2026年9月28日
Schemmel, C. Justice and egalitarian relations.
Oxford University Press, 2021年
評者:榊原清玄
1. はじめに:平等とは分配の問題なのか、関係の問題なのか
平等な社会とは、どのような社会だろうか。この問いに対して、まず思い浮かぶ答えは、資源・機会・厚生が人々のあいだに偏りなく行き渡っている社会、というものかもしれない。所得や富が大きく偏っておらず、教育や職業への機会が開かれ、誰もが一定水準以上の生活を送ることができる社会は、たしかに平等な社会の重要な候補と言っていいだろう。こうした見方は、平等を、財や機会がどのように〈分配〉されているかの問題として捉えている。
しかし、平等をそのような分配の問題だけに還元できるだろうか。仮に資源や機会が一定程度平等に分配されていたとしても、一部の人々が他者の恣意的な権力に服していたり、社会的に劣った者として扱われていたりするならば、その社会を平等な社会と呼ぶことにはためらいが残る。例えば、同じ権利や機会を持っていても、ある集団が常に疑いの目で見られ、発言を軽んじられ、他者に従属することを期待されているならば、そこにはなお平等に反する何かがある。
このように考えると、平等をめぐる問いには少なくとも二つの次元がある。一つ目は、正義にとって重要な財や機会が人々のあいだでどのように分配されているかという〈分配〉の次元である。二つ目は、人々が互いにどのような者として扱われ、どのような社会的関係に立っているかという〈関係〉の次元である。現代の平等論における重要な論点の一つは、平等を主として〈分配〉の問題として捉えるべきなのか、それとも〈関係〉の問題として捉えるべきなのか、という点にある。
分配を重視する立場は、広く〈分配論的平等主義〉と呼ぶことができる1。典型的な形の分配論的平等主義によれば、平等の評価対象は、資源・厚生・機会など、正義にとって重要な対象が人々のあいだでどのように分配されているかである。つまり、誰が何をどれだけ持っているのか、あるいは誰がどれほどよく暮らしているのかが、平等を評価する際の中心的な問題となる。この立場は、ロールズ以後の分析的政治哲学において大きな影響力を持ってきた。
そのなかでも、とくに重要な位置を占めてきたのが、〈運の平等主義〉である。運の平等主義とは、人々の生に及ぶ運の効果を是正しようとする一群の理論を指す。ここで問題となるのは、本人の責任ある選択に由来しない不利益である。たとえば、生まれつきの才能・家庭環境・社会的出自などは、本人が選び取ったものではない。したがって、ある人がそのような偶然の事情によって他者よりも不利な状態に置かれているならば、その不平等は正義の観点から是正されるべきだと考えられる。この意味で、運の平等主義はしばしば〈責任感応的平等主義〉とも呼ばれる(Knight 2013)。すなわち、それは、本人の責任に帰すことのできない偶然の影響を中和しつつ、責任ある選択に由来する差異については一定程度許容する立場である。
しかし、1990年代末以降、こうした分配論的な平等理解に対して、重要な批判が提起された。その批判によれば、分配論的平等主義は、平等を主として〈誰がどのような財をどれだけ持っているか〉という分配状態の問題として捉える。そのため、人々が互いにどのような関係に立っているかという次元を見落としやすい。この次元を見落としてしまうならば、資源や機会が一定程度平等に分配されているというだけで、その社会を平等な社会とみなしてしまいかねない。このような問題意識から登場したのが、〈関係論的平等主義〉である。
関係論的平等主義によれば、平等の要点は、人々が〈平等者として共に生きる〉ことにある。この理念の観点から焦点となるのは、単に誰が何をどれだけ持っているかではなく、人々の関係が、階級・権力・地位の差異によって階層化・序列化されていないかどうかである。よって、関係論的平等主義によれば、平等な関係とは、そのような階層化・序列化が存在しない関係である。
もっとも、関係論的平等主義は、分配の重要性を否定する立場ではない。富・教育・医療・政治的意思決定における影響力などに関わる分配は、人々がどのような関係に置かれるかを大きく左右する。極端な経済的不平等は、富裕者に過大な政治的影響力を与え、貧困層を他者の意思に依存させ、社会的評価や発言力の格差を生み出す。その意味で、分配の問題は関係論的平等主義にとっても中心的である。
ただし、関係論的平等主義者が分配を重視する仕方は、典型的な分配論的平等主義とは異なる。分配論的平等主義は、資源・厚生・機会などが人々のあいだでどのように分配されているかを、平等の中心問題として捉える。これに対して関係論的平等主義は、分配を、それ自体で完結する問題としてではなく、人々が対等な者として関係しうるための条件として捉える。すなわち、ある分配が不正であるのは、人々が保有する財の程度が不平等であるからだけではなく、それによって人々が支配されたり、劣位化されたり、対等な市民として扱われなくなったりするからである。
