Tokyo Academic Review of Booksonline journal / powered by Yamanami Books / ISSN:2435-5712

2022年2月13日

Kasper Lippert-Rasmussen, Making Sense of Affirmative Action

Oxford University Press,2020年

評者:石田 柊

Tokyo Academic Review of Books, vol.42 (2022); https://doi.org/10.52509/tarb0042

はじめに

Making Sense of Affirmative Action (以下「本書」ないし「MSAA」)は、デンマークのオーフス大学に所属する政治哲学者カスパ・リバト゠ラスムセンによる、アファーマティブ・アクション(以下「AA」)を論じる著作である。リバト゠ラスムセンは、いわゆる分析系の政治哲学における代表的研究者であり、とりわけ平等や差別がかかわる研究をリードしている。本書もリバト゠ラスムセンのこうした研究に位置づけられる。

題が示す通り、本書の課題はAAという特殊な施策を理解することだ。AAは、時に専門家から一般の人々までを巻き込んで論争を起こす。しかし、AAについて何かを主張するとき、我々はAAをどのように理解しているのか。その理解は論争参加者のあいだでどれほど共有されているのか。たとえば、AAとは厳密にはどういう施策をいうのか。AAは道徳的に正当なのか。仮に正当だとして、どういう場合に、なぜ、どのくらい正当なのか。これらについて可能な議論を提示し、批判的に検討することが、この本の目的である。

内容に入るに先立ち、用語の規約をしたい。「優遇(favourable treatment)」は、差別にかかわる哲学的議論において頻出の語である。ただし、この訳語で何を指すのかが明示されないことで、無用の誤読と論争が生まれてきた。そこで以下のように規約する。第一に、この記事で私は「優遇」を個人間比較(interpersonal comparison)にかかわる語として使う。たとえば、私が「女性優遇」で指すのは、女性を他の誰か(典型的には男性)よりもよく処遇することであって、女性を本来あるべき処遇よりもよく処遇することではない。それゆえ、私の用語法では、ある処遇が女性優遇的だということは、それが悪いという評価を含まない。第二に、この記事で私が「優遇」というとき、先述の個人間比較は、そこで話題になる特定の処遇についての優劣の比較であって、その処遇によって実現される社会的状況についての優劣の比較ではない。それゆえ、私の用語法では、ある処遇が女性優遇的だからといって、その処遇をしてもなお社会全体でみて女性が男性に比べて不利益を受けている可能性が排除されない。なお対義語の「冷遇」も同様である。

本書の内容とその概要

本書は合計13章からなる。第1章では、そもそもAAとはどういうものか、また「AAは道徳的に正当か」を問う上で何に注目・注意するべきかが論じられる。第2–7章では、AAを擁護する議論として有力なものを六つ挙げて検討する。第8–12章では、AAに反対する議論として有力なものを五つ挙げて検討する。13章は結論である。なお、若干の相互参照を除けば、本書を構成する各章はそれぞれ自己完結している。

【本書の構成】

  • 第1章 AAの定義
  • 第2–7章 AA擁護論の検討
    • 第2章 補償説
    • 第3章 差別解消説
    • 第4章 機会平等説
    • 第5章 ロールモデル説
    • 第6章 多様性説
    • 第7章 統合/関係論的平等説
  • 第8–12章 AA反対論の検討
    • 第8章 逆差別批判
    • 第9章 スティグマ批判
    • 第10章 ミスマッチ批判
    • 第11章 公知性批判
    • 第12章 能力主義批判
  • 第13章 結論

本書でリバト゠ラスムセンがしているのは、AAについての特定の立場の擁護(およびそのために必要な各種議論の展開)というよりは、AAについて従来なされてきた議論をまとめ、厳密な形に再構成し、批判的に検討することである。各章はときに極めて細かい議論を含むが、以下では、過度の単純化のリスクを恐れず、AAを論じる上で勘所となるであろう議論を抜き出してまとめる。

第1章 AAの定義

第1章の主な主題は「AAとは厳密にはどういう施策のことか」である。リバト゠ラスムセンは、まず暫定的定義としてスタンフォード哲学百科事典(SEP)の記事に言及する。以下に引用する。

あるものがAAであるのは、それが「雇用、教育、および女性やマイノリティを歴史的に排除してきた文化といった各種領域において、女性やマイノリティの代表程度を向上させるために採られる積極的ステップ」(Fullinwider 2014)である場合であり、かつその場合に限る。(MSAA, 2)

次に、この暫定的定義が改訂される。改訂は、大きく分けて五つの観点——受益者は誰か、実施者は誰か、どのような手段を使うか、受益者の境遇をどれほど変えるか、およびどのような目標を定めるか——からなされ、リバト゠ラスムセンは総じてSEPの暫定的定義を拡張している。たとえば、AAがなされるのは雇用や教育や文化といった公的性格の強い領域だけではないし、AAの目標は必ずしも集団間比例代表(ある場における各集団のシェアが、各集団が人口全体に占めるシェアに比例する状態——たとえば大学教員に占める男女比がおよそ 1:1 である状態)ではないと論じられる。ただし、通常の意味での差別(直接差別)の禁止・撤廃は、AAに含まれない。

リバト゠ラスムセンが特に注目するのは、この社会でAAと呼ばれていない施策が実際には道徳的に重要なAA形態でありうるということだ。典型例は出口ベースAAである。仮に、ある大学において男性教員が女性教員より圧倒的に多いとしよう。このとき、ジェンダー比を 1:1 に近づける手段はさしあたり二つある。ひとつは、空きができたときに女性を優先的に(または女性に限定して)採用することであり、これは入口ベースAAと呼ばれる。もうひとつは、現在の男性教員の退職を女性教員より早めることであり、これが出口ベースAAである。リバト゠ラスムセンは、出口ベースAAに対する我々の直観的反発に応答した上で、世代間正義の問題を真剣に考えるならばAAの形として入口ベースAAより出口ベースAAのほうが(大学教員のジェンダー比の責任をほとんど負わない若い男性に負担を押し付けない点で)ふさわしいと主張している。

