Tokyo Academic Review of Booksonline journal / powered by Yamanami Books / ISSN:2435-5712

2026年8月29日

C. Thi Nguyen, Games: Agency as Art

Oxford University Press, 2020年

評者:鈴木 和馬

Tokyo Academic Review of Books, vol.81 (2026); https://doi.org/10.52509/tarb0081

はじめに

私たちがゲームを遊ぶとき、あと少しのところで負けてしまっても「良いゲームだった」と悔しさより満足を覚えて終えることがある。こうした現象はプレイヤーにとって馴染み深いものだが、仕事や勉強といった日常の目標志向的な活動と比べるといくらか奇妙にも見える。あれほど必死に目指した勝利が叶わなかったのにもかかわらず、私たちは全く後腐れなく、そのプレイにポジティブな価値を見出せているのだ。

C.Thi Nguyenが『Games: Agency as Art』(以下、本書と呼ぶ)において注目するのは、この現象の背後にある独特な動機の構造である。多くのプレイヤーは、単純にゲームの勝利だけを追い求めているのではない。真の目的は、特定の目標とルールを受け入れることで可能になる奮闘[striving]の経験それ自体にある。プレイヤーは、ある目標を本気で追い求める過程そのものを楽しむために、一時的な使い捨ての目標を引き受けている。

またゲームデザイナーは、こうした様々な奮闘の経験を実現するためにプレイヤーの行為者性、すなわちエージェンシーをデザインする(本書において、Nguyenはエージェンシーという語の明確な定義を避けており、「意図的行為や理由のある行為」にかかわる伝統的な概念としてのみ言及している。専門用語を使わずに言えば、おおよそ「プレイヤーがある目標に対して意図を持って行為する能力」くらいの意味で捉えられるだろう)。デザイナーはルールの緻密な設計を通じて、プレイヤーが目指す特定の目標、そのための能力、一連の障壁を彫刻する。すなわち、ゲームにおいてはプレイヤーが何をすべきか、何ができるのか、何をしたらどうなるのか、といった実践的推論や行為に関わる要素がパッケージ化されている。そしてうまく作り込まれたゲームは、しばしばプレイヤーの奮闘を美的に価値あるものにする。ゲームはエージェンシーの芸術なのだ。

以上のアイデアに基づき、本書ではゲーム──ビデオゲームに限らない、スポーツやアナログゲーム、TRPGなどを含むゲーム一般──に関わる様々な議論が展開される。論点は多岐にわたるが、例えば以下のような問いに関心のある読者であれば有用な示唆を得られるだろう。

・ゲームをプレイするとはどういうことか(2,3章)。
・ゲームプレイにおいて私たちが味わう美(美的なもの)とは何か。そのようなことが果たして可能なのか(5章)。
・ゲームは芸術か。そうであればどのような種類の芸術なのか(6,7,8章)。
・ゲームをプレイすることのよさ、わるさはどこにあるのか(4,9,10章)。

本書が出版されたのは2020年だが、既にゲームやスポーツの哲学/美学を中心に大きな影響を与えている。例えば2021年には『Journal of the Philosophy of Sport』において特集が組まれ、多くの論者を巻き込んで議論が交わされている。また、評者の専門領域であるゲーム研究や分析美学周辺の文脈に絞っても、重要な貢献を複数挙げることができる。

第一に、ゲームに臨むプレイヤーの動機のあり方について、B. Suitsの古典的な議論以来の刷新を試みていることである。Suitsの古典的な定義によれば、ゲームは「不必要な障害物を自ら進んで克服しようとする試み」(Suits 1978, p.37)であるとされる。Nguyenはこの定義に従う「Suits的ゲーム」の内実を掘り下げることで、ゲーム内の勝利という結果に価値を置くのではなく、勝利を目指して奮闘する過程そのものに価値を見出す「奮闘プレイ[striving play]」の可能性を示した。これは、困難の克服などの達成の価値を重視してきた既存の議論とは異なるゲームの捉え方を提示するものである。

第二に、従来ゲームを芸術として論じる上で焦点を当てられてきた、プレイヤーが虚構世界に介入するいわゆる「インタラクティブなフィクション」の側面から離れ、エージェンシーの芸術としての観点を提示していることである。 例えばB. Romeroによるボードゲーム作品『Train』では、プレイヤーは物資を鉄道で運ぶが、次第にそれが強制収容所への囚人輸送であったことが明かされる。ここでは、インタラクティブなフィクションの経験を通じてある種の共犯性を生じさせ、現実への批評的な視座を養うことが意図されている。 しかしNguyenは、こうした表象的/批評的側面とは異なる、より純粋なSuits的ゲームのプロセス、すなわちルールの制約のもと特定のゴールに向かって試行錯誤するプロセスそのものを美的に捉える契機を見出し、エージェンシーというメディアを用いた芸術作品としてのゲームの可能性を論じている。

第三に、分析美学の美的行為の文脈における貢献である。伝統的な美学は、美的経験の典型を絵画や音楽作品の鑑賞のような、対象から距離をおく受動的な観照として捉えてきた。 しかし現代の美学では、日常美学をはじめとして自身の能動的な行為そのものを美的経験の対象として扱う議論が活発化しており、中でもゲームにおける美的行為は近年の関心の的になっている。同様のアイデアは先んじて松永伸司『ビデオゲームの美学』(2018)などにおいても論じられているが、Nguyenは目標志向的な行為特有の美的な質の特徴を明らかにすることで、議論をより深めている。

このように本書は、ゲームに関する(とりわけ美学/哲学関連の)研究に携わる人にとっては避けられない重要文献としての地位を確立している。以上の理由から、書評の対象として本書を選定した。

著者C. Thi Nguyenは2026年現在、Associate Professorとしてユタ大学に勤めつつ、ゲームや芸術、社会的共同体などのテーマについて精力的に論文を発表している気鋭の美学者/哲学者である。最近では、本書第三部のテーマの一つである、ゲーム的な価値の単純化についての議論を発展させた著書『The Score』が発売され、アカデミックな領域に限らない幅広い読者の関心を集めている。

また、本書では事例としてたびたび著者自身のゲーム体験が語られる。そこからうかがえるのは、Nguyenが囲碁やチェスを含めた幅広いボードゲームやロッククライミングなどを愛し、また様々なゲームを友人や家族と楽しむある種のカジュアルプレイヤー的な側面を持つことである。多くの文化芸術に関する研究がそうであるが、とりわけ遊びやゲームに関わる議論は、著者自身の遊びの経験や価値観が如実に反映されていることが多い。読者も自身の遊び観、ゲーム観と照らし合わせながら読むと、興味深い発見が得られるかもしれない。

