Tokyo Academic Review of Booksonline journal / powered by Yamanami Books / ISSN:2435-5712

2022年2月5日

ドゥニ・カンブシュネル『デカルトはそんなこと言ってない』

津崎良典(訳),晶文社,2021年

評者:田村 歩

Tokyo Academic Review of Books, vol.40 (2022); https://doi.org/10.52509/tarb0040

*凡例1

紹介する文献からの引用については、書名を記さずに頁数のみを明記する。

ここで紹介する文献は、デカルト研究の泰斗であるドゥニ・カンブシュネル=パリ第一大学名誉教授による著書Descartes n’a pas dit : un repertoire des fausses idées sur l’auteur du Discours de la méthode, avec les éléments utiles et une esquisse d’apologie (Paris : Les Belles Lettres, 2015)の邦訳書である。一般的にデカルトの名から思い起こされるのは、著書で言えば『方法序説』や『省察』、学説で言えばコギト論や神論、自由意志論であろうが、カンブシュネル氏はデカルト研究を彼の情念論――『情念論』――から開始した。従来のデカルト研究では、形而上学や自然学が主題とされがちであり、心身合一体としての人間の在り方を論じる『情念論』が主たる分析対象となることは、『方法序説』、『省察』、『哲学原理』等と比して少なかった。しかしカンブシュネル氏は、むしろこの晩年の著作である『情念論』を起点としてデカルト形而上学を再解釈したことで、「前世紀のデカルト研究を文字通り劃し、新しい時代の、新しいデカルト研究の口切りとなった」(306頁:訳者後書き)。そして本書の邦訳に当たったのが、その氏のもとで哲学博士を取得した津崎良典=筑波大学准教授である。津崎氏は現在の日本のデカルト研究を牽引している哲学史家であり、2018年には、二十一個の動詞に着目する――「デカルトは~する」――ことでデカルト哲学を解説する『デカルトの憂鬱:マイナスの感情を確実に乗り越える方法』を扶桑社より上梓した(なお評者である私はその津崎氏のもとで博士号を取得した)。

本書が近世哲学の父と称される17世紀の哲学者ルネ・デカルトに関する図書であることは、その表題からただちに分かることである。この哲学者に関する文献の数は膨大であるが、本書がそれらに比して類を見ないのは、同じくその表題から分かるように、デカルトが語って〈いない〉ことを主題としているという点である。ではなぜ著者はそのようなスタイルを採用したのか。それは、「デカルトは誤解されてばかり!」(16頁)だからだ。著者曰く、「彼の哲学は、お披露目されるや否や、その真新しさが注目された。その後も早い段階から、彼の哲学を太く貫く基軸は多くの人に知られることになった。数多の批判的議論が沸き起こり、数え切れないくらいの研究が発表された。しかもその多くは、非常に手の込んだもので、推挙に値するものばかりである。にもかかわらず、デカルトが形而上学、自然学、道徳論、あるいはそれ以外の領域において定式化した決定的論点のほとんどすべては、教育の現場であれ、世の中に流布したイメージのなかであれ、あるいは一般向けの書物においてであれ、いやそれどころか、いくつかの専門的な研究書のなかでさえ、そのニュアンスに富んだところや彫琢されたところが否応無しに打ち砕かれたり平板にされたりして、ごわごわしたものになってしまった」(16頁)。そこでこの著者は、「ある書き手は何を述べたか、それを知ろうとすることはまた、その人が述べなかったことについて知ることでもある」(14頁)という考え方のもと、巷でデカルトに帰されがちだが、しかしその実彼が決して語ることのなかった事がらを暴いていく。

