Tokyo Academic Review of Booksonline journal / powered by Yamanami Books / ISSN:2435-5712

2025年1月24日

ティモシー・ウィリアムソン 『テトラローグ:こっちが正しくて、あんたは間違っている』

片岡宏仁(訳), 一ノ瀬正樹(解説), 2022年

評者:伊藤 克彦

Tokyo Academic Review of Books, vol.68 (2025); https://doi.org/10.52509/tarb0068

1.はじめに

本書は、現代英語圏の分析哲学の領域において、世界的にも著名な哲学者の一人であるティモシー・ウィリアムソン(Timothy Williamson)が執筆した哲学の入門書であるTetralogue: I’m Right, You’re Wrong(Oxford University Press, 2015)の邦訳書(この本を参照する場合は、原書と邦訳のページ数を併記する)である。2024年12月現在、ウィリアムソンは、マイケル・ダメット(Michael Dummett)やデイヴィッド・ウィギンズ(David Wiggins)などの著名な哲学者が歴任したオクスフォード大学のウィカム論理学講座名誉教授(Wykeham Professor of Logic Emeritus)であるとともに、現在は哲学分野の上級研究指導フェロー(Senior Research and Teaching Fellow in Philosophy)に就いており1、哲学的論理学、言語哲学、認識論、形而上学、哲学方法論など、現代分析哲学の領域の中でも特に理論的色彩が強い分野に多くの業績を残している。代表的著作としては、Vagueness(1994), Knowledge and Its Limits(2000), Modal Logic as Metaphysics(2016), The Philosophy of Philosophy(2021)などが挙げられる。哲学者のチェン・ボー(Chen Bo)によると、特にKnowledge and Its Limitsは、英語圏の哲学者に強い影響を与えたとされ、認識論の領域において「知識第一主義」(knowledge first)と呼ばれる立場を構築した代表的文献として知られる(Williamson and Bo:66–67)。

上記で挙げたウィリアムソンの主要著作を読んだ時に、恐らく読者の誰もが感じる印象は「極めてテクニカルな議論」というものではないだろうか。少なくとも初めて私がウィリアムソンの著作や論文を読んだ時の感想はそのようなものであり、著作の多くで論理学的アプローチが頻繁に用いられる。本書はテクニカルな議論で知られるウィリアムソンが一般読者を対象にしたものとしては初めて出版された哲学入門書であり、少なくとも本書では一般読者を恐れ入れさせるようなテクニカルな論理学的アプローチは用いられていない。代わりに採用されたのは、サラ、ボブ、ザック、ロクサーナという、それぞれ癖のある4人の登場人物によって繰り広げられる「対話篇形式」によるアプローチとなっている。

本書評は、以下のような流れで構成されている。まず本書の内容を概観し、次に本書の特徴として、(1)哲学における論理学的アプローチを一般読者にアピールする、(2)(ある種の)相対主義と可謬主義への批判、(3)ポピュラー哲学の実践、という3つの点が挙げられることを指摘し、それぞれについて評者による検討を加える。

2.本書の紹介

本書は、一般読者をターゲットとしている入門書という位置付けから、シニカルなジョークも含めて非常にユーモラスな表現が数多く散見され、一般読者も親しみやすい構成となっている。またそのようなジョークやユーモラスな表現が本書ではかなり意識的に訳されており、訳者の姿勢に好感を持った。このように一般読者に対する敷居の低さが相当程度意識される一方で、この本で扱われている哲学的議論そのものは、それほど容易に理解できるわけではないという第一印象も評者は受けた。本書では章末に「ふりかえり」という形で議論の要約が付されているが(この要約は原書には存在しない)、本書評でも本書の内容を一度振り返ることにしよう。


(1)各登場人物の役割

まず、本書は、サラ、ボブ、ザック、ロクサーナという4人の登場人物が登場し、それぞれの立場から哲学的問答が行われることになるのだが、かなり意図的にそれぞれの役割分担がはっきりと明確に分けられており、この役割分担を理解することが本書を理解する上で重要になる。以下では簡単に各登場人物の役割分担を説明する。