この改訂を経てリバト゠ラスムセンが提案するAAの定義は、かなり複雑である(MSAA, 12; 極めて長いので割愛する)。ただし、以後の議論にとっての勘所をリバト゠ラスムセンは簡潔に示している。それは次のことだ——AAと呼ばれるべき施策は極めて多様であることから、「AAは正当化されるか」という問いは一般的すぎてほとんど意味をなさない。実際に問うべきなのは、「どのようなAAが、どのような場合に正当化されるか」という個別的な問いである。

第2–7章 AA擁護の検討

第2章から第7章では、AAを擁護する議論としてしばしば挙げられるものがそれぞれ検討される。大雑把に言えば、リバト゠ラスムセンは、差別軽減説(3章)と機会平等説(第4章)を有望視し、残りを退けている。

第2章:補償説

第2章では、過去の不正義への補償としてのAA擁護(補償説)が検討される。これはおおむね次のように進む。

  1. もし集団Gのメンバーが過去の不正義の被害者であれば、Gのメンバーが当該不正義に対する補償を受けることが、正義の観点から求められる。
  2. Gのメンバーが当該不正義に対する補償を受けるのは、Gのメンバーを優遇するAAによるほかない。
  3. したがって、もし集団Gのメンバーが過去の不正義の被害者であれば、Gのメンバーを優遇するAAが正義の観点から求められる。

補償説がそもそも一部のAAしか擁護しえないことに注意されたい。というのも、前提1で言われているのは通常の意味での補償ではなく、いわば代理的補償である。なぜなら、過去の不正義の被害者とAAの受益者は往々にして異なるからだ。リバト゠ラスムセンによれば、こうした代理的補償が正当になるのは、主に、過去の不正義に起因する社会的不利益が後世まで引き継がれる場合である。たとえば、奴隷貿易による黒人冷遇の影響が奴隷貿易が完全に終わってもずっと尾を引いていると考えるなら、その補償として現在世代の黒人を優遇する理由があるだろう。しかし、同じようにして女性優遇AAを考えることはできないとリバト゠ラスムセンは主張する。その理由として挙げられるのは、女性の大多数は女性と男性両方の子孫であり、したがって現在世代の女性の大多数は過去の女性が受けた不利益だけでなく過去の男性が受けた利益をも受け継いでいるという見立てである。

補償が代理的なものであることにより、さらに問題が生じる。第一に非同一性問題(the nonidentity problem)がある。集団Gの現メンバーAが過去の不正義の被害者であるためには、その過去の不正義がなければAの境遇がもっとよかったはずだと言えなければならない。しかし、通常は、過去に不正義がなかったならばAは存在しなかったと考えられ、そのためAは過去の不正義の被害者ではないことになる。第二の問題は集団の同一性にかかわる。リバト゠ラスムセンは、過去の不正義の被害者集団と「同じ」集団であるといえる現在世代の人々を特定できない事例を挙げる。そして、時間をまたいだ複数集団が「同じ」集団であると示す論拠は用意できないと考える。こうして、リバト゠ラスムセンは補償説を退ける。

第3章:差別軽減説

第3章では、差別を軽減する手段としてのAA擁護(差別軽減説)が検討される。これはおおむね次のように進む。

  1. 不正な差別(およびその影響)を、道徳的に最も許容可能なしかたで解消ないし軽減することが、正義の観点から求められる。
  2. 多くの場合、AAは、不正な差別(およびその影響)を解消ないし軽減するにあたって道徳的に最も許容可能な手段である。
  3. したがって、多くの場合、AAは正義の観点から求められる。

リバト゠ラスムセンは、まず、「差別」を適切に定義すれば(Lippert-Rasmussen 2013)前提1は擁護できると論じる。次に、前提2を(実際には経験的に検証されるべきだと留保した上で)さしあたり有望視する理由を、AAを競合する他の施策——財の移転、および厳しい反差別法制——と比較することで示している。第1章でみたように、通常の意味での差別撤廃はAAに含まれないため、解消するべき「差別」としてこの章で考えられているのは、過去の差別の残存的影響、隔離、統計的差別やステレオタイプ、および構造的抑圧である。リバト゠ラスムセンは、四つのいずれについても、財の移転や厳しい反差別法制に比べてAAのほうが有効に対応できると考えている。

さらに、リバト゠ラスムセンは、AAが単独で差別軽減に資する必要はなく、「最も許容可能な差別軽減手段のセット」にAAが含まれてさえいれば差別軽減に訴えてAAを擁護できると主張する。こうして、一定の留保のもと、リバト゠ラスムセンは差別軽減説を十分に擁護可能だと考えている。

第4章:機会平等説

第4章では、機会平等を達成する手段としてのAA擁護(機会平等説)が検討される。これはおおむね次のように進む。

  1. AAは、マイノリティに属する人々がマジョリティに属する人々に比べて機会に劣り、かつこの不平等が単に選択の違いを反映しただけではない場合において、不平等の度合いを縮小する。
  2. このように不平等の度合いを縮小する手段として、AAは他の点で不正ではない。またAAより優れた手段もない。
  3. ある集団のメンバーが別の集団のメンバーに比べて機会に劣り、かつこの不平等が単に選択の違いを反映しただけではない場合には、その不平等の度合いを縮小する手段をとることが正義の観点から求められる。その手段は、他の点で不正でなく、かつそれより優れた手段がないものでなければならない。
  4. したがって、AAは正義の観点から求められる。

