以下に見ていくようにそこで扱われている内容は、ショーペンハウアーとキリスト教神秘主義の関係を中心に、哲学、神学、倫理学、歴史学、人類学、解釈学、そして現代における無神論の問題など、非常に多岐に渡っている。
ショーペンハウアーとキリスト教という組み合わせは、彼を仏教的な哲学者と見る傾向の強い我が国ではあまり馴染みがないものかもしれない。だがこの哲学者の作品を繙いてみると、そこには聖書、教父学、スコラ哲学、ドイツ神秘主義、ルターからの豊富な引用が見られるばかりか、彼の「意志の否定」の思想とキリスト教の教義との共属性までもが明確に説かれており、読む者を少なからず驚かせる。ショーペンハウアーとキリスト教を同じ穴の狢として批判したニーチェの言を俟つまでもなく、両者はその徹底した禁欲的な倫理観において完全に一致し、また生の苦悩からの真の救済を共通の課題としている。そうした両者を繋ぐ鍵が「キリストの模倣」にあるとする本書の切り口は、狭義のショーペンハウアー研究者のみならず、広くキリスト教思想や宗教哲学に興味のある人々にとっても大いに魅力的なものとして映るであろう。評者があえて本書を取り上げるのも、まさにそのような理由からである。
著者のイェンス・レマンスキー氏は、1981年ドイツ・ハッティンゲン生まれ。2011年にドイツ・マインツ大学とイタリア・サレント大学とのコチュテル(博士論文共同指導プログラム)により哲学の博士号を取得し、その後ミュンスター大学やボーフム大学などで研究員を歴任、現在はハーゲン通信教育大学で私講師を務めている。著者は本書以外にもこれまでに、単著としてSumma und System: Historie und Systematik vollendeter bottom-up- und top-down-Theorien, Mentis(2013年)を、また共著・編著としてWarum ist überhaupt etwas und nicht vielmehr nichts?, Felix Meiner(2013年)、Language, Logic, and Mathematics in Schopenhauer, Birkhäuser(2020年)、Schopenhauer-Lexikon, utb(2021年)を上梓しているほか、科学哲学、論理学、哲学史に関する論文を国際的なジャーナルに数多く発表するなど、幅広い分野で極めて旺盛な研究活動を行っている。また日本との関わりで言えば、太田匡洋氏の翻訳による「ショーペンハウアーにおける意味の使用理論と文脈原理――ヴィトゲンシュタイン『哲学探究』との並行関係」と題する論文が日本ショーペンハウアー協会編『ショーペンハウアー研究』第22号(2017年)に掲載されているほか、2020年には日本学術振興会科学研究費補助金プロジェクトに基づくショーペンハウアーの国際共同研究の成果報告会議のために初来日も果たしている。そのときの発表題目は「ショーペンハウアーの体系における日本庭園」であり、著者の博識ぶりには会議の参加者一同大いに驚かされたこともついでながらに言い添えておこう。
本書の構成・要約
先述したように、本書は全2巻から成る。280頁以上もある第1巻では、現国際ショーペンハウアー協会会長マティアス・コスラー氏の寄せた「序言」に続き、本書の主題・方法・概略をごく簡単に記した「導入」がまず冒頭に掲げられ、残りのすべてを「第1部:キリスト教――「キリストの模倣」の歴史的研究」が占めている。第2巻は「第2部:無神論――ショーペンハウアーにおける「キリストの模倣」の体系的研究」と「第3部:無神論の中のキリスト教――自由な変奏」という2つの大きなパートに分かれており、本文の後には詳細な文献表、用語・人名索引、そしてショーペンハウアーの研究書としては珍しく、聖書箇所の引照索引、古ギリシア語・ラテン語とドイツ語との語彙対応表までもが用意されている。本書評の限られた紙幅の中で浩瀚な本書の内容と魅力をすべて紹介することは不可能であるが、以下では評者なりに各部ごとの要約を試みてみたい。