では、デカルトが語らなかったこととは何か。それは目次を一覧すれば容易に明らかとなる。

  • ①学校で教わることはどれも役に立たない
  • ②感覚は私たちを欺く
  • ③明晰判明でなければ決して真ではない
  • ④方法の規則は少ししかない
  • ⑤神はやろうとすれば3+2=4にできる
  • ⑥「私は考える、だから私は在る」というのは大発見である
  • ⑦人間の魂は、自分に対して透き通るように立ち現れてくる純粋な思考のことだ
  • ⑧人間の精神は、思考するのに身体を必要としない
  • ⑨人間の精神は、独り観念を介さなければ何も認識しない
  • ⑩人間の意志は無限である
  • ⑪人間は、自然の主人にして所有者になるべきだ
  • ⑫物質は延長に他ならない、すなわち空間である
  • ⑬自然学に経験や実験は不要である
  • ⑭人体は、純然たる機械である
  • ⑮私たちの魂は、身体を動かすための力を持っている
  • ⑯私たちは動物に何をしたって構わない
  • ⑰理性は、情動なしで済ませられる
  • ⑱私たちの実践上の判断はどれも不確実だ
  • ⑲完璧な道徳は手に入らない
  • ⑳高邁とは、自由の情念のことだ
  • ㉑政治は君主に任せておくべきだ

以上二十一個の言説は、多かれ少なかれ、デカルト哲学に触れたことのある者であればどこかで――哲学の専門書や入門書、はたまた中等教育課程の「倫理」分野の教科書等でも――目にする機会のある、馴染み深いものであるだろう。しかしそのいずれについても、決して「デカルトはそんなこと言ってない」のだ!

次の節では未読者を念頭に置いて、なぜ「そんな」誤解が生じたのかを、そしてなぜそれがデカルトの「言ってない」ことであると主張しうるのかを簡潔にまとめる。ただし紙幅の都合上、全項目の三分の一にとどめたい。なお以下のまとめにはいくらか評者の解釈が介入している箇所もあることを断っておく。

紹介

*凡例2

デカルトの著作からの引用については、書名・頁数を明記する。なお引用の際に使用した邦訳は、紹介文献に倣い、『増補版デカルト著作集』全四巻(白水社、1993/2001年)および『デカルト全書簡集』全八巻(知泉書館、2012–2016年)のものである。具体的には以下のとおりである。

  • ・『方法序説』=『増補版デカルト著作集』第一巻
  • ・『省察』(附録の答弁を含む)=同第二巻
  • ・『哲学原理』=同第三巻
  • ・書簡集=『デカルト全書簡集』(巻数はローマ数字で明記)

①学校で教わることはどれも訳に立たない

このような誤解が生じたテクスト的根拠は、「私は子供のころから文字による学問のなかで育てられてきましたし、これを手立てにして、人生に役立つどんなことについてもはっきりした保証つきの知識が得られると思いこまされていたので、文字による学問を身につけたいという望みをどこまでも持っていました。しかしその学業の課程をすっかりやり遂げると、〔…〕そのとたんに私はまったく考えが変わってしまいました。というのも気がついてみたら多くの疑惑と誤謬でのっぴきならなくなったあげく、自分を教育しようと励みながらも、ただますます自分の無知をあばいていったことをべつにすれば、ほかに得るところがなかったように思われたほどだからです」(『方法序説』、14頁)である。これを一読する限り、たしかに、デカルトは「学校〔伝統〕とは手を切った」(20頁)と言えるように思われる。しかし著者によれば、デカルトが学院での勉学に幻滅したのは否定できないが、それはあくまで「〔学院での勉学が〕言われていたほどには役に立たないことが分かった」(26頁)からであって、決してデカルトはそれを〈役立たず〉であると言ったりそれに対する〈不満〉を述べたりということはなかった。それどころか、自分が受けた教育に対する感謝や擁護を意図する記述も散見されるのである。これらの点が意味するのは、たしかに学校教育はデカルトに真理もそれを探究する手段も与えることはなかったが、しかし、精神が来たるべきときに真理の探究(第一哲学)をおこなうための準備として必要となるものであった、ということだ。

