Tokyo Academic Review of Booksonline journal / powered by Yamanami Books / ISSN:2435-5712

2022年2月18日

Concetta Luna, Trois études sur la tradition des commentaires anciens à la Métaphysique d’Aristote

Brill, 2001年

評者:西岡 千尋

Tokyo Academic Review of Books, vol.43 (2022); https://doi.org/10.52509/tarb0043

はじめに

Concetta Luna(ピサ高等師範学校)による『アリストテレス『形而上学』への古註伝承に関する三つの研究論文』は、『形而上学』そのものではなく、これについて書かれた古代の注釈(古註)を対象とする研究書である。分野としてはアリストテレス哲学、新プラトン主義哲学、古典文献学を横断しているため、前提とされる知識も少なくない。だがその一方で、哲学の古典を読むという今日の営みにも、示唆するところがあると思われる。一つの古典に対する解釈がいかに伝承され、いかに変容を蒙るのかという、普遍的な問いに触れているからである。20年前に出版された本ではあるが、本邦だけでなく、世界的にまだ十分に浸透しているとは言えない。なるべく専門用語を用いずに、本書の魅力を伝えたい。

哲学分野に限らず、古代の有力な作家の場合には、「その本について古代に書かれた註解」(古註:ancient commentary)という資料が介在する。それはテキスト(一次資料)だけでなく、論文や研究書(二次資料)とも、辞書や文法書のような語学的ツールとも異なる、独自の身分をもつ。古註が二次資料と違うのは、ただ時代が古く、テキストに近い言語で書かれているというだけではない。例えば古註には、本文の異伝に関する情報が含まれる。古代の本文は一般的に中世の写本から「復元」されるが、ふつう古註はそれらの写本より早期に書かれたと想定される。そのため、現代の校訂者がテキストを確定するさい、古註の証言を重視する場合がある。また、数世紀にわたる伝承過程を通じて、古註が写本のテキストに影響を及ぼすことがある。というのは、古代から中世の写字生は、必ずしも機械的に文字を写しただけでなく、略号などが判読しにくい場合や純粋に内容が難しい場合に、権威のある古註を参照して「より優れている」(と見なされた)字句に改める場合があったからである。このような変更は、とくに本文と一緒に註解が書き込まれているタイプの写本で起こりやすい。

いつもではないにせよ、古註はわれわれが依拠するテキストとより密接な関係にある。それゆえ一次文献とも二次文献とも区別された、中間的位置を占めることになる。では古註は、一次資料を再構成し、歴史的な情報を補うために有用な、補助的資料の一つと考えればよいだろうか。それだけではない。もっと奥深く、それ自体で十分に興味深い研究対象なのである。

『形而上学』のギリシア語古註

本書の内容を紹介する前に、問題となっている古註を一覧しておきたい。『形而上学』についてギリシア語で書かれた古註は、断片や証言を含めて十数点が確認されており、書かれた時期も後1Cから15Cに散らばっている。とはいえ、まとまった分量が残されているものは、おおむね以下のものに限られる。(Luna自身のほかの記事1をもとに筆者が整理したものであることを断っておく。括弧内のギリシア語アルファベットは、註解が伝えられている巻の範囲を示す)。

  • アフロディシアスのアレクサンドロスによる註解(A-Δ)
  • テミスティオスによる註解(パラフレーズ2)(Λ)
  • シュリアノスによる註解(Β, Γ, ΜΝ)
  • トラレスのアスクレピオスによる註解(師アンモニオスの講義の覚書)(A-Z)
  • 擬アレクサンドロス(エフェソスのミカエル3)による註解(E (Z) -N4)
  • 擬ピロポノス(ゲオルギオス・パキュメレス)による註解(A-N:未編集)
  • ヘレンニオスに帰される註解(先行の註解作品などを複合させた偽書)

