Tokyo Academic Review of Booksonline journal / powered by Yamanami Books / ISSN:2435-5712

2022年9月3日

Gerko Egert, Rett Rossi(trans.), Moving Relation: Touch in Contemporary Dance

Routledge, 2019年

ドイツ語原著:Gerko Egert, Berührungen. Bewegung, Relation und Affekt im zeitgenössischen Tanz

Transcript Verlag, 2016年

評者:吉田 駿太朗

Tokyo Academic Review of Books, vol.49 (2022); https://doi.org/10.52509/tarb0049

要約

今回紹介する著作は、2016年にドイツで出版されたBerührungen. Bewegung, Relation und Affekt im zeitgenössischen Tanzが2020年に英語翻訳されたものである。ここでまず簡単に、著者のゲルコ・エガートについて紹介する。エガートは、現在、ユストゥス・リービッヒ大学ギーセン校の応用演劇研究所で博士研究員として所属し、主に身体運動に関する哲学と政治、人間と非人間の振付、プロセス哲学と(スペキュラティブ)プラグマティズムに着目するなど、特にジル・ドゥルーズやフェリックス・ガタリの研究に取り組みながら、ダンス研究と演劇研究を領域横断的に行う研究者である。博士課程在籍時には、哲学研究者のエリン・マニングのもとで学び、彼女のドゥルーズやガタリの研究に大きな影響を受けている。

本書は、コンテンポラリーダンスの領域における「接触(touch)」1という概念について取り組んでいる。日常において「触れる」という行為は、あらゆる場面にあらわれるが、コンテンポラリー・ダンスにおいては、接触が、撫でる、愛撫する、叩く、持ち上げる、握るなど、さまざまな方法で表現される。これらの様々な接触の様式は、互いに触れ合うことを単なる二つの身体の接触へと還元されないことを示している。本書では、欧米の著名な振付家であるウィリアム・フォーサイス、メグ・スチュアート、ボリス・シャルマッツなどのパフォーマンス八作品を分析することで、「動き」、「経験」、「感情」といった様々なレベルでの接触について考察している。ただし、本書ではダンスの分野で接触と聞いたときに思い浮かべる、バレエで呼称されるリフト(二人のダンサーが踊る際に、片方のダンサーがもう片方のダンサーを支えつつ空中に持ち上げる技術)やコンタクト・インプロビゼーション(力学法則を用いつつ身体同士を預け合いながら即興的に動いていく技術)、舞踏におけるセルフタッチ(自らの身体に意識的に触れる行為)への言及はほとんどない。あくまでも専門的な技術の枠組みとは距離をとりつつ、接触について論じていることをここに付言しておく。

本書は七章で構成され、ダンスパフォーマンスの詳細な描写と分析、そしてパフォーマンスとダンス研究、哲学と情動の分野における接触の問題についての理論をまとめている。特に接触とは身体的な触れ合いの瞬間的なものを超えたものである、という命題に基づき、エガートは接触の概念を動きと複数の関係の相互作用であると提案する。本書では、このプロセスを志向する接触の概念を通して、身体、リズム、感情表現、主観性、観客の知覚といった重要な概念を再評価しようと試みている。

本書では第一章に入る前にまず、哲学的言説における触覚の歴史について概観している。アリストテレスの『魂について』から、現象学、メディア研究、精神分析学における近年の触覚に関する論考を吟味しながら、この歴史的概観を大きく二つの流れに分けて議論を進める。最も基本的な感覚器官としての触覚の歴史と、感情経験の様式としての触覚の歴史である。この章では、触覚と感情という二つの概念が交差するさまざまな瞬間をたどり、それらがどのように再び分岐していくのかを明らかにしている。

続く第一章では、接触とは単なる身体の触れ合いの瞬間的なものを超えたものである、という仮説をもとに詳細な検討を行う。メグ・スチュアートとフィリップ・ゲマッカーの《The Fault Lines》(2010)の冒頭のシーンの分析に始まり、接触とは動きの構成であると論じる。ダンサーがお互いに手を伸ばしたり引いたりする動きを、マニングの議論する「潜在性」2やデリダの「痕跡」の概念を用いて分析する。また第一章の後には、聖書に現れる「ノリ・メ・タンゲレ(私に触れるな)」が引用され、直接的に触れることなしにしか起こり得ないキリストの身体の変容について示す。この引用では、接触は手を伸ばすという形式に留まらなければならず、実際の接触につながることは許されないものとして存在する。

第二章では、接触の感情的な側面を取り上げている。メグ・スチュアートとフィリップ・ゲマッカーのパフォーマンス《Maybe Forever》(2007)を検討しつつ、接触の感情的な関係が、第一章で述べたようなダンサーの動きの中で正確に現れることを論じる。彼らの接近するリズムは、感情的な同調を生み出す。ここではまだ憎しみや恐怖といった明確な感情のカテゴリーは含まれていない。接触はここで、内面的な感情の主観的な表現ではなく、ダンサーの身体間の感情的な関係として提示される。章の後半では、分析されたパフォーマンスにおける二つの支配的な感情の構成を検証する。すなわち、「愛」と「憂鬱」においてである。この二つの構成は、異なる接触のダイナミックな同時性と重なりによって作られ、一貫したメッセージや表現を含んでいない。これらの構成は、リズミカルなダイナミクスの形式において存在し、ステージ上や観客のさまざまな身体が現れる。

