Tokyo Academic Review of Booksonline journal / powered by Yamanami Books / ISSN:2435-5712

Categories: , ,

2024年10月31日

Michael S. Moore, Causation and Responsibility: An Essay in Law, Morals, and Metaphysics

Oxford University Press, 2009年

評者:山本 展彰

Tokyo Academic Review of Books, vol.66 (2024); https://doi.org/10.52509/tarb0066

はじめに

本稿は、Michael S. Moore, Causation and Responsibility: An Essay in Law, Morals, and Metaphysics, Oxford University Press, 2009(以下、本稿では「本書」とする)の書評である。著者であるマイケル・S・ムーアは、本書において、法における因果関係と責任について、倫理学および形而上学における議論を踏まえつつ、体系的な考察を試みる。少々回り道ではあるものの、まずは本書の主題である因果関係と責任について確認しておきたい。

因果関係とは、その名の通り原因と結果との間に成り立つ関係性を指す概念である。私が昨晩酔った原因は、ワインを飲み過ぎたことであり、そこに因果関係がある。このように、我々は日常的に因果関係を把握し、原因を特定している。しかし、因果関係を定義することは、実のところ難しい。ワインを飲み過ぎたことと酔ったこととの間にある因果関係とは、「酔ったことがワインを飲み過ぎたことに依存している」ということか、「ワインを飲み過ぎたことが酔う確率を上昇させた」ということか、どちらが正しいかを判断することは容易ではない。書評論文である本稿で詳しく論じることはできないが、因果関係とは何かをめぐっては、かねてより哲学において盛んに議論が交わされてきた。

因果関係は、法においても重要な概念である。とりわけ、複雑な事例においては因果関係が法的に大きな違いを生むことになる。例えば、AがCに致死量の半分の毒物X(致死量の半分であれば死亡には至らないものとする)を投与し、その後Aの行為を知らないBがCに致死量の半分の毒物Xを投与し、Cが死亡したとする(法学において累積的因果関係と呼ばれる事例である)。このとき、「Aによる毒物の投与」と「Bによる毒物の投与」は、それぞれ単体でCを死亡させないとしても、Cの死亡という結果の原因なのだろうか。この問いに対する結論は、因果関係をどのように定義するかによって変わりうる。そしてその結論は、CとDそれぞれの行為に、殺人罪について定める刑法第199条や、不法行為による損害賠償について定めた民法第709条を適用できるか否かに関わる。これら、様々な法を適用する際の要件として挙げられる因果関係は、法的因果関係とも呼ばれる。

法的因果関係をめぐる議論においては、しばしば責任についても言及がなされる。法的な意味における責任(以下、本稿では「法的責任」とする)は、法に違反した行為を行った者に対して課される責任であり、犯罪を犯した者に対して刑罰を課す刑事責任と、法的権利または法律上保護される利益に損害を与えた者に対して損害賠償義務を課すことを典型例とする民事責任とに大別される。法的責任の有無や範囲については、法的因果関係を根拠として判断する見解が有力に主張されてきた。

法的因果関係が法的責任を判断する際の根拠であるという立場は、直観的に受け入れやすいものと思われる。なぜなら、「友人が遊びに誘ったせいで試験に落第した」というように、日常的に我々は原因となった行為を実行した者に対して責任を問うからである。とりわけ、他者に対して悪しき結果をもたらした場合、原因となった行為をなした者に対しては法的責任のみならず道徳的な意味における責任(以下、本稿では「道徳的責任」とする)が生じうる。例えば、累積的因果関係の例におけるAとBに対しては、刑罰やCの遺族への損害賠償義務といった法的責任だけではなく、Cの死に対しての道徳的責任も問われうる。このように、法的責任と道徳的責任には、類似性を指摘することができる。他方で、遊びに誘った友人に対して法的責任を問うとは考えにくく、完全に一致するわけでもない。

以上のように、因果関係、法的因果関係、道徳的責任、法的責任それぞれの概念は、互いに何らかの形で関わりをもつ。本書は、これらの諸概念を統合的に理解することを試みるものである。

