Tokyo Academic Review of Booksonline journal / powered by Yamanami Books / ISSN:2435-5712

2025年1月31日

住吉雅美 『哄笑するエゴイスト――マックス・シュティルナーの近代合理主義批判』

風行社, 1997年

評者:大澤 真生

Tokyo Academic Review of Books, vol.69 (2025); https://doi.org/10.52509/tarb0069

一 本書の概要

住吉雅美『哄笑するエゴイスト――マックス・シュティルナーの近代合理主義批判』(以下、本書)は19世紀のドイツ著述家マックス・シュティルナー(Max Stirner)の「唯一者(Der Einzige)」をめぐる思考を、ヘーゲル哲学に代表される近代合理主義の精神を徹底的に批判し、理性的自律に依存しない新たな主体像を提唱するラディカルな自我論として読み解くものである。加えて本書は法哲学の博士論文がもととなっているという事情から、従来アナーキズムと結びつけられやすかったシュティルナーの議論をアクチュアルな政治論といかにして接続しうるかを検討するという意欲的かつ実践的なこころみを有している。

本書は序章、第一章から第八章、そして終章からなる。第一章から第三章では、「近代合理主義の源泉」たるヘーゲルの哲学体系に対して、シュティルナーを含む《ヘーゲル左派》の各人がいかなる立場をとり、その帰結として近代合理主義をどのように受容したのかが精査される。ヘーゲルは、物自体を知りえず主観的認識にとどまらざるをえないカントの自己内省的な自我観を克服するため、客観的存在をも反定立として自己のうちに取り込む「絶対精神」こそを唯一真正の主体とみなした。主客の宥和を絶対精神の内にみるヘーゲルの「同一性原理」はしかし、カント的自我の抽象性を精神の一元論によって乗り越えようとしたあまりに、感性的実在を排除し、それ自体が再びきわめて観念的な様相を呈するに至った。その結果、ヘーゲルの後継者たちはヘーゲル哲学を実践化するさまざまな道を模索することになったのだが、シュティルナーはこうした文脈のもとで、ヘーゲル哲学を徹底的に批判した新たな自我論を展開していくことになる。

第四章と第五章では、近代合理主義に一貫してみられる理性的自律にもとづく自我観をしりぞけシュティルナーが打ちたてた「唯一者」概念の内実を明らかにする。ドイツ観念論の伝統としての理性的自律の自我論は総じて、生身の人間に対してなんらかの「絶対的な規準」を課すことによって個別的自我の主観性を統治しようとするが、こうした自我の構造においては、自我は反省的に歴史的所与としての過去に束縛され、その創造性を失ってしまう。これに対してシュティルナーは「私」を支配する「絶対的な規準」のいっさいを拒絶して立つ、未来に開かれた創造的人間としての唯一者の自我観を提唱するのである。

第六章と第七章、そして終章では、シュティルナーの主著『唯一者とその所有』(以下、『唯一者』)が同時代の思想家たちに及ぼした影響と、「唯一者」概念の政治論への応用の可能性、その現代的意義が検討される。シュティルナーの唯一者は元来、既成の権威に依らない「私」の自己変容を唱えているため、現状肯定的でノン・ポリティックな存在者であると解釈されてきた。しかしながら、唯一者の自我観にはそれ自体、社会批判の論理が備わっており、けっして政治的に無関心な主体を目指すものではない。本書は唯一者をめぐるシュティルナーの議論とリバタリアニズムとの接点と相違点に目を配りつつ、その政治論としての現代的意義を呈示するが、本稿では各章の概要を示したのち、この現代的意義について、シュティルナーの自我観の「共生の論理」としての可能性を軸に検討することとしたい。

二 各章の要約

本節では本書の各章ごとの要約を示す。ただし、序章の要約については、前節に示した本書全体の概要をもってすでに示したものとする。


二・一 第一章「シュティルナー前史――神からメタ主観へ――」

第一章では、ヘーゲルの「同一性原理」の内実とその受容のありかたを概観することで、唯一者をめぐるシュティルナーの思考が形成された思想史的背景が整理されている。

「近代化」とは一般に、神学(信仰)と哲学(理性的思考)の分離としての世俗化であり、神のもとで束ねられてきた各人が「個人」としての「絶対的な先行性を主張」して立ち現れてくることを意味する(住吉 1997: 15 ※以下、本書からの引用は頁数のみを付記)。既成の権威に依らない個人の先行性に対して、諸個人が共同体を形成するに至る新たな動機づけが必要とされ、例えば社会契約論のロジックなどがその先駆けであるが、やがてドイツではカントが、個人の理性的自律――外なる立法を拒絶して内なる法則を立てる理性の能力――に共同体形成の根拠を求める哲学体系を打ちたてたのだった。