この点について評者なりに補足をすると、学校教育は、本書の項目⑲でも主題となるいわゆる「当座の道徳」――他に「暫定的道徳」や「仮の道徳」と訳されるが、これは、学問において確実なものが得られずに判断を停止しているあいだでも、実生活においては不決断に陥らずにできるだけ幸福に暮らしていくためのものである(『方法序説』、30頁以降参照)――に含まれると考えられる。というのも、デカルトは当座の道徳の一つとして、〈自分の国の法律と習慣とに従い、幼少期より教えこまれた宗教をしっかりと持ち続け、他のすべてのことでは、最も穏健で、極端ではない意見に従って自分を導くこと〉を挙げているが、一般的な学校教育では主に学界で認められた標準的な学説が学ばれるのだから、ここでの〈最も穏健で、極端ではない意見に従う〉ことは、まさしく学校教育を受けるということだからだ。たとえこの学校教育が真理を与えてくれるものではない、つまり完全なものではないとしても、真理の探究に適した時機が訪れるまでは、なるべく多くの既存の学問を学び様々な経験を積むことで、できる限り判断力を磨いていかなければならない(たとえ既存の学問が誤謬にまみれ役に立たないものであったとしても、それらを検討することで判断力はたしかに磨かれうるだろう)。さらにカンブシュネル氏は、形而上学が根に、自然学が幹に、そして機械学・医学・道徳が枝に喩えられる「学問の木」について、枝である道徳が根・幹である形而上学・自然学の成長に伴って変化しうると主張しているが、学校教育も同じように、真理の獲得すなわち第一哲学の確立によって変化しうると言えるだろう。

②感覚は私たちを欺く

著者によれば、「これは、デカルトの書いたものを一頁以降は読みもせず、しかもその一頁を読み飛ばすことしかしないと、彼の考えたことだと思い込んでしまう一例」(34頁)である。たしかに「第一省察」では「これまでにわけても真で確かなものとして私の受け入れてきたものはどれもみな、感覚から受け取るか、感覚を介して受け取るかであった。ところで私は時折、思い知らされたことがあるのだが、感覚は欺くのであって、一度たりとも私たちを欺いたことのあるものを決して全面的には信頼しないようにするのが、賢明というものである」(『省察』、30頁)と記されている。しかし著者がここで「時折」という副詞を看過することはない。感覚が欺くことはたしかにあるが、しかしそれはあくまで「時折」であり、だからこそ「感覚に妄信的な信頼を置くわけにはいかない」(36頁)が、「さりとて、感覚の教えるところを何から何まで間違いと判定するわけにはいかない」(同)。事実デカルトは、「いま私がここにいること、炉辺に坐っていること、部屋着を身につけていること、この紙を手にしていること、およびそれらに類すること」(『省察』、30頁)を疑う際には、感覚という作用の構造的欠陥にではなく、夢の可能性に立脚している。つまり方法的懐疑において「感覚は欺くという議論は薄弱」(36頁)であるのだ。

それでは、感覚の信憑性についてあえて言及することなくはじめから夢の可能性を引き合いに出せばよかったのではないか。著者によれば、そうではない。それは、「感覚の実体について考察すべきことがいくつかあるから」(37頁)であり、さらには、『省察』という書物がそもそも「感覚機能の復権」(40頁)すなわち「私たちの魂を身体と結合させた神、その神が私たちに付与したかぎりでの感覚機能の復権」(同)を目指したものであるからだ。

⑤神はやろうとすれば3+2=4にできる

このテーゼはいわゆる「永遠真理創造説」に関係するものである。「なんらかのことが神には不可能であると決して言ってはならない」(書簡集Ⅷ、79頁)と主張するデカルトにとって、神は「諸事物の存在の創造者であるにとどまらず、その本質の創造者でもある」(69頁)。すなわち、数学的真理や自然法則などもすべて神の創造物に他ならない。したがって、この世界では3+2=5であるが、神は3+2=4となる世界を創ることもできたはずである。