まず確認したいのは、古註の多様性である。どれも『形而上学』という同じ作品に付けられた注釈であるが、時代や著者だけでなく、学問的立場や執筆目的、釈義形式などの点で相違する。最も古い註を著したアフロディシアスのアレクサンドロスは紀元後のアリストテレス学派を代表する人物であるが、シュリアノスやアスクレピオス(ないしアスクレピオスの師アンモニオス)は新プラトン主義者である。また、ミカエルやパキュメレスは中世ビザンツの知識人であり、古代の異教世界の哲学者とは一線を画している。形式面について言えば、本文を引用しながら逐語的に説明するものと、本文をパラフレーズするものとで大きく分かれる。原著者や本文の内容に対する態度も、忠実に支持する立場からから批判を辞さない立場まで振れ幅がある。

もう一つは、古註同士の関係性である。これらの註解はばらばらに成立した、孤立した作品の束ではない。後に書かれた註解は、利用可能な場合は先行する註解を参照していた。逆に、先人の注釈を踏まえているがゆえに分かりにくい文面になっていたり、先行作品が散逸してしまったという事情が、かえって後代人の仕事を促したりすることもある。註解者はすでに存在する、あるいは存在が確認されている註解を意識することによって、良くも悪くも制約されているのである。また、註解者はアリストテレスの本文だけではなく、既存の解釈を取り上げて議論することもある。

しかしそのような前後・影響関係の内実は、きわめて曖昧模糊としている。情報に空白が多いため、分からないことの方が多いと言ってよい。ここに紹介するLunaの研究は、以上のうち四つの古註(アレクサンドロス、シュリアノス、擬アレクサンドロス、アスクレピオス)を対象として、各註解の特徴を踏まえながら、それらの関係性を解き明かす試みである。この主題は単に伝承史・解釈史の側面から見て重要というだけではない。冒頭で述べた理由から、アリストテレスの本文確定、少なくともその判断材料を左右するのである。当然ながら、誰がいつ、何に依拠して書いたかによって、歴史的証言の信憑性は大きく変わるからである。また、『形而上学』は内容的に難解な箇所や、アリストテレスの書き方があまり親切ではなく、省略的である場合も多い。そのようなときは現代でもしばしば古註が参照されるため、間接的には本文の解釈にも影響を与えうる。前置きはこのくらいにして、『三論文』の内容を簡潔にまとめたい。

研究論文 I:「『形而上学』についてのシュリアノスと擬アレクサンドロスの註解——解明の試み5

『形而上学』MN巻の範囲では、シュリアノスの註解と擬アレクサンドロスの註解の間に多くの並行記事(内容の字句レベルでの重複)が認められる。並行箇所があまりに多いため、別の共通の資料があった可能性は考えにくい。よって両註解の重複を説明する可能性は、シュリアノスが擬アレクサンドロスの註を参照したか、逆に擬アレクサンドロスがシュリアノスの註を参照したかのいずれかに絞られる。この二つの選択肢をめぐって、研究者たちは長い間論争を続けてきた。「研究論文 I」におけるLunaの狙いは、後者の立場から論争に決着をつけることである。現在の学界におけるLuna説の受容や批判については改めて触れる。

Lunaはこの問題を、五つの節に分けて総合的に検討される。一節では並行記事の実例から、擬アレクサンドロスがシュリアノスを参照したと見なすべき根拠を提示する。おそらくシュリアノスからの孫引きによって引用元と文脈が噛み合っていないこと、シュリアノスの文章を不器用にコラージュしていること、シュリアノスの記述を基にして、しばしば脚注的な説明を行っていることの三点が検討される。本節がLunaの仮説を前向きに検証しているのに対して、二節と三節では、論敵の想定(二つの選択肢の前者の立場)に立ったうえで、それを帰謬的に批判する手法が採られる。