サラ:科学主義の立場を主張し、ボブのような反科学的主張を認めない。またどんな考えも間違いうるというマチガイ主義(可謬主義)の立場も支持する。
ボブ:魔女や魔術の存在を認め、サラのような科学主義的な立場に批判的である。
ザック:相対主義者であり、サラやボブのような主張はそれぞれに利点があるということを主張する。また各人の視点はそれぞれ正しく、お互いの主張が尊重されるべきだとも主張する。
ロクサーナ:第Ⅱ部で登場し、論理学的思考を重視する。またサラのマチガイ主義やボブの相対主義の立場に批判的である。


(2)第I部「調停の危機」のまとめ

魔法や魔女の存在を信じるボブと、それらを迷信だと否定する科学主義を支持するサラの間で論争が起こる。それに対して、「サラの立場もボブの立場もそれぞれの視点から見て正しい」と主張する三人目の登場人物であるザックが現れ、二人の間を調停しようとし、ザックは自身の立場が「相対主義」と呼ぶことができることを認める。相対主義の立場から見れば、「正しさ」や「間違い」に関する絶対的な基準を前提とする絶対主義は否定しなければならない。しかしながら、「主張Aは自身の視点から見て正しい」というザックの相対主義的主張が批判にさらされたとしても、ザックは「『Aは自身の視点から見て正しい』という主張Bも自身の視点からみて正しい(もしくは他の視点からだと正しくないかもしれない)」と言い訳することができるが、こうなると「『Aは自身の視点から見て正しいという主張Bも自身の視点からみて正しい』という主張Cも自身の視点から見て正しい」(以下D, E, ...と無限に続く)という流れで真理を相対化する作業が無限に続いていってしまう。


(3)第II部「真理の恐怖」のまとめ

第Ⅱ部で示唆された相対主義の問題点に関する議論が引き継がれ、真実や虚偽や蓋然性などの正しさの基準を巡って、サラ・ボブ・ザックの3人の間で論争が起こる。ここで4人目の登場人物であるロクサーナが登場する。ロクサーナは論理学のアプローチを用いることで、真理や虚偽について理解することは可能だと主張し、真偽の原則としてアリストテレス由来の「現にそうではないことをそうであると言ったり、現にそうであることをそうでないと言うのが虚偽である。一方、現にそうであることをそうであると言ったり、現にそうではないということをそうでないと言うのが真理である」という(現在では、言明と事実の対応関係を重視する「真理の対応説」とも呼ばれる)基準を提案し、この原則でいくつかの事例で真偽の基準が適用できることが確かめられる。

しかしながら、真偽の基準を素直に採用することに抵抗がある他の登場人物は、「確実性の基準で問題ないのではないか」、「思考の真偽と、物事を語る時の真偽は違うのではないか」、「物事には境界例が多数あるのに、真偽で区別することにどのような意味があるのか」などの異論を提起する。最後にロクサーナの立場に対して、サラは、「反対意見への寛容さを重視し、自らの主張が常に誤る可能性を認める」マチガイ主義者(可謬主義者)であることを主張し、真偽の基準をハッキリと認める立場とマチガイ主義の立場と相対主義の立場の間で更に議論が白熱する。


(4)第Ⅲ部「傲慢の利点」のまとめ

真偽の基準をハッキリと認める立場とマチガイ主義の立場と相対主義の立場の間との 論争が継続され、まずマチガイ主義の問題点が検討される。マチガイ主義はあらゆる断定に「自分は間違っているかもしれない」という留保が付けられるため、どのような場面でも、ハッキリとした断定を行うことができない。たとえば、「5+7は12だが、自分は間違っているかもしれない」と言うことは、断定しなければいけない状況にもかかわらず、安易に断定を避けているのではないかという疑問が投げかけられる。