こうした自己内省的なカント哲学に対して批判的な論理を展開したのがヘーゲルである。ヘーゲルは、あくまで主観の内に呈示された法則に従うことを命ずるカント哲学にあっては、各人の主観と客観的真理のあいだの断絶を解決することができず、①孤立的な個人主義が蔓延して世界の一体性が解体されてしまうこと、そして②客観的真理についてはその不可知性が正当化されてしまうことに、その議論の不足をみた。そこでヘーゲルは、「経験の可能性の限界内に制約された精神に、それでもなお、客観的に実在する真理の輪郭をなぞる能力」をみいだすことで、主客の宥和をこころみたのである(18)。本書でヘーゲルの「同一性原理」と呼ばれるものは、精神を介して人間-神-世界が統一していることを意味する観念であり、精神のみを唯一絶対の存在者とする精神至上主義的な思考である。ヘーゲルの精神は「客観的現実の特殊・多様な諸現存を自らの他在として、より高次の次元で受け入れてゆくという意味で能動的な主体」であり(20)、理性的自律の真なる主体であるとされる。

こうして絶対精神のもとで主客は綜合されたかにみえたが、しかし、精神においていっさいを統一しようとしたヘーゲルの「同一性原理」は、ひとえに精神という一なる理念のみを唯一の実在とみなしたことで、「あらゆる感性的実在――自然および人間の現実世界――」を「もっぱら理念の自己実現過程の所産へと格下げ」してしまうことになった(25)。そこで、ヘーゲル哲学の後継者であるヘーゲル左派の哲学者たちは、絶対精神の主体性を現実の人間性の内に解消することで、「同一性原理」を世俗化することを目指すこととなった。ブルーノ・バウアーとルートヴィッヒ・フォイエルバッハはその代表的な論者である。バウアーは自己意識の主体を神ではなく神を思い描く人間であると読みかえ、フォイエルバッハは精神の自己展開が感性や自然を排除していることを批判しつつ、人間の類的本質を主客の統一の根拠に据えた。

しかしながらバウアーとフォイエルバッハはともに、ヘーゲルの「同一性原理」の不足を補う議論を展開しつつも、なんらかの理念的なものの絶対性を目指して理性的主体が自己発展していくという啓蒙主義的な主体像そのものを疑うことはなかった。そしてシュティルナーはまさに、絶対的な理念に制約されたこうした主体像を、生身の実存を仮象におとしめるものとして厳しく批判するのである。


二・二 第二章「シュティルナーがみた「近代」」

続く第二章では、当時の「近代化」されたドイツ(プロイセン)の社会的・思想的な状況に対するシュティルナーの批判的主張が紹介される。本章においてシュティルナーの主たる批判対象としてあげられているのは、当時プロイセン政府に対して展開されていた市民の自由主義運動、デカルト的な自我観、そしてルター主義的な信仰の内面化の三点である。

シュティルナーは自由主義に対して批判的な立場をとり、主著『唯一者』のなかでも批判を展開している。曰く、様々なタイプの自由主義に一貫するのは「現実の人間に対する顧慮のなさ、すなわち観念的に設定された理想的《人間》像にしか存在を認め」ないという態度である(51)。自由主義は、個々の生身の人間を理想像(自由で自律した人間像)にはめこみ、はみ出した部分を俗悪なものとして排除しようとする。自由主義の理念としての自由はあくまで集合概念であり、概念の内に統合される個々の差異については配慮がなされない。これに対してシュティルナーは「今そこにいる個人次元の自由」に関心を向けたのである(53)。

さらにシュティルナーは、デカルト的自我観とプロテスタンティズムの融合を、近現代を支配する思潮としてしるしづける。デカルト的自我は、経験的所与への懐疑にもとづき、感性に与えられた多様な世界を理性的認識に捉えられる範囲でしか問題としない合理的思考を、そしてプロテスタンティズムは、信仰を「個人の内面での自発的な選択の事柄」とすることで、自由を個人の内面の問題に還元し、その自由を内面に自覚される神のものとする、宗教的個人主義を近代社会にもたらした(57)。両者は精神的な思惟を真理とみなし、感性的な所与を仮象としておとしめる点、そしてそうした思考を自己発展の過程として肯定する精神優位の進歩観を共有している。「シュティルナーにとって近代ドイツの思潮とは、いわば啓蒙理性の裏づけを得て合理化された神学支配と同義である」(61)。以上のように、シュティルナーは啓蒙主義とプロテスタンティズムに基礎づけられた近代ドイツの自我観を論敵に据えて、その自明性を疑い、みずからの自我観を構築していくことになる。


二・三 第三章「シュティルナーの「移ろいゆく私」の成立」

第三章では、第二章で示された近代ドイツの自我観に対するシュティルナーの疑義と批判、そしてそこから導出される「唯一者」の自我観としての「移ろいゆく私(das vergängliche Ich)」の成立までの過程が示される。

シュティルナーによれば、理性による普遍法則の立法と遵守を唱えたカント、カント的自我の抽象性と無内容さを批判したヘーゲル、そしてヘーゲルの後継者であるヘーゲル左派の各人に至るまで、ドイツ観念論の哲学者たちはみな、ルター以来の近代ドイツ的自我観を踏襲している。すなわちそれは、絶対的な規準としての「内なる普遍」――カントにとっては普遍法則であり、ヘーゲルにとっては精神であり、フォイエルバッハにとっては類的本質であり、バウアーにとっては自己意識であるところのもの――に個人の意志や感性を服従させることを「理性的自律」とみなす自我観である。シュティルナーにとって、近代ドイツ的自我が最終的に帰依するところの「内なる普遍」は、いかにかたちを変えようともすべてが神のバリエーションに過ぎなかった。それゆえ、あらゆる「聖なるもの」の掃討が、シュティルナーにとっての課題となった。この「聖なるもの」には神だけでなく、「国家、人倫、キリスト教、法、聖霊、正義、善、王、結婚、公共の福祉、秩序」など、一般にその価値の自明性が疑われていない多くの概念が含まれる(88-89)。そして、シュティルナーはこれら「聖なるもの」のいっさいを退けてひとり立つ自由な自我の活動こそを「エゴイズム」と呼んだのだった。