続いて、本書の構成とそれを踏まえた本書評の構成について説明する。本書は全10章から成る。また、全体の要約である1章を除いた各章は3つごとに、ゲームプレイ独自の動機構造を明らかにする第一部、芸術形式としてのゲームに焦点を当てる第二部、ゲームの道徳的、社会的な影響について論じる第三部の三つに分かれる。具体的な章立ては以下の通りである(なお、本書の理論の基本的な用語や枠組みはおおよそ3章までに出揃う。そのため、本書を読む際は3章までに目を通した後、関心に応じた箇所を読み進めてもよいだろう)。

第一部: 
2. The Possibility of Striving Play (奮闘プレイの可能性)
3. Layers of Agency (エージェンシーのレイヤー)
4. Games and Autonomy (ゲームと自律性)

第二部: 
5. The Aesthetics of Agency (エージェンシーの美学)
6. Framed Agency (フレームづけられたエージェンシー)
7. The Distance in the Game (ゲームにおける距離)

第三部: 
8. Games as Social Transformation (社会的な変容としてのゲーム)
9. Gamification and Value Capture (ゲーミフィケーションと価値の束縛)
10. Value of Striving (奮闘の価値)

また本書の全体的な議論は、主として二つの軸に貫かれている。一つは奮闘を重視するプレイに関わるさまざまな価値についてであり、もう一つはエージェンシーの芸術形式としてのゲームのあり方についてである。以下本書評では、基本的に前者に関わる議論に重きを置いて、2章以降の各章の概要を紹介する。また最後に、評者の観点からNguyenの理論に対する吟味も行う。

内容紹介

2. The Possibility of Striving Play (奮闘プレイの可能性)

まず2章では、以降の理論の骨子となる達成プレイ[achievement play]と奮闘プレイ[striving play]が特徴づけられる。これは、簡単にいえばプレイヤーの動機がゴールの達成、すなわち勝利にあるのか、それともゴールを追い求める奮闘にあるのかという違いに基づく分類である。まず、Nguyenはゲームのゴール[goal]と目的[purpose]を区別する。前者はゲームのルールによって指定された目指すべき状態であり、例えばゴールテープを切ることや、より多くの得点を得ること、相手の体力を0にすることなどである。後者はゲームをプレイするそもそもの理由になるものであり、単なる楽しみやストレスの発散、賞金の獲得などが含まれる。ゴールと目的は一致したり、あるいはゴールの達成が目的のための手段として価値を持つような場合がある。とにかく勝つことに価値を見出すオリンピックの短距離走者はゴールと目的が一致しており、優勝賞金のために勝ちたいeスポーツプレイヤーは、ゴールの達成が目的のための手段になっている。

しかし、必ずしもこのようなプレイヤーばかりではない。すなわち、ゴールを目指して努力するが、実のところゴールの達成それ自体には価値がないようなケースが存在する。例として、友人とのパーティーゲームを考えよう。ここでは一見、プレイヤーは皆ゴールを達成しようと真剣に取り組んでいる。しかし、実際の目的はその過程を友人たちと楽しむことであり、これは必ずしも自分がゲームに勝たなければ実現できないわけではない。むしろ、楽しむためのパーティーゲームで、下手に勝とうとムキになりすぎると、周りが萎えてしまうことさえある。こうした(ある種のカジュアルな)ゲームのプレイヤーは、上述のオリンピック選手やeスポーツプレイヤーとはその動機の観点から明らかに異なる。このプレイヤーはゴールの達成のためにプレイしているのではなく、ゴールを目指す奮闘のために、一時的にゴールを引き受けてプレイしているのである。

この違いに基づき、Nguyenは「奮闘プレイ/達成プレイ」の区別を導入する。達成プレイは勝利そのもの、あるいは勝利によってもたらされるもののためにプレイすることであり、奮闘プレイはあるゴールを一時的に引き受け、その達成を目指す奮闘のためにプレイすることである。この一時的なゴールはいわば使い捨て可能[disposable]なものであり、ゲームが終われば用をなさない1。奮闘プレイには、手段それ自体が目的化するような一種の動機の逆転がある。

この奮闘/達成の区別は、その価値がルール上の勝利に帰属されるか、それともその奮闘の過程に帰属されるかという位置[location]に基づくものである。その上で、その価値がプレイに内在的/外在的かどうかという種類[type]に基づく区別を加えることで、以下の四分類を作ることができる。

内在的達成プレイ: 
勝つことそれ自体のために行われるプレイ。例えば、純粋な競争心のあるプレイヤーはここに含まれる。

外在的達成プレイ: 
勝つことが(道具的に)もたらすもののために行われるプレイ。例えば、お金を求めるポーカーのプレイヤーはここに含まれる。

内在的奮闘プレイ: 
プレイすることそれ自体のために行われるプレイ。例えば、パーティーゲームやバカゲーム(失敗したプレイヤーの姿を面白がるゲーム)の参加者はここに含まれる。

外在的奮闘プレイ: 
プレイすることが(道具的に)もたらすもののために行われるプレイ。例えば、健康のためにマラソンをするランナーはここに含まれる。

以上の分類は相互に排他的なものではなく、各プレイは同時に両立しうる。この奮闘/達成プレイの区別がNguyenの理論の基盤であり、とりわけ奮闘プレイの重要性を(やや偏重な仕方で)説く方針が、主に達成を重視する既存の理論との差別化点でもある。

ここで、本章で登場した概念の細かい内実に関して、評者の理解の限りで補足しておきたい(Nguyen独自の用語は直観的な平易さがある反面、細部の輪郭が捉えづらいことがある)。

まず、ゴールが使い捨て可能であるとはどういうことか。Nguyenの説明では、「自発的に引き受け、自身の永続的な価値体系や中心的な実践アイデンティティに大きな損害を与えることなく取り除くことができる」(p. 33–34)ことを指す。おそらく、初見では二通りの解釈が考えられるだろう。一つは、負けに(本気の)悔しさを感じてもすぐに切り替えられることであり、もう一つは、そもそも勝ち負け自体に全く感情が揺さぶられないことである。前者は、ゲームの内と外における価値の区別に関わる伝統的な概念(例えば、Juul (2005)の古典的ゲームの定義における「取り決め可能な帰結」など)と相性が良いため、そちらに引きずられやすいかもしれない。しかし、評者の理解ではNguyenは後者を想定している。直観的な根拠として挙げられる記述は、「彼女[対戦相手]が巧みな戦術で私を完全に打ち負かした時でも、私は自身が彼女を負かした時と同じように幸せである」(p.36)といった奮闘プレイヤーの描写である。ここには、負けの悔しさを過程の満足で補うというよりも、そもそも当初の目的として勝ち負けを気にかけていないため、全体の楽しさに全く影響しないというニュアンスが読みとれる。