1.著者及び本書の構成

1.1.著者の紹介1

ムーアは、アメリカ合衆国イリノイ大学に所属する法学者であり、憲法学、刑法学、法哲学を専門とする。とりわけ、法哲学及び刑法学の交錯領域においては、アメリカ合衆国でも有数の研究者と評される。公刊された論文や書籍は数多くあるが、それらの中でも代表的な業績としては、刑法学における応報主義理論に関する研究(Placing Blame: A General Theory of the Criminal Law, Oxford University Press, 1997)、英米圏における刑事法学に通底する行為論に関する研究(Act and Crime: The Philosophy of Action and its Implications for Criminal Law, Oxford University Press, 1993)、そして本書にとりまとめられた法的因果関係と法的責任に関する研究が挙げられる。

1.2.本書の構成

本書は論文集の形態をとっており、序論、第1部から第6部に分けられた全20章からなる本論、そして補論によって構成される。本論以下に収められた内容のほとんどは、ムーアが本書の出版までに公刊した論文を加筆修正したものだが、既刊の書籍の内容を要約した章や、研究報告を基盤とした(本書の出版時点では)未公刊の章も含まれている。

本書の目次は以下の通りである。

『因果関係と責任:法学、倫理学そして形而上学からなるひとつの試み』

  • 序論
  • 第1部 道徳的責任と法的責任における因果関係の役割
    • 第1章 法的責任に関する理論における因果関係の包摂
    • 第2章 因果関係と道徳的非難
    • 第3章 行為者相対的道徳及び法における因果関係、そして帰結主義的正当化の許容性
  • 第2部 法理論による因果関係の本質に関する諸前提
    • 第4章 法の因果的諸要求に関する法自体の特徴
    • 第5章 因果関係の概念に関する法のそれらしい諸要求
    • 第6章 因果関係の概念に関する法の諸要求の刈り込み
  • 第3部 第一の袋小路:法的責任の前提条件として近因を過失責任に置き換える試み
    • 第7章 「抽象的な注意義務は役に立たない(Negligence in the Air Will not Do)2
    • 第8章 過失の犯罪又は不法行為にリスク内在損害テストを適用する際の概念的諸問題
    • 第9章 過失の犯罪又は不法行為にリスク内在損害テストを適用する際の規範的諸問題
    • 第10章 近因を測定するものとしてのリスク内在損害分析の記述的不正確さ
  • 第4部 「介在原因」が存在することの法的諸前提
    • 第11章 介在原因の法理論
    • 第12章 介在原因に関する理論のための形而上学的基礎の欠如
    • 第13章 共犯責任の過剰性
  • 第5部 因果関係項(causal relata)の形而上学
    • 第14章 因果関係項の問題への序論
    • 第15章 事実、出来事、状態、及び比喩的用語法に関する論争
  • 第6部 因果関係の形而上学
    • 第16章 反事実条件
    • 第17章 因果関係の反事実条件説
    • 第18章 独立し、非因果的に功罪を決定するものとしての反事実的依存性の役割
    • 第19章 因果関係の一般主義理論
    • 第20章 因果関係の単称主義理論
  • 補論 契約法と因果関係:説明

以上からなる本書は、分量もさることながら、各章の内容も充実しているため、本稿のみで本書の全てを十分に検討することはできない。そこで、本稿では、本書の序論におけるムーアの記述に沿って、本書の主たる主張、ムーアによる本書の説明と位置づけ、本論の各章で展開される内容を紹介し(2)、本書の主題である法的因果関係及び法的責任に関するムーアの見解について若干の検討を加える(3)。最後に、日本語で読めるものを中心に、本書と関連する文献を案内する(4)。

2.本書の概要:序論の記述を中心に

2.1.本書の主たる主張

本書において示されるムーアの主たる主張は、法的責任の前提条件としての因果関係が、科学的説明の中心に横たわる自然的関係としての因果関係と密接に関連しているというものである。この考え方の基礎にあるのは、道徳的責任が因果関係や意思などの自然的性質に重なるというメタ倫理学における自然主義的な立場と、法的責任は道徳的責任を負う者にのみ生じるという法理論における立場である。ただし、本書は、これら前提となる立場を擁護するものではなく、これらムーアが置く前提がどのように作用するかを詳細に示すものと位置づけられている。