次に、どのような条件によって「知っている」と言えるのか、つまり知識が成立する条件とは何かという問題が取り上げられ、知識には権威性が伴うというザックの相対主義的な立場と、科学的な証拠や論証の重要性を訴えるサラの立場が対比される。最後に相対主義の立場に訴える問題点やマチガイ主義を擁護することの困難が確認されることになる。


(5)第Ⅳ部「価値の悪徳」のまとめ

次に道徳的な問題に対して、相対主義の立場が適用できるのかという点が検討される。これまで科学主義者のサラは相対主義の立場に消極的であったが、科学的証拠で確かめることのできない道徳的問題に対しては相対主義の立場、いわば「限定的な相対主義」が採用されることを主張し、ザックを喜ばせる。サラやザックの立場をさらに検討するために、狭義の道徳的問題だけではなく、マナー・エチケットの問題や「おもしろい/つまらない」などの趣味趣向の述語についても考察範囲を広げるが、限定的な相対主義を採用した場合であっても、相対主義の立場を擁護することは困難であることが確認され、ロクサーナはその代案として、道徳的判断を意思決定の推論システム全体に位置付けることを提案する。

3.評者による検討

2022年9月10日に、英国オックスフォードの私邸にて、ウィリアムソン本人に面会する機会に恵まれた。その会合の際に本書が話題になったのだが、彼によると、「この本では、私はロクサーナの立場に近く、また相対主義者のザックを批判する意図があったのだが、その意図に気づかない読者が多く、むしろザックに好意的な意見が見られた」とのことであった。著者によるこの感想はその時点では意外なものに感じたが、時間が経つにつれ本書の特徴の重要な側面を象徴していると考えるようになった。この点の考察も含めて、以下では本書の内容を検討していく。


(1)哲学における論理学的アプローチの位置付け

ウィリアムソンが著作や論文において頻繁に論理学的アプローチを用いることはよく知られ、また、本人も述べるように、ウィリアムソンとロクサーナの立場はかなり近い。本書での印象深い場面として、私は第Ⅱ部における「真理や虚偽について理解したければ、礼節より論理学の方がずっと助けになりますよ」(原書:p.44, 邦訳55頁)という台詞と共に現れるロクサーナの登場シーンが思い浮かぶのだが、私はその登場シーンに畏怖の感情すら覚えた。本書はそこまでテクニカルな論理学的手法を用いた議論が行われているわけではないが、哲学のアプローチの一つとしてウィリアムソンは論理学的手法に対する一定の意義を読者に強調したいという意図は感じられる。

G.フレーゲの『概念記法(Begriffsschrift)』(1879年)や、B.ラッセルの「記述について(On denoting)」(1905年)を代表例として、分析哲学の初期の時代において、論理学的手法が重視されていたのは、明らかである。しかし、形而上学から美学に至るまで、現代の分析哲学の考察範囲は過去と比較してあまりにも広がっている。大西琢朗は「言語哲学をやるならいまや言語学との連携は必須だし、物理学とか生物学とか、自然科学の哲学をやるならそれぞれの分野分野で統計学がかかわってくる」(大西2022: 97)と現在の分析哲学の状況を指摘するが、確かに分析哲学の考察範囲が広がるほど、習得すべきディシプリンや知識が増えており、「現在の分析哲学において、今なお論理学的アプローチの重要性を強調する意義は何か?」という疑問を投げかけることはできるかもしれない。この点に関しては、論理学的アプローチの重要性が相対的に薄れつつある現状だからこそ、敢えて論理学的アプローチの意義を訴えたいという意図がある可能性は十分考えられるし、またそのようなアプローチを重視する姿勢を自身の哲学として展開しており、本書は何よりもウィリアムソン自身の哲学を一般読者にアピールしたい目的もあると推測する。ただ、もともとテクニカルな側面を否定することが難しい「哲学における論理学的アプローチの意義」を一般読者にアピールすることは非常に骨が折れる作業である。ウィリアムソンがこのアピールに成功しているかどうかは、本書で取り扱われている複数の哲学的問題に対して、この方向性がどこまで説得力を持つかどうかに依存する。次の節では、本書で取り扱われている哲学的問題に対して、ウィリアムソンがどのように議論を展開しているかという点に注目してみよう。