この見解はもっともであるように思われるが、しかし厳密に言えば、これもデカルトが言っていないことである。著者曰く、「デカルトは決して、神は、三に二を足すと四が出てくるようにしえたのに……、とは言わない。まして、相矛盾するものを同時に存立させることができたのに……、などとは言わない」(76頁)。彼は、「神は、相矛盾するものは同時に存立しえないということを真とするように決定されていたなどということはありえない、したがって神は その反対をすることもできた ・・・・・・・・・・・・・ 〔…〕」(書簡集Ⅵ、156–157頁)や「〔神は〕中心から円周へと引かれたすべての直線が等しいということを 真でないようにすることができる ・・・・・・・・・・・・・・・ ほど自由であった」(書簡集Ⅰ、141–142頁)という表現にとどめているのだ。

なぜか。ここで「神は3+2=5以外にすることができる」と〈神は3+2=4にできる〉との違いを言葉遊びの次元のものとみなすことはできない。というのも、前者は、神にはあらゆる不可能性はありえないとすることで神の全能性に言及するのみであるのに対して、後者は、人間にはまったくもって抱懐不可能な事態を引き合いに出すことで、人間の有限の領域を超えて神の無限の領域に踏み入ることであるからだ。たしかに、「神は3+2=5以外にすることができる」ならば、〈神は3+2=4にできる〉と言ってよいかもしれないが、しかし3+2=4は人間にはまったくもって抱懐不可能であり、それにもかかわらず〈神は3+2=4にできる〉と断じてしまうということは、無限である神の領域に有限である人間が侵略を試みることである。デカルトはつねに、無限な神がその全能性をもってしておこないえたはずのことを有限な人間が推し量ろうとすることを拒否する。そしてこのような方針は、永遠真理創造説の他にも、彼の自由意志論にもみられるものであり、人間の自由意志と神の摂理との両立が問われる際、デカルトは、無限で全能な神のおこなうことなど有限な人間には抱懐不可能なのだから、そもそも両者を競合させることはやめ、ただこれらを二つの別の事がらとして受け入れるべしとした。

⑧人間の精神は、思考するのに身体を必要としない

このような誤解が生じたテクスト的根拠は、「私が、私ときわめて緊密に結合している身体を持っているにしても、しかし〔それでも〕、一方には私自身の明晰かつ判明な観念を、私が思考する事物でしかなく延長する事物ではないというかぎりにおいて私は持っているから、この私、つまり、それによって私が私であるところの私の魂は、私の身体から全面的かつ実際に区別されたものであって、身体に俟つことなしに〔…〕存在しうることは、確実なのである」(『省察』、100頁)である。これを一読する限り、たしかに、魂と身体(物体)という二つの事物は、事実としてはどういうわけか結合しているものの、しかし本来はそれぞれ別個に、単独で存在することができるものであり、したがって、思考する事物である魂は当然それ単独で〔つまり身体なしで〕思考することができる、と主張されているように思われる(〈魂は思考する事物である、魂は身体なしに存在しうる、ゆえに魂は身体なしに思考しうる〉という推論は妥当だと思われる)。

しかし著者は、ここでデカルトが「〔身体なしに〕魂は存在しうる」と言い、「〔身体なしに〕魂は思考しうる」とは言わないことに着目し、魂は身体なしに存在しうるというデカルトの主張におけるその「身体なしに」という事がらが厳密には何を意味しているのかを検める必要があるとする。なぜなら、この「身体なしに」ということが、「思考の展開における身体の露骨な介入なしに、そしてこの思考が対象とするところと多かれ少なかれ類似した、身体レベルでの表象像なしに」(115頁)を意味していると解釈するのと、「身体を原因とする〔ことで魂のうちに生ずる〕いっさいの変様なしに」(同)を意味していると解釈するのとでは、結論も変わりうるからだ。前者については、神という無限な存在者や数学などについて、感覚や想像といった身体的なものの助けを借りずして思考することが魂にはできると言えるだろう。しかし後者については、魂による思考が「身体のいっさいの変状ないし状態と無関係であると確証することは、すこぶる厳密に言えば不可能」(110頁)であるということになる。なぜなら、人間は身体抜きの思考を経験することはできないし、むしろ経験は、魂による思考が身体の在り方に強く影響を受ける――『省察』で提示される形而上学的省察をおこなうためにも、身体は「静かな閑暇」(『省察』、29頁)において、「ストーブで暖められた部屋」(『方法序説』、20頁)のなかで、安らかな状態に置かれなければならない――ことを教えるからだ。

