2026年10月4日
Tomohiko Kondo and Koji Tachibana (eds.), Aristotle in Japan: Reception, Interpretation and Application
Routledge, 2025年
評者:杉本 英太
本書の要約
「日本におけるアリストテレス:受容・解釈・応用」と題された本書は,副題の通り,近現代におけるアリストテレス受容,現代日本のアリストテレス研究の動向,および現代日本の哲学者による広義の「アリストテレス的」アプローチを取り上げる論集である.序論において編者は,日本におけるアリストテレス研究がすでに百年以上の蓄積を有するにもかかわらず,言語的制約ゆえに十分な国際的プレゼンスを得てこなかったこと,他方で近年では日本の研究者による現代哲学へのアリストテレス主義的アプローチも始まりつつあることを指摘する.そのうえで編者は,日本におけるアリストテレス(的)研究の論集の公刊は国際的なアリストテレス研究および日本の哲学伝統の研究への有益な貢献となると論じ,本書をその「重要な最初の一歩」(p.3)と位置づけている.
第1部 “Japanese Philosophers and Scholars on Aristotle” では,前世紀までの日本の哲学・哲学史研究におけるアリストテレス受容が主題的に取り上げられる.第1章 “The Reception History of Aristotle’s Theory of Education in Japan”(立花幸司)は,アリストテレスの教育理論の近現代日本における受容史を叙述する.ただし,アリストテレスの「教育理論」をどのテクストに見いだしうるか自体が問題含みであるため,より正確には「日本人がアリストテレスの教育理論とみなしたもの」(p.14)が追跡される.日本のアリストテレス受容は16世紀末のイエズス会文献を通じて始まるが,翻訳や論述の形で教育理論が導入されるのは明治期に入ってからのことである.立花は当時アリストテレスの教育理論がプラトンのそれより実用的・経験的とみなされる傾向にあったことに注意を促す.三木清に代表される大正・昭和初期の受容はアリストテレス贔屓をいっそう強める.他方,戦後日本ではアリストテレスの教育理論はかつての訴求力を失い,野村昭夫(1984)「アリストテレス」などの若干の例外を除いて実質的な論及はなされなくなる.立花はこうした変化を説明する要因として,戦前の好意的受容については封建的教育システムの解体および大正デモクラシーとの親和性を挙げ,他方で戦後の軽視については,アリストテレス教育理論の折衷的性格,主題的テクストの乏しさ,戦前期の全体主義的プラトン解釈の戦後における清算作業の不在,日本の哲学界における教育哲学の周縁性を挙げている.
第2章 “Tetsurô Watsuji’s Reception of Aristotle’s Political Philosophy”(稲村一隆)では,和辻哲郎のギリシャ文明観にひそむバイアス,ひいては和辻とアリストテレスに共通する政治哲学上の問題が分析される.和辻はヘーゲル的な西洋中心主義的歴史観を攻撃する一方で,ホメロス時代のギリシャに特別の世界史的意義を認めるギリシャ・ローマ中心主義的な文明史観をなおも保持していた.稲村によれば,その根底には,土地の耕作・所有・定住によって組織された政治共同体こそが文明の基盤であるという農耕中心主義的見解があり,それは政治学者ジェームズ・C. スコットが批判したような文明観にほかならない(ジェームズ・C. スコット『反穀物の人類史:国家誕生のディープヒストリー』立木勝訳,みすず書房,2019年).この農耕・定住・領域国家中心の枠組みは,和辻によるアリストテレスのナショナリスティックな読解を支えている.だが稲村によれば,それは同時にアリストテレス自身の政治哲学にも潜在するバイアスである.それゆえに,和辻は「西洋政治思想に対するアジア的ないし日本的な哲学的オルタナティヴを提供する」(p.40)哲学者とみなされるべきではなく,むしろこうした限界の自覚のもとでその風土論が発展させられるべきであると稲村は結論する.