第1巻(第1部:キリスト教――「キリストの模倣」の歴史的研究)は、おそらくそれ単体でも「キリストの模倣」に関する専門的な研究書として十分通用するくらいの質と量を伴っており、読み進めているうちにショーペンハウアーの研究書であることをつい忘れてしまうほどである。著者はこの第1部において、ショーペンハウアーに至るまでの「キリストの模倣」の発展史を、主にキリスト教神秘主義者と呼ばれる思想家たちの個々のテクストに深く立ち入りながら丹念に跡付けているのだが、もちろんこれは第2部でショーペンハウアー倫理学のうちに「キリストの模倣」の軌跡を探るための周到な事前準備にあたる。「キリストの模倣(イミタティオ・クリスティ/キリストのまねび)」は周知のように、聖書に次いで読まれ「第二の福音書」とまで称される、15世紀のトマス・ア・ケンピスの作と伝わる古典的信心書のタイトルにもなっている。著者はこの概念の起源をまずは聖書、とりわけパウロ書簡や、福音書の「自分の十字架を背負う」という表現のうちに見出し(S. 13-37)、続いてキリスト教が国教化される以前までの迫害時代における展開を、ポリュカルポス、アンティオケイアのイグナティオスといった初期の殉教者、そしてアレクサンドリアのクレメンス、オリゲネスの殉教思想のうちに跡付ける(S. 37-74)。このように「キリストの模倣」は当初、キリストの受難と重ね合わせられた殉教観と深く結び付いていた。だが古代後期から中世初期にかけて、キリスト教がシリアから西方ラテン世界、そしてアイルランドへと伝わると、「キリストの模倣」の考え方はディオニシウス・アレオパギタとヨハネス・エリウゲナの神-神秘主義のもとで神秘的な傾向を強めていく(S. 75-140)。著者はこの傾向のさらなる深化を、ベネディクト会やシトー会といった修道院文化の発展、アッシジのフランチェスコの清貧運動にも十分に目を配った後に(S. 141-156)、ショーペンハウアーがとりわけ強い影響を受けたドイツ神秘主義のうちにつぶさに確認していく。マイスター・エックハルトと偽エックハルト(S. 156-179)、『ドイツ神学』のフランクフルト人(S. 179-194)、トマス・ア・ケンピス(S. 194-218)、ヤーコプ・ベーメ(S. 223-235)、偽タウラーと敬虔主義者ゴットフリート・アルノルト(S. 235-246)、こうした思想家たちのキリスト論において神秘主義的な「キリストの模倣」が倫理的にも実践的にも大きな意味を帯び始めるという点に、おそらくこの中世盛期から後期にかけての重要なポイントがあろう。しかし「キリストの模倣」の教えは、啓蒙と合理主義の進んだ18・19世紀のドイツ古典哲学の時代には完全に下火となり、目立った言及がほとんどなされなくなる。筆者はヤコービのスピノザ主義とフィヒテの無神論論争(S. 246-270)、シェリング、ヘーゲルの宗教哲学の特徴について触れ(S. 270-281)、彼らの後に「キリストの模倣」の教えを再び復興させたショーペンハウアーにバトンを引き継ぐかたちで第1部の叙述を終える。
なお筆者はこの第1部において、以上のような「キリストの模倣」の発展のパノラマを提示することとは別に、神秘主義の分析と類型化の試みにも力を注いでいる。そのため、その概要についてもここで簡単にまとめておきたい。神秘主義と一口に言ってもそこには多種多様な要素が認められ、この用語を一義的に規定することはほとんど不可能である。そこで著者は、神秘主義について論じる際に客観的指標となり得る具体的な概念ないし標徴――例えば本書のテーマである「キリストの模倣」や「禁欲」、「愛」、「観照」、「幻視」、「恍惚」など――を「神秘主義的アスペクト(der mystische Aspekt)」と名付け、この多様な観点のもとに神秘主義的な話題や傾向性を含んだあらゆるテクストを読み解いてみることを提案する。なぜなら、それによって必ずしも神秘主義者とは呼べない哲学者や思想家たち(これにはショーペンハウアーも含まれる)をも考察や比較の対象のうちに含めることが可能となるからである(S. 1-9)。さらに著者は神秘主義・神秘主義的アスペクトを、①「訴求-変容的神秘主義(die appellativ-transformative Mystik)」、②「記述-説明的神秘主義(die deskriptiv-informative Mystik)」、③「釈義-解読的神秘主義(die exegetisch-dechiffrierende Mystik)」の3つのタイプに分類する(S. 48-49、また第2巻S. 290以下も参照)。