2.2.著者による本書の説明と問題意識

本書は、既に指摘したように、法的因果関係を検討の対象とする文献である。法的因果関係を扱う多くの文献では、英米法圏において事実認定を行う陪審員へ教示される、法的因果関係の有無を判断するためのテストの定式が示される。しかし、ムーアも認めるように、本書は、法的因果関係の有無を判断するための正確なテストの定式化を試みない。その理由として、ムーアは以下の二点を挙げる。第一に、通常人は因果関係について既に強い共通の直観を持っているため、陪審員に対し詳細な学説上のテストを示すことが有用であるかは疑わしい。第二に、法において因果関係の有無を判断する際には行為者の意思の問題が関わるため、因果関係の有無を判断するテストの定式化だけでは不十分である。

このように、本書において法的因果関係の有無を判断するためのテストの定式が示されることはないが、ムーア自身は形而上学における因果関係の理解として、「Aに銃で撃たれたためにBが死亡した」といった個別具体的な出来事間に成り立つ単称因果関係が、「人が銃で撃たれれば死亡する」といった類型化された出来事間に成り立つ一般因果関係に対して概念的に先行すると考える単称主義の因果関係論を擁護する。単称主義の因果関係論に属する数ある立場の中でも、ムーアが支持する立場は、因果関係を還元不可能な基礎的な概念と捉える原初主義的な因果関係論ではなく、因果関係を物理的なプロセスと捉える物理主義的な因果関係論である。物理主義的な単称主義理論では、因果関係に関する究極的な真理はしばしば不明となるが、ムーアは、陪審員が有する因果関係の直観的理解が物理的状況について推測を試みるよりも発見的な可能性があると指摘する。

本書の問題意識を示すにあたり、ムーアは、法学における因果関係に関する代表的な通説として以下のものを挙げる。因果関係の探究は、因果的な寄与の実体(原因が結果に対して実際に与えた寄与)を対象とした一つの探究ではなく、事実的因果関係と近因(proximate cause:因果関係が及ぶ範囲を適切に限定するものとして伝統的に用いられてきた概念)という二つの異なる探究がある。事実的因果関係の探究が因果関係の科学的な問題を解決するのに対し、近因の探求は法的責任の射程という規範的判断の問題である。因果関係の科学的概念は、反事実的依存性、最小限の十分条件、結果の条件付き確率または結果が実際に有する確率の必要条件の条件付き確率の上昇である。結果は、その結果を加速させる出来事には反事実的に依存するが、結果を遅らせる出来事には依存しない。ある種の害悪は、被告が行動した時点で予見可能であったか、予見不可能であったかのいずれかである。ある過失を生じさせるような「ある」リスクがあり、それぞれの場合において、発生した損害がそのリスクの範囲内であったかどうかが問われるべきである。ある種の出来事が被告の行為とその後の損害との間に介在する場合、介在する出来事がなければ存在したかもしれない行為と損害との間のあらゆる因果関係が断ち切られる。少なくともいくらかの不作為は原因である。何かを防止することは、その対象の不存在を引き起こすことである。

これら以外にも因果関係に関する法学の通説は多岐に及ぶが、ムーアによれば、これらの常識的な法的言説はすべて誤りであり、事実認定を担う陪審員の誤解を招く可能性がある。たとえこれらの誤った言説が因果関係の有無を判断する上で有用であるとしても、正しい知識によって判断することが望ましく、因果関係、リスク、反事実的依存性に関する虚偽の言説を陪審員に伝えても役には立たない。

ムーアは、本書が因果関係の法的なテストにあまり注意を払わない主な理由として、実践的関心よりも理論的関心を持っているためであると述べる。ムーアによれば、多くの法理論家は、以下のような考えを共有している。第一に、法的禁止及び道徳的禁止の中核にあるのは因果関係ではなく、還元不可能な人間の行為者性である。第二に、危害を引き起こすことも、危害の行為者となることも、その危害の発生を意図したり、試みたり、リスクを冒したりすることで既に向けられる非難に加えて、さらなる非難を追加するものではない。第三に、行為と許可に関する学説の根底にある因果的な区別は数えきれず、混乱しており、空虚であり、あるいは道徳的なメリットを欠く。第四に、因果関係が法的判断や道徳的判断に関連することや、因果関係それ自体に関する事実的問題が存在することは疑わしく、予見可能性テストやリスク内在損害テストのような因果関係に代わる政策的な代替案、あるいは(経済的なものあるいはそれ以外の)より直接的な政策的な計算を用いることが望ましい。