シュティルナーはまた、理性的自律の自我観が有する反省的構造(即自的自我と対自的自我の二元論)を、「過去から現在にかけての所与」に制約された静的なものとして否定し、唯一者としての自我を、将来に向かって無限に開かれた「自己を創造する人格」として対比的に位置づける。この「自己を創造する人格」としての自我は、「産出する主体でありながら同時にその都度造られた客体でもあるという動的な交錯において捉えられ」(101)、「私」の創造と破壊とを各瞬間ごとに繰り返すという意味において「移ろいゆく私」とも呼ばれた。


二・四 第四章「「移ろいゆく私」の生き方」

第四章では、第三章においてその成立過程が示された「移ろいゆく私」としての唯一者のありかたとその意義が、ロックの私的所有論を補助線として示される。シュティルナー自身はロックに言及していないことを断りながらも、本書は、シュティルナーが『唯一者』のなかで一貫して「所有(Eigentum, Habe, Eigen, etc.)」という言葉によって唯一者の自由を描出していることから、ロックの議論を引き合いにだしている。

ロックの私的所有論は、王権神授説を否定するために主張されたロジックであり、個人を国家から独立した私的所有権を有する、自由な存在者として特徴づけた。一方でシュティルナーもまた、私的所有という観点から、国家と個人を対立する関係にたつものとして描きだすことで、「国家に止揚されない個人の自由を根拠づけようと」したのだった(112)。

さらに本書では、私的所有論と対応するロック的な理性的自律を、「権威から解放された理性」が自身に与えられた知を絶えず疑い、精査し、それらを不断に解体しては再建してゆく自己浄化のプロセスであると捉え、こうした理性の営みを「自己責任(Self-Responsibility)」と呼ぶことを宣言する(114)。そしてこの自己責任の観点から、シュティルナーの「移ろいゆく私」が「自己責任の主体」として構想される。「移ろいゆく私」とはつまり、いかなる普遍的・規範的な根拠づけにも依らず、感性的・経験的な自我意識のみを足場とする「自ら解体してゆく自我(das sich selbst auflösende Ich)」である。それは、従来の自我観が要請する統一的で一貫した人格的まとまりではなく、「未来に出現する異質で未知なもの」を前にして、絶えず葛藤しながら自己変容する「暫定的で緩やかなアイデンティティ」であると言われる(121)。「移ろいゆく私」は、既存の権威や秩序を前に自己を無化するという「責任回避」をせずに、みずから真摯に経験と向きあい、瞬間ごと自己を刷新してゆく。このように、シュティルナーは既存の伝統的な自律観をきっぱりと否定した新たな自律的自我を打ちたてたのだった。


二・五 第五章「唯一者の「闘争」」

第五章は本書においてもっとも紙幅の割かれた章であり、議論が多岐にわたる。前半ではヘーゲルの主人と奴隷の弁証法が議論の中心に据えられ、シュティルナーが《主-奴》の弁証法――すなわち主客の分裂と弁証法的な宥和の問題――をいかにして乗り越えたのかが示される。後半では「唯一者」概念が文化一般に対して有する批判的意義について検討がなされている。ここでは前者の問題にしぼってその概要に触れておく。

本書によれば、シュティルナーは、ヘーゲルに倣って個人と全体性との宥和を目指した同時代の哲学者たち(ヘーゲル左派、マルクス等)とは異なり、弁証法的な進歩観そのものを疑っていた。第四章で示されたように、シュティルナーは国家と個人を(解消しえない)対立関係において捉えており、これは近代的な中央集権国家の包摂にもとづく権力を否定する「中世的所有」の観念に立脚する国家観であると言われる(151)。シュティルナーにとって、近代国家が封建的な《支配-隷属》関係を解体しえたとするのは欺瞞であり、むしろこの関係は近代にあっても国家と国民のあいだに継続しているという。先述したようにシュティルナーが自由主義を否定するのは、それが「解放の許し」を国家に乞うことでみずから国家の奴隷たらんと欲することであり、結果として得られる権利もまた「単なるフィクション」に過ぎないと考えるからである(152)。したがってシュティルナーは、ヘーゲルの闘争理論において、唯一者の共在態を、闘争の果てにある承認の状態(自我と他我の宥和)に置くのではなく、自他の「絶えず繰り広げられる衝突状態」のうちに位置づける(156)1。すなわち唯一者の自我は、《主-奴》の弁証法を乗り越えた先にあるのではなく、その手前の葛藤と分裂の状態にある。なぜなら、近代国家の包摂が欺瞞であるように、「差異を超越した第三項の共同創設」による弁証法的な承認もまた欺瞞であり、真に対称的な関係を構築しえないからである(156)。シュティルナーは相互の対立を解消するのではなくむしろ鋭化させる方向に、唯一者どうしの真の共生の可能性をみたのである。