①は神秘主義者と同じ意識に到達するよう聴者ないし読者に訴えかけ、彼らに意識の変容をもたらそうとするタイプの神秘主義である。②はそれとは対照的に、神秘主義者が自ら経験した意識の変容を純粋に記述または説明するタイプの神秘主義であり、受け手を神秘的な経験へと導いたりその意識に変容を迫ったりすることを目的としていない。③は聖書本文の神秘主義的な釈義や解釈に基づく神秘主義であり、このタイプの神秘主義者は自らの主張の補強ないしは正当化のために聖書の権威を引き合いに出す。ただしこれら3つのタイプは、著者自身も認めているように必ずしも互いに排他的であるわけではない。例えば、③は他の2つのタイプとも不可分的な関係にあるため、しばしばそのうちの一方と組み合わさって現れる。また一人の神秘主義者のうちでも、著作や時期によってタイプが変化することも当然ながらしてあり得る。しかし著者は、「キリストの模倣」という神秘主義的アスペクトが一般的な傾向として、初期キリスト教の聖書に基づく釈義-解読的神秘主義から出発し(第2章)、しだいに理論的な神-神秘主義の領域において記述-説明的神秘主義の色調を帯び始め(第3章)、やがてドイツ神秘主義のもとで訴求-変容的神秘主義に移行していく(第4章)という歴史的な軌跡を、この第1部全体を通して明瞭に描き出している。
第2巻の前半にあたる「第2部:無神論――ショーペンハウアーにおける「キリストの模倣」の体系的研究」は、本書のメインとなる箇所である。著者は初めに、ショーペンハウアーにおける神秘主義の定義を詳しく検討し、その上で引き続き本書の方法論である神秘主義的アスペクトに基づいて分析を進めていくことを確認する(S. 283-303)。次に第1部で明らかとなった「キリストの模倣」の特徴の簡単な略述(S. 304-310)、ショーペンハウアー哲学体系の概説(S. 311-349)を挟んで、著者はいよいよショーペンハウアー倫理学とキリスト教神秘主義との関係の本格的な検討に着手していく。だが彼の倫理学に「キリストの模倣」の軌跡を探るに先立ち、著者はここである重要な指摘を行う。それは超越論哲学に基づいたショーペンハウアー倫理学が、純粋な記述倫理学の立場を貫いているということである(S. 386-390)。つまり彼の倫理学は、読者に道徳的に行為するよう訴えかけるのではなく、ただ世界の内部での実践的な行為可能性を記述することだけを目的としており、またそれは人間理性の領域内に留まる哲学である以上、記述的な神秘主義ともはっきりと区別される。この点を注意深く指摘した後、著者はいよいよ本書の核心部である第10章において、ショーペンハウアー倫理学のうちに神秘主義的な「キリストの模倣」の軌跡を探っていく。その際に著者は、彼が「神秘主義の節(Mystik-paragraph)」(S. 394)と呼ぶ、主著『意志と表象としての世界』正編の第68節を中心に考察を行う。この節においてショーペンハウアーは、自らの「意志の否定」の思想と東西の神秘主義との間に著しい共通点が見出されることを、具体的な実例を数多く挙げながら説明している。その中でも著者は、ショーペンハウアーによって福音書の「自分の十字架を背負う」という表現が禁欲、本来的な「意志の否定」の第一歩と捉えられ、それが懺悔者、隠修士、修道制度の起こりになったと説明されている点に注目する。「自分の十字架を背負う(das Auf-sich-Nehmen-des-Kreuzes)」という福音書の表現は第1部で確認されたように、「キリストの模倣」の教えの起源となっている。このことから著者は、ショーペンハウアーが神秘主義的な「キリストの模倣」の伝統のうちに自らの「意志の否定」の思想を自覚的に位置づけ、キリストに従うというモチーフをその無神論的な哲学の中に構造的に取り入れたのだと主張する(S. 394-400)。ただしそこでショーペンハウアーは、神の子としてのキリストの人格ではなくその行状や受難の道、すなわち「キリストの模倣」における純粋に倫理的・禁欲的な要素だけに焦点を当てている。著者はこのショーペンハウアーの無神論的なキリスト論、「意志の否定」の象徴として脱神話化されたキリスト像に、ショーペンハウアーとキリスト教神秘主義者たちとの決定的な相違が見出されるとしている(S. 400-413)。