二節で検討されるのは、擬アレクサンドロスの注釈に新プラトン主義の用語が散見される問題である。そのなかには、シュリアノス以後の新プラトン主義者において初めて確認される語彙も含まれている。したがって、もし擬アレクサンドロスの註解が早期に書かれて、シュリアノスがそれを参照したのだとすれば、擬アレクサンドロスが新プラトン主義的色彩の濃い概念を最初に造り出した、あるいは使った人物ということになる。そのような人物がおり、かつその者が、(擬アレクサンドロスの註解から伺えるように)アリストテレスに忠実な註解者だったという事実は考えにくい。三節では、シュリアノスと擬アレクサンドロスの両人がE-N巻の範囲における真正アレクサンドロス(アフロディシアスのアレクサンドロス)の失われた註解を利用できたか否かが検討される。Lunaは本節において、L. Taránの「両人とも利用できなかった」という説、および「シュリアノスは擬アレクサンドロスの註解を真正の註解と取り違えて引用した」という説を批判し、シュリアノスが失われた部分も含めて、全体にわたって真正アレクサンドロスの註解を利用できた可能性を確保している。

四節において、Lunaはいよいよ擬アレクサンドロスを12世紀のエフェソスのミカエルに同定する。そのための主要な根拠は、エフェソスのミカエルに帰される他のアリストテレス著作への註解や、そこに共通して見いだされる文体上の特徴である。最後に五節では、擬アレクサンドロスが真正アレクサンドロスの『形而上学註解』を模した意図が問題とされる。Lunaはここでも「擬アレクサンドロスは偽作者(un faussaire)」であったとするTaránの説を批判して、すでに失われた部分のアレクサンドロスの註解を補完する作業が行われたと見なす。偽作説の根拠である「四つの虚偽の自己言及6」(quatre “fausses” auto-références)は、先人の註解を無記名のまま広範囲にわたって引用するという、註解者としてのミカエルの手法に基づくと推測する。

研究論文Iは、全体において「シュリアノスが擬アレクサンドロスの註を参照した」(前者の選択肢)と想定するTaránを論敵としている。どちらの仮説をとるかによって擬アレクサンドロスの立ち位置が大きく動き、時代も、人物像も、註解を書いた意図も、シュリアノスとの関係もまるで変ってきてしまう。このような困難な問題に対して、Lunaは多くのテキスト上の根拠を挙げながら、「擬アレクサンドロスが後からシュリアノスを利用した」と考える方が自然であり、また逆の仮定に立つことで、多くの不可解さが帰結すると論じる。一節と三節、四節で見られる並行記事の逐語的な比較作業や、ミカエルの語法(文体の癖)の調査は徹底的であり、圧巻の説得力をもつ。逆に二節や五節の論点は比較的あっさりとまとめられており、新たな根拠を出すというよりも、Luna説に立つ場合の見通しが語られているように見える。

研究論文 II:「シュリアノスの註解の資料としての アフロディシアスのアレクサンドロスの註解7

シュリアノスと真正のアレクサンドロス註解の関係を扱う二つ目の論文は、30頁に満たない短い論考である。すでに研究論文Iにおいて、Lunaは「擬アレクサンドロスがシュリアノスに依拠している」のであって、その逆ではないと結論した。その論拠の一つが、論文Iの三節で吟味された真正アレクサンドロスの註解の利用可能性であった。そのポイントは、擬アレクサンドロスは失われた真正アレクサンドロスの註解(E-N巻)を参照できなかったが、シュリアノスに関してはその限りではない、ということである。研究論文IIではこの点を掘り下げ、シュリアノスが真正のアレクサンドロスを参照できたのだとしたら、実際のところ、どのように参照していたのかを問う。

B, Γ, Μ, Νの四巻についてのみ残されたシュリアノスの註解には、明示的にアレクサンドロスに言及する十七の引用が含まれる。それらの引用は、アレクサンドロスを批判する少数の例外を除いて、釈義上の厳密な問題に関わる。アリストテレス本文の字義的な、一語一句の注釈としてアレクサンドロスの仕事は高く評価されており、シュリアノスはこの意味ではアレクサンドロスの註解を積極的に受容し、あえて屋上屋を架そうとはしなかった。

しかし、シュリアノスがアレクサンドロスから負っているものは、これらの明示的な言及に留まらない。明示せずにアレクサンドロスの注釈を用いている例として、Lunaは計三十四の箇所を列挙している。しかもこれらはΒ, Γ巻の範囲のみの数字であるため(現存する真正アレクサンドロスの註解がA-Δ巻までに限られるため、この二巻の範囲でしかシュリアノスの註解と比較することができない)、MN巻も合わせれば、明示的な引用よりはるかに多い借用があったということになる。