本章で主に検討されるのは前提3である。まず、リバト゠ラスムセンは、機会平等(equality of opportunity)についての二つの理解方法——形式的平等と実質的平等1——に言及する。通常、AAを支持する人々は、形式的平等ではなく実質的平等を支持する傾向にある。しかし、リバト゠ラスムセンによれば、何が「能力」に含まれるか(12章)によって、また機会の多寡を測ったり比較したりする方法によって、形式的機会平等でさえAAと両立する。

次に、実質的機会平等に訴えたAA擁護について、リバト゠ラスムセンは二つの仮想的反論に応答している。第一に、AAは、集団間平等に過度に注目するあまり、個人間不平等を拡大させるのではないか。これに対して、リバト゠ラスムセンは、集団間不平等があまりに大きい状況では集団間不平等の解消が個人間不平等の解消にもつながると応答する。第二に、正義が要請するのは実質的機会平等ではなく別のもの(たとえば手続き的正義や関係論的平等)なのではないか。これに対して、リバト゠ラスムセンは、手続き主義者や関係論者でさえ実質的機会平等に反対するわけではない(つまり実質的機会平等というのは広い立場である)と応答する。こうして、リバト゠ラスムセンは、機会平等に訴えたAA擁護をおおむね支持する。

第5章:ロールモデル説

第5章では、マイノリティ集団のメンバーにとってのロールモデルを確保する手段としてのAA擁護(ロールモデル説)が検討される。これはおおむね次のように進む。

  1. ロールモデルがいることによる利益をすべての人が得ることが、道徳的に望ましい。
  2. ロールモデルがいることによる利益をすべての人が得るのは、自集団にロールモデルがいることによる利益をすべての人が得る場合であり、かつその場合に限る。
  3. 自集団にロールモデルがいることによる利益をすべての人が得るといえるのは、AAがなされる場合であり、かつその場合に限る。
  4. したがって、AAがなされることが道徳的に望ましい。

リバト゠ラスムセンによれば、ロールモデル説が擁護しているのは、AAではなく、他人のロールモデルとして振る舞えることを含む広い能力概念である。つまり、適切に拡張された能力概念を採用した上で能力主義を採用しさえすれば、ロールモデル説はAAを求めない(「能力」の拡張的理解については12章に詳しい)。こうして、ロールモデル説はそもそもAA擁護として機能しないとリバト゠ラスムセンは結論づける。

ただし、他に興味深い指摘が見られるので、それにも触れておきたい。第一に、問題なのはロールモデルがいるかいないかではなく、ロールモデルがいることの利益を享受できる程度である。たとえば、仮に大学教員が男性だけでも、女子学生がロールモデル的利益をまったく享受できないわけではない。単なる学術的先達としてのロールモデル的利益であれば、男性教員から少しは享受できるからだ。真に問題なのは、女子学生が享受できるロールモデル的利益の程度が男子学生より小さいこと、もしくは前者が何らかの閾値に満たないことだ。

第二に、前提2につき、自集団メンバーからしかロールモデル的利益を享受できないのは偏見をもつことと同じように道徳的に問題だという反論がある。リバト゠ラスムセンは次のように応答する。偏見が偏見をもつ人の心的状態にのみかかわるのに対して、人が人をロールモデル視するという現象には、ロールモデルとそれを見る人という二者の心的状態がかかわる。そのため、自集団メンバーのロールモデルを求める心理的傾向が責められるべきだとはいえない2

第6章:多様性説

第6章では、多様性を実現する手段としてのAA擁護(多様性説)が検討される。これはおおむね次のように進む。

  1. AAは、AA以外の施策に比べて、多様性をより促進する。
  2. 多様性を促進することは、(もし義務論的制約に違反しないならば)正味よいことだ。
  3. もしAAが正味よいことであれば、すべてを考慮してAAは正当化される。
  4. したがって、すべてを考慮してAAは正当化される。

リバト゠ラスムセンは、まず「多様性の促進」の明確化に取り組む。第一に、何を多様化するべきか。候補は、思想の多様性と集団の多様性である。第二に、多様性を「促進する」とはどういうことか。リバト゠ラスムセンによれば、単純な最大化ではうまくいかない。第三に、問題となる「多様性」はどの範囲で測るべきか。たとえば、すべての大学が男女比 1:1 である状態と、男子大や女子大が存在しつつ大学生全体で男女比 1:1 である状態では、ジェンダー多様性の観点からどちらが望ましいか。こうした問いへの答えによって、多様性説で擁護できるAAの形は大きく変わる。 次に、前提2に関連して、多様性は実際にどういう利益に資するのか。リバト゠ラスムセンは、AAにより多様性が促進された組織内部の活動における利益(内的利益)と、そうした組織が組織外の人々と交流するときに生じる利益(外的利益)を区別する。後者の典型例は、警察が黒人優遇AAをし、黒人警官が増え、黒人居住地域で警官が信頼されるようになることによる利益である。

その上で、リバト゠ラスムセンは多様性説が直面するジレンマを示す。まず、多様性がもたらす利益が内的利益だとしよう。このとき、もし多様性を思想の多様性として理解するなら、前提2は正しいが前提1は正しくない(AAで多様化する集団間で、思想の違いはそれほど大きくないので)。また、もし多様性を集団の多様性として理解するなら、前提1は正しいが前提2は正しくない(集団を多様化することそれ自体には何の利益もないので)。したがって、多様性がもたらす利益を内的利益として理解すると、AAの多様性説は維持できない。次に、多様性がもたらす利益が外的利益だとしよう。このとき、外的利益はAAとそれによる思想ないし集団の多様化以外の手段でも十分に実現できるため、これはAA擁護として強くない。こうして、リバト゠ラスムセンは、多様性説を有望視しない。

第7章:統合説

第7章では、スティグマや隔離を解消する手段としてのAA擁護(統合説)が検討される。これはおおむね次のように進む。

  1. いかなる集団もスティグマ化されたり主流の社会から隔離されたりしないことが、正義の観点から求められる。
  2. 統合的AA(integrative affirmative action)は、集団のスティグマ化および隔離を軽減する手段として実現可能な唯一のものである。
  3. 1–3が正しければ、統合的AAが正義の観点から求められる。
  4. したがって、統合的AAが正義の観点から求められる。