したがって、分配論的平等主義と関係論的平等主義の違いは、平等の根本的な対象をどこに置くべきかにある。分配論的平等主義が、正義にとって重要な財の分配を平等の中心問題とするのに対し、関係論的平等主義は、人々が互いを対等な者として扱い、支配や劣位化のない関係に立つことを平等の中心問題とする。分配は、この対等な関係を可能にしたり、逆に破壊したりする制度的条件として重要なのである。
本書の立場——リベラルな関係論的平等主義
Christian Schemmelは、現代政治哲学、とりわけ分配的正義・平等・リベラリズム・共和主義を専門とする政治哲学者である。これらの関心を背景に書かれた Justice and Egalitarian Relations は、分配論的平等主義と関係論的平等主義の対立を背景に理解されるべき著作である。本書の課題は、関係論的平等主義をリベラルな正義論として体系的に構築することである。
本書の理論的中心にあるのが、制度の〈表出的側面〉、すなわち制度が人々への態度を表明する次元である。制度は、単に資源や機会を分配するだけではない。制度は、人々をある仕方で扱い、その扱いを通じて、誰が対等な成員として認められているのか、誰が従属的・劣位的な地位に置かれているのかを表明する。たとえば、ある制度が特定の集団にだけ不利益を課す場合、その問題は、単にその集団が受け取る財が少ないという点に尽きない。その制度は、当該集団を劣った者、無視してよい者、あるいは支配してよい者として扱っているかもしれない。Schemmelによれば、このような〈関係〉の次元は、分配結果とは独立に、正義の評価対象となる。
本稿の構成
以下では、まず本書の各章を概観する。次に、本書の理論的貢献を確認したうえで、Schemmelの議論に対して一つの批判的コメントを加える。焦点となるのは、制度の〈表出的側面〉が、関係論的平等主義を分配論的平等主義から峻別する基準たりうるかという問題である。最後に、関係論的平等主義および運の平等主義を理解するための文献案内を付す。以下、本書からの引用・参照については、括弧内に頁数のみを示す。
2. 内容の要約
本書は二部構成をとる。第I部「リベラルな関係論的平等主義」では、Schemmelの理論的立場が構築される。中心となるのは、分配論的平等主義への批判、リベラルな非支配の構想、そして社会的地位の平等である。第II部「含意」では、その理論が政治的平等、分配的正義、健康の不平等に応用される(pp. vii–viii)。
第I部:リベラルな関係論的平等主義
第1章「正義と平等な関係」では、本書全体の問題設定が示される。それによれば、現代社会における平等の障害は、経済的不平等だけではない。人々が他者の恣意的な権力に服していたり、社会的地位のヒエラルキーのなかで劣位に置かれていたりするならば、たとえ資源の分配が平等であっても、その社会を〈平等者の社会〉と呼ぶことはできない(p. 3)。そこで本書は、非支配と社会的地位の平等を、リベラルな正義論の内部に組み込むことを目指す(pp. 3–5)。またSchemmelは、本書の主要な対象を、複雑な分業と社会協働を支える制度構造を備えた国内社会に限定し、グローバル正義への拡張を今後の課題として位置づける(pp. 18–21)。
第2章「分配的平等と関係的平等」は、本書の理論的出発点である。ここでSchemmelは、分配論的平等主義が正義を主として〈誰が何をどれだけ持つか〉という観点から捉えるため、制度が人々を〈どのように扱うか〉という次元を十分に捉えられないと論じる(pp. 22–27)。この点を示すために取り上げられるのが、トマス・ポッゲの思考実験である2。以下では、趣旨を損なわない範囲で単純化して紹介する。
二つの社会を考えてみよう。いずれの社会においても、ある集団は特定の栄養素を十分に摂取できず、その結果として同じ程度の健康上の不利益を被っている。しかし、一つ目の社会では、国家がその集団に対して当該栄養素を含む食品の購入を法律で禁止している。これに対して、二つ目の社会では、国家がその栄養素へのアクセスを確保していないだけである。この場合、両者の分配結果は同じであるにもかかわらず、一つ目の社会の方がより深刻な不正義を含んでいるように見える(pp. 27–29)。