とは言え、このことはショーペンハウアー哲学に対するキリスト教の影響力の弱さを些かも意味しない。というのも、ショーペンハウアーは生涯にわたって聖書やキリスト教神秘主義の研究に従事し、その成果を自らの哲学に取り入れていたからである。その証拠に著者は、ショーペンハウアーの主著の初版(1818/19年)、第2版(1844年)、第3版(1859年)のテクストを比較・対照し、版を重ねるごとに聖書の参照箇所が拡充されていることや、晩年の遺稿の中に「キリストの模倣(die Nachahmung Christi)」についての直接的な言及が見出されることなどを指摘している(S. 456-465)。このように著者は第2部において、ショーペンハウアー倫理学の核心である「意志の否定」の思想に神秘主義的な「キリストの模倣」の教えの軌跡が確かに認められることを、驚くべきほど精緻な論証でもって裏付けている。
第2巻の後半「第3部:無神論の中のキリスト教――自由な変奏」では、ショーペンハウアー倫理学における神秘主義的な「キリストの模倣」の教えの軌跡という主題を超え出て、現代の世俗化された無神論的な世界観のもとで「キリストの模倣」というモチーフがどのように変化しているか、それはなおも実践可能かどうか、その現代における意義とは何であるか、といったより一般的な問題が探究される。だがここでも本格的な議論に入る前に導入として第2部の要約と補足が置かれており、その中で著者は、ショーペンハウアーの「意志の否定」が彼の解釈者たちによってこれまでどのように解釈されてきたのかについて話題にしている。ショーペンハウアーの「意志の否定」の解釈をめぐっては、早くも彼の存命中から、それを読者に対する倫理的要請として解釈する立場と、世界内の現象の単なる純粋な記述として解釈する立場とが対立していた。前者はショーペンハウアーの批判者であるヴァイゲルトに、後者はショーペンハウアーの親密な弟子であるベッカーにそれぞれ代表されるため、著者はこれを「ヴァイゲルト・ベッカー論争」と名付けている。この論争について著者は、ベッカーの解釈を支持しているショーペンハウアーの書簡の一節を引き合いに出し、ショーペンハウアー本人は彼の記述的倫理学を記述的に読むよう読者に求めていたと主張する(S.497-504)。こうしたショーペンハウアーの自然主義的態度が改めて確認された後、次に自らを経験的・科学的なものと見なす現代の無神論的な哲学や倫理学の中で、キリスト教の伝統に由来する神秘主義的アスペクトがいかに隠れたかたちで影響を及ぼしているかが考察される。そこでは主に、ショーペンハウアーと同じくキリスト教の要素を自らの無神論的な哲学の体系に組み入れたブロッホ、また神秘主義的・形而上学的なメタファーを用いて「ポスト形而上学」の近代的な分析を展開したブルーメンべルクとスローターダイクが取り上げられる(S. 505-550)。そして著者は、彼らの無神論的な現代哲学とキリスト教の神学とが、普遍妥当的な倫理を確立しようとする努力の中ですでに互いに手を取り合っていることを指摘した上で、「キリストの模倣」の教えについての現代における意義を以下のように強調する。
したがって、「模倣」は倫理の可能的原理であるのみならず、人間の必然的な、すなわち逃れようのない運命でもある。ここで問題となるのは、それが人間の道徳的な記述に属するかどうかではなく、社会全体の進展を可能にするために、「模倣」をどのように実践しなければならないか、ということだけである(S. 556)。
本書で取り扱った「キリストの模倣」の様々な解釈は、キリスト教神秘主義者たちのものであれ、ショーペンハウアーのものであれ、どれもこの倫理的概念の普遍性を証明し、そのモデルがいかに理想的・典型的に振る舞うかを示している。こうしたモデルは、われわれ個人や社会がそれぞれの行動原理を自ら選択し、実践していくにあたっての有効な指針となり得る。このように著者は、ショーペンハウアーの無神論的な哲学・倫理学に仮託しながら、「キリストの模倣」の教えが現代の世俗化された科学的世界観のもとでも依然として意義を持つことを指摘して本書を閉じている。
本書に対するコメント