第三章では、接触という行為における身体の次元、そして接触の自律性が取り上げられる。ここでは、ダンサーの身体は、単に事前に割り当てられた接触の行為者としてではなく、接触の行為の中で常に再構成されていることが示される。ボリス・シャルマッツの《Herses (une lentre introduction)》(1997)とグザヴィエ・ル・ロワの《Low Pieces》(2011)を取り上げ、集団的な接触のシーンを通して、これらの身体的変化を追っている。この分析の中心となるのは、身体に関連する形態の概念に挑戦することである。ここでの接触の概念とは、実体としての「身体の形態」ではなく、プロセスとしての「身体化の形態」に基づくアプローチを提案している。また第三章の後には、前述の両作品を分析し、この二つのパフォーマンスにおける裸体の過剰な使用を取り上げる。伝統的に裸体は、自然な状態の身体を提示するために用いられる。しかし、身体の「自然状態」が挑戦される場合、裸体はどのように変化するのだろうか、と著者は問いかける。裸体は服を着る(脱ぐ)過程においてのみ現れるというジョルジュ・アガンベンの命題に従い、裸体がプロセス的な身体の効果を持ち、それ自体が接触の動きの中で現れるパフォーマティブな出来事であることを論じる。

第四章では、リズミカルな出会いとしての接触を概念として展開する。運動としての接触の概念や身体は動きの中で生成するという概念に基づいて、リズムという概念が、接触のプロセスにおいて機能する複数の力学を分析することを可能にする。ジャレッド・グレーディンガーとアンジェラ・シューボの《What they are instead of》(2009)の中で、動いている二つの身体と触れ合っている二つの身体を検証することで、接触の動きの中で、ダンサーを相互に同調させる関係的なリズムが発生することを論じる。リズムは、それぞれのダンサーが個別にもたらすものではなく、舞台上の身体的関係のダイナミックさと強度を示す。

第五章では、ウィリアム・フォーサイスのダンス・ビデオ《Solo》(1997)を通して、「自らに接触する」という概念を取り上げる。議論の出発点となるのは、現象学における触覚に関する記述と、それらに対するデリダの読解である。これらの記述とビデオの分析の中心となるのは、自分自身に触れる手である。しかし、《Solo》の手の動きは、現象学のテキストで提唱されている一貫した自己の発展が、決して絶対的なものではないことを示している。このビデオは、自己に触れる行為の中で生じる差異に満ちた、断片的で複数のリズムを持つ身体を提示する。最後に、ジルベール・シモンドンの個体化とその差異化の概念を、自分自身に接触する行為を扱う代替的な方法として提案する。

第六章では、「接触の気象学」という概念を提案し、接触が人間の身体間だけでなく、人間と非人間、非人間の身体間でも行われることを検証する。ウィリアム・フォーサイスのパフォーマンス・インスタレーション《White Bouncy Castle》(1997)では、白い壁が跳ね返り、観客はそれを利用してジャンプする。また、メグ・スチュアートのパフォーマンス《Blessed》(2007)では、土砂降りの雨の中、地球上で様々な形で接触が行われていることが理解できる。著者は、これらのパフォーマンスの記述をもとに、人間だけが触覚の能力を持っているというマルティン・ハイデガーの人間中心主義的な世界観を再検討し、あらゆる物質的構成の間で起こりうる接触の概念を論じる。

第七章では、本書で展開される議論をまとめた上で、観客との関係においてパフォーマンスやコンセプトを再検討する。つまり、劇場においてどのように「接触する」ことができるのだろうか、という問いに答えるものである。感情と触覚の関係、そして接触におけるリズミカルな関係性に立ち返ることで、観客が使う感覚は視覚だけであるという仮定に批判的に挑戦していることが明白となる。接触に注目することで、異なる感覚モダリティが交差し、再構成されるということが明らかとなっていくのである。ここでは、舞台上の接触と観客の間に複数の関係を作り出す経験の様式が現れる。舞台と観客の間の一方向的で直線的な関係として知覚を考えるのではなく、「接触する–見る」という概念が、多関係な経験の集合体として提案される。

若干のコメント

本書の魅力は、ダンス研究やパフォーマンス・スタディーズの分野で重要な触覚の問題を提起するとともに、より広範な意味でその理論を検討していることにある。この点で、カルチュラル・スタディーズや哲学を研究する学生にも有益である。また、コンテンポラリーダンスに関連する知覚や身体といったパフォーマンスの主要な概念についても検討がなされ、感情、リズム、関係性のモードといった概念に関する新しい視点が提供されている。ダンスに必要不可欠な「接触」の概念について深く議論しているという点では理論家だけでなく、実践者にも読んでもらいたい一冊でもある。