また、奮闘プレイと達成プレイの区別についてもいくらか注意を払うべき点がある。Nguyenは2章後半で、奮闘プレイの可能性を擁護するために、想定反論への応答を行っている。そこで対立候補として挙げられている達成プレイには、①無性に勝利を欲するプレイヤーだけでなく、②困難の末の達成を目指すプレイヤー、③自身の能力の限界に挑む達成に価値を見出すプレイヤーなどが含まれている。ここから考えると、達成プレイにおける勝利という「位置」にある価値とは、ゲームの終わりのタイミングに生じたり確定するような価値であるとみなせるようにも思える。しかし後の議論では、ルールによって定められた勝利という出来事に帰属できる価値のみが達成プレイの対象であり、③のような仮に勝利できなくても自身の能力の成長に価値を見出せるプレイは(奮闘の過程に価値を帰属できる)奮闘プレイであると述べている(Nguyen 2021a, p.13)。

ただしそうであれば、純粋な内在的達成プレイヤーという区分は私たちの実践に照らしてかなり限定的な範囲のみを覆うものであるように思える。例えば①のプレイヤーにとっては、とにかく弱い相手や自分だけに有利なルールのゲームを選ぶこと、ズルをすることが最も効率的な戦略になる。しかし、ほとんどの真面目なプレイヤーはこのような勝利を求めないだろう。また、②の困難な達成を目指すプレイヤーはふつう、必ずしも勝利に至らなくとも、自身のベストスコアが出たとき嬉しさを覚えることが多いように思われる。このプレイヤーが定義上、純粋な達成プレイヤーに含まれなくなるのは直観的にやや奇妙であるし、また奮闘プレイの対極としての達成プレイの位置づけがぼやけてしまうようにも思える。この不鮮明さそれ自体は以降の議論に大きな影響を与えるものではない。しかし、ゲームプレイの価値を考える上で重要な論点になりえるかもしれない。

3. Layers of Agency (エージェンシーのレイヤー)

3章ではエージェンシーの「レイヤー化[layering]」が取り上げられる。この概念は、実際には価値のないゴールを目指して全力で取り組むという、奮闘プレイの一見矛盾した動機を正当化するための心的能力として提案されたものだ。Nguyenによれば、プレイヤーのエージェンシーはその行為の動機に関して内的、外的な二つのレイヤーを持つ。内的なレイヤーの動機はゲーム上で与えられたゴールの達成であり、外的なレイヤーの動機はそもそものゲームをプレイする目的に基づく。奮闘プレイにおいて、プレイヤーはエージェンシーの内的なレイヤーに潜行[submerge]することで、後で手放すゴールを最終的な目的のように扱い、本気で追求することができる。この時、外的なレイヤーの動機は必ずしも意識上でアクティブなわけではないが、バックグラウンド的に保持することができる。

レイヤー化の概念は、ゲーム研究の文脈で論じられてきた、いわゆる失敗のパラドックスの解決にも役立つ。プレイヤーは日常において失敗を避けるはずだが、ゲームにおいては失敗の可能性が高い挑戦に喜んで臨む。この矛盾も、上記の二つのレイヤーの議論を援用して説明できる。プレイヤーの目的は失敗を含む奮闘の過程にあり、ゴールの成否それ自体には価値を見出していないのだ。

4. Games and Autonomy (ゲームと自律性)

4章では、ゲームがプレイヤーのエージェンシーと自律性[autonomy]を発達させる方法について論じられる。プレイヤーは、ゲームがデザインしたエージェンシーを引き受ける。それゆえゲームをしている間、プレイヤーが何をすべきかはゲームのルールに基づいて決まる。しかし、このようなルールへの従属については、遊びに関わる研究の文脈から次のような懸念が示されることがある:遊びは本質的に自由なものである。他者の指定したルールに従うことは自由の対極にあるものであり、プレイヤーの自律性を損なわせるものではないか。

Nguyenはこの見解に反論する。自律性は単に制約のない自由の中で育つものではなく、むしろ様々な制約に対する適応を重ねていくことで長期的に獲得されるものである。ある課題に対応するための選択の幅が広いほど、私たちはより自律的になることができる。こうした検討を踏まえNguyenは、ゲームは短期的なエージェンシーの制約を課すことで、プレイヤーの適応能力を高めることができると主張する。

より具体的にいえば、ゲームは「エージェンシーのモード」を伝達することで自律性の発展に寄与する。エージェンシーのモードとは、特定のゴールを達成するための能力のセットに焦点を絞るやり方のことを指す。例えば論文を書くとき、研究的なモードや創造性を発揮するモード、論理の厳密さを保つモードや細かい校正のモードなど様々なモードに切り替える必要がある。ゲームはこのようなエージェンシーのモードを記録、保存するライブラリとして機能し、プレイヤーはゲームが提示するモードに没頭する。様々なゲームを遊び、そこで伝達されるエージェンシーに触れていくことで、私たちは実生活の課題においても適切なエージェンシーを選択し、流動的に切り替える術を養うことができる。

5. The Aesthetics of Agency (エージェンシーの美学)

5章では、奮闘プレイが持つ重要な内在的価値の一つとして、奮闘の美的価値に光を当てる。冒頭で述べたように、ゲームにおける芸術的、美的な価値の議論は、専らその表象的/批評的側面が俎上に上げられてきた。しかし本章で論じられるのは、エージェンシーの美的経験、すなわちプレイヤーが決断すること[deciding]、解決すること[solving]、行うこと[doing]において生じる美的経験である。とはいえ、そのような経験は実際に可能なのだろうか。

Nguyenが試みるのは、行為の美的質[aesthetic quality]に依拠した論証である。美的質とは、「美しい」、「エレガントである」、「壮大である」、「けばけばしい」といった語で表現されるような独特の質のことだ。私たちは絵画や音楽、あるいは日常の風景の中にこうした質を見出すが、それは色や大きさのような客観的な物理量とは異なる。また、美しいものに決まった法則がないように、機械的な計算や推論で導き出せるものでもない。それゆえ、美的質の把握には趣味[taste]と呼ばれる独特の直観的な能力が必要であるとされる。現代の美学では、こうした対象の持つ美的質への関与を美的経験に結びつけて考えることが多い。