この差異は、集団が被っている不利益の量だけを見ていては説明できない。どちらの社会でも、当該集団が被っている健康上の不利益は同じだからである。違いは、制度がその集団をどのように扱っているかにある。一つ目の社会では、制度はその集団を名指しで排除し、敵意や軽蔑、あるいは少なくとも対等な成員として扱わない態度を表明している。制度は、その行いを通じて人々に対する一定の態度を表明する。これが〈表出的側面〉である(pp. 38–53)。制度が特定の集団を排除したり従属的地位に置いたりする場合、その問題は、当該集団が受け取る財が少ないという点に尽きない。制度の行うことの表出的側面に着目すると、この制度が当該集団を対等な成員として扱っていないことが焦点になる。
第3章「リベラルな非支配」では、表出的側面を具体化する第一の概念として、〈非支配〉が論じられる。Schemmelは、自由で平等な人格による社会協働というロールズ的な背景構想を導入したうえで、どのような権力関係が正義に反するのかを明らかにしようとする(pp. 55–63)。ここで支配とは、ある人や集団が、他者の選択に対して恣意的に干渉できる非対称的な権力を持つことである(pp. 63–78)。重要なのは、実際に干渉が行使されていなくても、干渉されうる状態に置かれていること自体が問題となる点である。この議論は共和主義的自由論と親和的だが、非支配が社会正義における唯一の価値であるとはみなさない。むしろ非支配は、自由で平等な者たちの公正な協働を支える重要な構成要素として位置づけられる(pp. 78–93)。
第4章「リベラルな非支配が要求すること」では、非支配が具体的に何を要求するのかが検討される。Schemmelはまず、支配の範囲を広く捉えるべき側面と、狭く捉えるべき側面を区別する。支配の範囲を広く捉えるべきなのは、支配が個人レベルの権威関係に限られないという点である。支配は、例えば国家と市民、雇用主と労働者、親と子のような特定が比較的容易な権威関係だけでなく、より暗黙的で捉えにくい社会関係や集団による権力関係にも生じうる。また、支配関係が成立するためには、当事者がその関係を共通に認識している必要もない。他方で、支配の範囲を狭く捉えるべきなのは、支配があくまで行為主体による恣意的権力の問題だという点である。社会規範や社会構造は、支配を可能にしたり強化したりするが、それ自体が文字通り支配するわけではない(pp. 95–100)。
この区別を踏まえたうえで、Schemmelは非支配の保護がどの程度の強度をもってなされるべきかを論じる。どの領域にどの程度の保護が必要かは、その領域が個人の自由や道徳的人格にとってどれほど重要かによって異なる(pp. 101–110)。思想・良心・身体の自由のように、個人が自分の善の構想を形成し追求するうえで中心的となる基本的諸自由の領域では、非常に強い保護が必要となる。だが、すべての選択領域で同一の強度の保護が要求される必要はない。さらに、非支配の実現には、法制度だけでなく、他者を支配しないように自らを抑制する社会的規範や精神 (エートス)も必要となる(pp. 115–123)。
第5章「非支配を超える関係的平等」は、本書の展開上重要な転換点である。Schemmelはここで、非支配だけでは関係的平等の要求を十分に捉えられないと論じる(pp. 127–132)。人々が他者の恣意的権力から保護されていたとしても、なお社会的地位のヒエラルキーによって劣位に置かれることがあるからである。この問題を受けて、二つのアプローチが検討される。一つ目は、社会的平等を正義とは別の価値として捉える多元主義的アプローチであり、二つ目は、平等な関係を一種の分配財として扱う分配論的平等主義のアプローチである(pp. 132–160)。Schemmelは、一つ目の多元主義的アプローチについては、リベラルな正義論としては卓越主義的な社会理想に依拠しすぎると批判し、二つ目の分配論的平等主義のアプローチについては、関係的平等の固有性を十分に捉えられないと論じる。
第6章「社会的地位、自尊心、機会」では、社会的地位の不平等が詳しく分析される。Schemmelが注目するのは、〈社会的地位の規範〉である。これは、特定の職業・階級・人種・ジェンダーなどの社会的属性を持つ人々に対して、尊敬や軽蔑、あるいは承認や非承認の特定のあり方を結びつける共有された社会規範を指す(pp. 162–173)。こうした規範は、単に評価や感情の違いを生み出すだけではない。それは、ある集団の成員が社会のなかでどのような者として扱われ、どのような機会を得られ、どのような自己理解を持ちうるかを構造化する。
Schemmelによれば、社会的地位の規範は三つの仕方で不正となりうる。第一に、それは、低い地位に置かれた集団への権力行使を容易にし、支配の背景条件を形成する。第二に、それは、自分の人生計画や能力を価値あるものとして理解する自尊心を傷つける。第三に、それは、教育・労働・政治参加などの場面における重要な社会的機会を閉ざす。ただし、すべての否定的評価やすべての地位の差異が不正なのではない。問題となるのは、特定の集団を劣位化し、他の評価可能性を閉ざし、支配・自尊心の毀損・機会喪失を生み出すような地位規範である(pp. 173–193)。