その上で実践者の観点から、筆者が最も関心を抱く第六章について手短にコメントする。

第六章では、「接触の振付」の中でも非人間(人工的な物質や有機的な物質、生物が含まれる)の問題が取り上げられ、インスタレーション型の作品や舞台上においてさまざまな物質を用いた作品が見受けられる。著者のエガートは、人間と人間以外の要素の間の多様な関係と手触りに満ちた世界を提案し、多様な物質と絶え間ない新しい関係と新しい集合体を生み出す無数の接触を、動きの集合体として論じる。この接触の振付は人間と非人間、物質的な動きと非物質的な動きの間の特定のつながりを生み出し、主観と客観、人間と非人間という二項対立を打破し、人間以上の関係の集合体として提示される。

上記の議論は、接触を通じて人間と非人間の運動を関係性の集合体として概念化することで、ダンスとパフォーマンスを記述し考えるための理論的・方法論的アプローチを提供する。その一方で、非人間側の身体や運動が接触の中でどのように感覚されうるのか、という問いが浮かび上がってくる。人間以外のものへの接触は、人間と非人間の関係性に基づくヒューマニティーの形態を育むと同時に、非人間のある種のダンスに対して人間には読み取ることができないものへの認識、人間と非人間の間に緊張関係をもたらすという点で「不協和的な」ものである。また、接触のプロセスの中では、地球に生きる生物に対する知識や感覚、通約不可能性を認識するような非言語的なニュアンスがしばしばあらわれる。この不協和なニュアンスは、踊る側がどのように他の種族とダンスをするのか、について着目する際に生じる、人間以外のものの動きを捉えることの不可能性を意味している。それが如実にあらわれるのは、形、姿、リズム、時間性といった生物的な不一致であり、そうすることで他の種族とのダンスがさらに興味深いものとなっていく。人間と非人間の接触においては、特に接触の振付の中に現れる不協和なニュアンスが強調されることで、非人間の接触する身体を再度見直すことへとつながると言える。なお、第六章において不協和なニュアンスへの議論が見落とされるのは、複数の世界と世界化の実践が組み合わされる際に生じる多元的なものの表象の活性化、人間と非人間の身体がどのようにサポートしあっているのか、への言及が省かれるからであろう。

とはいえ本書の提示する非人間への接触への着目は、視覚優位な現代社会におけるダンスと触覚の価値を再考し、人間以外のもののリズムへの接触へと開かれているという点で意義深いものである。また実践者においては、接触の中で人間と非人間との間に生じる抽象的な感覚として不協和音がどのような意味を持つのかについて本書の接触の理論を援用しながら、今後更なる議論が深められていくと言えるだろう。

文献案内

Manning, Erin. 2007, Politics of Touch: Sense, Movement, Sovereignty, University of Minnesota Press.

本書では、触覚について理論的に概念化しており、エリン・マニングはこの本の中で、映画とタンゴを取り上げ、触覚と近接性に基づいた政治理論を提唱している。

Paterson, Mark. 2007, The Senses of Touch. Haptics, Affects and Technologies, Routledge.

哲学と社会人類学の領域における触覚の概念について論じ、霊気の分析を通じて身体の問題を扱っている。

参考文献

  • Manning, Erin. 2007, Politics of Touch: Sense, Movement, Sovereignty, University of Minnesota Press.
  • Paterson, Mark. 2007, The Senses of Touch. Haptics, Affects and Technologies, Routledge.

謝辞

本書評の執筆にあたり、本書の著作者であるゲルコ・エガートさん、ダンス研究者の深澤南土実さん、平居香子さんから有益なコメントをいただきました。この場を借りて御礼申し上げます。

1 本書評では、「touch」の主な訳語を「接触」を使用している。ただし、文脈に応じて「触覚」としている箇所もある。

2 マニングの考える「潜在性」とは、「不完全なもの」、「まだ存在しないもの」、「生成するもの」のプロセスとして表現される触覚の動きを意味する(Manning 2007, 7)。潜在性は、行為や運動を実行する際に、現実化することで生まれる豊富な可能性を指す。潜在性は現実と反現実の「両方ともが存在する」という不確定性において現れ、常に新しい動きをもたらし、分岐させ、横断し、直線的な行動の連続を不可能にする豊富な可能性をもつものである。

出版元公式ウェブサイト

Transcript Verlag

https://www.transcript-verlag.de/978-3-8376-3329-0/beruehrungen/

Routledge

https://doi.org/10.4324/9780429030901

評者情報

吉田 駿太朗(よしだ しゅんたろう)

現在、日本学術振興会特別研究員(PD)として早稲田大学大学院スポーツ科学学術院に所属。専門は現代ダンス研究で、特にアマチュアダンサーの動きやダンスにおける間違いと見なされる「誤動」、AIにおける振付、環境ダンスと非人間の振付について研究・実践を行う。博士学位論文に、「欧米の振付実践の変遷からみるポスト・コレオグラフィー—『誤動』とジェローム・ベルを中心に—」(東京藝術大学大学院,2020年)。2018年よりアートコレクティブMapped to the Closest Addressの一員としてアート活動を行う。また、NPO法人月面脱兎社の副代表理事を務める。

researchmap:https://researchmap.jp/shuntaroyoshida

共同リサーチ:https://mapped-to-the-closest-address.jimdosite.com/