スポーツやゲームの批評において、観客あるいは批評家がプレイヤーの動きの美しさを称賛することは珍しくない。しかしNguyenがここで注目するのは、観客の視点からではなく、プレイヤー自身が自らの行為に見出す美的質である。論理パズルの鮮やかな解決策が舞い降りる天啓の瞬間は、美しく完璧である。また、迫りくる車を反射的にひらりと避けた瞬間、自身の本能的な反応のエレガントさに打たれることがある。ゲームは、エージェンシーの精緻なデザインによって、まさにこうした奮闘の美的質をプレイヤーに提供することができる。その代表的なあり方として、Nguyenは三つの「実践的な調和[practical harmonies]」を挙げている(ここでの美的質の一種としての調和がどのようなものかについて、Nguyenは詳しく触れていない。おおよそ、音の調和のように、二つのものが少しでもずれれば成り立たないような仕方で、ぴったり合致している状態として考えるとイメージしやすいだろう)。

一つ目は解決の調和[harmony of solution]と呼ばれる。これは、障害[obstacle]と解決策[solution]との間の調和、すなわちある障害(課題)に対して、ちょうど適切な解決策が提示ないし実行されていることの間に生じる調和である。例えば、美しいチェスの一手が指される時、その一手と局面の間に調和がある。この調和は行為者の能力とは切り離して評価できるため、プレイヤー自身だけでなく、それを見ている観客にも共有しやすい。

二つ目の調和はプレイヤーのエージェンシーを含むものであり、行為の調和[harmony of action]と呼ばれる。これは適切な解決策に対して、それに相応しく自身が行為する時に経験される調和である。例えばマリオのゲームでジャンプのタイミングをちょうど合わせたり、ロッククライミングでバランスを取るために腰をわずかにずらす必要があることを理解する時、行為の調和が生じる。これも観客とプレイヤーの両方に利用可能だが、自ら思いつき行為したプレイヤーこそが、その調和を内側から享受できる。

三つ目は能力の調和[harmony of capacity]である。これは、一瞬のミスが命取りになるような極限の状況で、かろうじて持ち堪えている時に生じる、自らの能力と世界の間の調和である。ここでは単にある特定の行為が解決策と一致するのではなく、自己のすべての能力と実践的な環境との間に調和が立ち現れている。行為の調和ではその難易度は問われないが、能力の調和は困難な経験に固有のものである(なお、ここでの難易度や困難さは絶対的な基準ではない。Nguyen(2021b)は後に、能力の調和は初心者であれ熟練者であれ自身の限界に応じて生じうると述べている)。Nguyenは他にも、調和とは真逆の不和の美的質、例えばぎごちなさ[awkwardness]や不恰好さ[inelegance]についても例を挙げており、美的な行為の多様性を示している。

また、奮闘の最中にその美的質を捉え評価することも、二重のレイヤー化によって可能になる。プレイヤーは内的なレイヤーにおいてゴールを目指し全力で奮闘しつつ、外的なレイヤーからその美的質に注意を向けることができる。それゆえ私たちは、Nguyenが「世界が消え去るあの素晴らしく心地よい感覚、自らの義務や金銭のあらゆる心配が霧散していく」(p.119)と表現するような没頭の経験を美的に味わうことができるのだ。

6章から8章にかけては、主にエージェンシーの芸術としてのゲームの特徴について論じられているため、駆け足で概要を紹介する。

6. Framed Agency (フレームづけられたエージェンシー)

6章では、ゲームをフレームづけられた[framed]エージェンシーとして論じる。ここでのフレームとは、例えば小説を適切に読むためには書かれた文章を順番に読まなければならないように、作品を正しく鑑賞する上で必要な約束事のことを指す。ゲームにおいては、ルールやゴールというフレームのデザインを通じてプレイヤーの活動を特定の形に彫琢し、鑑賞の対象としてその活動に注意を向けさせる。ゲームという作品を適切に経験するには、その作品の属するジャンルごとに異なるフレームに従う必要がある。

7. The Distance in the Game (ゲームにおける距離)

7章では、鑑賞者が参加する様々な芸術形式の分類の内にゲームを位置づけ、ゲームデザインにおける困難について説明する。ゲームは、鑑賞者が鑑賞の対象となる活動を自ら生成する「プロセス生成的な参加芸術」である。それゆえ、ゲームデザイナーはレシピや楽譜のように固定された行為を指示するのではなく、プレイヤーの自由な活動を許容しつつも特定の美的質を確実に引き出すことができるようにエージェンシーを形づくらなければならない。

8. Games as Social Transformation (社会的な変容としてのゲーム)

8章では、ゲームが作り出す社会的な関係性のデザインに焦点を当てる。マルチプレイヤーゲームでは、個人のエージェンシーのみならず対立や同盟、依存といったプレイヤー間の社会的な相互作用までもがデザインされている。プレイヤーはこのような社会関係やそれに伴う奮闘を成り立たせるために一時的なエージェンシーを引き受け、また大局的な意味では互いに協力し合ってさえいるのだ。

Nguyenは、こうしたゲームの特徴をソーシャルアートの「関係性の美学」に重ね合わせる。ソーシャルアートと同様、ゲームも(ただしより認識的、実践的な価値のレベルで)ある種の人間同士の関係性、あるいは社会構造のシミュレーションとして機能し、社会を内側から理解するための洞察を与えてくれる。ゲームはエージェンシーのライブラリだけでなく、社会性のライブラリでもあるのだ。Nguyenは、ゲームにおいて培われたデザインの技術は、ソーシャルアートにも役立てられうると主張する。

9. Gamification and Value Capture (ゲーミフィケーションと価値の束縛)

9章では、翻ってゲームが孕むリスクに目を向ける。ここで注目されるのは、よく指摘されるような暴力描写の精神的な影響ではない。Nguyenが危惧するのは、ゲームがシリアルキラーではなくウォール街の強欲者を育てること──すなわち、プレイヤーの現実に対する価値観が、ゲーム的な単純な尺度や動機づけに塗り替えられてしまうことである。

