2024年5月5日
秋山千佳『ルポ 保健室 子どもの貧困・虐待・性のリアル』
朝日新聞出版, 2016年
評者:柏木 睦月
はじめに
本書は、保健室を訪れる子どもたちと彼らに向き合う養護教諭の姿を詳細に記録したルポルタージュである。どこにでもある保健室のありふれた日常に垣間見える子どもたちの「生きづらさ」が描かれており、近年社会的な課題ともなっている子供の貧困・虐待・セクシュアリティに関する事例が記されている。筆者は「現代の子どもの抱える苦しさを解きほぐしていくためには、まず子どもの置かれた状況を知る必要がある(6)」という想いから、その場所として「保健室」を選択した(※以下、本書から引用した頁数についてはカッコの中に数字のみで示すこととする)。そしてそこで子どもたちに対応する養護教諭の「奮闘」に焦点を当てることで、子どもたちの困難さの本質を探ろうとしたのである。
本書では、学校保健を取り巻く課題や取り上げられている事例にまつわるデータ、保健室や養護教諭に関する歴史的背景などについても本文中において記述されている(それらは刊行当時のものではあるもののそれ自体を問うことはここでは必要ないだろう)。単純に保健室で出会ってきた子どもたちの事例を報告するのであれば、それは「とある中学校のとある養護教諭ととある生徒の一例」といったものにとどまるにすぎない。無論、このことが対象となる生徒自身の「生きづらさ」を描き出すには重要なファクターであることは当然のことである。しかしながら、本書が事例を通じて現代の子どもたちを取り巻く生きづらさの背景を丁寧にとらえることを目的としている点に鑑みれば、上述の客観的な情報それ自体が、これらの事例を一般化していくことに有用な情報となり得る。
従来、保健室や養護教諭にかかわる書籍の多くが、現職の養護教諭や元養護教諭、学校保健又は養護教諭研究に携わる研究者、養護教諭の職務を通して関わることの多い医者やカウンセラーなど、少なくとも何らかの形で「養護教諭」に関係のある人たちによって書かれてきた。その点に鑑みれば、本書がノンフィクションライターにより執筆されていることそれ自体が特徴的であるともいえる。著者のバックグラウンドが表れている点として、第一に筆者により報告された全ての事例において、当該生徒へのインタビューが試みられており、生徒自身の「生の声」が書かれていることである。時に卒業後のインタビューも含まれていることから、非常に長いスパンで子どもたちの姿が描き出されており、筆者のノンフィクションライターとしての手腕が遺憾なく発揮されているともいえる。第二に筆者は、保健室や養護教諭の存在を「学校」という極めて限定的な視点からではなく、「社会」とつなぐ接点の場所として規定し、いわば「外」から眺める形で子どもたちの実態を描き出そうとした。本書の意義はその点においても非常に画期的なものとして位置付けられよう。
要約
本書の構成は以下の通りである。
はじめに
第1章 いまどきの保健室の光景
第2章 虐待の家から出されたSOS
第3章 保健室登校から羽ばたく
第4章 性はグラデーションなんだ
第5章 変わりゆく子どもと保健室
おわりに
参考文献
まず、はじめに/第1章において保健室での「日常」が描かれる。取り上げられているのは、「とりたてて特徴がないという意味では、世間的には、普通の学校に見えるかもしれない(16)」都心から少し離れた住宅地の中にある東京の中学校1校と大阪の中学校1校、そして「生徒の学力向上に重きを置いている(57)」都心へのアクセスの良い東京の中学校1校である。本章ではそれぞれの保健室での子どもたちの様子とそれに対応する養護教諭の姿から、現代の子どもたちの様子が様々な形で紹介される。たとえば、自尊感情が低くマスクが手放せない子ども、いわゆる(発達障害などの)グレーゾーンといわれる子ども、虐待の可能性がある子ども、不登校・別室登校・保健室登校の子ども、「問題行動」を頻繁に起こす子ども、貧困によって生活習慣の乱れが見られる子ども、性被害にあった子ども、ネットいじめの加害/被害者となった子ども…などである。彼らの多くが、体の不調を訴えることで保健室に「避難」してきており、養護教諭たちはほんのわずかな「サイン」から彼らの「心の声」に気づき向き合い、手を差し伸べていく。