加えて本書では、シュティルナーが唯一者を「言表しえないもの、言い尽くせないもの」であると強調していることに、社会的意識と言語とを等視するような構造主義への批判的主張を読み込む。本書では唯一者の言表不可能性を、ラカンの《鏡像段階》の議論と響かせあいながら、それを「前言語的、前《主体》的な自我」のありようであると捉えている(162)。こうして、シュティルナーは唯一者の「語りえなさ」を強調することで、すべてをロゴスに還元する近代合理主義に抗い、「血肉をもった自我の現実的生」の側面を訴えたのである(164)。


二・六 第六章 《シュティルナー・ショック》の射程

第六章では、『ドイツ・イデオロギー』(以下『ド・イデ』)におけるマルクスとエンゲルスによるシュティルナー批判を精査することで、『唯一者』が同時代の論者に与えた影響の大きさを明らかにしている。

『ド・イデ』におけるシュティルナー批判は、他のヘーゲル左派に対するそれと比べて執拗かつ膨大であるが、本書ではこの事情の背景を、『唯一者』においてシュティルナーがフォイエルバッハに向けた批判の射程が、「当時類的存在としての人間による社会の創設をほぼ共通の旗印としていた」共産主義者であるマルクスらにも及んだためだと考察する(219)。マルクスらとシュティルナーはともにブルジョワ社会を批判する議論を展開しているものの、その先に「止揚としての共産主義社会」を目指すマルクスらにとって、「一歩手前の、現下の現実性」に踏みとどまることに活路をみいだそうとしたシュティルナーの主張は、その革命理論を根本から否定しかねない危険なものであった(232)。

本章では『ド・イデ』におけるシュティルナー批判を不当なものとして退けている。というのも、マルクスらは史的唯物論の立場から、人間を現行の社会構造に徹頭徹尾規定された存在だと捉えているため、唯一者についてもその枠組みのなかでしか解釈しえなかった――唯一者も社会に制約された「一面的で不完全な発展」の成果に過ぎない――が、唯一者はそうした社会的諸関係の地平にはあらわれない前言語的な次元に立脚する、非ロゴス的でカオス的な人間の生身の側面を捉えた主体像だからである(229)。それゆえ、マルクスらは史的唯物論では把捉しえない人間存在の次元を看過しているに過ぎないと本書は結論づけている。


二・七 第七章「唯一者の政治論」

第七章では、唯一者の自我観が現実に提起しうる政治的立場について検討がなされている。とくに主題となっているのは、「唯一者」概念の共生論への応用の可能性である。

「唯一者」概念は国家的包摂の手前にとどまり、中世的所有の観念にもとづく自我の自己変容を説くものであるがゆえに、元来ノン・ポリティックな存在者であると解釈されてきた。しかしながら唯一者の自我観は、以下の二点において、現状の(資本主義的な)市民社会に対する批判的視座を有している。第一に、唯一者の自我観は、唯一者の代替不可能な所有(=才能)を発揮する労働を重視し、搾取的な分業労働を「均質化のメカニズム」として否定する。そして第二に、唯一者の自我観は、「所有はモノの保持においてではなく、所有者の自由な活動においてこそ存する」(248)という立場から、財の遍在(ブルジョワ的私有)を各人の自由な活動を妨げるものとして攻撃する。したがってシュティルナーが近代人の「政治的死」を説くとき、その主張は政治的無関心を肯定する意味あいにおいてではなく、国家に服従する臣民としては「死に」、「聖なるもの」に依存せず「自分自身をもってはじめる」自由な存在者として再生せよという意味においてなされているのである(259)。

シュティルナーは国民国家にかわる共生の形態として、唯一者どうしの「連合(Verein)」を提案する。「連合とは、唯一者同士のその時々の目的や利害関心の共有のみに基づけられた暫定的な一致であり」、「絶えず分解と分散への可能性を内に蔵したモデル」である(262)。シュティルナーはこうした連合の性質に、規範性を免れた唯一者どうしの共生の可能性をみいだしていた。


二・八 終章――シュティルナーと現代――

終章は、第七章で示された「唯一者」概念が提起しうる政治的立場を踏まえつつ、その現代的意義と課題を提示するものである。

シュティルナーの「唯一者」をめぐる思考と現代においてもっとも近しいと考えられる政治思想はリバタリアニズムである。両者は「自己の行動が自己の目的と選択のみに基づくという自律的個人」を求めている点で一致する(278)。しかし、リバタリアニズムはあくまで近代的な理性的自律の観念にもとづく自由を構想しているために、現実に各人が容易には制度的束縛から逃れられない現代にあって、その説得性を失いつつある。こうした状況のなかで、前言語的・前意識的な自我の創造性に立脚するシュティルナーの「唯一者」概念は、現代人の失われた主体性を回復する手がかりとなりうる。