私たちはふだん、家族や仕事、政治などさまざまな価値や自他の利益を考慮し、やりくりしていかなければならない。これらの価値は単純な比較が難しく、どれを優先すべきかに悩まされることも多い。一方、ゲームの価値は非常に明晰でわかりやすい。プレイヤーはゴールの達成度合いを定量的に把握できるし、順位づけも容易である。ゲームは、日常の価値の煩雑さから逃れる魅力的な避難所になりうるだろう。しかし、このような明晰さへの期待を現実世界に持ち出してしまうことが危うさに繋がる。

リスクの一つは、Nguyenが「完全な道具化[total instrumentalization]」と呼ぶ態度である。ゲームはふつう、プレイヤーがすべての要素を道具的に、すなわち目標の達成に役立つかどうかのみに即して扱えるようデザインされている。しかし、このような道具化の態度を現実の他者に適用してしまうことは道徳的な悪影響をもたらす。

もう一つのリスクは、「価値の束縛[value capture]」と呼ばれる。これは、単純化された価値が本来豊かなはずの人生の様々な価値に取って代わることで、人生が悪化してしまうような現象を指す。とりわけ、価値の束縛はいわゆるゲーミフィケーション──簡単にいえば、学習や仕事のプロセスを、段階的なゴールや報酬などのゲーム的な要素を組み込んでデザインすること──の事例において生じやすい。単純化されたゴールの追求はゲーム特有の快や動機づけを与える一方で、それへの過度な執着を引き起こすことがある。例えば、コミュニケーションのために始めたSNSで「いいね」ばかりを追い求めるようになってしまうことがある。また、純粋な真実を求める知的関心から研究者になったのにもかかわらず、論文の引用数やインパクトファクターのようなわかりやすい指標ばかりを気にするようになってしまったりする。このように、わかりやすい指標を追い求める快は、本来追い求めるべき目的を見失わせてしまうかもしれない。ゲームが提供する実践的な明晰さは、現実において真に重要な価値を考えるための視野を狭め、プレイヤーの自律性を失わせるリスクを抱える。

10. Value of Striving (奮闘の価値)

10章では、このような明晰だが視野の狭められた[narrowed]価値への執着にどのように対処すべきかという問いが取り組まれる。Nguyenは、ここでも美的奮闘プレイに望みを見出す。いわく、美的な奮闘こそが、この執着に対抗する術を身につける手段であるという。

これまでみてきたように、奮闘プレイをするには、安易に達成とは結びつけられない価値を、一歩退いた外側のレイヤーから評価することが求められる。そして中でも特に、美的奮闘プレイは価値の捉え難さの点で際立つ。伝統的に、美的価値は規則に依存しない独特な基準に基づくとされているからだ。何かを美しいと判断するとき、その判断は機械的な法則によって導かれるものではない。美的な評価はふつう、ゲームよりもはるかに複雑で繊細なプロセスを必要とする。

そのため美的奮闘プレイは、二層のレイヤーのそれぞれで対照的な評価を要求する。すなわち、プレイヤーは明晰な実践的価値のレイヤーに没頭しつつ、複雑な美的価値のレイヤーにおける繊細な内省を往復しなければならない。奮闘を美的に評価するためには、視野の狭い価値観にとらわれたままではいけない。一見相容れない二つの評価を両立させるとき、私たちは異なるエージェンシーを移動する流動性だけでなく、その移動を自律的に制御する能力をも養うことができる。Nguyenはこのような往復が、遊び一般に本質的に備わる「実践的世界における自己の存在の軽やかさ」に結びつくことを示唆して、本書を閉じる。

コメント

以上見てきたように、本書には豊富な論点が散りばめられており、またNguyen自身の論述も明快で読みやすい。これからゲーム研究を始める人にも勧めやすい研究書であるといえる。一方、評者の観点からは(理論全体に反旗を翻すものではないものの)いくらか疑問を感じている箇所もある。最後にこうした点について、細かくはあるがやや批判的な視点から検討を行っておきたい。以下が読者のさらなる思考や探究のきっかけになれば幸甚である。

・評者による検討

評者自身、ゲームプレイにおいて奮闘の価値は非常に重要だと考えている。とはいえ私たちは、例えば達成を完全に捨ててまで奮闘の価値を追い求めなければならないのだろうか?もちろん常にそうではないはずだ。しかし本書の議論は、ゲームの価値を論じる上で奮闘プレイの効果ばかりを強調しており、冷静な比較を難しくしている。また、そのような奮闘プレイの概念は「勝ち負けを全く気にかけない純粋な奮闘プレイ」と「勝利にしか興味がない純粋な達成プレイ」というかなり極端な(おそらくどちらも必ずしも一般的ではない)区別に立脚している。Nguyenは純粋な奮闘プレイが極端な態度であると認めているし、達成プレイや二つの両立を否定しているわけではない。しかし実際のところ、これらの極端な区別を前提とした議論は奮闘の過度な偏重を誘導するだけでなく、説明的な理論としても歪みを生んでしまっている。奮闘プレイに対していくぶん距離をとった視点から、Nguyenの主張を吟味したい。

まずA.では、奮闘プレイと使い捨て可能なゴールとの結びつきについて論じる。本書の理論は、奮闘と達成両方を重視する混合的なプレイヤーの動機のあり方を適切に説明できるものにはなっていない。この点を検討することで、奮闘に価値を見出す上で必ずしもゴールを使い捨てなければいけないわけではないことを確認する。

また、B.では奮闘プレイの価値について精査する。ここでは、奮闘プレイによって養われるとされるエージェンシーの柔軟性は達成プレイでもかなりの程度養えるし、奮闘プレイにもある種のリスクがありえることを論じる。勝利を純粋に目指すプレイは、少なくともNguyenが示唆するほどに硬直的で無反省なものではない。

A. 奮闘プレイと使い捨て可能なゴールとの結びつきについて

Nguyenの理論では、奮闘プレイにおいて「奮闘に価値を見出すこと」と「ゴールが使い捨て可能なこと」「動機が二重にレイヤー化されており、一歩引いた視点から反省が可能なこと」などが本質的に結びついている。一方で、達成プレイは「勝利に価値を見出すこと」「ゴールが使い捨て可能でないこと」「ゴールと目的が一致しているために勝ちへの執着から抜け出しがたいこと」が結びついている。こうした繋がりは、実際の事例からしばしばうかがうことができるものではある。しかし、評者は──少なくともある程度までは──これらは区別すべき別々の事柄であると考えている。議論を通じて、この繋がりを可能な限りほぐしていきたい。