(2)相対主義・可謬主義に対する批判

本書の全体を概観すると、主に、(a)「相対主義一般」(Ⅰ–Ⅱ部)、(b)「可謬主義(マチガイ主義)」(Ⅲ部)、(c)「道徳的相対主義」(Ⅳ部)という3つの立場に対して、主にロクサーナの指摘やコメントを通じて、反論が試みられている。

 (a)「相対主義一般」に対する批判(第Ⅰ–Ⅱ部)

ザックは、「相対主義一般」の立場を擁護し、真偽や虚偽のような単語を使うと、誰かの信念が他の誰かの信念よりすぐれていると判断することになると主張する。ザックの主張に対するロクサーナの批判は、以下のようなものである(原書:pp.44–51, 邦訳55–64頁)。例えば、ボブのような「魔法に効き目がある」という主張とサラのように「魔法に効き目はない」という主張が対立した時、「現にそうではないことをそうであると言ったり、現にそうであることをそうでないと言うのが虚偽である。一方、現にそうであることをそうであると言ったり、現にそうではないことをそうでないというのが真理である」というアリストテレス由来の真理の原則を導入すると、それぞれ「魔法に効き目があるのは、現にそうである通りなので、真理である」というボブの主張と「魔法に効き目はないというのは、現にそうである通りなので、真理である」というサラの主張をそれぞれ導くことができる。結局のところ、サラもボブも「現にそうであることを言うことが、そうでないことを言うことよりも勝る」という暗黙の仮定を前提としているため、ボブもサラも真理と虚偽とでは、(現にそうであることをそうであると言ったり、現にそうではないことをそうでないことを表現する)真理の方に重要性を置いているということも仮定しているとロクサーナは主張する(また、「真理」と「虚偽」という単語を用いなくても、異論を呼ぶ価値の比較は生じるということがロクサーナの主張の主眼なのだとも強調している(原書:p.48, 邦訳60頁)

ロクサーナの主張は、サラの「魔法に効き目がないと主張することに対して、そのことが真だと結論しない(せいぜい蓋然性が高いという主張で止めようとする)」立場と、ザックへの「真理という言葉を用いることは、一方の意見だけを優れているものとして判断している」という立場への批判となっている。

私にはロクサーナの主張は説得力があるものと考えるが、本書では必ずしもロクサーナの主張を決定的なものとして扱わず、あくまでもその説得力を読者の判断に委ねる書き方がなされているように感じられ、相対主義的傾向の強い読者には、ロクサーナの主張に必ずしも説得されないのではないかという疑問を持った。

 (b)「可謬主義(マチガイ主義)」に対する批判(第Ⅲ部)

第Ⅲ部では、(特にサラが支持する)自分の知識が常に誤っている可能性があることを認める「可謬主義(マチガイ主義)」に対する批判が展開されている。私の解釈では、ロクサーナの言葉を借りる形で、この立場は次のように批判されている(原著:pp.77–85, 邦訳98–108頁)。「知る」という状態は何らかの断定(assertion)が含まれる。例えば、「5+7=12である」という知識は、ただ単純に蓋然性の高いだけの信念ではなく、「5+7=12である」というある種の断定が含まれている。「知る」という状態には、その種の断定が含まれるにも関わらず、そこに「間違っているかも」と付け加えることにどれほどの意味があるのかというものである。