本章の結論は総じて、シュティルナーの議論の現代的意義を示すものであるが、一方で、理性偏重主義への批判がロマン主義への退行となりうるのではないかという懸念や、シュティルナーが唯一者の唯一性を一定の「社会的合意」の上にしか成り立たないものだと考えていた――創造性(=能力)の格差が生みだす経済的不平等を是正する考えはなかった――問題など、未解決の課題も残されている。

三 本書に対するコメント

本書が呈示するシュティルナーの「唯一者」概念をめぐる議論は、理性的自律にもとづく伝統的な自我観を解体し、理性的自律に依らない新たな主体像を描出することを企むものであり、こうした企みは、各人の自律の能力を前提としたリベラリズム社会のかかえる問題2が顕在化している現代にあって、意義深いものであると言える。しかしながら、本書の課題のひとつである、シュティルナーの議論を安易にアナーキズムに接続するのではなく、むしろ「共生の論理」としての政治論に昇華するというこころみについては、シュティルナーが既存の政治体制(自由主義的な国民国家)や社会構造(資本主義社会における富の偏在等)に対する批判的視座をもつことは示されたものの、唯一者の自我観が実践的に他者とのいかなる共生態を構築しうるのかについては、十分に議論が尽くされているとは言いがたい。それはなぜなのか。本節では(1)唯一者の自我観が根本的に他者(との承認の関係)の必要に基礎づけられていないこと、そして(2)唯一者としての自我の前言語的な側面が強調されることにより、他者との言語的次元における共生・承認のモデルを想定しえなくなっていることの二点を、問題点として呈示したうえで、シュティルナーの自我観がもつアクチュアルな意義について検討することとしたい。


三・一 唯一者と承認の問題

本書で示される唯一者の自我観の要点のひとつは、伝統的な自我観がそれぞれ個別の自我をまとめあげる普遍的な規準を有している――そしてこの普遍的な規準に帰依することができる能力を「自律」と呼ぶ――のに対して、それがいかなる規準や規範にも依存せずに、つまり全体性へと回収されることなく確立されうる自我であるということである。ドイツ観念論の伝統においては、個別性と全体性の宥和は、理性的自律による自己発展の道筋として捉えられ、理性的な自我はその自律の能力によって他者との理想的な共同性を獲得するに至ると考えられていた。これに対してシュティルナーは、共同性(社会)こそを人間の本源的状態であると考える(Stirner 2011[以下EE]: 342=下23)。シュティルナーによれば、社会とは「私と君によって創られる相互関係」のようなものではなく、多くの人間が集う「広間」のように、その中に存在する者たちがどのように関係しあっているかに関わらず存続するものである(EE: 239=下97)。社会は「私と君によって創られるのではなく、一の第三者によって創られ、その第三者がわれわれ二人から社会というものを創り出す」(ibid.)。そしてこの第三者――家族、国家、法、あらゆる社会制度、規範等の「聖なるもの」――は、私と君との相互関係を助けるのではなくむしろ妨げるべく私たちを監視する(EE: 240=下98)。それゆえ、人間はこの「第三者」に監視された状態としての本源的な共同性を脱することで、唯一者としての自我を獲得しなくてはならない。シュティルナーの議論において、社会はまずもって、その支配から保護の体制に至るまで、唯一者として在り続けるために逃れ出なくてはならない共生のモデルとして立ち現れているのである。

この社会的共同性に対して、唯一者どうしの交通(相互関係・交渉)は「社会とよばれるものの本性を変えることなく、現れることもできれば欠如することもできる」(EE: 239=下97)とされる。シュティルナーは、社会とは独立に成り立つとされる唯一者どうしの自発的な交通による「連合(Verein)」を、人間の本源的状態としての「社会」と対置させ、社会にかわる共生のモデルとして呈示する。ただし、前節でも述べたとおり、連合はあくまで「唯一者同士のその時々の目的や利害関心の共有のみに基づけられた」連帯であって、その結びつきの動機となるのは、他者さえも己れの目的のために利用し消費し尽くす唯一者の「自己享受」である(EE: 358=下250)。唯一者の自我はひとり立ち、ひとり立つ唯一者どうしが己れの利害関心の赴くかぎりにおいて連帯し、その連帯は社会とは独立に生起し解体する。なぜなら唯一者自体が、社会の監視・支配・保護をいっさい拒絶した自我を構築しているからである。

その一方で本書では、「個人は自己の才能や労働については社会に何事も負ってはいない」とするノージックのリバタリアニズムにかんする議論と対比するかたちで、唯一者の自我観においては、シュティルナーが唯一者の「《唯一者としての代替不可能性》を、他者の評価ないし社会的承認と結びつけて考えている」こと、すなわち唯一者はけっして社会と無関係であり続けられないことを指摘している(245)。「シュティルナーが尊重する個人の唯一無二の固有性が、当の社会の中で文字通り掛替えなき唯一性として通用するためには、やはり当該社会内でその点についての一定の合意を受け、かかるものとして相当の多数者に承認される必要があろう」(287)。この問題に対するシュティルナーの結論は冷淡だが、今日の社会の現実をそのまま反映しているとも言える。すなわち、多数者からの承認が得られない人間は、その唯一性を否認され(つまりなきものとされ)「飢えるだけ」なのだ(EE: 294=下166)。