Patridge(2021)も指摘しているように、奮闘の内在的価値と達成の内在的価値両方を重視する混合的なプレイヤーは私たちの実践においてごく一般的である(以下A. の議論では、基本的にプレイの内在的価値について考える)。すなわち、多くのプレイヤーは奮闘の過程を楽しみつつ、勝利に喜び、負ければ悔しがる。Nguyenも二つのプレイの両立を認めているが、現状の理論は混合プレイヤーの動機を適切に説明できるものにはなっていない。まずこの点を指摘した上で、代わりにどのような説明が適切か検討する。

まず、Nguyenは奮闘/達成プレイの特徴づけに関する節の冒頭で「奮闘プレイを可能にするのは使い捨て可能なゴールの存在である」(p.33)と述べ、奮闘プレイと使い捨て可能なゴールを結びつけている。また近い箇所で、内在的な達成プレイヤーにとってゴールはいかなる意味でも使い捨て可能でないとし、奮闘プレイとの対比を際立たせている(p.36)。しかしこれらの説明に従えば、奮闘と達成を両立させる混合的なプレイヤーの態度は、ゴールが「使い捨て可能かつ使い捨て可能でない」という矛盾したものになってしまう。この点についてNguyenの言及は見出せず、説明が求められる。まず想定できるのは、両者がある種のトレードオフの関係にあるという考えである。すなわち、奮闘を重視するほどゴールは使い捨てになり、達成を重視するほどゴールは使い捨てでなくなる。(使い捨て可能かどうかを量的な尺度として考えること自体説明を要するが)直観的にはこのような事例はありうるように思われる。例えば、奮闘を楽しむために対戦相手の序盤のミスを見逃すプレイなどは、奮闘と達成を秤にかけている。しかし、少なくとも奮闘に価値を見出すプレイすべてにおいてそうではない。以下に示すように、ある種の事例──特に、Nguyenが奮闘プレイの典型として取り上げるような完全な没頭の経験──においては、私たちは達成の価値をほとんど犠牲にしないまま、奮闘の価値を重視してプレイすることが可能である。この意味で、少なくとも奮闘に価値を見出すことと使い捨て可能なゴールは本質的な繋がりを持つものではない。使い捨て可能なゴールが必要なのは、あくまでも純粋な奮闘プレイに限られる。

具体的にみていく。まず、プレイにおける価値について細かい点を明確にしておこう。奮闘にせよ達成にせよ、その価値のためにプレイすることは(失敗がありえるという意味で)ある種の賭けに出ることである。内在的な達成プレイヤーは、勝利すれば嬉しさというリターンが得られ、負ければ悔しさという負のリターンを得る。同様に、内在的な奮闘プレイヤーは奮闘を楽しめるか、つまらないまま終わってしまうかがリターンになる。ある価値への賭け金が大きいほど、プレイヤーはそれに向け真剣に取り組み、そのリターンも大きくなる。例えばプレイヤーが達成に向けて本気で取り組む(すなわち達成の価値への賭け金が多い)場合、その勝ち負けに伴うリターンは、ほとんどやる気のない(すなわち達成の価値への賭け金が少ない)場合に比べて大きいはずだ。純粋な達成プレイヤーは奮闘の価値に全く賭けていないので奮闘の質は気に留めないし、純粋な奮闘プレイヤーは勝利の価値に全く賭けていないため勝つかどうかにこだわらない。

ゴールの使い捨て可能な度合いがトレードオフかという問いは、この賭け金がトレードオフかという問いである。奮闘の価値に賭けるとき、私たちは代わりに達成の価値への賭け金を目減りさせなければいけないのだろうか。

少なくとも、一部の状況においてはそうではない。Nguyen自身の説明によれば、奮闘プレイにおける完全な没頭は、本来の目的を忘れゴールを目指す奮闘に従事することである。このような奮闘プレイヤーは、達成プレイヤーと見分けがつかない同等の真剣さで勝利を目指す(Nguyen 2021a, p.4)。もしそうであれば、外側のレイヤーから奮闘の価値の評価が加わることは、プレイヤーの達成を目指す努力や思考をほとんど妨げないはずである。言い換えれば、プレイヤーは奮闘の価値を評価しようがしまいが、同程度のパフォーマンスを発揮できる。それゆえ、プレイヤーは没頭という奮闘の価値のために、わざわざ達成の価値への賭け金を捨てる理由がない。奮闘を十分楽しみつつ、達成の価値も真剣に目指して良いのだ。このような場合、ゴールは全く使い捨て可能にはならない(もちろん、勝負に負けて悔しくても、奮闘がそれ以上に楽しかったために損失を補填できるということはありえる。しかし、それは純粋な奮闘プレイヤーと同じ意味でゴールが最初から使い捨てであるということではない。勝負に負け、かつ奮闘も楽しめなかった場合、両方の合計分、負のリターンが帰ってくるはずだ)。また実際、達成の価値も奮闘の価値も全力で目指す姿勢は単に理論上の可能性ではなく、身近なものである。例えば、部活動の大会進出がかかった試合で、チームメイトや監督が「最後まで楽しんでいこう」と声を掛け合うことがある。その宣言通り、彼らは試合の奮闘を楽しむのだが、だからといって勝負の手を抜くとか、パフォーマンスが落ちるわけでは全くないし、負ければやはり悔しさを感じる。同様の姿勢は、重要な帰結を伴わない日常的なゲームプレイにおいても見出せるはずである。

こうした本来両立の可能な事例において、プレイヤーが達成の価値への賭け金を捨てたとすれば、それは奮闘プレイが本質的にゴールを使い捨てなければいけないからではない。おそらく、プレイヤーがそもそも奮闘の価値にしか興味が無いか、勝ち負けがプレイ全体の価値に影響することをリスクと捉える判断によるものだろう。たしかに、このような判断は部分的には合理的である。実力の均衡したプレイヤーや優れたゲームデザインに基づいた「良い試合」であればふつう、奮闘を楽しめる確率は高い一方、自身が勝つ確率はよくて五分五分であり、相対的に分の悪い賭けではあるからだ。とはいえ、だからといって私たちは達成を放棄しなければいけないわけではない。

以上の意味で、奮闘に価値を見出すことと使い捨て可能なゴールは(特に典型的な完全な没頭の経験において)必ずしも結びつかない。私たちは、経験全体が最も価値あるものになるよう、良い奮闘と達成両方を目指して真剣にプレイすることができる。