⑩人間の意志は無限である

このような誤解が生じたテクスト的根拠はいくつかある。フランス語版『哲学原理』にてデカルトが言うには、「知性は、知性に現れるごく僅かな対象にしか及ばず、その認識はつねにきわめて限られている。それに対して、意志はなんらかの意味で無限であるように思われる。というのは、何か私たち以外のものの意志、あるいは神のうちにある広大な意志の対象となりうるもので、私たちの意志がそれに及びえないようなものは何一つとして見あたらないからである」(『哲学原理』、51頁を参照)。ここではたしかに意志が「無限である」と述べられているが、しかし著者は「なんらかの意味で」という条件を見落とさない。もっとも、デカルトがこの「なんらかの意味で」の内実を明らかにすることはなかった。だが、そうだったとしても、彼が意志を無条件で「無限である」と主張したのではないということは無視しえない。

さらに、メルセンヌ宛書簡にてデカルトが言うには、「各々が想念することができるかぎりのすべての完全性を持とう、そしてその結果、神のうちに存在すると私たちが考えるすべての完全性を持とうという欲望は、神が私たちに局限されていない意志を与えたことに起因しています。神は私たちを自身の似姿として創造したと言うことがきるのは、なかんずく、私たちのうちにあるこの無限の意志によるように思われます」(書簡集Ⅲ,306頁)。ここでは「無限の意志」という表現が認められ、それには先の引用とは異なり「なんらかの意味で」といった条件は付されていない。しかし著者は、このテクストを以てしてデカルトが人間の意志の無限性を主張していたとは考えない。なぜなら、彼は「無限の意志」という言葉は使用しているものの、〈意志は無限である〉という肯定文を使用したことはないからだ。以下で、評者なりの解釈が混入してしまうが、敷衍しよう。

一般的に、〈YなX〉というように形容詞(Yな)を付加的用法(限定用法)で用いる際には、その形容詞を属詞的用法(叙述用法)で用いた〈XはYである〉という平叙文を前提としている。同様に〈ZするところのX〉というように関係詞節を伴った名詞句を用いる際にも、〈XはZする〉という平叙文を前提としている。しかしデカルトが平叙文のかたちで明言するのは、「〔人間の意志は〕いとも広大で完全である」(『省察』、78頁)や「〔人間の〕意志は〔…〕いかなる限界によっても局限されていない」(同、76頁)であって、〈人間の意志は無限である〉という記述は見られないのだ。それでは、先の「無限の意志」という記述はいかに理解すべきか。もう一度問題のテクストを簡潔に引用しよう。

「神は私たちに 局限されていない意志 ・・・・・・・・・・ を与えた〔…〕。神は私たちを自身の似姿として創造したと言うことがきるのは、なかんずく、私たちのうちにある この無限の意志 ・・・・・・・ によるように思われる」(書簡集Ⅲ,306頁)。

ここで、「無限の意志」という言葉に「この」という指示形容詞が付されていることに注目しよう。「この〔無限の〕意志[cete volonté [infinie]]」とは、どの意志であるのか。それは、前文における「局限されていない意志[une volonté [qui n’a point de bornes]]」に他ならない。したがって、「この無限の意志」における「無限の」は、「局限されていない意志」における「局限されていない」と対応していると考えられるだろう。ただし、デカルトが重きを置いているのは、限定用法でのみ用いられる「無限の」ではなく、限定用法でも平叙文でも用いられる「局限されていない」の方である。まとめると、「無限の意志」は「局限されていない意志」の言い換えであり、そしてこの「局限されていない意志」という表現は「意志は〔…〕局限されていない」という平叙文を前提としているのだ。