本書第五章ではヘーゲルの《主-奴》の弁証法が参照され、唯一者としての自我が、弁証法的統一としての承認の手前の「闘争段階における個人のイメージ」として(156)、すなわちなんらかの「共同性」や「絆」を求めることなく(EE: 229=下84)、他我との絶え間ない闘争と対立の只中にとどまり続ける「前主体・前言語」的な自我として位置づけられていた。確かに『唯一者』の冒頭においてシュティルナーは、《主-奴》の弁証法を援用しており、「私」の意識の生成において「自己主張の闘争」は「不可避」であると述べている(EE: 9=上11)。しかしそもそも、ヘーゲルの承認論の独自性は、自己意識どうしの「生死を賭する戦い」を、たんなる「自己主張の闘争」、「自己存在の可能なかぎりの拡張と客観化をめざす戦い」(155)として捉えるのではなく、それ自体まさに「承認をめぐる闘争」として、すなわち「承認過程そのものへの参与」として描出したところにある。承認の関係とは「相互に承認しあっていることを互いに承認しあっている」状態であり、承認過程そのものの反省的承認である(Hegel 2018: 129)。承認をめぐる闘争に参与する自己意識は、「私」の存在を確信するために他者の存在と他者からの承認を必要としており、他者からの承認を獲得するためにこそ闘う。それはけっして、たんなる自己保存のための争いではなく、「私」の実存にとって根源的な他者への渇望に動機づけられた戦いなのである。

もしも唯一者の自我をヘーゲルの承認論における「闘争する自我」として位置づけるのであれば、唯一者もまたなんらかの承認を求めて戦っているのだと考えなくてはならない。本書ではコジェーヴによるヘーゲル論――「自己意識はそれぞれに、自己が、他者によって欲望される価値たらんと欲望して闘争に入る」(162)――を参照したうえで、唯一者を「主-奴の闘争の次元にたつ、欲望の自己意識」であると結論づけているが(173)、残念ながら、この件についてのこれ以上の言及はない。しかし、闘争する自我が「私」の欲望のゆえに戦うのではなく、他者の欲望を欲望するがゆえに戦っているというこの見立ては、唯一者が自身の代替不可能性を承認する他者を必要としているという社会的承認の問題とも符合する。シュティルナーは、そして本書もまた、自我の内実を示すにあたってヘーゲルの承認論を援用しているにもかかわらず、自我の形成過程の根底にあるべき「他者からの承認」への欲望を看過していたのではないか。その結果として、各人の「掛替えのなさ」の社会的承認の問題についても、自己アイデンティティの形成に関わる実存的な次元ではなく、その先にある個々の能力(才能)や生産性、その社会的需要の有無という市場原理的な次元でしか語れなくなっているように思われる。


三・二 暫定的なアイデンティティと〈抵抗〉の場としての言語的次元

他者からの承認を獲得して「私」の存在を確信しているということは、そもそも、どういうことなのか。それは、「私は何者かである」というなんらかのアイデンティティを他者から承認され、確固たる自覚をもつということなのだろうか。そうとも言えるかもしれないが、実践的にはむしろ、承認の状態とは、(自己確信を確固たるものとした結果として)「私は何者かである」という言明を他者に対しても自分自身に対しても必要としない状態、言い換えれば「私は何者なのか」というアイデンティティの「問い」をもたない(あるいは、もたなくてもよい)状態といったほうが実状に沿うようにも思われる。そしてそうした承認は確かに、弁証法的な「差異を超越した第三項の共同創設」(157)によって、ひとつの政治的同質性のもとに包摂されることで一面的には獲得されるものだろう。承認の状態は、「私」の存在が否認されることがないという意味においてだけでなく、自己アイデンティティの問いに煩悶する必要も機会もないという意味においても、「私」の生に安寧をもたらすものである。しかしその一方で、後者の意味における安寧は、権威的な第三者(例えば国家)が、「私」から「私」のアイデンティティの問いを奪う――「私」が「私」のアイデンティティの問いを第三者に委ねてしまう――ことによって成り立つものであって、シュティルナーからしてみればそれは、「亡霊に憑かれた」仮構の状態であり、未来に開かれた「私」の創造性を奪うものである。シュティルナーが「唯一者たれ」と説くとき拒絶されているのは、こうした、アイデンティティの問いを手放した「無責任」な安寧のありかたなのである。。

承認の状態がアイデンティティの問いを喪失した状態であるならば、闘争の状態はまさに承認を求めて自身のアイデンティティを問うている状態であると言えるだろう。すなわちそれは、他者からの承認を欠くがゆえに「私は何者かである」という主語と述語の統一が揺らいでいる状態である。しかしながら、本書によれば、シュティルナーはこの闘争の状態を、前言語的・非ロゴス的な次元、言表しえない「述語なき主語」の次元として捉えていた。シュティルナーは「述語そのものの絶対的廃棄という仕方によって、唯一者を主語としてのいかなる平準化や等質化も拒む立場を表明した。こうしてシュティルナーは、論理学的言述、述定の世界を超えた次元で、人間の実存を把握するのである」(171-172)。シュティルナーにとって唯一者の自我はあくまでいっさいの言語に載らない(その意味で意識にものぼらない)「私」という剥きだしの主語それ自体であり、しかも、この「私」はあらゆる述語を拒絶してこの闘争の次元にとどまるとされる。なぜなら、先述したように、シュティルナーは「他在において自己たりうる」というアイデンティティの構造そのものを否定し、承認を拒む自我を導出していたからである。