続いて第2章では虐待、第3章では保健室登校、そして第4章ではセクシュアルマイノリティをテーマに、3組の子どもと養護教諭の事例が中学校当時の状況だけでなく卒業後の様子まで報告されている。第2章の事例は児童虐待の定義にあたるすべてのタイプ(身体的虐待・心理的虐待・性的虐待・ネグレクト)を経験した生徒、第3章は精神疾患を抱えた保健室登校の生徒、第4章は性同一性障害(現在では「性別違和」と表現する)の生徒の様子が取り上げられている。どの章においても、各学校の状況(立地・生徒数・学校そのものが抱えている課題など)とともに、養護教諭たちのこれまでの経緯や信念、経験してきた印象的なエピソードもあわせて紹介されており、そのことがより立体的に各事例を理解する一助となっている。
第5章では、養護教諭の歴史や養護教諭に関する様々な課題、現代の子どもたちを取り巻く状況などが紹介される。特に第5章において、これまで(良くも悪くも)世間のイメージに依拠せざるを得なかった養護教諭の現実について、史実とデータで示している点においては、多くの読者がそのイメージとの「乖離」に少々の驚きを抱くかもしれない。最後に著者の取材と執筆による気づきと願いが記され、本書は閉じられる。
コメント
本書は2010年に保健室への取材をスタートし、途中東日本大震災の影響等による小休止を挟みながら2016年に刊行された。本書評を執筆している現在から考えると、一番早い事例からは実に14年程の時が経過していることになる。しかしながら、学校関係者を中心とした読者が読後感として抱くのはおそらく「今と何ら状況は変わっていないではないか」という感想ではないだろうか。すなわち、本書で中心的に取り上げ、タイトルにも記されている「子どもの貧困・虐待・性(セクシュアルマイノリティ)」だけでなく、間接的にでも触れている事例、たとえばいじめ(ネットいじめ含む)、性被害、発達障害、不登校(別室登校・保健室登校含む)、問題行動(とされるもの)…そのどれをとっても未だ学校において「課題(それも「(いわゆる)現代的」な課題として)」とされているものばかりなのである(いわゆる、とした点についての詳細は後述する)。
確かに子どもたちを取り巻く現状について言及するのであれば、当時より現実は変化している。行政機関として「こども家庭庁」が2023年4月1日に発足し、「こども基本法」が同日に施行された。子どもの貧困に関しても、2014年1月施行の「子どもの貧困対策の推進に関する法律」も2019年6月に現状に合わせ改正されている。他にも「児童虐待の防止等に関する法律」や「児童福祉法」が2020年4月に改正されたり、「性的指向及びジェンダーアイデンティティの多様性に関する国民の理解の増進に関する法律」が2023年6月に施行されたりと、この数年の法律面や制度面の変化を挙げれば枚挙にいとまがない。
学校教育の場に目を向けても、本書の刊行以降もハード面における整備は進められている。例えば『学校・教育委員会等向け虐待対応の手引き』が2019年に作成され(2020年には改訂版が出されている)、2022年には12年ぶりに『生徒指導提要』が改訂された。『生徒指導提要』では今日的な生徒指導上の課題として、「いじめ/暴力行為/少年非行(例えば喫煙・飲酒・薬物乱用など)/児童虐待/自殺/中途退学/不登校/インターネット・携帯電話に関わる問題/性に関する課題(性犯罪・性暴力・性的マイノリティなど)/多様な背景を持つ児童生徒(児童生徒の障害や健康問題等の個人的背景や家庭的背景等)」を取り上げ、個別に章を割きその対応について整理している。これらの「今日的な生徒指導上の課題」は、全て本書の種々様々な事例において取り上げられている課題である。特筆すべきことは、それらの課題が複雑に絡み合いながら一人の生徒の「生きづらさ」として表出されていることであり、どれか単一の課題によって保健室に来室しているわけではないことであろう。その意味においても、本書が現在までのありふれた保健室での日常を丁寧に、かつ如実に表していることは間違いない。