本論文におけるLunaの議論の大半は、これらの箇所の具体的な検討に割かれている。シュリアノスの古註のなかで、アレクサンドロスのもとの文章が完全な形で転写されているわけではない。しかし字句通りの部分的な反復が残されていたり、語句の補足説明や例示が借りられていたり、アレクサンドロスへの応答がなされたりした痕跡がある。そのような一連の具体例は、Lunaによれば、シュリアノスが自分の眼でアレクサンドロスの註を見ていたことの証拠である。また本文の内容だけでなく、議論構造の分析や、註解における定型表現の点でも、シュリアノスに影響を及ぼしたことが補足される。

シュリアノスは目的の点でも哲学的霊感という点でもアフロディシアスのアレクサンドロスとは異なる、独自の註解を書きくことができた。しかしそれも、アレクサンドロスによる註解が『形而上学』の構造や字義的意味という点で、シュリアノスの仕事を助けたお陰であると、Lunaは結論している。

研究論文Iではシュリアノスと比較される対象が擬アレクサンドロスであったため、擬アレクサンドロスの註解と重なるMN巻への註解が主な資料であった。これに対して研究論文IIでは、むしろΒ, Γ巻への註解が検討材料となっている。この意味では、以上の二つの論文をもってシュリアノスの註解と「アレクサンドロス註解」が包括的に比較検討されたことになる。ただし研究論文IIは前の論文とは異なり、論争的な問題についてどちらかの立場から議論し、結論を出すという種類のものではない。そのため、扱っている資料は豊富であるものの、論敵が誰であり、いかなる論争を背景にもつ議論なのかは、あまりはっきりと語られていない。

研究論文 III:「アスクレピオスの註解の資料としての アフロディシアスのアレクサンドロスの註解とシュリアノスの註解8

これまでアフロディシアスのアレクサンドロス、擬アレクサンドロス、シュリアノスの三人が扱われてきたが、研究論文IIIからはトラレスのアスクレピオス(6C)の註解も検討対象となる。ただし実質的に擬アレクサンドロスは考慮の外に置かれているため、アレクサンドロス、シュリアノス、アスクレピオスの三者関係が中心になる。この意味では、研究論文IIと関連の深い研究と言えるだろう。先述のとおり、アスクレピオスの古註はA-Z巻に対して残されているため、A-Δ巻の範囲ではアレクサンドロスの註と、またB-Γ巻の範囲ではシュリアノスの註と比較することになる。さらにB-Γ巻においては、彼ら全員の記事が比較可能である。

論文は四つの節に分かれている。研究論文IIで検討した「アレクサンドロスとシュリアノス」のペアに加えて、「アレクサンドロスとアスクレピオス」ならびに「シュリアノスとアスクレピオス」のペアを考察した上で、三つの対関係を最後に総合するという手順が踏まれている。まず一節では、アスクレピオスの古註について概観する。アスクレピオスの註解と言っても、彼の師であるアンモニオスの講義の聞き書きという側面と、アスクレピオスが自分で清書・調査した側面の両方があることが確認される。

二節では、アスクレピオスによるアレクサンドロスの利用を、まず(A)抜粋と、(B)逐語的でない引用に分ける。さらに後者を(B 1)字義的でない明示的な引用と(B 2)匿名での借用に細分化する。この区別に則って、それぞれの場合の実例が吟味される。(A)はΑ-Γ巻の範囲にのみ見いだされ、アンモニオスの講義とは別に、アスクレピオス自身がアレクサンドロスの註解から引いたものと思われる。他方で(B)は全体にわたって見いだされ、主としてアンモニオスの講義に由来するものと思われる。

三節では、アスクレピオスによるシュリアノスの註解の利用とその影響が問われる。一節で確認されたように、註解の成立は二つの側面に分けて考えられるが、その両方において段階的にシュリアノスの古註が参照された。このプロセスを経て、シュリアノスの記述は単純化ないし変形を蒙ったと想定される。