確かにシュティルナーは、唯一者としての自我を「移ろいゆく私」としてしるしづけ、その「普遍的規準のもとにはとどまらない」破壊性を強調する――「フィヒテにとって自我はすべてであるが、私にとっては自我はすべてを破壊する」(98)。しかしもしもこの破壊性がたんに既成の権威や秩序を拒み、前言語的次元にとどまることだけをさすのであれば、それは破壊であっても創造にはならない。本書では第四章においてロックの私的所有論を援用しつつ、「懐疑と精査、解体と再建によるこの人間理性の不断の自己浄化」をシュティルナーの呈示する新たな自律観として提唱していた(114)。唯一者の自我はあくまで 理性によって問いを立てる主体であって、それがたとえ「暫定的」であれアイデンティティとして生起するのであれば、「移ろいゆく私」としての自我はけっして前言語的次元のみを移ろいさまようのではなく、「私は何者かである」という主語と述語の統一的言表が可能な言語的次元に(暫定的に)定立することもありえ、かつ、その言表をもって、硬直した言語秩序にもとづく現実の権力構造を掘り崩す創造性をもつと考えるべきではないだろうか。ここでいう言語的次元とは、暫定的であれ「私は何者かである」という述定がなされ、「私」が何者かとして他者の前に現前せざるをえず、それゆえに自己アイデンティティの形成と解体、他者による承認/否認がなされうるような次元のことを意味する。それは、主語と述語の接続と切断を絶え間なく繰り返す、前言語的自我と社会的共同性のあわいの次元なのである。

本書が呈示するように、シュティルナーは近代合理主義的な自我観を徹底的に退けようとしたが、結果として「前言語的自我にとどまるか、さもなくば社会的共同性に支配されるか」という二者択一的な自我観が他者との関係のありようにも適用され、社会的共同性とは位相の異なる連帯とされるような、唯一者の交通や連合といったものを、実践的な共生モデルとして想定することが困難になっているように思われる3。本書では終章において、シュティルナーにも「自由な言論の交換が可能なフォーラム」等のロゴス的連帯への目配りがあることを紹介しつつも、前言語的自我にとどまる唯一者の自我観がロマン主義・神秘主義への退行を免れるのか否かという懸念について明確な答えを出してはいない(283)。しかしこれはむしろ、以上のような事情によって答えを出せなくなっているとみるべきであろう。


三・三 おわりに

以上、本書における議論を下敷きに、唯一者の自我観を「共生の論理」に接続することの可能性と限界を検討した。

言語的な次元における他者との関わりは、それがいかなる質のものであったとしても、言語秩序の権力の影響から完全に逃れることはできないだろう。社会と個人の関係は、広間とそこに飾られる立像群の関係(EE: 239=下97)のように単純なものではないはずである。しかしその一方で、シュティルナーが述べるように、弁証法的統一としての「聖なるもの」の支配が完全に各人の「差異」を消し去ることはありえない(EE: 228=下83)。唯一者としての自我は前言語的次元に根ざすことにより、言語秩序の同質性に抗う「力」をもつ。「私」は第三者が決めた「何者かである」というラベルに黙って収まるのではなく、「私」自身の決定において何者かであろうとすることができる。唯一者の自我観はあらゆる体系的な権威や一貫性を否定するものであるから、そこから体系的で包括的な政治論を抽出することは難しいように思われる。しかし、そうした権威に抵抗するための共生のモデルを描くことは可能であるかもしれない。もし可能であるとすればそれは、硬直した集団的アイデンティティによる連帯に対して、各人の絶対的な差異と、創造的な解体の可能性をつねに含みこんだ、オルタナティブな連帯のかたちを呈するものであるだろう。その意味で、本書におけるシュティルナーの議論はそこから直線的に「共生の論理」を導くには不足があるものの、非常に示唆的である。

四 文献案内

本節では、本書を読むうえで参考になりうるシュティルナーおよびヘーゲル左派の哲学にかんする文献として、以下の三冊を紹介する。

Löwith, Karl: Von Hegel zu Nietzsche. Der revolutionäre Bruch im Denken des neunzehnten Jahrhunderts, Hamburg: Meiner, 1995[カール・レーヴィット『ヘーゲルからニーチェへ 十九世紀思想における革命的断絶(上)(下)』三島憲一訳、岩波書店、2016年]

本書においても詳細に言及されているヘーゲルを中心とした近代ドイツ哲学の思想史的な展開――とくにヘーゲル哲学がヘーゲル左派の哲学者やマルクスらにどのような影響を及ぼしたのか――が「観念論の崩壊」の過程として体系的に述べられた古典的書である。シュティルナーに対するレーヴィットの評価は高いとは言えないが、同時代の哲学者たちとの影響関係も含め、その歴史的な位置づけや思想の背景を学べるとともに、本書でもドイツ観念論の通奏低音として言及されていたキリスト教(プロテスタンティズム)に対するヘーゲル左派の哲学者たちの態度についての比較検討など、本書を読むうえで参考になる点が多い。