遅ればせながらの紹介にはなるが、養護教諭は「保健室の先生」の方が馴染み深い呼称であるように、「医師などと違って応急処置レベルを超えた医療行為は行わないが、医学や看護の知識や技能を持ち、子どもの健康問題に日常的に対応するため、主として保健室に常駐している(17)」教育職員である。養護教諭は、「海外にもいるスクールカウンセラーやスクールナースが、それぞれ『心』と『体』に特化しているのと異なり」、「心身両面の健康をカバーできる日本独自の職種であり、その手法もまた、日本の教育現場で独自に築かれてきた」歴史がある(7)。戦前の学校看護婦をルーツとしながらも現在は看護師免許に依拠せず学校に勤務し、学校教育法において「児童(生徒)の養護をつかさどる」と規定されている。文部科学省は2015年の中央教育審議会答申「チームとしての学校の在り方と今後の改善方策について」において以下のように養護教諭について言及している。
養護教諭は、児童生徒の身体的不調の背景に、いじめや不登校、虐待などの問題が関わっていること等のサインにいち早く気付くことができる立場であることから、児童生徒の健康相談において重要な役割を担っている。/さらに、教諭とは異なる専門性に基づき、心身の健康に課題のある児童生徒に対して指導を行っており、従来から力を発揮していた健康面の指導だけでなく、生徒指導面でも大きな役割を担っている。(文部科学省2015:28)
また、先述した『生徒指導提要』においても、養護教諭と保健室については以下のように述べられている。
養護教諭の活動の中心となる保健室は、誰でもいつでも利用でき、児童生徒にとっては、安心して話を聞いてもらえる場所でもあります。養護教諭は、けがなどの救急処置や身体の不調を訴えて来室する児童生徒はもとより、不登校傾向や非行傾向のある児童生徒、性に関する課題のある児童生徒などにも日常的に保健室で関わる機会が多く、いじめや虐待などの問題についても発見しやすい立場にあります。(文部科学省 2022:257)
以上のように本書で随所に書かれている保健室における養護教諭の対応は、これらの提言を体現したものとなっており、学校においてはその存在意義が高く評価されているといっても過言ではない。
他方で、養護教諭の置かれている状況や養護教諭そのものが抱えている課題というものも存在しており、本書ではそれが(特に第5章において)丁寧に描出されている。ここでは、大きく分けて①若手であってもベテランであっても養護教諭たちが自らの仕事に自信を持てない実情があること、②多くの学校で養護教諭は単数配置であることと養護教諭に対する公的な研修の少なさが相俟って、種々様々な課題の解決に対して養護教諭の自助努力に頼りがちな現状があること、③教師版スクールカーストが存在すること、の3点を紹介したい。
①については、若手は根本的な指導力や対応力、ベテランは特にスマートフォンを中心としたネットトラブルに対して自信が持てない現状がデータとともに示されている(219-24)。本書では、養護教諭の職務について書かれているのが学校教育法に規定された「児童/生徒の養護をつかさどる」の一文のみであること、「養護教諭の仕事の内実は、普遍的な部分と、その時々の子どもの健康問題によって変わってくる部分との両方がある(206)」という宍戸洲美教授(帝京短大(当時))の言葉を紹介しながら、「職務内容が細かく限定されていないため、柔軟に対応できる」ことの重要性を説いている(209)。すなわち、養護教諭は常にその時代ごとに変わりゆく子どもたちの健康課題に対して、職務内容を通じて解決の糸口を探りアプローチをしてきた存在と言える。他方でそれは、養護教諭の経験それ自体が職務内容の遂行に影響を及ぼし、柔軟に対応できるからこそ、養護教諭自身の力量が問われざるを得ないことでもある。そしてこれは②の課題とも非常に密接な関係にある。