第3章 “Doing Philosophy à la Aristotle: Tadashi Inoue's Interpretation of Hypokeimenon”(松浦和也)では,井上忠によるアリストテレス解釈が,「ヒュポケイメノン(ὑποκείμενον)」という術語に対する井上独自の訳語「先言措定」概念を導きとして紹介される.井上は初期の論文ではこの語について「主語」「基体」の二重性を認めていたが,後に「先言措定」概念による統一的理解を試みるようになった.「アリストテレスの言語空間」ではそれが,「Lnの言語空間において,わたしが言葉によって存在を披く際に,その都度,言葉による披きに先立って,Lnという言葉の明るみに未だ立ち現れぬある存在位相が,すでに措定されてある,との謂い1」と説明される.Lnとは井上がアリストテレス著作のうちに立てた複数の言語水準の一つであり,松浦はそれら各水準について紙幅を割いて説明する.さらに後期の井上は,「摑み/述べ」概念を通じて「先言措定」論を展開した.松浦は,井上の「先言措定」概念にはアリストテレス解釈を超えた哲学的価値があると評価し,井上の解釈に取り組むことは私たちが哲学することそのものに導くと主張する.
第4章 “Before and Beyond Aristotle: Takashi Ide and Norio Fujisawa on Aristotle’s Ideal of Theōria”(近藤智彦)では,出隆と藤澤令夫によるアリストテレス解釈の特質と,その哲学的・社会的背景が論じられる.出はテオーリアー(観想)をプラークシス(実践)・ポイエーシス(製作)より優先するアリストテレスの態度の由来を,彼の貴族主義のみならず,エネルゲイアを「もはや働らきとも生活とも言えない全くの休息・静止・静寂2」とする見方に求め,ソクラテスにおける理論と実践の統一からの堕落として批判した.出の戦後のマルクス主義への転向や東京都知事選への突然の出馬は,彼が戦前から抱いていたこの見解と連続していた.出より32歳若い藤澤は,マルクス主義にも実践への性急な関与にも批判的であった一方で,出とよく似た理路からアリストテレスによる実践の切り離しを批判した.すなわちアリストテレスはエネルゲイア/キーネーシスの区別をテオーリアー/プラークシス・ポイエーシスの区別に重ね合わせたために,実践・制作を不当に格下げすることになったのである.藤澤はこの論点をむしろ科学技術の批判的反省に結びつけている.近藤は,二人の議論が京都学派の哲学者が反復した主題への独自の哲学的取り組みであったと評価し,京都学派の追放により京都大学を中心とするギリシャ哲学研究が単なる歴史的・文献学的研究へと退却したという断絶史観を批判する.さらに,両者のアリストテレス批判がアリストテレス以後の古代哲学の研究の妨げとなったかもしれないこと,しかし実際には藤澤の議論はある面でプロティノスに親近的であることも指摘する.
第2部 “New Trends in Aristotelian Scholarship in Japan” では,現代日本のアリストテレス研究が,「アリストテレス哲学全体の統一性という問題に特に焦点を合わせて」(p.4)紹介される.第5章 “Aristotle’s Ousia Reconsidered: Why We Should Not Translate or Understand the Term as ‘Substance’ or ‘Jittai’”(中畑正志)では,“substance” ないし「実体」という「ウーシアー」の伝統的な訳語が抱える問題が再検討される.中畑は,西周が「実体」に込めた「様々な属性を含む物体や物」という意味を「実体j (substancej)」とラベリングし,ウーシアーを実体jと同一視すべきでないことを論じる.まず,「ウーシアーとはどのような意味か」という問いと「何がウーシアーであるか」という問いとが区別されねばならない.「ウーシアー」の基本義はプラトン以来の「それは何であるか」であり,カテゴリー論の文脈では,さまざまな属性をもち日常的経験のなかで同定可能な対象——「厚い顕在的対象 (thick manifest object, TMO)」——の「何であるか」を意味する.さしあたり実体jであるのは TMO であって TMO のウーシアーではない.他方,『形而上学』のいわゆる「ロギコースな」探究においては,まずΖ巻3章で「各々のもの (ἕκαστον)」のウーシアーの候補として本質・普遍・類・基礎に置かれるものが提示され,この「各々のもの」は TMO である.だがΖ巻6章で本質と同一視される第一かつ自体的な「各々のもの」はもはや TMO ではなく,むしろ探究によってしか同定可能でないものである.Ζ巻11章の質料形相論的な探究に関しても同様の議論が可能であり,いずれにせよウーシアーは実体jでない,と中畑は結論づける.