以上が第I部の議論である。Schemmelはまず、分配論的平等主義が見落としがちな〈関係〉の次元を、制度の〈表出的側面〉として定式化する。ついで、その表出的側面を、自由で平等な人格による社会協働というリベラルな背景構想に接続し、非支配を関係的平等の第一の柱として位置づける。しかし、非支配だけでは、人々が劣った者として扱われる社会的地位の不平等を十分に捉えられない。そこで第I部の後半では、社会的地位の規範・自尊心・社会的機会の分析を通じて、関係論的平等主義の第二の柱が構築される。こうして第I部は、リベラルな正義論の内部に、〈非支配〉と〈社会的地位の平等〉という二つの要求を組み込む理論を提示している。
第II部:政治・分配・健康への応用
第7章「政治的平等」では、リベラルな関係論的平等主義が政治制度に対して何を要求するかが論じられる。Schemmelによれば、政治的平等は二つの理由によって正当化される。第一に、政治的平等の保障は、市民の正義感覚に対する平等な尊重を表す。第二に、それは、市民が他者の恣意的権力に服することを防ぐ役割を果たす(pp. 199–218)。以上の議論を踏まえてSchemmelは、形式的な投票権の平等だけでは不十分だと考える。必要なのは、市民が政治的影響力を行使する実質的な機会を平等に持つことである(pp. 208–218)。ただし、政治的平等は無制約に優先されるわけではない。民主的手続きが基本的権利や他の重要な正義要求と衝突する場合には、民主的手続きに対して厳格な制約が正当化される場合もある(pp. 218–225)。
第8章「分配的正義」は、本書の応用編のなかでも特に重要である。関係論的平等主義に対しては、それが分配的不平等に対して十分に厳格な立場を取らないのではないかという疑問が向けられる。Schemmelはこの見方を退け、関係論的平等主義も所得・富・機会の不平等に強い制約を課すと論じる(pp. 232–236)。まず、そのような制約を課すべき手段的理由は二つある。第一に、分配的不平等は支配や政治的不平等を生み出しうる(pp. 242–247)。第二に、分配的不平等は社会的地位の不平等を生み出しうる(pp. 247–252)。しかし、分配的不平等を制約する理由は、こうした手段的理由に尽きない。社会を自由で平等な人々による協働の体系として理解するならば、その協働から生じる利益の分配は、各人を対等な協働者として扱うものでなければならない(pp. 236–242)。この点で、分配は社会関係のあり方に影響するだけではない。それは、人々を対等な協働者として扱っているかどうかを表すものでもある。
第9章「健康の不平等」では、関係論的平等主義が健康や医療の問題に何を言えるかが検討される。健康は、一見すると、人々の関係というよりも、個人の身体的状態に関わるものである。そのため、関係論的平等主義は健康の不平等を十分に扱えないのではないか、という批判がありうる。Schemmelはこれを〈社会関係フェティシズム〉の懸念として捉える(pp. 258–260)。すなわち、関係論的平等主義は社会関係を過度に特権化し、健康のような個人的・自然的側面を持つものの重要性を十分に捉えられないのではないか、という懸念である。これに対してSchemmelは、健康を公正な社会協働への参加条件として理解することで応答する(pp. 261–266)。
そのうえでSchemmelは、健康の不平等における不正義を三つの仕方で捉える。第一に、不正な社会関係によって生じた健康の不平等は、その原因となる関係的不正義に由来して不正である。第二に、支配や地位的不平等に直接由来しない場合でも、正当化されない社会過程によって生じた健康の不平等は不正でありうる。第三に、自然的脆弱性に基づく健康上の不利益についても、社会協働の成員が互いの脆弱性に対応する制度を必要とする以上、不健康に陥った原因にかかわらず普遍的医療保障が正当化される(pp. 266–282)。ただし、こうした考慮に基づく優先順位づけは主として予防や政策決定のレベルで適用されるべきものであり、治療の現場で患者を差別的に選別する根拠として用いられるべきではない(pp. 282–287)。
結論章では、本書の議論が総括される。Schemmelは、リベラルな関係論的平等主義が、〈非支配〉と〈社会的地位の平等〉という二つの柱を持つ正義構想であることを確認する(pp. 288–290)。また、この構想が政治的平等・分配的正義・健康の不平等に対して具体的な含意を持つことを強調しつつ、グローバル正義への拡張を今後の課題として残している(pp. 290–299)。