本書では②の状況に対して「ハズレ」という表現が用いられている。本書では、虐待やいじめに悩んでいた生徒に対して「相談ならスクールカウンセラーにして」という養護教諭の対応や、異動により養護教諭が変わったり校種が異なったりすれば保健室経営の在り方が異なることの影響等が挙げられている。養護教諭は単数配置が多いことから「自分以外のやり方を学ぶ機会が少な」く、「保健室という殻に閉じこもろうと思えば閉じこもれる立場」でもあるため、養護教諭の中には若手・中堅・ベテランに関係なく「ハズレ」が存在する、ということである(225)。そしてこのような「ハズレ」を減らすためにも、本書では現時点において、「余暇を使って自費でセミナーに赴いたり、休日に同業の仲間と自主勉強会を開いたりしている」自助努力に任せるのではなく、「今以上に公的な研修を保障する(230)」ことが解決策として提示されている(229-30)。
③は、すなわち養護教諭が教師版スクールカーストの下位に置かれている実情が存在することである。本書では養護教諭が低く扱われる傾向について感じたことのない養護教諭はいない、という養護教諭の声が紹介されている。この点について補足するのであれば、それは決してあからさまな「カースト」だけでなく、日々の小さな言動の積み重ねの中に、おそらく相手も無自覚・無意識に存在しているものである。「養護教諭のくせに」「養護教諭なんだから」といったニュアンス(または直接的表現で)の対応をされた養護教諭は、本書の通りほぼ全員といってもあながち間違いではないだろう。すぎむらは、養護教諭について、教諭と同一化したい欲望と、差異化したい欲望の相反する二つの欲望に引き裂かれた存在である、と表現しているが、すぎむらの指す「欲望」の根底にも、この教師版スクールカーストの影響が多分に存在している(すぎむら 2014)。
2023年1月に報告された文部科学省「養護教諭及び栄養教諭の資質能力の向上に関する調査研究協力者会議 議論の取りまとめ」では養護教諭の置かれている状況が理解されていない状況があると指摘し、その背景には全校的な体制が十分に機能していないことにより、「自ら実施すべき業務」と「それ以外の業務」とが整理されていないことが要因として挙げられている(文部科学省 2023a:7-8)。その上で、養護教諭に求められる役割に焦点を当て、「養護教諭が校内の中心的な役割を果たすべきもの」と、「他の教職員との役割分担の中で適切な役割を果たすべきもの」とに分類しながら、職務の範囲を明確にする検討が加えられている(文部科学省 2023b:2)。また、それらを踏まえた上で、「国(文部科学省)において、今後早期に、養護教諭及び栄養教諭の標準職務を明確化するとともに、各教育委員会等においても、当該域内における養護教諭及び栄養教諭の職務内容を定め、併せて、その遂行のために求められる資質能力の明確化やそのための環境の整備や研修の充実を図ることを期待したい」と提言している(文部科学省 2023b:1)。これらの報告・提言は、たしかに前述の①②の課題を克服することにはつながる可能性を持ちえているであろうが、他方で③(教師版スクールカーストの現状)については当然ながら触れられていない。
ここまで、本書で浮かび上がってきた子どもたちの実態が特殊な事例ではなく、程度の差はあれども全国津々浦々の学校現場における日常の一コマである点に着目し、本書の内容に即しつつ補足してきた。あわせて、養護教諭の置かれている現状に対しても、より立体的に把握できるよう説明を加えたつもりである。