以上見てきたように、本書では古代から現代までに至る「キリストの模倣」の発展史の壮大なパノラマの下に、ショーペンハウアーの無神論的な哲学・倫理学がまったく新たな視点から捉え直されている。本書の魅力は冒頭にも述べたように、ショーペンハウアーとキリスト教という一見異質なもの同士が、われわれにも馴染み深い「キリストの模倣」という伝統的なモチーフによって互いに繋がっているとする、その斬新な切り口にあると言えよう。以下ではそうした本書の内容に関して、本書刊行後の著者の研究や最新のショーペンハウアー研究の成果なども踏まえながら若干のコメントを述べてみたい。
まずは本書の主題であるショーペンハウアーの「意志の否定」と「キリストの模倣」の関係性について触れておこう。本書でも説明されているように、ショーペンハウアーにおいて「キリストの模倣」というタームは晩年の遺稿中に僅かに見出されるのみで、公刊著作では一度も登場していない。しかし著者は、主著第68節で言及されている福音書の「自分の十字架を背負う」という表現に着目し、ショーペンハウアーの「意志の否定」の思想を「キリストの模倣」の系譜のうちに鮮やかに位置づけている。こうした著者の意図と試みがまったくもって妥当であることは、本書で展開されている緻密な論証からだけでなく、近年刊行された主著初版の批判校訂版2といった新資料からも改めて裏付けられよう。というのも、それを見てもショーペンハウアーが(第2版以降の節分けで言う)第70節の「こうして個体化の原理がますます明瞭に見透かされていくに従い、…最後には諦念あるいは意志の否定を生じさせるまでに至った」という箇所に補足して、「これは福音書の中でおのれ自身を捨てて自分の十字架を背負う、と言われていることと同じである」という自筆の書き込みを残していたことが確認できるからである(W1819, S. 294)。このように「意志の否定」の思想は、ショーペンハウアー自身によってはっきりと、福音書の記述とそれを起源とする「キリストの模倣」の教えの系譜に連なるものとして特徴づけられていたことが分かる。
次に特筆すべき点として、本書における著者のショーペンハウアー解釈の記述的性格が挙げられる。すでに見たように、ショーペンハウアーの倫理学、とりわけその「意志の否定」の思想をめぐっては、それを一種の要請ないしは規範と見なす解釈と、純粋に記述的なものと捉える解釈とが対立しており、「ヴァイゲルト・ベッカー論争」以来、こうした解釈をめぐる問題はショーペンハウアー研究の長い歴史の中でしばしば議論の的とされてきた。しかしどの解釈者たちも、自らの解釈の方向性ないし方法論をそれほどはっきりと自覚的に認識していたわけではない。そのため本書のように、著者自身が自らの解釈の立場を記述的なものであると明確に特徴づけていることは、ある意味ショーペンハウアー研究において非常に画期的であると言える。さらに著者は、本書刊行後の研究3において、これまでのショーペンハウアー解釈の傾向を「規範的解釈 (die normative Interpretation)」、「記述的解釈(die deskriptive Interpretation)」、そして両者の中間に位置づけられる「価値論的解釈 (die axiologische Interpretation)」の3つに分類している。これは本書における「訴求-変容的神秘主義」、「記述-説明的神秘主義」、「釈義-解読的神秘主義」という3つのタイプ分けを引き継いだものと見ることができよう。いずれにしても著者によれば、ショーペンハウアーの倫理学および「意志の否定」の思想はあくまでも規範倫理学ではなく記述倫理学として解釈されるべきものであり、それがショーペンハウアーの真意に沿ったものであるという。また著者は同様の理由から、解釈者の関心や趣向を反映した主観的な読み方、例えば救済論や「芸術としての哲学」、共苦倫理学のいずれかに重きを置く解釈についても、ショーペンハウアーの意図にはそぐわないものとしてこれを斥けている(S. 500-501)。