しかし、初学者や入門者の視点からは当然の疑問なのではないかと思える「信念の中でも断定できるものが知識だとするのであれば、(断定はできないが)蓋然性の高い内容で構成された信念は、なぜ知識と呼べないのか」という点に対する説明が本書ではあまり説明されておらず、やや不親切な印象を私は持った。また、この批判に関しても、本書では必ずしもロクサーナの主張を決定的なものとして扱わず、あくまでも、その説得力を読者の判断に委ねる書き方がなされている

 (c)「道徳的相対主義」に対する批判(第Ⅳ部)

ここでは、あらゆる事象や主張に対して「相対主義」を主張する「相対主義一般」ではなく、道徳的判断に限定して「相対主義」を主張する「道徳的相対主義」が扱われて、批判の対象とされている。第Ⅳ部では、ロクサーナが道徳的判断を(道徳的判断だけには限らない)意思決定の推論システム全体に位置付けることを提案する。例えば、以下のような意思決定の推論について、事例が挙げられている(原書: p.143, 邦訳183–184頁)

前提(1):「他人のバラを無断で剪定してはいけない」(道徳的な主張を含む前提)
前提(2):「このバラは他人のバラである」
結論:「このバラを剪定してはいけない」

どれだけ「自分が剪定して、キレイにバラの花を咲き誇らせたい」とその人が思っていたとしても、「このバラを剪定してはいけない」という結論を出したのであれば、推論の中で道徳的主張を含む前提(1)が意思決定の中で非常に大きな影響力を持っていることがわかる。次に、本書で例示されている別の推論も見てみよう(原書:p.143, 邦訳187–188頁)。

前提(1):「ボートが一隻欲しい」(意思決定の出発点としての個人の欲求)
前提(2):「私はボートを作れない」(非道徳的な実践的前提)
前提(3):「また、私はボートを盗んではいけない」(道徳的な前提)
結論:「私はボートを購入する」

この推論では意思決定の中で、非道徳的な実践的前提(前提(2))と道徳的な前提(前提(3))が組み合わさることで「私はボートを購入する」という結論を出している。そのため、この意思決定の推論において、実践的前提と道徳的前提をそれほど簡単に区別することはできない。そのため、ザック以外の3人は、実践的な考慮事項と道徳的な考慮事項は意思決定システムの中では、推論の前提という点では同様の要素であり、それらは組み合わせなければいけないということに同意している。また、一旦、道徳的な主張が意思決定システムの全体の中に位置づけられるのであれば、前提から結論に至るまでの推論を検討することもできるし、意思決定の中で重要な要素である道徳的主張を伴う前提そのものを検討することもできるというのが、ウィリアムソンの道徳的相対主義に対する批判だと私は解釈した。

しかしながら、相対主義一般を支持することから、当然のように道徳的相対主義も擁護するザックは、「道徳感をめぐる調停不可能なまでの相違をお忘れなく。」(原書:p.148, 邦訳190頁)と茶々を入れていることからもわかるように、この見解に対しても本書では決定的な結論として扱われていない。ウィリアムソンの見解はそれなりの説得力があると私は思うが、ザックのように相対主義的な傾向が強い読者には、こうした見解をすんなりとは受け入れないのではないかという懸念を持った。


ここまで、「相対主義一般」、「可謬主義(マチガイ主義)」、「道徳的相対主義」という3つの立場に対する、ウィリアムソンの批判や見解(と解釈されるもの)を追ってみた。どの批判や見解も、説得力はある程度あると私は考えるが、決定的な結論としては本書では扱われていない。好意的な解釈をするのであれば、「読者自身で考えてほしい」ということなのだとは思うのだが、冒頭でも述べたように、(口調や文体の柔らかさに比して)どの議論もそれほど易しいものではない。決定的な結論として著者自身の見解が書かれていないことは、出口の見えない哲学の迷路の中で(それほど哲学的な議論に習熟していない)読者が彷徨ってしまう姿が容易に想像され、仮にウィリアムソン自身に「読者自身で考えてほしい」という意図があるのであれば、私はそれがどこまで実現できているのだろうかという懸念を持った。


(3)ポピュラー哲学の実践は成功しているか?