一方で、「本書を貫く子どもの生きづらさ」を別の視点から考えてみるのであれば、このような疑問も思い浮かぶのではないだろうか。すなわち、「なぜ、これらの問題が保健室に、そして養護教諭の役割・対応に集中しているのか」ということである。いつから「保健室は子どもを救う最前線(246)」となったのであろうか。そもそもなぜ「養護教諭=保健室の先生」なのであろうか。この点については、養護教諭及び保健室の歴史的背景も踏まえつつ考えてみることにしたい。
前述の通り、養護教諭は1905年の学校看護婦にルーツを持っているわけだが、養護教諭が全国の公立小中学校にほぼ100%配置されたのは1991年のことである(ちなみに複数配置の導入は1993年からである)。50%を超えたのは1972年頃であり、多くの学校において「養護教諭」が配置されていない状況が当たり前の時代も長かった(杉浦 2004:33)。
一方の保健室の歴史も同様に1898年頃を起点としている。保健室という呼称になったのは戦後であり、以前は「医務室」「衛生室」「治療室」「学校診察室」「養護室」など様々な呼称であった(吉原1999;山梨 2014)。当初は学校医制度を中心とする学校衛生事業の構想の中から生まれた施設であった。すなわち、そこを学校看護婦が処置の際に使用するようになった経緯があるだけで、構想当初から「養護教諭(学校看護婦)のいる場所として保健室(の前身となる施設)がつくられた」わけではない。
次に法律面から確認すると、現在、学校教育法施行規則において必置が定められている「保健室」に対し、養護教諭は小学校・中学校・義務教育学校・中等教育学校・特別支援学校では必置とされながらも、「当分の間、置かないことができる(学校教育法附則第7条)」ともされている。さらには幼稚園や高等学校では任意配置となっている。法律の側面から言えば必ずしも原則的には「養護教諭=保健室の先生」というわけでもない。
以上のように、戦後の制度史において、養護教諭と保健室は別々の成立過程を経ている一方で、養護教諭と保健室はその実践的な歴史において密接なかかわりのもとで発展してきた(柏木 2021)。
養護教諭と保健室の関係における一つの大きな転換点は1970年前後といわれている。1960年代以降、戦後の学校環境衛生が改善された一方で、急激な経済成長に基づく子どもの生活の変貌と受験ストレスにより、心の荒れや(不登校の以前の呼称である)登校拒否/学校ぎらい、いじめなどが学校現場における課題となった。それにより保健室が戦前からの(いわゆる)衛生室の意味合いの強い場所から「アジール(避難場所)」としての機能を持ち始めたのが1970年前後というわけである(数見 2001)。それ以降、保健室は「駆け込み寺」「オアシス」「心の居場所」などと表現されるようになり、そこを職務の拠点としていた養護教諭らもまた、それらの課題と向き合っていくことになったのである(なお、本書では1980年代を「保健室の扱う中心的な課題が、体から心へと移行していく過渡期(164)」と記している)。
現在の学校では、「保健室とそこにいる養護教諭」が前提であり、密接な関係の下で、日本の学校において欠かせない存在として位置づけられており、本書でも随所に保健室の機能と養護教諭の役割が連動している場面が描かれている。本書のタイトルこそ『保健室』となっているにも関わらず、他方でこれは保健室という空間そのものだけを指すのではなく、そこに常駐している養護教諭の存在を前提としている。このことからも、その密接なつながりは容易に想像できるものであろうことを付記しておきたい。
ここで本書評において提示したいのは、これまで保健室や養護教諭が果たしてきた役割は、上述の背景を踏まえれば、学校を取り巻く環境や学校や教室それ自体の在り方を問い直す契機でもあるのではないだろうかということである。上記の歴史的側面から考えてみれば、「現代的」とされている課題の多くはさかのぼれば半世紀近く前にその萌芽がみられていたわけである。また、転換点とされる1970年代の養護教諭の配置率が前述の通り50%程度だったことに鑑みれば、当時の学校において養護教諭「以外」の教員も含めてそれらの課題に取り組んできた側面もあるだろう。実際に、当時の学校保健関係者の専門雑誌をたどれば、学校全体で精神衛生に対する授業実践を行っている報告も確認できる。