リバト゠ラスムセンによれば、統合説は、差別軽減説や機会平等説と同じように、平等主義に訴えてAAを擁護する。ただし前者と後二者は「平等」の理解を異にする。差別軽減説や機会平等説が何らかの財の分配における平等(分配的平等)に依拠するのに対して、統合説は、社会関係における平等(関係論的平等)に依拠する。

まず、リバト゠ラスムセンは、擁護可能な関係論的平等は分配的平等に崩壊するという自身の見立て(Lippert-Rasmussen 2018a)を引用する。これにより、擁護可能な統合説もまた差別軽減説や機会平等説に崩壊し、独自のAA擁護ではないとする。他方で、後者に崩壊しない統合説は理論的には可能だが擁護できるものではないと主張する。

さらに、リバト゠ラスムセンによれば、統合説の根拠はむしろAAにとって不利でありうる。統合説の前提1では、集団のスティグマ化の回避が求められる。これは、典型的には集団的不平等の解消手段として単純な財移転がふさわしくないことを論じる文脈で言われる。しかし、AAもまた受益集団メンバーに対するスティグマを生みうる。以上のことから、リバト゠ラスムセンは統合説を独自のAA擁護としては有力視しない。

第8–12章 AA批判の検討

第8章から第12章では、AAに反対する議論としてしばしば挙げられるものがそれぞれ検討される。大雑把に言えば、リバト゠ラスムセンは五つすべてを棄却している。

第8章:逆差別批判

第8章では、AAはそれ自体で差別にあたるという批判(逆差別批判)が検討される。これはおおむね次のように進む。

  1. AAは差別(社会的集団の帰属を理由とした不利益異別処遇)である。
  2. 差別は不正である。
  3. したがって、AAは不正である。

まず、差別の倫理学におけるテクニカルな「差別」の意味を確認する(Lippert-Rasmussen 2013)。これはおおむね「社会的集団の帰属が事実上の理由となっている不利益異別処遇」である。重要なことは、このテクニカルな意味での差別が、それ自体では不正だとは限らない——特に、すべてを考慮して不正だとは限らない——ということだ。

その上で、リバト゠ラスムセンは、逆差別批判は単純に多義性誤謬を犯しているとする。もし「差別」が上述のテクニカルな意味で使われているとすれば、たしかに前提1は正しいけれども、前提2は必ずしも正しくない。他方で、もし前提2が必ず正しいとすると、「差別」は、より日常的な意味、つまり不正であることを含意する意味で使われていることになる。このとき、前提1は端的に論点先取になる。これが論点先取にならないためには、つまり「差別」を不正な異別処遇として理解した上でAAがそれにあたると示すには、第9章以後のAA批判の成功が求められる。

実際の議論はもう少し混み入っているが、骨子は上の通りである。こうして、リバト゠ラスムセンは逆差別批判を退ける。

第9章:スティグマ批判

第9章では、AAは受益者をスティグマ化するという批判(スティグマ批判)が検討される。これはおおむね次のように進む。

  1. AAは、受益者集団をスティグマ化する。
  2. ある集団をスティグマ化するものに反対する重大な道徳的理由がある。
  3. したがって、AAに反対する重大な道徳的理由がある。

前提1は、より身近な言い方をすれば、AAで採用されたマイノリティ集団メンバーが「AAのおかげで採用されただけの能力の低い人」として見られてしまうということだ。

リバト゠ラスムセンは、ここでも多義性誤謬を指摘する。前提1で問題になるスティグマはAAの直接的受益者——たとえば、AAにより大学に受かったマイノリティ学生——に対するものであるが、前提2で問題になるスティグマは、より広く集団メンバー全体に対するものである。そして、道徳的に問題になるのは第一義的には後者だ(それどころか、AAの直接的受益者は往々にしてマイノリティ内では相対的に恵まれた人々であるため、AAの直接的受益者でない「その他大勢」のマイノリティメンバーに対するスティグマのほうがより重要だ)とリバト゠ラスムセンは論じる。

こうして、リバト゠ラスムセンによれば、スティグマ批判が成功するためには、AAは直接的受益者ではなく受益集団のメンバー全体をスティグマ化するのでなければならない。そしてこれは誤っている。リバト゠ラスムセンは、いくつかの経験的研究に言及しながら、AAによって特定の場でマイノリティ集団メンバーのプレゼンスが高まれば、その集団に対するスティグマは軽減されていくと主張している。以上のことから、リバト゠ラスムセンは、スティグマの考慮はむしろAAを支持すると結論づける。

第10章:ミスマッチ批判

第10章では、AAの受益者や負担者は真に受益・負担するべき人々とは異なるという批判(ミスマッチ批判)が検討される。これはおおむね次のように進む。

  1. AAが正当化されるのは、次の場合に限る。(a)AAから利益を受ける者が、利益を受ける権原をもつ程度に応じて利益を受けており、かつ、(b)AAから不利益を受ける者が、権原のない利益を受けている程度に応じて不利益を受けている。
  2. AAは(a)も(b)も満たさない。
  3. したがって、AAは正当化されない。

リバト゠ラスムセンは、まず、ミスマッチ批判がAAに対する二階の批判であることを指摘する。つまり、ミスマッチ批判は、他の論拠(たとえば機会平等)によってAAが擁護されることを認めた上で、その論拠に照らして適切な受益者・負担者がそれぞれ実際の受益者・負担者に一致しないことを問題視している。本書では、裕福な上流階級女性が女性優遇AAの恩恵を受ける一方で、貧しい男性がそのコストを負担するという状況が一例として挙げられる。