さらに、これらの考えを持つ法学者たちは、因果関係の形而上学を難解であると感じており、因果関係の形而上学を解決不可能、恣意的、イレレヴァント、非民主的なものとさえ考えていると指摘される。この考えは、イギリスの法律家フレデリック・ポロック(Frederick Pollock)がかつて述べた「法律家は因果関係の形而上学について哲学者と一緒に冒険する余裕はない」という主張を継承するものである。その根拠の一つは、法が有する目的によって、形而上学と全く異なる法独自の因果関係の概念を作り出すことが正当化されるという見解に見出される。

しかし、ムーアによればこれらの法理論は誤りであり、本書は、その誤りを正すものとして位置づけられる。その意義として、ムーアは、因果関係の機能と本質がいかなるものかを解明することに価値があると主張する。ただし、その価値は、実務的な価値に留まらない。因果関係の機能と性質はそれ自体が理解されるべきものであり、これらを解明することに本質的な価値があると指摘される。

2.3.本書の概要

第1部では、因果的用語によって形作られた法学及び倫理学における学説が検討される。第1章では、不法行為法及び刑法における法的責任に関する諸規定が検討され、いずれの法分野においてもその用語法に拘わらず法的責任に関する考え方が因果関係と不可分であることが主張される。続く第2章では、不法行為法や刑法が因果関係を重視すべきか否かが改めて検討され、道徳的非難が行為者の意思や予見あるいはリスクのある行為を行うことによって危害を引き起こしたか否かに依存していること、そして法的責任に関する理論は道徳的非難の程度に依存しているために当然のこととして因果関係が考慮されることが主張される。第3章では、殺害や拷問の禁止のような一見絶対的な規範への違反であっても善い帰結をもたらす場合には正当化されうるという立場が検討され、法と道徳のどちらにおいても規範への違反に関する帰結主義的な正当化を許容するか否かを判断する際に因果関係が大きな役割を果たすことが主張される。

第2部では、法理論や倫理規範によって構成される因果関係の本質に関する前提が検討される。第4章では、因果関係の本質に関する前提について体系的な法理論が検討され、法において因果関係を判断する際に用いられるテストの分類を示すとともに、各種のテストが因果関係の概念にコミットしているかについて疑問が呈される。第5章と第6章では、体系的な法理論において法が因果関係をどのように扱っているかという観点から、因果関係について法が黙示的にコミットしなければならない要素が検討され、法が黙示的に採用する因果関係概念が人間の行動に関する常識的な説明や評価に組み込まれている因果関係概念とほぼ一致することが主張される。

第3部では、英米法圏の不法行為法における法的因果関係論の中で、近因概念に関してアメリカ法学において長らく標準的見解とされてきたリスク説(生じた損害を予見可能なリスクの範囲に含む過失ある行為を原因とする立場)が検討される。第7章ではリスク説の歴史と基本的な主張が説明され、第8章では、リスク説の中核をなすリスク内在損害テストが過失犯や不法行為において整合的ではないことが指摘される。第9章では、過失犯や不法行為に適用される場合、リスク内在損害テストが道徳的に望ましくないことが指摘され、第10章では、リスク内在損害テストがあらゆる犯罪や不法行為に適用される場合に、近因テストが対処し、また対処すべき問題に対応していないと指摘される。

第4部では、英米法圏における近因概念に関して、かつて通説的な立場であった直接原因説(生じた損害との間に直接的なつながりがあるものを原因とする立場)が検討される。第11章では、介在原因(第一行為の後に独立して介在したことで結果をもたらしたと考えられる他の行為)を通じてこのテストの理論的な複雑さが説明され、第12章では、因果関係の連鎖を切断する者が存在することを理解するための形而上学的可能性について考察し、介在原因の概念への回答が自然界には存在しないことが主張される。第13章では、共犯者責任に関する刑法学の理論の基礎である介在原因という前提が破棄された場合の問題が検討され、共犯者責任に関する様々な理論も廃止されるべきであると主張される。

第5部では、因果関係によって関係づけられるものの性質とは何かに関する形而上学的問題が検討される。第14章では、法の枠組を念頭に、因果関係によって関連づけられる出来事、事実、状態、物体、人物、特性などの諸関係を分類する方法の整理が試みられ、全ての因果関係項は、粗い「出来事」か、比較的細かい「比喩的用語法」「状態」「事実」のいずれかに還元されうることが主張される。第15章では、これら4つの還元可能性のうち、形而上学的には「状態」が因果関係の真の関係項であること、法学的には「出来事」が法的責任の基礎となる関係項であり、「出来事」は「状態」に基づいて構成されるものとして認識されることが最も望ましいと主張される。