「この学校は保健室がないと回らない(75)」と同僚である教員からも言われる状況は、確かに保健室と養護教諭の存在意義を確立させてきた経緯に拠るものであろう。他方でこのような見方はどうだろうか。数見は保健室と養護教諭の在り方について以下の通り指摘する。
近年の保健室に「かけ込み寺、オアシス、心の居場所、等」とさまざまな呼称で特徴づけられてきたのは、そこで働く養護教諭の存在や役割と人間性をも含めた積極評価だといえるだろう。しかし、その一方で、われわれは、そういう事態の不自然さ、異常性をも問題としないわけにはいかない。今日の子どもたちにとって、保健室が「心の居場」になっている現実があるとしても、他方で「子どもにとって真の居場所とは何で、どこなのか」と問わないわけにはいかない。(数見 2001:85-6)
確かに本書のように保健室や養護教諭の存在によって救われる子どもたちが数多くいることは事実であろう。その一方で、半世紀以上にわたって、保健室がアジールや心の居場所としてあり続けていることの意味それ自体を私たちは今こそ問い直す必要があるのではないだろうか。1970年代以降に保健室が持ち始めた機能を捉え直すことによって、学校・教室・教員(それは一般教諭だけでなく養護教諭も含む)が変容したであろう「未発の契機」に想いを馳せずにはいられない。
ところで、そもそも養護教諭のつかさどる「養護」とは具体的に何を指すのか、という問いについては、必ずしも画一した定義が存在しているわけではないが、日本養護教諭教育学会によれば、「児童生徒等の心身の健康の保持と増進によって、発育・発達の支援を行うすべての教育活動」とされている(日本養護教諭教育学会 2019:5)。加えてそれは、「教育職員である養護教諭に定められた固有の職務である」と解説されている(日本養護教諭教育学会 2019:5)。他方で、山梨は「『養護』が教育の根底をなす領域であるとすれば、子どもの発達や福祉への関与は、専門職としての教師も担うべき」と主張する(山梨 2015:273)。「過剰な独占化や領域の囲い込みは、それを主張する専門職以外の排他につながる」として、「『養護』が養護教諭の独占領域ではないことも考慮しなければならない」というのである(山梨 2015:273)。
本書では複数の養護教諭の言葉として「困った子は困っている子(67)」が紹介されている。「教師からみて問題行動の多い『困った子』は見方を変えると、様々な困難を抱えて助けを必要としている『困っている子』である」ことを意味し、安心できる保健室ではそのような「困った子=困っている子」を発見しやすい、というわけである(67-8)。本書で取り上げられている事例の一部を紹介すると、怠惰傾向のある生徒の抱えている問題について、担任は生徒個人の資質であると見立てる余り、その生徒に虐待の疑いがある点を見落としてしまっていた事例、勉強ができない子が保健室にいくことをサボりとして「指導」するだけで、その子の背景にあるしんどさに気づかず、結果として生徒が不登校に陥ってしまう事例などが挙げられている。それらにおいて、養護教諭が奮闘し、生徒自身に寄り添った対応をしたり、生徒の見方や指導の仕方を変える発言を行ったり、様々な教員や地域の機関と連携したりしながら関わっていく意義を本書では強調されている。
確かに、養護教諭の奮闘ぶりそれ自体は特筆に値すべきことであろう。文部科学省が提示しているように、養護教諭が教諭とは異なる専門性を持っていること、職務を通して専門性を発揮し、現在の学校において果たしていく役割があることは当然のことである。その一方で、もしも養護教諭の視点そのものを、全教員が持ち合わせていればどうであろうか。学校それ自体が保健室のような空間であったならば、子どもたちにとっての「学校」はどう変化するであろうか。筆者は以下のように主張する。