以上が本書の内容である。本書の貢献は、関係論的平等主義をリベラルな正義論として体系的に構築した点にある。Schemmelは、関係論的平等主義が問題とすべき対象を、恣意的な権力への従属と社会的地位のヒエラルキーとして明確化し、それぞれに対応する〈非支配〉と〈社会的地位の平等〉を社会協働の構想から基礎づける。さらに本書は、関係論的平等主義が政治的意思決定・分配・健康といった具体的領域にも重要な含意を持つことを示す。とりわけ重要なのは、制度の〈表出的側面〉に注目することで、人々が制度によってどのような者として扱われているかという次元にも正義論の射程を拡張している点である。
もっとも、この貢献を認めたうえで、なお検討すべき問題が残る。それは、制度の〈表出的側面〉が、関係論的平等主義を分配論的平等主義から峻別する基準たりうるかという問題である。次節では、この点について批判的に検討したい。
3. コメント——表出的側面は関係論的平等主義に固有か
本書の中心にあるのは、既に見てきたように、制度の〈表出的側面〉である。制度は、単に資源、機会、所得、健康などを人々に分配するだけではない。制度は、人々をある仕方で扱い、その扱いを通じて、誰が対等な成員として認められているのか、誰が軽視され、劣位化され、支配されうる者として位置づけられているのかを表明する。Schemmelによれば、分配論的平等主義の限界は、まさにこの次元を十分に捉えられない点にある(pp. 22–29, 38–53)。
しかし、ここで一つの疑問が生じる。制度の表出的側面は、本当に関係論的平等主義を分配論的平等主義から峻別する基準なのだろうか。確かに、分配論的平等主義が標準的な分配対象だけに焦点を当てるならば、Schemmelが指摘する表出的側面を捉え損なう。しかし、そこから直ちに、分配論的平等主義一般が表出的側面を扱えないという結論が出るわけではない。
ここでは二つの主張を区別する必要がある。第一の主張は、従来の分配論的平等主義は、制度が人々をどのように扱うかという次元を十分に扱ってこなかった、というものである。この主張はかなり説得的である。運の平等主義を典型とする分配論的平等主義は、本人の責任によらない不利益をどのように是正するかに焦点を当ててきた。そのため、ある不利益がどのような制度的扱いを通じて生じているのか、またその扱いがどのような意味を持つのかが焦点化されることは多くはなかった。
しかし第二の主張は、より強い。すなわち、分配論的平等主義は、その理論構造上、表出的側面を取り込むことができない、という主張である。この強い主張については、なお検討の余地がある。なぜなら、分配論的平等主義者は、分配対象を拡張することで、関係論的平等主義が問題にする不正義の少なくとも一部を自らの理論に取り込むことができるかもしれないからである。
ここで、第2章でSchemmelが用いた二つの社会の例に立ち返ってみよう。いずれの社会でも、ある集団は同じ栄養素を欠き、同じ程度の健康上の不利益を被っていた。違いは、一つ目の社会だけが、その集団を名指しで法的に排除している点にあった。Schemmelは、この差異を捉えられるのは表出的側面に着目する関係論的平等主義だけだと考える。だが、分配論的平等主義が分配対象を拡張するなら、同じ差異を自らの枠組みのなかで捉えられるのではないか。
実際、近年の議論では、分配されるべきものを、資源や厚生のような財に限定せず、地位・権力・承認・関係的資源などへ拡張する試みがある。Gheaus(2018)は、運の平等主義が〈民主的関係財 democratic relational goods〉、すなわち権力・地位の平等、および連帯を分配対象に含めるならば、関係論的平等主義の要求の一部を自らの内部で説明できると論じる。Gheausによれば、これらは人々の生に重要な貢献をなし、他の財によって容易に代替されない。これを先の例に当てはめてみよう。一つ目の社会では、集団は栄養素を欠いているだけでなく、〈対等な地位〉という関係財をも不平等に分配されている。なぜなら、制度による名指しの排除が、その集団を低い地位に置くからである。運の平等主義が地位を分配対象に数えるならば、二つの社会の差異は、地位という関係財の分配における差として記述できる。
Cordelli(2015)も、関係的資源を分配的正義の対象に含める議論を展開する。関係的資源とは、関係の内部に独特な仕方で存在し、また関係それ自体を構成する場合がある資源である。その資源とは、例えば信頼・結社・友情・ケア・自尊心の社会的基盤などである。これらは直接には分配できず、また人に特定の関係を強制すべきでもないため、資源そのものではなく、それらへの機会を分配対象とすべきだとCordelliは論じる。再び先の例で言えば、一つ目の社会の法的排除は、当該集団が対等な成員として承認されること、すなわち自尊心の社会的基盤という関係的資源への機会を損なう。二つ目の社会は、栄養素を供給していないだけで、集団を名指しで排除してはいない。両社会の差は、この関係的資源への機会の差として捉えられる。
