Tokyo Academic Review of Booksonline journal / powered by Yamanami Books / ISSN:2435-5712

2023年2月4日

エッケハルト・マルテンス 『子どもとともに哲学する』

有福美年子 / 有福孝丘(訳), 晃洋書房, 2003年

評者:堀越 耀介

Tokyo Academic Review of Books, vol.53 (2023); https://doi.org/10.52509/tarb0053

はじめに

本書は、ドイツで1980年頃から「子どもとする哲学(Philosophieren mit Kindern[“Philosophy with Children”])」の実践を始めた第一人者であり、かつ理論家でもあるハンブルグ大学(当時)のエッケハルト・マルテンス(Ekkehard Martens 1943-)による、P4Cの「基礎付け」(1頁)として書かれた。

1960年代後半からアメリカ・ニュージャージー州で「子どものための哲学(Philosophy for Children:P4C)」として、モントクレア州立大(当時)のマシュー・リップマン(Matthew Lipman 1923-2010)によって創始された活動は、約10~20年ほどのラグがあるとはいえ、比較的早期にドイツでも導入された。文化的・地理的な点を考慮すれば単純な比較はできないが、P4Cが日本である程度まとまった形で紹介され始めるのは、2000年前後である。

他方で、本書が書かれたのは1999年である。ドイツでの導入から20年ほどを経て、ようやく本格的な理論書が著された事情は、2000年前後に様々な哲学プラクティスが紹介され始めてから、同じく20年が経過した本邦の状況とも重なる部分が大きい。すなわち、著者自身が指摘しているように、P4Cが「ほとんど予測できなかったほどに普及し[…]実践経験は山のように集まった。[…]けれども欠けているものは、広範囲の基本的な哲学的基礎付けであった」(1~2頁)という事情である。これは、当時のドイツと同様に、学校教育を中心に急速的な広がりを見せている本邦の「子どもの哲学(P4C)/ 哲学対話」が、実践という点では多様な領域・方法で行われながらも、理論的な検討・研究の蓄積という点では、その割合が圧倒的に少ないという昨今の国内事情とパラレルだといえる。

そのため、著者によれば本書は、子どもとする哲学における「発達心理学的な、または学校組織的な前提」を解明することを目的としておらず、また、「教授的―方法論的な実践結果」を関心とするものでもない(19頁)。むしろ、「子どもと哲学すること」とは何であり、また、何であるべきなのかに関する理論的・哲学的な解明が本書の目的となっている。

その意味で本書評も、理論研究の発展が急務である本邦の哲学対話 / P4Cを取り巻く状況に、本邦ではやや影の薄い感のある本書の書評を通して、何らかの寄与を期待するものである。なお本稿では、後に補足するように、マルテンスの原語および含意を尊重して日本語では「子どもとする哲学(Philosophieren mit Kindern)」の表記を、他方で略号としては、世界的に浸透し使用されてきた“P4C(Philosophy for Children)”の語を採用することを始めにことわっておきたい。

要約

本書の構成は以下のとおりである。


日本語版への序文
前置き

1 どのようにそしてどこへ
2 思考において自身を方向付けること
3 対話‐行為
4 概念‐形成
5 驚くこと
6 啓蒙


前置きと第1章の要約

「子どもと哲学すること」の理論や実践について考え、議論する流れ自体は、第一次世界大戦後のドイツにおいて、1920年代から明確に存在していた。マルテンスは、ヘルマン・ノール、アーサー・リーベルト、レオナルド・ネルゾン、ヴォルター・ベンヤミンの4人をその潮流における代表的な登場人物として描く。子どもと哲学する活動は、いまでさえリップマン/マシューズの、つまり、アメリカ発祥・由来の“P4C”にプレゼンスがある。しかし「その大部分は、すでに1920年代にドイツで萌芽的な仕方で発展していた理念と実践の逆輸入であり、そのさらに発展したものである」(18頁)というのが、著者の見立てである。

たとえば、ノールは1922年の自身の論文で、学校において子どもの思考の中に哲学的な驚きや形而上学的な思考が存在することを確信していた。このことからノールは、専門分化されていない授業において小学校低学年の子どもには、彼ら自身の体験から生じるテーマを包括的に捉え、その意味を問うという仕方で、その形而上学的な思考や驚きを発展させるべきだと考えた。

ノールは、中学生においては、それぞれの専門の授業において一つの哲学的な概念から出発して考えるという方法を提唱したものの、そこでもやはり形而上学的・実存的な側面が最も重視されるべきだという点で一貫している。すなわち、いずれの場合もノールに共通しているのは、概念的・論証的な解明や批判的な問い返しは重要でなく、驚きや形而上学的な思考そのものの存在をより大切にする方針だ。マルテンスはこの立場を「形而上学―発想」と名付ける。後述するように、マルテンスにとってこの立場は十分でないとみなされる。

リーベルトは、これとは対照的に、1927年の自身の論文で哲学を教育という文脈に持ち込むことそれ自体を拒否した。彼にとって哲学は、あくまで少数の才能ある人のための「恩恵ある贈り物」だからである。哲学する才能は、自由な仕方でのみ伸ばされるのであり、すべての子どもに向けて行う一般的な授業にはなじまないというわけだ。

他方で彼は、アカデミックなそれではなく、「体系的に組み立てられた世界観という形での哲学」は、すべての人にとって必要であるという見方を示している。こうしたリーベルトの立場を、マルテンスは「指導―発想」と名付けて批判的に捉えた。実際、この立場は「国家社会主義」によって実現/取ってかえられてしまったからである。

ネルゾンは、こうしたリーベルトの立場には明確に反対した。ネルゾンの方法は、「ソクラテスの方法」(のちに、ヘックマンによって「(ネオ)ソクラティク・ダイアローグ」として発展させられた)と呼ばれる。それはソクラテスとカントの伝統から「自分で考えること」を基盤として、相手を尊重するような対話が目指される実践だ。