保健室はもっと、目を向けられるべき存在だ。それは、誰に讃えられずとも職務に励む養護教諭のためばかりではない。/養護教諭が日々キャッチしているのは、社会への発信力のない子どものSOSだ。/私たちは保健室を介して、見えづらいこのSOSを受け止めるべきだと思うからだ。/保健室を取り巻く環境は厳しい。しかし、子どもの心身を「養護」することはこの国の未来に直結する投資でもある。(249)
筆者の主張を保健室や養護教諭に限局せず、それ以上の可能性を秘めたものとして引き受けるのであるならば、前述した山梨が指摘するように、教員全体で子どもたちの発達や福祉への関与を担うことが求められるであろう。語弊を恐れず述べるのであれば、保健室や養護教諭に依拠せざるを得ない、その存在が前提としての「学校」には、保健室や養護教諭の存在によって捨象されてしまうものもあるのではないだろうか。
学校や教室は「父性的な関わり」が多く、養護教諭の存在は「学校の母性」としても機能している側面がある(210-2)。確かに、養護教諭には女性が多いのは事実であり、またその実践は「『ケアと教育』の綯い合わせ(布施谷 2016)」とも表現される。本書でも「養護」の解釈について「ケアと教育」と言い換えられている(208)。
学校の母性としての役割やケアの側面を養護教諭の職務に集中させながら、学校や教員それ自体の変容なくして学校運営を続けていくことには限界があるだろう。養護教諭の資質・能力の向上が提言されている一方で、その「資質・能力」が養護教諭だけに当てはまることが果たして学校の在り方として最適解であるのか、その方程式自体を今こそ問い直す必要がある。保健室を「アジール」として位置づける以上、学校や教室は「避難せざるを得ない空間であること」を前提としているからだ。
さらに別の側面からこの問題を考えるのであれば、「母性」や「ケア」を自明とすることで、たとえば男性養護教諭が増えにくい(受け入れられにくい)現状もある。文部科学省の2021年の学校基本調査によれば、国内の全養護教諭41,189人のうち、男性はわずか84人である(養護教諭全体の0.2%)。男性養護教諭を取り巻く様々な課題は、学校における養護教諭の「母性」や「ケア」を中心とした役割にも付随しているといえるだろう。本書においても、たとえば、「いつも笑顔を絶やさず『どうしたー?』と生徒を迎え入れる姿は『学校のおっかさん』と表現したくなる(17)」「花を愛し、落ち着いた華やかさをまとった女性(44)」「穏やかな話し方が安心感を与える、パステルカラーのエプロンの似合う養護教諭(57)」「おさげ姿が中学生以上にはまり、パタパタと校内を走り回る。白衣を着ていなければ生徒と同化しそうな雰囲気(72)」として登場する養護教諭の描写からもその一端が垣間見えるのではないだろうか。
無論、評者として、保健室や養護教諭が不要であるとか、これまで果たしてきた役割や実践が間違っているとか、そういうことを指摘したいわけではない。むしろ、保健室や養護教諭の存在を、学校それ自体の在り方だけでなく、教員の権威や権力・教育観の組み替えを生じる可能性を秘めているものとして考えたい、というのが本書評を貫く評者の意図である。
「保健室ほど、現代の子どもたちとりまく問題を明瞭に見渡す場所はない(9)」のであるならば、他方で「学校」「教室」が子どもたちにとってどのような空間であるのか、子どもたちにとって養護教諭以外の教員がどのような存在なのか。本書を手に取った際、「保健室は学校にとって必要不可欠な場所だ」「養護教諭は学校にいなくてはならない存在だ」という感想それ以上に、保健室や養護教諭を取り巻く課題そのものを学校教育そのものの課題として引き受ける視点から読んでいただき、社会との接続点である「学校」そのものの在り方についても今一度考えていただけたら幸いである。