この二つの議論は、分配論的平等主義が関係論的平等主義の問題関心を外部に置く必要はないことを示している。ただし、Schemmelはこの種の戦略を検討し、退けている。Gheaus型の議論に対しては、集合的な関係的平等が個人にとってどのような固有の善をもたらすのかが不明確であり、仮にその善が存在するとしても、支配や劣位化を被る当人の固有の要求を捉えられないと批判する(pp. 151–156)。またCordelli型の関係的資源論については、友情や信頼への機会を平等化しようとすれば、人々の人間関係の構築能力や信頼可能性を評価する必要が生じ、個人生活への過度な介入を招くと批判する(pp. 157–160)。
しかし、この批判が分配論的平等主義全体を退けるものかは疑わしい。というのも、分配論的平等主義が取り込むべき関係的資源を、友情や信頼のような親密な関係に限定する必要はないからである。先の例が示すのは、まさに親密でない関係的資源である。そこで問題になっているのは、誰と誰が友人であるかではなく、制度がある集団を対等な成員として扱っているかどうかである。これを評価するために、個人の交友関係や信頼可能性を詮索する必要はない。制度が当該集団にどのような地位・権利・請求を保障しているかを見ればよい。Cordelliの議論をこのような形で拡張するならば、尊重をもって扱われること、非支配的な関係に置かれること、対等な市民として承認されることを、公的・制度的な関係的資源として理解できる。そうであれば、表出的側面が捉える不正義は、分配論的平等主義の内部で、関係的資源への機会の不平等として再記述できる。
以上の議論と関連して、Lippert-Rasmussen(2023)の指摘は重要である。Lippert-Rasmussenは、Schemmelが自説を〈義務論的・表出的アプローチ〉として特徴づけ、それゆえ分配論的平等主義とは異なるとする点に疑問を呈する。Lippert-Rasmussenによれば、分配論的平等主義もまた、ある分配が帯びる表出的意味を理由として、その分配を不正と判定しうる。よって、表出的側面を考慮する分配論的平等主義が原理的に排除されるわけではないのである。先の例で言えば、一つ目の社会の分配は、当該集団を低い道徳的地位の者として扱う意味を社会に対して表明する。分配論的平等主義者は、まさにこの表出的意味を理由に、その分配を不正と判定できる。
この指摘を踏まえるならば、表出的側面は、Schemmelが想定するほどには、関係論的平等主義と分配論的平等主義を分ける決定的基準にはならない。もし分配論的平等主義が、関係的資源や制度による適切な扱いを正義の対象として組み込むことができるならば、表出的側面は、関係論的平等主義に固有の視点というよりも、分配論的平等主義をも変容させうる一般的な正義論上の視点である。したがって、表出的側面は、関係論的平等主義を特徴づける重要な視点ではあるが、それだけで分配論的平等主義との理論的相違点を決定づけるものではない。
もっとも、このことは、本書の意義を弱めるというよりも、その意義を別の仕方で理解すべきことを示している。本書の貢献は、分配論的平等主義を最終的に退けた点にあるというより、分配論的平等主義と関係論的平等主義の対立軸を再編成した点にある。Schemmelの議論は、正義論の対象を、財の分配だけでなく、制度による扱いの表出的側面・権力関係・社会規範へと拡張する。その結果、分配制度は単に財を割り当てる仕組みではなく、人々をどのような者として扱い、どのような社会関係を維持し、どのような地位秩序を表現するのかという観点から評価されることになる。
このように読むならば、本書は、関係論的平等主義が分配論的平等主義に対して単純に勝利したことを示す著作ではない。むしろそれは、分配論的平等主義にも、社会関係や表出的意味を自らの理論内部に取り込むよう迫る著作である。その意味で、Schemmelのリベラルな関係論的平等主義は、分配的正義の発展可能性を照らし出す理論である。
4. 文献案内
最後に、本書を読むうえで有用な関連文献を紹介しておきたい。関係論的平等主義について日本語で読める文献は増えつつあるが、英語圏の議論に比べればまだ限られている。そのため、まず日本語で読める文献や翻訳文献によって、分配的正義論、運の平等主義、ロールズ型リベラリズム、非支配論・共和主義的自由論の背景を押さえ、そのうえで英語圏の基本文献へ進むのがよい。
分配論的平等主義および運の平等主義の背景を日本語で理解するには、井上彰『正義・平等・責任——平等主義的正義論の新たなる展開』(2017)が重要である。同書は、ロールズ以後の分析的平等論を踏まえ、ドゥオーキンの資源平等論・左派リバタリアニズム・平等の価値・選択責任の構想を検討している。