ネルゾンは、1923年に自身の教育舎である「哲学の学校」をも創設しており、「すべての人々の理性への信頼」から出発するこうした立場は、リーベルトの見解と激しく対立する。マルテンスはこれを「方法論―発想」と位置づけ、一定程度評価するのだが、ネルゾンが方法論的な側面を過度に重視することには懐疑的な立場を示す。また、「哲学の学校」自体は、その自由主義的な発想と政治教育の方針から、数年後にナチスによって閉鎖されてしまう。

ベンヤミンは、ネルゾンと同様に、すべての人はその理性によって思考することができると考えた。ベンヤミンの立場がネルゾンのそれと区別されるとすれば、それは、ベンヤミンが「哲学」を方法論的な側面に限定しなかったこと、そして「理性」の限界をしっかりと認識していた点にある。ベンヤミンはこうした立場について、1929年から32年にかけてのラジオ講演で、子どものための啓蒙にかんする自身の立場を積極的に発信していた点で特徴があり、マルテンスはベンヤミンの立場をもっとも好意的に解釈している。

上記の4つの立場、「4つの象限」を参考にしたうえで、マルテンスは自身の立場を「対話的―実用的な哲学の教授法」と位置づけ、その教育方法の名として「子どもとともに哲学する(Philosophieren mit Kindern / Philosophy with Children)」の語を採用する。この語彙選択は、「共同の活動としての哲学」という立場を強調するもので、「子どもとの対話(Dialogue with Children)」の表現を好んだマシューズの立場に近い。他方でマルテンスは、リップマンの採用した「子どものための哲学(Philosophy for Children)」の名称が、「あたかも、哲学は、大人たちのパースペクティブや専門の哲学のパースペクティブからへりくだって子供たちの基準に還元されるべきであるかのような、彼自身まったく望んでいないがありそうな誤解」(20頁)を招くとして、距離をとっている。


第2章の要約

アイデンティティをめぐる思考実験として有名な「テセウスの船」の物語は、もともと、たんに哲学的な思考を鍛えるためだけの手段ではなかった。古代の哲学者たちにとってそれは、祭礼の際の崇拝の対象であっただけでなく、プラトンの著作『パイドン』における不死の問題、ひいてはイデアの問題に通じていたからである。その意味で「テセウスの船」は元来、祭礼的で形而上学的、かつ実存的な問題に関連付けられていた。

他方でローゼンベルグは、この物語を「分析的に哲学すること」に特化させ、概念的―論理学的な分析の例として、すなわち、練習問題として作り替えた人物である。しかし、単に子どもが問いに対して意見を表明するだけでは、つまり、テセウスの船が同一であるかについての意見を表明しただけでは、「哲学」にはならない。ローゼンベルグによれば、それぞれの意見が概念的―論証的に吟味されたとき、はじめて哲学は始まるのである。

それでは、子どもには哲学ができないのだろうか。そうではない。マルテンスによれば、マシューズがかつてスコットランドで行った授業の中に、その根拠が見いだせる。

その授業の中で子どもたちは、「テセウスの船」を(しばしば大人的な観点としての)「方法論」として考えることにも、また、アイデンティティや人間精神の問題としてアナロジー的に捉えることにも、まるで興味を示さなかった。彼らは、非常に複雑な概念分析を白熱させただけでなく、喜びをもって、その問題を考えることを楽しんだのである。

たしかに、子どもは哲学者や大人のようには、言語的な鋭さや複雑な思考過程におけるねばり強さをもたない。他方で子どもは、ある決まった見方に縛られず、新しい洞察を自分自身にひらき、突き通すことができる。その意味で、子どもは大人や専門の哲学者よりも低級であるとは限らず、十分に哲学する能力をもつ。ここに、「子どもとともに哲学する」という共通のプロセスが可能であること、そしてそのためには、ここでいう「哲学」の概念を狭い専門性の極にも、大衆化された極にも据えないことが理論的な前提として構成される。

「思考において自身を方向づけること」と題された本章は、カントの論文のタイトルをそのまま流用したものである。マルテンスは、子どもが哲学することの意味を、カントとソクラテスの伝統の中に位置づける。そして、原則としてすべての人間に同じような自律性と理性の能力が与えられており、子どもにもまた同様に与えられているという前提から出発する。子どもはこの意味で、「子どもらしい」のではない。もちろん、その理性の能力は、子どもなりの特殊な状態や可能性に従ってではあるものの、やはり洗練され、作り上げられることができるものであり、また、そうされるべきだとみなされる。その実現のためには、カント自身が示唆していたように「ソクラテス的な対話」が有効だ。そこにみられる運動は、自由で自律的な人格としての人間の思考にほかならないからである。

こうして、「思考において自身を方向づけること」には二つの意味があるといえる。一つは、私たちが考え、話し、聞く中で「全体的なパースペクティブ」=「指針」を獲得すること。もう一つは、外的な権威ではなく、各自の自由な思考を信頼すること、この二つである。


第3章の要約

第3章では、リップマンのカリキュラムや、それが作成された時代背景、理論的なテーマが批判的に検討される。

リップマンが作成した一連のカリキュラムは、子どもの発達段階に基づいてテーマが設定された、各学年向けの「小説教材」、そして「教師用マニュアル」からなる。また、子どもに分かりやすいよう対話形式で書かれていることに加えて、「哲学史」ではなく「哲学すること」の学習に向けられたものになっている。

一方で、それは近代以降のいわゆる「言語分析」的な方法を重視して書かれている。そのため、リップマンのテキストは子どもがワクワクするようなものとしても、あるいは純粋に教科書的なものとして書かれたわけでもない。それはあくまで教師用の手引きが加えられた、哲学的な対話について考え議論するための材料である、というのがマルテンスの見方だ。