四節では、三節までの議論と研究論文IIの内容を踏まえて、「アレクサンドロスとアスクレピオスを媒介するものとしてのシュリアノスの位置づけ」が考察される。アレクサンドロスからの借用が変形されているとき、幾つかの場合では、それが直接的に読まれて改変されたと考えるより、シュリアノスによる受容を経て一旦濾過されたアレクサンドロスの註解が、再び現れていると考えるべきとされる。

研究論文IIと同様に、膨大な一次資料が動員されている。やはり具体的な対抗学説が示されないため、学問的なLunaの立ち位置が見えにくい。ただしこれは著者の責任というよりも、同じ視点に立つ先行研究がほとんどないという事情によるものと思われる。本論文の特徴は、アスクレピオスによるアレクサンドロスの受容の手掛かりを、「媒介としてのシュリアノス」に求めた点である。とくに注目されるのは、アスクレピオスは直接アレクサンドロスの註を参照できた可能性が高いにもかかわらず、シュリアノスによって「濾過された」(être filtré)アレクサンドロスの引用が散見される点である。こうした複雑な影響関係を解きほぐすうえで、三人の註解者をペアにして三通りの組合せを潰してゆくLunaの戦略が有効に働いている。なお本論文には結論にあたる記述がなく、三つの論文全体をまとめるConclusion(187-189)の後半部において、主旨が要約されている。そこでは「文学的・概念的な観点から言えば、アスクレピオスの註解はシュリアノスの註解と比べて、単純化と貧困化を体現している」とも指摘される。

本書の受容と今後の課題

研究論文Iについては、すでに多くの人々が態度を表明している。大部分の研究者がLunaの結論を支持するか、少なくとも抗いがたいと見なす方向に傾いており、彼女の立場を前提とする研究成果も数多い。だが現状では、いまだ満場一致の学説には至っていない。論争に完全に終止符を打ったというより、「擬アレクサンドロスをエフェソスのミカエルに同定する」仮説9の信頼性を決定的にした仕事と評するほうが適切だろう。本論文に対する受容は、大まかに二通りに分かれるように思われる。一方では、Lunaの結論を支持するか、積極的に採用して自らの研究を進める人々がいる。R. W. Sharplesは本書への書評において、またD. O’Mearaはシュリアノスによる『形而上学』B, Γ巻への註解の英訳において、Lunaの仕事を高く評価した10。M. Burnyeat, S. Fazzo, M. Kotwick, P. Golitsis, M. di Giovanni / O. Primavesiらはそれぞれの関心から、Luna説を前提に採用している11。Luna以後の進展としてとくに注目に値するのは、伝統的にE巻以降とされていた擬アレクサンドロスの註解の範囲をZ巻以降に修正したGolitsisの仕事である。他方では、Lunaの結論ないし手続きに否定的、ないし懐疑的な人々がいる。Lunaの論敵であるTaránは、2005年の書評においてやや感情的に否定的評価を下しており、論争は完全にすれ違いの様子を呈している。彼の反応も理解できる。Taránがどちらかと言えば思想的傾向やアリストテレスに対する知識の精確さを指標としていたのに対して、Lunaは古註間の言語表現の変化や文体的特徴に依拠している。つまり両人が同じ問題を扱っているにもかかわらず、評価基準がずれているのである。このずれによって、同じ箇所を論拠として取り上げながら、解釈や評価が逆転するという現象が起こりうる。なお、Taránの仮説を採らないとしても、「擬アレクサンドロスの註はしばしばシュリアノス以上に的確であり、有用である」という彼の指摘は重要である12