それでは、意志が「局限されていない」とはどのような事態であるのか。人間の意志について詳細に論じている「第四省察」によれば、「意志〔の意志たる所以〕は、〔…〕肯定するあるいは否定するのに、言うなら追求するあるいは忌避するのに、何らの外的な力によってもわれわれがそうするように決定されてはいないとわれわれの感ずるように、そういうふうにわれわれが自らを赴かしゆく、という点においてのみ存する」(『省察』、77頁)。これを踏まえれば、人間の意志が「局限されていない」ということは、意志の働きが何かしらの外的な力によって影響を受けることはない、ということであると言えるだろう。ただしこれは、人間の意志が〈無限である〉ということではない。意志が外的な力の影響を受けず、いかなる限界によっても局限されていないということは、あくまで人間がそのように「感じる」という「経験」の次元での話なのであって、真の意味での無限性は、神の意志にのみ認められるものなのである。

⑪人間は、自然の主人にして所有者になるべきだ

通説ではしばしば、デカルトは、自然から一切の精神性を剝奪した自らの機械論的自然観によって、自然を人間が支配・征服すべき対象とみなしていたとされ、ひいては、それ以降の自然科学の発展に伴って現代の社会に生じてきた様々な問題の元凶とさえみなされる。たしかに、デカルトは『方法序説』の最終部において、人間を「自然の主人で所有者のように」(『方法序説』、62–63頁)しうる哲学を構築する意思を表明しており、先の悪評はある意味では「自業自得」(146頁)と言えるかもしれない。

しかし著者によれば、このような理解もやはり不正確である。まず第一に、数学や実験といった自らに特有の手法によって人間が自然に働きかけ、操作し、自然界全体を掌握するという構想自体は、デカルトを俟たずしてすでに17世紀初頭に流布していたのだから、それを傲慢な野望として彼に帰するのは不適切――むしろ『新機関』の著者フランシス・ベーコン(1561–1626)の方がふさわしい――である。第二に、デカルトにおいて人間が自然の所有者たりうるのはいわゆる「普遍数学[mathesis universalis]」によってである、という根強い言説があるが、しかしこれは、マールブルク学派に属する新カント主義者たちがマテーシスというラテン語をデカルトが多義的に用いていたことを看過したことによる(なお著者はこのラテン語が現代語には翻訳不可能であるとし、一貫して原語を用いている)。著者曰く、マテーシスという用語はデカルトの様々な著作で使用されているが、「普遍的なマテーシス[mathesis universalis]」の用例は最初期の著作『精神指導の規則』でのみ確認され、これは、後に『方法序説』や『哲学原理』で構築される自然学の概念とは一切関係のないものである。そして『精神指導の規則』よりも後のマテーシスは、「本質的に言って〔…〕自然についての学知ではないし、自然に直接に適用されるわけでもない。それはむしろ、精神の一つひとつの働きに関する学知である。ようするに、いかなるときも己のことを弁える習慣を精神に得させようとするデカルトの努力の一つの現れなのだ」(153頁)。この観点から著者は、デカルトにとって「人間がその主人となるべきは、おのれの自然(ナチュール)つまり本性(ナチュール)である」(154頁)と結論づけている。

⑲完璧な道徳は手に入らない

デカルトは『方法序説』において、様々な偏見を排除し真理を探究していく最中でも実生活においてはなるべく快適に暮らせるように、「当座の道徳」――①の紹介の際にすでに述べたが、他に「暫定的道徳」や「仮の道徳」と訳される――を設定した。これは、簡潔にまとめれば、1)自分の国の法律と習慣とに服従し、神の恩寵により幼児から教えこまれた宗教をしっかりと持ち続け、他のすべてのことでは、最も穏健で、極端ではない意見〔…〕に従って、自分を導くこと、2)いかに疑わしい意見でも、一旦それを採用すると決心した場合は、それがきわめて確実なものである場合と同様に、変わらぬ態度でそれに従い続けること、3)運命よりもむしろ自分自身に打ち勝つことに努め、世界の秩序よりはむしろ自分の欲望を変えるように努めること、である。なぜこれらの道徳が必要なのかと言えば、それは、学問においては何か確実なものが得られずに判断を停止していられても、実生活においては判断を停止していては生きていけないからだ。しかしこの道徳は、「当座の」ものであるのだから、「完璧ではない道徳で、より良い道徳が知られないあいだは当座に備えて従っても構わないような道徳」(245頁)である。したがって最終的には「完璧な道徳」が求められなければならない。