Nguyenはおそらく、このような奮闘と達成の両立を認めるように思われる(Nguyenが本来主張したいのも、奮闘を重視するプレイの一部においてゴールが使い捨て可能になるという程度のことかもしれない)。しかし、少なくとも先に示したp.33の引用箇所はミスリーディングだろう。また、プレイヤーの動機を説明するモデルは混合的なプレイヤーも適切に掬えるものでなければならないはずだ。以上の点において、Nguyenの理論には修正の余地がある。

B. 奮闘プレイの発達的な効果について

続いて、奮闘プレイの効果を精査する。ここで取り組むのは、エージェンシーの柔軟性を発達させる効果が奮闘プレイに備わっているかどうかという、効果の有無の検証ではない。効果があるとして、それがどの程度なのか、特に達成プレイと比べたときにどの程度優れているのか、という問いである。新薬の開発がそうであるように、あるものが生活を改善すると主張する上で重要なのは、単なる効果の有無だけではない。他の取りうる手段と比べてそれがどれだけ優れているのか、隠れたリスクや副作用が無いのかを十分に精査することが求められるはずだ。こうした留意がなければ、その主張は間違った、あるいは非効率な手段に誘導する誇大広告へと容易に陥ってしまう。この点から見れば、Nguyenの議論は奮闘/達成プレイ同士の比較を疎かにしたまま、奮闘プレイの効果を過度に強調したものになっているように思われる。以上を踏まえ、細かく検討していきたい。

Nguyenはプレイヤーの日常生活に貢献するゲームの価値を、ゲームプレイを通じて培われるある種の柔軟性、あるいはより根本的な反省性に求める。前者は特定のエージェンシーに一時的に没頭し速やかに抜け出す能力、後者はそのような出入りを助ける、本来の目的の視点から自身の奮闘をつぶさに評価する能力としておおむね捉えられる。奮闘プレイは、達成に集中する内的エージェンシーとは異なる外的エージェンシーを保持しているために、このような柔軟さや反省性を本質的に促すというのがNguyenの理屈である。逆に、達成プレイは複層性が無く目的とゴールが一致しているため、硬直的で無反省なプレイを助長する(p.218; Nguyen 2021a, p.15)。

しかし、こうした対比は実際のところ、どこまで際立ったものだろうか。まず、ここで言われている柔軟性、反省性は複数の能力をひとまとめにしており、以下のより細かい能力が想定できる。

1. 様々なタスクに直面しても即座に対応できる適応能力。

2. 負けても気にしないマインドの切り替えの能力。

3. 奮闘を一歩引いた視点から反省する能力。

4. 3.のうち、奮闘を(美的な評価のような)ゲームの勝利と異なる評価基準から反省する能力。

このように分割してみると、少なくとも1.から3.にかけての能力は必ずしも奮闘プレイヤーの専売特許ではなく、純粋に達成を目指すプレイヤーでも一定以上養えることがうかがえる。順に見ていこう。

まず、1.の能力は様々なゲームをプレイすること、あるいはマルチタスクのゲームをプレイすることで養われるはずである。しかし、純粋に達成を求めて(マルチタスクのゲームを含む)様々なゲームをプレイすることは十分ありえるし、逆に奮闘プレイヤーが気に入ったゲームだけに熱中し、他のゲームには全く触れないということもありえる。様々なゲームを遊ぶ、あるいはマルチタスクなゲームを好むかどうかといった傾向と、奮闘の価値を重視する姿勢との間に強い相関があるかは疑わしい。

2.の能力についても、純粋に達成を求める動機から身につくことがあるように思われる。例えば、勝利や上達を追い求める上では、一つ一つの勝ち負けに過度に揺さぶられることは効率が悪い。達成プレイヤーはそのような動機に基づいて切り替えの能力を培うことができ、そのしなやかさは勝ち負けに関係なく、また試合を楽しめなくても冷静さを維持可能なものである。逆に奮闘プレイヤーは、もし奮闘を楽しむことに失敗した場合、その負の影響から逃れる術がないだろう。

3.の能力についても同様である。多くのゲームにおいて、プレイヤーは局所的/戦術的な視点と大局的/戦略的な視点を適宜切り替え、より広い視座から現在のプレイが目的に適ったものかを反省することが求められる(このような反省の仕方はNguyen自身、本書5章で示唆している)。この能力は上級者ほど必須のものであるし、とりわけ達成プレイヤーのような真剣に勝利や上達を目指す動機によって成長が促されることがよくある。例えば、負けの本気の悔しさをバネに、自身のプレイを真剣に見つめ直し、次の試合ではより反省的に広い視点を維持することができる。これは、勝ち負けを気にせず、その場の楽しさや主観的な能力の調和を重視する極端な奮闘プレイからはあまり見込めないものだろう。また、こうした俯瞰の能力は、特に直接的に日常生活にも役立つものである。実際、Nguyenが挙げるようなエージェンシーの柔軟性が役立つ事例(チェスが哲学的思考に役立つ、シミュレーションゲームを通じて経営者の感覚を学ぶなど)については、ほとんど3.か、あるいは1.の能力を養ったことの副産物であるように思われる。

一方で、4.の奮闘の美的評価の能力は、奮闘プレイヤーに特有といえるかもしれない。しかし、(例えば3.の反省と比べて)それがどこまでエージェンシーの柔軟性にとって効果的といえるだろうか。対象をその機能とは直接関係ない仕方で美的に味わうことそれ自体は、強い反省を促すものとは限らない。特に、美的判断は独立した価値基準であるぶん、3.のような本来の機能についてのより深い反省には繋がりづらい。自身の指手を美しいとか調和していると感じ取ることは確かにある種の距離を促すが、その効果はかなり限定的であるように思われる。美的な奮闘が持つ独特の価値を論じるのであれば、単にその評価基準の複雑さに訴えるだけではなく、より慎重に議論を組み立てなければならないはずだ。

以上から主張したいのは、奮闘プレイと達成プレイがその発達的な価値において差が無いということではない。奮闘プレイが何らかの利点を持ちうるのと同様、達成プレイも異なるタイミングや理由で柔軟性を促すことができる。それゆえ、両者をよりフラットな視点から比較検討すべきである。少なくとも、Nguyenが対比させるほどに達成を目指すプレイが堅苦しさばかりのものではないことは、これまでの議論からうかがえるはずである。

また、それぞれに特有のメリットやデメリットをより細かく掘り下げていくことも有用だろう。この点を示唆するために、(深くは踏み込まないが)奮闘の内在的価値を過度に重視するリスクについても目を向けたい。