第6部では、因果関係によって関係づけられるものの間の関係の性質とは何かに関する形而上学的問題を扱い、反事実条件説、一般主義理論(規範的十分性説、確率主義説、ヒューム的規則性説)、単称主義理論が検討される。第16章では、反事実条件文が検討され、因果関係の反事実条件説には、より古い法則に関連した見解と、より新しい可能世界理論という、分析的に異なる歴史的に重要な二つの見解があることが主張される。続く第17章では、可能世界理論に基づいた反事実条件説が検討され、因果関係を反事実的依存性と同一視するべきではないこと、反事実的依存性が因果関係の必要条件でも十分条件でもないために因果関係の有無に関するテストとして信頼できないことが主張される。第18章では、不作為、予防、二重予防、および因果的寄与が極めて小さい事例の法的責任を判断する際の反事実的依存性の位置づけが検討され、反事実的依存性と因果関係を同一視する点は誤りであるものの、これらの事例で反事実的依存性が因果関係とは独立に道徳的責任と法的責任を決定することが主張される。第19章では、因果関係を何らかの法則に基づく関係に還元しようとする因果関係の一般主義理論、特に法理論に大きな影響を与えたJ・S・ミル(J. S. Mill)と、その知的後継者であるH・L・A・ハート(H. L. A. Hart)、T・オノレ(T. Honoré)、J・L・マッキー(J. L. Mackie)、R・W・ライト(Richard W. Wright)の規範的十分性説が検討され、一般主義理論が反事実条件説と共有される七つの問題によって成立しないことが主張される。第20章では、様々な単称主義理論を区分し、一部の単称主義理論が因果関係に関する常識的な見解に最も近い理論として形而上学的に望ましく、因果関係に関する法的な前提に最も近いことが主張される。しかし本章において、現代の形而上学の議論において特定の単称主義理論の優越性が示されることはない。

本書の末尾におかれた補論では、アメリカ合衆国・ニューヨークにあった世界貿易センタービルのツインタワーに関する保険契約を題材として、契約法における因果関係が検討される。そして、契約義務が有する独特な性質は、因果関係の概念に刑法や不法行為法とは異なる要求を課すものと一般的に論じられているものの、特定の契約における明示的または黙示的な条項により、契約法における因果関係概念にもいくつか共通の基礎が見出されることが主張される。

3.若干の検討

3.1.本書の意義

本書は、英米法圏における法的因果関係と法的責任をテーマに、通説的見解を出発点として網羅的な検討を試みたものである。20世紀以降の法哲学分野における法的因果関係と法的責任を対象とした著名な研究としては、H・L・A・ハートとT・オノレによる『法における因果性』(第2版、原著1985年、邦訳1991年)がある。本書は、法的因果関係と法的責任をめぐる体系的な研究として、ハート゠オノレに続く現在の到達点とも言うべきものであり、ここに本書の最大の意義があると言えよう。

また、本書において展開されるムーアの見解は、因果関係を科学的説明の核として位置づける科学哲学の通説的見解を前提とし、法に固有の因果関係概念が成り立つことに対して否定的な立場である。英米法圏における法的因果関係論では、伝統的に近因の概念が用いられてきたように、法に特有の因果関係概念を措定することに対して肯定的な立場が主流である。日本における法的因果関係論においても、民法学における伝統的通説である相当因果関係説(「あれなければこれなし」という反事実条件文で判断される条件関係を前提に原因と結果との間に相当性がある場合に民法上の因果関係を認める立場)や、刑法学において有力な危険の現実化説(行為に内在している危険性が現実の因果経過及び結果惹起によって現実化している場合に刑法上の因果関係を認める立場)をはじめ、多くの学説において法には固有の因果関係概念があることが前提となっている。