上述の3節の(2)で指摘した本書の問題点や特徴は、「一般読者に向けて、アカデミックな哲学者が、どのように哲学の入門書を書くべきか」ということの困難さを私には想起させる。この点に関して、ウィリアムソンは、「ポピュラー哲学とポピュリスト哲学」(Williamson 2020)というタイトルの短いエッセイを近年書いており、簡単にその内容を確認する。

このエッセイの中で、ウィリアムソンは、ポピュラー科学が一般人に諸科学への関心を持ってもらう意義があるように、ポピュラー哲学は、一般人がアカデミックな哲学への関心を持ってもらうという点で、重要な意味があるという点に同意する。ただし、一般人向けの哲学には、これとは異なるタイプの種類のものがある。その種の哲学は、アカデミックな哲学を自らのライバルとして位置付け、アカデミックな哲学を不毛で衒学的なものとして捉え、学術的な訓練なしで理解できる議論によって本質に迫ることができると主張することが多い。この種のタイプの哲学を、ウィリアムソンは「ポピュリスト哲学」(populist philosophy)と呼ぶ。そして、哲学は自然科学よりもずっと「素人にも専門家と同等の資格がある」というポピュリスト的な信念に影響されやすいと述べ、これはおそらく、何事も当然視せず、また他人の考えを鵜呑みにしないという自律的な探究者としての哲学者のイメージから派生しているのだろうが、裏を返せばそうした人物は、他者から何かを学ぶことを拒否していると彼は主張する。哲学は一人の優秀な人物が行うというよりも、集団的な営みである。また、このような営みは、さまざまな地域で、さまざまな伝統を通じて発展している側面があり、こうした伝統に参与することは関連する専門知識を習得することが求められる。しかしながら、こうした集団的営みや伝統に基づくアカデミックな哲学の活動は、魅力的な新しいアイデアも同時に生み出しており、ポピュラー哲学はそのような活動をもっと一般読者に伝えるべきだと主張する。

私の中では、このエッセイの中でのウィリアムソンの考えに対して、賛同する部分と懸念する部分の両方が存在する。賛同する部分は、「哲学を実践する際には、他者からも学ぶべきであり、アカデミックな議論も、積極的に一般読者に紹介するべきだ」という点である。一方で、懸念する部分は、以下で説明するように、アカデミックな哲学の議論の重要性を必要以上に強調しすぎることによって、哲学分野全体の敷居の高さも同時に強調してしまうのではないかという点である。哲学の問題群の一部には、「人生の意味とは何か」や「正義とは何か」など、一般読者にも比較的理解がしやすく、関心がもたれやすい問題群が含まれている。特にこうした問題群には「素人にも専門家と同様の資格がある」と考え、アカデミックな知見を参照せずに、「ポピュリスト哲学」を展開する人物が目立つリスクは大きいと私も推測する。ただし、一般読者が哲学の問題群の一部にアクセスしやすいという特徴を持つこと自体は、哲学分野全体に関心を持ってもらうという点ではむしろ好ましいことであるし、また哲学がそのような特徴を持つこととポピュリスト哲学を避けることは両立できる。私が思うに、「哲学の問題に関心を持つこと」と「哲学の問題に取り組むこと」は区別すべきである。ウィリアムソンのスタンスは「哲学の問題に取り組むこと」の難しさを強調するあまり、「哲学の問題に関心を持つこと」からも一般読者を遠ざけるリスクを持つように思えた。

次に、これまでのウィリアムソンの主張が正しいと一旦仮定しよう。ウィリアムソンは、本書で(ポピュリスト哲学とは区別された)ポピュラー哲学の実践に成功しているだろうか?結論から先に述べると、私の見解はウィリアムソンの努力は認めるものの、その試みは必ずしも成功しているとは言えないというものである。