リップマンがこのように、自身のカリキュラムにおいて、厳密な論証や反省的な検討を重視したことはよく知られている。実際リップマンが、それらを適切に判定するため、「対話」の語に以下のような区分を設けている点は興味深い。


  • 哲学的対話:諸々の根本的な理念をあつかうこと、様々な思考の技能を道具的に使用すること、反省的な対話を実践すること、という三点で際立っている対話。
  • 非哲学的対話:たんに意見、記憶、説明が交換されるだけの対話。
  • 準哲学的対話:テーマは哲学的であっても、厳密な論証のない対話。あるいは、論証が「真理の探求」ではなく、それ自体「自己目的」となってしまう(つまり、それを正当化するために問いや反省が消失する)ような対話。
  • 疑似哲学的対話:哲学的な問いに関係はしているものの、「哲学的対話」として挙げられる特徴を欠いた「くだらないおしゃべり」であるにもかかわらず、自身を「哲学」と自負するような対話。

リップマンによる論証重視のカリキュラム設定は、合衆国の60年代中期・ベトナム戦争期の教育制度に対する当時の時代的な危機感と切り離せない。当時、学生と体制側は、ベトナム戦争が引き起こした政治的・倫理的な危機について話し合うための共通言語を見出すことに失敗した。当時の教育制度も、概念的、論証的にはっきりと自分の意見や関心を話す能力、様々な見解を合理的に扱う能力を育成するものにはなっていなかったのである。

リップマンは、「哲学の助けなしには、こうした状況が根本的に改革されることはない」という確信を持っていた。このことが、当時コロンビア大学の論理学・美学教授だったリップマンにコロンビア大との縁を切らせ、1974年にモントクレア州立大学にIAPC(Institute for the Advancement of Philosophy for Children)が設立された背景である。

リップマンが哲学的な対話と思考を重視するカリキュラムを作成した意図は、次のとおりだ。第一に、私たちが考えるのは言葉によってである。そのため、考えることを訓練するには、「話すこと」をも学ぶのが重要になってくる。第二に、リップマンにとって「思考」とは常に「自己思考」を意味する。第三に、哲学は、思考の教育や民主的な教育であるだけでなく、自由な人格の発展の手段であり表現でもある。こうした見解が、論理関係を重視し、対話を重視するリップマンのカリキュラム設計に結実している。

ただし、リップマンの構想にはいくつかの弱点や問題点もあった。①概念的―論理的な能力の強調は、「準哲学的な」、つまりテーマが哲学的なだけの、あるいは論証それ自体が自己目的となるような対話に陥りかねない。②こうした思考訓練を行う「哲学コース(課程)」の効用を外部向けに証明する義務が生じてくる。③こうした傾向は、当時のアメリカにおける「批判的思考ブーム」によって強められていた。こうした潮流に乗っており、かつ、個人資金で運営されていたIAPCは、その効用を強調し「市場化すること」に専心していた(せざるをえなかった)。

そして、④以下の二つの意味で、リップマンが目指した「学校化」に対する批判を理解することができ、そのうち一方はリップマンの弱点・問題点として指摘できる。

第一の意味では、言語分析的な手法の過度な強調と、それを「教えることができる」と考えたリップマンの見解に対する批判がある。すなわち、リップマンは思考訓練や反省の手段として「論理(学)的なトレーニング」の価値を過大評価しただけでなく、こうしたトレーニングの子どもに対する「動機付けの力」をも過大評価している。マルテンスによれば、この第一の意味でのリップマンに対する批判は正しい。

ただし第二の意味で、すなわち、こうした哲学カリキュラムを設定し、学校で教えるというリップマンの意図それ自体への批判は正しくない。なぜなら、段階的な学習を見越して、かつ、広範な基礎をもってすべての学校に「哲学するカリキュラム」を提供するのであれば、そのために教師を育成することを含めて、一定のカリキュラム化は不可欠だからである。

たとえ、「文学的に」感銘を与えるような本を読ませたとしても、それだけでは「哲学すること」にはつながらない。その意味で、詳細なカリキュラムと教師用の補助教材の整備は、論理学にとどまらない哲学思想を広く扱うのであれば、小学校一年生からでも行われるべきである。マルテンスによれば、その意味で、リップマンの功績は非常に大きい。

マルテンスによれば、著作における言及はほとんどみられないものの、リップマンは紛れもなく「二つの哲学」の影響を受けているという。それは、プラトンとデューイの影響だ。特に、リップマンとプラトンの共通点としては以下のものが挙げられるだろう。①社会的―政治的生活を哲学教育の助けによって根本から改新しようとすること、②子どもを大人と同様に哲学する存在としてみること、③テキストが対話形式であること、である。

他方で、両者における「対話」は次の点で異なってもいる。①リップマンのテキスト内の対話には、プラトンの対話編における「ソクラテス的存在」が欠けており、子どもたち自身がそれを引き受けている。この意味で、子どもは「助けのない状態」にあえて委ねられている。②このことは、しかしながら、リップマンのテキストを、論理的訓練や方法論的な思考のためだけの、脈絡のないものにしてしまっている。このように、討議される「内容」よりも「方法」に協調を置くリップマンの姿勢は、ネルゾンの「(ネオ)ソクラティク・ダイアローグ」の発想に近い側面がある(実際にリップマン自身も、それがドイツで実践されてきたことを把握していた)。③リップマンのテキストは、「文学的な質」を欠いている。④「実践的な生の方向づけ」を目標とするプラトンの対話に対し、リップマンにおいて子どもたちの洞察は、長期にわたる「人生の経験の結果」という観点からは、決して議論の対象になることがない。すなわち、子どもたちの「不十分な生の経験」が批判されることはない。その意味で、「子どもたちの自発的で内輪的な対話」という側面が強調されており、良くも悪くも「大人的な視点」が入り込んでいない。他方、その意味では、子どもたちが実存的な仕方で、その基本的な態度の根底まで揺さぶられるということもほとんどないだろう。