第6章 “Dialectical Reasoning in Rhetoric and Topics”(高橋祥吾)では,『トポス論』における問答法の理論とその他の著作との整合性の問題について,日本語の研究蓄積を踏まえつつ議論が展開される.高橋は,『トポス論』のプレディカビリア理論が『分析論後書』の因果性の観点によって補完されるという千葉恵の解釈や,2–7巻の問答法的実践と別個に成り立っているとする北郷彩の解釈を修正し,そもそもプレディカビリア理論自体が内的に不整合であり,その他の著作では放棄されていると論じる.高橋の解釈によれば,『分析論後書』の「自体的付帯性」ないし「固有属性」の理論は放棄されたプレディカビリア理論に代わって構築されたものであり,『弁論術』の想到法に属する(と堀尾耕一が論じる)「固有/共通」の区別が,『ソフィスト的論駁』や『分析論後書』で原理の区別として洗練されるのである.
第7章 “Naturalism and Parts of the Soul in Aristotle’s Ethics: De Anima and Nicomachean Ethics”(茶谷直人)では,アリストテレス倫理学が自然学に方法論的に基礎づけられているという立場が,二つの問いへの応答を通じて支持される.第一に,『ニコマコス倫理学』1巻7章の幸福論は『魂について』の魂の区分に依拠しているか.第二に,『ニコマコス倫理学』の魂理解は,『魂について』のそれに依拠しているか.茶谷はまず,『ニコマコス倫理学』1巻7章の機能論証のうちに暗に含まれる栄養摂取的生・感覚的生・理性的生という三区分は『魂について』2巻2章の魂の区分論に依拠していると論じる.次いで茶谷は,『ニコマコス倫理学』1巻13章で導入される「ロゴスをもつ部分/もたない部分」の二分法を検討し,それがあくまで叩き台として導入されており,魂の区分について提出されている論点はアリストテレスの『魂について』3巻9章の欲求論と平行的であると論じる.さらに,『ニコマコス倫理学』で情念の形相的側面のみが扱われているのは,単なる問答法的説明を行っているわけではなく,むしろ形相と素材が説明の水準で分離可能だという『魂について』の見解を前提としている.このような仕方で,目的論とは独立した方法論的水準でアリストテレスの魂論が倫理学の基礎になっていると茶谷は論じる.
第3部 “Updating Aristotle” では,現代倫理学・政治哲学における広義のアリストテレス的アプローチが扱われる.第8章 “Intellectual Humility and Japan”(飯塚理恵)では,徳認識論で知的徳としてしばしば挙げられる「知的謙虚さ」について,抑圧的条件下では被抑圧者の知的謙虚さは徳ではなく,それゆえ日本人女性にとって知的謙虚さは徳ではない,という非標準的見解が擁護される.飯塚はまず,知的徳についての個人的説明と対人的説明を導入する.個人的説明によれば,知的謙虚さとは自らの認識的限界に適切に注意しそれを引き受けることである.対人的説明によれば,知的謙虚さとは他者への認識的尊重によって動機づけられた他者志向的な認識的傾向性である.本論文はいずれが正しい説明かといった問題は扱わず,知的に謙虚であれば両条件を満たすと単に約定される.そのうえで飯塚は,社会的抑圧が認識的不正義を生み出すメカニズムに注意し,被抑圧者が知的卑屈さという悪徳に陥りやすいならば,育むべきは知的謙虚さではなく知的自信であると論じる.さらに飯塚は,自己卑下傾向に関する文化横断的な性差についての心理学実験を紹介したうえで,森喜朗が2021年に行った,東京五輪組織委員会の女性委員は「わきまえて」いるという性差別発言,政治家・管理職における女性比率の少なさなどを,日本人女性が受けている知的抑圧の実例として挙げる.
第9章 “Animals in a Just Polity: A Realist Neo-Aristotelian Overture”(神島裕子)では,すべての動物からなる政治共同体を構想する政治哲学の新潮流に対するネオ・アリストテレス的アプローチが,マーサ・ヌスバウムのケイパビリティ・アプローチに基づく動物正義論を中心に考察される.神島は動物を正義の主体とみなす点にヌスバウムのアプローチの強みを認めたうえで,それにもかかわらずヌスバウムが魚の殺害や動物実験を不正義とみなさない点に不整合を見出す.神島によれば,不整合の一因は,ヌスバウムが重なり合う合意を求めるロールズ的な政治的リベラリズムに固執していることにある.そこで神島は,尊厳は動物の身体に宿るというヌスバウム自身の実在論的見解を政治的原理の水準にまで進め,私たちの「驚嘆」を通じて動物の生の独立した価値を承認し,動物の搾取や殺害を一貫して不正義として退ける方向へと展開することを提案する.