この理由や背景を考察する際に、私はG.E.M.アンスコム(G.E.M.Anscobme)が述べるところの、哲学には「普通の人のための哲学」と「哲学者のための哲学」という2つの区別(Anscobme 1990)を思い起こした。アンスコムによると、アリストテレスは前者の哲学者に分類され、プラトンやウィトゲンシュタインが後者に当てはまる。私自身の言葉でこの二つの区別をパラフレーズするのであれば、「普通の人のための哲学」とは、非哲学者にも比較的理解しやすい問題群を扱う哲学であり、先にも例に挙げた「人生の意味とは何か」などの問いが事例として挙げられるかもしれない。一方で、「哲学者のための哲学」とは、非哲学者にはその問題自体を理解することが難しい問題群を扱う哲学であると解釈する。例えば、言語哲学の大きな問題の一つである「言葉の意味とは何か」という問題がなぜ重要なのかということを一般読者に理解してもらうことはそれなりに難しい。もちろん、アカデミックな哲学は前者のトピックも扱うのだが、後者のトピックも数多く取り上げられ、少なくともウィリアムソン自身がこれまで取り組んできたトピックは後者に当てはまることが多い。もちろん、ウィリアムソンもその点は自覚しているだろうと思われ、彼がこれまで取り上げたような、「ソリテス・パラドックス」(sorites paradox)や「反明輝性」(anti-luminosity)の議論などの専門的なトピックはこの本では扱われない。代わりに、ウィリアムソンがこの本で取り上げるのは、これまで紹介したような、「相対主義」や「可謬主義」などの哲学的トピックである。しかし、私の側から見ると、これらは、「哲学者のための哲学」のトピックではないかもしれないが、完全に「普通の人のための哲学」のトピックとも言いにくいという点で、一般読者層への訴求力がやや中途半端なものに留まってしまったのではないかという印象を持った。

ポピュラー哲学を実践するには避けては通れない「アカデミックな哲学と一般読者層との溝や乖離を埋めるにはどうすればよいのか?」という問題に対して、結局のところ、ウィリアムソンが採用した戦略は、議論や問いのクオリティ自体は下げずに、本書全体にユーモアやジョークを散りばめるという方法だったと思われる。確かに、本書全体に散りばめられたジョークには、いささか皮肉まじりのものも含めて、笑いを誘うものが多い。本書全体の中での最も辛辣なジョークと個人的に私が感じたものは、ウィリアムソン自身が批判対象とする相対主義者のザックの描写と、(主にロクサーナを通して投げかけられる)ザックの主張に対する痛烈な皮肉である。例えば、本書では以下のようなやり取りがある(原書:p.83, 邦訳:83頁)。

ザック:科学主義の立場を主張し、ボブのような反科学的主張を認めない。またどんな考えも間違いうるというマチガイ主義(可謬主義)の立場も支持する。
ボブ:「そいつはふつうの言語はしゃべれないの?ザックが言っていることからすると、「文法」みたいな当たり前の単語を独自の専門ジャーゴンに使っているっぽいけど。
ザック:ウィトゲンシュタインは、言語学者たちが研究しているのよりももっと深い文法について語っているんですよ。
ロクサーナ:ザックもあのタイプですね。底が見えないからといって、泥川の方が清く澄んだ川よりも深いと思うタイプ。

ここからは、もはや私の推測になってしまうのであるが、彼が批判対象とする相対主義的な主張の数々をザックという人物に擬人化することにより、これまで彼が遭遇してきた相対主義的な主張を風刺することも本書では意図していたのではないだろうか。仮に私の推測が正しいとするのであれば、一般読者層にとって、このジョークはいささか高度なジョークだったかもしれない。つまり、ウィリアムソンによる相対主義的な主張の数々の描写があまりにも巧みすぎて、哲学的トレーニングを受けていない人物には、ザックの主張が逆に説得力を持つ可能性が生じているように思えるのだ。3節の冒頭で挙げた「この本では、私はロクサーナの立場に近く、相対主義者のザックを批判する意図があったのだが、その意図に気づかない読者が多く、むしろザックに好意的な意見が見られた」というウィリアムソン本人のコメントは、そのことを如実に表しているのではなかろうか。