第4章の要約

リップマンの目標が「対話―行為」にあり、その意味で哲学的な対話も、論理的で言語分析的な手法を習得するための訓練として位置づけられていることは明らかである。

これに対してマルテンスは、子ども一人一人による「概念―形成」的なアプローチを正当化しようと試みる。これは、必ずしもリップマンの立場と対立しないものの、子ども自身が言葉に意味を与え、概念を拡張し、自分が概念形成の主体であることを学ばせるという哲学の側面を強調した見解である。この議論を展開するにあたってマルテンスは、実践としてはジュディ・カイル、ベリー・ヘンセンを、理論としては、マーガレット・ドナルドソン、ジョン・ウィルソン、ヴィゴツキーらを援用する。

オルセンによれば、認識には、「差異化(特殊化)」と、「接近化(適応)」の二つの表象がある。「接近化」とは、個別具体的な表象と経験にはまだ認識価値がほとんどなく、普遍化可能で学問的に吟味できる経験になって、やっと認識価値が出てくるという考えである。他方で、「差異化」とは、私たちが様々な目的や必要に従って、私たち自身のために現実に様々な構造を与え、現実を変えていくという意味を指している。

つまり、「差異化テーゼ」によれば、5歳の子どもですら自らにとって十分に価値ある認識をもつことができる。カイルの実践は、単に概念を分析し一般化するだけではなく、それを具体的な状況や発生状況に引き戻して考えるものだった。それによって、前者から後者への「急激な移行」という困難を回避することができる。

前者の過度な強調は、「知識による啓蒙」を「実践的な変化」と同一視する「ソクラテスの主知主義」を引き起こす。アリストテレスがソクラテスを批判したように、たとえば倫理学では、天文学や数学のような「理論的な知識」ではなく、「実践的な知識」が問題なのであって、「私たちは勇敢さとは何かを知りたいのではなく、勇敢でありたいのだ」。

ここでは、「概念実体化」の危険も同様に回避されねばならない。たとえば私たちは、「机とは何か」、「どこにあるか」、「どのようなときにあるかと」問うことができる。同様に私たちは、「意識とは何か」、「時間はどこにあるか」、「今とはいつか」と問うこともできるが、こうした問いは、子どもたちを「終わりのない困難」に陥らせる。すなわち、こうした問いは、「抽象的な概念」を「実体化」してしまっている。これによって、まさにバリー・カーチスが指摘しているように、子どもは「すべてのものには固定した表現があり、それらを小さな名札のようにして扱うことができる」と思いこまされてしまう。こうした傾向は、リップマンの教材の中にも見出される問題点だといえる。

カーチスが後期ヴィトゲンシュタインの思想をもとに、こうした危険性を単に指摘するにとどまった一方で、マルテンスは、自身の「概念―形成」アプローチの優位性を強調する。すなわちそれは、ヴィトゲンシュタインの思想から、こうした「概念の固定化」を回避するために、次のような点を学び、応用するものである。

マルテンスは、前期ヴィトゲンシュタインが論理学と数学の厳密さを主張していた一方で、後期においては「日常言語」を代表する立場に変容した点に注目する。ヴィトゲンシュタインは、もともと裕福な工場主の息子として生まれ、ラッセルやホワイトヘッド、ムアらの影響を強く受けていた。他方で、様々な遍歴を経たのち小学校教師となったウィトゲンシュタインは、子どもたちとのつきあいのなかで、彼らの具体的な学習にかんする困難や生活上の様々な問題に立ち入ることになる。そして次第に、「概念」でさえも様々な関係において様々に使われる、という事実に突き当たらざるをえなかった。言い換えれば、彼自身が様々な生活様式と「言語ゲーム」を経験したのである。

ヴィトゲンシュタインは、後期の思想で「言語使用の多様性」という事実を固守した。それは、マルテンスによれば、相互的かつ終わることのない吟味のために、認識要求の主観的な偏狭さを放棄すべきだという要請を含んでいる。その結果は、しかしながら、決して単なるアポリアではなく、様々な視点を相互に理解すること、そして概念分析と判断力によってその都度新たに考えることを支持する。マルテンスによる「概念―形成アプローチ」としての「子どもとする哲学」は、したがって、構造的で倫理的な目標設定をも持つのである。


第5章の要約

第5章は、マルテンスが一貫して(リップマンよりも)好意的に捉えている、P4C第一人者の一人であるマシューズの理論と実践に焦点があてられる。

マシューズは子どもと哲学することを通して、大人がかつては自然に楽しんでいたはずの哲学を、自分が教師として「再導入(reintroduce)」しなければならなくなっていることに疑問を持っていた。大人たちは、しばしば子どもの哲学的な驚きを軽視する傾向があるのである。しかし、マシューズはこの「驚き」こそが哲学の始まりであり、問いの根源であると考えた。そのため、「驚く」ということが持つ感情的な側面は、単に子どもたちが「ポーズ」として、あるいは「概念的なゲーム」としてではなく、「存在論的な感嘆」をもって問うこととして、実践上重視されねばならない。

そして「情緒的に驚く」ことは、それが単なる「熱中」へと「退化」していくのではなく(それはむしろ問題であるとみなされる)、ひとつの「認識」と呼べる段階にまで引き上げられなければならない。すなわちマルテンスは、カントに同意しつつ、哲学においては基礎となる原理や概念について厳密に、そして方法論的に導かれて熟慮することが必要だと考えた。そうでなければ、それは単なる「漠然とした考え」であり、哲学的な驚きも道を逸れていってしまう。その状態は、たんなる「熱狂」や「妄信」に過ぎないのである。