論争の当事者以外でも、例えばシュリアノスのMN巻への註解の英訳において、J. Dillonは共訳者のO’Mearaとはいくぶん異なる立場をとる。DillonはTaránの想定を「見込みのない仮説」(desperate hypothesis)としてLunaと同じ結論に傾いてはいるが、Lunaの手続きを不十分としており、Taránにも一定の理解を示している13。同様に、擬アレクサンドロスをエフェソスのミカエルと同定する説を否定はしないが、慎重に「擬アレクサンドロス」と呼ぶ人々がいることも留意すべきである14。最後に、これまでの枠組みを拡張する視点も示されていることを添えておく。G. Arabatzisが指摘するところでは、ミカエルの思想的な全容がまだ見えていないにもかかわらず、従来の論争では、いずれの立場も彼の「凡庸さ」(médiocrité)に立脚してきたという憾みがある15。Tarán-Luna論争を経て、ある程度論点が出尽くした感があるものの、昨今注目されているビザンチンの哲学者・註解者の研究によって、新しい地平が拓かれることが期待できる。ゲオルギオス・パキュメレスによる註解の校訂も熱望される。

研究論文IIおよびIIIについては、世界的に受容が遅れている。おそらく、論争的な研究論文Iの結論を前提としており、かつ有力な先行研究がないため、開拓的な試みになっているという事情によると思われる。筆者の見識をもって両論文の学問的達成を評することは憚られるが、全体を読み通して見えたことを述べたい。

総じて難所の多い、巨大な問題圏に対して、Lunaは文献学的手法を駆使して鋭く切り込んでいる。それを可能にしているのは、膨大な一次資料を博捜する調査力と独自の哲学史的見立てである。とくに哲学史的な視野は本書のオリジナリティの核であるが、著者自身によって分かりやすく提示されているわけではない。Lunaはアイデアを凝縮して語るタイプの書き手であり、省略が多く、行間を読まねばならない場合が多いのである。

先述のように、研究論文IとIIは「アレクサンドロス」とシュリアノスの関係という共通項をもっており、研究論文IIとIIIは前者が後者の一部に組み込まれるという構造をもっている。では端にあるIとIIIは、どのように関連づけられるのか。この疑問は、研究論文IIのハブ的な役割や「古代後期のアリストテレス註解」という枠組みだけでは上手く説明できない。評者の理解が正しければ、「著作家としてのシュリアノスの独創性」という全体を貫くテーマが、両端の論文を結びつけると思われる。各論文は独自の課題を担いながら、すべての主要な観察がこの主題へと流れ込んでいる。つまり、並行記事の原著者がシュリアノスであり(I)、その註解がアレクサンドロスとは別個の狙いをもつこと(II)、しかし後の受容によってその言語の豊かさが損なわれてしまったこと16(III)が次々と浮き彫りになるという仕組みである。

先述のとおり、本書の手続きには批判的な評価も出されているが、実際問題として「古註同士の関係性」を決定できる直接的な証拠はほとんどないと言ってよく、仮定に仮定を重ねてゆく危うさを免れない主題である。責任の一端はLunaにもあるだろうが、事柄としての難しさも考慮すべきだろう。むしろLunaは、この「難しさ」をより明確に、かつ率直に語ることが出来たのではないかと思う。他方で、本書ではアスクレピオスと擬アレクサンドロスの関係が実質的に扱われていない。E-Z巻(少なくともZ巻)の範囲で両者が註解を行っている以上、当然問題の一つになると思われるが、シュリアノスとの関係が薄いため、主題と見なされなかったのだろうか。いずれにせよ、さらなる研究が望まれる論点である。こうした課題はあるにせよ、本書全体は優れた見通しに貫かれた労作であり、資料集としても有益である。批判的な検証も含めて、今後の研究の有意義な出発点となることは変わりない。

欲を言えば、本書にはもう一つの不満がありうるだろう。それは個々の論文においても全体にわたっても、哲学的な問題意識が希薄に見えてしまう点である17。むろんLunaはアリストテレスの『形而上学』への注釈を題材とし、個々の記述を子細に検討しているため、結果的に多くの哲学的論点に触れている。しかしそれはいずれもad hocな議論であり、アリストテレスや先行の註解に対する受容の仕方の一般的傾向として総括される。つまり、例えばシュリアノスがアレクサンドロスをどのように読み、利用したかを知ることはできても、彼の哲学的主張とはあまり関連づけられておらず、シュリアノス自身や新プラトン主義の哲学にとって、註解を書くという作業がいかなる位置を占めたのかは判然としない。Lunaは「著作家(auteur)としてのシュリアノスの独創性」を浮き彫りにしたとしても、それは「哲学者としてのシュリアノスの独創性」ではないのではないか——。しかし本書の統一性を考えたとき、問題設定と方法論の点からやむを得ないのではないかと思われる。そこまで視野を広げると、「古註の伝承関係」という本書の眼目が発散してしまうからである。また、そもそも本書における間テキスト的な手法や文体・用語法の網羅的調査は、特定の人物の哲学を掘り下げる目的には向いていない。むしろ、狭義の「哲学研究」では回収できない側面に注力した、文献学的なアプローチの実りとして評価すべきだろう。それは、哲学の課題そのものではないにせよ、哲学者が自らの思想を紡ぎ出す現場を規定する、制約と可能性の両方を照らし出すことができる。