だがデカルトは、完璧な道徳を明示することはなかった。デカルトにとって学問は一本の木であり、形而上学は根に、自然学は幹に、そして機械学・医学・道徳は枝に喩えられるが、形而上学および自然学を経て最終的に得られるこれら枝の分野については「ほとんどすべてを知らない」と告白している。このことからしばしば、デカルトは「完璧な道徳」には到達しえず「当座の道徳」に留まらざるをえなかった――生涯最後の著作『情念論』においていくらかの展開がみられたとはいえ――と考えられるようになった。しかし著者によれば、だとしても完璧な道徳が入手不可能であるということにはならない。その理由を著者はいくつか挙げているが、一つだけ紹介するなら、それは、完璧な道徳とは「つねに実現の途上にある」(249頁)ということだ。つまり、枝に例えられる道徳は、根(形而上学)や幹(自然学)の成長に合わせて一緒に成長しうるということである。そして、完璧とは言えない「当座の道徳」とは、いつか完璧な道徳に完全に取って代わられるものというのではなく、道徳が「完璧な」ものへと成長していく過程の一つと考えられるのだ。

検討

最後にこの節では、著者の主張を評者なりに検討したい。検討対象は、以下の一項目である。

⑬自然学に経験や実験は不要である

この項目では、デカルトは自然学において経験(実験)を軽視していたという通説が否定される。著者は、デカルトの経験概念を二分することから始めて、最終的には「デカルトが実験を差配するしかたには、たとえばガリレオやパスカルのうちに認められるのと同様の複雑さが、そして曖昧さが認められはしないか。したがって、悪意のこもった無知蒙昧だけが、自然学者デカルトは経験〔すなわち実験〕を等閑視しているなどと考えさせる」(176–177頁)と結論づけている。『デカルト哲学における「経験」の機能に関する哲学史的研究』という表題で博士学位請求論文を執筆した評者としても、舌鋒鋭きこの主張には溜飲の下がる思いである。

だが、著者によるデカルト的経験概念の規定のしかたには疑問が残る。引用しよう。

「〔…〕私たちは自分が知得するものについてはいずれも、この知得が明晰かつ判明であるかぎり、そのものについての経験を持つ。明晰さと判明さは、知得対象の境界設定と対象としての真正さの認証が完璧になされることで精神にもたらされる成果に他ならないからである。神は無限であることについても、感覚による知得つまり知覚は物体以外には関連づけられえないことについても同様である。明証性とか、『精神指導の規則』が論ずる知的直観〔…〕というのは、いずれも対象についての十全な経験のことなのである。そしてこのような経験はつねに、(事物はそのようなものとしてあるという意味での)必然性ないし(事物はそれ以外ではないという意味での)不可能性についての経験としてある。ようするに、知解する(〔ラテン語では〕intelligere)ことと経験する(experiri)ことは全く同義なのである。」(168–169頁)

ここでは「経験」が「知解」と同一視されているが、この点については大いに検討の余地がある。なぜなら、経験には 対象そのものの現前性 ・・・・・・・・・・ があり、知解にはそれがないという相違があると考えられるからである。