マルテンスの立場は、ここで非常に明確だといえるだろう。すなわち彼にとって、子どもの哲学的な驚きを、たとえば「童話」や「神話」のように「空想」を引き合いに出して解決してしまおうとすることは認められない。また、子どもや子ども時代を「ロマン化」しようとする情動や賞賛に身を任せ、概念化を避けようとすることは、それを「盲目的な世界観照として堕落させる」ことに変わりない。それらは決して、子どもとする哲学ではない。

従って、「子どもの驚き」は、子どもとする哲学において、きわめて慎重に扱われなければならない。むしろ子どもの純朴さや感激が、いかにイデオロギー的な仕方で利用されてきたかは枚挙にいとまがない。マルテンスが強調するのは、あくまでそれ自体は「まだ哲学ではない」ということだ。従って、子どもの驚きそれ自体をすべて「哲学」と名付けるのは誤りである。それは、哲学するために「不可欠」だといえるものの、決して「十分」ではない。

もちろん、「驚くこと」がなければ、「哲学すること」も始まらない。だが「概念的・論証的な訓練」なしには、「哲学」は不十分であるというのがマルテンスの一貫した立場である。一見、「驚くこと」はそれ自体が素晴らしい目的である一方で、概念的・論証的な訓練は、教育学的、民主的―政治的な目的を達成する手段であるかのようにみえることがある。しかしながら、あくまで両者は不可分に結びついており、どちらか一方が欠けていても十分に存立しない。従って、そのどちらかだけが哲学教育から排除されるべきではないのである。

ここで、マシューズの実践に見られるような、子どもの驚きを引き出し保持しつつも、内容的な誘導や結論を示すことなく問いかけ、吟味する方法は一考に値する。マシューズはリップマンとは異なり、物語や文学としても魅力的な絵本・著作、相対する立場が登場するような教材を頻繁に用いることで「驚き」の機会を確保した。一方で、彼は議論の中で注視すべき方向性を規制したり、結論を先取りしたりすることなく、進行役として「問い返すこと」、「まとめること」、「先鋭化すること」だけを行ったのである。

さらにマシューズは、話し合った問題や子どもの答えに対して、進行役が「よそよそしい態度」をとらないようにも工夫した。すなわち、師匠が弟子の仕事を自分の仕事に取り入れるような仕方で、子どもの考えを彼自身の熟慮や興味に巻き込み、表現したのである。このことによって、子どもは自分の見解が取り入れられたことを感じ、さらに対象や探究への関心を強める。マルテンスは、これを「徒弟―モデル」と呼んで評価している。


第6章の要約

マルテンスは、「子どもとする哲学」を実施するうえで、啓蒙主義とその伝統が様々な危険性、「恐ろしい教育学」に滑り落ちうることにも十分留意している。たとえばドイツの哲学教育において、それはヘルマン・ノールの「生徒のための世界観的な指導者としての哲学」であり、フーコーにおいては、「理性」の名において機能する規律が固定化していく、役割や言葉、思考、発話の問題として暗示されてきたわけである。ソクラテスの行った問答でさえも、一種の「支配の表現」といえるのであり、「しつこくて屈辱的な尋問」という側面がある。しかしながらマルテンスは、このように啓蒙の光が投げかける否定できない「影」の存在にもかかわらず、それを忌避することは、結局のところ相対主義的な教育学を擁護するに過ぎないとして、批判的な立場をとる。

こうしてマルテンスは、カントの「啓蒙のスローガン(汝自身の悟性を使う勇気をもて)」に立ち返り、それを支持する。それは、以下のような性格を持つ。①啓蒙のスローガンに従うことは、勇気を必要とする。それはまちがいや、痛みを伴う自己修正、不確実性、衝撃のリスクを孕むためである。②それに従うことは、人々が他人の受け売りを楽しそうに、また自説のように話すことや、根拠のないくだらないおしゃべりを台無しにすることでもある。③それは、ただ概念的―論証的な思考や発話によってのみ成り立つのではなく、対象に対する関心や実際の体験、認識によって支えられなければならない。④それは単なる「理論的な認識」ではなく、「行為や生活の方向づけ」でもある。

マルテンスは最後に、自身の理論的立場を次のように振り返る。まず、「概念―形成」としての哲学の側面がある。それは、単なる「抽象的な概念」の形成ではなく、「実践的な決断」、「世界の意味」、「実存的な希望」、「自己の意味」についての鍵となる概念を理解し、認識し、使用することだといえる。すなわち、それは「人格の自己形成」にかかわる「概念―形成」の能力であるという側面が重要だ。

次に、「対話―行為」としての哲学の側面がある。「概念―形成」は、常に内面的な自己の対話の中に他者の見解を登場させ、それを再び自身で批判するという構造を持つ。つまり、「概念―形成」は「独白的」にではなく、つねに「対話的」に理解される。それは「自問する」、「疑念を持つ」、「識別する」といった「表現行為」によって成り立つ。それゆえ、「概念―形成」は、「討議的」で「情動的」な側面をも持っている。それは「技術としての哲学」でもあるものの、ソフィストの論理やレトリックに従うような、中立的で機械的な、また任意の文脈に挿入可能で操作化可能な「知識」なのではなく、自由で個人的かつ共同的な反省の能力である。