おわりに

はじめてConcetta Lunaの著作に接したのは、評者の研究対象であるアリストテレス『形而上学』MN巻の本文批評に関する論文だった18。当時、評者が現行の校訂に対して抱いていた疑問を正面から引き受け、鮮やかな切り口で解決へと推し進めるものであった。幾つかメールで質問したさい、この仕事が著者のより広いシュリアノス研究の一環であったことを知った。ここに紹介した研究書は、シュリアノス研究としてのLunaの主要業績に当たる。冒頭に述べたように、アリストテレスのみならず、新プラトン主義や古典文献学の領域に踏み込む、要求の多い専門書である。しかし本書を繙く人は、アリストテレスの同じ箇所に対する注釈のヴァリエーションを目の当たりにして、ある時は一字一句揃っており、ある時は大胆に食い違うのを見て、純粋な興味を引かれるのではないか。それらの一つ一つの例には、古い時代の註解者の哲学的立場、註解するに至った背景や目的、参照できた先人の仕事、釈義の方法などを汲み取る余地がある。読者には著者の手を借りながら、ニュアンスを味わう喜びが開かれている。その体験は、現代に生きるわれわれ自身もまた、古典の受容と変容のプロセスに包まれていることを気づかせてくれるだろう19

1Concetta Luna “Les commentaires grecs à la Métaphysique” in R. Goulet et al. (eds.), Dictionnaire des Philosophes Antiques. Supplément (rééd.), 2018 [2003], 249-258.

2ギリシア語の写本は残っておらず、ヘブライ語・アラビア語・ラテン語の翻訳が残されている。かつてはラテン語訳も参照されていたが、現在はヘブライ語とアラビア語(部分的)の資料が重視されている。最新の校訂に Mayrav, Y., Themistius’ Paraphrase of Aristotle’s Metaphysics 12, Leiden, 2019 がある。

3後述するように、擬アレクサンドロスをエフェソスのミカエルとするLunaの説が有力視されているが、満場一致の解決とされていない。ミカエルではないとすれば、12C前半という年代も確かではない。例えば論敵の Tarán は、2-5C における新ピュタゴラス派・新プラトン主義の影響下にある執筆者を想定している。

4後述するように、E-Zという範囲は見直されている。

5Étude I: Les commentaires de Syrianus et du Ps. Alexandre sur la Métaphysique. Essai de mise au point (1-71/ Appendices I-III).

6567. 24, 630. 31-32, 641. 11-12, 741. 36-37 の四箇所において、真正のアレクサンドロスが註解を行っている A-Δ について、一人称での言及が見られる。

7Étude II: Le commentaire d’Alexandre d’Aphrodise comme source du commentaire de Syrianus (72-98).

8Étude III: Alexandre d’Aphrodise et Syrianus comme source du commentaire d’Asclépius (99-186/ Appendices IV-IX).

9この立場自体はすでに20世紀初頭にKarl Praechterによって表明されており、幾人かの学者によって追認されていた。

10R. W. Sharples, “Commentary on the Metaphysics,” The Classical Review, 53, 2, 2003, 307-308. D. O’Meara/ J. Dillon, Syrianus: On Aristotle Metaphysics 3-4, London, 2008, 9-12 (cf. n. 27 on 13).