だがこの著者の記述的な解釈は、果たして本当にショーペンハウアーの真意を汲んだものと言い切れるであろうか。確かにショーペンハウアーは彼の著作の中で繰り返し、カントの義務論を批判したり、哲学の課題を概念による世界の抽象的な再現であると述べたりして、自身の哲学の記述的性格を強調している。しかし彼の哲学は、その形成過程を見れば明らかなように、生の苦悩からの救済を主要な関心事としており、「意志の否定」の思想もそうした背景の下に生まれてきたことはもはや疑い得ない。そしてキリスト教や神秘主義からの様々な影響も、まさにそうした「救済論(Soteriologie)」という点に集約されていると言えるであろう。近年とくに注目されているショーペンハウアーの偽タウラー・『ドイツ神学』受容についての研究4も、この事実を文献考証的に裏付けているように思われる。こうしたことを踏まえれば、ショーペンハウアーは生への意志を否定することのメリットを読者に対して訴えかけているか(規範的解釈)、少なくとも彼自身がそのことに大きな価値を認めている(価値論的解釈)、と捉えてみる方が妥当ではなかろうか。ちなみにショーペンハウアーは晩年、自分の無神論的な哲学が世間から宗教としての評価を受けたことに大きな喜びを感じていたという5。また同様のことは、「芸術としての哲学」についても言うことができる。高橋陽一郎氏の研究6が示すように、ショーペンハウアーの哲学や著作を一種の芸術作品として見なすことはこの哲学者自身の意図に沿ったことであり、決して解釈者ないし読み手の関心や趣向を反映した主観的な読み方などではない。さらに共苦倫理学に関しても、『倫理学の二つの根本問題』を見れば共苦という現象にとりわけ大きな比重が置かれていることは明らかであり、それは主著においてもカントの義務論に代わり道徳性の最高原理としての役目を継いでいると言えよう。
概して哲学研究というものはテクストの正しい解釈を追求しており、それはわれわれ解釈者ないし読み手が原著者の真意を無誤謬的に知ることができるという暗黙の前提に立っている。しかし、何をもって原著者の真意を忠実に汲み取ったとするかは、実際のところ非常に難しい問題である。またもちろん見方によっては、テクストの意味内容は読者との相互作用によって産出されるものであるから、必然的に原著者の意図を離れたものとならざるを得ないという理解も成り立とう。だからこそわれわれは、他の異なる解釈をまったく許容しない偏狭な態度、個人の自由で恣意的な主観的解釈といったものを同時に排除しながら、テクストには多種多様な解釈の余地を認めるべきである。つまり、正しい解釈の追求によってわれわれは、テクストをある唯一絶対的な理解へと還元するのではなく、複眼的なテクスト理解を通じて原著者の意図がより明瞭に浮かび上がってくるようにしなければならない。このことは、多くの矛盾的言説や、古今東西の様々な思想からの影響が認められるショーペンハウアー哲学にあってはなおさらであると言えよう。したがって著者の記述的解釈も、過去の研究において積み重ねられた規範的・価値論的な解釈の成果を承認し、無数のパースペクティブの下で絶えず自分の解釈の修正と発展を強いられるような、そうした解釈同士の高次の関係性のうちに据え置かれるべきである。本書の主題がショーペンハウアーと「キリストの模倣」という非常に斬新で魅力的なものであるだけに、彼の哲学における生の苦悩からの救済という側面を強調する規範的・価値論的解釈が著者によってそれほど評価されていない点は、評者にとって少しだけ残念に思われた。
しかしそのことを差し引いても、本書がショーペンハウアーとキリスト教・神秘主義との関係について書かれた第一級の研究書であることは疑いない。また本書評の冒頭に述べたように、無神論の哲学における「キリストの模倣」の軌跡という魅力的なテーマを扱った本書の内容は、広くキリスト教思想や宗教哲学に関心がある人々にとっても裨益するところが大きいであろう。とくに、キリスト教の宗教的伝統に由来する神秘主義的アスペクトが現代の科学理論や科学哲学の中でいかに機能しているかを探究した第3部「無神論の中のキリスト教」は、無神論的な現代に生きるわれわれの倫理観や人間観を考える上での非常に有益な示唆を提供してくれている。ブロッホはその『キリスト教の中の無神論』の冒頭に「無神論者のみがよきキリスト教徒たり得るし、キリスト教徒のみがよき無神論者たり得る」という逆説的なテーゼを掲げたが、無神論者であるショーペンハウアーや無神論的な現代に生きるわれわれは果たしてよきキリスト教徒たり得るだろうか。本書の読者ならば必ずや自らにそう問いかけたくなるはずである。