第10章 “The Virtue and Happiness of a Coach: Applying Aristotle’s Ethics to Sports Coaching”(佐良土茂樹)では,アリストテレスの徳倫理学がスポーツ・コーチの徳と幸福にいかに有益な視座を与えうるかが論じられる.佐良土は,日本の運動部における体罰の問題を「悪いコーチ」問題として位置づけたうえで,日本スポーツ協会の提示する「良いコーチ」像が核となる概念を欠いて諸項目を羅列するにとどまる点を指摘し,それに対して,徳と幸福を中心とした一貫したコーチ像をアリストテレス倫理学から提示しうると主張する.すなわち佐良土は,コーチングを「練習において選手またはチームの卓越性を発達させ,試合においてその卓越性を実現することを目的とする活動」と定義する.次いで良いコーチの特徴を,関連する知識や技術に加え,誠実さ・正義・勇気・インテグリティ・温和さ・節制・ケアなどの人柄の徳として整理する.さらに,コーチが大きな文脈で考え自他の福利を顧みる「思慮」をもつことの重要性も指摘する.最後に,名誉・勝利・快楽・金銭はいずれも最高善ではないとして勝利至上主義を斥け,コーチの幸福を「徳に基づく魂の活動」——思慮・技術・人柄の徳の十全な発揮——に見いだす.アリストテレス倫理学は以上の形で,徳と幸福に焦点を合わせた良いコーチ像の一貫した記述に貢献しうると佐良土は結論する.
コメント
以上で概観したように,本書では「日本におけるアリストテレス」という主題のもとに多種多様な論考が取りまとめられている.例えば第1部の受容史研究に限っても,立花論文のようにある主題に関する受容史を俯瞰的に通覧するもの,松浦論文・近藤論文のように過去のアリストテレス研究の意義にあらためて光を当てるもの,稲村論文のようにむしろアリストテレスと日本哲学のネガティヴな共通性を浮き彫りにして素朴な「西洋哲学へのオルタナティヴ」的図式への回収を戒めるものなど(これは第一義的にはむしろ日本哲学史研究への寄与と言えるだろう),多様な仕方で主題が展開されている.
他方でこの主題設定は,なお本書で試みられなかった複数の方向への展開可能性を示しているように思われる.まず,狭義の日本哲学におけるアリストテレス受容という課題について,なお論じられるべきことが残されている.例えば日本哲学の代表格である京都学派におけるアリストテレス受容は,本書で主題的に扱われていない.だが例えば西田幾多郎・田辺元・三木清・西谷啓治は,いずれもその著作においてアリストテレスに言及しているだけでなく,その思想形成においてアリストテレス哲学との対決が重要な役割を果たした哲学者である.その軌跡を検討する作業は,日本哲学研究への古代哲学研究からの寄与となるのみならず,古代哲学研究自体の歴史的アイデンティティを問い直す作業でもありうる.というのも,戦後の古代哲学研究がしばしば京都学派の伝統から意識的に距離を取って進められてきた以上——もっとも近藤論文が指摘するように,その新たな営為を,哲学的独創性を志向しないもっぱら文献学的な研究とみなすことには慎重であるべきだとしても——,京都学派のアリストテレスへの取り組みを再検討する作業は,戦後日本の哲学研究が何を手放し,何を得たのかを見きわめる作業でもありうるからである.
また受容史研究としては,アリストテレスのテクストの翻訳という問題についても,さらに議論を深める余地があるだろう.本書においても松浦論文で井上忠のヒュポケイメノン=「先言措定」論が扱われ,第2部の中畑論文でもウーシアーを「実体」と訳しえないことが論証されているが,主眼はあくまで哲学的再構成に置かれ,必ずしも日本語に固有の問題として論じられているわけではない.だが言うまでもなく,日本におけるアリストテレス著作の受容は明治期以来の哲学語彙の形成と密接に関わり,また訳語への反省はアリストテレス研究における重要な作業の一部でありつづけている.とりわけ倫理的・政治的概念に関しては,私たちは日本語のもつ固有の文化的蓄積により鋭敏になる必要がある.したがってまた,それらを改めて吟味し,それらに関する日本での受容史研究をさらに推し進めることは,アリストテレス研究にとどまらない意義を有するだろう.