4.結びに代えて

まとめよう。これまでも触れてきたが、哲学の入門書という形式の限界や語り口の柔らかさにもかかわらず、議論や問いのクオリティを下げていない点、そして本書に散りばめられたユーモアやジョークなど本書には魅力も多い。その一方で、アカデミックな哲学の営みを一般読者層に伝えるという「ポピュラー哲学の実践」という意図が本書の大きな柱だったとすれば、残念ながらその試みは成功しているとは言い難い。その理由は、「敢えて、筆者自身の見解を決定的なものとして述べない」という方針に沿って本書を読むこと、そして本書に散りばめられたユーモアやジョークを理解すること自体に、哲学的な議論の習熟が求められるという、本書の構造に内在的な問題が潜むからだというのが私の見解である。私は本書を読むにあたり、「アカデミックな哲学の営みを一般読者層に伝える」ということの難しさを痛感した。また、その問題を私に考えさせるきっかけを作ったという点でも、本書は非常に印象深いものであった。

12023年までウィカム論理学講座教授の職位に就いていたが、定年により教授職からは現在引退し、現在は名誉教授である。しかしながら、その後も大学との契約更新により上級フェローとしてオクスフォード大学に所属している。

参考文献

  • Anscobme, G.E.M (1990)”Wittgenstein, Whose Philosopher?”, Royal Institute of Philosophy Supplement28:1–10. (邦訳:吉田廉・京念屋隆史訳「ウィトゲンシュタインは誰のための哲学者か」『現代思想』Vol.49–16, 165–175頁)
  • Williamson, Timothy(1994) Vagueness, London and New York: Routledge.
  • Williamson, Timothy(2000) Knowledge and Its Limits, Oxford: Oxford University Press.
  • Williamson, Timothy(2013) Modal Logic and Metaphysics, Oxford: Oxford University Press.
  • Williamson, Timothy(2020) ”Popular Philosophy and Populist Philosophy” Daily Nous (URL=https://dailynous.com/2020/06/08/popular-philosophy-populist-philosophy-guest-post-timothy-williamson). Reprinted in 2021.
  • Williamson, Timothy (2021) The Philosophy of Philosophy(2nd ed.), Oxford: Wiley Blackwell.
  • Williamson, Timothy, and Bo, Chen(2009) “Thinking Deeply, Contributing Originally : An Interview with Timothy Williamson(Special Contribution)” , Annals of the Japan Association for Philosophy of Science, Volume 18: 57–87.
  • 大西琢朗(2022)「自著解説: 蛮勇としての論理学へ」『フィルカル』Vol.7-1: 88–100頁,

謝辞

本書評の執筆にあたり、下道亮成、杉本英太、高萩智也、横路佳幸、吉田廉を始めとする各諸氏から有益なコメントをいただいた。また、本書評を書く契機となった会合に招待していただいたTimothy WilliamsonとAna Mladenovic Williamsonのご夫妻にも感謝したい。

出版元公式ウェブサイト

勁草書房(https://www.keisoshobo.co.jp/book/b598295.html)

評者情報

伊藤 克彦(いとう かつひこ)

慶應義塾大学商学部特任助教。専門は法哲学で、近年は法的判断と真理との関係について、D.ウィギンズの議論に影響を受けながら、研究している。近著に「裁判官が衡平を実現すること(『現代思想』第51巻9号(2023年、141–153頁))、共訳書として、ジュリー・ディクソン『法哲学の哲学』(森村進監訳、勁草書房、2024年)などがある。

Researchmap:https://researchmap.jp/wishmountains