11M. Burnyeat, “KINĒSIS VS. ENERGEIA: A Much-Read Passage in (but not of) Aristotle’s Metaphysics,” Oxford Studies in Ancient Philosophy, 34, 2008, 219-292, 231, n. 31. S. Fazzo, Il Libro Lambda della Metafisica di Aristotele, Napoli, 2012, 70 (cf. n. 56), 165. M. E. Kotwick, “Reconstructing Ancient Constructions of the Orphic Theogony: Aristotle, Syrianus and Michael of Ephesus on Orpheus' Succession of the First Gods,” Classical Quarterly, 64, 1, 75-90, 2014. P. Golitsis, “La recensio altera du commentaire d’Alexandre d’Aphrodise à la Métaphysique d’Aristote et le témoignage des manuscrits byzantins Laurentianus Plut. 87, 12 et Ambrosianus F 113 Sup.,” in J. S. Codoñer/ I. P. Martín (eds.), Textual Transmission in Byzantium: Between Textual Criticism and Quellenforschung, Turnhout, 2014, 199-230. P. Golitsis, “Who Were the Real Author of the Metaphysics Commentary Ascribed to Alexander and Ps. Alexander?” in R. Sorabji (ed.), Aristotle Re-Interpreted: New Findings on Seven Hundred Years of the Ancient Commentators, London, 2016, 565-587. M. di Giovanni/ O. Primavesi, “Who Wrote Alexander’s Commentary on Metaphysics Λ? —Νew Light on the Syro-Arabic Tradition,” in C. Horn (ed.), Aristotle’s Metaphysics LambdaNew Essays, Boston/ Berlin, 2016, 11-66, 16. 筆者も『新プラトン主義研究』第21号に寄稿予定の論文「古代後期における『メタフュシカ』MN 巻の構成理解——争点の仮説的復元——」において、Luna 説を採用している。

12同様の指摘として、以下の論文を参照。K. L. Flannery, “Mathematical Entities in Alexander and Pseudo-Alexander of Aphrodisias,” in V. Celluprica (ed.), Il Libro B della Metafisica di Aristotele, 2003, 129-157.

13J. Dillon/ D. O’Meara, Syrianus: On Metaphysics 13-14, London, 2006, 8-11 (cf. 22).

14R. Salis, Il commento di pseudo-Alessandro al libro Λ della Metafisica di Aristotele, Soveria Mannelli, 2005, 23-28. G. Movia (ed.), Alessandro di Afrodisia e Pseudo Alessandro Commentario alla “Metafisica” di Aristotele, Milano, 2007, V (G. Movia), 2389-2391 (R. Salis). F. D. Miller, Jr., ‘Alexander’: On Aristotle Metaphysics 12, London, 2021, 3-7.

15G. Arabatzis, “Michel d’Ephèse, commentateur d’Aristote et auteur,” PEITO/ Examina Antiqua, 1, 3, 2012, 199-209.

16189 頁参照。

17この重要な観点は、レビュアーの豊田氏から指摘していただいた。

18C. Luna, “Observations sur le texte des livres M-N de la Métaphysique d’Aristote,” Documenti e Studi sulla Tradizione Filosofia Medievale, 16, 2005, 553-593.

19本書評の執筆にあたって、新プラトン主義哲学を専攻する豊田泰淳氏(慶応義塾大学)にレビューしていただき、二回にわたって丁寧なコメントをいただいた。一部のフランス語の訳し方については、フランス現代哲学専攻の柳瀬大輝氏(東京大学)に助言をお願いした。またTARB評議員会の大畑浩志氏より、論旨や形式に関する有益な指摘をいただいた。この場を借りて感謝する。

出版元公式ウェブサイト

Brill

https://brill.com/view/title/7174

評者情報

西岡 千尋(にしおか ちひろ)

東京大学大学院人文社会系研究科博士課程に在籍。専攻は古代哲学、古典文献学で、目下アリストテレス形而上学におけるプラトン学派の哲学の受容を研究している。主な論文に「『メタフュシカ』M巻4-5章におけるイデアの再論」、『西洋古典学研究』、LXVIII、2020、38-49などがある。