最後に、「解釈過程としての哲学」の側面がある。上記の二つの能力は、それだけでは充分な仕方で存立しない。というのも、様々な観点から教えられ、訓練された知識をもつことで初めて、自分と他人の相互承認が可能になるからである。つまり、たとえまったく知らない人との間であっても、様々な視点・観点が現実に存在するものとして認識され、許容され、批判され、受け入られることができるためには、しばしば自分自身の中でははっきり決断できない「二者択一的な」(たとえば「トロッコ問題」のような)「知識」をもっていることが必要となる。そして、哲学はその教材を膨大に提供することができる。この意味で、哲学の方法と姿勢、内容(「哲学(史)」の知識)は、分かちがたく互いを補完し合っている。

哲学は、読み書き計算のように、人間の生活態度と生活形態の一つの基本的な文化的技術であるはずだ。マルテンスによれば、カントによって提唱された「啓蒙のスローガン」は、まだ始まってすらいない。哲学を教えることで推進されるそのプロジェクトのために、哲学の様々な技術は、教えられ、学ばれ、練習され、利用されねばならないだろう。

コメント

1999年当時、すでに一定程度P4Cの実践が盛んであったドイツ語圏における一大理論家/実践家による本書を日本語で読むことができる——このことには本邦のP4C研究にとって、大きな学術的意義がある。本書はあくまで当時のドイツにおける「P4C理論の不在」に対する学術的な著作であるとはいえ、実際に行われた対話からも議論が展開されている点で、実践を専らの関心とする向きにとっても意義深い著作になっている。すなわち、著者のアカデミックな哲学研究者としてのキャリアを背景として、P4Cという実践の理論的な部分に大きく焦点をあてることで研究書としてのエッジを利かせながらも、実践上得られた知見もしっかりと組み入れた手堅い著作であるというのが、読了後の最初の印象である。

P4Cにおいては、一にも二にも、いわゆる「第一世代」と呼ばれる合衆国の実践者・創始者たちの存在が圧倒的だ。すなわち、マシューズやリップマン、シャープらには、互いに無視できない程度に立場の違いがあったことはひとまず措くとしても、P4Cにかんする学術論文で彼ら(のうち最低でも一人)を引用しないことはほとんど不可能なほどである。その発展史・研究史に、ドイツの哲学教育の伝統とドイツ哲学の思想史から、本書のようなまとまった形での理論研究が加えられたことには、以下のような点で大きな意義があるだろう。

ドイツでは、日本に先んじること20年早くP4Cが実践され始めたことは、すでに述べた。そして広範囲における実践の広がりと理論研究の不在という同じ状況に、現在ちょうど本邦が立たされていることもまた、冒頭に述べた。しかしながら、ドイツと日本の決定的な違いは、ドイツには確かな哲学プラクティスないし哲学教育の伝統が、合衆国のP4C創生以前から存在したことである(もちろん日本にも林竹二という類まれな哲学教育/哲学対話の実践者が存在したことに無論言及しなければならないが、彼の実践は組織的なものではなかったことや、のちの時代に引き継がれなかったことから、ひとまず措くことにする)。

すなわちドイツでは、ネルゾンに始まりヘックマンにおいて相当程度発展させられ、また実践もされてきた「(ネオ)ソクラティク・ダイアローグ」の確かな、そして豊かな伝統がある。哲学的な思考や探究の教育実践を、ある程度組織的に行うという意味では、ドイツにはP4C的な活動が古くから、そしてはっきりと生成してきた歴史があるわけだ。つまり本書は、リップマン/マシューズに始まり、現在ではより高いプレゼンスをもつ“P4C”とは元来別系統の潮流に位置づけられる一方で、他方では、その「合流」(著者によれば「逆輸入」)を背景・契機とした理論研究という側面がある。その意味で、本書をどちらの視点から眺めるかによって、その味わいが変わってくる。いずれにしても、アメリカ流のP4Cを相対化し、批判的に発展させるに十分な理論的・実践的含蓄が本書にはあるといっていい。

ただしそれゆえに、訳者らも指摘している通り、タイトルから推察される内容と、その実際の難易度は一致しない。本書全体を精査しながら通読するには、ある程度の哲学史の知識が前提となるだろう。また、全編にわたって、「子どもとする哲学」の理論的な諸問題を論じるために、まずマシューズやリップマンらの議論が参照され、さらにその根拠を探究するため古典的な哲学者らの議論を参照するという構造が採用されている。そのため、「専門書」としての手堅さの反面、言うまでもなく「入門書」としては難易度の高い側面がある。副題には「ひとつの哲学入門書(eine Einführung in die Philosophie)」とあるものの、本書に「子どもとする哲学」の理論研究以外の側面があるとするならば、哲学的な思考や対話・教育のあり方を原理的、哲学的に論じた「専門書」という表現の方が、おそらく正確であろう。

それでもなお、あくまでP4Cの創始者であるリップマンの理論および実践の広がりを受けて「逆輸入」ないし「合流」が生じたこと、その経緯がマルテンスに本書を書かせたということ――この背景こそが、本書を理解する最も重要な点になることは間違いない。言い換えれば、本書はあくまで「P4C研究」という文脈から論じられることが第一の課題となる。その意味で本書評も、哲学史的な知識や背景それ自体より、「子どもとする哲学(P4C)」に関する歴史や背景、とりわけリップマンやマシューズ、ドイツにおける先駆者たちへの言及・批判などにフォーカスして要約を行った。従って本コメントでも、同様の観点にフォーカスして論じていくこととしたい。

しばしばP4C研究の文脈においてリップマンに向けられる一連の批判は、マルテンスの中にも多数見出すことができる。たとえば、マシューズにせよリップマンにせよ、「哲学する」にあたって子どもが「驚き」をもっているか、その問いを本当に考えたいと思っているかどうかを教育においておろそかにはしなかった。しかしながら、論理学的な訓練や言語分析的な手法を重視しただけでなく、こうした手法に子どもが自ら興味を持つと考えたリップマンと、子どもの視点を丁寧に拾いながら(「徒弟―モデル」)誘導はしない進行や、絵本を使うことで子どもを驚きへといざなうマシューズとの差異は、マルテンスにとって非常に大きかった。この点で、彼は終始マシューズに好意的な立場を取っている。リップマンやネルゾンの方法は、こうした意味で、マルテンスからすれば「方法論的側面(「方法論―発想」)」を重視しすぎているということになる。