ミスマッチ批判に対して、リバト゠ラスムセンは、前提2をおおむね認めた上で前提1を否定する。ただし、前提2には「そうでないAAもある」と留保している(たとえば出口ベースAAはミスマッチの度合いを小さくする)。その上で、前提1は規範的要求として強すぎると論じている。他の施策であれば、その施策にかかっている利益の大きさによっては、たとえ多少のミスマッチがあってもすべてを考慮して正当化されうる。これと同じことがAAにもいえるとリバト゠ラスムセンは考えている。

次に、リバト゠ラスムセンは、以下の改訂版ミスマッチ批判を検討する。

  1. AAが正当化されるのは、次の場合に限る。(1)最善の代替案と比べて、(a*)AAから利益を受ける者が、利益を受ける権原をもつ程度に応じて利益を受ける度合いが大きく、かつ、(b*)AAから不利益を受ける者が、権原のない利益を受けている程度に応じて不利益を受ける度合いが大きい。または、(2)もし(a*)か(b*)の一方が満たされない場合には、一方が満たされる度合いが、他方が満たされない度合いを凌駕する。
  2. AAは(a*)も(b*)も満たさない。
  3. したがって、AAは正当化されない。

改訂版ミスマッチ批判については、リバト゠ラスムセンは前提1*を認める代わりに前提2*が誤りだという。つまり、たしかにAAはミスマッチを伴うものの、レリヴァントな代替案に比べればその程度は小さいというのである。また、個別のAA施策にはミスマッチの大きなものがありうるが、通常はその場合の「よりよい代替案」とは別のAA施策である——リバト゠ラスムセンはこう結論づける。

第11章:公知性批判

第11章で検討される批判は、AAの実施者がしばしばAAの実施を公言しない——典型的には、単に能力による選抜をしているだけだという建前をとる——ことに関連する。一部のAA批判者は、こうした傾向を、AAは隠してこそ有効に機能するということの証左だと考える。たとえば、AAの実施を公言すると、AAで選ばれた人には「AAで選ばれた」という評価がつきまといロールモデルとしての役割を果たせなくなるのかもしれないし、受益集団のメンバーに対して負のインセンティブを与えるのかもしれない。

他方で、公的機関の施策が公知(public)でなければならないのは、リベラリズムの大原則ではなかったか。そうだとすると、有効に機能するAAはすべてリベラリズムの大原則に違反しているのではないか。これが公知性批判の背景的モチベーションである。これはおおむね次のように進む。

  1. AAが正当化されるのは、そのAAがリベラルな公知性の制約に違反することなく目標を達成する合理的可能性がある場合に限る。
  2. 目標を達成する合理的可能性があるAAは、必ずリベラルな公知性の制約に違反する。
  3. したがって、AAは正当化されない。

リバト゠ラスムセンの最も簡単な応答は、「公知でも有効なAAがある」だ。これは前提2の否定にあたる。

次に、公知性を重視するリベラリズムの議論(カントの議論、ロールズの議論、およびA・ウィリアムズとG・A・コーエンの論争)を参照して、前提1が批判的に検討される。リバト゠ラスムセンは次のように主張する。公知性が求められるのは社会の基本構造であって、個々の具体的施策ではない。実際に、個人情報を扱う業務や防衛・防諜は、非公知だという理由で直ちにリベラルな正義に違反するわけではない。AAをこれらと同じように考えることができる。

さらに、リバト゠ラスムセンによれば、求められる公知性の程度によっては、通常のAA施策でさえ十分に公知である。仮に、マイノリティの点数を底上げするAAを考えよう。どの大学がどの集団に厳密に何点の底上げをしているかが公知でなくとも、国全体でおおむねどの程度の大学がAAをしており、おおむね何点を取れば問答無用で合格するか(おおむね何点を下回れば問答無用で落ちるか)がわかれば、公知だといえる。

もちろん、リバト゠ラスムセンは、公知性がまったく問題でないとは言わない。上記の議論から得られるのは、「公知性に訴えることですべてのAAが一切正当化不能になる」の否定にすぎない。

第12章:能力主義批判

第12章では、AAは能力主義に違反するという批判(能力主義批判)が検討される。これはおおむね次のように進む。

  1. AAは、能力の高い候補者よりも能力の低い候補者を選ぶというケースを、実現可能な代替的施策に比べてより多く伴うことが常に予測される。
  2. 能力の高い候補者には、能力の低いどの候補者でもなく自らが選ばれることに対する権原(entitlement)がある。
  3. もし、ある施策が、能力の高い候補者よりも能力の低い候補者を選ぶというケースを、実現可能な代替的施策に比べてより多く伴うことが常に予測されるならば、その施策は、能力の高い候補者の権原を侵害する。
  4. したがって、AAは、能力の高い候補者の権原を侵害することが常に予測される。
  5. 一部の人々の権原の侵害が常に予測される施策は、不正である。
  6. したがって、AAは不正である。

リバト゠ラスムセンは、まず前提2を否定する。とりわけ、この種の議論ではしばしば「応募者の合理的予測」に背かない選抜方針を採るべきだという主張がなされるのに対して、リバト゠ラスムセンはこれを退ける。AAがあることを応募者が合理的に予測するという状況が想定可能だからである。

次に、「能力」の拡張的理解を通して、リバト゠ラスムセンは前提1を否定する。重要なのは、能力は一般にポスト設定者の目的に依存して決まるということだ。もし、大学が教授を募集するにあたって、学術研究と教育に加えて学内のジェンダー不平等の解消をも掲げるならば、そのポストにとってレリヴァントな「能力」には最後の要素が含まれる。典型的には、女子学生のロールモデルとして振る舞えるかどうかが応募者の能力にカウントされる。これにより、実は多くのAAは能力主義に反しないことが示される。