第2部の現代日本のアリストテレス研究の紹介は章ごとにトピックを割り振って最新の成果を提示するという形で行われている.先述の通り,所収論文は各々,ウーシアーの意味,問答法理論とその応用の関係,魂論と倫理学の関係という,アリストテレス研究にとって中心的な主題について重要な論点を提示している.とはいえ,この部がそのまま現代日本の研究状況を概観するものになっているとは言いにくい.実際,現代の日本語論文がたいてい欧米の研究動向に連動する形で書かれる関係上,とりわけ高橋論文で明確に試みられているような日本の研究動向のサーヴェイという形式での論述は,困難な作業だったのではないかと想像される.日本語の既刊論文の英訳,注釈付きのビブリオグラフィーなど,今後も様々な紹介の仕方を模索していく必要があると思われる.
第3部に収められた諸論考は,日本語圏の研究に寄与してきた倫理学者・政治哲学者が,日本社会が抱える(ないしは他の社会と共有する)課題に「アリストテレス的」アプローチから取り組むものであり,現代における広義のアリストテレス的な哲学の通用可能性をうかがわせるものとして啓発的である.他方,本書で取り組まれていない今後の課題として,序論でも触れられているアリストテレス的現代形而上学の検討が挙げられる.この分野はトゥオマス・E.タフコ編『アリストテレス的現代形而上学』の翻訳以来,日本でも一定の認知を得ており,また研究も進んでいる.英語圏では近年アリストテレス研究者によるサーヴェイも出版されているが(Phil Corkum, Neo-Aristotelian Metaphysics, Cambridge University Press, 2025),日本でも現代形而上学研究者とアリストテレス研究者が共同して議論を進めることができれば理想的だろう.
各論考の文章は概してクリアだが,英文校閲面に若干の問題があるほか,術語選択にもなお検討の余地がある.例えば井上忠の「写像性」をiconicity (p.50) と訳すのはミスリーディングであり,また「先言措定」の訳としてのsomething-assumed-before-statement (p.49) も,assumedでは「措定」の意味が弱まり,statementでは「言」の範囲が狭くなりすぎるだろう(もっとも井上の特異な言語表現を英語に移す困難は想像に難くなく,翻訳の試み自体が貴重であることは言い添えねばならない).中畑論文はギリシャ語のἕκαστονに対応するラベルとして (an) EACHという表現を用いるが,単にhekastonと音写したほうが読みやすかったのではないか.そのほかの章にも,sensational and motional parts (p.118) のような標準的でない表現が散見される.これらの点は本書の学術的意義を大きく損なうものではないが,日本語圏の研究を国際的な読者に届けるという本書の目的に照らせば,表現面にもいっそう意を配ることが望ましかったように思われる.
文献案内
日本語のモノグラフに限定して関連文献を挙げる.「日本におけるアリストテレス」という本書の主題設定,およびとりわけ第一部の諸論考は,①②に見られるような昨今の比較哲学・世界哲学の潮流に様々なかたちで応答するものだと言える.また寄稿者の著作③④⑤は各章に緩やかに関連するほか,⑥は第10章の議論のより詳細なヴァージョンとして読むことができる.
- ① ブレット・デービス『日本哲学:世界哲学への貢献』中島隆博監訳,竹花洋佑・長野邦彦訳,筑摩選書,2025年.
- ② 納富信留『世界哲学のすすめ』ちくま新書,2024年.
- ③ 中畑正志『アリストテレスの哲学』岩波新書,2023年.
- ④ 神島裕子『マーサ・ヌスバウム:人間性涵養の哲学』中公選書,2013年.
- ⑤ 茶谷直人『アリストテレスと目的論:自然・魂・幸福』晃洋書房,2019年.
- ⑥ 佐良土茂樹『コーチングの哲学:スポーツと美徳』青土社,2021年.
謝辞
劉思敏氏(東京大学)には本書評の草稿に有益なコメントをいただいた.ここに記して感謝を申し上げる.
注
1井上忠「アリストテレスの言語空間」『根拠よりの挑戦』東京大学出版会,1974年,292ページ.
2出隆「アリストテレスの「理論」と「現実性」」『出隆著作集』第2巻,勁草書房,1963年,303ページ.
出版元公式ウェブサイト
評者情報
杉本 英太(すぎもと えいた)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程.専門はアリストテレスの形而上学・論理学.主な業績に「アリストテレス『形而上学』における普遍論の構想」『西洋古典学研究』第73巻, 2026年など.
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