他方で、マルテンスは自身のカント主義的な立場を強く内在化していて、哲学することにおいては、あくまで原理・原則を打ち立てることを目指すべきだという明確な立場も示している。そして、子どもの驚きを探究において大切にすることそれ自体と、子どもに対する「ロマン主義」的な視点から、子どもの驚きや発言をそのまま受け入れて賛美したり、概念的・論証的な吟味にかけないこと(「形而上学―発想」)を厳密に区別し、後者を激しく批判する。この点が、マルテンスの理論家としての独自性・オリジナリティであるといえるだろう。

子どもたち自身の関心に寄り添い、フレキシブルな手法好んだマシューズとの親和性を示しながらも、最後にはカントの「啓蒙のスローガン」を支持する——学校教育において、哲学(史)を「あさりまわる」仕方ではなく、あくまで自分自身で「哲学する」こと、すなわち子どもたちの、子どもたちによる概念形成や論証、対話によってそれが達成されるべきだと論をしめくくるマルテンスの立場は、P4C研究史上、充分妥当なものだといえる。そしてこのことは、他方で、哲学史の知識や内容を軽視してよいということを意味するのではない。むしろ、知識や内容とセットでなければ、哲学的な方法や態度もまた十分に教育できない——この主張も、P4Cにおける彼の穏当で堅実な立場を評価するポイントになっている。

他方で、やや判然としない点もある。たしかにマルテンスは、自身のカント主義的な「啓蒙のスローガン」を支持する際、理性や啓蒙主義の伝統の限界・危険性に言及し、そのナイーブな支持者ではないことを意識的に示し続けている。それは、ベンヤミンへの度重なる言及・引用や、リーベルトの立場(「指導―発想」)への一貫した批判から、はっきりと読み取れる。しかしながら、こうした著者の立場がP4Cの実践に際してどの程度、利用可能な理論的指標となるのかは(端的に、注意しておくべきくらいの意味なのかもしれないが)、やや曖昧であるように思われた。

というのも、マルテンスの立場がそのどちらの極をも占めていないということは明確に理解できる一方で、そのグラデーションないし、象限のどのあたりに位置づくのかは判然としないのである。言い換えれば、実際に子どもと哲学する中で、どういった方針をとること/どういった状態であることが理想的で、ここでのマルテンスの立場(過度な理性主義ではないといえる立場)に近いと言えるのかが本文からは見えにくい。この点を明らかにすることが、援用されるマシューズの理論や実践とマルテンスのそれを比較した際に、本来であれば、著者の理論的立場をより浮き彫りにするポイントになるように見受けられるのである。

無論、「理論研究」には様々な意義・側面があることは言うまでもない。しかしこの曖昧さは、実践の際に進行の方針として心に留めておき、その都度対話や探究の状態を判定するという意味で機能する「理論」としては少しつかみどころに欠ける。本コメントで著者に好意的に解釈してきた他のポイントは、この意味ではっきりと利用可能な「理論」となっている一方で、「啓蒙のスローガン」や「カント主義」的な立場はマルテンス理論の核心であるだけに、本来であればこの点にもう一つの明晰さがあってよいように思われた。

最後に、日本語訳について少しだけ言及して、本コメントを締めくくりたい。全体として、直訳的な翻訳を採用する方針がみられる印象で、ところどころ、一見したところでは意味が分かりにくい部分や用語が少なくない。

一例をあげるとするならば、たとえば、以下のような文章がある。


子供達とともに哲学することに身を任せることは、子供達の純粋に始めて驚くという働きを、例えば「空想」を引き合いに出したり、または、「概念」による「頭脳化(Verkopfung)」に反対する情動にかられたりして、盲目的な世界―観照として堕落させないということを意味している(Martens 1999:142=2001:141 本文ママ)。

これは、マルテンスの思想の根幹を表す文章の一つだといえるが、たとえば「概念による頭脳化」という訳は直訳的すぎて、一見したところ意味を取りにくい。ここで「頭脳化」と訳されている“Verkopfung”は、「対象を思考や概念で捉えることへの偏重」、「頭でっかちになること」の意であると考えられ、「概念で理屈っぽく考えること」くらいの意訳でもいいようにおもわれた。

また、原文(ドイツ語)では「一文」であることを示しつつも、訳文としての自然さに配慮する目的からか、日本語では「読点」が「句点」的な用法で使用され、一文の中にいくつものセンテンスがあるかのように訳されている箇所が少なくない。

たとえば、以下のような箇所である。


「だから」が間違っている、とビルギッテが見つけた、「だって、ハリーは、ただ惑星だけが太陽の周りを回転しているのだと思ったから」。二三の試行錯誤の後、子供達はついにハリーの間違いを定式化した、「すべての惑星はたしかに太陽の回りを回転するが、しかしだからといって、太陽の回りを回転するものがすべて惑星なのではない」と(Martens 1999:61=2001:57 本文ママ)。

上記の二点、すなわち直訳調の文章と句点読点の問題は、原文に忠実であるという意味では親切なようにもみえるが、かえって読みにくい印象を受けた。もちろん、原文と照らし合わせて読むには便利な側面もあるが、広くP4Cにかかわる/興味のある一般読者にとっては、内容的な難しさも相まって難解に見えることが想像される。