文献案内
- 川又俊則・市川恭平(2016)『男性養護教諭がいる学校-ひらかれた保健室をめざして』、かもがわ出版。
- 木村元(2015)『学校の戦後史』、岩波書店。
- 木村泰子・小国喜弘(2019)『「みんなの学校」をつくるために-特別支援教育を問い直す』、小学館。
- 小国喜弘(2023)『戦後教育史』、中央公論新社。
- すぎむらなおみ(2014)『養護教諭の社会学』、名古屋大学出版会。
- 鈴木文治(2010)『排除する学校-特別支援学校の児童生徒の急増が意味するもの』、明石書店。
- ネル・ノディングズ著・佐藤学監訳(2007)『学校におけるケアの挑戦-もう一つの教育を求めて』、ゆみる出版。
- 山梨八重子(2015)「養護教諭専門職論の一考察:小倉学の専門職論の検討から」、『熊本大学教育学部紀要』(64)、267-274。
謝辞
本書評は、公益財団法人上廣倫理財団の研究助成を受けたものです。
参考文献
- 柏木睦月(2021)「1950~1960年代における養護教諭の職務と保健室の機能」『東京大学大学院教育学研究科基礎教育学研究室 研究室紀要』(47)、41-51。
- 数見隆生(2001)「わが国の保健室の歴史的あゆみと教育機能に関する検討」、『日本教育保健研究会年報』(8)、大空社、 77-86。
- 杉浦守邦(2004)「養護教員の戦後50年(第1報)」『日本養護教諭教育学会誌』7(1)、22-36。
- すぎむらなおみ(2014)『養護教諭の社会学』、名古屋大学出版会。
- 布施谷留美子・藤坂順子・富山芙美子(2016)「課題別セッション(4) 養護教諭実践におけるケアと教育 : あらためて子どもの発育発達を支える保健室実践を考える」『日本教育保健学会年報』(24)、107-112。
- 文部科学省(2015)「チームとしての学校の在り方と今後の改善方策について(答申)」中央教育審議会、2015年12月21日。
- ———(2022)『生徒指導提要』。
- ———(2023a)「養護教諭及び栄養教諭の資質能力の向上に関する調査研究協力者会議 議論の取りまとめ」、養護教諭及び栄養教諭の資質能力の向上に関する調査研究協力者会議、2023年1月17日。
- ———(2023b)「(別添1)養護教諭及び栄養教諭に求められる役割(職務の範囲)の明確化に向けて」、養護教諭及び栄養教諭の資質能力の向上に関する調査研究協力者会議、2023年1月17日。
- 山梨八重子(2014)「保健室のルーツとしての「摂生室」についての一考察―学校建築史にみる「養護室」「摂生室」をてがかりに―」、『熊本大学教育実践研究』(31)、73-81。
- ———(2015)「養護教諭専門職論の一考察:小倉学の専門職論の検討から」、『熊本大学教育学部紀要』(64)、267-274。
- 吉原瑛(1999)「保健室の歴史」『学校保健のひろば』(13)、大修館書店、12-15。
出版元公式ウェブサイト
朝日新聞出版(https://publications.asahi.com/product/18325.html)
評者情報
柏木 睦月(かしわぎ むつき)
十文字学園女子大学教育人文学部心理学科 講師。看護師・保健師を経て養護教諭として公立中学校・高等学校に勤務後、東京大学大学院教育学研究科に進学、同大大学院博士課程単位取得満期退学。現在は「戦後養護教諭養成制度における養護教諭の専門性の形成過程」を中心に研究している。主な著書に、小国喜弘編『障害児の共生教育運動―養護学校義務化反対をめぐる教育思想』(東京大学出版会、2019年)、渡邊洋子編『医療専門職のための生涯キャリアヒストリー法―働く人生を振り返り、展望する』(明石書店、2023年)がある。
researchmap:https://researchmap.jp/mutsuki-kashiwagi