さらに、リバト゠ラスムセンによれば、通常の能力概念に照らしてさえAAは能力主義に反しないかもしれない。これは、AAの有無が応募者の行動に影響するという予測による。第一に、AAは、たしかに受益集団メンバーに「どうせ採用される」ということで能力向上への負のインセンティブを生みうる。しかし同時に、非受益集団メンバーには「採用されるには一層高い能力が求められる」ということで能力向上への正のインセンティブを生みうる。第二に、AAは、たしかに非受益集団メンバーに「どうせ採用されない」ということで能力向上への負のインセンティブを生みうる。しかし同時に、受益集団メンバーのうち能力の高い人々には「競争相手が減るので応募してみよう」ということで応募への正のインセンティブを生みうる。こうして、リバト゠ラスムセンは、AAの有無によって「能力の高い候補者」が誰であるかが変わりうると指摘する。これを踏まえて、能力主義とAAの関係を一層複雑にする問題が思考実験の形で示され、本書の議論が締め括られる。

コメント

冒頭にも書いたように、本書の魅力は、既存の議論を手広くカバーし、厳密な形で再構成し、批判的に検討したことにある。特に、各種議論の規範的前提と経験的前提をはっきり示したり、退ける場合にはどの前提が誤っているのかを明示したりすることは、AAについては意外なほどなされてこなかった。この点で、本書は議論のリファレンスとしての意義が高く評価される(Meshelski 2021, 786)。

もしかすると、既にAAを倫理学・政治哲学の観点から論じてきた人々にとっては、本書は必ずしも目新しい議論を提供しないかもしれない。それでも、議論が厳密・明晰なものへと再構成され、従来あまり注目されなかった論点に光が当たる点で、そうした人々にとっても本書から得るものは大きいだろう。また、AAを政治哲学・倫理学の主題としてこれほど深く考えたことがなかった人々にとって本書の意義が大きいことは言うまでもない。

その上で、以下では本書の議論に対していくつか批判的コメントをしたい。

論点1:藁人形の疑い

第一に、第1章でリバト゠ラスムセンは「AAは正当化されるか」という問いがあまりに一般的すぎることを指摘している。より丁寧に言えば、AAそのものを擁護/批判すること、あるAA形態を擁護/批判すること、および特定のAA施策を擁護/批判することを区別せよと主張している(MSAA, 23–24)。これ自体は極めて適切な主張だろう。しかし、これが本書で徹底されているかどうかは明らかでない。典型的には、第9章から第12章にかけて、AA批判に対して「そうでないAA施策もある」という応答が目立つ。この応答は、AAそのものへの批判として各批判を理解する場合には有効だが、特定のAA形態への批判や、もっと具体的な特定のAA施策への批判として理解する場合には有効でない。この点で、AA批判に対する応答には藁人形的な側面がある(もちろん、各章でリバト゠ラスムセンは他にも論拠を示しているため、この指摘で各章の議論が全面的に説得力を失うわけではない)。さらに、AA擁護論に対して「そうでないAA施策もある」を可能的反論としてほとんど挙げないことと比べると、この種の応答をAA批判に対してだけ向けるのはアンフェアかもしれない。

もしかすると、哲学におけるAAの議論がAA批判を中心としているとの見立てにより、本書では擁護に力点を置いたのかもしれない。そうであれば、そのことは明示されるべきだろう。

なお、上の問題は、各章でのリバト゠ラスムセンの議論を程度問題として読み替えればおおむね解消される。たとえば、公知性批判は「あるAA施策が非公知であるとき、その分だけ(pro tanto)そのAA施策は不正である」と再解釈できる。これは、ある種のAA施策が公知である——したがってこの不正さをもたない——ことと矛盾しない。リバト゠ラスムセン自身も、部分的にこの理解を採用している。たとえば、他の条件が等しければミスマッチが少ないAAほど望ましく(MSAA, 209)、他の条件が等しければ公知のAAは非公知のAAより望ましい(MSAA, 229)。同様のことはAA擁護についても言える。差別軽減説や機会平等説は、そもそも具体的なAA施策がもたらす効果についての経験的前提を留保して擁護された。つまり、そうした望ましい効果を現に欠いたAA施策は、こうした観点では擁護されないことになる。

論点2:トレードオフ

第二の批判的コメントは、章を跨いだ整合性にかかわる。第12章の最後で提案されるAAの行動変容効果を思い出してほしい。この効果は、非公知AA(応募者に知られずになされるAA)では原理的に生じない。そうであれば、非公知のAA施策は、第11章の議論により擁護されるけれども、第12章で言及される望ましい効果を欠く。

これは次のような一般的懸念につながる。本書で挙げられるAA擁護には、互いに両立不可能なものがあるのではないか。そうだとすれば、ある場面で最も望ましいAA施策をどの規準で——もしくはどれとどれのバランスで——決めたらよいのか。

この論点は、本書の欠陥というよりは、本書の議論を用いて今後発展させるべき論点だろう。そもそも、もし本書が先述したようにAA擁護に力点をおくなら、最も望ましいAA施策の決定は本書の目的にとってあまり重要でない。とはいえ、この論点は本書を読んで活用する上では気にするべき論点だろう。

論点3:逆差別批判の明確化

第三に、逆差別批判への応答(第8章)をみよう。既に、差別の倫理学で使われるテクニカルな「差別」——社会的集団の帰属を事実上の理由とした不利益異別処遇——が不正性を含意しないと述べた。当然、ここから言えるのは「AAはテクニカルに差別だが、それだけを理由として不正だとはいえない」にすぎず、AAが不正でないと主張するためにはさらなる議論を要する。そこで、リバト゠ラスムセンは、差別を不正にする要素をいかにAAが欠いているか——いかにAAが「テクニカルには差別だが不正でない」か——を詳しく論じている(MSAA, 167–70)。