大沢正道『個人主義――シュティルナーの思想と生涯』青土社、1988年

シュティルナーの個人主義的な思想について、その生涯を概観することからはじまり、主著『唯一者』の論点や、後世の哲学者たちに与えた影響等を検討することをつうじて描出することをこころみた入門的書である。この書のなかで大沢は、シュティルナーの呈示した個人主義を、産業化社会における「生産する自我」に対して、脱産業化社会における「消費する自我」を提唱する「柔らかな個人主義」と定義している。すなわち、本書においては唯一者の創造性が強調されていたが、ここでは唯一者の「自己享受する自我」という点が強調され、その消費性が特徴として把捉されているのである。また、シュティルナーを既存のモラルを否定しそこに埋没した自我を救いだそうとするモラリストであると評するヒュネカーの論評を紹介するなど、本書とはまた異なる視点から、近代合理主義(産業化社会)を批判する文脈のなかでシュティルナーの思想を概観することができる。


服部健二『唯一者と無――シュティルナー・フォイエルバッハ論争を見直す』現代思潮新社、2023年

シュティルナーとフォイエルバッハの思想的な影響関係を精査するとともに、フォイエルバッハの研究者の視点から、シュティルナーの「唯一者」をめぐる思想の歴史的意義を検討する書である。本書の特徴は、シュティルナーの「所有(Eigentum)」概念の二義性(所有/独自性)を強調している点、またそのことをつうじて、唯一者の所有による自己発見の歩みを、歴史的世界における自己の独自性を獲得する過程として解釈し、唯一者が「近代的啓蒙」を批判する歴史的自覚の上に立つ歴史的実存であることを積極的に評価する点にある。また、他者との共生のありかたという観点から、フォイエルバッハの「愛」とシュティルナーの「交通(行き来)」概念を対比的に検討している点も興味深い。

1他者との衝突状態が他者との共在態であるということはいささか奇妙であるが、これは、シュティルナーの概念でいう「連合」のありかたを表現しているものと思われる。連合は、自己自身の利害関心のために取り結ばれる他者との関係であり、他者との関係において互いにいっさいを妥協することがないという意味において「対立的」な相互関係(Gegenseitigkeit)である。それはけっして他者との連帯を目指すがゆえの連帯ではなく、互いに自己利害を先鋭化させた果てにありうる偶然的な一致なのである。

2例えば孤立的個人主義としての自己責任論の蔓延、均質な大衆消費社会が招く個人的生の価値喪失、またそれに伴う排他的ナショナリズムへの傾倒など。

住吉は後続の論文において、本書では不十分であった唯一者の他者との共生の可能性について論じているが、ここでは、唯一者の他者との出会いの場ないし契機としてエロス的な(感性的な)愛をあげている。住吉は、レヴィナスの「顔」の議論を援用しつつ、唯一者にとって他者とは自己享受によって利用・消費される「対象的世界の外部から到来する」ものであって、こうした他者との関係に、「私」は「エロスの力によって否応なしに」巻きこまれるのだと述べる(住吉 2004: 134)。住吉はこうした愛の関係、敷衍すれば、他者との親密な関係が有しうる特権性に、正義とは異なる倫理の可能性をみいだしているが、本書の議論にそくしていえばその主張はやはり、前言語的次元と言語的次元を行き来する唯一者の(非近代合理主義的な)理性的側面が看過されているように思われる。

参考文献

  • Hegel, G.W.F.: Phänomenologie des Geistes, Hamburg: Meiner, 1988[G・W・F・ヘーゲル『精神現象学(上)(下)』熊野純彦訳、筑摩書房、2018年]
  • Stirner, Max: Der Einzige und sein Eigentum, Stuttgart: Reclam, 2011[シュティルナー『唯一者とその所有(上)(下)』片岡啓治訳、現代思潮新社、2013年]
  • ウィリアム・E・コノリー『アイデンティティ/差異 他者性の政治』杉田敦・齋藤純一・権左武志訳、岩波書店、1998年
  • 住吉雅美「エゴイストは「他者」の夢を見るか?――シュティルナーと正義論の脱構築」『思想(965号)』岩波書店、2004年、123-139頁
  • 竹村和子『愛について――アイデンティティと欲望の政治学』岩波書店、2021年
  • 森政稔「アナーキズムの自由と自由主義の自由――シュティルナーとフォイエルバッハのばあい」『現代思想(1994年4月号)』青土社、1994年、232-250頁
  • 出版元公式ウェブサイト

    風行社(http://www.fuko.co.jp/catalog/books_data/fuko_books_3112.html)

    評者情報

    大澤 真生(おおさわ まき)

    日本女子大学ほか、非常勤講師。専門は倫理学、とくにカール・レーヴィットの共同相互存在論。また、他者論、実存哲学、ケアの倫理に関心がある。主な論文として、「人間の人格性と自然性――カール・レーヴィットの共同相互存在論」(『倫理学年報』第71集・2022年)など。