まず、9章で取り上げられた明晰な価値体系への依存の事例について考える。Nguyenは、明晰な価値を追求するゲーム的な快がその価値体系への執着を促すと論じていた。しかし、この快には達成の価値だけでなく、わかりやすいフィードバックが得られ、手頃な苦戦を味わえるという奮闘の価値も明らかに関わっているはずである。明晰な奮闘の快やそれへの執着はゲーム依存の理由の一つでもあるだろうし、同じことはゲーミフィケーション的な現実の制度についてもいえるだろう(Nguyenは似た論点に関して、プレイヤーがつい奮闘に執着しても、ゲームは通常終わりがあるために自然に抜け出すことができると応答している(Nguyen 2021a, p.10)。しかし、現実のゲーミフィケーションやエンドコンテンツのあるゲームは明確な終わりが必ずしもなく、抜け出せるきっかけのないまま習慣化してしまうことも多い)。

また、主観的な奮闘の楽しさを過度に重視する内在的奮闘プレイヤーは、ゲーミフィケーション的な事例において本来自分が達成したかったことを蔑ろにしたり、無意識に遠回りしてしまうかもしれない。例えば言語学習アプリにおいて、努力している実感や楽しさが得られることはアプリを選ぶ重要な評価基準になることが多い。しかし、そうした表面的な出来の良さが、自身に必要なスキルを適切な仕方で身につけさせてくれるとは限らない。奮闘の内在的価値を重視しすぎると、より良い代替手段を見逃してしまうかもしれないのだ。また、自分が心地よいと感じる限界は、えてして実際の限界ではない。楽しい奮闘のぬるま湯に浸かってしまうことは、多少負荷が高くても確実に自分を成長させてくれる手段の拒否にもつながりうる。これらのよくない奮闘への執着から抜け出す上で、明確なゴールの達成という機会や、達成へのこだわりを持つことはむしろ有効にはたらくはずだ。

以上はかなり大雑把なリスクの素描である。しかしここから垣間見える示唆は、結局のところゲームの経験を十全な仕方で日常に活かすには、奮闘/達成プレイ両方の特徴を把握し、うまく乗りこなすことが重要ということである。私たちは奮闘/達成プレイという区別を超えたより俯瞰的な視点から、時に勝利への本気のこだわりや負けの悔しさを糧にし、時に奮闘の楽しさをモチベーションの支えにするといった仕方でバランスを取ることができ、実際そうしているのではないか。そうしたメタ的に達成と奮闘を乗りこなす柔軟性は、単に奮闘プレイを志していれば効率的に身につくというものでは必ずしもないかもしれない。

奮闘の価値は確かに魅力的だ。しかしだからこそ、私たちは一歩引いてその価値を考えなければならない。

文献案内

本書の議論と関連した日本語文献を以下に挙げる。まず、Nguyenが依拠するSuitsの著書は以下の邦訳が出ている。

Suits, Bernard. (1978). The Grasshopper: Games, Life, and Utopia. Third edition. Peterborough, ON: Broadview Press. (『キリギリスの哲学──ゲームプレイと理想の人生』川谷茂樹・山田貴裕訳、ナカニシヤ出版、2015年)

美的行為に関わる先行研究として、またビデオゲームに関する一般的な理論としては、松永の著作が挙げられる。

松永 伸司. (2018). ビデオゲームの美学. 慶應義塾大学出版会.

使い捨て可能なゴールに関連した議論として、Suitsとは異なるゲーム観を示しているJuulの著作や、Salen and Zimmermanにおけるマジックサークルの概念なども有用だろう。

Juul Jesper. (2005). Half-Real: Video Games between Real Rules and Fictional Worlds. Cambridge, MA: MIT Press. (『ハーフリアル──虚実のあいだのビデオゲーム』松永伸司訳、ニューゲームズオーダー、2016年)
Salen, Katie, and Eric Zimmerman. (2004). Rules of Play: Game Design Fundamentals. Cambridge, MA: MIT Press. (『ルールズ・オブ・プレイ』(上・下)山本貴光訳、ソフトバンククリエイティブ、2011/2013年)

特に、松永とJuulの著作は、Nguyenがあまり触れていなかった、ビデオゲームが持つ虚構的な側面とSuits的なゲームプレイの二面性についての理論的検討が扱われている。

また、ゲーム研究に関わる幅広い論点を把握する上では、近年出版された以下の書籍が役立つだろう。

吉田 寛, 井上 明人, 松永 伸司, マーティン・ロート 編著 (2025). 『クリティカル・ワード ゲームスタディーズ:遊びから文化と社会を考える』 フィルムアート社.

謝辞

本書評の執筆にあたり、草稿について有益なコメントをしていただいた上野悠氏、分析美学の勉強会の皆様に感謝いたします。

1使い捨て可能[disposable]という語は、時々に応じて目標[end]、関心[interest]など様々な語を修飾する仕方で用いられているが、本書評ではわかりやすさのために「使い捨て可能なゴール」で統一している。

参考文献

Juul, Jesper. (2005). Half-Real: Video Games between Real Rules and Fictional Worlds. Cambridge, MA: MIT Press. (『ハーフリアル──虚実のあいだのビデオゲーム』松永伸司訳、ニューゲームズオーダー、2016年)
Nguyen, C. Thi. (2021a). The opacity of play: a reply to commentators. Journal of the Philosophy of Sport, 48(3), 448–475. https://doi.org/10.1080/00948705.2021.1993870
Nguyen, C. Thi. (2021b). Defending Games: Reply to Hurka, Kukla and Noë. Analysis 81 (2):317–37. https://doi.org/10.1093/analys/anab047
Patridge, S. (2021). Games, motives, and virtue. Journal of the Philosophy of Sport, 48(3), 369–379. https://doi.org/10.1080/00948705.2021.1948340
Suits, Bernard. (1978/2014). The Grasshopper: Games, Life, and Utopia. Third edition. Peterborough, ON: Broadview Press. (『キリギリスの哲学──ゲームプレイと理想の人生』川谷茂樹・山田貴裕訳、ナカニシヤ出版、2015年)
松永伸司. (2018). ビデオゲームの美学. 慶應義塾大学出版会.

評者情報

鈴木 和馬(すずき かずま)

現在、東京大学大学院人文社会研究科美学芸術学研究室後期博士課程在籍。専門領域はゲーム研究と分析美学で、特にビデオゲームの美的経験について研究している。