ここでリバト゠ラスムセンが挙げる議論は、差別の倫理学における典型的議論である。この分野の中心的問題の一つに「何が差別を不正にするのか」があり、その最も典型的な課題は、通常の差別とAA——露骨に言えば逆差別——との不正さの違いを適切に説明できる理論の提案である(Hellman 2008, 80; Lippert-Rasmussen 2013, 168)。たとえば、「性別や人権を使った差別が不正なのは、先天的属性を使った異別処遇だからだ」というありふれた見方が近年の規範倫理学者にほぼ支持されないのは、AAもまた先天的属性を使った異別処遇であり、この見方では通常の差別とAAの違いを説明できないからだ。

重要なことは、通常の差別とAAの間にある不正さの違いは、差別の倫理学においてはおおむね前提であって論証結果ではないということだ。通常の差別とAAの規範的差異が正当化できないと言いたいわけではない。その正当化を差別の倫理学から得るのは論点先取のおそれがあるということだ。

したがって、私が思うに、AAの擁護は第3章(差別解消説)や第4章(機会平等説)にはっきりと譲ってしまうのがよい。第8章の議論は、こうしてある種のAAが擁護可能であるという前提のもとで理解するのがよく、第8章の仕事は、「AAは差別だから不正だ」という主張に伴う多義性の指摘にとどまるべきだろう。

論点4:ミスマッチ批判の敷衍

最後に、ミスマッチ批判(第10章)に対するリバト゠ラスムセンの応答に目を向けたい。応答の骨子は次の通りである。まず、一般に、ミスマッチが少しでもある施策は一切正当化されないというのは正しくない。次に、たしかにあまりに大きなミスマッチを伴うAA施策は現にあるが、それより望ましい代替施策は往々にして別のAA施策である。したがって、ミスマッチ批判はAAそのものに対する強力な批判ではない。

実際には、リバト゠ラスムセンはもう一つ別の応答をしている。改めて、ミスマッチ批判が想定する典型的状況——裕福な上流階級女性が女性優遇AAの恩恵を受ける一方で貧しい男性がそのコストを負担するという状況——を思い出そう。リバト゠ラスムセンは、こういう状況では貧困者優遇AAをさらにすればよいと応答する(MSAA, 200)。

これは他の社会的集団にも応用可能であり、また集団間不平等を生む属性はジェンダーと人種だけではないという極めて常識的な考えを反映する。たとえば、もしAAをジェンダーについてだけおこなえば、異性愛者で都市出身で障害のない裕福な白人女性が利益を享受し、同性愛者で地方出身で障害のある貧しい黒人男性がそのコストを負担することになる。これは道徳的に大問題だろう(いわゆる「弱者男性」問題の中核にはこの直観があると思われる)。しかし、もしジェンダーだけでなく他の社会的属性についてもAAをおこなえば、この問題はかなり解決される。先の白人女性は、ジェンダーにつき社会的に不利である分だけAA受益者であると同時に、他の点で社会的に有利である分だけAA負担者であり、正味で負担者となるだろう。同様に、先の黒人男性は、ジェンダーにつき社会的に有利である分のAA負担者であると同時に、他の点で社会的に不利である分だけAA受益者であり、正味で受益者になるだろう。こうしたAAセットを我々の規範的直観は支持するだろう。そうであれば、ミスマッチの真の原因は、ジェンダーAAをすることではなく、ジェンダーAAしかしないこと——つまり「ジェンダーAAをしつつ他のAAをしない」という施策セット——である。

当然、不利益を生む属性のすべてについてAAをするのは、実現可能性に乏しい。しかし、理論上、AAに使う社会的属性の数を増やせば増やすほどミスマッチ批判は問題にならなくなっていく。そして、究極的には、ミスマッチを一切含まないAA施策セットが得られる。これが、リバト゠ラスムセンの「もう一つの応答」の含意であろう。

問題は、この極限的AA施策セットが、AAで実現しようとするもの(機会平等など)を個人間で実現することと実質的に変わらないということだ。このとき、典型的な集団単位のAA施策は、個人間で機会平等を実現するための現実的妥協の産物だということになる。しかし、これは女性や黒人といった集団をそれ自体として優遇するというAAの一般的イメージとは大きく異なる。これで果たしてAAを擁護したことになるだろうか。

それでよいのかもしれない。繰り返すように、本書は、AA施策に擁護可能性が僅かでもあると示せれば十分であるかのように書かれている。つまり、妥協の産物であれ何であれ、ある種のAA施策が許容可能だと言えればよいのであって、通常考えられる集団的施策としてAAを積極的に擁護することは本書の関心ではないのかもしれない(リバト゠ラスムセンは本書で道徳的個人主義——道徳的にレリヴァントなのは究極的には個人であって集団ではないとする立場——に肩入れしている[MSAA, 45])。そうであれば、本書の結論はせいぜい「究極的に重要なのは個人間平等だが、ラフな施策であるAAも実現可能性に鑑みて許容可能でありうる」程度として読むべきだろう。

文献案内

まず、本書の書評が Ethicsで発表されている(Meshelski 2021)。この書評は本書の手頃な要約として使える。

AAは、英語圏では1970年代頃から AnalysisPhilosophy and Public Affairs といったトップジャーナルで論争が展開されてきた。これらは Cahn (2002) にまとめられている。時代こそ古いが、特に日本国内では十分に論じられていない論点を多く含んでおり、必読である。概説としては、先述のSEP記事(Fullinwider 2014)や Beauchamp (2013) が参考になる。そのほか、AAを中心的に扱った哲学的文献として Cohen & Sterba (2003), Sabbagh (2007), Sterba (2009) がある。

本書で取り上げられる個々の論点については、重要文献だけでも膨大な数になるので、実際に本書をめくって文献を探してほしい。AAを一定程度論じている文献として、たとえば Young (1990, ch. 7), Dworkin (2000, chs. 11–12), Anderson (2010, ch. 7) が知られる。日本語文献では森(2019, 291–307)が挙げられる。一般に、AAは平等主義的正義論の応用として言及されることが多い。平等論の重要文献もまた膨大にあるため割愛する。