しかし、ムーアの見解は通説的な立場とは異なり、法的因果関係を自然世界における事実の問題として捉える。このような立場をとることによって、法的因果関係は、哲学における因果関係概念と同一の地平に置かれることとなり、哲学における因果関係をめぐる議論へと開かれることになる。哲学、とりわけ科学哲学では、今日においても因果関係に関する数多くの学説をめぐって盛んに議論が展開されている。ムーアがとる立場は、法的因果関係をめぐる理論的研究の可能性を開拓する意義を有すると言える。

このように、本書は多方面に及ぶ意義を有しており、大いに魅力的なものである。しかし、問題がないわけではない。以下では本書の中核をなす「因果関係」「法的責任」「科学的説明の核としての因果関係」の三点に分け、若干ではあるが本書の内容を批判的に検討する。

3.2.因果関係をめぐる問題

第6部において示されるように、ムーアは、哲学における因果関係に関する議論状況を以下のように整理する。まず、哲学における因果関係をめぐる諸々の立場は、反事実条件説、一般主義理論、単称主義理論の三つに大別される。そして、一般主義理論は規範的十分性説、確率主義(ここでいう確率主義は確率上昇説を指す)、ヒューム的規則性説を含むものとされ、単称主義理論は物理主義、単称因果を反事実的依存性に還元する反事実条件説、単称因果を単称的な偶然性の発生として識別する確率論的理論を含むものとされる。

このようなムーアの整理は、哲学における因果関係をめぐる議論を体系的に整理した文献において多く見られるものとは異なる。もちろん、各学説の整理が独自のものである点自体は、大きな問題ではない。しかし、ムーアの整理に基づけば、哲学において有力な因果関係を反事実条件文あるいは結果発生の確率に還元する立場は、それぞれ反事実条件説と単称主義理論、一般主義理論と単称主義理論にまたがっており、きわめて難解なものとなっている。哲学における因果関係をめぐる議論それ自体がかなり複雑な状況である点には留意しなければならないが、ムーア自身も問題視するような、法理論家が哲学における議論を敬遠するという傾向をこの整理によって解決できるかは疑問である。

よりクリティカルな問題としては、哲学における因果関係をめぐる議論のうち、近年注目を集めている理論が検討されていない点を挙げることができる。近年注目を集める理論としては、物理主義(プロセス説、旧メカニズム説)を批判的に発展させた新メカニズム説、結果をもたらす複数の十分条件の集合を原因とし十分条件集合に含まれる必要条件を部分的原因と定義するJ・L・マッキーが提唱したINUS(Insufficient but Necessary part of an Unnecessary but Sufficient condition)説の系譜に連なる見解であり非還元主義的な因果的影響関係を基礎的な因果関係とするカイロス説、統計的因果推論を方法論とする非還元的な認識論的理論である介入主義などがある。本書の出版年を踏まえると、これらの近年注目を集める立場を検討していない点は致し方ないであろう。しかし、今日において、法的因果関係を自然世界における事実の問題とするムーアの立場を前提とする議論を展開するならば、近年の動向を踏まえた検討は避けられない。

3.3.法的責任をめぐる問題

法的責任について、ムーアは、法的責任、道徳的責任、(事実的な)因果関係の三つが連続的な包摂関係にあることを前提とする。そして、不作為によって悪しき結果がもたらされたと考えられる事例や、作為によって良き結果が阻害されたと考えられる事例など、これまで因果関係を基礎として法的責任の有無を判断することが困難とされてきた事例では、因果関係と反事実的依存性との連続性を否定した上で、反事実的依存性が独立に道徳的責任と法的責任を決定するという立場をとる。このようなムーアの見解は、不作為の事例等における責任に関する我々の直観的な判断と一致するという点で一定の説得力を有している。

しかし、法的責任の中には、ムーアの見解には位置づけられないものもあるように思われる。例えば、被用者が事業の執行にあたって第三者に損害をもたらした場合に使用者が責任を負う使用者責任(民法第715条)は、因果関係及び道徳的責任と連続性を有する法的責任、あるいは因果関係とは独立に反事実的依存性を基礎とする法的責任と位置づけられるだろうか。使用者責任が問題となる事例において、第三者に損害をもたらしたのは使用者とは異なる人格である被用者であるため、被用者の行為が他から独立した因果関係を構成するものと考えるのが自然である。したがって、使用者責任が因果関係及び道徳的責任と連続性を有するとは考えにくい。他方で、第三者に損害をもたらした被用者を使用者が雇用しなければ、あるいは使用者が被用者を適切に監督していれば、第三者が損害を被ることはなかったと考えることができるならば、反事実的依存性に基づいて使用者責任を位置づけることが可能かもしれない。しかし、第三者に損害を与えた被用者が40年前に雇用された者である場合や、遠隔地へ出張中であった場合、使用者の雇用や監督と第三者が被った損害との間に反事実的依存性があると考えることは困難であろう。さらに言えば、使用者責任が問われる主体は企業等の法人であり、ムーアが想定する法的責任の枠組で扱うことができるかは議論の余地がある。