対象の現前性とは、「いかなる対象をも、それが私の感覚器官に現前していないかぎりは、私が〔感覚〕したいと思うにしても、感覚するわけにはゆかないし、現前している場合には、〔感覚したくないと思っても、〕感覚しないわけにはゆかない」(『省察』、96–97頁)という記述から、主体に対する強制力をもつことであるといえる。しかし知解は、この対象の現前性を含意してはいない。このことは、「例えば三角形を私が想像するという場合には、それが三つの線によって包まれた図形であることを知解するというだけではなくて、同時にまたそれら三つの線をあたかも現前しているものであるかのごとく精神の眼によって見つめる」(『省察』、93–94頁)という記述から理解されるであろう。つまり知解だけでは、対象そのものを「現前しているもの」としては捉えられない――幾何学的に完全な三角形は解析幾何学〔つまり数式への置換〕によって知解されうるが、それはもはや〔図形としての〕三角形そのものではない――のであり、換言すれば、知解の対象は〈それそのものとして〉は現前していないのである。

それに対して経験は、現前するもののみを対象とする。以下の二つのテクストを対照してみよう。

  • ①「われわれは、精神が身体なしにあることを知解する〔…〕」(『省察』(第四答弁)、276頁)
  • ②「われわれの精神は、ほとんどつねに身体の影響を受けるほどに身体と結合していることを経験しています〔…〕」(書簡集Ⅴ、31頁)

デカルトによれば、「われわれは、精神が身体なしにあることを知解する」ことができる。なぜなら、「私は、明晰かつ判明に私の知解するもののすべては私の知解しているとおりのものとして神によって作られうるということ、を知っているのであるからして、一つの事物が他の事物とは別箇のものであることを私が確知するというためには、その一つを他に俟つことなく明晰かつ判明に私が知解することができるということをもってすればそれで十分なのであって、それというのも、それらは少なくとも神によっては別々に措定されることができるから」(『省察』、99頁)だ。しかしながら、精神と身体は互いに異なった実体であって、存在するにあたり何らの依存関係もないということを、精神は知性によって知解することはできても、それを現前する事態として自らのうちで経験することはできない。事実デカルトは、「精神が身体なしに在るということ」を「知解する」(①)とは言っても「経験する」とは言わないのである。経験されるのは、精神が身体によって様々な感覚や情念を与えられるということ、精神が意志することによって〔歩行や腕の曲げ伸ばしといった〕身体運動が引き起こされるということ、すなわち精神と身体とが固く結合されているということ(②)であって、精神が身体と独立に存在しているということ(①)ではないのだ。そしてこの点を踏まえてこそ、本書の項目⑫で著者が試みている、「人間の精神は、思考するのに身体を必要としない」という通説への批判も重みを増すのではないだろうか。

※ここでの議論は、以下の文献案内で挙げた評者の博士学位請求論文に基づく。

文献案内

専門的過ぎず、また日本語で読めるデカルト哲学に関する文献のうち、その全体像を掴み取るのに有益なものを少しだけ挙げる。なお、僭越ながら最後に評者の博士学位請求論文を挙げさせていただく。これは、従来の西洋近世哲学史研究では主題にされることの少なかったデカルト哲学における「経験」の概念を扱ったものである。

  • ジュヌヴィエーヴ・ロディス=レヴィス『デカルトの著作と体系』小林道夫・他訳(紀伊國屋書店、1990年)
  • 小林道夫『デカルト哲学の体系:自然学・形而上学・道徳論』(勁草書房、1995年)
  • 津崎良典『デカルトの憂鬱:マイナスの感情を確実に乗り越える方法』(扶桑社、2018年)
  • ロランス・ドヴィレール『デカルト』津崎良典訳(白水社、2018年)
  • 田村歩『デカルト哲学における「経験」の機能に関する哲学史的研究』(博士学位請求論文、筑波大学、2019年)

出版元公式ウェブサイト

晶文社

https://www.shobunsha.co.jp/?p=6715

評者情報

田村 歩(たむら あゆむ)

博士(文学)(2019年3月、筑波大学)。国立茨城工業高等専門学校一般教養部助教。近年の主たる研究業績としては、ロシア国立科学アカデミー附属哲学研究所より刊行された“Bringing an End to the Interpretative Dispute on Descartes’s Cogito: the Cogito as Vérité, Cognitio, Propositio, and Conclusio” (The Philosophy Journal 13, 2020, pp. 38–48)など。