しかしながら、本書の大意を日本語で掴めることの意義は、本邦のP4C研究および実践にとって決して小さくない。また、現在ではやや手に入れにくい書籍であるとはいえ、日本でP4Cが広く実践されるようになる前の時点(2003年)で本書が訳出されていたという事実には、驚きすら覚える。たまたま現地で本書を手に取り、翻訳を決意したという訳者には、P4Cに携わる者として多大な敬意を表したい。本書評によって、P4Cや哲学対話にかかわる多くの方に本書が読まれることを期待する。

文献案内

P4Cにかんする文献は、国内外の理論・実践研究の発展状況を踏まえれば、いまや膨大な数にのぼる。従ってここでは、あくまで一般読者に向けて、翻訳や日本語で読むことのできる古典的ないし入門的でアクセス性の高い著作についてのみ挙げておくこととしたい。


  • Cam, P. (1995) Thinking Together: Philosophical Inquiry for the Classroom, Hale & Iremonger and Primary English Teaching Association(枡形公也監訳『共に考える 小学校の授業のための哲学的探求』、萌書房、2015年).
  • ———(2012) Teaching Ethics in Schools: A New Approach to Moral Education, ACER Press(枡形公也監訳『子どもと倫理学:考え、議論する道徳のために』、萌書房、2017年)
  • Gregory, M. Haynes, J. and Murris K. (Eds.) (2017) International Handbook of Philosophy for Children. Routledge (小玉重夫監訳『子どものための哲学教育ハンドブック:世界で広がる探究学習』、東京大学出版、2020年).
  • Lipman, M. (2003) Thinking in Education (second ed.), Cambridge University Press(河野哲也、土屋陽介、村瀬智之監訳『探求のコミュニティ:考えるための教室』、玉川大学出版、2014年).
  • Lipman, M., Sharp, Ann, M. & Oscanyan, Frederick, S. (1980) Philosophy in the Classroom (second ed.), Temple University Press(河野哲也、清水将吾監訳『子どものための哲学授業:「学びの場」のつくりかた』、河出書房新社、2015年).
  • Matthews, G. (1982) Philosophy and the Young Child. Cambridge, MA: Harvard University Press(鈴木晶訳『子どもは小さな哲学者』、思索社、1983年).
  • ———(1984) Dialogue with Children. Cambridge, MA: Harvard University Press(鈴木晶訳『続 子どもは小さな哲学者』、思索社、1987年).
  • ———(1996) The Philosophy of Childhood. Cambridge, MA: Harvard University Press(倉光修、梨木香歩訳『哲学と子ども 子どもとの対話から』、新曜社、1997年).
  • お茶の水女子大学附属小学校、NPO法人お茶の水児童教育研究会(2019)、『まなびをひらく――ともに“てつがく”する子どもと教師』、同研究会発行。
  • 河野哲也編(2021)『ゼロからはじめる哲学対話』、ひつじ書房。
  • 高橋綾、本間直樹(2018)『シリーズ臨床哲学第3巻 こどものてつがく――ケアと幸せのための対話』、大阪大学出版会。
  • 土屋陽介(2019)『僕らの世界を作りかえる哲学の授業』、青春出版社。
  • 寺田俊郎編(2021)『シリーズ臨床哲学第5巻 哲学対話と教育』、大阪大学出版会。
  • 豊田光代(2020)『p4cの授業デザイン:共に考える探究と対話の時間のつくり方』、明治図書出版。
  • 西野真由美(1997)「オ―ストラリアにおける子どものための哲学教育―思考力を育成する道徳教育のための一考察―」、『比較教育学研究第』第23号、65-80頁。
  • 堀越耀介 (2019)「探究のコミュニティにおける『思考』をどのように位置づけるべきか:子どもの哲学の目的をめぐって」、『思考と対話』第1号、23-33頁。
  • ———(2019)「第 24 回世界哲学会議参加報告――子どもの哲学(P4C)関連のセッションを中心として」、『思考と対話』第1号、62-67頁。
  • ———(2020)「子どもとする哲学(P4C)における教師の役割と権威性」、『思考と対話』第2号、38-49頁。
  • ———(2020)「ハワイ州における『子どもとする哲学(P4C)』実践動向にかんする研究報告――モデル校での取り組みを中心として」、『思考と対話』第2号、82-87頁。

謝辞

本書評は、JSPS科研費JP22J00700の助成を受けたものです。

参考文献

  • Martens, E. (1999) Philosophieren mit Kindern: Eine Einfuhrung in die Philosophie, Reclam, Philipp, jun. GmbH, & Co., Stuttgart(有福美年子、有福孝丘訳『子供とともに哲学する:一つの哲学入門書』、晃洋書房、2003年)。

出版元公式ウェブサイト

晃洋書房 (http://www.koyoshobo.co.jp/book/b312554.html)

評者情報

堀越 耀介(ほりこし ようすけ)

独立行政法人日本学術振興会 特別研究員PD(明治大学)/ 東京大学共生のための国際哲学研究センター(UTCP)上廣共生寄付講座 特任研究員。博士(教育学)。明治大学、静岡大学、武蔵野大学、横浜国立大学非常勤講師。専門は、教育哲学・哲学プラクティスで、特にジョン・デューイの哲学思想、「子どもとする哲学(P4C)」/ 哲学対話を研究している。学校でのP4Cのほか、町や公共施設での哲学カフェ、企業での社員研修や哲学コンサルティングも行う。主な論文・著作に“Philosophical Practices in Japan from School to Business Consultancy”(Philosophical Practice and Counselling 10(1) 5-33, 2020)、「哲学で開業する:哲学プラクティスが拓く哲学と仕事の閾」(『現代思想』 50(10) 98-107, 2022年)、『哲学はこう使う:問題解決に効く哲学思考入門』(実業之日本社、2020年)など。趣味は、バイク(中型)、スノーボード、ギター、水泳、自作パソコン、PlayStation、水耕栽培、廃墟探索。

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