したがって、法的責任に関するムーアの見解においては、法的責任の多様な類型を理論的に位置づけることが困難である。ハート゠オノレは、法的責任には法的因果関係を基礎とするものと「法政策(law’s policy)」を基礎とするものがあると指摘したが、使用者責任は後者にあたると考えて良いだろう。ハート゠オノレのように、因果関係及び道徳的責任と連続性を有する法的責任と、法政策的な法的責任が並立するものとして位置づけることが理論的に明解であるように思われる。

3.4.因果関係を科学的説明の核とすることについて

本書において、ムーアは、因果関係を科学的説明の核と位置づける。このような理解は決して不自然なものではない。なぜなら、20世紀末以降の科学哲学においては、科学的説明を因果的説明として特徴付ける因果説が台頭したことで、現在の科学的説明論の研究の中心が因果的説明の分析となっているからである。しかし、因果的説明ではない(少なくとも因果的説明には見えない)科学的説明があることは繰り返し指摘されてきた。これまで、非因果的説明は科学的説明における例外的なものとして扱われることが多かったが、近年、あらためて非因果的説明を科学的説明論における重要な課題として捉える議論が活発になっている。このような科学的説明をめぐる近年の議論を踏まえると、当然の前提として因果関係を科学的説明の核として位置づけてよいかは、議論の余地があると言えよう。

さらに、科学的説明に関連するものとして、科学的理解論を参照した検討がなされるべきであると言える。近年の科学的理解論では、以下の二つの見解が共有されているとされる。第一は、「ある事象の科学的理解とはその事象がなぜ生じたのかを理解することであり、科学的説明によってもたらされる」という説明的理解に関する見解であり、第二は、「科学的説明によってある事象がなぜ生じたのかを理解するとは、その事象の因果関係に関する説明(因果的説明)を把握することにほかならない」という科学的説明の因果説と呼ばれる見解である。

他方で、科学的理解論では、因果的説明の「把握」(すなわち、科学的理解)とはどのようなことかについて、「因果的説明の把握とは因果的説明を知ることである」とする知識説と、「因果的説明を把握するとは因果的説明を知ることとは別の事柄または因果的説明を知ること以上の何かである」とする反知識説の二つの立場が対立している。法理論における因果関係概念の作用を解明するという本書の目標を達成するためには、科学的理解論を参照した検討も必要であると思われる。

4.文献案内

  • B. Kahmen and M. Stepanians (eds.), Critical Essays on “Causation and Responsibility”, De Gruyter, 2013.
  • H. L. A. Hart and T. Honoré, Causation in the Law, Second Edition, Oxford University Press, 1985[井上祐司ほか(訳)『法における因果性』(九州大学出版会、1991年)].

①は、本稿では取りあげなかったが、本書を批判的に検討した論文をとりまとめた論文集である。収録されている論文には、法的因果関係と法的責任に関する伝統的な論点を含めたものも多く、本書をより深く検討する際には参照すべき論文集であると言えよう。②は、本稿でも言及した法哲学者H・L・A・ハートとローマ法学者T・オノレによる、法的因果関係と法的責任に関する大著である。こちらは日本語で読むことができる。

  • Helen Beebee, et.al., (eds.), The Oxford Handbook of Causation, Oxford University Press, 2009, pp.279–298.
  • S. Mumford and R. L. Anjum, Causation: A Very Short Introduction, Oxford University Press, 2013[塩野直之゠谷川卓(訳)『哲学がわかる 因果性』(岩波書店、2017年)].
  • D. Kutach, Causation, Polity Press, 2014[相松慎也(訳)『現代哲学のキーコンセプト 因果性』(岩波書店、2019年)].