また、広瀬巌『平等主義の哲学——ロールズから健康の分配まで』(2016)は、マキシミン・運の平等主義・優先主義・十分主義など、現代平等主義の主要な分配原理を体系的に整理した概説書であり、健康とヘルスケアの分配を扱う点でも本書と接点を持つ。併せて、広瀬巌編・監訳『平等主義基本論文集』(2018)も有益である。とりわけ、アーネソン「平等と厚生機会の平等」は分配論的平等主義の代表的論文であり、アンダーソン「平等の要点とは何か」は、運の平等主義批判と関係論的平等主義の出発点を理解するうえで重要である。
本書の前提を理解するには、ロールズの著作が不可欠である。ロールズ『公正としての正義 再説』(2004)は、ロールズのリベラリズムを理解するための基本文献である。Schemmelの議論は、このロールズ的な背景構想を前提に、非支配と社会的地位の平等をリベラルな正義論の内部に位置づけようとするものである。
分配論的平等主義の代表的立場を理解するには、ロナルド・ドゥオーキン『平等とは何か』(2002)も重要である。同書は、資源の平等論を中心に、現代の分配的正義論が何を問題にしてきたのかを理解する手がかりとなる。また、アマルティア・セン『不平等の再検討——潜在能力と自由』(1999)は、資源や所得だけでは人々の自由や機会を十分に測れないと論じることによって、分配論的平等主義に重要な進展をもたらした。
日本語で関係論的平等主義を検討する文献としては、森悠一郎『関係の対等性と平等』(2019)がある。同書は、日本語圏における重要な研究である。また、保田幸子「分配か社会関係か——アンダーソンの民主的平等」(2012)は、アンダーソンの民主的平等論を、分配論的観点から検討するものとして有益である。
日本語文献における最新の研究動向は、以下の文献を見るとよい。まず、阿部崇史の博士論文『自律基底的運の平等主義の社会構想』(2021)は、運の平等主義を自律の観点から再構成し、関係論的平等主義との接続を考えるうえで重要である。次に、宮本雅也の博士論文『関係論的平等主義の方法と責任構想——社会構造の焦点化を通じて』(2021)は、この方向を体系的に展開した研究である。さらに、阿部崇史・石田柊・宮本雅也「関係論的平等主義の再出発——『分配か社会関係か』を越えて」(2022)は、分配論的平等主義と関係論的平等主義の対立を整理し直す論文であり、本稿のコメントで扱った問題にも関係する議論を展開している。
以上の日本語文献を踏まえたうえで、英語圏の文献に進むとよい。まず、関係論的平等主義全体の見取り図を得るには、Rekha Nathの“Relational Egalitarianism”(2020)が有用である。この論文は、関係論的平等主義の内部にある多様な立場を整理している。また、Kasper Lippert-RasmussenのRelational Egalitarianism: Living as Equals(2018)は、関係論的平等主義を体系的に検討する著作である。同書は、関係論的平等主義が何を主張する理論なのか、分配論的平等主義や運の平等主義とどのように異なるのか、また平等な関係の価値をどのように理解すべきかを詳しく論じている。また、分配論的平等主義、とりわけ運の平等主義については、Carl Knightの“Luck Egalitarianism”(2013)が簡潔なサーヴェイとして有用である。
Schemmelの独自性を理解するうえでは、関係論的平等主義と分配論的平等主義の関係を扱う文献も重要である。本稿でも取り上げたGheaus(2018)とCordelli(2015)は重要である。また、Andersonの“The Fundamental Disagreement between Luck Egalitarians and Relational Egalitarians”(2010)は、運の平等主義と関係論的平等主義の対立点を整理するうえで有用である。
さらに、関係論的平等主義そのものの特徴に立ち入った分析として、Devon Cassの二論文が有用である。 “The Distinctiveness of Relational Equality”(2025)は、分配的平等と関係的平等の区別を精査し、関係的平等を独自の理念たらしめるものは何かを問う。また、“Positional Goods and Social Equality: Examining the Convergence Thesis”(2023a)は、位置財をめぐって優先主義・十分主義・平等主義が同じ分配を支持しうるという〈収斂テーゼ〉を検討し、その有意味な変種が、〈市民としての地位〉という関係論的平等主義の中心的関心に関わることを示す。いずれも、本稿で論じた分配論的平等主義と関係論的平等主義の異同を考えるうえで示唆に富む。