最後に、AAと関連の深い差別についての文献を紹介する。差別については、ここ十数年で基礎文献が整い、日本でも議論され始めている。概説は Hellman (2012), Lippert-Rasmussen (2018b), Altman (2020), 池田・堀田(2021)をみよ。近年の主要著作には Hellman (2008), Lippert-Rasmussen (2013), Hellman & Moreau (2014); Eidelson (2015), Khaitan (2015), Moreau (2020) などがあり、特にヘルマンの著作には読みやすい邦訳が出ている。日本語文献には堀田(2014)、堀田(2016)、石田(2019)などがある。

1詳細はリバト゠ラスムセンによる定義(MSAA, 77–78)を参照されたい。ここでは大雑把に次のように考える。形式的機会平等は、ある地位に応募した二者が、応募した時点での能力以外の理由で異別処遇されない場合に満たされる。実質的機会平等は、ある地位に応募した二者が、(応募した時点での実際の能力ではなく)もし生来の才能とその後の努力が等しかったならば獲得していたであろう能力——要するに、この世に不正義がなかったならば獲得できていたはずの能力——以外の理由で異別処遇されない場合に満たされる。

2こうである根拠についての説明が本書にはやや不足していると書評者は考える。この点は、12章における「能力」の拡張にも関連するため、些末ではない。

参考文献

  • Altman, Andrew. 2020. ‘Discrimination’. The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Winter 2020 edition), edited by Edward N. Zalta. https://plato.stanford.edu/archives/win2020/entries/discrimination/
  • Anderson, Elizabeth. 2010. The Imperative of Integration. Princeton University Press.
  • Beauchamp, Tom L. 2013. ‘Affirmative Action’. The International Encyclopedia of Ethics, edited by Hugh LaFollette, 109–121. Blackwell.
  • Cahn, Steven M. ed. 2002. The Affirmative Action Debate, 2nd ed. Routledge.
  • Cohen, Carl, and James P. Sterba. 2003. Affirmative Action and Racial Preference: A Debate. Oxford University Press.
  • Dworkin, Ronald. 2000. Sovereign Virtue: The Theory and Practice of Equality. Harvard University Press. 小林公、大江洋、高橋秀治、高橋文彦訳(2002)『平等とは何か』木鐸社。
  • Eidelson, Benjamin. 2015, Discrimination and Disrespect. Oxford University Press.
  • Fullinwider, Robert. 2014. ‘Affirmative Action’. The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Winter 2014 edition), edited by Edward N. Zalta. https://plato.stanford.edu/archives/win2014/entries/affirmative-action/
  • Hellman, Deborah. 2008. When Is Discrimination Wrong? Harvard University Press. 池田喬、堀田義太郎訳(2018)『差別はいつ悪質になるのか』法政大学出版局。
  • ———. 2012. ‘Discrimination, Concept of”. In Encyclopedia of Applied Ethics, 2nd ed., edited by Ruth Chadwick, 833–41. Academic Press.
  • Hellman, Deborah, and Sophia Moreau. 2014. Philosophical Foundations of Discrimination Law. Oxford University Press.
  • Khaitan, Tarunabh. 2015. A Theory of Discrimination Law. Oxford University Press.
  • Lippert-Rasmussen, Kasper. 2013. Born Free and Equal? A Philosophical Inquiry into the Nature of Discrimination. Oxford University Press.
  • ———. 2018a. Relational Egalitarianism. Cambridge University Press.
  • ——— ed. 2018b. The Routledge Handbook of the Ethics of Discrimination. Routledge.
  • ———. 2020. Making Sense of Affirmative Action. Oxford University Press.
  • Meshelski, Kristina. 2021. Review of Making Sense of Affirmative Action by Kasper Lippert-Rasmussen. Ethics 131 (4): 786–90.
  • Moreau, Sophia. 2020. Faces of Inequality: A Theory of Wrongful Discrimination. Oxford University Press.
  • Sabbagh, Daniel. 2007. Equality and Transparency: A Strategic Perspective on Affirmative Action in American Law. Palgrave Macmillan.
  • Sterba, James P. 2009. Affirmative Action for the Future. Cornell University Press.
  • Young, Iris M. 1990. Justice and the Politics of Difference. Princeton University Press. 飯田文雄、茢田真司、田村哲樹監訳(2020)『正義と差異の政治』法政大学出版局。
  • 池田喬、堀田義太郎(2021)『差別の哲学入門』アルパカ。
  • 石田柊(2019)「差別と危害——帰結主義的差別論の擁護」『社会と倫理』34号:73–84ページ。
  • 堀田義太郎(2014)「差別の規範理論——差別の悪の根拠に関する検討」『社会と倫理』29号:93–109ページ。
  • ———(2016)「何が差別を悪くするのか——不利益説の批判的検討」『倫理学年報』65号:279–92ページ。
  • 森悠一郎(2019)『関係の対等性と平等』弘文堂。

謝辞

井上彰・片岡雅知・濵本鴻志・宮本雅也(五十音順)の各氏は、原稿に丁寧かつ生産的なコメントをくれた。心から感謝する。ただし、言うまでもなく、この記事の内容の誤りの責任は筆者(石田)のみにある。

出版元公式ウェブサイト

Oxford University Press

https://global.oup.com/academic/product/making-sense-of-affirmative-action-9780190648787

評者情報

石田 柊(いしだ しゅう)

現在、大阪大学社会技術共創研究センター特任研究員。研究分野(AoC)は現代の規範倫理学・応用倫理学・価値論で、専門(AoS)は福利論・差別の哲学・障害の哲学である。主な業績に 'What Makes Discrimination Morally Wrong? A Harm-Based View Reconsidered’, Theoria 87, no. 2 (2021) がある。

researchmap:https://researchmap.jp/shuishida/