③、④、⑤は、いずれも哲学における因果関係論のハンドブック・概説書である。本書を読み解くにあたって、複雑な議論状況である哲学における因果関係論の動向を把握する際に有益な情報を得ることができる。特に、④と⑤は、日本語で読むことができる貴重な概説書である。

  • 清水雄也゠小林佑太「因果的説明論の現在:可操性・メカニズム論・カイロス説」フィルカル6巻1号108–134頁(2021年)。
  • 小林佑太 「説明的理解論の現在:把握・知識・理解」フィルカル6巻2号180–205頁(2021年)。
  • 小林佑太ほか 「非因果的説明論の現在:多元説・還元的一元説・非還元的一元説」フィルカル6巻3号146–174頁(2021年)。

⑥、⑦、⑧は、本稿3.2及び3.4で取りあげた論点について、近年の科学哲学における因果関係論及び科学的理解論における議論状況を日本語で把握することができる極めて貴重な論文である。書評という性質上、細かなレファレンスを付けることはできなかったが、本稿においても大いに参考にさせていただいた。

  • 山本展彰「法的因果関係における反事実条件文の法理学的検討(一)・(二・完)」阪大法学71巻6号95–115頁・72巻1号97–123頁(2022年)
  • 山本展彰「介入主義を応用した法的因果関係論の構想」阪大法学72巻6号136–98頁(2023年3月)。

⑨、⑩に掲げる拙稿は、法的因果関係について哲学における因果関係論を参照し検討したものである。⑨では、日本法における議論の展開を踏まえつつ、法的因果関係論において判断基準として用いられてきた反事実条件文について、哲学における因果関係の反事実条件説を参照し批判的に検討した。⑩では、近年の哲学的因果関係論において通説的な立場である介入主義を法的因果関係論に応用する可能性を示している。

おわりに

本稿を終えるにあたって、改めて本書の意義と、本書の主題である法における因果関係と責任をめぐる研究の今後の展望について記しておきたい。

本書は、英米法圏の因果関係と責任に関する理論的研究として、到達点と評して差し支えないものであり、哲学における因果関係論を参照した法的因果関係に関する理論的研究の可能性を開拓するものである。

他方で、本書と関連する哲学における因果関係論、科学的説明論、科学的理解論は近年盛んに議論されている領域であり、最新の議論を踏まえた研究がまたれる。また、ムーアが採用する法的責任の位置づけについては、その多様なあり方を整合的に把握すべく、再検討がなされるべきであろう。

謝辞

本稿は、法的責任への多角的アプローチ研究会(2024年2月4日、小樽商科大学)における報告内容に加筆修正を加えたものである。研究会において有益な質問・コメントを頂いた、菅原寧格氏、中山竜一氏、宮田賢人氏にこの場を借りて御礼申し上げます。また、本稿の執筆にあたり、構成や説明を加えるべき用語等について助言をいただいた宮田賢人氏には、重ねて御礼申し上げます。

1イリノイ大学ウェブサイトに掲載されている著者の紹介(https://law.illinois.edu/faculty-research/faculty-profiles/michael-s-moore/#about[2024年2月1日最終確認])を参照。

2評者註:“Negligence in the Air Will not Do”は、イギリスの法律家であるフレデリック・ポロック(1845–1937)が残した法格言。Negligence in the Airは、直訳すると「宙に浮いた過失」となるが、抽象的な注意義務(行為者の心理状態)を意味することから意訳を用いた。この法格言は、過失を具体的な行為と具体的な損害との関係において判断すべきであることを述べたものである。

出版元公式ウェブサイト

Oxford University Press (https://global.oup.com/academic/product/causation-and-responsibility-9780199256860)

評者情報

山本 展彰(やまもと のぶあき)

専門:法哲学、防災法、科学技術のELSI(倫理的・法的・社会的課題)

所属:横浜国立大学大学院国際社会科学研究院講師

主な論文:

  • 「法的因果関係論の法理学的再検討(一)(二・完):ハート゠オノレとその批判者を中心に」阪大法学68巻6号・69巻1号(2019年)
  • 「法的因果関係における反事実条件文の法理学的検討(一)(二・完)」阪大法学71巻6号・72巻1号(2022年)
  • 「介入主義を応用した法的因果関係論の構想」阪大法学72巻6号(2023年)

など

Researchmap:https://researchmap.jp/yamamotonobuaki

Categories: , ,