追記:本書は2009/2011年に刊行されたが、出版社の倒産のため現在入手が非常に困難な状態にある。当該分野における貴重な研究であるだけに、電子書籍などでの一刻も早い復刊が望まれよう。なお、本書の神秘主義の分類や神秘主義的アスペクトについて興味がある方は、同じ著者のSumma und System: Historie und Systematik vollendeter bottom-up- und top-down-Theorien, Mentis(2013年)においても詳しく論じられているので、ぜひそちらを参照されたい。
注
1邦訳は竹内豊治・高尾利数訳、エルンスト・ブロッホ『キリスト教の中の無神論(上・下)』、法政大学出版局、1975・1979年。
2Arthur Schopenhauer, Die Welt als Wille und Vorstellung. Kritische Jubiläumsausgabe der ersten Auflage von 1819. Mit den Zusätzen von Arthur Schopenhauer aus seinem Handexemplar, Hg. von Matthias Koßler und William Massei Jr., Felix Meiner, 2020. (= W1819)
3Jens Lemanski; Daniel Schubbe, Konzeptionelle Probleme und Interpretationsansätze der Welt als Wille und Vorstellung, in: Daniel Schubbe / Matthias Koßler (Hg.), Schopenhauer Handbuch: Leben-Werk-Wirkung, 2. Auflage, J. B. Metzler, 2018, Kapitel 6.2, S.47-48.
4Robert Heimann, Die Genese der Philosophie Schopenhauers vor dem Hintergrund seiner Pseudo-Taulerrezeption, Königshausen & Neumann, 2013. Rudolf Neidert, Schopenhauers und Luthers frühe Begegnung mit der „Deutschen Theologie“, in: Hg. von Matthias Koßler und Dieter Birnbacher, Schopenhauer-Jahrbuch, Band 99, Königshausen & Neumann, 2018, S. 137-159. Thomas Regehly, Von Ufer zu Ufer - Schopenhauer und die Theologia Deutsch, in: Hg. im Auftrag der Internationalen Jacob-Böhme-Gesellschaft von Günter Bonheim und Thomas Regehly, Mystik aus Frankfurt: Die Theologia Deutsch, Weißensee Verlag, 2020, S. 121-147.
5斎藤忍随・兵藤高夫訳、ヴィルヘルム・グヴィナー「身近に接したショーペンハウアー――生涯、性格、および教説の概観」、『ショーペンハウアー全集』別巻、白水社、1975年、490頁参照。
6高橋陽一郎『藝術としての哲学――ショーペンハウアー哲学における矛盾の意味』、晃洋書房、2016年。
出版元公式ウェブサイト
Turnshare
出版社倒産につき、公式ウェブサイトなし
評者情報
堤田 泰成(つつみだ やすなり)
現在、上智大学外国語学部特別研究員。専門はショーペンハウアー、近世哲学、宗教哲学。2019年、第2回西周賞受賞。主な業績に「アッシジの聖フランチェスコを通して見たショーペンハウアーの「意志の否定」論」(『カトリック研究』第89号、2020年)、「ショーペンハウアーにおける「個体化の原理」の問題」(『実存思想論集』第35号、2020年)、「ビンゲンのヒルデガルト『スキヴィアス』緒言および第一部の第一の幻視」(『上智哲学誌』第33号、2021年、共訳)がある。