また、制度や政策の〈表出的側面〉をさらに掘り下げるには、Kristin Voigtの“Relational Equality and the Expressive Dimension of State Action”(2018)が重要である。Voigtは、国家の行為や公共政策がどのような意味を表明するのか、またその意味をどのように判断すべきかという問題を、関係論的平等主義の観点から検討している。本書の第2章で導入される表出的側面を理解するうえでも有用である。
非支配論については、Philip Pettitの Republicanism(1997)およびOn the People’s Terms(2012)が基本文献である。Pettitは、自由を〈干渉の不在〉ではなく〈恣意的権力への従属の不在〉として理解する共和主義的自由論を展開した。本書は、この非支配の概念を重視しつつも、それを共和主義ではなくリベラルな正義論の内部から基礎づけようとする。その違いを理解するには、Pettitの議論を参照することが有用である。
日本語では、中村隆志「フィリップ・ペティットの共和主義論——政治的自律と異議申し立て」(2011)が、Pettitの共和主義を理解するための概説として有用である。また、發田颯虎「分析的政治哲学における自由の見取り図」(2025)は、非支配としての自由を現代の自由論全体のなかに位置づけるサーヴェイとして有益である。さらに、Frank Lovettの A General Theory of Domination and Justice(2010)は支配概念を整理した文献として、The Well-Ordered Republic(2022)は共和主義理論の近年の体系的展開として有用である。また、Devon Cassの “What Is the Point of Non-Domination?”(2023b)は、非支配を保障することの眼目を、〈自由の実現〉ではなく〈市民としての対等な地位の付与〉に求める。これにより非支配を関係論的平等主義に接続する議論であり、非支配をリベラルな関係論的平等主義の内部に基礎づける本書の方向性と響き合う。
謝辞
本稿の執筆にあたっては、吉良貴之氏と鷲田樹音氏から非常に有益な指摘をいただいた(五十音順)。ここに感謝を心より申し上げる。なお、残った誤りはすべて評者の責任である。注
1本稿では、distributive egalitarianismを〈分配論的平等主義〉、relational egalitarianismを〈関係論的平等主義〉と訳す。ここで〈論的〉という語を用いるのは、単に分配や関係に関わるという意味だけでなく、平等を何によって理解すべきかをめぐる理論的立場であることを示すためである。分配論的平等主義は財や機会の性質や分配に関する理論を有する立場であり、関係論的平等主義は人々が互いにどのような社会関係に立つかに関する理論を有する立場である。ただし、distributive justice/distributive equalityは〈分配的正義・分配的平等〉、relational equalityは〈関係的平等〉とする。
2本稿では第2章の議論を理解するためにポッゲの思考実験に言及するが、ポッゲについては、性的不正行為・ハラスメント疑惑が報じられ、学術的抗議の対象となった経緯がある。この問題を業績主義と学術的抗議の観点から検討する日本語文献として、石川(2025)がある。
参考文献
出版元公式ウェブサイト
https://global.oup.com/academic/product/justice-and-egalitarian-relations-9780190084240
評者情報
榊原 清玄(さかきばら きよはる)
現在、東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学専攻博士課程在籍、日本学術振興会特別研究員(DC2)。専門は政治哲学・政治理論で、自由・平等・労働・ベーシック・インカムを主題に研究を行っている。主な単著論文に、「創発的社会不平等と関係論的平等主義:個人の選択と社会規範の緊張関係」(『法と哲学』2026年)、「労働概念は何であるべきか:〈労働〉の概念工学」(『年報政治学』2026年、近刊)がある。訳書に、ダニエル・ハリデー『財産を相続するということ——遺贈と正義の政治哲学』(共訳、勁草書房、2026年)、ジェイソン・ブレナン『投票の倫理学——ちゃんと投票するってどういうこと?』(共訳、勁草書房、2025年)がある。
researchmap:https://researchmap.jp/Kiyoharu_Sakakibara
X: @Oni_Dayon323 (https://x.com/Oni_Dayon323)